自作小説

「バイクと恋と噺家と」第36話

 コーヒーを飲んで帰って来ると、最初の萩太郎さんが出番の準備をしているところだった。萩太郎さんはわたしの姿を見つけると
「初っ端だからね。緊張するよ」
 そう言っていたが、馬富さんが
「兄さんはこれが手だから、騙されちゃ駄目だよ」
 そんなことを言って笑わせてくれた
「兄さん、里菜ちゃんは小鮒っていう彼氏が居るんですから」
 そう注意をすると萩太郎さんは
「だから、俺の人なりを知って貰って、友達を紹介して貰おうと思ってさ」
そんなことを言っている。多分気分をほぐしたいのだろうと思った。そして萩太郎さんの出囃子が鳴り出した。
「じゃ行ってくる」
 そう言い残して高座に出て行った。わたしは急いで客席に戻る
「え〜今日の『若手特選会』の初っ端の高座でございます。萩太郎と申します。どうぞよろしくお願い致します」
 挨拶をして噺に入って行く。この「代書屋」というのは。今で言う「司法書士」にあたる職業で、法的な書類の他に個人的な書類の作成もやっていたそうだ。
 ある代書屋さんにワケの判らない男が、履歴書を書いて貰いにやって来て、トンチンカンなことを言う。非常に笑いの多い噺で、誰がやってもウケる噺だ。だがそこが返って難しいと小鮒さんは言っていた。本来は次々と客が来て、それぞれが無理難題を言う展開になる長い噺なのだが、元は上方の新作だったが、今や東西で演じられて古典になっている。東京では最後までは余り演じられず。最初の男だけで終わる。萩太郎さんの師匠が、かなり作り変えたのだと言っていた。
「そこかけて」
「へ?」
「かけるの!……誰が走れと言ったの!」
 こんな調子で噺が進行する。会場は爆笑に継ぐ爆笑で完全に客席が温まった感じだった。
 最後は学歴の噺になり出身の学校を訊くところがオチとなる。この先の職歴のところまであるが、今日はそこまでは行かない。
「ああ、いけねえ!」
「どうした?」
「学習院だった」
 一斉に拍手が沸き起こる。萩太郎さんは満足げな表情で高座を降りた。わたしは翠と一緒に居たいので楽屋に向かう
「あ、里菜。来てくれたんだ」
「当たり前でしょ」
 楽屋の袖からも無理すれば見えるが、ここは大人しく楽屋のモニターで小鮒さんと一緒に見ることにする。二番手の馬富さんの出囃子が鳴って馬富さんが翠の方を向いて頷いてから出て行った。翠は両方の手を胸の前で組んで祈るような表情でそれを見送った。
「青菜」という噺は、旦那の庭を剪定していた植木職人の熊さん。旦那に色々とご馳走になる、鯉の洗いから始まり、「柳陰」という珍しい酒やそうめん等をご馳走になった後に
「時に植木屋さん。菜はお好きかな?」
 と尋ねられる。熊さんは
「へえ、大好物でございます」
 そう答える。旦那は奥方に菜を持って来るように言うが奥方は
「旦那様、鞍馬山から牛若丸がい出まして、その名を九郎判官」
「そうか、では義経にしておきなさい」
 そう返事をする。これは青菜は食べてしまって無いという洒落だったのだ。これに感激した熊さんは、家でもやろうとして失敗すると言う噺なのだ。
 この噺は馬富さんの師匠の宝家圓馬師匠だと、寄席の客席が旦那の庭になってしまう現象が起きるのだ。我々聴いてるものはそう感じるのだ。今日の馬富さんもいい出来できっと客席はそう感じているのだと思う。翠は目を瞑って噺を聴いている。そうなのだ、こんな時は耳だけで聴いた方が、色々な事が判るものだとわたしも感じた。
 熊さんの女将さんが、友達の前に押し入れから汗だくで出て来て
「旦那様、鞍馬山から牛若丸がい出まして、その名を九郎判官義経」
 と最後まで言ってしまった。困った熊さんは
「う〜ん弁慶にしておけ」
 サゲが見事に決まった。翠はそれを聴くとスクッと立って馬富さんを出迎えた。
「良かったよ!」
 翠の瞳が濡れていた。それだけこの噺に掛けていたのだと判った。
「そうか、師匠譲りだからな。やり難い噺に敢えて挑戦してみたのさ」
 その言葉はきっと本音だろうと思う。翠は着替えを手伝っている。それを見た小鮒さんは
「ちょっと」
 わたしを呼んで楽屋の外に連れ出した。ロビーの椅子に座り
「ここまでの出来は二人共いい出来だね。今日はかなり水準が高い。俺も頑張らないとな」
 そう言って笑みを浮かべた。そして
「卒業したらだけど、考えておいてくれないかな」
「え、……」
 それって……しかもいきなり……なんで今日なの? 今日は噺のことを考えていたのじゃ無いの? 
「駄目かな?」
 駄目って。そんな訳ないじゃない。でも、何て言おう……。ずるいと思った。わたしが簡単には断れないと思ってだと、その時は思った。
「もしかして、それって……」
「ああ、一緒になって欲しい」
 意識はずっとしていたし、それまで交際が続いていれば、そうなるものだと漠然と思っていた。
「まだ。一年半あるよ」
「もう一年半しかない」
「食べさせて行けるの?」
「そうなるように頑張る」
 結論は出ていた。今は彼以外の人と一緒になるなんて考えられない。でもすぐに返事をしては癪だと思った。
「今日もだけど、これからもこの会に落とされずに出演出来ていたら、噺家古琴亭小鮒の女将さんになる」
「ありがとう。一度も落とされないように頑張るよ」
 高座では福太郎さんが「菊江の仏壇」をやっているはずだった。

「バイクと恋と噺家と」第35話

 五月の「若手特選会」まあこれが本当の会で今までの二回は予選みたいなものだったのだけど、その五月の会は五月十日に行われる。五月と言えば噺家や芸人にとって稼ぎ時だ。特に上旬のゴールデンウィークは寄席や落語会にも多くの人が詰めかける。だから寄席でも一枚看板の師匠をトリに持って来たり、豪華な顔ぶれの落語会が開かれる。小鮒さんもびっしりとスケジュールが埋まっていた。わたしと出会った頃はこの時期でもろくに仕事が入っていなかった事を思うと胸に迫るものがある。
 翠と賢ちゃんこと馬富さんの披露宴は五月の最後に行われる。その頃なら馬富さんの仕事も一段落つくからだ。でも今年はその前に「若手特選会」があるので翠はピリピリしているみたいだ。電話でも不安や愚痴が多い。常に前向きな翠がそんなことを口にするのは余程のことなんだろうと思う。何時もは反対のことが多いからだ。
 四月も中旬になると五月の「若手特選会」の演目を決めなければならない。馬富さんは案の定「青菜」だった。小鮒さんは何をやるのだろう。訊いてみたら
「俺は今回は『替わり目』をやろうと思うんだ」
「『替わり目』かぁ。冬ならともかく初夏だからねぇ」
「まあ、そうだけどさ。だから誰も選ばないと思ってさ。皆が夏や初夏の噺なら詰まらないと思ってさ」
 小鮒さんは確かに今年に入って良く「替わり目」を演じていた。この噺は五代目志ん生師が得意にしていた噺で、夫婦の情愛の噺とされている。笑いの多い噺でもあり演者としては不足は無い噺だ。
「期待しちゃっていい?」
「ああ、頑張るよ」
 わたしは小鮒さんがこの噺を選んだ理由を訊きたかったが今は尋ねない事に決めた。きっと回答は当日の高座にあると思ったからだ。
 他の演者の演目も決まった。福太郎さんはやはり上方落語で「菊江の仏壇」。段々さんが「黄金餅」で萩太郎さんは「代書屋」と決まった。個人的な見方だが、小鮒さんや馬富さんに比べて福太郎さん、段々さん、萩太郎さんは難しい噺に挑戦するのだと思った。確か演目のリストにはもっとやり易い噺もあったはずだ。それでも敢えて難しい噺を選んだ三人はそれだけ真剣なのだと思った。決して小鮒さんと馬富さんが簡単な噺を選んだ訳ではない、小鮒さんが言うには
「賢治の奴はよほど上手くやらないと落とされる可能性があるな」
 そんなことを言っていた。わたしは、その理由が知りたくて
「どうして。師匠ゆずりなら上手に出来るんじゃない」
「だからさ、上手に出来て当たり前と思われるということさ。つまり合格点が引き上げられるという事さ」
 そうか、そんな事はわたしは考えていなかった。
「じゃあ余程の出来で無ければ駄目とう事?」
「そういう事だと思うよ。誰も決して楽を考えている訳では無いからね」
 そう言った小鮒さんの「替り目」だって簡単な噺ではない。小鮒さんの師匠の古琴亭栄楽師匠はこの噺を秋から冬になると良く寄席で演じるという。先日小鮒さんは師匠の家に行って「若手特選会」でこの噺を演じることを告げたそうだ。その時師匠の栄楽師は
「この噺は笑わせるポイントが沢山あるがその根底にあるのは夫婦愛だ。それを踏まえていれば良い」
 そうアドバイスしてくれたという。ちなみに噺家は前座や見習いは毎日師匠の家に朝顔を出して掃除や雑用をする。前座はその後ご飯を食べて寄席に行く。見習いは更に雑用をして師匠のカバン持ちをして一緒について行く。これが仕事だ。二つ目になると、それらからは開放されるし、基本的に師匠の家に、毎日は行かなくても良くなる。でもたまには顔を出さないと駄目らしい。小鮒さんは地方の仕事から帰って来るとその行き先の土産を必ず北千住の師匠の家に持って行っている。それは師匠というより見習いや前座の頃に大変お世話になった女将さんへの気遣いだと、わたしは思うのだ。
 今年のゴールデンウィーク、小鮒さんは本当に忙しくて、向島の家に帰って来るのも遅くなることが多かった。大学が休みなので、顕さんが向島の家に帰る時は、おばあちゃんの許可を得て、わたしも向島の家に泊まっていた。
「里菜ちゃんが来てくれると家の掃除や家事を色々してくれるので助かるわぁ」
 おばあちゃんはそう言ってくれているので、正直わたしも来やすいのだ。お風呂を沸かしておいたり、おばあちゃんや顕さんの好きなものを作っておくのだ。わたしは、たまにだが翠はこんな事をもう二年以上もしていたと思うと頭が下がる。結婚するとこれが毎日になるのだと実感した。

 十日の特選会の出番が告知された。まず一番手は萩太郎さんで「代書屋」二番手が馬富さんで「青菜」仲入りが福太郎さんで「菊江の仏壇」くいつきが段々さんの「黄金餅」そしてトリが小鮒さんの「替わり目」だった。向島の家で遅い夕食を食べながらわたしは顕さんに
「ねえ今度はトリなんだね。凄いじゃない」
「違う、違う、これ持ち回りだからね」
「持ち回り?」
「そう順番なんだ。この次は俺がトップになると決まってるんだ。だからそんな点も考えて演目を選ぶんだよ」
 「そうかぁ。あきまでも公平なんだね」
「まあこの会に選ばれた時点で注目されているからね。そこから先は自分次第ということさ」
 小鮒さんは少しも浮かれていなかった。
 向島の家では実家の傍にある「実咲公園」のような場所が無かったので小鮒さんは向島の家の近所を歩きながら噺の稽古をしていた。わたしもそれに付き合って一緒に歩く。向島は夜遅くなると人通りも少なくなるが、さすが東京だけあって街は明るい。わたしひとりでも歩くのに不安を感じさせる事は無かったので、遅くなっても心配は要らなかった。そして十日を迎えた。
 その日、わたしは大学の講義が終わると虎ノ門の「ニッスイホール」に向かった。地下鉄を降りて会場の前まで来ると、大きな看板が掲げられていた
『第一回 若手特選会』
 白地に黒く書かれた文字は見事だった。正式には今日が第一回なのだと再認識する。そうなのだ「特選」の文字に嘘は無い。選ばれた二つ目の噺家十人の内から更に六名に絞られたのだ。次回は遊五楼さんが入って、今日一番出来が悪かった人が次回は休みになる。その次には出られるが、そこでまた一番出来が悪いと交代の可能性もあるそうだ。常に真剣でなければならない。
 会場に入って楽屋を訪れると、先に翠が来ていて馬富さんの世話をしていた。
「ああ、里菜。今来たんだ」
「うん。今日は講義があったからね」
「小鮒さんはトリだからもう少し遅くても良かったかもね」
 その声で楽屋の奥から小鮒さんが出て来た。未だ着物にも着替えていない。口上が無いから出番の前までに着替えれば良いのだ。
「お茶飲もうか」
 小鮒さんは他の噺家さんに気を使って、わたしを表に誘い出した。すぐ傍のコーヒー屋さんで小鮒さんは
「翠ちゃんはすっかり女将さんだね」
 そう言って笑っていた。噺家の中にはあまり関係者を、楽屋に入れたがらない人も居る。今日のメンバーにそんな人が居るのかは、判らないが小鮒さんはきっと気を効かせてくれたのだろう。出番がトリという事もあると思った。
「そんな心配な顔をしなくて良いよ。大丈夫次もきっと出られるから」
 小鮒さんは、わたしの表情からわたしの心配事を見抜いていたのだった。それだけ余裕があるなら大丈夫だと思った。

「バイクと恋と噺家と」第34話

 天城は夏なら箱根の十国峠から伊豆スカイラインに入ってそのまま南下すれば良いが箱根の天気が怪しいとその道は使えなくなる。地図を出して顕さんとルートを検討する。
「伊東あたりからスカイラインに登って行く道はどうかしら?」
「この道、この地図だと白く書かれているから結構険しいと思うよ。天気が良ければワインディングロードで楽しいけどね」
 結局、国道百三十五号線を河津まで下り、川沿いに登って行くことにした。この道なら天気が悪くても整備されているから大丈夫だろうと言う事になった。登って行く途中に「河津七滝」や「浄蓮の滝」などを観光しながら行けるという魅力も後押しした。
 当日は雨や雪こそ降っていなかったが、晴れてもいなかった。天城も雪は降っていなかった。厚い雲が空を覆っていて、たまに雲が切れると太陽が少しだけ顔を覗かせる程度だった。わたし達は顕さんの家に向かい合流して厚木を目指す。厚木からは「小田原厚木道路」に入って小田原を目指す。初めての高速道路(本当は自動車専用道路)だったが、スムーズに走れた。顕さんが色々とサポートしてくれたお陰だと思う。その後は熱海に向けて百三十五号に入り、海に近い道を走る。その後は、車だと「熱海海岸道路」に入るのだが、わたしと顕さんはそのまま百三十五号を走る。小田原と熱海の間はかなり山道で、バイクだと楽しいが車だとキツイとのではと感じた。確か大学の講義で習ったが、江戸時代の旅の様子が書かれた紀行文でも小田原までは平坦な道だが、小田原から熱海まではかなり険しい道で、女子供ではキツイと書かれてあったと思い出した。その時のわたしは、東海道が熱海を通って無く、箱根に向かっているのは、熱海を経由しても、その後がかなりの山道なので、箱根を通った方が、未だ楽なのだと思ったのだ。
 熱海からはそのまま百三十五号を南下する。この道は家族で海水浴に来たこともあるし、中学の臨海学校でバスに乗って通ったこともあるので、楽しい道の印象がある。その印象はバイクで走っていても同じで、心が次第に弾んで来るのだ。
 伊東を通り過ぎて、河津から山に入って行く。もう河津桜はとっくに終わっていて葉桜となっている。だから観光客が少ないのは走るには幸いだった。「河津七滝」では駐車場にバイクを置いて歩きで滝を巡って見た。降りると、また登らなければならないのだが……。
 勿論、ループ橋も走った。途中の道の駅で、少し遅いお昼を食べる。その後も少し登り天城峠や川端康成関係の場所を見て、天城の旅館に到着した。旅館は川沿いにあり景色の良さが特色だった。宿の中居さんに
「お風呂は男女別の大浴場がありますが、下に降りると川沿いに露天風呂があります。ここは男女混浴となっております。目の前に滝も見れて結構人気でございます」
 そう説明してくれた。ああ混浴なんだ……判ってはいたが中居さんに説明されると、俄に現実感が湧いて来る。中居さんは説明をしてお茶を入れてくれると下がって行った。そっとポチ袋を渡す。
「ありがとうございます」
 そんなお礼を言ってくれた。二人だけになった。顕さんは早速宿の浴衣に着替えている。それを見て、わたしも着替える。
「夕食まで未だ時間があるからお風呂に行こうよ」
「うん。温泉だものね」
 わたしはこの時、普通の大浴場に行くのだと思っていたが、顕さんは
「どうせなら下の露天風呂に行かないか?」
 そんなことを言って来た。いきなりですか。
「露天風呂って混浴なんでしょ」
「そう言っていたね。大丈夫でしょ。他にもお客さんが入っているのだろうし」
 顕さんはわたしが考えているような事は頭の中に無いらしい。
「でも少し恥ずかしいな」
「そうか、嫌なら仕方ないけどね。でも、余り気にする必要はないと思うよ。自然の中って本当に気持ち良いから」
 顕さんは以前にも、混浴の露天風呂に入ったことがあるのだろうか?
「前に入ったことがあるの?」
「ああ、ここじゃないけどね。地方の仕事なんかでね」
 そうなのか、顕さんは旅の仕事が多かったのだ。わたしより沢山色々な温泉に泊まっているのだと思った。
「判った。一緒に入る」
 
 河原にある露天風呂に行くには、一階のフロントの脇にある出入り口から河原に降りて行く。崖に作られた石の階段だ。少し降りて行くと露天風呂が見えて来た。位置的には周りから見えない位置にある。この辺りの敷地は全てこの旅館のものなので、他からの人間は入って来ないのだそうだ。
 川の流れる音と滝の「ゴーッ」という音が聞こえて来た。緑の渓谷に囲まれた露天風呂は、わたしの目にはとても魅力的に見えた。
「キレイ!」
「ああこれほど美しいとは思わなかったな」
 下まで降りて行くと中年の夫婦らしい二人連れが石段を登るところだった。軽く会釈をする。
 小屋みたいな脱衣所で浴衣を脱ぐと顕さんはさっさと露天風呂に入って行く
「あ〜気持ち良いなぁ〜里菜も早く入ればいいよ」
 誰も居なくなったので顕さんが、そんな声を掛ける。本当はどうしょうか、バスタオルを持って来たのだが、そんな必要はなさそうだった。わたしも裸になると顕さんが入っている露天風呂に足をつける。程よい温かさを感じる。そのまま少しづつ体を湯に浸からせて行く。そんなわたしの動作を、顕さんはニコニコしながら眺めている。
 少し浅いので体を寝かせないと全身を浸からせることが出来ない。背を倒して頭を岩が枕になるようにして肩まで浸かった。気持ちの良さが全身を覆う。
「本当に気持ちいいわね」
「だろう。こうして自然の中に居ると何もかも忘れてしまいそうになるよ」
 顕さんは目を瞑って湯に身を任せていた。わたしは滝に見とれていた。そのままどれぐらい経っただろうか。突然に顕さんが
「ああ、ノボセて来た」
 そう言って露天風呂の横を流れている清流に飛び込んだのだ。そうしてスイスイと滝に向かって泳ぎ始めた。未だ四月だ。水だって冷たいはずだった。
「大丈夫? 水冷たいでしょう」
「平気だよ。そんなに長く泳いでないから」
 顕さんはそう言って露天風呂に帰って来た。どうやら水風呂の感覚だったみたいだ。
「火照った体に川の水が気持ちよかったよ」
 顕さんがそう言うのでわたしも足だけ川に漬けてみたが、かなり冷たいので泳ぐことは止めた。
「ああ、スマホを持って来るんだった。部屋に置いて来ちゃった」
「スマホで何をするの?」
「里菜が泳いているところを写真に撮ろうと思ってさ」
「裸で泳いているところ?」
「そう。記念にさ」
「趣味悪い! ヘンタイよそれ」
「そうかな。綺麗だと思うことを記録に残して置きたい、と思うのは自然な事なんじゃないかな」
 顕さんは急に真面目な顔をした。そして
「おいで」
 そう言ってわたしの手を掴んで軽く引き寄せた。わたしは顕さんに後ろから抱かれるような格好になり湯船に浸かることになった。その格好のまま、わたしは首を少し回して顕さんと口づけをする。誰も居ない自然の中の二人だった。
「帰るまでずっと二人だけだよ」
「うん」
 その言葉の意味は充分理解していた。

「バイクと恋と噺家と」第33話

三月十五日の「若手特選会」にはわたしも顕さんも行かなかった。それは、行けばそれぞれの出来を見ることになり、不安の種になりかねない。当然、翠は会場に足を運ぶだろうし、そうなれば彼女の一喜一憂に付き合わなければならない。それは今のわたしの本意ではない。顕さんこと古琴亭小鮒の今度の戦いは既に終わったのだ。結果こそ未だ出ていないが、今更ジタバタしても仕方ないと思うのだ。そんな時間があるのなら、やりたいことは沢山ある。ツーリングにも行きたいし、バイトをしてお小遣いを貯めたいし、また小鮒さんの稽古に付き合っても良い。兎に角、わたしが会場に足を運ぶ理由は見い出せないのだった。だから当日の模様は後で翠から聞いた。
 馬富さんの「厩火事」は翠が言うには感動モノだったそうで、トップバッターにも関わらず会場を沸かせたそうだ。萩太郎さんの「茶の湯」はそれほど笑いが多い噺ではなかったが萩太郎さんの個性が出ていて悪くなかったとか。銀竜さんはの壺算は悪くなかったが、店の番頭さんが少ししつこく感じたとのこと。そこが上方落語だった面影を感じさせる出来だったそうだ。そこがどう評価されるかだと言っていた。遊五楼さんの「猫の皿」は少し噺が「壺算」と被るところがあったが、こちらは騙し騙されの展開に持ち込み、客席を沸かせたそうだ。そして洛市さんの「百川」はこの噺を自家薬籠中としていた大師匠を彷彿とさせる出来だったという。尤もその大師匠のことは翠は知らないので他の人から聞いたそうだ。
 その日、わたしは朝からバイトでスマホをロッカーに置いていた。だから休憩時間まで大事な知らせを知らなかった。スマホを開けて見ると、LINEのアイコンに赤い数字のマークが付いていた。ドキリとして開いてみると顕さんからだった。
『先ほど連絡が来た! メンバーに選ばれたよ!』
 その文字を見た瞬間涙が滲んで画面が霞んだ。わたしの様子を見て同僚の子が
「涌井さん大丈夫!? 何か辛い知らせ?」
 勘違いをさせてしまった。
「ううん違うの嬉しい知らせだったの」
 そう答えて同僚を安心させた。
 バイトが終わるとわたしはバイクに乗って顕さんの元に急ぐ。今日は向島のおばあちゃんの家に泊まるはずだった。わたしは大学の近くのバイト先から向島に向かう。冷たい風も何も気にならなかった。それだけ心が喜びに溢れていた。
 向島の家で顕さんから詳しいことを聞いた。まず、選ばれた六名は、小鮒さん、馬富さん、福太郎さん、談々さん、遊五楼さん、そして萩太郎さんが選ばれた。小艶さん、銀竜さん、文吾さん、洛市さんは残念だった。
「良かったね」
「うん、ありがとう」
 おばあちゃんは今日は踊りの仕事で箱根に行っていて帰って来ない。二人だけの家でわたしは、身も心も何かも脱ぎ捨てて顕さんに、思い切り甘えた。感情が高ぶって、顕さんが心配をしてくれるほど幸せな時間を過ごした。
 その後に聞いた講評では一番の出来は福太郎さんだったそうだ。難物の「親子茶屋」をあれだけ演じられたという事が評価されたそうだ。次が我が小鮒さん。やはり親子の情愛が噺の根底に流れている事が伺えたと言う評価だった。三番目が段々さん。そして馬富さんで、最後が萩太郎さんだった。次点の小艶さんとの差は僅かだったという。
 二番目だろうと何だろうと、わたしは嬉しかった。「特選会」に出て上手くなり、そのうち一番になれば良いと考えたからだ。そして本番の「若手特選会」は五月に開かれる事となった。演目のリストが送られて来ていて、小鮒さんは何を演じるか考えていた。
「夏の噺だよね」
「そうだな。馬富は『青菜』だろうな。師匠の得意な噺だし。あいつも得意にしてるからな」
 翠は結果が馬富さんが小鮒さんより評価が低かった事が気に入らない感じだそうだ。五月といえば二人の式があるが、幸い「特選会」の後だった。
「一番の評価を貰って披露宴の添え物にするわ」
 そんな事を言っていたので翠らしいと思ったのだ。
「でも出来が悪いと次点の小艶兄さんと交代させられるけどね」
 小鮒さんはそんなこと言っていたが、この前の「厩火事」だって素晴らしかった。落ちることは無いと信じる。
 
 四月になりわたしも進級して三年生となった。そろそろ、就職のことも頭に入れておかなくてはならない。でも、講義が始まる前に以前から約束していた温泉にツーリングに行くことになった。顕さんが二日続けて休みを取れたのだ。
「一泊二日だけどね」
「ううん。それでも良いわ。うれしい」
 そうなのだ。好きな人と温泉で一夜を過ごす。どんなに素敵なことか……。
 バイクの調子を見て貰いにメンテナンスを頼みにバイク屋さんに持って行った時だった。バイク屋のオジサンが
「その日は雪の予報が出ているよ」
「え、うそ!」
「東京とか神奈川、千葉は大丈夫だけど箱根とか埼玉の山の方は降るみたいだよ」
 四月になって雪とは考えていなかった。
「最近天気予報当たるからね」
 オジサンはそう言ってタイヤの溝を測ってくれたり空気圧を調べてくれている。
「雪の心配ない地方に行けば?」
「だって予約しちゃったもの」
「何処に行くの?」
「伊豆」
「なら大丈夫だろう」
「でも天城だから」
「ああ、際どいなぁ」
 心配しているわたしに
「天城なら電車とバスでも行けるから、当日の朝に旅館に電話して、雪の具合を聞いてから変えても良いと思うよ」
 さすが年の功だと思った。確かにそこは連絡さえしておけば、近くの駅まで送迎してくれるのだった。
 家に帰ってLINEで顕さんに天気のことを伝える。するとすぐに返事が返って来た。
『当日向こうに電話して決めよう。バイクでなくても里菜と二人だけで温泉に行きたいから』
 二人だけで温泉かぁ……。わたしはその日、ずっとそのことばかり考えていた。周りからみれば、変人と思われたかも知れない。

「バイクと恋と噺家と」第32話

「若手特選会」は選ばれた十名のうち、最終的に六名に絞られる。つまり今回のメンバーから二名が落とされるということらしい。未だ出ていない残りのメンバーは来月に開かれる会の出来で選考されるという。
 でも、次の回の出来が皆悪かった場合は、二回の会を総合的に判断して六名を選ぶそうだ。だから来月の会が終わらないと「特選会」のメンバーに選ばれるのかは判らないのだ。でも、わたしは小鮒さんがきっと選ばれると信じている。あれだけの出来だったのだ。あれだけの高座を見せてくれたのだ。落とされるハズはないと心から信じている。
 そうして六名が固定されれば三月に一度開かれる「若手特選会」に、お互いに交代で出ることになるのだ。交代というのは会に出るメンバーは五名で、一名は予備ということらしい。メンバーに何か不都合があった場合に出演するのだと言う。次の会は出演しなかった者から選ばれて、前の会の出演者から一名が休むということだそうだ。
 年度末の試験も終わり、大学も休みになっていた。翠は短大を卒業して卒業式の時の袴姿の自分の写真を送って来ていた。わたしは、その写真を顕さんにLINEで送った。そうしたら顕さんは楽屋で他の噺家さんや芸人に見せたそうで、後で顕さんが
「楽屋ではこんなに綺麗なのにお嫁に行っちゃうのがとても惜しい。って言っていたよ」
 そんなことを嬉しそうに言っていたが、彼女としては、馬富さんの妻になることが当面の目標なんだから仕方ないと思った。わたしは翠の晴れ姿を見て彼女なりの覚悟をそこに見て取れた。きっと翠は独身として着飾るのは、これが最後だという想いがあったのだと思う。そこに彼女の心構えの覚悟を見た気がしたのだ。翠と馬富さんの式は五月に決まった。翠はその時に自分も馬富さんも笑顔で迎えたいと考えているはずだ。だから今度の「若手特選会」の選考会には絶対負けられないと思っているはずなのだ。
 今度の会には協会からは、宝家馬富、秋風亭萩太郎、萩家銀竜、芸協からは三圓亭遊五楼、そして圓洛一門会からは三圓亭洛市の五名が出ることになっている。そしてまだ寒い三月の十五日に行われるのだ。演目も発表された。馬富さんが「厩火事」、萩太郎さんが「茶の湯」、銀竜さんは「壺算」、遊五楼さんは「猫の皿」、そして洛市さんが「百川」と決まった。どれもこれも簡単には行かない噺だと小鮒さんが言っていた。噺そのものは、わたしも寄席や落語会等で聴いたことがある。その中で馬富さんが「厩火事」を選択したのには理由があると思った。落語好きな人ならこの噺が、どのようなものなのか判ると思う。要するに仲の良い夫婦の噺なのだ。この噺を翠の前で演じる事で、わたしは馬富さんが翠との結婚。ひいては、彼女のことをどの様に思ってるのかを、告白するつもりで選んだのだと思うのだ。正面切って言うのが恥ずかしいので、自分が、全身全霊をかけて臨む高座を通じて、伝えるつもりなのだと思うのだ。
「賢治の奴、結構シャイなんだよな」
 寒い日に向島の家で、炬燵にあたりながら顕さんが、わたしに語った。
「え〜そうなんだ。そうは見えないけどね」
「ま、人は見かけによらない。ということさ」
「じゃあ、顕さんは?」
「俺は見かけ通りかな」
「じゃぁ、エッチでスケベってことね」
「おい、俺そんなにエッチか?」
「充分」
 顕さんと、そんなやり取りをしてお互いに笑ってしまった。何時か約束したツーリングは、未だ行けていない。それを思い出したのか顕さんは
「特選会の選考が終わったら結果に関わらずツーリングに行こうな。春の温泉も楽しいよ」
 そう言って、わたしにツーリングのことを思い出させてくれた。覚えていてくれたことが嬉しかった。だって、わたしは温泉のことなど正直忘れていたからだ。
『二人だけで温泉かぁ……』
 頭の中で色々想像をする。もしかしたらエッチなのはわたしかも知れない。
「どうした?」
 気がつくと目の前に顕さんの顔があった。
「あっ」
 気がつくと口を塞がれていた。やっぱり顕さんはとてもエッチだ。
「俺なら馬富より上手くやって、里菜を喜ばせてみせるさ」
 そう言って少し自慢げな表情をわたしに見せてくれた。こんな時、心の感情のひだを見せられると、お互いの距離が近いのを感じる。少し幸せな気持ちになった。
「それが本当なら見たいな」
「いいよ。じゃあ今度の連雀亭でやるよ。聴きに来てよ」
「判った! 楽しみにしてるね」
 こうして顕さんは連雀亭で「厩火事」をわたしの為にかけてくれる事になった。

 三月に入ろうかと言う時期に小鮒さんは連雀亭に連日出演することになっている。十九時から二時間で、四名の噺家が出演する夜席が二度。昼の「キャタピラー寄席」が数日出る事になっていて、「厩火事」をかけるのは夜席だと言うことだった。
 わたしは、その日東京に出て来て神田の連雀亭に座っていた。ここは良く来るので出演者も顔なじみが多い。特に知っている人がテケツに居たりする。「テケツ」というのは切符を売る所の隠語で英語の「チケット」から来てるそうだ。
「あ、涌井さん。小鮒兄さん、もう楽屋入りしてますよ」
「うん。でも今日は演じる前には楽屋には行かないつもりなんだ」
「へえ〜そうですか。じゃぁ来てるの言わない方が良いですかね?」
「うん。そうしてくれると助かります」
 わたしは、そう言って席に座った。
 小鮒さんの出番は最後。トリだ。だからそれまでに三人の高座を楽しむ。皆、結構噺に自分なりの工夫をしていて、とても楽しめた。そしていよいよトリの出番となった。「外記猿」が鳴り出す。今日小鮒さんが演じる「厩火事」という噺のストーリーは……。
 髪結いで生計を立てているお崎の亭主は、文字通り「髪結いの亭主」で、怠け者。昼間から遊び酒ばかり呑んでいて、年下の亭主とは口喧嘩が絶えない。
 しかし本当に愛想が尽き果てたわけではなく、亭主の心持ちが分からないと仲人のところに相談にやって来る。
 話を聞いた仲人は、孔子が弟子の不手際で秘蔵の白馬を火災で失ったが、そのことを咎めず、弟子たちの体を心配し弟子たちの信奉を得たと話と、瀬戸物を大事にするあまり家庭が壊れた麹町の猿(武家)の話しをする。そして目の前で夫の大事な瀬戸物を割り、どのように言うかで身の振り方を考えたらどうかとアドバイスをする。
 帰った彼女は迷った挙句、早速実施。その結果、夫は彼女の方を心配する。感動したお崎が
「そんなにあたしのことが大事かい?」
 と尋ねると亭主はあっけらかんと
「当たり前だ、お前が怪我したら明日から遊んで酒が呑めねえ」
 と下げる噺だ。この最後のオチと亭主が体の事を心配して彼女が感激するシーンが聴きどころとなっている。小鮒さんは登場して頭を下げると
「え〜トリでございます。これ今日は終わりですので、もう少しの辛抱でございます」
 そんな挨拶をして噺に入って行った。
「お前さん、いったいどうしろと言うのさ」
「だから、どうなるのかが知りたいんですよ」
「何だそりゃ」
「だって、わたしの方が六つも歳上なんですよ。今は良いけど、これが歳を取って、わたしが皺くちゃだらけになって、あの人が他所で女なんか作った事には……もう悔しいじゃありませんか」
「要するに相手の気持ちが知りたいという訳かい」
「そうなんですよ」
 小鮒さんはお崎さんの心情を中心に噺を展開して行ってる。揺れる女心の表現が上手く出来ている。顕さんいつの間に、こんな女の心持ちを理解出来たのだろうかと思った。
「思い切ってやってみな」
「思い切ってって言ったって、そりゃ体の事を心配してくれると思いますけどねぇ」
「思いますけどねぇって少しは心配なんじゃねえか」
「旦那、いっそ、これからウチに行って、『これからお崎が帰って来て茶碗を割るから必ず体の事を心配してくれ』って言って来てくださいな」
「そんな事が出来る訳ないだろう。いいからやってみな!」
 ここも上手いと思った。愛しているから、相手から嫌われたく無いという心……その辺りの心のひだの表し方が見事だと思った。そして、こんな素晴らしい人がわたしのことを愛してくれていると思うと、幸せを感じるのだった。
「明日から遊んで酒が呑めねえ」
 サゲが見事に決まって拍手が起きる。ここは三十名ほどしか入らない席だから全員が拍手をしても、それほど大きな音ではないが、それでも大きな拍手だった。
 帰りは一緒に帰ることにする。今夜は実家に帰るのだそうだ。明日の仕事が実家の方だからだ。
「とても良かったよ」
 わたしが、そう感想を言うと顕さんはわたしの肩を抱いて
「里菜が楽しそうに聴いてるので俺も嬉しくなってさ」
「何回も演じてる噺だけど毎回違うんだね」
「ああそうさ。だから俺達噺家は毎回全力で高座を務めるのさ」
 月が煌々と照っていて、わたしは噺家の彼女で良かったと実感した。そして翠が噺家の妻になりたいと、強く願うのも理解出来たのだった。
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