第9章 「なでしこの間」
夏はあっという間に終わりり、二学期になり、いつの間にか僕は志望校を決める時期になっていた。
今年は予備校の模試でAランクの評価をとっている大学を選ぶ事にした。二度と浪人はしないつもりだった。
その日、僕は予備校の帰り、茜さんの店の前を通ると、茜さんが店の前に立って、誰かを待っているようだった。茜さんはこの前、やっと部屋を空けてアパートに帰って行ったばかりだ。尤もそれからも良く泊まりにくるのは相変わらずだ。
「しんちゃん、今帰り?」
茜さんは僕に挨拶代わりに話しかけてくれる。僕もいつもの様に
「うん、そう。茜さんはどうしたの、店は休み?」
尋ねると茜さんは困った顔をして
「そうなのよ。ビールクーラーが壊れてさ、メーカーの人に見て貰ったら部品が無いと直らないって言うからさ、明日になるんだって、それでウチの人を待ってるのだけどね」
「そうなんだ。じゃあ今日はお休みなんだね」
僕がそういうと茜さんは僕を横目で見て
「ねえ、あたしウチの人から聞いちゃったの。生みの親のことを。おばさんの親友だったんだってね。なんで今まで黙っていたのかな。その理由が聞きたくない?」
微妙なことだし、理由と言ってもそりゃあ簡単には言えないだろうとは思う。でも今になって僕に言ったということは茜さんの耳にも入ると判っていたと思うのだ。僕が思っていると茜さんは
「それでね、今日お店休みだから、おばさんに訊こうと想って。それでウチの人としんちゃんにも証人になって欲しいのお願い! 駄目かな……」
茜さんはちょっと俯いて親指の爪を軽く噛みながら僕に迫った。正直、こういうのに弱いです!
「いいよ、判った。今日は火曜で、店もたぶん暇だろうからつき合いますよ」
そう返事をすると、茜さんはうれしそうに
「ありがとう! しんちゃん。今度たっぷり可愛がってあげるからね」
なんて事言うのだろう。聞いた人が笑っているじゃないか。
「じゃ、あとでね」
そう言って僕は花連荘に帰った。
花連荘に帰りばあちゃんに言うと
「なんだって、今夜そんなことを訊きに来るって?」
「うん、そう言ってたよ茜さん」
婆ちゃんは僕からの茜さんの言葉を聞くと
「全く、陣のヤツも適当なこと言って、上手く言いくるめれば良かったんだよ。全く変なところ正直なんだから」
「でも婆ちゃん、あんな大事なこと何で今まで黙っていたの?」
「そりゃ、それが幸子との約束だからさ。自分のことは言わないでくれとね。それに真実なんてこの場合知らない方が幸せだろう。そのまま信じていれば良かったんだよ」
そうかな? と僕は思う。戸籍も何もかも実の子として育てられるのだから、余計な事は知らない方が良いと言うのも一理あると思ったが、やがて事実が判った時どうするつもりだったのだろう。それが気になった。
夕方、茜さんと陣さんが誠鮨の鮨折を手にやって来た。
「おはようございます。おばさん、お鮨買って来たから皆で食べようよ」
さすがに茜さんだ。このような時は、いきなりは言わない。
「ああ来たのかい」
とばあちゃんは、ややぶっきらぼうな言い方で二人を歓迎した。
早速、茜さんが慣れた様子で小皿や醤油、それにお茶を入れて食べられる様にする。茜さんは陣さんと婆ちゃんにビヤタンを出して奥の冷蔵庫からビールを出して二人に注ぐ。
「いただきま~す」
真っ先に茜さんが鮨を一つ口に運ぶ。
「うん! 誠鮨はいい腕してるわ」
ご機嫌で箸を進めるので僕たちもそれに続いて食べ始める。そして、やがて
「ねえ、おばさん、あたしの生みの親の事教えてくれないかな」
茜さんは意を決した感じで婆ちゃんに尋ね始めた。
婆ちゃんは暫く迷っていた様だが、やがてこれも決意した様に語り始めた。
「大体はこの前この子に話した時に陣が聞いていた通りでね。特に追加する事はないんだけどね」
「お母さんの名前はなんて言うの?」
「名前かい……高子、そう青山高子って言う子だった。父親の名は知らないよ。とうとう最後まで言わなかったからね」
「そう、青山高子って言うんだ……お墓は何処にあるの? あたしお墓参りしたい」
「遠いよ、あの子は九州だから亡くなった後は親が遺骨を持って帰ったからね……行ってみたいのかい?」
「ゆくゆくはね。今すぐではないけどね。いつか行ってみたい。それで、あの鞄はどうしたの?」
「あの鞄の生地はねえ。当時あの子は進駐軍のメイドをしていてね。そこの奥さんから貰ったそうなんだ。当時としては上質の生地だから、喜んでねえ。器用なあの子は鞄や巾着や色々なモノを作ったよ」
「そうだったんだ。やっぱりお母さんの手作りだったんだ」
それから茜さんはお茶にを一口飲んで
「ねえ、もし間違ったら御免なさい。その高子ってもしかしたら、おばさんのことじゃないの?」
そう言われた時のばあちゃんの表情は恐らく僕が見た最も印象的な表情だったろうと思う。
「バ、バカなこと言うんじゃ無いよ。何処からそんなことが飛びだすんだい。残念ながら、あたしはあんたの親じゃないよ。そうだったらどんなに良いかも知れないけれどね」
婆ちゃんがそう言っても茜さんは顔色ひとつ変えず
「おばさん、本当に違うの? あたしは今まで密かにおばさんが生みの親だったらどんなに良いかと思っていたの。おばさんこそが本当の親なのではと、何回も思ったわ。もう一度訊くけど、おばさんはあたしの生みの親じゃないの?」
茜さんの言葉は僕の心にも響いた。陣さんがこの前「同じ人間のような気がする」と言っていたが、僕もそう感じていたのだ。
「わたしだって、あんたが実の娘ならどんなに良いと何度思ったことか知れないよ」
初めて聞くばあちゃんの本心か…… そのとき、婆ちゃんの眼から一筋の涙が流れ落ち頬を伝わって落ちた。そして
「違うよ、違ううんだ。あたしはあんたの生みの親じゃないんだよ。違うんだ!」
叫ぶように苦しげに言うと婆ちゃんは、自分の部屋に引きこもってしまった。
「おばさん……」
茜さんはばあちゃんの後を追って部屋の前まで行って
「おばさん、本当はあたしのお母さんなんでしょう? あたしは事実だけを知りたいの。本当の母親を『おかあさん』と一度でいいから呼んでみたいの」
それを聞いたばあちゃんは、扉の向こうからは小さな声で
「あかね……ひとつだけ言えるのは、その名前は生みの親がつけてくれたんだよ……」
僕にはそう聞こえた。茜さんがその婆ちゃんの部屋の前で見つめていると、陣さんが
「そこまでしか真実を言えないと言うことか、辛いな」
そう言って、茜さんを抱きしめた。
この時のことは今でも、ハッキリと覚えている。良し悪しは別にしても、子供の斡旋という法に触れる事をしている人がいる。公には出来ないし、それを望んでる人もこの世にはいる。法がおかしいのか人の世がおかしいのかは僕には判らない。でも、それを望んで、それで幸せになる人がいるなら、その事によって不幸な人が出なければ、少しは良いかも知れない……僕はそう思う。
茜さんが僕の肉親かも知れないという疑惑はとうとうハッキリとはしなかったが、茜さんにとってはもっと大事なものを貰ったようだった。それからの茜さんは、
「おばさん」から「おばちゃん」に呼び方が変わり、たまには「おかあさん」としらばっくれて呼ぶ事もあるらしい。
数年後、陣さんと茜さんの間に子供が出来たのを期に二人は籍を入れた。
「俺みたいなのは世帯持っちゃイケナイんだがな」
と陣さんが照れていたのが印象的だった。生まれた女の子をばあちゃんは本当に良く孫のように可愛がっていた。
それから更に数年後、ばあちゃんが脳血栓で倒れた。その時甲斐甲斐しく介護してくれたのは茜さんだった。
勿論費用は僕の親と叔父が出したが、現実に面倒を見るのは並大抵のことでは無い。
更に倒れてから一年半後に婆ちゃんはこの世を去った。死ぬ数日前に、涙を流しながら茜さんにお礼を言ったそうだ。その時茜さんは、心の底からばあちゃんに
「お母さん、産んでくれてありがとう」
と婆ちゃんにお礼を言ったとか。きっと涙もろくなっていた婆ちゃんは泣いたのだろうか、それとも
「あたしはあんたの親じゃないよ」
とあくまでも言ったのだろうか?
茜さんに尋ねると
「それは秘密。本当のことは、あたしがお墓まで持って行くから。大事なのはあたしは、おばちゃんが大好きということ」
そう言って屈託なく笑っていた。
婆ちゃんの死後、花蓮荘は取り壊され、今ではマンションが立っている。その昔、ほんの三十年前にここで色々な男女の思いが交差したことを殆んどの人は知らない。僕も人の親になり、過去は口にしなくなった。たまに陣さん夫婦と会って話をするぐらいだ。
でも、口には出せないが、僕の心には何時でもあの時の思い出が詰まっている……僕はあの一年で色々な人と出会い、大事なことを学んだ。そのことは、今でも僕の心に残っている。
花連荘の人々 了
なでしこの花言葉……思慕、慕う気持ち
夏はあっという間に終わりり、二学期になり、いつの間にか僕は志望校を決める時期になっていた。
今年は予備校の模試でAランクの評価をとっている大学を選ぶ事にした。二度と浪人はしないつもりだった。
その日、僕は予備校の帰り、茜さんの店の前を通ると、茜さんが店の前に立って、誰かを待っているようだった。茜さんはこの前、やっと部屋を空けてアパートに帰って行ったばかりだ。尤もそれからも良く泊まりにくるのは相変わらずだ。
「しんちゃん、今帰り?」
茜さんは僕に挨拶代わりに話しかけてくれる。僕もいつもの様に
「うん、そう。茜さんはどうしたの、店は休み?」
尋ねると茜さんは困った顔をして
「そうなのよ。ビールクーラーが壊れてさ、メーカーの人に見て貰ったら部品が無いと直らないって言うからさ、明日になるんだって、それでウチの人を待ってるのだけどね」
「そうなんだ。じゃあ今日はお休みなんだね」
僕がそういうと茜さんは僕を横目で見て
「ねえ、あたしウチの人から聞いちゃったの。生みの親のことを。おばさんの親友だったんだってね。なんで今まで黙っていたのかな。その理由が聞きたくない?」
微妙なことだし、理由と言ってもそりゃあ簡単には言えないだろうとは思う。でも今になって僕に言ったということは茜さんの耳にも入ると判っていたと思うのだ。僕が思っていると茜さんは
「それでね、今日お店休みだから、おばさんに訊こうと想って。それでウチの人としんちゃんにも証人になって欲しいのお願い! 駄目かな……」
茜さんはちょっと俯いて親指の爪を軽く噛みながら僕に迫った。正直、こういうのに弱いです!
「いいよ、判った。今日は火曜で、店もたぶん暇だろうからつき合いますよ」
そう返事をすると、茜さんはうれしそうに
「ありがとう! しんちゃん。今度たっぷり可愛がってあげるからね」
なんて事言うのだろう。聞いた人が笑っているじゃないか。
「じゃ、あとでね」
そう言って僕は花連荘に帰った。
花連荘に帰りばあちゃんに言うと
「なんだって、今夜そんなことを訊きに来るって?」
「うん、そう言ってたよ茜さん」
婆ちゃんは僕からの茜さんの言葉を聞くと
「全く、陣のヤツも適当なこと言って、上手く言いくるめれば良かったんだよ。全く変なところ正直なんだから」
「でも婆ちゃん、あんな大事なこと何で今まで黙っていたの?」
「そりゃ、それが幸子との約束だからさ。自分のことは言わないでくれとね。それに真実なんてこの場合知らない方が幸せだろう。そのまま信じていれば良かったんだよ」
そうかな? と僕は思う。戸籍も何もかも実の子として育てられるのだから、余計な事は知らない方が良いと言うのも一理あると思ったが、やがて事実が判った時どうするつもりだったのだろう。それが気になった。
夕方、茜さんと陣さんが誠鮨の鮨折を手にやって来た。
「おはようございます。おばさん、お鮨買って来たから皆で食べようよ」
さすがに茜さんだ。このような時は、いきなりは言わない。
「ああ来たのかい」
とばあちゃんは、ややぶっきらぼうな言い方で二人を歓迎した。
早速、茜さんが慣れた様子で小皿や醤油、それにお茶を入れて食べられる様にする。茜さんは陣さんと婆ちゃんにビヤタンを出して奥の冷蔵庫からビールを出して二人に注ぐ。
「いただきま~す」
真っ先に茜さんが鮨を一つ口に運ぶ。
「うん! 誠鮨はいい腕してるわ」
ご機嫌で箸を進めるので僕たちもそれに続いて食べ始める。そして、やがて
「ねえ、おばさん、あたしの生みの親の事教えてくれないかな」
茜さんは意を決した感じで婆ちゃんに尋ね始めた。
婆ちゃんは暫く迷っていた様だが、やがてこれも決意した様に語り始めた。
「大体はこの前この子に話した時に陣が聞いていた通りでね。特に追加する事はないんだけどね」
「お母さんの名前はなんて言うの?」
「名前かい……高子、そう青山高子って言う子だった。父親の名は知らないよ。とうとう最後まで言わなかったからね」
「そう、青山高子って言うんだ……お墓は何処にあるの? あたしお墓参りしたい」
「遠いよ、あの子は九州だから亡くなった後は親が遺骨を持って帰ったからね……行ってみたいのかい?」
「ゆくゆくはね。今すぐではないけどね。いつか行ってみたい。それで、あの鞄はどうしたの?」
「あの鞄の生地はねえ。当時あの子は進駐軍のメイドをしていてね。そこの奥さんから貰ったそうなんだ。当時としては上質の生地だから、喜んでねえ。器用なあの子は鞄や巾着や色々なモノを作ったよ」
「そうだったんだ。やっぱりお母さんの手作りだったんだ」
それから茜さんはお茶にを一口飲んで
「ねえ、もし間違ったら御免なさい。その高子ってもしかしたら、おばさんのことじゃないの?」
そう言われた時のばあちゃんの表情は恐らく僕が見た最も印象的な表情だったろうと思う。
「バ、バカなこと言うんじゃ無いよ。何処からそんなことが飛びだすんだい。残念ながら、あたしはあんたの親じゃないよ。そうだったらどんなに良いかも知れないけれどね」
婆ちゃんがそう言っても茜さんは顔色ひとつ変えず
「おばさん、本当に違うの? あたしは今まで密かにおばさんが生みの親だったらどんなに良いかと思っていたの。おばさんこそが本当の親なのではと、何回も思ったわ。もう一度訊くけど、おばさんはあたしの生みの親じゃないの?」
茜さんの言葉は僕の心にも響いた。陣さんがこの前「同じ人間のような気がする」と言っていたが、僕もそう感じていたのだ。
「わたしだって、あんたが実の娘ならどんなに良いと何度思ったことか知れないよ」
初めて聞くばあちゃんの本心か…… そのとき、婆ちゃんの眼から一筋の涙が流れ落ち頬を伝わって落ちた。そして
「違うよ、違ううんだ。あたしはあんたの生みの親じゃないんだよ。違うんだ!」
叫ぶように苦しげに言うと婆ちゃんは、自分の部屋に引きこもってしまった。
「おばさん……」
茜さんはばあちゃんの後を追って部屋の前まで行って
「おばさん、本当はあたしのお母さんなんでしょう? あたしは事実だけを知りたいの。本当の母親を『おかあさん』と一度でいいから呼んでみたいの」
それを聞いたばあちゃんは、扉の向こうからは小さな声で
「あかね……ひとつだけ言えるのは、その名前は生みの親がつけてくれたんだよ……」
僕にはそう聞こえた。茜さんがその婆ちゃんの部屋の前で見つめていると、陣さんが
「そこまでしか真実を言えないと言うことか、辛いな」
そう言って、茜さんを抱きしめた。
この時のことは今でも、ハッキリと覚えている。良し悪しは別にしても、子供の斡旋という法に触れる事をしている人がいる。公には出来ないし、それを望んでる人もこの世にはいる。法がおかしいのか人の世がおかしいのかは僕には判らない。でも、それを望んで、それで幸せになる人がいるなら、その事によって不幸な人が出なければ、少しは良いかも知れない……僕はそう思う。
茜さんが僕の肉親かも知れないという疑惑はとうとうハッキリとはしなかったが、茜さんにとってはもっと大事なものを貰ったようだった。それからの茜さんは、
「おばさん」から「おばちゃん」に呼び方が変わり、たまには「おかあさん」としらばっくれて呼ぶ事もあるらしい。
数年後、陣さんと茜さんの間に子供が出来たのを期に二人は籍を入れた。
「俺みたいなのは世帯持っちゃイケナイんだがな」
と陣さんが照れていたのが印象的だった。生まれた女の子をばあちゃんは本当に良く孫のように可愛がっていた。
それから更に数年後、ばあちゃんが脳血栓で倒れた。その時甲斐甲斐しく介護してくれたのは茜さんだった。
勿論費用は僕の親と叔父が出したが、現実に面倒を見るのは並大抵のことでは無い。
更に倒れてから一年半後に婆ちゃんはこの世を去った。死ぬ数日前に、涙を流しながら茜さんにお礼を言ったそうだ。その時茜さんは、心の底からばあちゃんに
「お母さん、産んでくれてありがとう」
と婆ちゃんにお礼を言ったとか。きっと涙もろくなっていた婆ちゃんは泣いたのだろうか、それとも
「あたしはあんたの親じゃないよ」
とあくまでも言ったのだろうか?
茜さんに尋ねると
「それは秘密。本当のことは、あたしがお墓まで持って行くから。大事なのはあたしは、おばちゃんが大好きということ」
そう言って屈託なく笑っていた。
婆ちゃんの死後、花蓮荘は取り壊され、今ではマンションが立っている。その昔、ほんの三十年前にここで色々な男女の思いが交差したことを殆んどの人は知らない。僕も人の親になり、過去は口にしなくなった。たまに陣さん夫婦と会って話をするぐらいだ。
でも、口には出せないが、僕の心には何時でもあの時の思い出が詰まっている……僕はあの一年で色々な人と出会い、大事なことを学んだ。そのことは、今でも僕の心に残っている。
花連荘の人々 了
なでしこの花言葉……思慕、慕う気持ち