2016年03月

氷菓二次創作 「満開の桜の下で」

「折木さん。お花見に行きませんか

 午後、春の日差しをいっぱいに浴びながら地学講義室で文庫本を読んでいると、千反田が後ろを振り向きながら笑顔で俺に誘いの言葉を投げかけた。

 新学期が始まってもう2週間程経つている。春が遅いこの神山の地にも桜前線が上がって来ていた。

「そうだな。見に行くか あの狂い咲きの桜だろう

「はい、昨日ですか吉田さんが明後日の土曜日が満開で見頃だろう。って教えて下さったのです」

 そうか、吉田さんが言うなら間違いはあるまい。

「桜を眺めたら、ウチでお昼でも如何ですか

 千反田の作ってくれるお昼なら断ることはない。それだけの価値はある。

「いいのか 親父さんやおふくろさんに迷惑じゃないのか

「そんなことはありません。別に一緒でなくても構わないと思いますし……」

 千反田の話した言葉の語尾が気になったが俺は承諾した。

「明日の土曜日だな。時間は

「そうですね。ウチから桜まではそう遠くありません自転車で行けばすぐですから10時ごろでは早すぎますか

 別に用事は無かったのだ。その時間なら家を9時半に出れば間に合う。

「判った。10時に行くよ」

 約束すると何故か千反田は安堵の表情を浮かべた。

「どうした 何か心配でもあったのか

 俺の質問に千反田は少し慌てて

「いえ、折木さんが用事でもあったら困ると思っていましたので、約束出来て安堵したのです」

 千反田は割合考えていることが表情に出るタイプだ。隠し事が出来ないとも言っていいだろう。

 その日千反田は自転車で来ていたので、商店街の曲がり角で別れた。

「それでは、明日お待ちしています」

 そう言って千反田は交差点を右に曲がって消えて行った。俺はその後姿を見送り、明日は何を着て行こうか考えるのだった。


 翌日、早起きをして鏡の前で何を着て行くか迷っていたら、姉貴が起きて来て、

「あら、あんた何してるの 珍しいこともあるのねえ……今日はえるちゃんとデート

 起き抜けの酷い顔をしていても頭は冴えているらしい。当たってしまった。返事をせずにしてると

「あのね。ひとつだけ良いこと教えてあげる……ネクタイはしなくても良いけどちゃんとした格好をして行きなさい。少なくともジャケットぐらいは着ていくように」

 姉貴はそれだけを言うと冷蔵庫から牛乳を取り出して大きめのグラスに注ぐと自分の部屋に消えて行った。

『ジャケットだと……』

 姉貴の直感というか、見通しは何故か外れたことがない。ここはその通りにしよう。それに俺も何故か只の昼食ではない気もする。何があるのかは判らないが、何らかの覚悟はしていた方が良さそうだった。

 結局赤味ががった濃い目の茶のジャケット(後から千反田に弁柄色だと教わった)に白いワイシャツ、下は黒のスラックスにした。首には千反田が編んでくれたクリーム色のマフラーをして行く。

 実は昨夜待ち合わせ場所を千反田の家ではなく、「水梨神社」の前でと変更の電話があったのだ。そう言えば姉貴は電話をする俺をリビングで見ていたっけ……

 坂を降りて一気に陣出に入って行く。何度も来て見慣れたがこの時期はあちこちに桜が咲いていてそれがピンクに点在していて坂の上からでも綺麗だと感じた。


 時間よりも若干早く到着すると千反田は既に来ていた。俺の姿を見つけると大きく手を振った。

「早いな、俺の方が早いかと思っていたよ」

「すぐ傍ですから」

 千反田は白菫(しろすみれ)と呼ばれる薄い水色のブラウスに、若草色のカーデガンを着ていた。下は、黒紅と呼ばれる黒に藍が混ざったような色の長めのスカートを履いていた。全体的には二人共シックな格好だった。

「さ、見に行きましょう」

 千反田の声で自転車のペダルに力を入れる。千反田が後ろに横すわりに乗り右手を俺のお腹に回す。

「二人乗りだぞ」

「すぐ傍ですから」

 その言葉に何故か安堵感を覚え走リ出す。自転車は5分程で目的の桜のところまでやって来た。桜はあの日のように満開だった。

 自転車を降りた千反田が道路に張り出した枝の下に立つ。その時穏やかな風が吹いて花びらが舞った。僅かに揺れる千反田の長い髪。俺の方を向いて微笑むとそこには、只溜息しか出ない情景が広がっていた。

「折木さん。あの日もこのように満開の桜でした。その下を折木さんに傘を差されながら歩いたことは、わたし一生忘れません。今はわたしの宝物です」

 俺も同じ想いだった。二度とない奇跡のような情景……忘れることなぞありはしない。

 持って来たデジカメで千反田と桜を撮影する。自転車の籠から三脚を出して二人並んだところも撮影した。デジカメと三脚は姉貴が貸してくれたものだ。

「写真プリントアウトしたら一枚下さいね。折木さんと満開の桜の下で一緒に並んで写真を撮るなんて夢みたいです」

「勿論さ」

 辺りに誰もいないのを確認すると、千反田を抱き寄せその赤い唇に己の唇を重ねる。千反田も俺の背中に腕を回して応えてくれる。

 唇を離すと千反田は俺の胸に飛び込んだ。それをしっかりと抱きしめた。華奢ながら柔らかい感触が俺を襲う。愛しさでいっぱいになった。

 もう一度唇を重ねると千反田は

「一生このままで居たいですが、そうも行きません。家に帰りましょう」

 自転車の所まで戻ると自転車の籠に桜の花びらが舞いながら降り注いでいる。

「折木さん。まるで桜吹雪のおすそ分けですね」

 おすそ分けとは上手いことを言うと思った。千反田ならではの感性だろう。俺は再び千反田を自転車の後ろに乗せると千反田邸に向かった。

 

 家の門の前まで来ると千反田は一旦自転車を降りて、木戸から中に先に入って行った。そして大門の方を開けたのだ。何か催事があるならこの門を開くこともあるが、俺だけの為にはこんなことはない。

 恐る恐る門に中に入って行く。玄関まで行くと、かなりの履物が並んでいた。千反田が先に立って大広間に案内する。そして襖を開けると大きな拍手が湧いた。

「さ、どうぞ折木さん。陣出の皆さんも今日は揃っています」

 まさかとは思ったが千反田に問いただす

「千反田、皆さんが居るのはどうしてだ

「はい、今日は観桜会なんです。陣出の皆さんが集まって桜が咲いたことをお祝いする会なのです。今日はそこに折木さんをお招きしたのです」

 そういう事かと納得した。大広間からは

「若旦那待ってました

 とか

「奉太郎旦那」

 と言う声も湧いている。それはまだ気が早いだろう。

「さ、どうぞ」

 ここに来て、俺はこっちが本命で桜を見るのは後付じゃなかったかと考えた。千反田が案内したのは上座、つまり正面で、そこに鉄吾さん夫婦と陣出の地域の会長や役員。その方々に並んで俺と千反田も並んで座ることになった。すぐさま酒が配られた。俺と千反田は烏龍茶だ。

「カンパーイ」

 カチンとグラスを重ねる音がして一気に座が盛り上がった。

「折木さん。騙すようなことをして申し訳ありませんでした。でもわたし、どうしても今日は皆さんに折木さんを紹介したかったのです。わたしの選んだ方を見て下さいと……」

 ここまでとは思わなかった。食事に親父さんやおふくろさんが一緒に居るだろう。と思っていたが、これは想像外だった。

「判ったよ。ジャケットを着て来て良かった。姉貴に感謝しないとな」

「あら、事前に供恵さんに相談して知恵を貸して貰ったのですよ」

 そうだったのか あの雌狐め

 ここまで事態が進んでいれば後へは引けない。俺は隣の千反田を眺めると、俺の視線を感じた千反田はニコッと微笑んだ。その赤い唇を先ほど重ねたことを思い出し。悪くないと思うのだった。

 並んだお膳の下でそっと手を繋いだ。



                           <了>

紅艶  後編

 惺子先生の話によると弟さんが亡くなったのは春休みに入ってすぐだという。きちんと一年間の授業を終えた後だったそうだ。
「こちらに来る前に三回忌を済ませてきました」
 そうだったのかと、改めて思う。惺子先生にしてみれば辛い事ばかりだったのだと……
 自転車に乗って家に帰る方向に走って行くと、僕は先を行く惺子先生に
「せっかく此処まで来たのだから、この近くに美味しいコーヒーを飲ませる店があるんですよ。御案内しますからどうですか?」
 惺子先生としてみても、そう言う店の一つぐらいは知っていたほうがこちらでも生活が楽しくなるだろうと思ったのだ。それに先生には未だ尋ねたい事もあった。

 この辺りでは僕が屈指だと思うコーヒーを入れてくれる店は『花ヶ崎』から程無い距離にある。ブレンドも旨いがキリマジェロ等の品名で頼んでも、一級の味を提供してくれる僕のお気に入りの店だ。
 ガラスのはまった木の扉を押して入ると昼前なので幾人もお客はいなかったが、僕が連れて来た連れを見て他の男の客の口が「ほお~」と動いていた。惺子先生はそれだけ注目を集める容姿なのだ。
「何にしますか?」
 店の奥まった席に座ると、テーブルの上にあったメニューを渡しながら尋ねる。
「そうですね。じゃあキリマンジャロにします」
 この時、惺子先生は実に嬉しそうな表情をした。
「私、キリマンジャロ好きなんです」
 僕の好みと同じだ。やはり僕はこの人に惹かれているのかも知れない。
「キリマンジェロ二つ」
 そう注文を取りに来たお姉さんに言うと顔見知りの彼女は小さな声をして僕の耳元で
「どうしたの? 凄い美人じゃ無い」
 そう言って笑って去って行った。正面の惺子先生を見ると何を言われたか判ったのだろう、何とも微妙な笑顔を見せた。

「美味しいです! さすが隆さんがお薦めのお店ですね。私も此処に来る様にしますね」
 ゆっくりとした動作でコーヒー、カップを口元に運ぶ仕草はそれだけで、一幅の絵になる様な感じだった。
「先生、先ほど弟さんが社交的な性格と言っていましたが、誠明で授業をしていたなら、女生徒から相当人気があったと思うのです。その辺はどう思いますか?」
 僕はコーヒーを飲む間に最初の疑問を尋ねてみた。惺子先生は言い難くそうだったが
「そうですね。詳しくは判りませんが、弟の事を追いかけていた女生徒がいたと言う事は聞いています。でもまさか、それで生き死にに関わる事になるなんて……」
 惺子先生の言う事は最もだと思うが、今の高校生なら判らないと思う。現に僕のクラスの生徒でも妊娠してしまった者がいて騒動になったぐらいだ。
「弟さんは3年も教えていたのですか?」
 ここが肝心だった。もし教えていたなら、3年生にその対象者が絞られると僕は思っていた。進路が決まった後ならば、開放感もあると思うのだ。僕がその時に開放感を味わうかは判らないが……
「はい、受け持ちは三年の文系のクラス三つと二年の文系クラスです。一年は違う先生が受け持っていたそうです。ああ、そういえば言っていませんでしたが、私も古文を教えます。私の場合は一年全部と二年の文系クラスだそうです。隆さんは文系ですか?」
 コーヒーを飲んだせいか、惺子先生が饒舌になってきた。僕としてはこの方が色々な事を訊きやすい。
「そうです。兄とは違う道を生きたいので文系にしました」
「そうですか、兄弟ならその方が良いかも知れませんね」
 そう言って惺子先生は悲しそうな目をしてコーヒーを飲んでいた。

 僕は今日「花ケ崎」の現場に行き、偶然釣り人の小父さんに会って、尋ねて、確信した事があった。
「先生、弟さんは釣りをなされますね? そしてその日はあそこに釣りをしに行っていた!? そうじゃありませんか?」
 僕の断言に惺子先生はうなだれて
「すいません、隠し事は止めます。もう本当の事を言います。あの日弟は「花ケ崎」に釣りに行っていたそうです。東京にいる頃はやらなかったのですが、こち らに来てからやる様になったそうです。あの日も学校が春休みなので釣りに行ったそうです。でも知っているのはそこまでです。その後どうして弟がああなった のかは分かりません」
 僕はあそこで転落したと聞いて、不思議だった。「花ヶ崎」の突端が危険な事は地元の人間なら誰も知ってる事だ。そこをあえて行くのは釣り人しかいないと思う。そこから考えたのだった。
 僕は問題はそこに一人で行ったのか? それとも誰かと一緒だったのか? と言う事だ。一緒だったなら、その人が真実を知っている訳だ。果たしてそれは誰なのか? 僕は未だ調べなくてはならない事があると思うのだった。

 家に帰って来て、惺子先生と別れて、自分の部屋で今までの事を箇条書きにして整理してみた。
 一.惺子先生と弟さんは双子で、しかも美男子だった。
 二.性格は開放的で、女性の友達も多かった。
 三.釣りをやり始めていて、当日は「花ケ崎」で釣りをしていた。
 結局色々な事が判った気がしていたが、事実はこれだけだった。情報が少ないと思う。
 本当は警察が当時、何故事故と断定したのかを知りたかった。まさか警察には訊けないので、こちらから調べるしか無い。明日春休みの最終日に図書館に行く事にした。地元の新聞か地方版を閲覧してくるつもりだった。
 
 翌朝、惺子先生は学校に行かなくてはならないので、朝早く出かけてしまっていた。僕はゆっくりと起きると朝食を採って図書館に行く為に自転車を出した。
 自転車を漕ぎながら色々な事を考えてみる。そういえば、あの日、惺子先生が離れを見に来た日、父は何故家にいたのだろう? 父は地元を中心に支店網を広 げている信用金庫の支店長だ。仕事の他に色々な場所に呼ばれるので昼間から家に居るなんて事は無いのだが、何故かあの日は家に居た。それもおかしな話だと 思うが、それがこの事件に関係しているのかは判らない。それに……惺子先生は未だ僕に言って無いことがあるような気がした。

 図書館に着いて、利用カードを出す。これは誰でも発行して貰えるのだが、これが無いと本もCDも借りる事はおろか、今回の様に過去のデータを利用することも出来ない。
 カウンターで一昨年の三月と四月のこの地方の地方紙と全国紙の地方版を見せて貰う様に頼む。
一々申し込み用紙に書きこむのが煩わしい。
 十分程待って、閲覧用のデイスプレイ、つまり端末の番号を知らされる。
「鈴目さん、三番の端末をご利用下さい」
 言われた通りに三番の端末に座り、操作を開始する。程なく事件の事を書いた記事は見つかった。
「高校講師、桟先ヶ崎から転落、死体で発見される」
 どの新聞も内容は同じだった。「釣りをしていた佐伯 稔さん(二十三)高校講師が桟先ヶ崎の突端から転落して海に投げ出されて、海岸で発見された」と言うものだった。
 その三日後の記事には稔さんが釣りに行って居たという事実だけを淡々と書いていて、釣りの時に同行者がいたかは書いていなかった。
 この時僕は中学生だったがこの事件は記憶に無かった。「花ケ崎」での事故は良くあるので、特別に意識しなかったのかも知れないし、最も当時通っていた中 学から「花ケ崎」は中学生には遠く、しかも学区外だったので、訊いても「ちょっと遠い地域の事」と思ってしまったのかも知れなかった。まあ、知っていたと しても今更どうしようも無いのだが……
 幾つかの記事をコピーして貰い持ち帰った。参考にはならないだろうが、帰って惺子先生に見せるつもりだった。
 明日からは学校が始まる。そう自由な時間がある訳では無いし、惺子先生は僕よりもっと忙しくなるだろう。やはり僕が調べ無いとならないと思った。

 家に帰り昼食を食べると、自分の部屋で情報を整理してみる。一番の収穫は名前が判った事だ。稔さんという、佐伯稔さんだ。何故惺子先生は名前を言わず 「弟」と言っていたんだろう? 深い意味は無いのだろうか……それと東京時代はやらなかった釣りをこの地方に来てから始めた事。
 恐らく誰かに勧められたのだろう……そこまで考えて、僕はあることに気がついた。稔さんに釣りを勧めたのは父では無いだろうか……父は釣りが趣味だ。もしかしたら二人は何処かで知り合ったのかも知れなかった。趣味が合うと言う事は実際にある事だからだ。
 そう考えると色々な謎が解きほぐれて来た感じがした。それと同時に僕の心に疑惑が湧いてきたのも事実だった。
 夕方になり惺子先生が帰って来たので、図書館でコピーした記事を幾つか渡すと先生は
「ありがとうございます。東京の新聞には乗らなかったから、記念になります。あ、記念と言うのはおかしいですね。国語の教師として失格ですね」
 やや、ハニカミながら笑う様は僕にとっては天使に見えた。この人の為なら真実を必ず解き明かしたいと思うのだった。

 翌日からは新学期だ。惺子先生と一緒に家を出る。実はこの時間が僕にとっては一番大事な時間だ。誰にも邪魔されない時間なのだ……
 惺子先生は今日からは髪を纏めてポニーテールにしている。余りにも良く似合うので褒めたらば「授業で黒板に振り向いたりして髪がバラけると授業しづらいので纏めたのです」
 僕は世界で一番ポニーテールが似合う人だと思ったが、事実は事務的な事だった。
 校舎の前で先生と別れて、クラス分けの張り紙を見ると2年A組だった。腐れ縁の村上も一緒だった。
 教室に入ると、村上が近寄って来て
「今日から惺子先生が勤務するんだよな。俺達の古文の授業も見てくれるんだよな。楽しみだよ俺」
 全くこいつは何を言っているのだろう。確かに惺子先生の授業なんて本当に眼福ものだが、「先生が教え方が上手いとは限らない」そう村上に言うと
「お前は夢がない」
 そう言ってむくれてしまった。
 
 全生徒が集まる始業式で正式に惺子先生が紹介されると、在校生の男子が一斉にざわついた。それほどのインパクトがあったのだ。村上が小声で
「もう、一部ではお前とウワサになってるらしいぞ」
 そんな事を教えてくれるが、確かにこの前の喫茶店に入った時も目立っていたかも知れないと思う。だが、今は真相を解明する事が先だと思う。
 今日は授業が無いので早々と帰ろうと自転車置き場に行くと見知った顔と出会った。父の信用金庫の行員さんだ。
「こんにちは、今日は早く終わったのですね」
 そう挨拶され、特別親しい訳では無いがたまに家に来る人なので
「そうなんです。授業は明日からですから。ところで、この学校に用事ですか?」
 僕は以外な場所で出会ったと思い疑問を持ち、尋ねてみると
「ええ、誠明学園はウチのお得意様ですから。学費の納入や校舎等の建て替えの融資とか、お世話になってるのですよ」
 それを聞いて、そうか、そう言う繋がりなのだと理解した。

 学校の帰りに今日もコンビニに寄る。漫画雑誌の発売日だからだ。今日も肉まんを食べながら漫画を読んでいると既視感を感じた。そういえばあの日もこうやって同じ事をしていたっけと思い出した。
 そうしたら、僕は恐ろしい事に気がついてしまった……あの日の父の顔が思い出される。そして、誠明と父の信用金庫との関係……間違い無い、稔さんに釣りを教えたのは父だ! そしてもう一つの事実にも気がついた。
 だが、それを推理して得られる事実の訳が判らなかった。これでは推理とは言えない。父は僕に何かを隠している。それが何なのか、そしてそれが判れば真実が見えて来ると僕は思うのだった。

 父に訪ねたくても月の初めは金融機関は忙しい。当然毎晩父の帰りは遅い。
 僕は父に訊く機会を中々取れなかった。ならば、その時間が取れるまで、別な謎に取り組まなくてはならない。それは、この鈴目の家と佐伯の家の関係だ。兄に電話をして確かめた。
 すると惺子さんのお父さんは祖父の教え子なのだそうだ。そしてその教え子が兄と言う関係だという……両家は繋がりがあったのだ。兄弟では僕だけがその繋がりの外に居たと言う訳なのだ。
 そして兄は、大事な事を僕に教えてくれた。それは父もこの系列に加わって来ると言う事を……つまり、惺子先生のお父さんと父は大学時代の友人だったと言う事だ。
 これは何を表すのだろうか? もしかしたら、父と惺子さんはそれこそ惺子さんが生まれた頃から知っている仲では無いのだろうか? 
 ならば、どうしてあの時に僕には初対面の様なふりをしたのだろう? あの時は確か母もいた。母はその事を知らないのだろうか? 
 母も知っていたのでは無いだろうか? それでいて僕だけを騙す理由は何なのだろうか?
 その事を兄に尋ねてみようかと思ったが止めた。恐らく兄は詳しい事は知らないだろうし、僕に正直に言うとは思えなかった。

 学校では惺子先生の授業は好評で、今まで古文の授業なぞ寝ていた奴らまでも真剣に黒板に向き合ってる。ただ、授業を真面目に聞いてるのじゃ無く、惺子先生を見ているのだ。
 学校側は講師ではなく、正式に教員として採用したいと考えている、とかウワサされていた。当然僕の家の離れに暮らしていると言う事も次第に判って来て、僕の周りには惺子先生情報を聞き出そうとする奴らが何時も居る様になった。
 これでは元から諦めていたが、学校で先生と接触するのは無理だった。
 それでも授業をしている惺子先生は活き活きとしていて、はつらつとしている惺子先生を見るのは嬉しかった。
肝心の授業も評判が良く男子生徒は無論のこと女生徒にも人気があり評判が良かった。何だか女生徒からも手紙を貰っているらしかった。当然男子は手紙だけでは収まらず、先生に対する熱い想いは膨らんで行くばかりだった。
 
 そんな事を繰り返しているうちに、四月も中盤になり、どうやら父の仕事にも余裕が出て来たみたいだった。
 その日は母が友達と逢うと言う事で出かけていた日曜のことだった。僕は今日しか無いと決意した。
 遅く起きた父はあくびをしながらダイニングで新聞を読んでいた。初夏と言っても良いくらいの暖かさで、薄い上着一枚で過ごせそうだった。
 僕はそんな父に近づき
「父さん、訊きたい事があるんだ」
 そう言うと、父は僕の言葉に反応して
「なんだ、言えない事以外は話してやるぞ」
 多少の誇張を含めながら父は僕に向き合ってくれたので、僕は腹を決めて
「まず、惺子先生と父さんは昔からの知り合いだったという事。そして、惺子先生が離れを下見に来た日なんだけど、僕が学校から帰った時に、寿の小父さんと帰らずに先生は母屋にまだ居たんでしょう?」
 僕がそれを訊いて来るのが判っていたのか父は驚きもせず
「良くそこに気がついたな……確かに俺と惺子先生は旧知の間柄だ」
 そう言って僕を見つめた。
「父さん、本当の事を言うとね。母屋の一部からは離れの中が覗けるんだよ。だから掃除しながら僕は母屋に誰かがあの時居たと言う事を知っていたんだ」
「そうか……と言う事はその先の事も判ってると言う事だな」
 父は新聞を折りたたんで、手元にあったお茶を一口飲むと
「そうだ、あの時惺子さんは母屋にいた。だが彼女のお願いで、お前から隠したんだ。それはお前には見せたく無いものを渡す為だったのだが、惺子さんの希望でもあった」
「どんな?」
「実はな、惺子さんは今年の二月に誠明に見学に来ている。四月からの講師の話をするためだがな。その時にお前を見ていて思ったそうだ。鋭い子だと……」
 そんな事があったのは知らなかった。二月に惺子先生が来ていたなんて……
「僕は鋭くなんか無い……」
「だが、そうは思わなかった。そうだろう? 成績だって優秀と言っても良いし、周りの評判も良い。まして惺子さんには人に言えない秘密があった。その事はとっくに気がついているのだろう?」
 父は淡々と僕に言う。まるで「お前ならこのぐらいは判って当然と言外に言われている様だった。
 「母さんはそこまで知ってるの?」
 僕の訊き方がおかしかったのか、父は笑いながら
「知らないよ。あの時に母さんと惺子さんは初対面だった。何も知らない」
 それだけが救いだった。あんな事は誰も知らない方が良い……本気でそう思った。
「その時何を渡したか、大体想像がついているのだろう? お前の想像通りのものだよ。あれは世間に出してはイケないものだからだ。惺子さんだけが持つべきものだからだ」
 父はそう言って二杯目のお茶を飲み干した。その味は苦かっただろうか?
「それだけでは無いんでしょう? 金庫の為でもあるのでしょう……」
 それを言うと父の顔色が若干変わった。
「そして、寿の小父さんも事情は知っていたんだね?」
 あの日、素知らぬふりをした寿の小父さんも父はきっと抱き込んだのだろう……秘密を守る為に……
「父さん、寿の小父さんも事情は知っていたのでしょう?」
 僕は繰り返し言うと、父は顔色ひとつ変えずに
「ああ、稔さんの死体が海に流れたか一緒に確認した。あいつにはそれだけの事情があったからだ」
 ならば僕の周りで知らなかったのは僕だけだったと言う事なのか……

「どうするんだ? 惺子さんに言うのか? すべてを、彼女に……」
 父は僕を試しているのだろうか? 
「父さんは惺子先生とは子供の頃から知っているの」
 その事に対して父は驚くべき事を僕に告げた
「名付け親だ。惺子と言うのは俺がつけた。反対に悟は佐伯がつけた。お前の名は誰がつけたと思う?」
 まさか……父の口調から感じるのは一つだけだった。
「当時、小学生だった惺子さんが、俺と佐伯が書いた幾つかの名前から選んだのだ」
 そうか……惺子先生は僕の名付け親だったのか……そして生まれた時、いいやその前からの付き合いだったんだ……
「だから、お前に対しては特別な感情を持っていたのさ……そう言う事だ」
 特別な感情……僕は惺子先生に特別な感情を持っている。だが、今までそれは僕だけだと思っていた。
 惺子先生は何故その事を僕には知られたく無かったのか? 
 父は黙って庭を見ていた。恐らく言いたくは無かった事で、僕には秘密にしていたかった事なのだと思った。そして、今となっては全てを惺子先生に訊くしか無いと思った。そして真実を語り、認めて貰う事を……
 思いを巡らす僕に父は驚くべきことを口にした。
「隆、稔さんの子を身ごもった生徒のことを調べたか? それが判らなければこの事件の真相には辿りつけない」
   自殺した女生徒って……稔さんとの……まさか……
 振り返った僕に父は意味ありげに頷く。僕はその意味に気がつくのに時間はかからなかった。すぐにでも誰だったのかは想像出来た……まさか……嫌な予感が頭を駆け巡った。
「全てはそこから始まったんだ」
 父の言葉が重くのしかかった……

 僕はそれからもすぐにでも惺子先生に尋ねたかったのだが、学校の行事が色々とあり、纏まった時間が取れないので延び延びとなっていた。グズグズしている間にもう明日からゴールデンウイークという日になってしまった。
 その日、僕は遂に惺子先生に言う決意をした。夕食後に離れに向い、声を掛けると
「隆さん、どうしましたか?」
 そう言って先生は出て来てくれた。
「どうぞ上がって下さい」
 僕は言われて六畳の部屋に案内される。かって何も無かった部屋は今では本棚や机と椅子があり、ちょっとした書斎の雰囲気が漂っていた。
 惺子先生は今日はメガネを掛けていて、その姿も良く似合う。どうやら今日行った小テストの採点をしていたらしい。きっと返却は連休後になるのだろう。その後は中間試験がある。
「お仕事中すいません。どうしても訊いて欲しくて無理を言いました。これから僕が言う事で違っていたら指摘して下さい」
 そう言うと惺子先生の表情が引き締まった。美しいメガネを掛けたその姿を僕は正直、そのままいつまでも眺めていたかった。でも今日は言わなくてはならない……
「まず、先生と父との関係です。先生が離れの物件を見に来た時のことですが、珍しく父がいました。僕はその時は深く考え無かったのですが、実は重大な事でした。
 結論から言いますと、僕は「寿不動産」の車に乗って先生がウチに行くのを見ています。僕は海岸沿いを自転車で走っていました。車は僕を追い抜いて行った のです。そして帰りですが、僕は海岸沿いのコンビニで漫画を読んでいた。その前を車が帰って行きましたが、その時は寿の小父さんだけでした。つまり、先生 は乗っていなかった。なら何処に居たのか? 当然母屋でした。父は家に帰った僕を家に入れない様に、庭先に出て来て、離れに入居者が決まった事を言いまし た。そして掃除の事を言い出した。
 僕は、まんまとその策略に乗り、その日から離れの掃除を始めました。父の計画通りでした。そしてその時先生は母屋の何処かに居たのです。何故か……それは、あるものを父から受け取る用事があったからです。それは稔さんの日記の様なものだったのですね」

 惺子先生は大きく瞳を開き驚愕している。六畳の部屋からは月が顔を出していた。
「そこまで判っていたのですね。隆さん凄いですね……やはり私の勘は当たっていました」
 僕は続きを言う
「父は、稔さんと親しかったのです。子供の頃から知っていたのでは無いですか? そして稔さんに釣りを教えたのは父だったのでしょう。父は惺子先生のお父 様である佐伯教授と実は大学の同窓生だったのですね。二人は友達だったので、その縁で兄も同じ大学へ行き佐伯教授のゼミに入ったのです。
 だから、父は稔さんが行方不明になった時に、事件が公になる前にすぐ、稔さんのアパートに赴き日記を持って来たのです。なぜならその日記には稔さんの交 友関係が赤裸々に書いてありました。それよりも大事だったのは、惺子先生が頻繁に稔さんのアパートに来ていて、稔さんに色々と注意していたからです。それ は教師としては公に出来ない行為だったのでは無いですか? その事実も書いてあった。当日あたりの記述にも東京から姉が来る。と書いてあったのでしょう。 それを知っていた父はこの日記を隠す必要があったのです。万が一の事があれば大騒ぎになる、なぜなら事実は絶対に公にしてはならないからです。そしてあの 日、あの現場に先生も居たからです!」
 
 そこまで僕が言うと、惺子先生は下を向き、うなだれて聴いている。
「どうして私がこの地に何回も来ていると判ったのですか?」
 惺子先生は苦しげに僕に問い正す。それに答えなくてはならない……
「初めて先生と会った時に先生は『桟先ヶ崎』と言わないで「花ケ崎」と言いました。この名前は地元の人間で無ければ使わない名前です。そこで僕は実は何回も来た事があるのでは無いかと思いました。全てはそこから疑問を持ったのが始まりです」
 この時は口にしなかったが、思えば初めて学校に一緒に行った時、惺子先生は僕よりも先に自転車を走らせていたし、あの日学校帰りにスーパーで買い物をし て来た……あのスーパーは通学路からはかなり離れていて、この地に不慣れな人が気軽に寄れる場所にはなかったので、あの日に気がついても良かったのだ。
「そうでしたか、それが疑問を与えてしまったのですね」
「そして、先生は事実を知っていた。警察にも秘密にした事実を……先生はあの場所で稔さんと話をしていたのですね。あそこに居ました。父も居た。そしても う一人の人もそこに居た。三人で稔さんを説得していました。自殺しないようにと……だが、そこで間違いが起こった。稔さんは崖から足を踏み外して海に転落 してしまった。慌てた三人はすぐに下に降りてみたけど稔さんの体は海に流されてしまっていた。そこで、事故として、警察には届け出たのです。そうすれば、 警察に詳しい事情を調べられたら困る事があったからです。それは……」
 そこまで僕が言うと先生が
「そこから先は私が言います。弟は、ある女生徒を妊娠させて結果として、自殺に追い込んでいたのです。父や理事長の力で騒ぎが表沙汰にならない様にしたのです。私は二人を随分説得したのですが……
 あの時も一人で「花ケ崎」に行くと言うので私は東京から来て、鈴目のお父様ともう一人の方と説得していたのです。それが……」
 その先はまた僕が引き継ぐ
「表沙汰になると本人はともかく、学校にも迷惑が掛かる。父にとってもそれは由々しき問題でした。なぜなら誠明は父の信用金庫の上得意な顧客だったからで す、この事が明らかになると、学校の評判が落ちて生徒が減るのは大問題だったからです。だから普通の事故扱いとして、学校には影響が及ばないようにした」
 頷いた惺子先生に僕は決定的なことを言った。
「先生、その場に居たのは寿の小父さんで、その自殺した女生徒は、寿の小父さんの娘さんだったのですね」
「それを知っていたのですね……」
 惺子先生は驚き、そして僕の次の言葉を待っていた。
「寿の小父さんの娘さん。貴子さんと言ったそうですが、実はこの貴子さんは稔さんや先生の兄弟だった……

 僕の母や寿のおばさん、そして佐伯教授も含めて大学当時、グループで交際していたそうですね。六人は本当に仲が良かった。やがて、卒業して三組のカップルは結婚した。
 順番は一番早かったのが佐伯教授、そして僕の両親、最後が実家の家業を継いだ寿の小父さんでした。佐伯教授と僕の両親には子供が生まれた。だが、寿の小父さん夫婦には生まれなかった。色々と調べたそうですが、当時の事ですから原因が良く判りませんでした。
そんな時に佐伯教授夫人が予定外の子供を身ごもった。佐伯教授としても当時は助手で家計は苦しかった。
 そこで六人はある事を企んだのです。教授の知り合いの産科の医師を巻き込み、佐伯教授夫婦に生まれた女の子を寿の小父さん夫婦に生まれたことにしたのです。つまり、赤ん坊のあっせんです。寿夫婦も喜んだそうですね。
 18年という間は何事もありませんでした。でも事態は稔さんが誠明にやってきて大きく動き出しました。過去の事情を知らない二人は、いつの間にか交際をしていたのです。そして貴子さんは稔さんの子を身ごもった。
 当初は稔さんも喜び、二人は結婚の約束をしたそうです。でもそれを両方の両親に告げると顔色を変えた。当然です。二人は正真正銘の兄妹だったのですから……」

 離れの縁側から月の明かりに照らされて庭の木々が見えている。温かいこの地方なので皐や藤も咲いている。僕の目の前の人はその花にも負けないくらい綺麗な人だ。その人が顔を歪めている。
「二人から真実を聞いた時、目の前が真っ暗になりました。二人共苦しんでいました。私はせめてお腹の子だけでも堕ろすように説得しました。でも聞きいれてくれませんでした。
『どうしても一緒になりたい。子供も産みたい。戸籍上は問題無いのだから、産んで見なければ判らないし、不自由な子なら自分達が一生面倒を見る』そう言ったのです。
 当然、誰一人として賛成するものはいませんでした。それを悲観して貴子さんは自殺してしまったのです。
 あの日、弟も後を追って死ぬつもりで「花ケ崎」に行ったのです。私と鈴目のお父様と寿のお父様と三人で稔を説得していました。でも……弟は発作的に飛び込んでしまったのです」
「私は犯罪者です、罪に問われるべき人間です。すぐに警察に届け出れば捜索して貰えば見つかって助かったかも知れ無かったかも知れないのに、見捨てたので す。実の弟を……それまで、にも問題を起こして来ました。弟の尻拭いは何時も私がやって来ました。それは本当に私にとって嫌な事でしかありませんでした。 でも、貴子さんとのことは真剣だったので、私も本当に困惑してしまったのです。結局助けられなかった私は酷い人間です。生きる価値の無い人間です」
 惺子先生はそう言うと涙を流し始めた。僕はハンカチを先生に差し出した。
「涙を拭いて下さい。今言った事は何の証拠もありません。確かに不作為の罪と言うのもあり得るかも知れませんが、例えば転落して即死だったらどうしようも無い訳ですし。稔さんが助かっていたという証拠が無い以上何も証明出来ませんよ先生」
 惺子先生は悲しそうな表情で、黙って僕の言う事を訊いていた。僕は先生に一つだけどうしても確かめたい事があった。
「先生、父と共謀してまで僕に事件を隠そうとしたのは何故ですか? それに途中から真相を解明して欲しいと言った理由を訊かせて下さい」
 僕としてはこの方が大事な事だった。先生は顔をあげると恥ずかしげな表情を浮かべて
「笑って下さい。私、隆さんが学校の成績も良く、しかも勘の鋭い人だと言う事を悟さんやお父様を通じて知っていました。そして実際二月に学校で拝見して見 るとその通りだと思いました。そして私は思ったのです。この人が傍にいれば、何時かきっと事件の真相に気がついてしまう。知られてはならない事を知ってし まう……そうお父様と相談したのです。
 それで、私は、最初貴方を誘惑しようとしました。誘惑して貴方を私のものにしてしまえば良いと思ったのです。
 言い換えれば私の色香に迷わせ何でも言う事を聞く人間にしようとしたのです。もうお聞きでしょうが、私はあなたの名付け親です。赤ん坊の頃から貴方は可 愛かった。天使だと思いました。だから今回、貴方の全てを私のものにしてしてしまう事は私にとっては本望だったのかも知れません。そうすれば怖いものは無 くなり、全ては明らかになることは無いはずでした。
 もうお判りでしょうが、お風呂を戴いた時にわざと忘れ物をして、貴方に持って来て貰いました。私はパジャマのボタンを外して貴方に胸が良く見える様にし誘惑したのです。貴方は私の目論見通りになりそうでした」
 あの時にそんな思いがあったとは正直思わなかった。訊かなければよかった。あのまま誘惑されていれば幸せだった……
「それに、お茶を頼んだ時も実は私は着替えの最中で上半身は何も身につけていませんでした。あの時に隆さんが玄関に下がらなければ、私は貴方に裸身を晒そ うと思っていました。あなたが私の裸を見てそれを脳裏に焼き付ければ、必ず貴方は私の意の侭になると思ったのです……私は汚い女なのです……でもどうして も誘惑出来ませんでした」
 先生は苦しそうに事実を言うが僕はどうすれば良かったのだろうか?
「じゃあ、その後で、どうして僕に解明を頼んだのですか?」
 僕としてはそこが訊きたかった。
「それは、あなたが既に事件のことに気が付き始めたと判ったからです。あなたを傍に置いておけば事件ことにどれだけ近づいたが判ります。そして何より、あ なたに好意を持ってしまったからです。いいえ好意以上の感情です。おかしいでしょう、ここのつも年上の女がそんな感情を持つなんて……だから打算ずくでの 身体の誘惑は出来なかったのです……心の底から貴方を好きになって仕舞ったのです。好きな方の前で汚い女にはなりたく無かったのです」
 惺子先生はメガネを外してその瞳からは大粒の涙を流している。
「一緒に解明してくれれば、少しでも隆さんとお話が出来る。逢う口実が出来る。隆さんが私の居る離れを訪れてくれる……そんな浅はかな考えだったのです。 わたしが講師として働き出せば、きっと教師としてしか見てくれなくなる……それは嫌でした。ならば解明を頼む事で、隆さんを自分のものにしてしまいた い……その感情の延長でした」
 先生はうなだれてその場に座り込んでしまった。

 僕はここまで、この美しい人を困らせて、父の行為を暴き、過去の犯罪を暴き、家族を路頭に迷わせ、自分の母校を経営難に追い込み、それでも真実を暴いて、告発しなければならないのだろうか?
 そうでは無い、そうじゃ無いはずだ。真実だけが皆を幸せにすると言う事は無いはずだ……ならば、僕も腹をくくろう。そう最愛の人の為に、虜になったって良いじゃ無いか。僕は勇気を振り絞って告白する。
 「ちっともおかしくなんかありません。だって僕は、全てを知っても先生の事が好きなんです!」
 とうとう告白してしまった。まともに先生の顔さえ見る事が出来ない。心臓が苦しくなる。 僕は先生にお願いをした。
「当初の目的の通り、稔さんの代わりに誠明で講師をして下さい。それが供養になるんじゃ無いですか? あれは事故でした。釣りに行っての事故だったのです」
 恐らく割り切れない考えだと思うが今となっては仕方ないと思う。この先一生、先生はこの想いを持ったまま生きて行かなくてはならないだろう。例えそれが結果だけ見れば、惺子先生の目論見通りになろうとも僕は構わない。

「辛いかも知れませんが、それしか無いと想います。そしておこがましい様ですが、これからは僕が傍についています。そして僕も一生この事実を胸に仕舞って生きていきます。先生が望むならば……」
 今となっては僕にはそれしか言えなかった。今後僕も惺子先生の「罪」を背負って行こうと思う。それが僕に出来る事だからだ。
「それで良いのでしょうか? それならば私は一生このことを抱いて弟の冥福を祈りながら暮らして生きて行きます。隆さん……信じて良いのですね……」
 そう言うと先生は近寄って、僕をギュッと抱きしめた。顔に胸が当たって実は心地良かった。僕も両の手に力を入れて愛する人を抱きしめた。
「わたしの……わたしのかわいい人……」
 惺子先生の甘い声が耳元で囁かれる。
 僕は、ここに至り、もしかして、佐伯教授夫婦の子を寿の小父さん夫婦の子にあっせんしたのは、誠明の理事長ではなかったかと思っていた。……確か理事長は医者あがりで、ドクターだったと思い出した。
 そこまで考えて、僕は考えるのを止めた。そんなこと突き詰めてどうするつもりなのか? 何の得になるのだろう……今は、惺子先生の腕に抱かれていることの方がよっぽど大事だ。
 僕は心地よい感触を味わいながら、この美しい人が僕と血縁が無いことを祈るのだった。だってそうさ、母と僕と父との間には何かある……父は未だ僕に秘密を隠している。それが何かは判らないが、僕と惺子先生に関することだけではないことを祈るのみだった。
疑えば、惺子先生だって、稔さんの名前を最初から何故呼ばなかったのか、他人行儀に「弟」などと呼んでいた。それだって……二卵性双生児ということだって、疑えば……止めた、もう考えない! 僕はこの人の為にこれから暮らしていたって良いじゃないか!
 真実だけが人を幸せにするとは限らない……誰も知らなければ、稔さんと貴子さんだって……こう思う事は良く無いのだろうか?
 僕はこのことが原因で不幸が訪れるなら、甘んじてそれを受けようと考えていた。
 
   了

紅艶 前編

「紅艶」というかなり前に書いた作品を前後二回に分けて載せます。

「紅艶」とは異性に人気があり過ぎる災難のことです。男性なら女難ですかね。でも女性にも当てはまります。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 

教室の窓から校庭を眺めながら、小さく欠伸を噛み殺し、時計を確認してそろそろ授業が終わるのを確認して、帰り支度を始める。その途端に終業のチャイムが鳴った。
 皆ゾロゾロと昇降口に向かうのを横目で見ながら、僕は自転車置場から自転車を出す。クラスの友達たちと校門の前で別れ、僕は家へと帰る道を進む。時間はまだ昼前で、真っ直ぐに帰宅するには未だ早い時間だと思った。
 陽の光がやっと気持ちよくなって来た三月。今日で三学期の期末試験もお終いだ。この先は終業式まで幾日も学校に行かなくても良いと思うと、僕の気持ちは今日の天気のように晴れ晴れとしていた。
 僕の名前は鈴目隆(すずめたかし)地元の私立高校に通う高校一年生で、もうすぐ二年生になる。
 学校からの帰り道、爽やかな春の海風を体一杯に受けて、左側の海を視界に入れながら、海岸沿いを自転車で走って行くと、「寿不動産」と書かれた白い軽自動車が僕を追い抜いて行った。その車の後ろ姿を何気なく眺めながら僕はとにかく春らしいと感じたのだった。
「寿不動産」は家作を何軒も抱える我が家が管理を頼んでいる不動産屋さんで、寿と言うのは小父さんの苗字なのだ。この家も我が家と同じでこの街では古い方だった。確か父と寿の小父さんは同級生のはずだった。
 追い越された時に、車の後部座席に女性が乗っていたと思うが、良く見えなかった。寿の小父さんは、自分の店が管理している家作やアパートに入居希望者があると、あの車にお客さんを乗せて案内するので、特にこの春先は良く見る光景だった。

 今から思えば真っ直ぐに家に帰れば良かったが、僕は途中のコンビニに寄って今日発売の漫画雑誌を買っていた。ついでに小腹が空いたので蒸かしたての肉まんを二つ買って、店の前のベンチに座り、お目当ての漫画だけを肉まんにかぶりつきながら先に読む。
 どうせ家に帰れば色々な用事を言いつけられるのだと思うと、こうした寄り道も常習化して、やむないと思うのだ。漫画を一つ読んでやめれば良かったのだが、つい幾つもの作品を読んでしまった。
 気が付くと、先程の「寿不動産」の軽自動車が先ほどとは反対向きに通りすぎて行った。きっともう何処かの物件に案内してその帰りなのだろう。小父さんの商談が成功していれば良いと思った。なんせ、不動産業してるくせにお金回りが苦しいらしい。良く父にこぼしている。
 さすがに、そろそろ帰らなくてはと思い、漫画雑誌を自転車の前の籠に入れて走り出す。荷台の鞄が落ちないか確かめる。
 海岸沿いの信号を右折して坂を昇ると我が家が見えて来る。僕は海岸に別れを告げて坂を登って行く。正直これが結構大変な坂なのだ。
 坂を登った所を更に左折して数件目が我が家だ。一応もっとももらしい石造りの門柱があり、そこに「鈴目」と彫られている。
 
 その門柱の間を入ると我が家がある。車庫に自転車をしまうと、庭の飛び石をまたぎながら玄関を通りすぎて勝手口に回る。と、珍しくも脇から父に呼び止められた。
「おい隆、離れな、住む人が決まったぞ。若い女の人だ。今月中には入居するから、お前離れの掃除をしてくれ。ちゃんとバイト代出すから」
 離れとは、大学教授をしていた祖父が書斎として庭に建てた建物で、六畳と四畳半に台所と風呂とトイレが付いている。つまり小さいながらもちゃんとした1件の家なのだ。
「いくらくれるの?」
 まず金額を訊き出すと父は
「今日から三日間として一万円でどうだ!」
「もう少し……」
「じゃあ一万五千円だ」
「よし!」
 結局、その金額で決まった。貧乏高校生には一万五千円は大きい。
 僕は掃除を長引かせたく無かったので、鞄を父にあずけて、昼ご飯もそこそこに、バケツに雑巾、それに掃除機とはたき、そして箒とゴミ袋を持って離れに入った。
 道具やそれにスエット等の着替えは珍しく父が用意してくれたし、肉まんを食べたので腹は空いていない。それより現金に目が眩んだのだ。
 そんな僕の格好は頭には手ぬぐいで姉さんかぶりをしてマスクを掛けていた。こうして重装備をしないとホコリまみれになるからだった。

 離れは3畳ほどの玄関を入ると左が四畳半で正面は廊下がありその右側が台所で六畳はあるだろう。その奥と言うか並びが風呂とトイレだ。
 廊下の左側は六畳となっていて、その更に左側は縁側となっている。すべて和室だ。縁側からは庭が見渡せる様になっていて、家の中からは庭が見えるが、庭 からは木々に邪魔されて家の中は見る事が出来ない。つまり表側からはプライバシーは守られているが、実は僕の部屋からはこの離れの窓が見えるのだ。最も今 まで覗きなどは考えた事もない。
 祖父は何時もここで机に向かっていた。今から思うと論文でも書いていたのだろうか? こんな実験の設備も無い離れではきっと論文の推敲や清書ぐらいしか出来なかったと思う。
 畳に机を置いて跡がつくのも気にしていなかった事を思い出した。父によると、引っ越して来る前には新しい畳を入れるつもりだそうだ。
 玄関を鍵で開けて入ると埃っぽい空気が僕を襲う。それに構わずに上がり、縁側の板戸とガラス戸を開け空気を入れ替える。
 今日は六畳と四畳半を掃除する。試験休みの明日は、台所と風呂場とトイレをやって早々と終わりにしようと考えていた。
 掃除をし始めて、ようやく僕は先ほど見かけた「寿不動産」の軽自動車が我が家に来たのだと理解した。

 結局、掃除は予定通り翌日の夕方までかかったが綺麗になった。我ながらこれ程綺麗なら文句は出ないと思う。誰が住んでも大丈夫だと確信する。なんせ築二十年を超えている離れは純日本家屋なのだ。
 父は綺麗な女性が住むと言っていたが、仕事か何かだろうか? あるいは別な事情だろうか? 兎も角、何時やって来るのかは判らないが、綺麗な女性がやって来るなら楽しみになって来たと思うのだった。

 僕の住んでいるこの街は半分は観光で食べている。山の一帯は温泉地となっていて、ホテルや旅館が立っている。海沿いは海水浴で夏は人出が多くなる。
 口の悪い人間は「田舎の熱海」と呼ぶ。まあ、当たっていると僕も思う。熱海ほどメジャーな感じは無く、どことなくうらぶれた感じが一層田舎臭さを醸し出してる。
 僕の通ってる「誠明学園高校」は一学年百五十人、全生徒四百五十人に付属の中学が各学年百名の計三百人。中高合わせても七百五十人の小さな所帯だ。
 学業のレベルは入学は割合簡単なのだが、卒業が難しいので進学率は良い。毎年数名は有名国立大に合格している。男女半々の共学校だ。
 僕は今度、そこの二年に進級予定なのだ。期末の出来なら多分大丈夫と思う。いやそう確信している。

 やや春めいて桜も少し咲き始めようか、と言う三月の二十日にその人は引っ越して来た。小さなトラックに乗りきれる程の荷物と大きなスーツケースを持って寿不動産の小父さんと一緒にやって来た。
「こんちは、佐伯です。佐伯惺子(せいこ)です。本日から入居させて戴きます」
 母屋(僕達家族が暮らしている家のほう)の玄関先に立っていたのは、すらりとして髪の長い美しい女性だった。
 目が綺麗で、鼻筋が通っていて、まさに正統派の美人と僕は思った。
 澄ましていると何処かこの田舎町にはそぐわないかと言う程の美人だが、「こんにちは」と挨拶された笑顔がとても親しみやすかった。奥から父と母が出てきて、挨拶をする
「鈴目です。鈴目守です。妻の莉(れい)です」
 二人とも何となくぎこちない。僕は父に言われる前に
「隆です。宜しくお願い致します」
 そう自己紹介をした。間近で見ると、うっとりとするような綺麗な人だった。
 透き通る様な白い肌、艶やかな黒髪。このような髪の色を『烏の濡れ羽色』と表現するのだろうと思った。
 背もすらりとして高い方だと思った。それに何より着ている服のセンスが良い。きっと都会生まれなんだろう。もしかすると東京ではないか、都会の女性はやはり違うと思った。

 挨拶が住むと、佐伯さん自身は遠慮したのだが、僕は寿不動産の小父さんと一緒に、わずかばかりの荷物を軽トラから降ろして、離れに運び込んだ。気に入られたいと言う下心だった。
「本当にどうもすいません」
 佐伯さんは荷物の中から菓子折りを出し、僕に渡して
「宜しくお願い致します」ともう一度言ってくれた。
「わざわざ、ありがとうございます」
 そう言い残して、母屋に帰り、両親と一緒に菓子折りを開けてみると「コランバン」と言う僕も聴いた事がある東京の有名な菓子店の詰め合わせだった。やっぱり東京から来た人だったんだ。僕は何となく嬉しくなった。
 
 その日は佐伯さんを夕食に招き一緒に食べたのだが、僕の目の前で上品な仕草で食事をして、父や母の話題にも明るく対応する佐伯さん、いや惺子さんをぼおっと眺めていた。見ているだけで胸が一杯で殆ど何も喉を通らなかった。
 僕の様子に気がついた惺子さんは
「どうかしましたか? 具合でも悪いとか……」
 その黒く透き通った瞳で僕を見つめながら心配そうに尋ねてくれる。その行為だけでもう僕は胸が一杯になる。
 これは憧れだろうか? それとも恋なのだろうか?

 結局、先に部屋に下がらせて貰った。自分の部屋に帰り、ベッドの上で横になって目を閉じると、先ほどの間近にあった惺子さんの美しい顔が浮かんで来る。これはやはり一目惚れでは無いのだろうか?
 ふと気が付くと、僕の部屋の窓から離れが見える事を思い出した。今までは無人の空き家だったから特別注意も払わなかったが、これからは惺子さんが、あの離れに居ると思うと心がざわめくのを感じたのだった。
 暫くすると離れに灯りが点いた。流石に人影は見えないが、自分の家の離れにあのような素敵な人が居ると想うだけで嬉しくなった。
 そう思っていたら、母が部屋にやって来て
「佐伯さん。今日はウチでお風呂に入って貰うから、あなた先に入る? それとも後にする?」
 そう尋ねられたので
「父さんと母さんは?」
「後にするわよ」
「じゃあ、僕もそうする。先に入って貰っていいよ」
 それを訊くと母は離れに出向いた。きっと惺子さんにお風呂に入る様に言ったのだろう。暫くの間があって、惺子さんは恐らく着替えとかタオルとかが入っているバッグを小脇に抱えてやって来て
「申し訳ありません。それでは戴きます」
 そう言って風呂場に消えて行った。僕はわざわざ部屋から出て来て、その姿を出迎えたのだ。

 暫くして惺子さんは濡れた髪にタオルを絡ませて赤い顔をして出て来た。既にパジャマ姿になっていて、傍を通ると何とも言えない良い香りがした。石鹸の匂いだけでは無いと思う。
「隆、入っちゃいなさい」
 母の言葉に素直に従い、着替えの下着を持って風呂場に降りて行くと、洗面台に見慣れない化粧瓶があった。僕は母に「これなに?」と訪ねると母は半分薄笑いの表情をして
「ああ、佐伯さん忘れたみたいね。届けてあげたら?」
 この時、母はどういうつもりで言ったのか知らないが、僕は例え僅かであっても、あの離れで例え僅かな時間でも二人だけになれるのが嬉しかった。
 その化粧瓶を持って玄関を出て離れに向かい、離れの玄関で声を掛けると惺子さんはすぐに出て来てくれた。
「今、お風呂に入ったら、これを見たので、忘れ物かなと……」
 これだけの事を言うのに結構ドキドキしてしまった。
 と言うのも、お風呂あがりの惺子さんは、少し髪が乱れていて、とても艶やかだったからだ。
「ああ、ありがとうございます。わたし忘れっぽくて」
 惺子さんはそう言いながら僕の手に持った化粧瓶を、やや前屈みになり受け取った。その時、惺子さんのパジャマの胸元が信じられないくらい大きく開いて、 白く深い胸の谷間が覗いた。僕はドキッとして目を奪われてしまって、胸元に目が吸い付けられてしまう。いつまでも見ていたかったが、やっとの思いで目をそ らす。惺子さんはきっと僕の思惑なんか知らないのだろう。まさか僕が自分の豊かな胸の谷間に目が釘付けになっているなんて考えてもいないはずだ。だから魅 力的な笑顔を見せてくれたのだ。それにしても惺子さんは着痩せするのだと思った。正直目眩がするほど魅力的だった。
「いいえ、なくさなくて良かったです」
 僕はそれだけを言うのが精一杯で、急いで離れを後にした。家に帰って、すぐに湯船に飛び込んで、一旦頭まで潜って顔をだす。少しは冷静になれただろうか? まだ心臓の鼓動が早い。
あれだけの綺麗な人であんなに胸が豊かなんて……そんな素敵な人が自分の家の離れに住むなんて夢かと思う。
 でも良く考えると滑稽で、普通に見れば只の女性の家作人なのだ。今日の僕はどうにかしている。日常と余りにも違う事ばかりが起こるので、どうにかしたのだろう。そう結論付ける。
 カラスの行水宜しくすぐに出ると自分の部屋に帰り、窓から離れを眺める。先程の光景が鮮やかに蘇る。やっぱり今日の僕はどうにかしている。
 それから二日程惺子さんは我が家の風呂に入りに来た。流石に忘れ物はしなかったが……少し期待した自分が恥ずかしかった。
 
 高校の終業式に行く日、朝家を出ようと自転車を出していると惺子さんから声を掛けられた。
「隆さんは何処の高校に通われているのですか?」
「はあ、この先の誠明学園高校です。あまり大した学校じゃありません」
「あら、自分の高校をそんなに悪く言うものではありませんよ」
 惺子さんは、さわやかな笑顔で僕を窘めると
「私も自転車を持って来ましたので一緒に行きませんか?」
 そう、変な事を言ったのだ。
「はあ? 誠明学園に何か用ですか?」
 僕は微笑んでいる惺子さんに尋ねてみた。
「はい、理事長や校長先生にご挨拶しようと思いまして」
 僕は惺子さんの言っている意味が良く判らなかった。ぼんやりと聞いていた僕に惺子さんは
「ええ、この春、新学期から講師として通いますから」
 何と言う事だろうか、淡い恋心を抱いた女性は僕の高校の先生になる人だったとは……
 余程、おかしな顔をしていたのだろう。惺子さんいや惺子先生は
「良いですか? 一緒に行きましょう。良ければ新学期からも一緒に」
 これは喜んで良いのだろうか? それとも不幸の始まりだろうか? 僕の心は複雑にその両者が絡みあっていた。
「どうでしょう? 良いかしら?」
 惺子さんいやもう惺子先生と呼ぶ事にしよう。惺子先生は離れから折りたたみの自転車を出して来た。なるほど、これなら軽トラにも簡単に乗る。
 僕は覚悟を決めた。そうこれはきっと運命なんだと思う事にした。嬉しい運命だ。
「いいですよ。一緒に行きましょう」
 僕は努めて明るく返事をすると惺子先生が自転車を漕ぎだすのを待って自分も漕ぎだし、坂を二人して降りて行く。
「ココはブレーキを掛けないとスピードが出過ぎます」
 学校に行きながら、通学する上で要注意点を伝えて行く。惺子先生はそれを聞きながら、右側に見える海を見ながら
「春の海が素敵ですね。海って夏しか来なかったけど、これからは色々な季節の海が眺められるのですね」
 海風に黒い髪をなびかせながら惺子先生はうっとりとした表情で走って行く。僕はやや遅れて後を付いて行くと、確かにもう春だと感じるくらい海からの風が 優しく感じる。惺子先生はグレーのスーツに身を包んで、首には蒼いタイをしている。それが海の色とマッチしていて面白いと思った。
 学校に着くと僕は自転車置場に案内をする。僕と惺子先生の自転車を並んで置く。なんだか、それだけで照れくさい。
「それじゃ私は挨拶に行きますから隆さんは教室に行くんでしょう?」
「はい、そうですが……」
「残念ですが帰りは一緒には帰れませんね」
 それはそうだと思うが、惺子先生は帰りの道が判るのだろうか?
「一人で帰られますか?」
 思えば間抜けな事を訊いたものだ。来た時だって惺子先生は僕より前を走っていたはずだ。 そんな事も忘れていた。
「大丈夫ですよ。それじゃ」
 僕は去って行く惺子先生の後ろ姿を結構長く見送っていた。

「誰だい? 凄い美人じゃ無いか!?」
 後ろから声を掛けたのは悪友の村上悟だ。中学の時からのつき合いで親友と呼んでも良い存在だ。
「今度ウチの家作に入った人。来学期からウチの学校の講師をするそうだ」
 僕は事実だけを言うと村上はニヤついて
「家作って、確か離れが空いていたよな? あそこに引っ越してきたのか?」
 そう訪ねて来るので僕は事実だけを言う
「そうだよ。二十日に引っ越してきたんだ」
「へえ~、あの離れ確かお前の部屋から見れたよな? 今は兎も角、夏なんか窓を開けていたら良いものが見れたりしてな」
 僕は村上の言った『いいもの』の意味が分かったので、腹立たしくなり、そのまま昇降口に向かった。
「おいおい冗談だよ。お前がそんな事する奴とは思っていないよ。相変わらずこういう下ネタに理解無いんだからな」
 村上は僕を追いかけながら、言い訳を言っていたが、正直に言うと腹立たしくなったのは、それが当たっていたからだ。今、その姿を見て、僕から情報を貰ったばかりの村上にも判ってしまった自分の心内が情け無かったのだ。
 終業式はいつもの通り終わり、通知票を担任の教師から受け取るとそこに先日の期末試験の結果が記されていた。
 百五十人中五番で、当然赤点も無いので、進級できる。赤点を取った奴はこの春休みに補修授業を受けて再試験をするのだ。まあ、大抵は何とか進級出来るの だが、卒業の時はもっと難しいそうだ。中には大学に合格していたのに、卒業出来なくて入学を諦めた人も過去にはいたそうだ。正直そうはなりたく無いと思 う。

 ホームルームが終わり、もう帰るだけとなると村上が僕の所にやって来て
「隆、そのうち、あの美人先生、俺にも紹介してくれよな」
 そう軽口を言って一緒に帰ろうと言う。僕は別に反対する理由も無いのでうなずき、一緒に昇降口に下りて来た。そこで惺子先生と出会ってしまった。
「あら、隆さん。いま帰りですか? 私はこれから校内を案内して貰いますから、もう少し帰りが遅くなります。一緒に帰れなくて残念です」
 村上の前なのに惺子先生はドキっとする様な笑顔を浮かべて僕に言う。横で村上がニヤニヤしている。
「あら、そちらはお友達? 来学期からこちらで講師をする事になりました佐伯惺子です。よろしくお願いしますね」
 「あ、鈴目の親友で村上と言います。来学期からよろしくお願い致します」
 何とも調子の良い奴だが、この軽さもこいつの特徴なのだと理解している。ちなみに、村上が僕の事を名前で呼ぶのに僕が村上を名字で呼ぶのは、村上の名前の悟が僕の兄と同じ名前だからだ。
 兄は現在、東京の大学に通っていて、この春休みは研究とバイトで忙しいので帰って来れないのだそうだ。
「傍で見ると凄い美人だな。あんな人が隣に住んでいたら人生楽しくて仕方ないだろうな」
 冗談とも本気ともつかない事を口にした村上は、去っていく惺子先生の後ろ姿をずっと眺めていたが
「俺、決めた! 先生のファンクラブを作るよ。俺が会長で、お前会員にしてやるよ」
 村上の目がやけに真剣だったのが印象的だった。
 だが村上よ、僕は惺子先生のあの細身からは信じられないほどの豊かな胸を見ているのだぞ、と喉元まで出かかったが必死で堪えたのだった。

 惺子先生は午後になって帰って来た。自転車の籠には沢山の買い物してきた荷物が乗っていた。
「途中のスーパーで買い物をしていたら沢山買って仕舞いました」
 良く見ると後ろの荷台にも紐で買い物の袋がくくりつけてあり、両の手に持った荷物が重たそうだった。僕はそれを見ると重そうな方を持ってあげる。
「ああ、すいません」
 お礼を言われたが何て事はない、少しでも近くに惺子先生の傍に居たいと言う疚しい心からだった。
「そこに置いておいてください。本当にありがとうございました」
 離れの台所に荷物を置いた僕は久しぶりに見る離れの内部が今までとは違い明るく艶やかになっているのに気がついた。
「ずいぶん変わるものですね」
 感心して言うと惺子先生はニッコリとしながら
「そうですか、物が入っただけでも感じが変わりますからね」
 そう言いながらエプロン姿に着替えている。惺子先生はその姿も良く似合い、正直その姿は僕には眩しすぎた。
 良い物を見たと思い、村上が羨むのも仕方ないと思うのだった。
 
 その晩の事だった。
 どうやら、離れの惺子先生の所に来客があったみたいだった。先生がウチに来て
「すいません。来客用のお茶を買って来るのを忘れてしまったので、少しお借りできませんか?」
 惺子先生は困った顔でやって来たので母は
「いいですよ。隆にお茶を入れて持って行かせますから、二人分ですか?」
 そう尋ねると先生は
「はい、助かります。来客用のお茶碗も未だ買っていないもので」
 ホッとした顔でそう言ったのだった。
 先生が出て行くと母は上等の湯のみ茶碗にお茶を二つ入れて、僕に持たせた。

 僕は母から頼まれたお茶を二つ入れたお盆を持って、先生が待っている離れに持って行った。玄関に入ると黒い男物の靴が一足丁寧に揃えられていた。
 声を掛けても返事が無いので、上がらせて貰い、廊下を歩いて行くと左の六畳に淡い灯りが点いている。ぼおっと二人の影が映っていて、相談事でもしているのだろうか?
 すぐ傍まで行き、もう一度声を掛けると、先生の声で
「ありがとう、すいません、そこに置いておいて下さい」
 僕は言われた通りにお盆を置くと後ずさりしながら玄関に戻った。その時だった。六畳の障子が開いて、真っ白い女性の腕が伸びて来て、お盆を取り上げた。やや重かったのか、手先だけでは持てなくて、障子から肩口までが出て来た。
 真っ白く艶やかな肌の二の腕と背中が淡い灯りの中に浮かびあがった。後ろ姿だったが先生に間違い無い。先程はノースリーブやタンクトップは着ていなかった……何故あそこまで肌が現れているのだろう……まさか先生は肌が露わになっているのでは無いだろうか?
 僕は、何か見てはいけないものを見た感じがして、急いで玄関を後にした。

 急いで母屋に戻り、自分の部屋に戻り、今見た光景を頭の中で反芻する。何故あんな格好だったのだろうか?
 来ていたのは靴があったから、男性で間違いは無い。なら……
 それに、あそこまで肌があらわになっていたと言う事は……
 そして、男女二人……
 僕の頭の中は考えたく無い妄想でふくれあがろうとしていた。
  そして今、離れに居る男性はいったい惺子先生の何なのだろうか? 僕は現実に離れで起きている事を頭の中で結びつけて苦しんでいた。
 惺子先生には恋人がいる! そしてその人は今、離れで二人だけの時間を過ごしている……もうそれだけで頭が一杯になり、考えたくないことまで考えてしまっていた。
 どのくらい経っただろうか? 玄関で惺子先生の声がした。
「どうもありがとうございました。お陰で助かりました。姉も美味しいお茶だと喜んでいました」
 なんだ? 姉? どういう事だ? なんだろうか? 続いて惺子先生以外の女性の声がした。
「どうもご馳走様でした。惺子のこと宜しくお願い致します」
 母が出て挨拶を返している。
 僕は自分の部屋から出て来て玄関を覗くと、惺子先生と良く似た綺麗な女性が立っていた。残念ながら惺子先生ほどでは無かったが……僕はそっと玄関に近づくと惺子先生が
「隆さん、先程はありがとうございます」
 飛び切りの笑顔でお礼を言われてしまった。僕は安心しながらも
「お客さんってお姉さんだったのですか?」
 僕の問に惺子先生のお姉さんが
「実はこの子、今度高校の講師になるのに、ろくな服を持っていないから、持って来たんです。本当に自分の身の回りに気を使わない娘だから……」
「玄関にあった男物の靴は誰のだったのですか?」
 僕の疑問に今度は惺子先生がにこやかに
「いやだ隆さん! あれは防犯です。良く言うじゃありませんか、表札を男名前にするとか玄関に男物の靴を置くとか……表札を変えると郵便物が届かないと困るので、靴の方にしたのです。それも姉の知恵です」
 それを聞いて僕は恥ずかしさで一杯だった。どんな妄想をしていたのだろう。穴があったら入りたかった。
 結局、僕が見た光景はお姉さんが持って来た服を色々と着替えながら試着していただけだったのだ。反省しないといけないと思った。
 だが、あれだけの美人で聡明な人に恋人がいないと言うのも可笑しな話だと思う。きっと実は東京に居るのだと考えた。
 いいさ、僕はこうやって毎日、惺子先生の姿を拝めるだけで幸せだと思わなくてはならない。そう心に留めた。
 
 それから三日程して、兄から僕の携帯に電話があった。兄は今は東京の大学の工学部に通っていて、滅多に家には帰って来ない。現在は大学二年で今度三年になる。
 僕より三つ上なので中学や高校では一緒になった事が無い。ちなみに小学校から高校まで同じ学校だ。せめて大学ぐらいは違う所に行きたいと思っている。
「惺子お嬢さんの行動にくれぐれも注意してくれよな。そしてお前がお嬢さんを守れ」
 いま、兄は何と言ったのか? 確か「惺子お嬢様」と言ったと僕の耳は感じたのだが……
「惺子お嬢様って……兄さん知りあいなの?」
「ああ、師事しているゼミの教授のお嬢さんだ。こっちに居る時は随分世話になった」
 僕は兄の言ってる事があまりの事に理解を超えたと思った。兄と惺子先生は旧知だった。もしかして惺子先生と兄はそう言う関係なのだろうか?
 「お前、くだらない事考えているんじゃ無いだろうな? 本当に教授のお嬢さんと学生の関係だ。それに歳が違う!惺子お嬢様は俺よりも5つも年上だ」
 通話の向こうで兄が立腹しているのが判る。だが兄のことだ、その言葉をそのまま信用する訳にはいかない。兄の女性の好みは僕と同じ傾向だからだ。惺子先生なら、完全にストライクゾーンだ。だがそんな想いは口に出さず
「判った。それで僕が守るとはどう言う事なの?」
 今度はそれをちゃんと訊かないとならない。
「詳しい事は俺の口からは言えないが、惺子お嬢様はある目的があってそっちに引っ越したんだ。兎に角、お前がお嬢様を守ってやってくれ。いいな!?」
 兄はそれだけを言うと通話を切ってしまった。仕方が無い、詳しい事は惺子先生に直に訊かなければならないと僕は思った。

 海沿いの良く陽が当たる場所の桜が満開を迎えていた。今度の日曜は山沿いの桜も満開になるだろう。観光客がやって着て街が賑やかになる時期だった。
 その日はその週末の「さくら祭り」の行事の相談で、母も出かけていて、僕は惺子先生にお昼を呼ばれていた。
「何にも無いですが、量だけは沢山ありますから、いっぱい食べて下さいね」
 惺子先生はざる一杯に茹で上げたうどんを前に僕にそう言って進める。
「はい、いただきます!」
 箸でつまんで汁に漬けて口に運ぶとつるんとした感触が口を襲う。
「美味しいです!」
 お世辞では無く本心からその言葉が口をついて出る。
「喜んで貰えて良かったです」
 惺子先生のエプロン姿だけでも眼福ものなのだが、今は溢れる様な笑顔つきである。最高だと思った。
「先日、兄から連絡があって、先生が兄と知り合いとは思いませんでした」
 僕がこの前の兄とのやりとりを口にすると惺子先生は笑いながら
「はい、悟さんは父のお気に入りでして、何時も悪いとは思うのですが秘書みたいな事をさせているのですよ。私は父にちゃんとバイト代を払わなくてはならないと窘めるのですが、悟さんも父もナアナアでして、気にはしてるのですが申し訳なくて」
「ちっとも知りませんでした。ひょっとして兄の推薦でこの地方に来たのですか?」
 僕の訊いた事はもしかしたら、訊いてはイケない事だったのかも知れない。惺子先生はちょっと表情を暗くして
「父が誠明の理事長と懇意なものですから……」
「ああ、それでウチの学校に……」
「それと……」
 そこまで言って言い難くそうに惺子先生は
「弟がこの街の海岸で亡くなったのです……」
 頭を後ろから殴られた様な気がした。

 余りの事に咄嗟に言葉が出なかった。二人の間に重い空気が流れる。それでも僕はそれに逆らう様に
「ここの海岸って、何処で亡くなったのですか?」
 恐らく惺子先生にはそれを言うのにも心が痛むのだろうと思うと、申し訳無い気がした。
「この先の『花ヶ崎』と呼ばれている突端です。あそこから落ちたのだそうです。結局海岸に流されて見つけられました。警察の調べでは事故扱いとなりまし た。でも私は泳ぎが出来ない弟がどうして、あんな危険な場所に行ったのか不思議でならないのです。何か訳があるのか? あるなら、どのような訳なのか、そ れが知りたいのです」
 惺子先生は僕を見つめながら一気にそこまで語り
「私が父に無理を言って、誠明の理事長にもお願いをして、講師として雇って貰ったのは、真実が知りたかったからです。最悪の場合、単純な事故では無い可能性もあるんじゃ無いかと実は思っています……ああ、ごめんなさい。隆さんには関係無い事でした……すいません」
 惺子先生はそう言ってから無理に笑おうとして、その美しい顔が返って悲しみにくれていた。僕はそんな先生の様子を眺めながらも『自分に出来る事は無いか?』と考え始めていた。

「先生、幾つか訊いてもいいですか?」
 今さっき訊いた事なのに失礼かとも思ったが、この先自分が何か出来るなら是非とも訊いておきたかった。
「はい、何でも訊いて下さい」
 惺子先生に冷静な表情が戻って来た。
「弟さんはこの街に土地勘があったのですか?」
 まずはこの質問だ。土地勘が無いのに『花ヶ崎』まで一人で行くとは思えなかったからだ。それに土地勘があれば、あんな危険な場所に一人で行くとも思えない。
「はい、弟は誠明の講師をしていました」
 驚くべき事実だと感じた。僕が知ってるこの一年では佐伯と言う講師は居ないと思った。続けて惺子先生は
「弟が亡くなったのは一昨年ですから、隆さんが入学する前の年なので、面識は無いと思います」
 「そうですか、じゃあ『花ヶ崎』が危険な場所だと言う事は知っていたのですね」
 ここが肝心な処だと思ったが、それに対して惺子先生は
「私も、そこまでは知らないんです。だからこの地に来て色々と調べてみたかったのです」
「弟さんと仲が良かったのですね」
 正直、姉弟とは言え、この美しい人にそこまで想われていたのが羨ましかった。
「先日来た姉などは、『寿命が無かったのね。足を滑らせるなんてねえ』と言っていましたが、私はどうしてもそう思えないんです」
 そこまで訊いて惺子先生の決意が僕にも伝わって来た。この上は一つしか無いと思った。
「先生、僕にもお手伝いさせて下さい! 頼り無いかも知れませんが、先生の手足ぐらいにはなります。先生のちからになりたいのです」
 一気に思いの丈を述べてしまった。惺子先生はじっと僕の顔を見つめ
「本当ですか? 私にちからを貸して下さいますか? ありがとうございます。嬉しいです」
 先生はそう言うと両手を出して僕の手をギュッと握った。柔らかく暖かい繊細な手だった。
 余りの心地よい感触に一瞬我を忘れた……

 こうして、僕は惺子先生の手伝いをしながら、先生の弟さんの死に関する事を調べて行く事になったのだ。
 その晩、夜遅く僕は兄に電話をした。今日の昼間に惺子先生と話した事を直接言ってみたのだ。すると兄は
「その通りだ。間違いは無い。俺が3年の時に古典の講師として赴任したんだ。二卵性の双子だったけど惺子お嬢様に良く似ていて、それは美男子だったぞ、俺は理系だから習った事は無かったが、確か家にも遊びに来たことも一度あったがな……お前は会った事が無かったか」
 兄はここまででも重要な事を幾つか言っていた。まず惺子先生が双子だったと言う事。それから美男子だったと言う事。家にも来た事があると言う事。
 ならば何故父はあの時、全くの初対面の様なそぶりをしたのだろう? それは惺子先生とは初対面だったかも知れないが、少なくとも兄弟とは面識があったはずだ。あのような言いようは少し変だとは思う……
 僕の思考を遮る様に兄の声が被る。
「おい、聞いてるか? 兎に角、惺子お嬢様の決意は相当なものだから、よろしく頼むな。惺子お嬢様は弟さんの代わりに誠明にやって来たんだ。誹謗や中傷から守ってやってくれよな」
 兄はそう言って通話を切った。
 僕は窓から離れを見ながら、今聞いた事を整理していた。兄は美男子と言ったが、惺子先生が男になった感じなら、相当の美男子だったと思う。そんな講師が授業をしていたら、我が校の女性徒が黙ってはいないだろうと思う。
 もしかしたら、男女間のもめごとがあったのだろうか? 兎に角、想像だけで決めつけては駄目だと思い、新学期、いいいや明日からでも情報を集めなくてはと思いその晩はベットに横になった。
 眠ろうとするが、頭には惺子先生の胸の谷間や白い二の腕が思い出されて眠れない。幾度か寝返りをしているうちに朝になった。

 朝、惺子先生が僕の部屋にいきなりやって来て
「隆さん。よかったら『花ヶ崎』に一緒に行って貰え無いでしょうか? もう一度ちゃんと見ておきたいし、隆さんを案内したいのです 」
 そう頼んで来たのだ。僕に断る理由は無い、それに家族のいない所で色々と訊きたい事もあった。
「いいですよ。歩きだと距離がありますから、自転車で行きましょう」
 『花ヶ崎』とは、この地域の人間が使う名前で、正式には『桟先ヶ先』と言うのだ。地図で見ると、岬は海岸線を柔らかくカーブさせていて、その突端が海に向かって延びているのだ。
 実際に来てみると、まるで海に向かって鼻が伸びている様な感じなので『鼻ヶ崎』と言われ、それが『花ヶ崎』となったのだ。だからこの名前は地元の人間しか使わない。

 二人で自転車を漕ぎながら岬を目指していると、春の海風にそよいだ惺子先生の髪の匂いが僕の鼻をくすぐる。弟さんの事を言う時は暗い表情になるが、それも美しさを際だたせるのだ。不謹慎だとは思うが、こんな人と恋人関係になったらどんなに良いかと想像してしまう。
 やがて道案内の看板が見えて来た。青地に白で「この先500メートル左折で桟先ヶ崎」と書かれている。
 惺子先生は後ろを振り返りながら僕に看板を指さす。僕はそれに答えて大きく頷く。
 
 岬に通じる道路を走って、柵で行き止まりの場所で自転車を降りてその先まで歩いて行く。林の中の小道を歩きながら僕は
「兄から昨夜、先生が弟さんとは二卵性の双生児だったと聞きました。何故昨日は僕に隠していたのですか?」
 いきなりだったとは言ってしまってから気がついたが、昨夜以来その事を訊こうと思っていたので、ついキツい口調になってしまった。
「隠すつもりは無かったのですが、何となく言いそびれてしまって……協力をお願いしてるのに隠し事はいけませんね。申し訳ありませんでした」
 僕は、別に責めるつもりがあった訳じゃ無いので、やはり言い方が不味かったかと反省をした。
「いいえ、責めるつもりなんて無いのですが、双子だったら、余計辛いのかな? と思いまして……」
「弟は私と顔は似ていましたが、性格は違っていまして、私よりも開放的で社交的でした。幼い頃から友達も沢山いまして、その……色々と派手で、ウワサは何時もつきまといました。だから私は中学から弟とは別の学校に通いました」
 そう言って惺子先生が名前を出したのはミッション系の有名な女子校で、確か小学校から大学まで揃っている学園だった。
「お父さんが教授をしている大学じゃ無かったのですね」
 僕はそこで、兄の行ってる大学の名を出したが、そんな事情ならば僕でも変えたと思う。現に今だって僕は兄とは違う大学に行こうと思っているのだ。

 小道は林から抜けると一気に海が見えて来る。「ここから先は危険。自己責任で」と書かれた立て札が幾つも目につく。
 岬の先に立つと二百七十度、周りが海となる。絶景と言っても良いと思う。下を見ると断崖絶壁で、かなりの高さがあり、ここから落ちたらまず助からないと思った。
「高いですね。ここから落ちたのですね……もしかしたら、誰かに……いいえ今は言うべきではありませんね。弟が可哀想です」
 惺子先生の瞳が潤んでいた。海からの強い風に着ていたコートの裾がまくれ膝がむき出しになる。髪も風に流されている。
 その姿が僕の心をくすぐる。僕が惺子先生の彼氏とか恋人だったら迷わず抱きしめていただろう。だが、それは今は僕の役目ではない。
「ここで誰かと争ったと先生は考えているのですね?」
 じっと海を見つめていた惺子先生は僕の言葉に
「はい、そう思っています。そうでなければ弟はこんな場所に来はしません。ここに来て一層そう思いました。よしんば、誰かに突き落とされたのでは無いとしてもです……」
 惺子先生としてみれば、そう思いたいのだろうと僕は思った。

「帰りましょう隆さん」
 惺子先生は力なく言うと僕と一緒に帰りの小道を歩いていた。途中で釣り道具を持った人とすれ違った。僕はそのまま行こうと思ったが、気になることがあったので、惺子先生に
「ちょっと確認したい事がありますから、自転車の所で待っていて下さい」
 そう言い残すと取って返し、先程の釣り人に追いつき
「すいません。ちょっとお訊きしたい事があるのですが」
 そう言って歩く足を止めて貰った。
「なんだね?」
 釣りの黄色い帽子を被り、青いベストを着た小父さんは訝しげに僕を見て答えた。
「ここはつり場なんですか?」
 何とも形容しがたい質問だが、釣りをやらない僕にはそうとしか言いようがなかった。
「ああ、朝早くは駄目だが、今の時間あたりから潮の流れが変わるのでこの辺に今ぐらいから来るんだよ」
「そうなんですか、結構な数の方がいらっしゃいますか?」
「うーん、地元の人間だけかな。他所の土地の者は知らないだろうね」
「皆さん、あの突先で釣るのですか?」
「ああ、そうだよ。中には下に降りて行く者もいるけど危険だから上から釣るんだよ。だから潮の流れが需要なんだ」
「落ちた人なんて居るかも知れませんね」
 僕はそう言って恍けると小父さんは
「いたよ、一昨年だったかな若い子が落ちて死んだんだよ。可哀想な事件だったよ」
 小父さんはそう言って暗い顔をした。
「その時、その人は即死だったのですか?」
「さあ、何でも落ちて海に流れたそうだよ」
「そうですか、ありがとうございました」
 僕は小父さんに礼を言って惺子先生の元に急いだ。
「何を訊かれていたのですか?」
 惺子先生は訝しげな表情で僕を見つめている。その表情も堪らない。
「ええ、大した事じゃ無いです、何が釣れるかを訊いたのです」
 僕は返事を曖昧にした。それは未だ口に出しては言えない事だった。特に惺子先生の前では口にするのははばかられた……

心の食堂 第17話 「食の楽しみ」

 何時ものように満月の夜に開く「心の食堂」には来店を楽しみにしている者も多い。必ずやって来る満代と浩二もそうだし、その他にも数名が存在する。
 初老の若井林蔵もそのひとりで、実はこの者は生前のまさやの料理を食べたことがあるのだ。だがこの「心の食堂」の店主が、その者だとは気が付いていないのだ。この辺が面白い所で、カウンターでまさやの料理を食べながら、
「昔、これと同じような料理を作る板前が居てね」
 と語ってまさやと幸子を苦笑いさせている。
 その林蔵がこの夜もやって来たのだが、何故か表情が暗かった。
「どうかしましたか?」
 幸子が心配をして声をかける。それほど落ち込んで見えたのだ。訊かれた林蔵は最初は辛そうな表情をしていたが、ポツリポツリと語りだした。
「実は、この店に来るのも最後になるかも知れません。それで憂鬱になっていたのです」
「最後とは、どちらかに引っ越しでもなさるのですか?」
 まさやが厨房から出て来て問いかけると林蔵は苦笑いを浮かべて
「いえ、病になりましてね。来週に手術するんです。だから……」
「失礼ですが、その御病気とは命に関わるものなのですか?」
 まさやが、更に問いかけると林蔵は頭を振りながら
「いいえ、舌癌なんです。症状はステージⅡと呼ばれるもので、命の危険はありません。でも舌の3分の1から多いと半分近く切除してしまうのです。そんなに 取られたら、もう食べる楽しみなんか無くなってしまいます。その後は病気しなくても、ただ、命を永らえる為だけの食生活になってしまうんです。当然ここへ も来られなくなってしまいます。私は、食べることが一番の楽しみなんです。酒も多少は飲みます。でもそれは、より美味しく食べる為に飲むのです。それ以外 の趣味はありません。ギャンブルだって嫌いですし、女だって妻以外には興味はありません。そんな自分に何故神様は楽しみを取り上げるようなことをするの か、理解に苦しみます」
 林蔵の言葉を聴いてまさやは
「では、今日、特別な料理をお出しします。それを食べて戴いて、来月、もう退院なさっていたら又いらして下さい。その時満足の戴ける料理をお出しします。その時にまた感想を戴けたら幸いです」
 まさやはそういって、厨房に引っ込むとレタスのサラダとハンバーグを作って来て林蔵の前に出した。
「今は痛みは如何ですか?」
「ええ、痛み止めを飲んでいますから今は治まっています」
 林蔵は出されたハンバークにナイフを入れると透明な肉汁が溢れ、ハンバークのソースと絡まって光っている。
「美味そうです」
 林蔵は更にナイフで切り分けその一つにフォークを刺して口に運んだ。口の中でとろけるような感触がして殆ど噛まずに飲み込めた。
「これは美味しいです。こんなハンバークは老舗のレストランに行っても食べられません」
「まあ、肉はいいものを使っていますからね。では、レタスのサラダを食べてみて下さい」
 林蔵はまさやに言われた通りにドレシングのかかったレタスを口に運んだ。
「薬で痛みを止めていますが、やはり繊維が多い食材は舌の痛い部分に当たって上手く噛めないですね」
 それでも時間をかけて林蔵は全てを自分のお腹にしまいこんだ。
「美味しかったです。でもこれが手術と何の因果関係があるのですか?」
 林蔵の質問にまさやは
「それは、手術後にここに来て戴いて、私が出すものを食べて戴いて判ると思います」
 そう言って疑問を持っている林蔵を更に不思議がらせた。

 翌月の満月の夜。林蔵は約束通りに「心の食堂」にやって来た。一見前と同じに見えるが、よく見るとやや老けたかも知れなかった。
「いらっしゃいませ。どうやら手術は成功なさったみたいですね」
 幸子が問いかけると林蔵はカウンターに座り
「3分の1ほど切りました。少ない方らしいですが、それでもラリルレロが言い難いです」
 手帳を出して、そう書いて見せた。
「言葉が出せないのですか?」
 驚く幸子に林蔵は
「あかちゃんことばにたいになるので、よそさまにははずかしくてね」
 そう言って恥ずかしがると幸子は
「ここでは大丈夫ですよ。通じない言葉はありませんから、出来るだけ話して下さい」
「そうですか、わあかりゅました」
 上手く話せないながらも出来るだけ話す約束をした。
 早速、まさやが厨房から料理を運んで来た。見るとこの前と同じハンバークとレタスのサラダだった。
「先月と同じように食べてみてください」
 まさやに言われて林蔵は同じようにナイフでハンバーグを切り取り溢れる肉汁を滴らせながら口に運んだ。何回か噛んで咀嚼しようと試みるが以前のようには行かない。病院では最初は流動食だったし、家に帰ってからは妻が柔らかいものを中心に出してくれた。
 何とか飲み込んだが口の中のあちこちに肉のカスが残っている。正直不快な感じだった。次のレタスはもっと悲惨だった。まず上手く噛みきれない。咀嚼以前の問題だった。
「まったくだめれす。たべあっれません」
 上手く言えないながらも林蔵は正直にまさやに答えた。
「確かめるようなことをして申しわけありませんでした。今一度、以前と同じものを食べて貰ったのは現状を理解して戴く為です。これからの訓練で言葉も食べ 物も前と変わらなくなると思いますが、暫くはどうしてもかかります。そこで、それまではこんな工夫をなさっては如何でしょうか?」
 まさやはそう言って新しい皿を出して来た
「今度はこれを食べてみて下さい」
 見てみると同じハンバーグとレタスのサラダだった。何処が違うのだろうか?
 まさやに言われ林蔵は同じようにナイフでハンバーグに切り込みを入れる。若干柔らかい気がしたが同じように肉汁が滴る肉片を口に入れた。咀嚼をしようとした時だった。肉片が口の中で蕩けてしまったのだ。手術以前の感覚を思い出させた。
「こ、こあは……」
「これはひき肉を二度挽きしてあります。普通は一度しか挽きませんが、子供向けの料理を作る時などには二度挽きをします。きめが細かくなり口当たりが良く なります。ハンバーグなどでは練るのも簡単ですが、今日は余り練っていません。だから口の中でほぐれるのが早かったのです」
「でも、そらあではかたまあないでしょ」
「そこは色々食材を足してありますから大丈夫です。サラダも食べてみてください」
 林蔵は言われた通りに今度はレタスを口に入れた。フォークを刺す時に前と感触が違っていたのが判った。今度もまさやが何か仕掛けをしてあるのだろうと思い慎重に刺したのだ。それを口に運ぶ……。
「かめる。くもなくかめる……」
 驚く林蔵にまさやは
「実はこのレタスは熱湯に一度くぐらせてあります。熱湯にくぐらせて冷水にさらしたのです。だから繊維が柔らかくなっていたのです」
「そうれあいたか」
「色々な調理のコツとレシピを書いて置きます。奥様にお見せ下さい。いずれは必要なくなるものですが、今暫くは必要だと思います」
「なにかあなにまで、ありがとうございます!」
「舌癌で舌を切除しても食の楽しみは捨てることはありませんよ」
「まあたくですね。ひかんしたじぶんがはずかしいです」
「言葉も直ぐに元に戻りますよ」
 まさやの言葉に深く頷く林蔵だった。

氷菓二次創作  「衷心」(ちゅうしん)

 夏の神山は暑い。もっとも朝晩は東京などに比べて遙かに涼しいが、昼の地学講義室はその暑さを享受していた。

 夏休みに入ってから、俺達古典部は秋の文化祭で発売する文集「氷菓」の編集のために集まっていた。


「それじゃ、そういうことで。よろしくね……ふくちゃん、特にお願いだからね」

 伊原が里志に念を押したように言う。それを聴いて里志は作り笑いを返すのが精一杯だった。

「じゃ、戸締まりお願いね」

 伊原から鍵を受け取ると無くさないように、自分の机の上に置いた。里志と伊原が仲良く二人で出て行くのを見送ると、それまで離れて座っていた千反田が隣に席を移して来た。

「先日は父が突然お邪魔して申し訳ありませんでした」

 つい先日の事だった。高校二年生の夏休みを満喫していた俺だったが、突然千反田の親父さんの鉄吾さんが折木家にやって来たのだった。Tシャッに短パンというだらしない格好をしていた俺は狼狽えた。それはそうだろう、いきなり千反田の親父さんが自分の家にやって来るなどとは考える者はいない。

 やって来た理由はその前の千反田の失踪の事だった。無事にコンクールには間に合って事なきを得たが、どうやら横手さんの口から漏れたらしい。千反田から電話がかかって来て

「父が一度折木さんにお礼をしたいと言っています。どうしましょうか

「お礼なんぞされる事をした覚えはない」

「でも、どうしてもと言っています」

 全く困ったものだと思った。俺は確かに千反田を迎えには行ったが、千反田の心の問題を解決した訳ではない。本質は何も解決していないのだ。

「俺は何もしていないのだから困る」

 その時はそれで終わり、この問題は長引かないと思っていたのだ。だが鉄吾さんはそうではなかったのだろう。 

 手土産まで持って来てくれて、

「娘のえるの事では本当にお世話になりました」

 そう言って頭を垂れてくれたのだ。Tシャツに短パンという格好で俺はそれに対したのだった。


「ちゃんとした格好をする前に帰られてしまった。何か言っていたか

「言っていたと言うより、訊かれました」

 ギョっとして千反田の方に体を向けると、隣の千反田は少し頬を染めていた。

「何を訊かれたのだ」

「はい、『折木くんというのはお前にとってどの様な存在なのだ』と……それでハッキリと言いました。『一番信頼しているお方です』と……」


 一番信頼しているだと……


 開け放たれた窓からは夏の乾いた風が入って来るが、そんなものでは収まらないほど地学講義室の空気が暑くなって来ていた。

「あついな……」

「はい……凄く暑くなりました」

 やはり気のせいでは無かった。千反田も同じく感じていたのだ。

「もっと窓開けるか」

 徐ろに立ち上がろうとした時、隣に座っていた千反田が俺の二の腕を掴んで呟くように言った。

「折木さん……これからもわたしの傍に居てくれますか

 その言葉を耳にして座り直す。

「千反田、俺は今回のことで確かにお前を迎えに行った。だがお前の問題を俺は何一つ解決してやることが出来なかった。それでもいいのか

「折木さん。今までわたしが千反田の跡継ぎであることを理解して、色々と助言をくだされる方は居ました。でも、『後を継がなくても良い』と言われた、わたしの心の内を理解してくださる方は折木さん以外いませんでした。それも、わたしが誰にも言えずに居たのにそんな心情まで推測してくれたのです」

 確かに俺は千反田の家の事情や千反田自身が大人の社会でどの様な役割を果たして来たのか。直ぐ傍で見させて貰った。初詣しかり「生き雛祭り」しかりだ。俺とは違う環境の元で育った千反田は同じ歳でありながら俺よりも遙かに大人に思えた。

「一年の秋に二人で図書館に行ったことがありましたね」

「ああ、確か中学の英語教師の小木のことを調べに行った時だったな。それがどうかしたか

「あの時、折木さんは、わたしの疑問に答えてくれました」

「なんの疑問だった」

「どうして今日だけは、自分の疑問を調べたんですか……と」

「それなら覚えている。確かこう答えたはずだ……神経と言うか、あれだ。『人の気も知らないで』って言う感じだ。たぶん二度と小木には会わないから、人の気も何もないけどな……と」

「そうです。それであの時、わたしは想いました。もう二度と会わないかも知れない人のことまで気を使う折木さんは本当に人の心の中までおもんばかってくれる方なのだと……あの時は上手く言えませんでしたが、今なら判ります。折木さんの誠実さや本当の優しさを……」

 全く褒めすぎだ。俺はそんなに誠実でも優しくもない。千反田は勘違いしている……でも、それも悪くはないかも知れない、出来ればこの先も勘違いしていて欲しい……

「それを聞いて親父さんは何と言ったんだ

「中々しっかりした子だ。大事になさい。と言いました。きっと父は一度折木さんを自分の目で見たかったのだと思います。『生き雛』で傘を持つ折木さんは見たかも知れませんが、多分あの時は印象に残っていないでしょうから……」

 千反田家の方ではどの様に思っているのか本当の所は判らないが、俺は今の所、千反田の問題の本質を取り除いてやったり軽くしてやることも出来ない。そんな存在でしかない。

 俺は再び立ちあがり教室の窓をいっぱいに開ける。夏の風がカーテンを揺らしながら地学講義室の中に入って来る。その風に千反田の長い髪が揺れ、俺はその美しさに心をときめかす。

 この先、どんな事があるか判りはしない。別れが来ることもあるだろう。でも、それならその日まで、千反田の心情を理解出来る人間として、傍に居てやりたいと強く願うのだった。

「千反田」

「はい、なんでしょう

「これからもよろしくな」

「はい

 夏の太陽が微笑む二人を照らしていた。



                   <了
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