自作小説

氷菓二次創作 「17歳の夏 神山にて 4」

  八月も末になると神山には秋の気配が近づいて来た事が伺えるようになる。特に、朝晩はめっきり涼しくなって来ていた。
 月の初め頃は午前四時には明るかったのが今や六時前にならにと明るくはならない。これが来月になるともっと遅くなる。
 どっちかと言うと俺は余り昼が長いのは性に合わないと自分では思っている。伊原あたりが聞いたなら薄笑いを浮かべるのではないか。
 その日は千反田と逢う約束になっていた。何回か行った図書館での勉強の延長で、大日向の事を口に出すつもりだった。
 その大日向だが、先日里志のセッテイングで逢ったのだ。里志が二人が逢う場所として指定したのは、何と神山高校の地学講義室だった。何の事はない、古典部の部室だった。
「何だって、よりによって古典部の部室なんだ?」
「ああ、だってその方が判りやすいし、それに夏休みの部室なんて秘密の話をするのには好都合じゃないか」
 全く、里志の考えそうな事だと思った。
 当日、職員室で鍵を借りて特別棟の四階まで登って行くと、何時かみたいに部室の入り口の桟に両手を伸ばした状態で人が下がっていた。大日向だった。
「よう、暫く振りだな」
 いきなり声を掛けた訳ではないが、大日向は驚いて両手を放して勢い良く廊下に着地した。
「驚いた!」
「何でだ。この時間に俺がここに来るのは知っていただろう」
「そうですけど折木先輩の登場の仕方が予想と違っていたので」
 いったいこつはどんな登場の仕方を想像していたのだ。
「いつぞやは、本当にありがとうございました」
 大日向は両手を揃えて頭を下げた。
「いや、別に気にしなくても良い。礼を言われる程の事はしていない」
「でも、あのままだったら、わたしは未だに……」
「それは結果論だ。違う展開もあったかも知れん。それより鍵を借りて来た。中に入ろう。里志が言うには夏休みの古典部の部室は秘密の相談をするには持って来いだそうだからな」
「何ですか、それ」
「里志一流のジョークだ」
 鍵を開けて中に入る。ここ数日誰も入っていなかったのか、部屋からお日様の匂いがした。
「ああ、いい匂い……わたし、このお日様の匂い、好きなんです」
 確かに大日向には似合っていると俺も思った。
「適当に座ってくれ」
 そう言うと大日向はかって自分が良く座っていた席に着座した。俺は何時もの席に座る。
「千反田に謝りたいなら直接行けば良いじゃないか。知らぬ仲では無いのだから」
 いきなり本題に入る
「最初はそう思っていたのですが、あの噂を耳にしてしまって……」
 あの噂か……こいつはどんな噂を聞いたのだろうか?
「その噂とやらを俺にも教えてくれ」
「え、知らないんですか?」
「知ってはいるが、正確では無い。誰も俺に噂をする奴はいないからな」
「それもそうですね。何せ噂の張本人の片割れですからね」
「片割れ? 何だそりゃ」
 俺の不思議そうな顔を見て大日向は自分が耳にした噂を語り出した。しかも嬉しそうに。
「合唱祭で、独唱をするはずだった千反田先輩はその重圧に耐えられなく、逃げ出して行方不明になった。皆が大騒ぎをしていたが、折木先輩が『自分には心当たりがあるから迎えに行って来ます』と言って千反田先輩の逃避行先を見つけ出し、連れて来たという訳です。だから折木先輩は白馬に乗った王子様という事ですね」
「いや、それは違うぞ。もしかして、続きもあるのか?」
「はい、そんな大事を引き起こしてしまった千反田先輩は千反田家の跡取りとして相応しくないと言われ始めたという事です」
 やれやれ、全く事実とは違っていた。噂なんて案外そんなものだとは思うが……。
「事実は逆だ。最初に千反田が『家を継がくても良い。自分の好きな道に進みなさい』と言われたのだ。だが千反田にとってはそれは青天の霹靂とも言う事で、戸惑ってしまった。今まで家を継いで農業に身を捧げる覚悟をしていただけに。いきなりそんな事を言われて戸惑ってしまっていたのだ。そこに合唱祭での独唱をすることになったそうだ。そして、その独唱の部分が自由へのあこがれをストレートに歌う歌詞だった。あの時の千反田の精神状態では歌えない歌詞だったのだ。これが真実だ」
 俺は事実を簡単に大日向に伝えた。
「事実は噂より奇なりですね」
「それは事実は小説よりも奇なり。だろう」
「いいじゃ無いですか。でも、それじゃ本当に辛かったのでしょうね」
「それで千反田に謝りたいのか?」
「はい、あの時、自分の妄想で勝手に酷い事を言ってしまって、やはりきちんと謝らないといけないと思いました。でも今度の噂を聞くと、千反田先輩は、わたしと逢ってくれるような余裕は無いのではと考えたのです。あの時、折木先輩が言ってくれたから今の自分がある。あの時の事はわたしの中では未だ終わっていないんです。だから折木先輩にもう一度だけ助けて貰おうと思いました」
 そうなのだ。あの時の事は大日向の中では決着してはいない。
「わたしは一度、折木先輩に救われています。だからもう一度だけお願い出来ないかと思ったのです」
 大日向はもう一度同じことを口にした。
 まさか、あの時は千反田を救うのが先決で、結果的に大日向の誤解は解いたかも知れないが、傷つけてしまった。それは俺のせいでは無かったかも知れないが……いや、今回の千反田の事と言い、前の大日向の事も結果的には俺のせいかも知れなかった。
 二人は俺がいなかったら……何事も無いように暮らしていたのでは無いか……。そんな想いが頭を過ぎる。
「判った。千反田に話をしてみよう。それで、どうして連絡する?」
「携帯の番号を交換しましょう」
「生憎、俺は携帯を持っていないんだ」
「ええ! 今時の高校生が携帯も持っていないのですか? そう言えば、千反田先輩も持っていなかったのですよね?」
「ああ」
「お似合いのカップルなんですね」
 この時の大日向は俺が見た大日向の表情で一番嬉しそうな顔をした。
「あの頃、二人を見ているのが幸せでした。仲の良い先輩達は本当にお似合いですよ」
 その日、大日向とお互いの家の電話番号を教えて別れた。

 待ち合わせの場所に千反田は先に来ていた。オフホワイトの半袖のワンピースに薄緑の夏物のカーディガンを羽織っていた。
「早いな」
「商店街に用事があったので少し早めに家を出たのです」
 自転車の前の籠には青いバッグが置かれていた。
「カーディガンなんか着て暑くないのか?」
 似合ってはいたが、今日の陽気では暑かろうと思った。
「図書館では冷房が利いていますから」
 なるほど、そう言えばそうだったと思い出した。
「行きましょうか。遅くなると場所が無くなりますから」
 図書館では調べ物や勉強等で自習室を使う者は以外と多く、土日等では早々に満員になってしまう事も良くある。
「そうだな、場所を確保するのが大事だな」
 俺も自転車を押して歩き出す。乗って併走してしまえば訳の無い距離なのだが、わざわざ乗ってきた自転車を押すには理由があった。
「家の状況は変わらずか?」
 俺の不躾な質問に千反田は
「そうですね。それは変わりませんね。ただ、わたしが跡取りの立場から外されたと言う事は親戚には広まってしまったみたいです」
「あの噂のせいか」
「そうですね。それと父がさりげなく親戚の集まりで『えるには好きな道を歩ませようと思っています』と語っている為でもあります」
 親父さんの鉄吾さんは外堀から埋め始めたと言う事かと思った。
「お前の気持ちはどうだ」
 今、千反田にこの事を尋ねるのは酷かも知れない。でも立ち直りが早ければ、それは千反田にとって悪い結果にはならないだろう。
「そうですね。新しい道と言っても、未だ決められません。とりあえずは家を継がなくても農業の道に進むのも悪くはないと思い始めています。生まれてからそれ以外に考えた事がありませんですから」
「そうか、俺は助言してやれないが、自分が納得するまで考えた方が良い」
「そうですね。でも時間的にそれほど、ゆっくりとは、していられませんけどね」
 そうなのだ。俺たちはもう高校二年生なのだ。三年間の高校生活のうち折り返し点を過ぎてしまっているのだ。
 図書館の入り口の門が見えて来た。中に入って自習室に入ってしまったら、やたらに私語は話せない。
「あのな、大日向がお前に謝りたいそうなんだ。実はそれで仲介を頼まれた」
 曇っていた空が晴れて来ていて太陽が顔を覗かせていた。今日は少し暑くなるかも知れなかった。午前の陽が千反田の顔を照らしている。
「そうですか。でもわたし、大日向さんに酷いことを言ってしまったから、わざわざ謝って貰う事は無いと思うのですけど……」
 相変わらず千反田は自分が悪いと思っている。
「それは違う。俺はあの後、大日向と話して誤解を解いた。そのことについては大日向が勝手に思い込んでいた事だ。お前に非はない」
「そうでしょうけれども、実際にはわたしの行動や物の言い方が誤解を生んだのだと思うのです。その点はわたしも謝らなくてはなりません」
「じゃあ、逢うのは構わないのだな」
「はい。逢ってわだかまりが無くなれば良いと思います。折木さんもう一度ご足労願います」
「乗りかかった船でもあるしな。そうと決まれば何処で逢おうか」
「古典部の部室でどうでしょうか? そして大日向さんがもう一度入部してくれれば嬉しいです」
 こうして千反田と大日向はもう一度逢う事になった。

  その日。俺は二人を古典部の部室、地学講義室まで案内をした。俺の見た所二人とも少し緊張していた感じだった。無理も無いだろう。二人が中に入ると俺自身は部室から椅子ごと廊下に出て座り、文庫本を読んでいた。部室の中で二人がどんな会話をしたのかは具体的には判らないが、大凡なら想像出来る。
 偶然廊下に出た天文部の部員が不思議そうな顔で俺の事を見ていたのが印象的だった。
 どのぐらいだったろうか、それほど長い時間ではなかった気もするが、結構な時間だった気もする。二人揃って部室から出て来た。
 千反田の手には一枚の紙が握られていた。それには「入部届」と書かれてあった。
「折木さん。大日向さんが正式に入部してくれました」
「折木先輩、よろしくお願いします」
 大日向が軽く頭を下げた。
「ようこそ古典部へ」
 部長の千反田はさぞや嬉しいだろうと想像した。そして俺は千反田の表情に笑顔が戻ったのが嬉しかった。

          
                                                                 <了>

氷菓二次創作 「17歳の夏 神山にて 3」

  最近の神山は本当に観光客が多くなった。前から多かったが、以前との違いは外国人が多くなった事だ。今や日本人との比率が変わらなくなって来ていて、その影響なのだろうが、外国資本のカフェチェーン等の進出が目立つ。しかも、その数は増している。神山駅の向こう側にはいち早く登場したし、それ以外の店もあちこちに進出している。それらが皆撤退しないのはそれだけ利用者が多いからだろう。一度だけ里志に誘われて行ったが、味そのものが俺の好みでは無かった。それに高校生の乏しい小遣いでは、頻繁に通うには出費が多すぎる。だから俺は相変わらず、行き慣れた店に通っている。
 八月も後半に入っていて、朝晩は秋の気配も感じられるようになっていた。俺と千反田はあれから数回逢っていて、それは図書館で勉強したり、文集「氷菓」の打ち合わせの時もあった。

 その日、姉貴は小旅行に出かけていてその日は帰って来なかったし、親父は例によって出張で家には俺一人だった。よくある事なので、夕食は簡単に済ませてしまおうと冷蔵庫を漁っていたら電話が鳴った。
「もしもし、折木ですが」
「ああ、ホータロー?」
 電話の主は里志だった。
「どうした伊原に何かあったのか?」
 こいつがこんな時刻に電話をして来るのは珍しい。普段は夕食後に掛かって来る事が多いから、誰かに何かあったのかと考えた。千反田に関してはこいつより俺の方が色々な情報を持っていたから千反田の事では無いと判断した。里志本人からの電話なので、古典部残りの一人伊原の事かと考えたのだ。
「いや、摩耶花は元気だよ。今は文集と文化祭で売る同人誌に夢中で取り掛かっているけどね。今の所、僕は相談事は聞いていない。そうじゃなくて、ホータローの意見が聴きたいんと言うより頼み事かな。今夜逢えないかな?」
 夜に里志と逢うのは、六月に生ぬるい風にあたられながらも一緒に歩いて以来だった。あの時は思いがけなく旨いラーメンを食べた。実はあれから又行ってみたいとは思っていた。
「急ぐのか?」
「まあ、急ぐ問題では無いけど、自分の身内が少し関わってる事だから」
 里志の身内と言えば妹以外には思いつかなかった。
「妹のことなのか?」
 里志の妹に関しては兄の里志以上に傍若無人な性格で、俺には変人に近い感じがしている。彼女に関する事だったら御免だった。
「いいや、そうじゃない。違う人物の事さ。ホータローも知ってる人物さ」
 俺が知ってる人物で里志の妹に近い者……ある名前が浮かんだ。
「もしかして大日向の事か?」
 大日向友子……春に仮入部したが、色々有り今は退部している。というより正式には入部しなかった。
「さすがだねホータロー。僕が妹の事を口にしただけで、大日向さんの名前が出て来るとはね」
 大日向に関する事ならば電話では済ませられない。
「実は夕飯が未だなんだ」
「ああ、なら終わってからでも良いけど」
「生憎、今夜は俺一人なんだ」
「そうか、それで?」
「出掛けついでにあのラーメン屋にでも行かないか? そうすればそれを夕飯代わりに出来る。それに……」
「それに?」
「今度は俺も餃子を食べてみたいしな」
 六月の時は里志は夕食前だったので、ラーメンの他に餃子を頼んだのだった。だが里志曰く
「僕はあの時ワンタンメンとライスを頼んだよ」
 そうだったか。でも餃子も食べてみたかったのだ。
「そう言う事ならオーケーだよ。じゃあ今から出ようか?」
「ああ、じゃあまた赤橋で待ち合わせよう」
「じゃ」
 里志はそう言って電話を切った。
 財布の中身を確認すると千円札が数枚入っていた。これなら俺の分はもとより、イザと言う時は里志の分も出してやれそうだった。一旦玄関を出て表の空気に触れたが、思ったより風が涼しいので、家の中に戻りTシャツの上にシャツを羽織って表に出た。
 この時期の神山は暮れるのが早くなっていて、既に住宅街には夜の帳が降りていた。僅かに西の空が山の際が赤く見える程度だった。やはり風が思ったより冷たかった。これなら熱いラーメンも汗を掻かずに食べられそうだった。

 待ち合わせの場所に来ると里志は既に来ていた
「おばんです。急に悪かったね」
「いいや、むしろ良かったかも知れない。もう少し遅かったら何か作っていた」
「そうか、いつだったかは確か焼きそばだったけ?」
 六月の夜に逢った時、俺は夕食に焼きそばを作って食べようとしていた時だった。僅かな電話の時間だったが、焼きそばの表面は冷めていた。
「この前のラーメン屋で良い?」
「ああ、そのつもりで来たんだ」
 俺の頭の中はラーメンと餃子で埋まっていた。他に何も入る余地はない。赤橋を渡って川沿いの小径を上って行く途中で曲がり住宅街に入る。
「それで、俺に聴いて欲しいという事は何だ」
 さっきから黙って歩いている里志に誘い水を向けると。
「秋に新学期が始まると総務委員会でも来年度に向けて動きがあってね」
 俺は学校の行事ぐらいは知ってるが生徒会や総務委員会の事には疎かった。
「来年度の人事か何かか?」
「うん、総務委員会は基本的には三年生も委員になっているんだ。殆ど参加はしないけどね」
「三年は受験があるからな」
「たまに進学しない三年生は参加してくれるけどね。それで来年度の委員長と副委員長を予め決めておくんだ。僕が二年生になって副委員長に選ばれたのも一年の時に決まっていたんだ」
「そうか、そんな仕組みになっていたとは知らなかった」
「言っていなかったと思うけど、実は妹が総務委員なんだ」
 それは知らなかった。あんな変人で務まるのかと考えた。
「それで、その妹が副委員長の候補の一人に推薦されそうなんだ」
「兄弟で副委員長となる訳か、それはそれで凄いな。で、それが問題なのか?」
「いいや、それは問題では無いんだ。総務委員会の役員は、まず自薦他薦の推薦があって話し合いで決められるが、決まらない時は委員全員の投票で決められるんだ。尤もここ数年投票は行われていないそうだけどね」
「それで?」
「うん、総務委員と言えば各部活動とも密接な関係がある訳だけれども、僕の妹が総務委員になったので、友達で同じクラスの大日向さんが妹に頼んで来たんだよ」
 道は別れていて右の方に行けば俺たちが卒業した鏑矢中学に向かう。別な方を進めばやがて小さな商店街に出る。
「こっちに行こうか。その方がラーメン屋に近い」
 里志の言う方に進む。もう少し行けばあの赤い提灯が見えて来るはずだった。
「その頼み事とは?」
「千反田さんに、ちゃんと謝りたいそうなんだ。実は最初は自分だけで行こうと考えていたそうなんだが、千反田さんのあの噂を耳にして、迷ってしまったと言う事なんだ」
 里志は問題の核心を一気に口に出した。あの噂がまさか大日向の行動まで制限をさせているとは考えもしなかった。それと大日向が案外世間体を気にするタイプだった事が意外だった。
「それで俺に千反田に口を利いて欲しいと言う事か」
「まあ、そんな訳なんだよね」
 もう赤い提灯が見えて来ても良い頃だった。
「あれ、暗いな……まさか休み?」
 かって二人で食べた店の前に立っていた。店のシャッターは降りて提灯もしまわれていた。店の表に張り紙が貼ってあった。
「〇〇日~〇〇日まで休業致します。 店主敬白」
 なんてこった。結構楽しみにしていたのに完全にはぐらかされた気持だった
「どうする?」
「代りの店を見つけるしか無さそうだね。とりあえず商店街の方に出て見ようよ」
 里志は代りの店のあてがあるのだろうか、先に立って歩いて行く。その背中に
「俺から千反田に言うのは全く構わないが、千反田は大日向が古典部に復帰してくれたら喜ぶと思うぞ」
 後ろ姿に声を掛けると
「そうなれば僕としても嬉しいね。勿論摩耶花も喜ぶと思うよ」
 それにしても、こんな問題に間に三人も立っているとは……そんな事を考えると今回の噂は色々な所で、長引きそうだった。あの事件はそれほど暗い影を落としていると言う事だと納得した。
  
 暗い夜道から明かりの灯っている道に出た。商店街はさほど大きくはなく小さな店が並んでいた。その一角から「ドスン、バタン」と音がする。何の音だろうかと近寄って見ると、何と中華料理屋だった。いや正確には中華料理屋だが麺類専門の店らしかった。大きな音がしていたのは、麺を手で捏ねていた音だった。
 店の前が少し出窓風になっていて、表から麺を打っている様子を見る事が出来る。捏ねた小麦の塊を今度は両手で左右に引っ張って伸ばして行く。両手一杯まで左右に伸ばすと今度は持ち替えて更に伸ばして行く。これを数回繰り返すとたちまち細い麺になった。包丁で左右の部分を切り離すと、グラグラ煮え立っている大鍋に麺を放り込んだ。
 脇ではラーメンどんぶりにスープが張られている。そこに煮えた麺を網で掬い水気を切ると滑るように潜り込ませた。急いでチャーシューやメンマ等の具材を乗せて行く
「お待ちどう様」
 カウンターに出来たてのラーメンが置かれた。客がそれを受け取って箸で摘んで口に運ぶ
「旨い!麺とスープが違うからね!」
 サラリーマン風の男がそう言って顔を崩した。
「ここにしない」
 出窓に顔を着けそうにして見ていた里志がそう言ったが、俺も同じ事を考えていた。
「そうだな。でもここにこんな手打の店があったなんてな」
 自動ドアを開けて暖簾を潜って店内に入った。椅子席に座り、メニューを見て『チャーシュー麺』を頼んだ。
 数分後、大盛りの様な麺がすっかり隠れるほどチャーシューが乗った丼が二人の前に置かれた。スープに口を付ける。さっぱりしてるが濃厚とも言えるコクのあるスープだった。醤油味だが透き通っている。
 やや太めの麺を口に入れるとぷりぷりで、それでいて腰があるのに滑らかな歯ごたえが何とも言えなかった。
 夢中で食べていると里志が
「来なくてはならない店がまた増えたね。それと大日向さんと千反田さんの事は宜しく頼むよ」
 そう言って笑ったのが印象的だった。
 秋にはひと仕事しなければならないと覚悟したのだった。

氷菓二次創作 「17歳の夏 神山にて 2」

  それは高校二年の八月の事だった。 昼下がりの太陽が遠慮なく照りけていて、就活中の姉貴が珍しく俺の部屋にやって来た。
「あんた、千反田家のお嬢様と付き合ってるの?」
 いきなり、そんな事を尋ね来た。
「何だよ、いきなり。付き合ってはいないけど、親しくはしている」
 確かに恋人とは呼べない段階だ。しかし只の友達以上とも言える微妙な段階でもあると思う。
「何かあったのか?」
 俺の質問に姉貴はやけに真剣な表情をして
「就職活動していてね。千反田家のお嬢さん。確か、えるちゃんと言ったっけ。彼女の噂を耳にしたのよ」
 就活中にそんな噂を聞くなんて、何処に行っているのやら
「あたしね。百日紅書店に勤めたいと思っているのよ。洋書を手がけてみたいの。それで、会社説明会に出ていたら、ほら、旧家好きというか、そんな連中が居てね。妙な噂をしていたのよ」
「何だ、姉貴は卒業したらここに住むのか? 都会に出るのじゃ無いのか?」
「バカねあんた。あんたが大学に行ったらこの家はどうなるの? お父さんの面倒は誰が見るの?」
 そうか、俺が卒業して大学に進学するのと姉貴が大学を卒業して就職するのは同じ年だった。
「あたしがこの家に居ればあんただって気兼ねなく出て行けるでしょう」
 確かにその通りだと改めて思った。
「それで、変な噂とは?」
 今は、それが気に掛かる。
「あのね。あくまで無責任な噂だからね。いい?」
「判った」
 俺の返事を待って姉貴はその噂を語りだした。
「七月の二十日だったかしら、市民ホールで音楽コンクールが開催されたでしょう? 確か江嶋椙堂を記念した『江嶋合唱祭』だったかしら?」
 博学の姉貴だが、さすがに自分が居ない神山での催しまでは知らない。
「ああ、たしかにあった。それが関係してるのか?」
「うん。それに千反田家のえるちゃんが出る事になっていて、しかも独唱をする事になっていたとか」
 確かにその通りだった。
「でも、事情があって彼女は独唱しなかった。言わば外された格好になったのね」
「それは確かに事実だが、それには色々と訳がある」
「勿論、そうでしょう。でもね噂ではね、独唱の重圧に耐えられなかったからだと言われているわ。そして、そんな事も出来ないえるちゃんは千反田家の跡取りとして相応しく無いとか……そんな事を話してる連中が居たのよ」
 確かに事実関係だけを見れば、それで当たっているのだろうが、事実は全く違う。そこで俺は姉貴に俺が知る事実を語った。
「確かにね、そんな訳があったとは思ったわ。誰だって、そんないきなり梯子を外された状態で『さあ歌いなさい』と言われたって、歌えるものでは無いわね」
 俺が知る部分は、恐らく千反田を取り巻いている状況の一部分しか知らないのだろうとは思う。
「でもね」
 姉貴は一呼吸置くと
「結果として、えるちゃんに今迄掛かっていた重石が取れた事だけは事実よ。今は急激な環境の変化に心を含めて自分自身や周りも追いついていないのだと思うわ」
 それは恐らくその通りだろう。俺にとっては周りの人間なぞどうでも良い。千反田の事だけが心配なのだと改めて思う。考えれば俺は何時からこうなってしまったのだろうか。ふとそんな事を考えた。
「親としてみれば、良かれと考えての事なんでしょうね。得てして子供の心親不知なんて事もあるからね。あんた、その分じゃ大分首を突っ込んでいるのでしょう。上手くやりなさいなんて言わないけど、二人にとって悔いの残らないようにやりなさいよ」
 姉貴はそれだけを言い残すと俺の部屋から出て行った。残された部屋で一人考える。何より今は千反田の事が心配だ。今はそれだけだった。

 八月の某日。文化祭で販売する文集「氷菓」の編集会議が古典部の部室で開かれた。
「やあ、ホータロー。暫く振りだね。千反田さんは未だなんだ」
 里志が部室に入って来るなり口を開く。続いて入って来た伊原も
「何だ、折木だけなの? てっきりちーちゃんと一緒だと思っていたわ」
 今日は千反田とは特別連絡を取っていなかった。それに時間までには未だ間があった。
「そのうち来るだろう」
 俺の返事を聞いて里志が
「実は千反田さんがらみで良くない噂を耳にしたんだ」
 そう小声で言いながら近づいて来た。伊原は当日その場に居たので、事の顛末を知っている。恐らく里志は伊原から事情を聞いた上で、その噂の事を俺に言う積りなのだろう。
「千反田の跡取りの事か?」
「知っていたのかい?」
「ああ、そう言う類の噂は伝わって来るものだからな」
「合唱祭と千反田家の事は全く関係が無いのにね。あんなに衰弱したちーちゃん見たのは初めてだったわ」
 あの日、会場にたどり着いた千反田は確かに何時もの千反田ではなかった。その状態を見た者が噂に下駄を履かせたのだろう。当たらずとも、遠からずだが……。
「兎に角、一番身近に居る者として、今は千反田が普段通りに戻る事が大事だと考えている。だから今日も強制的に来るような事は言わなかったんだ」
「そうだろうと思ったよ。それで千反田さんの状態はどうなのさ」
 里志も心配しているのだろう。それは伊原の状態を見れば良く判る。その時
「遅くなりました」
 千反田が息を切らせて入って来た。
「よう」
 そう言って片手をひらひらさせた。いつも通りの挨拶だった。
「それじゃ始めて下さい」
 千反田が席に座って声を掛けた。そして編集会議が始まった。

「それじゃ、この通りに進める事にするわね」
 伊原が色々書き込んだ資料を持って里志と一緒に部室から出て行った。千反田は少なくとも表面的には以前の状態に戻っていた。部屋に残されたのは俺と千反田の二人だけとなった。
「どうする。帰るか?」
 千反田が何か話が無ければこのまま帰る事になる。
「少し、散歩でもしませんか。実は聴いて貰いたい事もあるのです」
 千反田のその言葉で、宮川沿いを歩く事にした。
「噂お聞きになりました?」
 暫く歩いて、鍛冶橋のあたりで千反田が、そのことに関して口を開いた。
「まあな。でも気にするな。人の噂も七十五日とか言うから」
「正直言って、全く関係ない事柄を結び付けられるのは余り気分の良いものではありません。でも、確かに合唱祭では取り返しのつかない失態を演じてしまいました。折木さんを始め皆さんから軽蔑されても仕方ない事をしたのです」
「そうじゃない! 少なくとも俺はそんな事を思ってはいない。それに、あれは仕方ないだろう。後で、横手さんにも事情を言ったら、驚いていたよ」
「伯母にも迷惑をかけてしまいました」
 実は俺にも後悔する事はある。あの日、千反田の事を推測していたのに、ギリギリになるまで行動を起こさなかった事だ。恐らくもう少し早く……一本早く迎えに行っていたら、千反田は余裕を持って歌う事が出来たかも知れない。その覚悟が出来たかも知れなかったのだ。それなら、こんな噂は出なかっただろう。合唱祭と千反田の跡取りの事は他人には全く関係が無く、千反田本人の問題でしか無かったはずだった。その事を千反田に謝る。
「そんな……今回の事はわたしの問題でした。わたしが子供だったのです。それだけなのです。その為に皆さんにご迷惑をかけてしまいました。それが申し訳無いのです」
「違う! それだけは違うぞ。誰だって、あんな手のひらを返す様な事を実の親から言われて平常心でいろと言う方がおかしい。少なくとも俺はそう思う」
 嘘偽りの無い俺の本心だった。
「折木さん……ありがとうございます! 嬉しいです。一番心を許せる人がそう言ってくれて、とても嬉しいです。その言葉だけでこれから強く生きて行けます」
 宮川沿いの土手で、俺の隣に並んで座っていた千反田は、俺の腕を取ってそっと持たれ掛かった。
「暫く、こうさせて下さい。こうして折木さんに触れていると安心するんです」
 俺も千反田の手をそっと握る。もうこの手を放してはならないと心に誓うのだった。

氷菓二次創作 「17歳の夏 神山にて 1」

  今年は蝉が鳴き出すのが早い。七月の終わり頃から鳴き出している。夏の風物詩とは言え、蝉もこの暑いのに大変だとは思う。
 夏休みに入った日。俺はあることに関わって、雨が降る中を千反田をバスに乗って探しに行った。いや、正確には迎えに行ったという事かも知れない。
 あれから、色々な事があった。正直に言うと、あれは千反田の個人的な問題であって、俺の問題ではない。しかし、恐らく千反田の胸の内を少しでも理解出来るのは千反田の周りでは恐らく俺だけだろうと言う自負も少しはあった。
 コンクールの出番には何とか間に合ったが、あの状態で千反田がきちんと歌える訳がなく、段林さんは千反田が歌うはずだった独唱の部分を別な者に交代させた。それが良かったのか悪かったのかは、色々な見方が出来るだろうが、少なくとも千反田の胸の内を考えれば悪くは無かったのだと思う。コンクールの結果は散々だったが……。

 あれから一度だけ千反田と逢った。いや正確には千反田一家と逢ったと言い換えた方が良いだろう。千反田の両親が俺に「お礼をしたい」と言って来たので、市内の喫茶店で千反田を含めて一度逢ったのだ。それについては別な所で述べる事もあるだろう。今回の話の趣旨からは外れた事だ。
 夏休みという事で姉貴が家に帰って来ている。本人は三年ということで就職活動が忙しいらしい。そこで俺にアルバイトのお鉢が回って来た。
「あんた、昨年市民プールの監視員のアルバイトやったでしょう? 今年も頼まれてくれないかしら?」
 昨年の事は良く覚えている。確か夏休みが終わってすぐの日曜だった。里志や千反田、それに伊原までもが俺の監査員ぶりを見にやって来たのだった。
「暑いから嫌だな」
「今年はアルバイト代上がったわよ。二日だけで良いのよ。どう?」
 姉貴の言い方は柔らかいが、どうやら断る事が出来そうな雰囲気は無かった。
「判ったよ。二日だけだな。それ以外はお断りだ」
「二日だけよ。じゃ連絡しておくわ」
「それで何時行くんだ?」
「明日と明後日」
 これだ! 結局誰かが具合が悪くなり、交代要員を探したが誰も見つからず、姉貴に声が掛かったらしい。だが生憎、姉貴は就活中で出られないので昨年経験した俺に白羽の矢が立ったと言う事らしい。
 それなら、それで構わないが出来れば今年は里志から電話が掛かって来ない事を望む。
 そう思っていたら、夜になって千反田から電話が掛かって来た。
「もしもし、千反田ですけど折木さんですか?」
「ああ、俺だけど」
「ああ、良かった。先日はどうもありがとうございました」
「いや、俺の方こそ、わざわざ礼を言ってくれるほどの事では無いのに申し訳無かったな」
「いいえ、とんでもありません。折木さんが居てくれなかったら、わたし……」
 電話の向こうで千反田が思い詰める様子を感じた。
「それで、その後はどうなんだ?」
「はい、お陰様で一応は以前の様になっています」
「そうか、置かれた環境は変わらずか?」
「はい、それはそのままです。というより、これは変わらないと思います」
 どこか諦めが感じられるような言い方が少し気になった。
「ところで、明日なんですが、一緒に図書館で勉強しませんか?」
 恐らく千反田としては他人で唯一事情が判っている俺に話というか自分の気持ちを聞いて欲しいのだろうと理解した。
「それが、明日と明後日は急にバイトが入ったんだ。昨年もやった市民プールの監視員さ」
「まあ、そうなのですか。では駄目ですね。次の機会に譲りましょう。では、わたしだけでも陣中見舞に行きますね。お弁当でも作って行きます」
『いやそれは……』
 そう言いかけて、言葉を呑み込んだ。逢えば何かしら千反田の気休めになれば。それはそれで悪くは無いと考えたからだ。
「そうか、それは有り難い。楽しみにしてるよ」
 そう言って電話を切った。

 翌日、朝からよく晴れていて、案の定市民プールは人が大勢来るだろうと推測出来た。
「じゃ頑張ってね」
 姉貴の声に送られて家を出る。市民プールまでは自転車で行く。この炎天下に歩くのは御免被りたいからだ。
 プールでは勝手知ったる何とかで、制服に着替えキャップを被り、トランシーバーを首から下げる。これで準備OKだ。
 監視台に座って監視を始める。殆どは何もせずに時間だけが過ぎて行く……がやはり暑い。用意していた水を呑んで汗の素を作る。
 一時間で交代となる。プールの各所に監視台があり、交代で監視をしている。基本一時間監視して三十分休憩でまた別の場所で一時間監視となる。そして営業時間が終わる午後五時までこれが続く。営業が終わった後は監視員全員で点検をして報告して終わるのだ。遅くても五時半前後には家に帰る事が出来る。願わくば明日は曇りであって欲しいと思った。

「こんにちは折木さん。昨夜の電話の通りに陣中見舞に来ました」
 不意に声を掛けられて、横を見ると千反田が保冷バッグを下げて水着姿で立っていた。昨年も着ていた、あの白い水着の上にピンクのパーカーを羽織っていた。昨年と違うのは同じ水着だが面積が少し小さくなった気がした。その分、出ることろは出て、引き締まる所はしっかりと引き締まっていたと言うことなのだろう。これは仕事の時には見てはいけないと思った。理性的にならなければ……それほど千反田の水着姿は今の俺にとって眩しかった。
 その千反田は両手で保冷バッグを躰の前で下げている。つまり自分の胸を挟むような格好となっている。昨年より深くなった胸の谷間にどうしても目が行ってしまう。炎天下でこんなモノを見せつけられたら堪ったものではないと感じた。
「どうかしましたか?」
 千反田の声で我に返る。
「いいや、何でもない。ありがとう!」
 その時
「交代だよ折木くん。休憩後は競泳プールの方お願いね」」
 その声で監視台を降りると監視台の横で立っていた千反田がニッコリと微笑んだ。

 プールの横に張られたテントの木陰に用意された椅子に座って、生ぬるくなった水を飲もうとしていたら
「折木さん。こちらに冷たいのがありますよ。良かったらどうぞ」
 千反田が保冷バッグから凍って溶けだしたペットボトルを取り出して、勧めてくれた。これは有り難い。
「悪いな。躰が熱いので遠慮なく貰うよ」
「どうぞ。そのために持って来たのですから」
 溶けていた分はそれほど多くは無いが何しろ特別冷たいので躰が冷えて行くのが判る。
「生き返った感じだよ」
「それは良かったです」
 千反田は嬉しそうに笑うと
「お腹は空いていませんか? お弁当……お握りを作って来たのです」
 昨年、千反田の家でご馳走になった握り飯は本当に美味かった。米から違うのだろうが、千反田の付けてた塩加減が抜群だったのだ。あの日の気候や皆の腹の空き具合を考えてあの味にしたのだと後で判って感心したのだ。
「今は良いよ。後で貰うかな。それより、出て来て家の方は良いのか?」
 やはり関心はそこへ行く。
「父の決断は変わらない様です。『自分の好きな道に進みなさい』と言ってくれたのですが、今更わたしにはどちらへ進んで良いか判りません。誰にも相談出来ないのです。折木さんを除いては……」
 確かに俺は、千反田の周りに居る他人の中では一番事情を理解しているのかも知れない。でも、だからと言って俺には千反田の進むべき道を示してやる事なぞ出来やしない。
「自分の進路は自分で決めます。でもその過程を相談出来る人が欲しいのです。心の底から心を許せる人が欲しいのです。今のわたしには、そんな事を頼める人は折木さん以外には居ません。駄目でしょうか?」
 千反田はそう言って距離を縮めて来た。元よりパーソナル・スペースが近い千反田だから殆ど俺と肌が合わさる様な距離になっていた。千反田の体温さえ感じられそうだった。
「千反田。俺は少しだけお前の事情を理解しているかも知れない。でも俺にはお前の進むべき方向なぞ示す事なぞ出来やしない。でも、一緒に考えて見届ける事は出来る。いや、それぐらいしか出来ないだろうと思う」
「折木さん……ありがとうございます! わたし……嬉しいです! 心の底から嬉しいです!」
 千反田はそう言って益々俺に迫るように近づく。千反田の胸の谷間も今や面の前にあるのだ。これは男として辛い。
「なあ、その水着の格好で迫られると辛いのだがな」
 正直に告白すると千反田は我に返り、頬を赤く染めながら
「あ、すいません。わたし、自分の事ばかりで……実は今年は色々あったので新しい水着を未だ買っていないのです。それで昨年のを着て来てしまいました。実は少し窮屈なんです」
 やはりそうだったのだ。弾けるような千反田の水着姿が眩しいのは俺の錯覚では無かった。
「今度一緒に泳ぎに行く為に、水着を買いに行きませんか?」
「ああ、それは構わないが」
「じゃあ約束です。新しい水着姿も折木さんに見て貰いたいですが、今日の姿も折木さんだけに見て欲しかったから、わたしは嬉しいです」
 千反田にそんな事を言って貰えて俺は幸せだと思った瞬間
「折木くん。交代だ」
 その声で我に返った。夏の太陽は更に輝いていた。


                                                                   

氷菓二次創作「二人の暮らし」

  夏休みの大学は講義が無いのにも関わらず、結構な学生で賑わっています。図書館に勉強に来る学生も結構います。
 神山から帰り、わたしも研究中心の生活に戻りました。今は、共同研究をしている相方が休みを取っています。思えばお正月の休みに、よく奉太郎さんと再会したものだと今更ながら思います。そんな事を帰ってから奉太郎さんに言ったのですが、奉太郎さんの答えは意外なものでした。
 いつもより少し早くアパートに帰ります。夏の京都は本当に暑く冷房なしては過ごせません。タイマーを掛けて部屋を出たので、帰った時には部屋は涼しくなっていました。
 早速、夕飯の支度に取り掛かります。お米を研いで、炊飯器にかけてスイッチを押します。御飯が炊ける間に幾つかおかずを作ります。今日は肉じゃがと野菜サラダに鯵の干物にしました。簡単に作れるものばかりで奉太郎さんには申し訳ないと思います。休みの時にじっくりと手の掛かるものを作ってあげようと思いました。
 じゃがいもはメークインです。つるりとした表面は皮も簡単に剥けます。人参も同じように皮を剥き、玉ねぎは剥いて縦に半分に切り、それを大雑把にスライスして行きます。きのこも幾つか入れます。今日はしめじとエリンギにしました。
 玉ねぎ、人参、きのこ、それに牛肉のコマ肉を入れて、醤油、砂糖、酒、みりん等を入れて水を適量入れて火に掛けます。煮えて来たら、じゃがいもを入れます。味を調整する為に化学調味料を僅かに入れます。こうすると醤油の角が取れるのです。忙しい時は、醤油などの調味料の代わりに市販の汁の素を代用する時もありますが、それは奉太郎さんには秘密です。
 さあ、御飯も炊けました。肉じゃがも美味しそうに煮えて来ました。奉太郎さんが帰って来ました。
「ただいま~良い匂いがするな」
「おかえりなさい。今日は『肉じゃが』にしました」
「それは楽しみだな。汗を掻いたから先にシャワーを浴びるから」
 奉太郎さんはそう言って浴室に消えて行きました。その間に鯵の干物を焼く事にします。
 焼きあがって食卓に並べていると奉太郎さんが出て来ました。
「ビールでも飲みますか?」
「そうだな、缶ビールあったか?」
「買ってありますよ。よく冷えていると思います」
 缶ビールを冷蔵庫から出し、夕食が始まります。
「大学は夏休みでも結構人が居るのだろう?」
「そうですね。お正月と違って夏休みは結構な学生が出入りしていますからね」
「あの時とは大違いという訳だ」
 やはり奉太郎さんもお正月に出会った事を思い出したのでしょう。
「でも、本当にあの時良く出会ったと、今更ながら想います」
 わたしの言い方が可笑しかったのか、奉太郎さんは缶ビールを食卓に置いて口を抑えて目が笑っています。
「どうかしたのですか?」
 わたしは不思議に思い奉太郎さんに尋ねます。すると
「悪い、そんなつもりでは無かったのさ。怒らないと約束してくれるか?」
 何の事でしょうか? わたしには怒る理由はありません。
「はい。それは良いのですが、あの時、何かあったのですか?」
 わたしはあの時は本当に偶然出会ったと思っていました。
「実は……本当の事を言うよ。あの時、俺が担当していた農学部の教授の講演会は俺が会社に提案して採用された案件だったのさ」
 どういう事でしょうか? 確かに、あの教授の講演会が学内であるのは珍しい事ではありました。
 わたしが不思議な表情だったのでしょう奉太郎さんは
「お前が大学院の修士課程に進んだとは、里志や伊原から聞いていた。だが、今更ながら面と向かってお前を訪ねに行く訳にも行かない。そこで、あの講演会を企画したんだ。それも学内のホールで行うとね。そうすれば堂々と学内を歩き回れる」
「まあ、そんな事だとは知りませんでした。でも、仕事で学内に来てもすぐには訪ねて来ては来れませんでした」
「それはそうさ、まず仕事が先さ。それに……」
「それに?」
「あの時、お前に誰か相手が居たら俺は黙って去るつもりだった」
 この時の奉太郎さんの表情は少し曇りました。
「そんな! 誰も居ません! わたしは奉太郎さん以外の人と一緒になるつもりはありませんでした。他の誰かと一緒になるなら、一生独身でも構わないと覚悟を決めていました」
 こんな事を奉太郎さんに言ったのは初めてです。顔から火が出るほど恥ずかしかったです。
「だから、お前が未だに誰も相手が居ないと判った時は本当に嬉しかったよ。そこで、偶然を装ってあの時出会う様にしたのさ……これが真実なんだ」
 わたしは、あまりの事に呆然としていました。
「怒ったか?」
 その言葉にわたしは、奉太郎さんと並んで隣に座ります。
「おいどうした?」
 怪訝そうな表情の奉太郎さんの手を取って
「そんなにまで想っていてくれて、本当にありがとうございます! わたし、幸せものです!」
 そうです。そうなんです。あの時から変わったのです。わたしの暮らしは灰色から薔薇色へと。まるで生まれ変わったかの様に変わったのです。本当にわたしは幸せ者です。この握った手は一生離さないつもりです。
「える。俺もお前以外の誰とも一緒になる気は無かった。だからあんな細工をしたんだ」
 奉太郎さんの想いが伝わって、本当に心の底から喜びが湧き上がります。奉太郎さんはわたしを抱きしめると優しく口付けをしてくれました。躰が蕩けるような情熱的な口づけでした。
 今夜は何処かで花火の催しがあるのでしょう。花火が上がる音が聴こえて来ます。今夜は熱い夜になりそうです。

                                                         <了>
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