人間が人間世界で暮らすにあたり、無いよりもあった方が良いものに「お金」がある。現代では、自然界で自給自走の生活をしていても、全く無いという訳には行かない様だ。
それと同じ様に料理人にとって多ければ多い程良いものに「火力」が当てはまる。どんなに強い火力でも、それをきちんとコントロール出来なくては一流の料理人とは言えないからだ。
初夏のある日、サブは雅也の頃からのお得意先を尋ねていた。
「どうだい、サブ君。この業務用の強力なコンロならここで揚げ立ての天ぷらを食べさせて貰えるだろう?」
東京の郊外の高級住宅街のある家のキッチンでの会話である。
「そうですね。四万キロカロリーですか、凄いですね。ウチで使ってるヤツでさえ三万六千キロですからねえ」
サブは一応驚いてみせた。
「でも、単なるお座敷天ぷらなら、ここまで凝らなくとも、やりようで何とかなりますよ」
「でもなあ、それは真の意味で本当の天ぷらでは無いだろう。店で食べる天ぷら、そのままが食べたいんだよ」
この家のオーナーの大蔵泰造はカウンターに腰掛けながら言う
「実はね、雅也君にカレーを食べさせて貰った後に、一度問い合わせてみたんだ。そうしたら彼は『社長、それなら天ぷら屋に行って食べた方が安くつきます し、思い切り我儘も通りますよ。それに私は板前であって天ぷら職人ではありませんから、彼らの上げる天ぷらとは質が違います』と言われてしまってね。それ からは紹介して貰った天ぷら屋に通っていたのだが、やはり自分の家で本格的なのが食べたくなってね、サブ君に相談に乗って貰った訳なんだよ」
泰造はあくまでも自分の家で揚げ立ての天ぷらが食べたい様だ。
「確かに、我々板前が上げる天ぷらと天ぷら職人が上げる天ぷらとは質が違いますからね」
下ごしらえを始めたサブに泰造は
「そうなんだよ。でも私はねえ、板前の、それも一流の板前が揚げた天ぷらが食べたいのだよ」
それまで、黙って聴いていた妻の幸子が
「その二つってどう違うんですか?」
そう尋ねると、泰造は嬉しそうに
「うん、いい事を尋ねてくれたね。天ぷら職人の揚げる天ぷらは目の前で揚げて直ぐ食べる様に考えられている。だから衣は薄く、あくまでも素材の味を流失させない為の衣だ」
そう言いながら、泰造はサブの包丁さばきを嬉しそうに見ている。
「社長、今日はメゴチの良いのが入りましたから、楽しみにしていて下さい」
「おお、そうか! ワシの好きな魚だ」
今にもよだれを垂らさんばかりである。
「社長、じゃあ板前の方はどんなのなんですか?」
幸子が話の続きを最速した。それを聴いて泰造はサブが捌くメゴチから目を上げて
「うん、板前が揚げる天ぷらというのは、基本的には宴会用に揚げるものだ。だからどんなに急いで運んでいても、会場に運び込むまでには醒めてしまう。だからそれを見越して、より衣の水分を抜く必要がある。それに見栄えを良くするために花を咲かせる必要がある」
泰造は幸子の方に向き直りながら話を進める。
「じゃあ、単に長く揚げているだけなのか? と疑問に思うだろう? ……そうじゃ無いのさ。天ぷらは衣から水分を抜く作業なんだが、ならば最初から水分を少なく衣を作れば良いと言う事なのだ」
「要するに濃く作るという事でしょう!? でもそれなら花は咲かずにボテっとした天ぷらになりますよね?」
幸子は泰造の言った事の矛盾を攻めたが泰造はそれを予感していたかのように
「そう、普通はそう考えるけれども、一流の板前は違う……あ、ところで、何故「板前」というか知っているかね?」
いきなり話が横道にそれたので面食らった幸子だが
「まな板の前に立つから板前、つまりお刺身を引く人という意味です」
そう答えを言うと泰造は喜んで
「さすが、サブ君の奥さんだけの事はあるな……そう、その刺し身を引く事が専門の板前だが、その地位に来るまでは色々な料理の経験があるから、普通の天ぷ ら職人よりも天ぷらについて造形が深い。だから衣を僅かに濃く溶いて、油の温度を調節してカラット揚げるのだよ。その天ぷらは小麦粉の旨味とネタの旨味が 衣乗り移り、渾然一体となって口の中に広がる快感は、天ぷら屋のそれを遥かに上回るんだよ。ワシは内緒ですよと、良く雅也君からも揚げたてを摘ませて貰っ たんだよ。だからその味が忘られ無くてねえ……」
その口ぶりはまるで恋人を語る様な感じだった。
サブは手際よく魚を処理していく。どうやら今日のメインは揚げての天ぷらを食べさす様で、カウンターにすわって貰い、注文に応じてサブが天ぷらを揚げて行くやり方で天ぷら屋のやり方そのままを自宅で行おうと言う泰造の発案であり長年の望みだったらしい。
「飲み物は何にします?」
幸子が泰造に尋ねると、少し考えて
「うん、最初はビールで直ぐに冷酒に替えて貰おうかな。確かそっちの冷蔵庫に入っているよ」
泰造が指さした先には飲食店で見られるビール冷蔵庫があった。
「社長、明日からお店を開店出来ますねえ」
幸子が笑いながら言うと泰造は
「雰囲気あるだろう」
そう言って悦に入った。
暫くして泰造が呼んだお客達がやって来た。泰造を入れて四人だった。揚げる人数としてはもう少し多くても良いが、少なければそれだけ気が回るとサブは思った。
カウンターに座った四人の前に茹でたての湯気が立った枝豆が出される。
冷蔵庫からはキンキンに冷えたビールが出されグラスに注がれるとサブが最初の魚、キスを揚げ始める。キスは蛋白なので、強い味の魚の後ではその繊細な持ち味を殺してしまう。
それぞれの前には、天つゆと抹茶塩が用意されていて、各自が好きな方で食べられる様にしてあるのだ。
続いてはそら豆を天ぷらにする。勿論皮を向いて中の豆だけを揚げるのだ。柔らかい感触とそら豆の風味が口の中一杯になる。
「うん、これだよ! この衣の旨さだよ。実に旨い!」
泰造は喜びと感嘆を交互に口にした。
マキ(車海老)、帆立、メゴチと続いて行く。メゴチは旨味が濃いのでこの位の順番になる。
本当は烏賊も揚げたいのだが、烏賊は油に匂いを残すので最後にする。単品をひと通り揚げた後はかき揚げに移る。
江戸前のかき揚げほ本来二種類程度の材料を絡めて揚げるのが粋と言われている。五目では駄目なのだ。
「最初は、あさりのむき身と枝豆を味わって戴きます」
サブがそう言うと小さなお玉にむき身に剥いた枝豆を入れると溶いた衣を入れて鍋の中に落として行く。
「シャー」という水分を弾く音がする。やがて、その音が甲高くなって来るとそろそろ揚げ時だ。サブの目が真剣になる。
天ぷらは五感全てを使ってつくり上げる料理なのだ。
「社長、今日はいいですよ」
サブの言葉を泰造は良く判っていた。
良い材料が手に入り、調理する者が健康で体調が良く、しかも技術がある。それに、何と言っても食べる方も健康が求められるのだ。その全てが揃って「天ぷら」と言う料理は完成するのだと言う意味だった。
「うん、出来たな……」
泰造もまた、簡略に答えるだけだった。
作る者が居て、それをきちんと食べる事の出来る者が居る。それで料理は完成するのだと言う事が判った日だった。
「社長、最後は三つ葉と小柱のかき揚げで天丼にしますね」
サブの声に泰造は笑顔を見せるのだった。