目標

目標 第26話 「対面」

目標 第26話 「対面」

 暫くして、看護婦さんがやって来て
「奥様とお話出来る様になりました。どうぞ」
 と言って病室に案内してくれた。
「夫婦の話だから、私はここで待っているから」
 お袋はそう言って待合室に座っていた。俺は、兎に角事情が判らないので、まず真理ちゃんと話してからだと思ったのだ。

 病室は三人部屋だったが、真理ちゃん以外のベッドは空いていた。母親のベッドの隣に赤ん坊のベッドが横付け出来る様になっていた。だが、そこはだたの空間だった。
 俺が部屋に入って行くと真理ちゃんは疲れた様な顔をしていた。
「ご苦労様」と俺が言うと真理ちゃんは
「ごめんなさい。赤ちゃんね。最初息していなかったの。それで先生が急いで蘇生して、やっと息しだしたの」
「それで……今は会えないと」
「本当に御免なさい!」
 真理ちゃんは大粒の涙を流しながら俺に謝まる。
「泣くことなんか無いよ。真理ちゃんのせいじゃ無い。そう云う運命を持って生まれて来た子なんだよ」
 俺は、俺の頭で言えるだけの事を真理ちゃんに言った。意味が通じただろうか?

 持って来たハンカチで真理ちゃんの涙を拭ってやる。
「俺たちの子だ、きっと大丈夫だよ」
 そう言って真理ちゃんを安心させる。出産と言う大変な事をやり遂げて、褒められこそすれ非難なんてもっての外だと思う。その時看護婦さんが来て、
 明日の午前中に先生が詳しい説明をなさいますので、十時にいらしてください」
 そう伝えて来た。
「全ては明日ちゃんと先生に説明して貰って、納得行くまで聞こう」
 俺はそう云うと真理ちゃんも安心したのかやっと笑顔になった。
「少し寝た方がいいよ。痛いかい?」
「うん、痛いから鎮痛剤貰った。効いて来たら寝るわ」
 それがいい。傍に居ようか?」
「大変で無かったら居て」
「うん、じゃあちょっと待ってて、お袋を家に帰すから」
 俺はそう言って、待合室に帰り、説明をした。
「そうかい、そう云う事ってあるんだよね。運というのかね。命は大丈夫だと看護婦さんも言っていたから、明日ちゃんと説明して貰うんだよ」
 お袋はそう言ってタクシーで帰って行った。多分明日も来ると思う。ああもう今日だ。
 真理ちゃんがベッドに横になり、その横に俺はイスを出して座っている。片手を出した真理ちゃんの手を俺は両手で握り締め、安心させて眠らせる。辛いかも知れないけど、苦しいかも知れないけど今は我慢してくれ、俺はそう思うのだった。

 何時の間にか寝てしまったらしい。体が痛くて目が覚めた。見ると真理ちゃんは寝ている。正直、ほっとした。疲れてないわけが無いのだ。
 過酷な体験をしたのだから、肉体的にも精神的にも……
 我が子の産声を聴く事が無かったというのは、どういう感じなのだろうか、男の俺には想像すら出来ない。
 窓の外を見ると冬の朝は未だ真っ暗で、明るくなるには未だ時間が掛かりそうだった。そっと廊下に出て、自販機の場所まで行き、コーヒーを買う。紙コップで出て来るコーヒーだ。
 ブラックにして、熱いコーヒーをゆっくりと飲む。心配なのは、真理ちゃんの体と心、それに赤ん坊の事だ。正直、実感が無いので、赤ん坊と言ってもいまいちピンとこない。
 今日は逢えるのだろうか?それすら判らない……

 十時に先生の部屋のドアをノックして「どうぞ」と言う声で中に入る。真理ちゃんは未だちゃんと歩け無いので俺が肩を貸して、支えて連れて来た。
 先生がイスを進めてくれるが、真理ちゃんは座れないのでドーナツ型の座布団を用意してくれた。
「まず、どのような事が起こったのかをお話致します。赤ん坊はかなり成長していまして、体重も結構あったと思います。それに比べて産道が狭く、出産の時に赤ん坊がスムーズに出て来れなかったのです。
 その為に時間が掛かり、赤ん坊は羊水を飲んでしまい、肺に羊水が入ってしまい呼吸が停止してしまったのです。そして、その直後に生まれたのです。
 我々は急いで肺を洗浄し、呼吸を復活させました。鼓動も呼吸も通常通りになりましたが、一時的に心肺停止状態になっていたのは事実です。その時間は約五分弱でした。
 産道を広げる薬をもっと早く投与していれば良かったのですが、判断が遅くなって仕舞いました。その点はお詫び申し上げます」
 先生はそう言って説明をしてくれた。
 それを訊いて一番訊きたかったのは、赤ん坊の脳に異常が無いかだ。その点を訊くと先生は
「殆んど大丈夫です。但し全くという事ではありません。それで殆んどという表現をしました」
 それを訊いて、正直ちょっと腹立たしかった。ほんの僅かでも異常が見つかる可能性があると言う事を……でも今は、信じるしか無い。
「何時逢えるのですか?」
 その問に先生は
「これから、すぐにでも逢えますが、今は保育器に入っています。明後日の朝には保育器から出せますので、お母さんのベッドの隣で授乳出来ます」
 早く見たかった。保育器に入っていても良かった。

 それから俺たちは白衣に着替えさせられ、エアカーテンを浴びてから新生児室の未熟児室に入った。赤ん坊は三千六百グラムもあったそうだ。未熟児では無いが大事をとっているのだと言う。
 部屋には幾つか保育器があったが、赤ん坊が入っていたのは一つだけだった。
 二人で恐る恐る近づいて行く……そこには、手足を動かしながら、元気にしている、体格の良い赤ん坊がいた。女の子のくせに胸板の厚い子だった。
「胸板、厚いな」
 俺がそう言うと真理ちゃんは
「なあにそれ、娘なんだからもっと愛情溢れる言葉を言わなくちゃ」
 そう言って半分笑って半分泣いて、クシャクシャな顔をしている。
「真理ちゃんこそ、その顔」
「正さんも泣いてるよ」
「ああ、そうだな」
 俺も真理ちゃんも流れる涙を拭おうとはしなかった。

 この日、俺と真理ちゃんは、親になったのだ!

目標 第25話 「出産」

目標 第25話 「出産」

 真理ちゃんのお腹は本当にせり出して来て、臨月に入ったら下に降りてきたので増々大きく感じた。俺はなるべく一緒にお風呂に入ってやり、体の届き難い場所を洗ってやったりした。
 正直、臨月の妊婦の体は普段と全く違うという事が判った。そうほんとに、もう母親になる準備をしているんだと判った。

 もう準備も整って、何時でも大丈夫と言う具合になった。この時俺は予定日に生まれると完全に思っていた。年末の慌ただしさも尚更だったが、俺は今にもうまれるのでは無いかと気が気じゃなかった。
「駄目だな、こんな事では平常心を失うなんて」
 そうつぶやいていたら、善さんが
「俺も最初の子供の時は包丁が手につかなかったよ」
 そう言ってくれた。店長も
「営業中に生まれたら早引きして帰っていいからな」
 そう云われていたのだが、とうとう二十八日の予定日は何も無かった。
 家に帰って真理ちゃんに
「どう?」と訊くと真理ちゃんも「まだみたい」
 そう言って苦笑いをした。
「この子きっとのんびり屋なんだよ」
 そう言ってお腹をさすっていた。

 結局予定日は何も無く通り過ぎてしまった。二十九日の営業最終日の昼休みに飛鳥から電話が掛かって来た。
「え~生まれ無かったのですか! 初産って早くなるんじゃないでしたっけ?」
「知らんよ、そんな事は」
「正先輩、計算間違えたんでしょう」
「なんで俺が計算するんだ?」
「だって真理ちゃんが間違える訳ありませんからね」
 全く、この前ウチで涙を流していて、あの時は『飛鳥も女の子だったんだな』と思って感心したのに……やっぱり可愛く無い!
「じゃあ、生まれたら兎に角知らせるよ」
 そう言って電話を置いた。この日も何も無かった。

 とうとう三十日になって産科の先生から連絡があり
「年末年始になるから、念の為もう入院した方が良い」というものだった。
 確かに、普段とは違うだろうし、それに先生は
「あんまり遅くなると良い事は無いので、その場合は促進剤を打つから、その為にも入院して欲しい」
 という事だった。確かにそうなのだ。飛鳥も先ほど
「あまり遅いと返って良く無いですよ」
 そう言ってくれたので、俺は、入院させる決断をして、真理ちゃんに、その事を告げた。
「うん、そうだね、私もそう思う」
 俺はタクシーを呼んで、荷物と一緒に真理ちゃんと病院に向かった。お袋も
「しっかりね。頑張るんだよ」
 と何だか変な激励をした。
 そうして入院したのが三十日の夕方で、その日も入院の手続き等で終わってしまった。
「今日も無かったか……」
 俺がつぶやくと、真理ちゃんが
「もう家に帰った方がいいよ。何かあったら病院から連絡が行くから」
「そうか、そうだよね……判った。一旦帰るわ」
 そう俺は言って家に帰った。

 それは、大晦日の夕方にやって来た。病院から連絡があり午後四時に出産準備室に入ったそうだ。生まれるまでは未だ間があるから、慌てないで来て欲しいとの事だった。
 俺はお袋と、水海道の真理ちゃんの親に電話をする。すると、
「明日の朝立つ」との事だった。
 年越し蕎麦を食べて、お袋と病院へ行く。看護婦さんが言うには、恐らく深夜か、早朝では無いか、という事だった。それまでは待合室で待つしか無いのだ。
 年末のテレビが写されているが全く頭に入ってこない。紅白もどうでも良くなった。何処からか、除夜の鐘が聞こえて来た。そうかもう新年かと時計を見ると十二時少し前だった。
「誕生日は元旦か?」
そう思うと何だか可笑しかった。
テレビに「あけましておめでとう」の文字が写り、年が明けたのが判った。
だが、我が家の『おめでとう』はこれからだ。
 ああ、何だかジリジリとする。男親なんて皆こんな気持なんだろうか?やはり女性は強いな、男の俺なんて何もしないのに、こんなにヘタレでいるのに、真理ちゃんは痛みや恐怖と戦っているのだと思うと本当に感謝しなくてはと思うのだ。

 それからどれぐらい経ったろうか、廊下がやけに騒がしい。産科の先生が顔色を変えて分娩室に入って行った。何かあったのだろうか?大丈夫なんだろうか?と不安になる。
 まさか……嫌な予感がする。お袋も
「なんか様子が変だよこれ」
 そう言うので余計にそう感じてしまう。何があったのだろうか?

 それから暫く経って看護婦さんが
「生まれました、女の子です。おめでとうございます」
 そう言って祝福してくれたが、
「事情があり、すぐには面会出来ません」
 そう云うでは無いか?
「何故ですか?どうして我が子に会えないのですか」
 俺はそう言って食い下がると看護婦さんは
「後ほど先生から説明があります」
 そう言って去って行ってしまった。
 一体、どうしたと言うのだろう? なんなのだろう? 不安ばかりが俺を襲うのだった。

目標 第24話 「二人の本音」

目標 第23話 「二人の本音」

 俺たち夫婦は出産の為に色々と準備をしていた。産着等は真理ちゃんの親が用意してくれたし、ベビーベッドはレンタルすることに決めた。
 真理ちゃんの友達で出産を経験している人たちからのアドバイスだ。それを色々なものを箇条書きにしていく。そうすると、あれやこれや思いだすのだ。

「そうそう、今度の火曜日に飛鳥さん来るんだ」
「なんだ? また料理か?」
「ううん、途中経過報告だって、そんなのいいのにね」
「上手く行ってるのか? そりゃよかった」
 でも飛鳥も律儀だと思った。

 火曜日は店も暇なので何時もより若干だが早く終わった。その為、俺の帰りも少し早かったのだ。家に帰ると、飛鳥がまだ家にいた。
「あ、お邪魔してます」
「おう、いらっしゃい」
 そう言って、すぐに打ち解けて会話になって行く。
「私ね、ほんと、真理ちゃんには感謝しているの。だってあんなに素敵な人を紹介してもらって……」
 そう言って飛鳥は恥じらいを見せてやや赤い顔をしていた。こいつもこんな表情するんだと俺は意外な顔でみていたのだろう
「正さん、私だって女ですからね。そりゃ女としての夢も恋もありますよ」
 飛鳥がそう云うと真理ちゃんが
「そうよ、正さん飛鳥さんいじめちゃダメよ」
 真理ちゃんも飛鳥の味方についたみたいだ。
「私、始めて女の喜びを知ったんです……あ、変な意味じゃなくて、女として人を愛する喜び、
そして愛される喜びという意味ですからね」
 俺はそれを聴いて、若しかしたら、飛鳥は真理ちゃんの決断の時の気持ちを、訊きに来たのでは無いかと思ったのだ。暫くして、飛鳥は
「真理ちゃん、一つ訊いてもいいかしら?」
「うん、いいよ。なあに?」
 そう答える真理ちゃんに飛鳥は
「真理ちゃんは、正さんと結婚する時に今迄の仕事のキャリアを捨ててしまったでしょう。その時どういう決断をしたのか教えて欲しいの」
 やはり、そうだったのかと思った。真理ちゃんは少し考えていたが
「あのね。私は正さんと一緒に将来お店を持ちたいと思ったの。だからその為には私の中途半端なキャリアなんて問題にしなかったの。そりゃ先生からは残る様 に何回も云われたけど、先生も私が居れば楽だからね。残っていても、飛鳥さんの彼みたくデザインで将来独立なんて才能は無かったし、せいぜいマネージャー 止まりだったと思う。だから私は正さんの夢に私も賭けたの。この人なら自分の将来を託せる。この人となら新しい人生を歩んでいける……そう思ったの、だから仕事を辞める事に迷いは無かった」
 ここまでハッキリと真理ちゃんが言ったのは始めてだった。やはり母になるという事で強くなったのだろうか? いや、そうじゃ無い!真理ちゃんは元から強かったんだ。
 そうで無ければ所得税さえ取られない程安い給料で頑張れる訳が無いんだ!俺は、真理ちゃんの決意の強さ、人としての強さを見た気がした。そして俺の女房は素晴らしい!と……

 飛鳥はまりちゃんの本音を訊いて、自分の決意を新たにした様だ。
「真理ちゃん、私ね、やはり将来はお店を出したい! 本格的な日本料理で無くてもいいの。温かい、そう食べた人の気持ちが暖かくなる様なお店を出したいんだ。でもね、ファッションブランドを将来立ち上げる彼の邪魔になるんじゃ無いかと思っていたの」
 飛鳥の本音を訊いて真理ちゃんは
「あの人はきっと、飛鳥さんの夢を後押ししてくれると思うよ。そう云う人でしょう。
 それは飛鳥さんも判っているんじゃ無いのかな?」
「うん、そうなんだけど、それであの人が私に気を使うのが悪くて……」
 それを訊いて真理ちゃんは
「飛鳥さん、あの人はそんな小さな器じゃ無いと思うよ。自分の夢も成功させて、飛鳥さんの夢も叶えることの出来る人だと思うけどな……」

 何時の間にか飛鳥の目から涙が流れていた。
「飛鳥さん、それでずっと苦しんでいたのね」
「うん、好きになれば成る程苦しくなって、真理ちゃんに訊いて貰いたくて、そしてあの時の決断を訊きたて……」
「うん、大丈夫だよ!信じる事だよ!」
 そう真理ちゃんが言うと飛鳥は明るい顔になり
「ありがとうございます。信じてやって行きます」
 そう言って飛鳥は帰って行った。

「始めて訊いたぞ、あんな事」
 俺がそう云うと真理ちゃんは
「本当は誰にも言わない積りだったんだ。私だけの決断だったから」
「そうか……じゃ俺は必ずその夢を叶えるよ」
「うん、期待してるからね」
 俺はそう言って俺の目を見つめる真理ちゃんを抱きしめるのだった。

出産予定日まであとひと月!

目標 第23話 「裏方の仕事」

目標 第23話 「裏方の仕事」

  実際に俺のやってる仕事は「煮方」なのだが、この前言った通りに天麩羅等も本格的にやるし、刺身もやる。
刺身は本来は花板の善さんの仕事だが、昼過ぎや休憩が終わった頃に市場からその日に仕入れた材料が入る。
 煮方としての仕事は俺の場合は朝のうちに前の日の材料を皮をむいたり、カットしたりして、下拵えは終わっている。時間の掛かるものはその頃から煮ているし、すぐに煮えるものはこの時間から煮出す。
 鍋を火に掛けてしまえば、あとは火の調整ぐらいだから、手が空く。そうすると俺は善さんの仕事を手伝うのだ。

 刺身にする魚は季節で色々違うが、鯛などは大抵入ってくる。冬だと関東では「わらさ」関西では「はまち」と呼ばれる魚等が入ってくる。「ぶり」と呼ばれるのは10キロを越す大物が「ぶり」と呼ばれるのだが、正直、この大きさだと刺身にはあまり向かない。
「氷見ぶり」等と呼ばれる日本海の富山産の「ぶり」も大体七キロぐらいだ。このくらいが一番美味しい。
 その魚たちを素早く処理していくのだが、なんせ数が多いので、俺も頭を落とし、内蔵を出して洗っていく。
 すぐに使うものはその場で三枚におろして、刺身専用の調理ペーパーに包んで行く。昔はこれをさらしに巻いたのだが、俺や善さんは専用の調理ペーパーだ。この方が無菌状態で清潔だし、ドリップや血の吸収も性能がよい。

 たとえば鯛などは季節やモノによって身が水っぽい状態のがある。そんな時は鯛を昆布〆にするのだ。
 丁寧に三枚におろした鯛の身、腹骨をそいでそれを酒に浸して延ばした昆布を引いたバットに並べて行く。綺麗に並べたら上から同じ様に酒で延ばした昆布を重ねていく。バットにラップを掛けて冷蔵庫に仕舞う。
 大体三時間もすると水気が抜けて昆布のうま味が鯛にうつって来る。食べごろになる。

 柴崎さんはこれが好きで、来ると何時も「昆布〆あるかい?」と訊いてくる。
「ありますよ」と言うと必ず「じゃそれ」と頼む。
 その度に「正、きょうは良いな、とか、いまいちだな」とか言われるのだが、それって半分は鯛のせいだと思うのだがどうだろう……

 ところで、残った頭や骨はどうするのか?
 これは、どの店でもやってるが、これで出汁を取る店や、吸い物等を拵える店が多いと思う。ウチでは「あら煮」を作る。
 骨や頭を小さく切って、熱湯をかけて霜降り状態にして、鍋に醤油や酒、みりん、生姜、昆布を入れて水を張り火に掛ける。
 沸騰しないように火加減を調節してゆっくりと煮て行く。魚によって甘さは変える。甘いと魚の臭みが出てしまうからだ。
 特に鮮度が良い魚ほど砂糖などを入れると魚臭くなる。これは覚えておいた方が良い。

 そうやって煮たあらは、まかないに出たり、あるいは、常連のお客さんに「裏メニュー」で出したりする。
 特に柴崎さんは、最後にこれをおかずにご飯を食べるのが好きで、ある日は必ず食べて行く」
 この仕事は、実は俺じゃなく、圭吾や毅の仕事なのだ。当然清にも覚えさせる。

 味付けは俺が見てやらないと、とんでもない味付けになってっしまう。ハマチの骨についた身は本当に旨いと思う。こんな時は「日本人に生まれて良かった」としみじみ思うのだ。

 客席から見て、暇そうに見えても裏では結構色々な事をやっているのだ。
 よく寿司屋さんなんかではランチタイムのサービスであらの味噌汁が無料で振る舞っている店等があるが、きっと捨てるなら、と思ってのサービスだと思う。

 家に帰ると真理ちゃんが
「飛鳥さんたち、ちゃんと結婚を前提にしたお付き合いをする事にしたそうよ」
 そう言って俺にこの前の続きを話す。
「そうか、良かったな……あいつだって良い歳だからな、幸せになる権利はあるよな」
 何にしろ良かったと俺は思うのだった。

 真理ちゃんのお腹も少し大きくなって来た。俺は
「もう動いたりするのかな?」
 等と言うと真理ちゃんは笑って
「まだ先だよ。動いたら教えるからね」
 そう言うのだった。俺は正直、その日が待ち遠しかった。

 真理ちゃんはお腹が大きくなると、仰向けには寝難くなってきたので、横向けに寝るのだが、そんな時は俺が必ず横に一緒に寝る。
「大丈夫だよ」と真理ちゃんは言うが、俺だって正直愛妻の顔を見て寝たいじゃ無いか……
そんな事は口が裂けても言えないけれど、今は真理ちゃんが一番大事なのだ。言えないけれどね……

 ここまで来て俺もやっと父親になるんだ、という実感が湧いて来た気がする。その日が待ち遠しいが、でも「俺に人の親なんかが務まるのか? 」という思いも捨てきれない。
 それに比べ真理ちゃんは日一日と母親の顔になって来ている。やはり女性は大したものだと思うのだった。

 日曜の夜、モール店の営業が終わる頃に俺と真理ちゃんで、店に行ってみた。すると、早速飛鳥が顔を出して、嬉しそうな顔をする。
「いらっしゃいませ。営業はもう終わったんですよ」
 そう冗談を言って笑っている。
「上手く行ってるらしいじゃないか」
 俺がそう言うと飛鳥も
「そうなんです。価値観や境遇なんかが似ていて、とても話が合うのです」
「そうか、それは良かった。なあ真理ちゃん」
 俺はそう言って真理ちゃんに話を向けると
「本当に良かったと思うの。飛鳥さん素敵な人だから幸せにならないと嘘だと思っていたから……」
 どうやら、おめでたい話がもう一つ増えそうだ。

目標 第22話 「天麩羅を考える」

目標 第22話 「天麩羅を考える」

 店では煮物の他に刺し身も切るのだが、結構忙しいのが「揚げ物」だ。主に天麩羅が俺の仕事となっている。
 天麩羅は油との格闘だ。水分の脱水作業なのだが、結構これでコツを掴むまでは大変だ。

 天麩羅は天麩羅屋さんの天麩羅と俺らの宴会料理もやる店に天麩羅では若干考えが違う。天麩羅屋さんのは何と言っても揚げたてが食べられるので、衣は薄く、カラット揚げるのが重要だ。
 熱々を抹茶塩や天汁に漬けて食べるのだが、それぞれ好みがあるのだろうが、俺は熱い揚げたてを熱い天汁に漬けてたべるのが一番好きだ。
 まあ、お客さんはそれぞれだが、一概には言えないが、「自称食通」を気取る人は「揚げたての天麩羅は塩で食べないとね」と言って「板さん塩頂戴」とか言って来る。
 皆さんにも言っておきますが、そのセリフは止めた方が無難です。それは一概には言えないからだ。

 天汁に大根おろしと生姜が付いているのはちゃんと理由がある。それは揚げたての魚介類の臭みを消す為なのだ。
 新鮮なネタだったら要らないという考えもあるかも知れないが、鮮度の良いネタは旨みも多いだろうが、臭みが全く無い訳じゃ無い。
 それに、その日の体調もあるから、まずはじめに一口何も入れない天汁に少し浸してから食べて、その次に大根おろしや生姜を入れて、その風味で楽しむのが良いと思う。
 抹茶塩も抹茶の風味が利いて臭みが消えるのだ。そんな違いも覚えて欲しいと思う。

 天麩羅は油の温度管理が大切だ。基本は百八十度で揚げるのだが、油の温度と衣の関係が面白い。
 衣は基本的には冷水に粉を入れて、箸でざっくりと混ぜれば良いと言うが、それだけでは失格である。衣の濃さは温度やネタによって変えないとならない。
 温度が低い時は濃い目の衣で揚げると綺麗に広がり花が咲く。温度が高い時は薄めに衣を作ると温度が高いのですぐに固まり始めるので、薄めでないと綺麗な花が咲かないのだ。

 それに野菜など水分が多いネタの時は濃い目に衣を作るのだ。
 反対に海老など水分が少ない時は薄めにする。ネタと温度によって使い分け無いとならない。
 基本的に、天麩羅屋さんの天麩羅は花を咲かせない。俺らの宴会料理を出す様な店はお客さんが常に揚げたてを食べるとは限らない為に、冷めてもある程度食べられる様に揚げないとならないのだ。
 それには色々とテクニックが必要だ。一方で、柴崎さんみたく、その日のネタを訊いて注文する人もいる。
 そう云うお客には天麩羅屋さんみたいな天麩羅を揚げる。それは基本だと思う。

「正、今日は何が入っているんだい?」
 柴崎さんが俺に今日のネタを訊く
「そうですね。メゴチ、とかそれからマキのいいやつがありますよ」
 俺がそう答える。メゴチはコチの仲間で見かけは悪いが天麩羅にすると滅法旨い。
 マキとは長さが十六センチぐらいの車海老の事で天麩羅にするにはこれくらいが一番美味しいとされている。
 生きているマキは殻を向いて刺し身で食べても甘くて美味しい。それを、天麩羅で旨みを表に出ない様に揚げるのだから不味いはずが無い。

 それから天麩羅という料理は体調のごまかしが利かない料理で、体調の悪さがそのまま出てしまうのだ。
 ネタが揚がって来た時の甲高い音を聞き分ける耳。色、艶を見る目、それに油の香りを確かめる鼻。どれ一つ抜けていても、良い天麩羅は揚がらないのだ。

「そうだな、じゃコチとマキ両方頼む」
「はい、かしこまりました」
 そう言って俺は天麩羅鍋に温度をみながら、調度良いと感じた温度で、まずメゴチを入れて行く。続けてマキを入れて行く。ジュッと言う音がしてメゴチもマキも油の中で泳いでる。
 揚がって来ると揚げ物の音がやや甲高くなって来る。それが最高潮に達した時が上げ頃だ。
 菜箸でネタを掴み、鍋の上で3度ほど振って油を切る。それを一旦バットに並べ、次のマキを上げる。
 同じ様に三回振ってこれもバットに並べる。そして、天麩羅ザルの上の天敷にメゴチ、その上により掛かる様にマキ海老を乗せる。青味の獅子唐辛子を付けて柴崎さんに出す。
「お待ちどう様」
「おう、ありがとう」
 柴崎さんが早速箸でメゴチを摘んで天汁に漬けると「ジュ」という音がする。それを柴崎さんは旨そうに口に運ぶ。
「うん、旨いな」
 そう言って柴崎さんの顔がほころぶ。料理人の一番嬉しい瞬間だ。
 続けてマキ海老も同じ様にして口に入れる。
「おう!これはいい! 腕を上げたな」
 そう云われてしまった。俺はそれだけの価値があるのだろうか?
 板前になって良かったと思える瞬間だ。
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