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目標 第31話 「未来に向かって」 最終話

目標 第31話 「未来に向かって」 

 それから暫くして、斎藤さんと飛鳥が正式に結納を交わす日が決まったと知らせてくれた。そのなかで、俺達夫婦にどうしても仲人が無理なら立会人になって欲しいと言われてしまった。
「式の時は別な仲人を立てるから」
 そう言うので、俺と真理ちゃんは仕方なく「立会人」として臨席することになった。何でも、両家で結納を交換した後で俺が「確かに両家で結納が交わされました」とか言えば良いらしい。
 当日は、何とうちの店の個室で行われる事になった。飛鳥の店の休みの火曜日が選ばれた。
 俺はその日は慣れないスーツで店に通勤して、皆から散々からかわれた。その日飛鳥は桜の花が散りばめられた小紋と言う着物を着ていた。
 何でも正装にも着て行ける「江戸小紋」と言うそうだ、と真理ちゃんが教えてくれた。我が妻は洋裁だけでなく和裁にも詳しいのだ。

 その日の飛鳥は本当に綺麗で輝いていた。初めて調理場で見た時は痩せていて男の子みたいだった。そんなことを思いだしてしまった。
 リラックスしている飛鳥に比べ斎藤さんは緊張しているみたいだ。表情がやや硬い。それを飛鳥が気にして笑顔で語りかけている。もう立派な奥さんだと思った。
 両家の結納が無事に終わり俺が
「これで、斎藤家、田中家、両家の結納が無事に済みました事を確認させて戴きました。この上は両家が幾久しくお付き合いが続きますように……」
 と挨拶して、結納自体は終わった。俺の横に座っていた真理ちゃんも笑っている。両方の家の両親も斎藤さんも飛鳥も俺も皆笑っていた。
 その後、真理ちゃんは恵が心配だからと、タクシーで家に帰って行った。お袋が面倒を見てくれてはいたが、やはり心配なのだろう。そして、店では両家の会食が始まった。結納用の縁起の良い料理が並べられて行く。俺も腕を振るって頑張った。

 それから半年後に二人は結婚した。飛鳥は子供が出来るまでは勤めます。と言ってそのまま店に出ていた。
 ……結論から言うと、飛鳥達には中々子供が出来なかった。
 原因を調べたら、斎藤さんが高校生の頃に高熱を出した事があり、それが原因で精子の数が普通より少なかったのだ。その後二人は「人工授精」を選択して、飛鳥は三十代になってしまったが、無事に一児の母になった。飛鳥によく似た男の子だった。
 飛鳥のように「母子栄養」をちゃんと修めた娘が母親になれないなんて何という皮肉かと思ったけれど、ちゃんと母親になれて良かったと思ったのだった。
 店の方はその前に斎藤さんが自分のブランドを立ち上げる事になったので、飛鳥は
「傍で一緒に支えて行きたい」と言って店を辞めた。まあ、一人前にはなったから良しとしよう。
 そう、その頃に俺と真理ちゃんにも第二子が生まれた。今度は男の子だった。真理ちゃんに似て中々のイケメンになると俺は思ったのだ。

 次に俺の事や店の事だが、飛鳥が店を辞めて、色々と移動が済んだ頃の事だが、モール店の板長を開店以来ずっとやっていた由さんが、のれん分けと言う形で独立することになった。
 これは、由さんに独立の資金を何割か出して同じ店の名前を名乗って貰う。由さんは仕入れを、こちらの店と共同で行うので安く仕入れられると言うメリットがあり、
 さらに由さんの店が軌道に乗るまではある程度の収入の保証をするというものだった。まあ、借りた金額は長い間掛けて返済して行くのだが……事実上四店目の店だった。

 実際の独立は飛鳥の出産の時期と重なって、めでたい事が続いたのだ。その移動で善さんが由さんの代わりにモール店の板長として行く事になった。
 今や、モール店はウチより売上が多く、若者だけじゃ無く、あらゆる層のお客さんが来てくださる様になった。その為にかなり本格的な料理も出し始めているのだ。善さんならうってつけだと言う訳だ。
 では本店の板長は誰がなるのか?
 まさか、と思うでしょうが、実は私が任命されたのです。俺自身驚いてしまった。
 かって親方が居た場所に俺が立つなんて……まず初めに思った事は「俺でいいのだろうか?」
 そう言う事だった。
 オーナーと店長連は色々な人の意見を訊いたみたいだ。その結果だとしたら、なんか申し訳無いと思うのだった。でも、指名されたら頑張らねばならない。俺は調理の責任者として店に神経を行き届かせたのだった。

 俺が板長になったからと言って、お客さんが減ったと言う事は無かったが、仲居さんが言うのには、何人かの常連さんからは「板長が変わった?」そう訊かれたと言う。
 それは仕方ないかなとも思うが、俺自身は店の味を守っていると思うのだ。だが、それも初めのうちで、すぐに味の良さが評判になった様だ。お客さんが増えだしたのだ。これはありがたかった。

 それから数年、完全に俺が本店の顔となって働いていた頃のことだった。
 お袋が「歳だから店を辞めたい。本当ならお前たちで好きにやって欲しい」
 そう言い出したのだ。これは考えものだった。俺も既に三十を超えている。紅顔の美少年はおじさんになっていた。 え? なんか違うって? そこはまあ……
 本店の板長でいれば、給料は保証されているし生活に困る事は無い。でも、俺も何時かは親父の後を継いで……と言う気持ちはあったのだ。
 夜、皆が寝た後で真理ちゃんと……え?もう真理ちゃんじゃ無いだろうって? 仕方ないだろうって、急には言い換えれ無いものさ。兎に角二人で相談する。
 問題は、俺がやるとなったら店を改築したい。日本料理を食べさせる店にしたい。肩の張らない楽しい店にしたい。何時でも気軽にちゃんとした料理が食べられる店にしたい。小金でお腹一杯に出来る店にしたい。色々と考える事はある。
 お金を借りる……貯金はしているけど恐らく改築だけで最低一千万は掛かるだろう。新しい調理の器具や道具、それに機械を買うと五百万は掛かるだろう。
 製氷機や食器洗浄機はリースのほうが安くつくが冷蔵庫は俺が信頼するメーカーのが欲しい。そんな事を真理ちゃんと何回も毎日話あった。そして、出した結論は
「自分の店を持つ!」
 と言う事だった。

 それからが大変だった。銀行との交渉……オーナーが口添えしてくれた。
 店の改築はそれ専門の業者を紹介して貰って予算の八割で済んだ。余裕の出来たお金は食器などに化けた。
道具等は新古品で済むものはそうした。これがかなり低くなって、結果としては大助かりだった。回転資金も用意しておかないとならない。
 準備等に一年かかってしまったが何とか開店までこぎ着けた。店の名を改めて「御料理 まさ 」とした。
 俺自身はもっと別な名が良かったのだが、色々な人が幾つかあった候補からこれが良いと言われた。正直、かなり恥ずかしい。

 小学校の高学年の恵や、今年小学校に入学した悟の為の子供部屋も改装ついでに増築した。これからの返済は大変だ。
 だが、お袋や真理ちゃんは平気な顔をしている。
「イザとなったら、ここを売ればかなりの高額になるから、借金を返済しても、かなり残るので、残りで中古マンションでも買って暮らせば良い」と楽天的な事を言うのだった。まあ、そうはさせないと俺は誓ったのだ。

 開店には色々な人が来てくれて賑やかだった。特に柴崎さんは三日に一度はやって来て、俺の料理を楽しんで行く。
 もう既に年金生活者となっていて、ガンも気にしなくて良くなっていた。
「俺の胃袋が三分の一まだあるのは、正の料理を食べる為なんだぞ」
 そう言いながら少しの酒を飲み、季節の料理に舌鼓を打つのだった。
「人間、食べてる時が一番だよ」
 柴崎さんの言葉だ。確かにそうだと思う。

 あの日、親方に殴られた日からどのくらい経ったのだろう?
 俺は、あの日立てた自分の目標に近づけたろうか?
 いや、それは未だまだ先のことだろう。
 俺は死ぬまで現役でいたい。
 そして、その日まで修行は続くのだ……


「目標」

目標 第30話 「板前になって……」

目標 第30話 「板前になって……」

 柴崎さんの手術の件が一段落した頃に、飛鳥から俺と真理ちゃんに連絡があった。真理ちゃん曰く
「都合のいい時に斎藤さんとお邪魔しても良いか? 」と言う事だそうだ。
 それを訊いて俺は飛鳥とその交際している斎藤さんとの婚約の事だと推測した。

 その日は結局火曜日で、祭日の日が選ばれた。朝から俺も真理ちゃんも何か落ち着かなく、恵までもが何か親の様子が判るのか、何やら興奮しているみたいなのだ。
「こういうのって伝わるんだね」
 真理ちゃんが恵を抱きかかえながら、そう言って笑ってる。
「お昼でも食べながら」
 と言う事だったので、俺は簡単な支度だけしておいた。十一時過ぎになって、二人がやって来た。正直、俺は斎藤さんと会うのは初めてだ。
「初めまして、斎藤と申します。以前は真理さんには大変お世話になっていまして」
 そう挨拶され俺も丁寧に挨拶を返す。

「正さん、真理さん、私達、正式に結納を交わして婚約する事になりました」
 斎藤さんがそう言って飛鳥を見ると飛鳥も斎藤さんを見て微笑む。う~んかなり熱い関係になってると言わざるを得ない。それでも二人ともお祝いの言葉を言って祝福する。まあ、この頃は皆熱いよなと、思っていたりする。
 だが、二人はとんでもない事を言い出したのだ。
「実はですね。僕達を紹介してくれた正さん御夫婦に仲人をやって戴きたいのですが……」
 はあ?仲人? 今はそんなものを立てる結納なんか無いだろうと俺は思った。真理ちゃんも、目を丸くして驚いている。それはそうだろう。それに恵も未だ小さいからこれは無理だと俺は思った。
「いや、それは無理だと思いますけど」
 そう俺が言うと飛鳥は
「やはり、そうですか、そうですよね」
 と肩を落として諦めの表情をする。俺は二人に
「今は、ほとんど仲人を立てない形式で結納すると思いますが、どちらかの家が、その様な事に煩い家柄なんですか」
 そう聞き返すと斎藤さんは
「実は私の家が、その方面に煩いのです」
 そう言うので俺は
「それなら、尚更俺たちじゃ不味いと思いますが……」
 俺はそう反論した。それはそうだろうと思うのだ。
 こんな若造夫婦だったら、親戚だとかがいい顔をしないと思う、例え本当に結びの神でもだ。誰か世間的にも良い人を立てる方が良いと思ったのだ。
「実際に夫婦の間で何かあったら、私達が相談に乗りますが……」
 そう言って、やっと納得してくれた。最も、後で考えるとこれは飛鳥の作戦では無かったかと俺は思い直したのだが、それは、結婚後に訊いてみようと思う。

 それはさておき、今日の為に用意したのは鯛の昆布締めを薄造りにしたものと、人参で鶴、筍で亀を切って、南京と煮た煮物、それに紅白のはんぺんの吸い物と言う献立だった。
 まあ鶴や亀などは余り店では作らないので、俺も久しぶりに作って技術を温存したという訳だ。飛鳥はそれを見て感心して
「うわ~、正さん今度教えて下さいよ」
 そんな事を言ってる。
「教えてもいいけど、ちゃんと出来るかな?」
 俺はそう言言い返したが、きっと飛鳥ならすぐに出来る様になるだろうと思う。こいつは努力家だから……

「いや~本当に美味しいですね」
 斎藤さんもそう言って褒めてくれたが。店に出れば善さんのほうが更に俺の上を行く。俺は未だまだなのだ。
 その気持を忘れてはならないとつくづく感じたのだった。

 昼過ぎに二人は帰って行ったが、最後まで飛鳥は
「気が変わったら、連絡くださいね」
 と言って本気だかなんだか判らない言葉を残して行った。

 俺と、真理ちゃんは天気がいいので、近くの公園に恵を連れて行く事にした。恵も首が座り、ベンチにも短時間なら座れる様にはなって来ていた。大きな瞳が良く動き、本当に愛くるしい。
 親バカにはなりたく無いが、なってしまう心も理解出来る様な気がした。乳母車から恵を出して、膝の上に乗せる。女の子なのに何か重い気がするのだが、気のせいだろうか。
「結構重たいでしょう」
 そう言いながら真理ちゃんが笑っている。
「この子、女の子なのにズシって重たいから、良く男の子に間違われるの」
 なんて言う事だろう、こんなにカワイイ子を男の子だなんて……うん? これが親バカなのか? そうなのか?
「でも、他の人はどう言おうが、この子は俺たちにとっては特別な存在だ」
 そう俺が言うと真理ちゃんも
「そうね、そうだよね」
 たまには親子で公園を散歩するのも悪く無いと思うのだった。

 店で仕事をいていると、柴崎さんの、その後の情報が色々と入って来る。どうやら、内視鏡で切除したので、本人には大手術をしたという感覚が余り無いそうで、その点で色々とあったらしい。
 何でも前と同じ様に食べてしまい、途中でトイレに行くはめになったとか、注文した量の半分も食べられなかったとか、試行錯誤を繰り返しているそうだ。
 そこで俺は柴崎さんに連絡をして、体調の良い日に店に来てくれる様に頼んだのだ。柴崎さんは喜んでくれて、日時を約束してくれた。
 その日は柴崎さんが好きだった料理を何点か用意していた。基本的には食べる時にゆっくりと良く噛んで食べる事が特に大事だと調べて判ったので、消化しやすく又噛みやすい献立にしたのだった。こういう事も今まで俺は良く知らないから勉強になる。

「正、御招きに預かりやって来たぞ。今日はどんなものを食べさせてくれるんだい」
 柴崎さんがニコニコしながらカウンターに座る。そう、この店も俺が居ない間に改装してカウンターを拵えたのだ。俺はゆっくりと柴崎さんに料理を前菜から出して行く
「量が少なくないか?」
 そう柴崎さんが言うが、俺は笑って誤魔化す。今の柴崎さんには量は必要無いのだ。ゆっくりと楽しむ事が大事だと俺は思ったのだった。

 最後のデザートまで柴崎さんは殆どを食べた。
「いや、旨かったよ。量も今の俺にはピッタリだしな」
「それは良かったです」
「腕を上げたな」
 俺は、まさか柴崎さんから本気でそんな言葉を貰えるとは思っていなかったので、驚いてしまった。
「相手の事を想ってこれだけの料理が作れる様になった。もう一人前と呼んでもいいな! だが料理にれで良いと言う事は無い。これからも精進して俺に旨いものを食わせてくれよ」
 そう言って柴崎さんは笑ったのだった。
 俺はこの時ほど、板前になって良かったと思えた時は無かったのだった……

目標 第29話 「見舞い」

目標 第29話 「見舞い」

 柴崎さんがらしくない言葉を残して帰ってから一週間後、入院したと訊いて、俺は、やはりな、と思って、病気の具合がどのようなモノなのか出版社の編集部に電話をして訊いてみた。
 すると幸運にも俺の事を柴崎さんから聞いたことのある人が電話に出てくれた。その人によると、やはり胃の具合が悪いので、一応検査入院をするという。
 だが、その人は「ここだけの話」と断って、柴崎さん自身は「胃がんじゃ無いかと思う」自分ではそう言っていたと教えてくれた。

 それを聞いて俺は胃がんなら胃を切除すれば助かるだろうが、一年間は思うように食事が取れなくなると思い、それは柴崎さんには辛い事だと思ったのだ。
 家に帰って来て妻の真理ちゃんにその事を言うと真理ちゃんも大層驚いて
「お見舞いなら私も一緒に行きます!」
 そう言って俺の顔を見つめるのだ。
「手術前に行くか?」
 そう訊くと真理ちゃんも
「そうねえ……でも、手術後の姿を柴崎さんはきっと見られたく無いと思うの」
 俺も同じ考えだった。夫婦で気が合うのは喜ばしい。それに術後だったら、もっと後で体力が回復した頃が最適だと思った。
「手術前に行こう!」
 そう言って柴崎さんの予定を探り出して、手術の前と思われる日に行く事に決めた。

 その日、俺と真理ちゃんはベビーカーに恵を乗せて柴崎さんが入院している病院に向かった。受付で部屋を訊いて、その階にエレベーターで向かう。
 エレベーターを降りてナースステーションの前を通り過ぎて行く。その部屋の前まで来て中を覗くとベッドが三つ並んでいて、一番手前のベッドの柴崎さんは座って本を読んでいた。どうやら隣のベッドはどうやら空いているようだ。
「こんにちは柴崎さん」
 真理ちゃんが優しく声を掛ける。本を読んでいた顔を上げて、目線をこちらに向けると
「なんだ、バレていたのか!あちこちに緘口令敷いたのにな」
 そう言って苦笑いをしている。
「この前、店に来た時、なんか変で、らしくない事を話していたので、若しかしたらと思ったんですよ。そしたら、やはり……」
 俺はそう言って柴崎さんの顔を見ると柴崎さんも思わず笑う。しかし、それを誤魔化す様に
「おっ! その子が恵ちゃんか」
 そう言って話を恵の話にそらす。
「正にそっくりだな。う~ん奥さんの真理ちゃんに似れば幸せな一生を過ごせたのにな」
 そう言って笑ってる。
「柴崎さん、そのうち母親に似てきますよ」
 俺がそう言うと真理ちゃんも
「そうですよ。でも正さんもそれほど酷く無いです!」
 そう言って反論する。
「ありゃ、これは言われたな」
 柴崎さんは笑って恵の顔を見ている。

「検査の結果はどうでした?」
 俺は肝心の事を訊いてみると、柴崎さんは
「ああ、立派な胃がんだったよ。一週間後手術だ。そうなると当分旨いものは食え無くなる」
「やっぱりそうでしたか……食べる事が好きな柴崎さんが胃がんだなんて……」
「そう言うな!一年もすれば前と同じ様になる。最もその前に店に言って我侭放題の注文をするから覚悟しておけよ」
 柴崎さんはそう言って笑っていた。これだけの口が利ければ、大丈夫だろうと思い、長くなっても失礼なので、それからバカ話をして失礼する。
 帰り際、そっと真理ちゃんが「お見舞い」を枕の下に滑り込ませる。
「そんないいのに……」
 そう言っていたが、いくらあっても困る事はないのでそのまま置いて行く。帰る時に柴崎さんの奥さんと入れ替わる様に出会う。挨拶をして、奥さんにお礼を言われ、恐縮して、病室を後にする。
「やはり、来て良かったな」
「うん、そうだね」
 二人でそんな事を言って今、出て来た病院をもう一度見上げて心の中で
「必ず戻って来て下さいね」
 そう思うのだった。

 それから一週間後、柴崎さんの手術が成功したと伝えられた。店の皆で喜ぶ。本当に良かった。
 何にしろ、転移してなかったのが良かったと思うのだ。
 だが、柴崎さんの大変な思いはこれからだと思う。何でも胃を三分の二を削除したそうだ。どうか、短気を起こさないで、リハビリをして欲しいと思うのだ。
 その日、までに、もう一度柴崎さんが店に来るまでに俺は、本当の板前になりたいと思うのだった。

目標 第28話 「予感」

目標 第28話 「予感」

 恵は良くお乳を飲んで順調に育って居るように俺には見えたのだが、母親の真理ちゃんには違って見えているらしい。
「なんかおっぱいが、余り張らないんだけど、出が悪いのかな?」
 そう言って自分のお乳の出が悪いと思っているらしい。百グラム単位で量れる体重計を俺に買ってこさせて、毎日恵をカゴに入れて体重を量り
「今日は二百グラム増えた」とかやってるのだ。
 俺はこれは良くない、と思い真理ちゃんに
「一々量るのは良くないよ。神経質になりすぎだよ」
 そう言うのだが真理ちゃんも
「うん、そう思うのだけど、私のおっぱいの出が悪いから……」
 そう言って不安な顔をする。元々細かい処に気がつく性質だから、自分の子供という事で余計に神経質になっているのだと思うのだが、俺も実際どうすれば良いか判らない。
 毎日帰って来ては真理ちゃんに
「大丈夫だよ、大きくなってるから」
 そう言うのが関の山だった。

 そうこうしているうちに三ヶ月検診となった。保健所に午前中の九時に俺と真理ちゃんで恵を連れて行った。
 寝かせるタイプのベビーカー(A型)に恵を寝かせて、俺が押して行く。真理ちゃんはベビーカーの横について、恵を見ながら歩いて行く。
 保健所で受付の札を取って順番を待っていると、真理ちゃんは、同じ時期に同じ病院で生まれた赤ん坊のお母さんと親しく話をしている。
 そうだ、こういう情報の交換が足りないと俺は思い、明日から暖かい時間なら、公園を散歩させて、公園デビューも悪く無いと思った。

 母子手帳を出して、順番を待っているとやがて名前が呼ばれた。恵の身長、体重、頭囲、胸囲などの測定をして、お医者さんの診察を受ける。心音を聞いて何の問題も無いと言われる。
 その後、色々な事をする。内臓の様子を触ったり、首の座り具合を調べたりする。その途中で保健婦さんから
「体重は平均より多いくらい増えていますが、人工栄養と併用ですか?」
 そう訊いてきたのだ。
「いいえ、母乳だけです」
 そう真理ちゃんが言うと保健婦さんは驚いて
「まあ、それじゃ量も随分沢山出るのでしょうが、中身も栄養価が高いお乳なんですね。羨ましいぐらいですね」
 そう言ったのだ。真理ちゃんのお乳の出が悪いんじゃ無い、恵が沢山出るお乳を皆飲んでしまうのだ。この娘は若しかしたら大食らいなのも知れないと俺は思った。

 その日から真理ちゃんの体重計に恵を乗せる事は終わりを告げた。
「あたしの、お乳の出が悪いんじゃ無かったのね……よかった……」
 ほっとした顔の真理ちゃんが印象的だった。
「ごめんね、私なんか神経質になっていたみたい。お医者さんと保健婦さんから言われて目が覚めたわ」
 寝ている恵の横で俺たちは笑いあったのだ。

 そんな事で俺は仕事と恵の事しか眼中に無かったのだが、実は飛鳥達の関係がかなり進展していて、二人では結婚の約束をしたらしい。
 らしい、と言うのは直接では無く、間接的に聞いたからだ。何でも、きちんと決まったらちゃんと報告しに来るという伝言付きだった。それを聞いて真理ちゃんはとても喜んだ。
「嬉しそうに来てくれるといいな」
 そう言った顔は希望に満ちた顔だった。

 四月になると、もう春本番となるので、お花見帰りのお客さんなどが結構来る。
 その日も店内はほぼ一杯のお客さんが入っていた。俺は天麩羅を揚げながら善さんの刺し身を手伝っていた。
混んでる時は余り来ない柴崎さんが珍しく人を連れて来ていた。
 接待かも知れないと俺は思い、柴崎さんの所に出す料理は特に注意をして出していた。まあ、どれもちゃんと細心の注意をしているのだが、この場合は特にという意味だ。
 柴崎さんには出産祝いも貰っているので、先ほどお礼を言った処だった。トイレに行った帰りにカウンターに寄り
「盛況でいいねえ~。処で俺さ、なんか胃の調子が悪くてね、歳のくせに食い過ぎ
だなんて医者に言われたんだけどさ、今度暇な時に来るから、旨くて消化の良い物を食わしてくれよ」
「大丈夫なんですか? ちゃんと調べて貰ったほうがいいですよ」
 そう俺が言うと柴崎さんは
「判っているって、それとは別に頼んだよ」
 そう言って自分のテーブルに帰って行った。
 柴崎さんは定年なのだが、会社が役員にしたので、辞められないと自分で言っていた。俺は、ちょっと痩せた感じがするのがなんか気になったのだ。
 その時は気のせいかな、と思っていたのだが、この日の柴崎さんの言葉を聞いて医者に行くように進めたのだった。

 柴崎さんはお花見の時期が終わって一息入れた頃に一人で店にやって来た。俺は、考えていた献立を柴崎さんに出して行く。ゆっくりと、しかし確実に柴崎さんは料理を楽しみながら食べて行く。
 それは実に楽しそうで、その口から出て来る薀蓄のある言葉は俺の胸に残った。
「なあ、正、俺は今、これだけの料理を口にする事が出来て幸せだよ。
 伸び盛りの料理人の作る料理は想像以上の味なのさ。俺は、その幸せを充分に今日楽しんだ。ありがとう……」
 柴崎さんはそう言って帰って行った。俺はなんだか、らしく無い言葉に何か嫌なものを感じていた……

目標 第27話 「我が子~命名~」

目標 第27話 「我が子~命名~」

 生まれてから二日後、真理ちゃんと俺は我が子に直に触れる事が出来た。最も俺は怖くて抱けなかったが、真理ちゃんはもう母親の顔でお乳を与えていた。
 それまでは搾乳器で出して、看護婦さんが与えていたのだ。乳房に口をあてて頬を凹ませまがらお乳を吸う我が子を見て『沢山飲んで大きくなれよ』と思うのだった。

 真理ちゃんの両親も、生まれた日に来る予定だったが、事情を話したら、この日に出て来る事になった。俺のお袋は、俺たちの後に面会してもう「私がお祖母ちゃんだよ」と保育器の外から語り掛けたらしい。
 お腹一杯になった赤ん坊は母親の横でもう眠っている。それを見ている真理ちゃんの優しげな笑顔を見ていると、俺も優しい気分になって来る。
 お昼前に真理ちゃんの両親が病院に到着して初対面となった。二人共初孫なので、それは嬉しそうだ。
 皆に祝福されて生まれて来たこの子は幸せだとつくづく思う。世の中には自分のせいでは無いのに、忌み嫌われて生まれて来る子もいる。それに比べて幸せだと思うのだ……

 真理ちゃんのお乳も良く出ている様なのでその点は安心だった。出が悪く人口栄養との混合という場合も考えられるからだ。
 理論的には兎も角、やはり母親から直接飲んだ方が安心感はある。その点だけでも俺は良かったと思うのだ。
 例えこの娘が将来障害が残ろうとも、俺が生きている間は支えてやりたいと思うのだった。

 そんな状態で入院の一週間はまたたく間に過ぎて行った。一月の五日は飛鳥も子供を見に来てくれた。
 そして退院の七日になった。俺は昼だけは休ませて貰い、病院でタクシーを呼び、俺とお袋と真理ちゃんと子供が乗って家に帰って来た。
 既にベビーベッドも用意してあるし、肌着や色々なものもちゃんと真理ちゃんに言われた通りにしてある。え? 言いなりじゃ無いかって? そんな事は無い、これは夫としての優しさだと思うのだが……

 赤ん坊は家に帰って来て、興奮しているのか見えていないだろう目をパチクリさせている。細かい事はお袋がやってくれるので助かる。そう思って見ていたら
「お前も早く覚えてやるんだよ」
 そう云われてしまった。でも今日はこれから仕事なので、任せて仕事に向かった。


 正月の店は忙しい。
新年会や、各種の集まりなどがあり、それに加えて冬の味覚が美味しくなる時期だし、何と言っても鍋の季節だから、ただでさえ忙しいのだ。店に顔を出すと、色々と言われたりする。
「正さんはもう親バカになってるんじゃ無いですか」とか
「正さんはもう可愛くて仕方ないんでしょう」と何回も言われてしまった。
 店を終わり、家に帰ると真理ちゃんはうたた寝していた。そうなのだ。この時期赤ん坊は夜中でも授乳させるので、母親は熟睡出来ないのだ。代われるものなら、とも思うがどうしようも無い。
 人口栄養なら、夜中に俺が起きてという事も考えられるが、母乳ではそうはいかない。でも今夜は未だ授乳には時間があるしい。
枕元の目覚ましは二時にセットされていた。それまでは俺も隣で寝る事にする。

 目覚ましの音で目が覚める。ちょうどグッスリと寝込んだ頃だった。真理ちゃんが
「ごめんね。起こしちゃって」
 そう言うが、別に謝る事は無いのだ。
「大丈夫だよ」
 でも俺がやる事は無いのだ。飲み終わると赤ん坊はゲップをする。せいぜい、その時に背中を軽く叩くしか用はないのだ。
 それでも、真理ちゃんを寝かせ、未だ起きている赤ん坊を俺が抱いて寝かせる。ベッドに寝かせる頃には真理ちゃんは既に夢の国に行ってしまってる。こんな暮らしがそれから暫く続いた。
馴れというのは恐ろしいもので、夜中の睡眠不足を俺は休憩時間に寝る事で解消して、
二時の授乳は起きている事にした。それが終わってから寝るのだ。当然、朝の授乳にも付き合う。真理ちゃんは
「寝ていても良いのに」
 と言ってはくれるが、そうは行かないと想うのだ。

「名前、つけなくちゃね」
 そうなのだ、名前を付けなくてはならない。期限は生まれてから十四日だから、もうそんなに時間は無い。
そう二人で話していた時だった。不意に真理ちゃんが
「ねえ、この子、あんな生まれ方してきて他の子とは違う経験をもうしたのよね」
 そう言って寝ていた赤ん坊の頬を優しく触る。
「確かに、そうだな。きっと将来本人は覚えていないだろうけど、それは確かだね」
 俺が答えると真理ちゃんは
「だから、これからこの子が恵まれた人生を送る事が出来る様に、恵、ってどうかしら?」
「恵? めぐみか……いいな! 良い名前だよ。それにしよう!」
 この時俺の長女の名は恵と決まった。

 翌日午前中早くに、区役所に俺でだけで届けに行った。真理ちゃんは未だ外出は無理っぽかったからだ。
 でも、これからは小さくても自動車が必要かも知れないと俺は思った。夜中に恵が発熱したりとか、休日診療所に行く時とか、必要になって来るかもしれない。俺はそう思い始めていた。
 出生届を病院の証明書と共に提出して、正式に名前が恵と決まった。

 その日はそのまま仕事に行ってしまったのだが、夜帰ると、ベッドの所に半紙に墨で「命名 恵」と書いて貼ってあった。
「これ誰が書いたの?」
 そう真理ちゃんに訊くと
「お義母さん。上手いでしょう」
 確かに上手かったというより、お袋がこんなに字が上手いとは今まで知らなかった。それを言うとお袋は
「「能ある鷹は爪を隠す」って言うんだよ」
 そう言って笑っていた。

 この日、俺の娘に「恵」と言う名前がついたのだ……
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