自作小説

夜の調理室 4 最初の調理実習

 調理実習と言っても生徒の殆どは僕も含めて調理初心者なので、最初の実習はそんなに大したものは作らない。調理台の上の籠に乗せられていたのは、胡瓜、人参、キャベツ、玉葱と言った野菜だけだった。教壇に立っていたのはマスコミで見た記憶のある大柄の先生だった。

「え~玉城と申します。良くテレビで見ていると言う人もいるでしょうが、本物です」

 そう言って生徒から笑いを取った。

「今日から、日本料理、フランス料理、中華料理、そして製菓と順番に実習をしていきます。今日は最初なので包丁の使い方を学んで行きます。要するに切り方ですね。それでは各自、前へ出て来てください」

 教壇には生徒が使う調理台と同じものがセッテイングされていて、おまけに上には鏡まで貼ってあるので後ろに並んだ生徒も先生の手元を見られるように工夫されている。

 その後ろの黒板には今日使う野菜の種類と量が書かれている。勿論生徒はそれらをノートに書き写している。玉城先生は生徒が調理台を囲んだのを確認すると

「それでは切り方の基本を実際にやって見ます。見て覚えて良く練習して下さいね。今日やるのは基本中の基本ですからね」

 玉城先生はそう言うと柄の先に長方形の刃がついた包丁を取り出した。

「これは薄刃と言う包丁で日本料理では野菜を切る時に使います。これで大根の桂剥きもやります。桂剥きは卒業試験になりますので、それまで各自課題をマスターしておいて下さいね。出来ないと卒業させません」

 ちなみに、その課題とは五分で二メートルの長さの桂剥きをする事。まな板の上に並べた時に透き通っていて下が透けて見える事。だった。これは地道に練習しないと出来ない。

 玉城先生はその大柄の躰に似合わず素晴らしい技を僕たち生徒に披露してくれた。基本的な切り方や特殊な切り方も見せてくれた。女性徒の殆どは目を輝かせて見ていた。

 最後に先生はその中でも更に特殊な「剥き物」と呼ばれる技も披露してくれた。口々に

「日本料理もいいな」

 そんな声が聞える。

 実際の僕たちの実習は先程の野菜を千切りにして行く事だった。各自相談して分担を決める。

「私、玉葱苦手だから……」

 門倉さんがそう言うので僕が

「じゃあ僕が切りますよ。これだけがスライスですから」

「そう風間ちゃんに頼んじゃおうかしら」

「任せて下さい。他の人もそれで良いですか?」

 全員玉葱には触りたく無いみたいだった。了解を得られた。

 相談した結果、飯岡さんと門倉さんが一番大変なキャベツを。相葉さんが人参を、そして菊池さんが胡瓜を切る事になった。早速作業に入る。門倉さんと飯岡さんが

「どうする? 一枚一枚剥がして包んでから切るかい? それとも四分の一に切り、繊維に沿って切るかい」

そんな相談をしている。門倉さんは

「他の班はどうしてるのかしら」

 そう呟いて周りを見渡した。

「半々みたいだね」

 飯岡さんが観察すると

「じゃあ、私とあなたでそれぞれでやりましょうよ。あなたはどっちが得意なの?」

 門倉さんはそう言って面白い提案をした。

「そうだね。そうしよう」

 結局、門倉さんが一枚ずつ包んだ方、飯岡さんが繊維に沿って切るやり方になった。最初に門倉さんが芯を抜いて、キャベツの葉を剥がして行く。大体半分ぐらいになったら飯岡さんに渡した。彼はそれを四半分に切り、繊維に沿って切り始めた。僕も見ていられないので作業に掛かる。

 茶色い外皮を剥いて行く。先生のやった通り、包丁で頭を切り、下の根の部分をえぐって行く。その後包丁を使い皮を剥いて行く。僕は幼い頃から玉葱は平気だった。玉葱のガスが目に滲みたと言う事は経験したことがなかったのだ。

 教室には先生の他に助手の人が二名居て、各調理台を回りながら、注意や指導をしてくれる。判らない生徒には見本も見せてくれる。今日は切った野菜に先生たちが作ったドレッシングをかけて食べるのだそうだ。僕の玉葱だけはスライスだが、切ったものをボールに水を張って晒すのだ。そうしないと玉葱なんて通常は生で食べられない。

「あんた本当に不器用ねえ」

 作業に週中していたら不意に門倉さんの声が響いた。顔を上げると菊池さんの手が止まっていた。見ると他の野菜はかなり進んでいるのに胡瓜だけは殆ど切れていなかった。

「あんた今までやった事ないの?」

 門倉さんに言われた菊池さんは少し怯えながら

「包丁なんて握ったの今日が生まれて初めてですよ。結婚前は母親が、結婚してからは妻が料理を作ってくれますからね。必要無かったんです」

 菊池さんの言葉に門倉さんは

「じゃあ、何故ここに来たの?」

 そう尋ねた。彼女にしてみれば不思議なのだろう。

「業務命令ですよ。資格を取って来いと言う」

 そう言った菊池さんに対して門倉さんは

「私と同じかぁ。ウチも今度ガソリンスタンドに喫茶軽食を併設する事になったから、私が資格を取りに来たのよ」

「へえ、イートインか、最先端だね」

 そう言ったのは飯岡さんだ

「イートイン?」

「そう、アメリカなんかじゃそう言うらしいよ。向こうではガソリンスタンドで何か食べられるのは昔からあったらしいからね」

 飯岡さんはそう言ってアメリカの自動車事情を話し始めた。二人共既にキャベツは切り終わっていて、一番大きなボールにうず高く積まれていた。

 結局、中々進まない菊池さんを門倉さんが手伝って全てが切り終わった。その切った野菜を玉城先生が見て廻って色々と注意や感想を言ってくれている。僕たちの班に来た時は

「ほお~中々じゃないか。よく均一に切れているね。一番大事なのは太さや大きさが揃っていること。揃っていればお客さんに出せる。不揃いならばそれは未熟か失敗作だと判ってしまうからね」

 そう言って、一番大事な事を教えてくれたと思った。それを聴いて飯岡さんは後で

「ああいう言葉が大事なんだよね。現場を知っている人からしか出て来ない言葉さ」

 そんな事を言っていた。

 最後は各自切った野菜を混ぜ合わせ、先生が作ったドレッシングを掛けて試食して授業は終了した。勿論、ちゃんと片付けたのは言う間でもない。


 帰りに先程玉城先生が言った事を節子さんにも教えてあげた。

「ああ、そうか。そうなのよね。それって大事だわ」

「でしょう! 良い事言うわよねえ」

 そう言ったのは門倉さんだった。調理実習の関係で僕と飯岡さんと一緒に帰る事になってしまったのだった。

「風間ちゃんと秋山さんて最初から仲が良かったわよねえ。既に恋人同士で受験に来たのかと思っていたわ」

 門倉さんがとんでもない事を言う。

「あら、私と翔太くんは只の同級生よ」

 節子さんがそう返事をすると

「あら翔太くんって呼んでいるんだ。良いな~私も良い?」

 僕が頷くと飯岡さんは

「俺は風間ちゃんでいいな」

 そう言って笑った。願わくば僕もその方が良い。

 駅で飯岡さんと別れる。門倉さんは同じ方向なので一緒の電車で帰る。節子さんが降り、その次の駅で門倉さんが乗り換えるのだ。二人だけになると

「私の家日暮里なのよね。三人では一番遠いかしら」

「いや、僕もこの先ですから同じぐらいですよ」

「でもさ、節ちゃんとあなたは完全に恋人同士だと思っていたわ」

「とんでもないですよ。あの日初めて逢ったのですから」

「その割には喫茶店なんか一緒に行っていたわよね」

「見ていたのですか?」

 まさか見られていたとは思わなかった。

「だって彼女目立っていたじゃない。私なんかとは大違い」

「そりゃ目立ちますよ。節子さんミス栃木だったのですから」

 僕は本当の事を教えた。すると門倉さんは

「やっぱりね。オーラが違っていたものね」

「オーラが見えるんですか?」

「そんな気がするのよ」

 そんなものなのかと思う事にする。

「何か違うのよね。ああゆう人って。私なんかとは違うのよね」

 そう自分を卑下する門倉さんに僕は

「飯岡さんがお嬢様だって言っていましたよ」

 そう暴露すると彼女は

「お嬢様って言ったってしがないガソリンスタンドの娘よ」

 そう言って笑った。僕の目から見て、確かに門倉さんは特別な美人では無いかも知れない。僕は美人には二通りあると思っている。最初はとんでもない美人に思っていて、付き合ったりしていると段々慣れて来て、親しみを感じる顔。もうひとつは最初は特別美人と思わなくても次第にその美しさに気がつく顔。でも門倉さんはそのどちらでもないと思った。しいて言えば彼女は肉体派だろうか?

 スタイルは悪くない。節子さんタイプでは無いが、胸も豊かだし、ウエストも締まっていてヒップも悪くない感じだ。殆どの男は彼女に言い寄られた簡単に落ちると思う。肩までの髪に大きな瞳と少し厚めの唇。良く、厚い唇の女性は情に厚いと言うがこの後、彼女がまさにその通りだと実感する事になるとは思わなかった。

「歩く時に胸が揺れるのは見ていて男として嬉しいです」

 思わずそんな事を口にしてしまった。

「いやぁ~ねえ。翔太くん、そんな所見ているの?」

「いや、見ていると言うより門倉さんが目に入ると、どうしても見えてしまうでしょう」

 僕の言葉なぞ判っていたと言う感じで

「私もね、口を開かないといい女ってたまに言われるんだけど、口を開いたら台無しだって言うのよ皆。酷いと思わない」

 確かに彼女は下町の言葉そのままだけど僕は決して嫌ではない。

「その事も含めて門倉さんの魅力じゃ無いですか」

 僕の本音だった。それを聴いた門倉さんは少しの間黙っていたが

「節ちゃんの前では言えない言葉でしょう? 今の事は黙っておいてあげるわね」

 そう言って楽しそうな表情をした。 

夜の調理室 3 深夜のコーヒー

 未だ終電には間があった。僕はラーメン屋から駅に行くつもりだったが、節子さんが
「ウチ近くだから少し寄って行く? コーヒーぐらい入れてあげるわよ」
 何時もと違う口調でそんな事を言った。恐らくアルコールが入っているせいだと思った。
「え、でも……」
 僕が返事を戸惑っていると節子さんは笑いながら
「何勘違いしているの! 何も無いわよ。いらっしゃい」
 そう言って口を押さえいる。その目が完全に笑っていた。
「いや、そんな事考えていないですよ。でも、女性の部屋にお邪魔するのは僕には覚悟が必要だと考えたのですが、そうですよね考え過ぎですよね」
 正直な想いを口にした。
「翔太くんは正直過ぎるわよ。冗談でももっとワイルドな事言っても良いのよ」
 節子さんの言葉が何処まで本音なのかは今の僕には判断出来なかった。
 大通りから路地に入った一角に、節子さんのアパートがあった。
「狭いけど上がって」
 二階の突き当りのドアを開き壁の灯りのスイッチを入れると、女性の部屋らしく華やかな雰囲気の部屋が現れた。
「お邪魔します」
 形ばかりの言葉を言って靴を脱ぐ。節子さんは鞄を置くと、台所に行き薬缶でお湯を沸かし始めた。
「炬燵の所の座布団に座って」
 部屋には小さめの炬燵があり明るい色のカバーが掛かっていた。隣の部屋の境の襖が少し開いていて、そこから次の部屋にあるベッドが覗いていた。僕は見ないようにと思ったが、それは無理な事だった。
 この頃はLEDなぞ未だ無いので、天井には蛍光灯に白いカバーが掛かった灯りがあり、そこから白い光が部屋を照らしていた。
 座布団を敷いて座って部屋を観察していると箪笥の上の写真に目が行った。立ち上がってその写真立てを手に取る。
 写真に写っているのは一人の女性だった。正確には今の僕と同じぐらいの歳の女性が王冠を頭に乗せて写っていた。ワンピースの水着ぽいものを身に付け、肩にはガウンを纏っていてた。何かのコンテストの優勝者の写真だと思った。
「もう七年も前の事よ」
 振り返ると節子さんがお盆にコーヒーカップにコーヒーを入れて運んで来てくれていた。
「この写真の人、もしかして節子さん?」
「そうよ。十九歳の時でね。ミス栃木になった時の写真よ」
 炬燵のテーブルの上にコーヒーを置きながら、何事も無いように說明してくれた。
「ミス栃木!」
「そう。友達が勝手に応募したの。どうせ書類審査なんかで落ちると思っていたら、あれよあれよと言う間に優勝してしまったの」
「じゃあ、ミス日本の大会にも出たの?」
「出たわよ。落ちちゃったけど」
 優勝していたら世界大会に日本代表で出ていた事になる。そうなったら今ここで僕とコーヒーを飲もうとしてる事実はない。
 節子さんが大勢の中で何か目立っていたのは、そのせいだったと思った。
「実は僕、一番最初に節子さんが目についたんだ。とても惹かれたのは本当なんだ」
 僕の本音を聴いて節子さんは
「男の子は女性の前であからさまに本音を言うものではないわ。でもとても嬉しい」
 そう言って嬉しそうな顔をした。
 都内のあるアパートの一室で僕は美しい女性と二人で夜のコーヒーを飲んでいる。でも、それだけだった。それ以上の事は起こりそうもなかった。
 明日も仕事があるし、僕も家の手伝いが待っていた。少なくとも終電に乗らなければならなかった。
「そろそろ帰らないと」
「そうね。子供は夜更かししちゃ駄目よ」
 節子さんは冗談とも本音ともつかぬ言葉を口にした。
「駅まで判る?」
 僕は判っていたが、敢えて嘘を言った。
「良くわからない」
「仕方ないわね。送って行ってあげる」
 節子さんはそう言うと
「着替えるから待っていて」
 隣の部屋に入って行って襖を完全に閉めた。隣の部屋の灯りの点く音がした。僕はコーヒーの残りを口に流し込む。そしてもう一度箪笥の上の写真立てを手に取り、眺める。十九歳の節子さんは「ミス栃木」とか関係なくとても綺麗で、今の僕とは釣り合いが取れないと感じた。同世代でこれだけの美人には僕は逢った事がない。
「お待ちどうさま」
 襖が開いて節子さんが現れた。それまで着ていたブラウスに膝までの紺のスカートでは無く、スリムのジーンズに躰の線が判るような、ピタッとした薄緑色の長袖のTシャツに着替えていた。こんな格好をするとスタイルの良さが露わになる。
「スタイル良いですね。さすがだ」
「あら、お世辞? でも褒められて嫌な気持ちはしないわね」
 節子さんは僕の手を取ると、炬燵の上の時計を眺め
「そろそろ行かないと間に合わないかも知れないわ」
 そう行って僕を部屋の外に連れ出した。僕と節子さんは手を繋ぎながら駅まで歩いて行った。駅の近くまで来ると節子さんは繋いでいた手を解き、腕を僕に絡ませて来た。そして頭を僕の肩にのせる。
「一度、男の人とこうして歩いてみたかったの」
 何処まで本気か判らぬまま駅に着いた。
「それじゃここでね」
「今日は色々ごちそうさまでしたでした」
「良いのよ。また明日、学校でね」
「また明日」
 改札を抜けるとホームに電車が入線して来た。
「ほら、急がないと」
 その声に急いでホームに上がり電車に乗った。窓の外では改札で節子さんが手を振っていた。僕もそれに応えて手を上げた。電車がスピードを上げて景色が流れて行った。それを眺めながら僕は、節子さんは箪笥の上の写真を僕に見せたくて自分の家に寄らせたのではないかと考えた。と言うより、未熟な僕には、それしか思い付かなかった。

 調理師学校なので通常の授業。例えば栄養学、食品衛生、公衆衛生、母子栄養等の机の上の授業の他に調理実習がある。ひとクラス五十人を五人ずつ十の班に分けて調理実習室で実習をするのだ。
 僕の班には名簿順で飯岡さんが入った。節子さんは次の班になってしまった。僕の班に入って来たのは、門倉さんという二十代中頃の女性。それに相葉さんという昼はパートをしていて本業は主婦だという三十代の人。それに、菊池と言う三十少し前の男の人だった。 
 飯岡さんは知り合いの焼き鳥屋を手伝っているくらいだから手際良かった。相葉さんは主婦なのである程度は調理が出来ていた。全く出来ないのが菊池さんだった。おぼつかない手で包丁をいじっている菊池さんに門倉さんが
「あんた。そんなに恐恐してると手を切るわよ」
 そう言って見ていられないと言いたげだった。彼女は肩までの紙を三角巾に包み、大きな目に少し厚めの唇をした派手な顔をしていた人だった。何でも実家は油問屋をやっているのだそうだ。
「油問屋なんて今時、商売にならないので本業はガソリンスタドをやってるのよ。わたしこれでも、危険物取扱の資格は持っているのよ」
 そう自己紹介をしたのを思い出した。飯岡さんが
「要するに下町のお嬢様と言う事だよ」
 そう僕に耳打ちしてくれた。
「下町なんですか?」
「だって日暮里だって言っていたよ」
 日暮里は確かに下町だと思った。
「お嬢様って?」
「ガソリンスタンドを幾つも経営してるそうだよ。お嬢様だろう」
 確かにそうだと思った。
「それにあの派手な顔立ちや仕草。全てがお嬢様ぽいじゃないか」
 その日から僕と飯岡さんの間では門倉さんのあだ名は『お嬢様』と決まった。

夜の調理室 2 焼鳥と生ビール

 入学手続きを済ませると次は授業で使うものを購入しなくてはならない。予め日にちが決められていて、昼間部の栄養士科と調理師科の生徒は二日間。夜間部の調理師科の生徒はそれに加えて夜間の日も用意されていた。
 基本的には調理師科なら昼間も夜も買うものは変わらないのだが、唯一違うのは、昼の生徒には制服を作る事が決められていると言う事だった。夜間の生徒にはそんなものは無かった。僕はこれだけでも夜間に変更させられて良かったと感じた。中学高校と六年間も制服を着たのだ。そろそろ卒業したかった。
 買うものは教科書の他に白衣、前掛け、帽子や三角巾それに包丁のセット。加えて何故か簡易オーブンも買わされた。これはガス台の上に乗せて簡易的にオーブンとして使える道具だった。これを生徒が買う目的は、後で判った。
 結構な荷物になったが、何とか一人で持ち帰る事が出来た。秋山さんと逢うかもと少し期待していたが空振りに終わった。
 四月になり昼間部の生徒と一緒の入学式があり、そこでクラス分けが発表された。クラスは二つあり、ボクはB組だった。
張り出された紙を見ていると、その中に秋山節子と言う名前を確認した。少し嬉しかった。少しでも知った人がいるのは安心出来ると思った。そして、次の日から授業が開始された。
 教室に行って見ると、席を書いた紙が張り出されていて、それによると僕は出席番号三で、席も前から三番目だった。驚いた事に僕の隣は秋山さんだった。基本的に男女が組み合わされて席が決められていたみたいだった。
「隣になって嬉しいわ」
 秋山さんはそう言って喜んでいた。僕も正直嬉しくて
「この前入学式で同じクラスになって喜んでいたら、まさか隣の席とは」
「あら、そんな事言って、本当はもっと若い子の方が良かったのでしょう?」
 クラスを見渡すと確かに僕と同じ位か、若い子がかなり居た。その子らの殆どは品川に本社がある某大手のメーカーの社員で、皆寮住まいだと後で判った。
「そんな事ないですよ。本当に嬉しく思っているんですよ」
 これは本音だった。中学高校と男子校で過ごした僕は女子に対して接し方が良く判っていなかったからだ。だから、昨年一年間、予備校で同年代の女子と同じ教室で過ごした事は刺激的でもあったのだ。
 たまにだが、女子から授業の内容について質問を受けた時などはドキドキしてしまった事もあった。満員電車以外でこんなに身近に女子が近くに居た事なぞ無かったからだ。
「まあでも、私は本当に嬉しい。何か縁を感じるの。だって入学試験の時に初めて逢って、話をして、普通ならそれきりになるはずなのに、今はこうして隣に座ってる……これって何かあると言う事だと思うでしょう?」
 何とも大胆な考えだと思ったが、正直、あの受験会場で秋山さんが一番目だっていた。正直僕は、強く惹かれたのは事実だった。
 最初の日はクラスの役員を選んだり、授業のオリエンテーリングをして終わった。クラスの委員に選ばれたのは僕の前の席に座っていた飯岡と言う二十代後半のサラリーマン風の人と、少し離れた席に座っていた鈴木と言う二十歳を少し過ぎた年頃のメガネを掛けた真面目そうな美人だった。
 飯岡さんは社交的で周りの席の人によく話し掛けていた。自己紹介によると、名前を聞けば誰でも知っている大手の保険会社の社員で、後で判ったが大学も一流を出ていた。そんな大手の社員が何故ここに来たのかを質問したら
「将来は焼き鳥屋をやりたいんだ。今の会社に入ったのも給料や福利厚生が良かったからで正直、保険会社なんて生涯勤務する様な会社じゃないよ。お金を貯めて自分の店を開くのが夢なんだ。だからここに通って調理のノウハウを覚えるんだよ」
 そんな事を聞いたのはその日の帰りに一緒に寄った酒場での事だった。本当は授業が終わるのは二十一時半なのだが、今日に限っては二十時半に終わってしまったのだ。腕時計を確認しながら飯岡さんが後ろを振り返り、僕と秋山さんに向かって
「少し寄って帰りませんか? 一時間ぐらいならどうですか?」
 そう言って誘ってくれたのだ。

「ああ旨いな! 焼き鳥と生ビールは黄金の組み合わせですよね」
 上機嫌で飯岡さんが持論の同意を求める。僕はそれほどアルコールに強くないので大人しく飲んでいる。秋山さんも決して嫌いな方では無いようで早くもジョッキを開けてしまいお代わをした。ちなみに飯岡さんは三杯目が終わりそうだ。
「でも、一流の会社だから辞めちゃうのは勿体無いじゃないんですか?」
 僕は疑問を飯岡さんにぶつけると彼は
「所詮、宮仕えですよ。男なら一国一城の主じゃ無いですか!」
 その答えに秋山さんが
「よく脱サラでラーメン屋なんて聞きますけどね。大体失敗してるわね」
 そう言って話に乗って来た。
「ラーメン屋は正直、素人がやるにはリスクが大きいですよ。だから僕は焼き鳥屋なんです。今でも土日とか休みの日には知り合いの店で無償で手伝っているんですよ」
「無償で?」
「そうですよ。だって色々なノウハウを教えて貰うのですから当然ですよ」
 飯岡さんはそう言って三杯目を開けて四杯目を注文した。今なら酎ハイなのだろうが、この頃焼酎は未だ一分の人の飲み物で留まっていた。
「今だから言いますけどね。試験の日、あの時秋山さんと風間君は目立っていたよね」
 飯岡さんが何故か嬉しそうにニヤニヤしながら言う
「僕もあの時居たのですよ。でもあの場で誰かと会話するなんて考えも依らなかったから、驚きでしたよ」
「あら、そうでもないと思ったけど」
 秋山さんが答える。僕も
「偶然ですよ」
 そう嘘をつく。本当はあの場でとても目立っていた秋山さんが気になって仕方なかったのだ。
 「まあ、明日からよろしくお願いします!」
 三人で握手をしてその日は打ち上げた。飯岡さんは反対方向なので駅で別れた。僕と秋山さんは帰る方向が同じなので同じホームに立っていた。見ると反対側のホームに飯岡さんが立っていて僕たちを見つけて手を振っていた。酒が入っているとは言え、社交的な人だと思った。クラス委員に指名されたのも面接でその辺りを読み取ったからだろうか? 飯岡さんに手を上げながらそんな事を思っていた。
 先に反対側の電車が来て飯岡さんの姿は車中の中に消えた。そして電車が過ぎ去って僕と秋山さんが残された。
「お腹空かない?」
 そう言えば先程の酒場で焼き鳥を数本食べただけだった。授業が始まるのが十八時なので夕食は食べていなかった。満腹で授業は受けたくなかった。
「少し空いていますね」
 そう答えると秋山さんは
「私の家の傍に美味しいラーメン屋さんがあるの。行かない?」
 秋山さんの降りる駅は僕の降りる駅より数駅手前だった。時間的には終電には未だ充分な間がある。
「いいですね。秋山さんがお薦めのラーメンが気になりますね」
 空いたお腹と邪な期待で笑顔を作った。 

「本当に美味しいですね」
 細い麺を啜りながらラーメンの感想を言う
「でしょう? これなら飯岡さんにも食べさてあげたかったかな」
 そんな冗談めいた事を呟くと秋山さんは
「翔太くんだから連れて来たのよ」
 そう言ってラーメンを食べる手を止めた。僕は回らない頭で言われた意味を考えていた。
「あの時、教室を見回して一番最初に君が目についたの。その姿に凄く惹かれたの。だから昼間部希望と訊いてがっかりしたのよ。でも神様っていると思った。だって、まさか翔太くんが夜間部に移って来るなんて信じられない事が起きたと思ったわ」
 いきなり下の名前で呼ばれ、そんな文句はラーメン屋で言う言葉では無いと思いながらも周りの客は全く気にして居なかった。
「僕は、正直秋山さんだけしか目に入りませんでした」
 心の丈を正直に言ってしまう
「本当? わたし、あなたより七歳も年上なのよ。こんなオバサン興味無いでしょう。今日のクラスにだって同じぐらいの歳頃の娘が沢山居たし。皆可愛くて綺麗な娘ばかりだったわ」
 確かに綺麗な娘が多かったとは僕も思った。
「でも心に残ったのは秋山さんなんです」
「お世辞でも嬉しい。今日から二人だけの時は名前で呼んで。『せつこ』って」
 その日から僕は二人だけの時には、秋山さんの事を「節子さん」と呼ぶようになった。

夜の調理室 1 入学

chouri3-1 誰でも人生に於いて「通過儀礼」というものがあるのなら、僕にとって、あの期間がそうだったのかも知れなかった。

 二週間前に高校を卒業した僕は、都内のある大学のキャンパスで呆然と立ち尽くしていた。受験した学部の合格発表の日だったが、目の前の掲示板には僕の受験番号は無かった。
 予備校や高校の模試でAランクの言わばすべり止めの大学だった。数回模試を行って一度もBに落ちた事の無い安全パイのはずだった。
 普通ならここで途方にくれるとか、自分の将来を悲観するとか選択肢があるのだが、その時の僕にはそんな選択肢は無かった。
 何故なら次の目的の学校の願書の締め切りまで一時間しか無かったからだ。だから掲示板の前で喜んでいる男女をかき分けて、キャンパスを出てタクシーを探す。振り返ると掲示板を見て悲観してるのは自分しか居なかった。他の受験生は皆喜んでいるか、当たり前の顔をしていた。そりゃそうだよな。僕だってこんな大学。まさか落ちるなんて少しも思って居なかった。でも現実だった。信じられない事だがこれは現実なのだ。
 タクシーは直ぐに捕まって、乗り込み次の学校を目指す。さすがに締め切り前に到着して願書を出した。受験票を貰って学校の表に出て来た。そしてもう一度振り返り学校の名前を確認する。そこには「丸々栄養専門学校」と書かれていた。そう僕は大学に行くことを諦めて調理師学校に入る事に決めたのだった。
 専門学校といえども試験はあるらしい。受験の当日少し早めに学校に向かう。受験票を見せて建物の中に入る。そして「受験会場」と書かれた一室に入る。そこは講堂になっていて、机が並んでいて、その両端に受験番号と思われる数字の書いた紙が貼られていた。僕の受験番号と同じ数字の書かれた席に座る。隣を見ると現役の女子高生とおぼしき女子が座っていた。僕は実は一浪で、昨年は高望みの学部ばかり受験して落ちていたのだった。だから今年は確実に合格する所ばかりを選択したのだが、まさかこんな事になるとは思ってもいなかった。
 講堂を見渡してみると、様々な年齢の人が居る事に気がついた。そこで黒板を確認すると、この専門学校には昼間の部と夜間の部があるそうだ。今日は最終の試験の日なので昼の部と夜の部の合同の受験だと説明が書かれてあった。それで納得する。
 時間になり試験官が入って来て、試験の?明をした。何でも開始から二十分を過ぎたら、試験用紙を裏替えして退出しても良いと言う。入学試験でそんなのは珍しかったので、やはり大学とは違うのだと思った。その後に面接を行い、結果を発表するという。
 時間になり、用紙が配られ試験が開始された。問題を読んで見ると内容は中学の理科の時間に学ぶ事ばかりだった。これなら間違い様がない。二十分で退席しても良いと言う意味が判った。これなら全問解くのに五分もあれば充分だと思った。
 開始から二十分丁度で答案用紙を裏返して講堂の外に出た。僕に続いて続々と講堂から受験生が出て来た。
 喫煙所でたばこを吸っていると、確か二列ほど向こう側に居た女性から声を掛けられた。特別目立つ人だったので覚えていたのだった。
「あなた、昼の部の方?」
「ええ、そうですけど」
「私は夜間部なの。一緒になれないのね。少し残念」
 僕は女性から、そんな事を言われた事が無かったので、何と返事をして良いか判らなかった。
「面接まで時間があるから、お茶でもしません?」
「そうですね。行きましょうか?」
 そんな会話をして、僕と女性は学校の隣のビルにある喫茶店に入った。面接までは一時間あった。その時間までに先程の講堂の自分の席に帰れば良い。
 喫茶店では僕も彼女もブレンドを頼んだ。女性は二十五~三十歳ぐらいだろうか? そんな事を考えていたら
「私は秋山節子と言います。新宿の法律事務所に勤めているのよ」
 いきなり自己紹介をされた。僕は面食らってしまったが、何とか
「風間翔太と言います。一浪して大学受験に失敗してここを受けました」
 それだけが口をついて出た。
「受験失敗しちゃったんだ。高校はどこなの?」
 確かに卒業した高校を言わないと話題が出難いかも知れなかった。
「望洋台付属です」
「あら、結構レベルの高い所でしょう?」
 節子さんはコーヒーカップにミルクを入れてかき回しながら僕に尋ねる。
「まあ、世間的には中の上ぐらいですかね。でも生徒が皆大学に進学出来る訳じゃ無いんです。成績と入学の為の試験があって、一定以上のランクにならないと進学出来ないんです。僕は僅かの差で落ちてしまって、一般入試に回ったんです。そこでも落ちて、一浪して今年は絶対に入れるはずのレベルの大学ばかり受けたのですが何故か皆落ちてしまって、そこで線路を挟んで反対側の予備校から毎日眺めていたここに入る事にしたのです。でも、まさかここでも簡単とは言え試験があるなんて」
 普段の僕からは信じられない事だった。初対面の人、それも女性相手にこんなにペラペラ言葉が口から出るなんて初めてだった。
「そうなんだ。それはきっと神様があなたを大学に進学させたく無かっただと思うわ。あなたは調理師になるべき人だったのよ。私は何かそんな気がする」
 節子さんはそんな事を言ってコーヒーを美味しそうに飲んだ。僕はブラック派なのでそのままカップを口にした。苦くも魅惑的な香りが鼻を突いた。
 面白い考えをする人だと思った。確かに僕にとって、どこの試験の答案も完璧に近い形だったから落ちた理由は正直、判らなかった。
「そうなんですかね。大学に行っても、調理師学校には入ろうと考えていました。職業としての調理師に魅力を感じていた事は確かですけど。秋山さんはどうして調理師学校に入ろうと考えたのですか?」
 夜間部に入ろう等と言う人は、きっと自分で店を持ちたい等の理由だと決めつけていた。だが節子さんは
「私には弟が居るのだけど、中学にも満足に行かなかったの。校長先生の配慮で卒業はさせて貰えたけど、正直読み書きも満足に出来ないの。今は飲食店に勤めているのだけど、将来は自分でお店を持ちたいと考えていて、それなら私が資格を取って名前を貸してあげる。って言う事になったの」
 飲食店を持つのは通常では調理師や栄養士の資格が居る。だが厚生省は資格を取れない人の為に「食品衛生責任者」と言う資格を拵えた。これは保健所などの開く講習会に参加すれば資格を貰える。だが通常これも「平日に開催される事が多い。平日は仕事で休めないと言う人も居るのも事実なのだ。だからこのような名前貸しと言う行為もあるのだ。僕はそんな事情は知っていた。何故なら僕の家の商売が代々続いた料理屋だからだ。だから調理師の資格を取るのは当たり前なのだが、僕の両親は家業を継がせたくなかった。労多くて益少ない商売だからという理由だった。
 節子さんは正直、美人だと思った。でも、その頃の僕にしてみれば六~十歳近くも歳上の女性は恋愛の守備範囲から外れていると思っていた。
 
 一時間後に戻って面接の準備をしていると受験番号順に名前を呼ばれ講堂の入り口とは廊下を隔てて反対側にある面接室に入る算段だった。
 次々と名前を呼ばれ、やがて僕の番になった
「風間翔太さん。どうぞ面接室にお入り下さい」
 係の人に呼ばれて僕は面接の部屋に向かった。ドアを開けると、部屋の中は窓の側に机が置かれ、その前に椅子が置かれていた。
「失礼致します」
「どうぞお入り下さい」
 その声で部屋に入り一礼する
「どうぞおすわり下さい」
 椅子に座って前を見ると、学校のパンフレットに副校長と載っている人だった。
「風間翔太さんですね」
「はい、そうです」
「実は問題がありまして」
「どうような問題でしょうか?」
「実はこの募集は三次募集なのです。例年では三次まで募集しないと定員にならなかったのですが、今年は応募者が多く、昼間部は定員が一杯になってしまったのです。通常ならあなたを落とす所なのですが、成績を見ると、あなたは素晴らしいです。落とすには余りにも惜しいので、空きがある夜間部なら如何でしょうかと思いまして。どうでしょうか?」
 何だ、僕は本当に受験の運が無いのだろうか。確かに調理師の仕事は学校を卒業したからと言って出来るものではない。実際の現場で修行しないと使い者にならない事は知っていた。夜なら昼は家を手伝っていれば良いと思った。
「そうですか、僕は夜間部でも構いません」
 そう返事をした。それで面接は終わりだった。後から聞いた話では他の人はもっと色々と訊かれたらしい。
 面接後小一時間で結果が発表された。僕の名前と受験番号は夜間部に載っていた。それでも落ちた人もいる。むしろ、その事に驚いた。
 夜間部に僕の名前を載っている事を確認した節子さんは、僕の所に近寄って来て
「良かった! 翔太くんが夜間部で。これからよろしくお願いね」
 そう言って右手を出した。僕も右手を出して握手したが、その手は白く、細くて少し冷たくて、とても柔らかかった。
「こちらこそよろしくお願いします!」
 夜に学校に通う……そこで行われる事は僕にとって全てが未知の世界だった。期待と不安が心に渦巻いていた。
 

氷菓二次創作「千反田l家の家訓」

 俺と千反田えるは一時は不幸にも別れたが、結局一緒になることになった。それは運命の女神の仕業とも思えるほど偶然と思惑が重なった結果だった。今日は、その当時で一番思い出に残っている事を紹介してみたい。

 二人は、既に京都では一緒に暮らしていたが、やはり神山で式を上げる事になっていた。幾ら、えるが千反田家の農業を継がくても良いとは言え、千反田家はそれだけでは無い。長い家柄に代表されるように、神山の菩提寺には先祖代々の墓がある。それを守って行く事も千反田の家に生まれた者の務めなのだ。
 式の為に神山に帰った俺とえるは荷を解くと、鉄吾さんとお義母さんの待っている居間に向かった。
「ただいま帰りました」
 えるが挨拶をする。
「奉太郎です。改めて、よろしくお願いします!」
 俺も頭を下げる。尤も以前から二人とは顔見知りなので、改まってどうこうという事は無い。それが判っているのか鉄吾さんも
「やあ、奉太郎君。よくぞ婿に入ってくれた。こちらからも感謝するよ。これで千反田の家の心配事は解消した訳だ。こっちに居る間は色々と大変だろうが、ここが自分の家と思って欲しい」
 そんな事を言ってくれて、お義母さんも
「本当にそうですよ。注文があれば、わたしやえるにどんどん言って下さいね」
そう言って喜んでくれていた。すると鉄吾さんがえるに向かって
「そう言えば、あのことは奉太郎君には言ってあるのかな?」
 そんな事を問うている。「あのこと」とは一体何だろうか?
「未だですが、特に問題は無いと思います」
 えるが、そう返事をすると鉄吾さんも
「あれだけが我が家の家訓だからなぁ」
 等と言って笑うのを堪えたような表情をした。一体何なのだろうか、家訓とか言っていたが、まあ良い、後でえるに訊いてみよう。
 それから結婚式の打ち合わせに水梨神社に向かったり、披露宴の最後の確認をしたりして、出先で夕食を食べて帰って来たのはもう夜の九時近かった。
「はあ、今日はいろいろあって疲れたな」
「そうですね。でも一日で色々と決めてしまって、改めて奉太郎さんの素晴らしさを再認識しました」
「よせやい。それは俺のセリフだよ。お前こそ迷うことなき決断力で見事だったよ」
 二人でそんなやり取りをしながら、用意された離れの座敷に入った。床の間には鶴と亀にの書かれた掛け軸が掛かっており、中庭が覗く事が出来る半障子の嵌った縁側の障子を薄く開けると庭の桜の木の花びらが、静かに舞っていた。舞い降りた花びらが池の水面に音も無く浮かび、遅い神山に春の到来を告げていた。
「綺麗ですね」
 えるが俺の肩に手を置いて肩越しに眺めていた」
「さて、着替えたら風呂に入ろうか? お義父さん達はもう入ったのかな?」
 俺の疑問にえるは
「一足早く帰ったのでもう済んでいると思いますが、訊いて来ます」
 そう言って部屋を後にした。僅かな間の後で部屋に帰って来て、
「既に済んでいるそうです」
「そうか、じゃ入るかな? 先に入るか?」
 俺が風呂に入る順番を尋ねると、えるは
「あのう……未だ言っては居なかったのですが、千反田家の家訓と言うものがありまして、先祖代々皆が守って来た事があるのです」
 ああ、そう言えば先程、家訓の事をお義父さんも言っていたと思いだした。
「家訓って一体何なのだ?」
 俺の何気ない質問にえるは
「それは、千反田の家を継ぐ夫婦は、特別な事情が無い限り、揃っていれば常に一緒にお風呂に入る事。と言う事なのです」
 何だ、そんな事なのかと口に出そうとして驚いた。
「おい『特別な事情』とは何だ?」
 俺の質問にえるは戸惑いながらも
「それは夫婦に用事があり時間的な都合で一緒に入れない事です」
 じゃあ通常は常に一緒に入ると言う事じゃないか。京都のアパートは無理をすれば二人で入れない事もないが、まずは一人ずつ入っている。それが自然だと思った。千反田家の風呂は総檜造りの湯船でしかも二人から三人は入れる広さで、床と壁はセラミック製の黒いタイル張りになっている。そこに二つの洗い場が用意されており明かりは昼光色の防水のランプが壁に幾つか取り付けられている。かなりお洒落な雰囲気だとは知っていた。あの空間にえると二人だけで過ごすのかと思うと、男として正直、口角が上がってしまう。
「この家に居るならばと言う事です。京都での事は入っていません」
「じゃあ今日から、こっちに居る間は一緒に入る事になるのだな」
「そうですね。夫婦で喧嘩をしても困った事があっても二人でお風呂に入れば何事も上手く行く。と言うのが家訓なんだそうです」
 確かに、それは言えるのかも知れない。結局は男と女に違いは無いと言う事だと納得する。
「じゃあ、一緒に風呂場に行くか?」
「そうですね。そうしましょう」
 えるが二人の下着と浴衣を揃えて、俺が二人分のタオルとバスタオルを持って風呂場に行く。
 脱衣場には違い棚があり、そこに着替えや脱いだ衣類を置く事になっていた。この風呂自体は以前も入った事があるから戸惑いは無かった。尤もその時は一人で入ったのだが。
 シャツを脱いでズボンも脱ぎ下着だけになる。見ると、えるも下着姿になっていた。すると俺に背を向けて背中のホックを外すし、そのまま下も脱ぐとタオルを持って
「先に入っていますね。湯加減を見ておきます」
 そう言って脱衣場と風呂場の境の扉を開いて中に入って行った。俺の目には形の良い、えるの白いお尻とくびれが焼き付いていた。俺もパンツを脱いて後に続く。
 風呂場に入るとえるが湯船に沿って片膝を着いて片手で湯の加減を調べていた。
「ちょうど良い加減ですよ」
 かけ湯をして躰を流すと一緒に湯船に入る。暖かさが全身の皮膚を通して伝わって行く。俺は湯船の長方形の短い方を背にして手足を伸ばし、反対側に居るえるに「おいで」と声を掛けると、えるが後ろ向きで俺の懐に入って来た。自然と手がえるの前に回り、その豊かな胸をまさぐるようになる。確かに喧嘩をしても、一緒に湯に入れば嫌な事も忘れると思った。
「あん、奉太郎さん……後でわたしが奉太郎さんの躰を洗ってあげますからね」
 えるがそんな事を言って躰を俺に預けて来た。今はこの感触を楽しむ事にする。つくづく良いものだと思った。
 その後、二人でお互いの躰の隅々まで洗った。お互いに躰を洗う行為があんなにも興奮するとは思ってもいなかった。無論その夜はお互いに激しく求め合った。
 籍は既に入れていたが、今までは何処か恋人の延長気分だったが、この夜から夫婦としての自覚が出て来たと思った。こうした事まで考えていたのだろう。さすがご先祖様だと思った次第だ。


                         <了>
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