宿に着くと、伊原と里志は「温泉街のおみやげ屋さんに寄ってから帰るから」と言って別れた。
「どうする。このまま宿に帰って温泉に入るか? それとも近所を散歩するか?」
 俺の問いかけに少し顔を傾げて
「そうですねえ……二人だけになれる場所に行きたいです」
 そう言いながら俺の袖を引いた。
 そこで昨夜、仲居さんが言っていた温泉街の外れの展望台が見晴らしが良いと言っていたのを思い出した。陽が沈むには未だ時間がある。俺は千反田の手を掴むと歩き出しながら
「展望台に行ってみよう。陽が沈むまで一時間はある。上手く行けば夕日が沈む所が見られるかも知れん」
 俺の提案に千反田の顔が輝いて、ニッコリと頷いた。
 温泉街の一番奥の旅館の脇に矢印の書いてある看板がありその脇に階段があった。そこを千反田の手を引きながら登って行く。程なく一番上に到着した。
「ああ、折木さん見て下さい! 素晴らしい景色です。山々の稜線がくっきりとしていて、青い空との対比が見事です」
 確かに千反田の言う通り、スカイラインが見事だった。山に囲まれた神山だがこれほどスカイラインが綺麗に見える事はそうは無い。展望台には誰も居なかった。それはそうだろう夕暮れに近い時刻にわざわざここに来る者は居ない。
「折木さん……」
 そっと千反田が俺の胸に手を回す。俺も千反田の細い肩を抱き締める。
「やっと二人になれました」
「今夜は一晩中二人っきりだぞ」
「はい……でも、いま二人きりになりたかったのです。わがままだったでしょうか?」
「そんなことは無いよ」
 千反田の背中に回してる腕に力を込めた。千反田の腕にも力が込められたのが判った。千反田の小さな顎を右指で軽く持ち上げ、目の前になった唇に自分の唇を重ねる……何と言う甘美な瞬間だろうか、いつもそう思うのだが、今日は格別だと思った。
 持ってきたカメラでお互いの写真を移す。そして、安定した場所にカメラを置いてセルフタイマーで二人の姿を写した。
 その頃になって夕日が山の稜線に近づいて来た。二人の姿が赤く照らされる。沈みきると暗くなってしまうので、それまでには下に降りなければならない。俺と千反田はそのギリギリの時間まで夕日を見ていたのだった。

 宿に帰ると里志が
「僕たちの方が遅いと思っていたけど暗くなるまで何処に行っていたんだい?」
 意味ありげな視線を送って来たので
「この外れにある展望台に行って来たんだ。丁度夕日が沈むところで良い景色だった」
「そうかい、そう言えば中居さんが言っていたね。僕たちはおみやげ選びに熱中していたよ」
 そう言い残して里志はタオルを手に出て行った。部屋の外で伊原が待っていて、俺の顔を見るとニヤリとして
「何だかちーちゃんとっても嬉しそうだったわよ」
 そう言い残して消えて行った。そう言えば二人だけで記念写真なんか写した事無かったと思った。きっとあの夕日をバックに写した写真を見る度に今回の旅行の事を思い出すのだろう。
 そんな想いに耽ってると千反田がやって来た。
「今夜からこちらなので荷物を持って来ちゃいました」
 ニコニコと嬉しそうだ。俺も嬉しいには違いないが、夜のことを考えるとドキドキする。それはお互い、口では言わないが既に納得しているからだ。少なくとも俺はそう信じている。大切な……そう俺にとって、自分の命と同じくらい大切な人の想いを今夜受け取るのだからだ。
「俺たちも風呂に行くか?」
「今夜は夕食の後でゆっくりと入りたいです。体もきちんと洗いたいですから」
「じゃあどうする? おみやげは明日の朝で良いだろうし……」
「少しお話をしましょう……ね!」
 何の話かは知らないが千反田が「話をしたい」と言うならそれも良い。
「折木さん、初めてお逢いした時のこと覚えていらっしゃいますか?」
「忘れる訳がない。誰もいないはずの地学講義室に人が居た……それも女生徒で、顔を会わせた途端、その瞳に吸い寄せられるようだった。後にも先にもあんな経験は初めてだったからな」
 千反田は窓際に移り、暗くなった表の遠くを眺めるように
「音楽の授業でお名前は存じていましたが、実は今白状しますと、一人だけ何か感じが違っていたのでより印象に残っていたのです」
 確かにあの頃の俺は今より灰色の生活を送っていた。それを変えてくれたのが、こいつだ。その事に関しては、いくら感謝してもしきれないくらいだと思っている。
「でも、一緒に部活動をして、実は凄い方だと思いました。そして、その想いはいつしか恋に変わりました。そして今日に至ります」
 千反田がわざわざそんな事を言ったのは今夜の事があるからだろう。もう一度確かめてみたいのだと思った。
「ああ、俺はいつしか『お前に頼まれた』から『お前のために』になっていた。最初は自分でも気がつかなかったが、あの日、着飾ったお前を見て初めて自分の心に気が付いた」
 だが、それからその事実を自分からは中々言いだせなかった。それは自分の覚悟が甘かったからだ。厳しい現実の中を過ごしている千反田と付き合うなら、こちらも相応の覚悟が居る。未だまだだとは思うが……
「折木さんが告白してくれた時、わたしは心の底から嬉しかったです。自分の想った人から大事なことを伝えられて本当に嬉しかったのです」
  恐らく……これは俺の想像だが、千反田家という陣出を統括すべき家を継ぐという事は生易しいことではない。単に旧家と、ひと括りに出来ないからだ。その地 域の事を背負っていくだけの覚悟が無ければ、千反田えるという女性と共に生きて行くことは出来ないからだ。俺だって未だ高校生だ。俺の覚悟なんて風が吹け ば飛んで行ってしまう様なものだが、この想い、「千反田と一緒に生きて行きたい」という想いは本物だと思っている。

 やがて里志と伊原が帰って来て
「摩耶花って意外と力があるんだね。背中を洗って貰って結構痛かったよ」
「あら、わたしは普通に洗ってあげたんだけどね」
 俺たちに聞こえるようにそんな事を言っている。この二人も今夜の事に向き合ってるのだと理解した。里志が荷持を隣に持って行ったのは言う間でもない。
 夕食は、今日は「飛騨牛」のステーキだった。それに山菜の料理などが付いた。冬ならすき焼きになるのだろう。
 食後、一休みして風呂に行く。千反田が「今夜は別々に入りましょう」と言ったので普通の男女別々の風呂に行く。
  こちらは岩風呂の露天風呂とは違って、タイル貼りの近代的な造りになっていて、サウナなども備わっている。表にある「露天風呂」は小さめだが石風呂になっ ていた。何でも大きな岩を繰り抜いて浴槽にに加工したそうだ。これにも入ってみた。工事中とオフシーズンのせいで、余り俺たち以外は人を見なかったがそれ でも、20人ほどは宿泊しているみたいだ。
 頭と体を丁寧に洗って表に出て、部屋に帰ろうとすると後ろから呼び止められた。
「折木さん。一緒に帰りましょう!」
 千反田が後ろから来て腕を絡めて来た。以前は俺の方が長風呂だったが、今日は違っていた。それだけ千反田も気を使ったのだろうか?
「混んでいまして、洗い場が中々空きませんでした」
 どうやら俺の思い過ごしだったようだ……

 部屋に帰ると既に布団が敷かれていた。千反田は離れていた二組の布団を、その端を腰を持ち、前かがみになるとくっつけてしまった。屈んだ時に浴衣の襟が開き千反田の胸の谷間が覗いていた。つい目が行ってしまう……これは男の性なんだと自分に言い聞かせる。
「こうしておけば広く使えますね。多少寝相が悪くても、畳に落ちないので安心です」
 なるほど、そういう事もあったかと納得する。
 その後、里志と伊原がやって来て、話が弾む。何だかんだと言っても四人で居ると楽しい……
「それじゃお休み」
 二人が部屋に帰ると、千反田は鏡に向かって髪をとかし始めた。その姿がとても艶かしく感じて思わず丹前を羽織って鏡に向かっている千反田を後ろから抱きしめた。
「あん……だめです。櫛で手を傷つける事になるかも知れません」
 そう言いいながらもそのままにさせていた。
「灯り消しましょうか……」
「ああ」
 俺は立ち上がって部屋の灯りを消す。その間に千反田が部屋に鍵を掛ける。僅かなミニ球のぼんやりとした灯りだけが二人を照らしている。
 布団の左右に別れて座っている。丹前を脱いで浴衣姿になった千反田が
「恥ずかしいので向こうを向いて戴けませんか」
 恥じらいを顔に出して言うので、俺も浴衣を脱いで布団に入り、千反田に背を向けるように右を下にして布団を頭から被った。
 シュルシュルと言う衣擦れの音がして脱いだ浴衣がたたまれて枕元に置かれた音がした。
 布団がめくられて、部屋の少し冷えた空気が布団に入って来る。それと同時に千反田が入って来る気配を感じた。
「折木さん……もうこちらを向いてもよろしいですよ」
 千反田の声に寝返りを打って向き合う。
「何も身に付けていないのか?」
「はい、でも下着一枚は身につけています。上半身は何も身に付けていません」
 その言葉に頭に血が登る。ただ抱き合うだけで同じ布団に入った訳ではない。これから俺たちは後戻り出来ない事をしようとしている。俺も千反田も初めての経験だ。今までの経験なんてものが、いまここでは役に立たない事が俺にも理解出来ていた。
「わたし、折木さんと身も心も一つになれると思うと本当に嬉しいんです」
 その言葉に俺も決意出来た。
「千反田、俺も初めてだが、後悔はさせないつもりだ」
「はい……嬉しいです」
 裸の千反田を抱き寄せ、キスをすると千反田も俺の背中に手を回して来た。その時だった。
「キヤー誰か来て!」
 隣の部屋から伊原の声が聞こえて来たのだ。絹を裂くような悲鳴と言うが、まさしくその通りだった。千反田と顔を見合わせ
「行ってみよう!」
 急いで浴衣と丹前を着て、鍵を開けて隣の部屋に行く。こちらの部屋は鍵が掛かって無かったのでドアを明けるとそこには見知らぬ男性が部屋の隅に、伊原が体に布団を巻き付けるようにして怯えていた。
「どうした?」
「あ、折木、ちーちゃん。わたしが寝ていたらこの人が部屋に入って来て、ふくちゃんの布団で寝ようとしたの。わたしは最初ふくちゃんだと思って声を掛けたら……」
「赤の他人だったと言う訳か」
「うん」
 そこまで判ると千反田がその男性に対して
「あのう……どちら様でしょうか? ここはわたし達の部屋なんですが……
 千反田に問われた男性は歳なら三十前後だった。
「す いません。下のバーでしこたま呑んで部屋に帰ろうと思い、ここが工事中で普段と感じが違うのをすっかり忘れていまして、間違ってこの部屋に入ってしまいま した、変な事をするつもりなんて一切無かったのです。申しわけありません、どうか警察にだけは出さないようにお願いいたします」
 すっかり怯えて座ってる男性を見て千反田が
「どうしますか摩耶花さん」
 そう言うのを受けて俺が
「そもそも里志はどうしたんだ? 何でここに居ないんだ」
 そうつぶやくと、伊原がやっと
「お風呂に行ったの。これから大事だからもう一度綺麗にして来る。と言って……」
 それで事の顛末が判った。
 やがて里志が帰って来て、伊原が飛びつくように里志に抱きついた。本当に怖かったのだと理解した。
 里志も交えて話し合いをして、どうやら本当に間違えてしまったのだと言う事が判り、くれぐれも今後間違えない様にと注意をして開放した。
「何だか気が削がれてしまったな」
「うふ、そうですね。また次の機会にしましょう」
「そうだな」
「でも、折木さん。わたし、今夜の決意、嬉しいです」
 その晩も前の晩と同じように抱き合って朝まで一緒に寝た。後から、と言っても十数年後だが、里志と伊原はこの夜に結ばれたらしい。はっきりと言った訳ではないが、どうもそうらしい……
 
 翌朝、朝食を大広間で食べていると昨夜の男性が、山盛りのおみやげを手にやって来て
「昨夜のお詫びです。どうかこれを持って帰って行って下さい」
 そう言って四人に幾つものおみやげを渡してくれた。断るのも悪いのでありがたく受け取る事にする。これで、おみやげは買わなくても良いかと思っていると千反田が
「供恵さんとお父様にわたしから何か買いますから渡してください」
 そう言って、姉貴にはこの辺りの民芸品を、親父にはヤマメの煮たものを買った。
「供恵さんは、民族的な物がお好きでしたし、お父様は何かお酒の肴になるものが良いと思いました。
「ああ、ありがとう。ならば俺もお母さんと親父さんに何か買って行こう」
 千反田のアドバイスでそれぞれの物を買って俺たちは帰路についた。
 今から思うと、この日の里志と伊原は何だか様子が違っていたのだが、千反田は気がついていたのかも知れないが俺は全く感づかなかった。

 バスはゆるやかに山道を登り降りしている。千反田の手を握りながら、昨夜の事を少しだけ残念に思う俺だった。

 了