青春

第10話 口では言えない事 ~こぶしの間~「(完結)」

20070409 154 季節の巡るのは早いもので、いつの間にか僕は志望校を決めなくてはならない時期に来ていた。
今年は僕は予備校の模試でAランクの評価をとっている大学を選ぶ事にした。
 まあ、安全パイと言うヤツだ。

 その日、僕は予備校の帰り、茜さんの店の前を通ると、茜さんが店の前に立っていた。
 茜さんはこの前、やっと部屋を空けてアパートに帰って行ったばかりだ。最もそれからも週に3回は泊まりにくるのだけども……
「今帰り?」
 茜さんは僕に挨拶代わりに話しかけてくれる。僕もいつもの様に「うん、そう。茜さんはどうしたの?店は休み?」
 そう訊くと茜さんは困った顔をして
「そうなのよ。ビールクーラーが壊れてさ、メーカーの人に見て貰ったら部品が無いと直らないって言うからさ、明日になるんだって直るのが」
「そうなんだ。じゃあ今日はお休みなんだね」
 僕が訊くと茜さんは僕を横目で見て
「ねえ、あたしウチの人から聞いちゃったの。生みの親の事。おばさんの親友だったんだって? なんで今まで黙っていたのかな? 理由が聞きたくない?」
 いや理由と言ってもそりゃあ簡単には言えない事でしょう。そう僕が思っていると茜さんは
「それでね、今日お店休みだから、おばさんに訊こうと想って。それでウチの人としんちゃんにも証人になって欲しいの……駄目かな……」
 茜さんはちょっと俯いて親指の爪を軽く噛みながら僕に迫った。正直、こういうの苦手です!
「判ったよ。今日は火曜で、たぶん暇だろうからつき合いますよ」
 そう返事をすると、茜さんはうれしそうに
「ありがとう!しんちゃん!今度たっぷり可愛がってあげるからね」
 なんて事言うのだろう。通る人が笑って聞いてるじゃないか……
「じゃ、あとで……」
 そう言って僕は花連荘に帰った。


「なんだって、今夜訊きに来るって?」
「うん、そう言ってたよ茜さん」
 婆ちゃんは茜さんからの伝言を聞くと
「全く、陣のヤツも上手くなんか言いくるめれば良かったんだよ」
「でも婆ちゃん、何で今まで黙っていたの?」
「そりゃ、それが幸子との約束だからさ。真実なんてこの場合知らない方が幸せと言うものさ」
 そうかな? と僕は思うが、戸籍も何もかも実の子として育てられるのだから、余計な事は知らない方が良いと言うのも一理あると思った。

 夕方、茜さんと陣さんが鮨を手にやって来た。
「おはようございます。おばさんお寿司かって来たから皆で食べようよ」
 さすがに茜さんだ。いきなりは言わない。
 婆ちゃんは「ああ来たのかい」とややぶっきらぼうな言い方で二人を歓迎した。早速、茜さんが慣れた様子で小皿や醤油、それにお茶を入れて食べられる様にする。
 茜さんは陣さんと婆ちゃんにビヤタンを出して奥の冷蔵庫からビールを出して二人に注ぐ。
「いただきま~す」
 真っ先に茜さんが鮨を一つ口に運ぶ。
「うん!誠鮨はいい腕してるわ」
 ご機嫌で箸を進めるとやがて
「ねえ、おばさん、あたしの生みの親の事教えてくれないかな」
 茜さんは決意した感じで婆ちゃんに語りかけた。

 婆ちゃんは暫く迷っていた様だが、やがてこれも決意した様に
「大体はこの前陣が聞いていた通りでね。特に言う事は無いんだけどね……」
「名前はなんて言うの?」
「名前かい……高子、そう青山高子って言う子だった。父親の名は知らないよ。とうとう最後まで言わなかったからね」
「そう、青山って言うんだ……お墓は? 何処にあるの?」
「遠いよ、あの子は九州だから亡くなった後は親が遺骨を持って帰ったからね……行ってみたいのかい?」
「判らない。今は判らないと言うのが正直な処かな」
「あの鞄の生地はねえ。当時あの子は進駐軍のメイドをしていてね。そこの奥さんから貰ったそうなんだ。当時としては上質の生地だから、喜んでねえ。器用なあの子は鞄や巾着や色々なモノを作ったよ」
「そう……だったんだ……」

 茜さんはお茶に口をつけると一口飲んで
「ねえ、もし間違ったら御免なさい。その子ってもしかしたらおばさんじゃ無い?」
 そう言われて婆ちゃんの様子は恐らく僕が見た婆ちゃんの様子では最も印象的だっただろうと思う。
「ば、バカなこと言うんじゃ無いよ。何処からそんな事が飛びだすんだい。あたしはあんたの親じゃ無いよ」
 そう婆ちゃんが言っても茜さんは顔色を変えず
「おばさん、本当に違うの? あたしは今まで密かにおばさんが生みの親だったらどんなに良いかと思っていたの。おばさんこそが本当の親なのではと何回も思ったわ。もう一度訊くけど、おばさんはあたしの生みの親じゃ無いの?」
 そのとき、婆ちゃんの眼から一筋の涙が流れ落ち頬を伝わって落ちた。そして
「違うよ、違う!あたしはあんたの生みの親じゃ無いんだよ」
 叫ぶ様に苦しげにそう言うと婆ちゃんは自分の部屋に引きこもってしまった。
「おばさん……」
 茜さんがその婆ちゃんの部屋を見つめていると、陣さんが
「真実を言えない事もあると言う事か……」
 そう言ったのが印象的だった。

 後から僕が考えた事だけど、よし悪しは別にしても、子供の斡旋という法に触れる事をしている人がいる。それを望んでる人もこの世にはいる。
 法がおかしいのか人の世がおかしいのかは僕には判らない。でも、それを望んで、それで幸せになる人がいるなら、その事によって不幸な人が出ないなら、少しは、少しは良いかも知れない……僕はそう思う。
 茜さんが僕の肉親かも知れないという疑惑はとうとうハッキリとはしなかった。でも茜さんは、「おばさんからおばちゃんに呼び方が変わり、たまには「おかあさん」としらばっくれて呼ぶ事もあるらしい(二人だけの時に)

 数年後、陣さんと茜さんの間に子供が出来たのを期に二人は籍を入れた。
「俺みたいなのは世帯持っちゃイケナイんだがな」と陣さんが照れていたのが印象的だった。
 生まれた子を婆ちゃんは本当に良く可愛がっていた。
 それから更に数年後、婆ちゃんが脳血栓で倒れた。その時甲斐甲斐しく介護してくれたのは茜さんだった。(僕も少しやったけどね)
 勿論費用は僕の親と叔父が出したが、現実に面倒を見るのは並大抵の事じゃ無い。更に倒れてから1年半後に婆ちゃんはこの世を去った。
 死ぬ数日前に茜さんに、涙を流しならお礼を言ったそうだ。
 その時茜さんは「産んでくれてありがとう……」と逆に婆ちゃんにお礼を言ったとか……
 きっと涙もろくなっていた婆ちゃんは泣いたのだろうか、それとも「あたしはあんたの親じゃ無いよ」と言ったのだろうか?
 茜さんは「それは秘密。あたしがお墓まで持って行くから」そう言って笑っていた。

 婆ちゃんの死後、花蓮荘は取り壊され、今ではマンションが立っている。その昔、ほんの30年前にここで色々な男女の思いが交差した事を殆んどの人は知らない。
 僕も人の親になり、過去の事は言わなくなった。たまに陣さん夫婦と会って話をするぐらいだ。
 でも、口には出せないが、僕の心には何時でもあの時の思い出が詰まっている……


 花連荘の出来事

 了


第4話 婆ちゃんの事情~えびの間

 僕の家は戦前はかなり大きな資産家だったそうだ。
この辺も今は家が建ち並んでいるが、その当時は辺り一面の田圃だったとか。
だから我が家は農家の傍ら土地を貸して生計を立てていたそうだ。
そこの一人娘として生まれたのが婆ちゃんで、その昔はなんとか小町とも呼ばれたそうだ。
10代の頃に婿を取らされ家を継がされたのだが、戦争で夫である爺ちゃんが亡くなり子供を残されて結構大変だったらしい。
戦後の農地改革であらかたの土地を手放してしまい、しかも女手で農家は出来ないと思った婆ちゃんは、この花連荘を建てて今の商売を始めたのだ。

「なんでこの商売をはじめたの」と訊いた事があるが
「日銭が入るだろう。だからさ。それに仕入れなんかも要らないしね」
以外と合理的な考えの婆ちゃんらしいと、そのときは思ったものだ。

戦後女手一人で3人の子供を育てた婆ちゃんだが、実はもう長い関係の恋人がいる。
この近くの川沿いにあるある会社の会長だ。
規模的には中企業とも言う存在で、そこの創業者で今は社長を息子さんに譲っている。
かなり早くに奥さんを病気で亡くなされて、それ以来独り身を貫いていたのだが、どういう訳か婆ちゃんと親しくなった。
婆ちゃんは今年還暦だが、会長さんは65くらいだろうか、精力的な感じの人だ。

会長さんは一月に2〜3回ほど花連荘にやって来る。婆ちゃんとの逢瀬を楽しみに来るのだ。
その日は婆ちゃんは朝から機嫌が良い。
まあ、婆ちゃんは孫の僕から見てもかなり若く見えるので、そういう年代の人からはかなり魅力的に見えるのだろうか……

「お前今度の土曜は用無いだろう? フロント代わりにやってくれないか」
そう言って婆ちゃんは僕にフロントの仕事を頼む。
アルバイト代はいつもの3倍だそうだ。
最も3千円だけどね。
その日は朝から婆ちゃんはソワソワしていて、会長さんの好きだというおつまみなんかを作っている。
チーズに板海苔を巻いたり、ガラスの器に氷を入れてそれにキューブ状のレーズンバターを乗せたりしている。
誠鮨から出前も取り寄せている。
「あの人はこれが好きだからね」と用意しているのはジョニ黒だ。
この頃は昔より大分安くはなっていたが、やはり高級ウイスキーの代表ではあった。

土曜の11時頃になると黒塗りの車が玄関に横付けされて、中から老年の紳士が降りて来た。
婆ちゃんはいそいそと、出迎えて一緒に2階に上がって行った。
僕はとりあえず、夕方まで留守番をする。

昼を少し過ぎた頃だろうか、常連さんのおじさんがやって来た。僕のいつも居る夜間はあまり来ないが、昼は結構利用してくれるおじさんだ。
この人は、いつも一人でやって来て、相手を呼ぶのだ。

ウチも商売だから、その筋の組織を幾つか知っている。
陣さんをはじめ、紹介してくれる人もかなり居るが、ウチは前にお客から「中間搾取をしているだろう」と言われて婆ちゃんは怒り、それ以来その商売の電話番号を教えるだけにしている。
「呼ぶなら勝手に呼んでちょうだい」と言うスタンスだ。
この常連のおじさんはウチに来る前に電話をして都合をつけてからやって来るのだ。

おじさんを「えびの間」に案内して下に降りて来ると間もなく、めがねを掛けた上品そうな30代の主婦らしき人がやって来た。手には買い物カゴを持っている。
とても知的な感じで、上品な人だと感じた。
買い物カゴを持っていなければ、中学の数学の教師かと思ったくらいだ。
その人がフロントで「あのう、先ほど一人で来られた方……」と言ったので僕はすぐに判り、「こちらです」と言って先ほどの「えびの間」に案内する。

このおじさんが贔屓なのは陣さんの組織がやっている所だそうだ。
おじさん曰く「品ぞろえが良い」のだそうだ。
そんな事を考えていたら、2階から誰か早足で降りて来る。
まさか婆ちゃんじゃ無いよな? と思っていると、さきほどのめがねの人だった。
フロントから見ても息が荒いのが判る。
おまけにブラウスのボタンがちゃんと掛かってないので、胸が開いていて、深い胸の谷間が覗いている。
「着やせするんだな」自然とそう思った。
その人は「はあ、はあ」と本当に息を乱して、髪もやや解れぎみで、僕の視線に気がついたのか、片手で胸元を押さえて「先に帰ります」と言って姿を消した。

その女の人が去った後には、化粧の匂いに女の匂い、それに男の精の匂いが混じった香りがしていた。
「ああまで急いで帰らなくても……」
そう僕なんかは思っていたのだが、小一時間もしたらおじさんが降りて来て精算した。
「ずいぶん急いで帰りましたね」
そう言うと、おじさんは
「いや〜急いで帰らないと、子供と旦那が家で待ってるからだろう」
とニヤニヤしながら言う
「やっぱり主婦だったのですか?」
「主婦って言うなよ人妻だよ! たまらんぜ」
そう言って帰って行った。
昼間は昼間の事情があるのだとそのときは思ったのだ。

夕方になると、会長さんと婆ちゃんが下に降りて来る。
すでに車が迎えに来ている。
ばあちゃんは「それじゃうーさん、また」
そう言って車まで会長さんを送り手を振る。
それを見ながら僕は「婆ちゃん青春してるな」と思うのだった。

それから数日後、僕は予備校の帰りに婆ちゃんに頼まれた品を買いに駅前のスーパーで買い物をしていた時だった。
僕の目の前を、見た人が通り過ぎて行く。
その人は30代の主婦でめがねを掛けていて、まるで「中学の数学の先生」を思わせる人だった。
「あのときの人だ」そう瞬間に判ったが口には出さないし、向こうも知らん顔している。
僕も知らん顔で横目で見ていると、左の手には5歳位の女の子を連れていた。
その光景は幸せそうな親子の風景そのものだった。

僕は黙ってそこを後にした。

第3話 騙される幸せ ~うめの間~

   予備校から帰って来て、一眠りして目が覚めかかっていた頃の時間。
耳に若い女の子の声が入って来た。
「いや〜嫌!変な事しないって言っていたじゃない!」
半分涙の混じって鼻水でもでているんじゃ無いかと思う様な声だった。
寝ぼけ眼でフロントに顔を出すと婆ちゃんが顎で玄関を差す。
そこには、まるで人形ケースから抜け出て来た様な格好の女の子が足をくの字に曲げて床に座り込んでいて、両の手は目に充てられている。
「だって、だって、今日は変んな所には行かないって言っていたのに……」
泣き声で鼻水をすすりながら訴えているのだが、果たして誰に言っているのだろう?
彼氏に一見言って居るように思えるが……
そこまで、起き抜けの頭で考えると婆ちゃんが徐ろに
「あんた、うちは揉め事は困るよ。第一嫌がってるじゃないか。いい男ぶるなら今日は大人しく帰った方が良いんじゃ無いかい」
婆ちゃんは火の点いた煙草を左手に持ちながら呆れた様子でその男に語り掛ける。
男は20代半場だろうか?
対するフランス人形みたいに、頭にカチューシャをして、水色のドレスを身に纏った娘は二十歳前後だろうか。
男が完全にお手上げだと云う感じながらも、あきらめ切れないのか
「だから、休むだけだよ。何にもしないからさ」
こういう所に連れ込む常套句を言っている。
果たして、これを信用する女の娘は居るのだろうか?

「嫌!そんなの嘘だもん!しんちゃん、何時も嘘ばかりだから……」
ええ!僕と同じ名なのかよ……
そう云われた”しんちゃん”は困った顔で
「いつもじゃ無いだろう……この前なんか、納得したのに部屋に入ってから急に気が変わるんだもの……俺なんかすっかりその気になっていたのにさぁ」
「兎に角、今日は嫌なの!嫌と言ったら嫌!」
床に座り込んだまま全く動こうとしない娘に男も諦めたのか
「判ったよ……じゃあ今日は帰ろう」
そう言って女の娘を立たせると婆ちゃんに侘びを言って帰って行った。

その様子を見ていた婆ちゃんは
「困った娘だよ。未だ商売から足を洗って無かったのか」
そう言って煙草を吹かした。
僕にとっては意外だった。どう見てもあの娘は本当に泣いていたし、涙も流していた。
う〜ん処女かどうかは知らないが、このような場所には本当に不慣れな感じがしたのだ。
「婆ちゃん、商売って……何?」
婆ちゃんは俺の方に向き直り、半分笑って
「あれが、あの娘の商売なんだよ。これと見込んだ男に取り入り、じらして金を引き出させるのさ」
「じゃあ、あれは演技?」
「ああ、立派な演技さ」
これは驚いた。じゃああの男は「やらずぶったくり」に合ってるのか?
そんな事が俺の顔に書いてあったのか婆ちゃんは
「まあ。手も握らせ、キスもさせて、服の上からは抱き合ったりしてるだろうよ。もしかしたらBくらいは行ってるかも知れないね」
婆ちゃんBってペッティングのことね……

「それで、金をせびって、出させて、ポイしちゃうの?」
「ああ、基本的にはな。額が多ければ1度くらいはさせるかも知れないがな」
「どれぐらい出させるんだろう?」
「わたしもハッキリとは知らないが、100万はくだらないだろうよ」
「100万!一発100万か……高いな……」
でも、関係を断つって簡単に云うけど、どうするんだろう?
婆ちゃんに訊くと、よくは知らないがと前置きをして
第一に電話番号などは基本的には教えないそうだ。その代わり自分の方から年中電話を掛けるのだそう。
小銭等を何回か借りて、それはきっちりと返すのだそう。
男が貯金や資産があると判ると段々親密さを増して行くのだそうだ。
「兎に角、自分は良い所の生まれと言う事を言って信用させるのさ。そしてカモにするんだよ」
そして上手い話をして、大金を出させて巻き上げる。
更に、金を巻き上げた後は部屋等も引越してしまう。
そこで、男は電話番号も知らなかった事に気がつくのさ。
「でも、用心深い男なら電話番号は訊くでしょう」
「その時は、取次様にある電話の留守番をする会社の番号を云うのさ。良くあるだろう電話1本で幾つもの個人の会社と契約して、電話が掛かって来て「A社ですか?」と訊かれたら「はいA社です」と答え「B社さんですか?」と訊かれれば「はいB社で御座います」と答える所」
それは聞いた事がある。事務所にテーブルと電話しか無いが、掛かって来た内容をその契約してる者に連絡する商売があると云う事を……」
世の中色々な商売があるんものだと感心をする。

それから幾日か経った日のもう日付が変わろうかという頃だった。
玄関にあの娘があの時と同じ様な格好で、今日は頭に黄色いリボンを付けていて、しかも小走りに走って現れたのだ。
「オバサン、匿ってくれる!」
そう大きな声で婆ちゃんを呼ぶ。
未だ寝ていなかった婆ちゃんは部屋から起きて来て
「どうしたんだい、いったい、顔色変えて」
そう言って煙草を吹かす。
「ああ、オバサン、大変なの、あの人に追われているの。あの人頭にきちゃったらしくて、
『今日と言う今日は絶対お前を離さない』って目がつり上がっちゃって、大変なの。だから逃げてきたんだけど」
婆ちゃんはそれを聞いて、その娘に
「お前、あの彼氏から幾ら引き出したんだい?」
最初はしらばっくれていたが婆ちゃんの貫禄に負けたのか
「うん、今回はちょと多くて300万くらい……」
「ヤリ過ぎだよ。そりゃ……」
「かなぁ〜ついね……」
そうこうしているうちに、この前の彼氏が赤い顔をして走りこんで来た
「洋子は、洋子は居ませんか?」
確かに目が釣り上がっていて、この前とは人相が違う。
娘は婆ちゃんの後ろに隠れていたが、直ぐに見つかり
「洋子、見つけたぞ!」
そう言って、手を掴んで婆ちゃんの後ろから引き出した。
「しんちゃん、御免、悪気があった訳じゃ無いのよ。ちょっと借りただけだから……」
そう言い訳をしていると
「洋子、俺は、お前の事、興信所に頼んで調べて貰ったよ。だからお前がどんな女か知ってる積りだ」
それを聞いてみるみる洋子と云われた娘の顔色が変わる
「しんちゃん……知ってたの……わたしのこと……」
「ああ、知っていたよ。知っててもお前に気に入られたくて、金を都合つけたのさ」
「なんで?どうして?……あんた馬鹿じゃない。わたしがどんな女か知っていて、お金を黙って出していたなんて……」
しんちゃんと云われた男は洋子と言う娘に向かって
「お前の事は生まれから今までのことは全部知っている。それでも俺は本気なんだ。本気でお前の事が……」

「馬鹿、 馬鹿よあんた。いくらモテ無くてもわたしみたいな女を好きになるなんて……」
ロビーに不思議な空気が流れ、"洋子”は真剣に考えていたが、心を決めたみたいで
ロビーの椅子に腰掛け、ハンドバックから煙草を取り出し、使い捨てライターで火を点けた。
口から煙を吐き出すと、
「あんた、わたしが何人の男を知ってるか分かってるの? それでもそんな事言ってるの?」
「そうだと言ったら、どうする?」
洋子と言う娘は目線を”しんちゃん”から外して、斜めの天井を見上げて
「ばか、ほんとう馬鹿なんだから……たった1度寝ただけなのに……」
「洋子、俺と一緒になってくれ。俺は本気なんだ!」
俺はもしかしたら泣き顔を見られるのを嫌って天井を見ているのだと理解した。
”洋子”は直接その返事を言わずに婆ちゃんに
「オバサン、あたし商売から足洗う事にしたよ。そろそろ潮時かも知れないし、こんな馬鹿な人もう現れないかも知れないからさ」
そう言って、”しんちゃん”の方をやや恥ずかしそうに見つめる。
「そうかい、それがいいやね。何時までもする商売じゃ無いからね」
「うん。本当に潮時だと思う……」
その晩二人は「うめの間」に泊まった。

翌朝、僕が予備校へ行く準備をしてると、2階から女の子が降りて来た。
髪はひっつめにして、地味なワンピースを着ている。
「すいません。精算してください」
そう云われたが、はてな?こんな娘は夕べ泊まらなかった。と思っていると
「「うめの間」です」と言うではないか。
僕は驚いてしまった。
全くと言って良い程別人となってしまった洋子さんは
「もう、商売しなくていいからね。普段の格好にしたの。バッグには着替えを持ち歩いていたからね」
そう言って恥ずかしそうに話している。
「お金もね、今回のは未だ手付かずだから、これで何処か部屋でも借りる事に決めたの」
嬉しそうだ。不思議だなと思っていると
「あ、でもね。貰ったお金はもう私のだから、返さないけどね。あの人の為には使うけどね」
精算してお釣りを渡そうとすると
「少ないけど。取っておいて、迷惑掛けたから」
そう言って2階へ上がって行った。

後に婆ちゃんから聞いた処、二人は結婚したそうだ。
でも婆ちゃんが困るのは夫婦喧嘩の度にどちらかが相談にやって来る事だという……

第2話 騙すということ ~いちょうの間~

 花連荘には陣さんや茜さん以外にも常連さんはいる。
さっき入っていった秋山さんもその一人だ。
最も本名は知らないから本当にあの人が秋山某かは知らないが、彼が非合法な事で報酬を得ていて、それで暮らしていたり、組に上納しているのを僕は知っている。

生まれは釜山だそうだ。
生まれて生後何ヶ月かで海峡を渡って両親と兄弟とともにやって来たそうだ。
理由は「食えなかった」から……
正式な生まれた年は知らないが、朝鮮戦争のすぐ後だか最中だったのだろう。
今は陣さんと同じ組の構成員で陣さんを「兄貴」と呼んでいる。

僕が彼を今一好きになれないのは、彼のやってる事が昔だったら女衒と言われる類のものだからだ。
いや、もっと酷いかも知れない……
女の子を何処からか連れて来て、一時は自分のものにする。
それはそのときは、もう本当にお姫様の様に扱い、とても情熱的にする。
最近似たようなのを見たと思ったら、韓流スターが醸し出す雰囲気と同じだと気が付いた。

もう女の子は夢中になり、完全に彼の虜になった頃に、水商売や特殊浴場等に売り飛ばすのだ。
韓流スターに夢中になってるだけでは大した害は無いが、この場合は違う。
もちろん、口ではかわいげのある事を言う。
「親族の借金の保証人になって、破産寸前なんだ、こんな事は言えた義理じゃ無いんだが、少し都合つかないかな?」
なんて言って騙し、貯金を下ろさせ、最後は納得ずくで売られて行くのだ。

茜さんも随分その様な娘を随分見てきたと言う。
「大抵の娘は売られてから連絡が無いので、そこで気が付くんだけどね。自分が騙されていたって……」
きっと、茜さんは、随分見てきたのだろう。
その事を言う時は何時も悲しそうな目をする。
茜さんは実はもの凄い美人で、彼女目当てで店に来る客が大勢いる。
それで、安くもないスナックが大繁盛しているのだ。
陣さんはその売り上げの何割かを組に納めている。
残りは茜さんに自由にさせているみたいだ。
「あたしなんか幸せな方でさ、あの人と出会って無かったらどうなっていたか……」
陣さんの事をあまり詳しくは語ってくれない茜さんだが、彼女が陣さんに惚れているのは確かな様だ。

朝になり8時になると婆ちゃんと交代だ。
僕は起きて来た婆ちゃんに
「秋山さんまだ居るから」
そう伝えて、予備校に行こうとすると、婆ちゃんは俺に3千円持たせて「帰りに誠寿司で上鮨を二人前折り詰めにして来てちょうだい」
そう言いつけられた。
「出前じゃ駄目なの?」
「時間があてにならないから駄目。釣りは小遣いにやるから。それに一つはお前のだからさ」
そう言われて悪くないと思う。
確か上鮨は1200円だったからだ。
僕の分を並みにすれば千円浮く事になる。一晩の賃金分だ。

大きな教室でやる気のない講師の授業を欠伸半分で聴いていると、昨夜の秋山さんの連れて来た娘が思いだされる。
昨夜の娘はなんか、うちにはそぐわない感じがした。
何というか、住む世界が違うと言うか何と言うか……
見た感じも、男を知らないんじゃないか、と僕は思ったくらいだ。
最も僕も女性を知らないけどね……

何の益も無く予備校が終わり僕は帰路につく。
婆ちゃんはあの娘を見ただろうか、何となく胸騒ぎがする。
言いつけ通りに「誠寿司」で上鮨と並鮨をそれぞれ一人前ずつ折りに入れて貰う。
「しんちゃん、片方も上にしておいたよ」
親方が笑いながらおまけをしたくれた事を言ってくれる。
僕は頭を掻きながらお礼を言って折りを受け取る。
「2千円でいいよ」
そう言われ、もう一度お礼を言って料金を払い帰りにつく。
なんか悪いな。親方が来たらおまけするかな、なんて思っていたが、親方がウチなんかに来るはずが無かったと思い笑ってしまう。

家には帰らずに、花蓮荘に寄る。婆ちゃんに頼まれた鮨折を渡すと
「親方おまけしてくれたろう」
端からお見通しだった。
僕は婆ちゃんに秋山さんの事を訊いてみた。
「昼過ぎに帰ったがな。どうかしたのかい」
僕は、胸騒ぎがした事を言ってみた。
婆ちゃんは暫く考えていたが、やがて
「それはな、恐らくあの連れていた娘がそぐわないと思っていたからだろう」
「婆ちゃんも思った?」
「うん、まあな……秋山のやつとんでも無いのを引っ掛けてしまったかもな」
「とんでも無いもの……」
「ああ、そのうち判るじゃろう。さて鮨でも食べて、お前は寝るんじゃろう?」
ああ、そうだった、僕の時間は11時〜翌日の8時までだから、夕方の今から10時過ぎ迄は寝る積りだったのだ。
婆ちゃんと鮨をつまんで、奥の仮眠室で寝かせて貰う……
久しぶりの鮨は旨かった……

目覚ましの音で目を覚ますと10時半を時計が指していた。
フロントに行くと、婆ちゃんと昨日秋山さんが連れていた娘が世間話をしていた。
どうやら、秋山さんに言われてコーラを買いに降りて来たみたいだった。
「それじゃ、失礼します」
そう言ってその娘は浴衣の前を手で合わせてから両方の手にそれぞれコーラを持って2階に上がって行った。
それを見送った婆ちゃんの顔が一転険しくなった。
「どうしたの?」
そう聞いても、黙ったままの婆ちゃんだった。

その後11時を過ぎても珍しく婆ちゃんが起きていてテレビなんぞを見ていた時だった。
2階から珍しく秋山さんが降りてきて、ロビーでタバコを吸い始めた。
「連れがタバコの臭いが駄目でね。面倒くさいが仕方ないんだ」
そう言って珍しく少し恥ずかしげにしている様は僕にとっては新鮮だった。
「この人もこんな表情を見せるんだ」
それが素直な感想だった。
何時もは僕らには冷たい事務的な顔しか見せなかったからだ。

そのタバコを吸っている秋山さんに、婆ちゃんが語り掛けた。
「あんた、あの娘は止めた方が良いよ」
いきなりそんな事を言われて、秋山さんは面食らったみたいだった。
「おばさん、俺だって何が何でも売り飛ばす訳じゃないよ」
そう言い返したが、婆ちゃんはそれを聴いて無かったのか
「さっきねえ、ちょっと話したんだけど、あの娘あんたの商売知ってたよ」
「え? 知ってた? どういう事だい。俺はそんな事今回は匂わして無いけどな」
「知っててね、あたしにこう言ったのさ」
『私がきっとあの人を救ってみせます。大丈夫です。話せばきっと分かってくれます』
「そう言ったんだよ……あんた本当に話して無いのかい」
秋山さんは少し考えてから、ポツリと
「いや、今回に限っては言ってないよ……」
「今までの娘は皆一応は知らなくてさ、あんたの芝居を心から信用してさ、時が来たら迎えに来てくれて、一緒になれるってすっかり信じていたけどねえ……」
婆ちゃんは自分もセブンスターを取り出すと、火を点けて軽くふかし、紫煙が立ち上った。

「どこで、拾ったんだい、あの娘」
ソファーに軽く腰掛けながらも婆ちゃんは秋山さんを横目で見据えている。
今までも、婆ちゃんは実は何人かの娘をこっそり逃がしているのだが、それを秋山さんは知ってても黙っているみたいだ。
きっと、自分の構築した世界から目が覚めてしまった娘はどうでも良いのかも知れない。

「先週ね、道を聞かれてさ、聴いたら俺の行く先と近かったから案内したんだ。それが始めさ」
「じゃあ、何時もの様に道ばたで張っていて良いなと思った娘に声を掛けたんじゃ無いんだ」
「そうなんだ、どっちかと言うと俺が声を掛けられた形かな」
婆ちゃんは少し考えていたが
「あんた、あの娘に落とされたんじゃ無いの?」
「え、まさか……いくらなんでも……」
「あの娘の素性は調べたの?」
「いいや、普通にそんな事はしないから。元々非合法だし」
「兎に角あの娘普通の娘じゃ無いよ」
「そうかな、だって俺が初めてだったぞ、そんな娘がなんか考えるか?」
「あんた、あれだけ女をこましていて、未だ判らないのかい。おんなは外観や初めてとかそんな事じゃ無いってね」
言われて、秋山さんは頷いていたが、その娘が迎えに来たので一緒に2階に上がって行った。
婆ちゃんは一言
「あいつ、もう逃げられないね」
そう言うと僕にフロントの番を交代して寝てしまった。

次の日、秋山さんとその娘は一緒に帰っていったが、その日を最後に秋山さんは姿を見せなかった。
暫くして、婆ちゃんが陣さんから聞いた話では

結論から言うと秋山さんは今、韓国の釜山の近郊の町で暮らしているそうだ。
もちろん、あの娘と一緒に、いや、あの娘の一族と一緒にと言った方が良いかも知れない。
彼女は韓国のそのあたりでは知らない者がいない組織の娘で、在日の韓国人の間でも知る人ぞ知るという存在だったそうだ。
つまり、秋山さんは彼女から逃げられずに自分の国に連れ戻されてしまい、周りに自分の親類がいないという環境で暮らしているそうだ。
陣さんは、その時婆ちゃんに
「こっちで育ったり生まれた韓国人が向こうへ行くと結構辛いらしいってさ。あいつも苦労しているみたいだが、それも今迄の罪滅ぼしかな」
そう言って笑っていたそうだ。
婆ちゃんが「よく、組を抜ける事が出来たね」
と聞いた処、彼女の一族が、なんでもハンパない金額を納めて、話を付けたそうだ。

暫く経って、婆ちゃんに下手くそな字で手紙が届いた。
そこには、秋山さんが元気でやってる事や、やはり辛い事がかなりあった事等が書いてあったそうだ。
でも最後に「子供が出来てうれしい」との一文が書いてあったと言う……

婆ちゃんは「初めてあいつの名前を知ったよ」
そう言って笑った。

第1話 深夜のうめき声 ~あやめの間~

   昭和50年代の中頃と言えば、どんな時代だったのだろう?
確かインベーダーゲームが流行り、マクドナルドが日本に上陸したのもこの頃だったかな。
僕の記憶ではその様な事は余り関係が無かったかも知れない。
なぜなら僕は、浪人をしていたからだ。
その年の春、僕は見事にすべり止めまで全て落ちてしまい、親に頼んで1年だけ浪人をさせて貰うことになった僕は、一応はちゃんと勉強をしていた。
だがその実、受験に失敗したのは実力を返りみず、やたら高いレベルの大学ばかり受験した結果だと気がついていたので、来年はぐっとレベルを下げれば、簡単に合格するだろう、とも思っていた。

その日僕はお婆ちゃんの経営する連れ込み旅館に母親の使いで来た処だった。
「お前、バイトしないか?」
店の自販機を開けて、コーラをちょろまかして飲んでいた僕に婆ちゃんは平然と言ってのけた。
「バイト、何の? まさかここの?」
「ああ、そうだよ。他に何処だと思った」
「何やるの? 掃除とかやだよ」
「そんな事やらせるかい。店番だよ」
「店番?ってフロントかい?」
「ああ、そうだよ、それも深夜な」
「深夜? 未成年を深夜労働させていいのかい!」
「家の手伝いだ。関係無いだろうな。お前どうせ夜は深夜放送聴いて勉強するんじゃろ?」
「だったら?」
「だったら、それを此処でやれば良いだろう。一応バイト代も出るし」
「いくらだい?」
「一晩千円……」
「安すっ! 幾らんなんでも安過ぎるだろう!」
当時、国鉄の初乗りが30円だったな?都バスが40円、駅の立ち食い蕎麦が掛けが90円で、
天ぷらに卵を載せても180円だったと思う。
喫茶店のコーヒーが150〜250円ぐらいで、タバコはセブンスターが150円だったかな、
兎に角そんな時代だった。

「判ったよ。で、受付の店番だけやればいいいの?」
僕はここでゴネても婆ちゃんは絶対に賃上げはしないと判っていたので、渋々引き受けることにした。
仕事はフロントで待機していて、お客が来たら、休憩か泊りか訊くのだけど、僕の居る時間は休憩は無いので止まりだけで、前金で勘定を貰う。
途中で出前等を取った場合いは現金と交換となっていて簡単なシステムだ。

お金を貰うと部屋に案内して終わり。
つまり、お客をひたすら待つ!と言う行為なわけだ。
客室は2階に10部屋程あり、それぞれに小さい浴室がある。
部屋はいまどきドアではなく襖で仕切られていて、当然和室なので、四畳半的な雰囲気が漂い、
布団の枕元には行灯型のスタンドが備え付けてある。
部屋の隅には四角いちゃぶ台が備え付けてあり、その上にはお茶と幾ばくかの菓子が丸いお盆の上に乗っている。
これは、宵の口に昼の掃除のパートさんがセットしておいてくれてる。
その部屋に案内して、部屋と風呂の説明をしたら、終わりでフロントに戻って来る。
大体がそんな仕事だから、最大で一晩10回働けば良いのだ。

そんな感じで超安い賃金でもまあ勉強のついでに千円貰えると思えば良いかと思い直して
僕は婆ちゃんの頼みを引き受ける事にした。
大体が幼い頃から見ていたので、常連さんとも顔なじみなのだ。

「あら、しんちゃん。バイト?おばさんから押し付けられたんでしょう」
そう言ってくれたのは、近くでスナックをやっている茜さんだ。
茜さんの彼氏の陣さんは某指定暴力団の構成員で、現役の人だ。
だが、僕らにはとても優しく、普段は「この人が?」と言う感じなのだ。
茜さんにスナックをやらせていて、売上の何割かは上納しているそうだ。
「そうなんですよ。勉強のついでだからって」
「おばさんもこの前、夜は辛いってコボしていたからさ、婆さん孝行だと思ってさ。それで何時もの所空いてる?」
前金を払って笑いながら二階に上がって行く。世話の無い人だ。

下の様子はと言うと玄関の前にフロントがあり、玄関の脇にはロビーで、応接セットがあり、一応6人は座れる様になっている。
自販機もそこに置いてある。この頃は瓶のコーラの自販機で四角いボックスで蓋を開け、お金お入れるとスライドして瓶のコーラが取り出せる様になっているのだ。
フロントの横は「家族風呂」がある。
昔は風呂は此処だけだったそうだが、保健所の指導で各部屋に浴室が儲けられたそうだ。
その奥は家族のスペースや物置となっている。
文字通り、バスタオルやらカミソリやた歯ブラシなんかが仕舞ってある。

その日は茜さんの前には中年のカップルと大学生らしい二人連れが入っただけだった。
妙に蒸し蒸しした晩で、クーラーを点けるかどうかと言う感じだった。
午前2時を廻った頃だろうか、なんだかうめき声みたいな声が2階から聞こえる。
僕も知ってるが、あの時に物凄い声を出す女性と言うのは存在するので、その時は気にしていなかった。
ひと月もやってると、女性のアノ時の声もさほど気にならなくなって来る。
最も初めは、興奮して大変だったが……
だから僕は気にせずに勉強をしていた。ラジオも丁度面白いコーナーになった頃だった。

気がつくと、茜さんがロビーでタバコを吹かしてる。
「そう言えば陣さん遅いですね」
そんな事を言ったと思うが、茜さんはそれには応えず。
「ねえ、しんちゃん。あの部屋の娘、可笑しいと思わない?」
そういきなり訊いてきたのだ。
「あの部屋の娘? って大学生の方?」
僕のつぶやきに茜さんは「そう、若そうな声だけど、なんか変よ。あそこ」
「そうかな? 確かに声はお大きいかも知れないけど……」
僕はまた聞こえ出したうめき声に耳を傾けた。
「このうめき声が、あの娘?なのかな」
「あたしはその娘見てないけど、若い娘の声よこれ」
余りうるさいと他のお客の迷惑になるから、注意しないとならないのだが、加減が難しい。
下手に注意して「いいとこだったのに」なんて言われ兼ねないからだ。
浪人生でもそのくらいは知っている。

そのうち止むと思っていたのだが、段々声は激しくなって来て、もう建物の何処に居ても聞こえる有様だった。
「うううん、あああん、おおおうん」
とまるで獣が吠えてる感じだ。
本当に人間なのだろうか?
実は、バンパイヤか狼男かなんかで、アノ時だけ真の姿になるとか……冗談だよね。
僕が密かに怯えていると、中年のカップルが降りて来て
「あのう、うるさくてこっちが集中出来ないんですけど」
とクレームを着けられてしまった。
これはフロントの仕事だ。
やれやれ、こんな事は滅多に無いはずなのに、仕事始めてひと月経つか経たぬうちに起こるとは……と思っていると、もの凄い声が聞こえて来た。
「うわあああああ〜ケイ、ケイしっかりしろ!おわあああう! いたあああああ」
階下にいた4人が顔を見合わせる。

「しんちゃん。見て来なくちゃ!」
そう茜さんに云われて僕はフロントの懐中電灯を持って2階に上がって行く。
後から3人が後を付いて来る、「あやめの間」の前にたって
「もしもし、どうしましたか?」
そう声を掛けても返事はない。
いや無いどころか、物凄く中で暴れてる感じなのだ。

この2階の部屋は、襖なのだが中からはネジ式の鍵が一応は掛かる様になっている。
まあ、襖ごと外してしまえば関係無いのだが……
僕は声を掛けても返事がないので、思い切って襖を開けて見る事にした。

手を襖に掛けて横に引くと、鍵は掛かって無く簡単に開いた。
僕は薄暗い部屋の中を懐中電灯で照らすと、なんと若い男のほうが、下になっている女性の口に手を突っ込んでいて、その手からは大量の血が流れてる。
男は歯を食いしばって我慢してるのだ。
それを見た茜さんが「変なプレイじゃないよね?」
なんて言ってる。
その下の女性を見ると、白目を剥いて、口からは泡を吹き、身体全体を激しく痙攣させていた。
「痙攣だわ。早く救急車を!」
茜さんの叫び声で僕は転げる様に階段を降りて電話に飛びつく。
震える手で119を回すと「火事ですか?救急ですか?」と云われる。
初めての事で動揺している僕は焦ってしまい上手く言えなくて
「救急車です」と言って仕舞った。
すると、電話の向こうから、落ち着いた声で、住所や名前や状態を訊いてくれたので、何とか話す事が出来た。

電話を終えると僕は急いで2階へ戻ると部屋はもう血の海で、茜さんと中年二人は男性の手を女性の口から外して、代わりにタオルを詰めようとしてるのだが上手く行かなくて、焦っている。
そんな中でも男性の方は「ケイ、ケイ、大丈夫か?」と心配している。
僕は痙攣を起こしてる女性もその口に手を入れて噛みつかれて血を流してる男性も両方心配だった。

やがて、救急車の音が聞こえてきて、僕は玄関に降りた。
車が着くと救急隊員の方が直ぐにやって来たので、場所に案内する。
僕はそのシーンを見ていなかったのだが、救急隊員の人が女性の頭を下にして顎を突き出す様にすると、手が外れたので、タオルを口に挟み込んだそうだ。
後で茜さんから聞いた。
急いで男性を階下に降りて貰い、手の応急処置をする。
僕はそこはちゃんとみていたのだ。
少し経つと発作が治まったので、担架に載せて運ばれて行った。
当然男性も連れて行かれ、いっぺんで騒ぎが収まってしまった。
気がつくと、玄関の外には野次馬が大勢いて、僕は訳を言って引き取って貰った。
奥で寝ている婆ちゃんは平気だったのかと思ったら、確か睡眠薬を飲んで寝ていた事に気がついた。あれもよし悪しだなと思う。

再び2階に上がって部屋を見てみると、シーツや枕カバーは血で真っ赤。
一部はふとんにも血がこびり付いているし、当然布団カバーも赤い。
とりあえず、かたして、ゴミの袋に血の付いてるものを入れる。
捨てるか洗濯するかは明日婆ちゃんが決めるだろう。

とりあえず片付けてフロントに戻ると茜さんが番をしてくれていた。
礼を言うと「いいよ、どうせ来ないから暇だからさ」
そう言ってタバコを吹かしてる。
僕は自販機からコーラを2本ちょろまかすと1本を茜さんに渡した。
中年のカップルは直ぐに部屋に戻ってしまったと言う。
あんなものを見た後で、よく直ぐその気になるものだ。
確か血を見ると興奮する人も居るとかいないとか……

「驚いたね。しかし……あたしも初めてだよこんなの」
「そうですか、僕なんか呆然自失ですよ」
「無理無いよね、しんちゃん童貞でしょ?」
「え、まあ、未だ知りませんが……」
「そのうち、あいつの目を盗んであたしが教えてあげるからね」
「はあ。ええ!それはヤバイですよ。陣さん怒ったら怖そうだし」

そんな事を話していたら陣さんがやって来た。
「おう、坊主どうした?しけた顔して……」
そこで茜さんが今の顛末を話して聞かせる。
「ふ〜んそりゃ災難だったな、じゃ俺からこれやるよ」
そう言って僕に5千円札を握らせた。
「陣さん、これ……」
「ああ、今日はかなり勝ったからな、おすそわけだ」
「あら、じゃあ、あたしにも服かなんか買ってよ」
「ああ、いいともお安い御用さ」
「坊主、これに懲りずに婆さん助けてやれよ」
そう言って二人は部屋に消えて行った。

僕のアルバイトの最初の出来事だった。

その後聴いた処によると、彼氏の手の怪我は治るまで結構かかったそうだ。
責任を感じた女性も彼氏を大事にして、結婚したとか。
実は女性は結構な家の令嬢でこの事で二人の事が公になって、返って良かったとも言える事件だった。

でも、痙攣を起こす程感じてしまうのだろうか……僕にとってそれが謎である。

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