朝の見回りが済み、家に帰る道すがら、田圃に咲いた花菖蒲を切って持ち帰る。もう梅雨に入る時期が迫っている。雨が降るのを待って田植えをする。昔から変わらない農家の行いだ。
「ただいま。田圃に咲いていたから切って来た。床の間に活けてくれないか」
そう言って妻のえるに三輪の花菖蒲を差し出す。
「あら、今年はもう咲いたのですね。例年より早いですね」
えるは、そう言って受け取って
「この時期は本当に綺麗ですからね」
そんな事を言いながら花瓶に活けて床の間に持って行った。帰って来ると
「朝ごはんの支度が出来ていますから、ご飯にしましょう」
そう言って鉄吾さんとお義母さんの名を呼ぶ。その後で娘の部屋に娘の恵を起こしに行く。すると恵はえると一緒にやって来て
「もう起きてました」
そう言って少し頬を膨らませた。今年で小学校4年生になる娘は地元の小学校に通っている。成績は俺に似ずかなり良い。恐らく妻のえるに似たのだろう。
食事を済ませると少し休んでから裏の作業場に向かう。既に「千反田農産」の社員が来ていた。
「専務。おはようございます」
それぞれが挨拶をする。俺も皆に
「おはよう! 今日もよろしく!」
そう返して行く。農作業の事では俺は一番の新参者だ。それが会社の専務なのだから笑える。
「今日は田植えの用意をして行こう。今週の末には梅雨に入るそうだ。来週の末の田植えには丁度良いだろう」
俺がそう言うと、社員でも古株の者が
「今年は花などが早く咲いているので、少々心配しましたが、例年通りに田植えが出来そうで安心です」
その言葉に皆が頷く。準備が出来たら田圃に向かう。田圃に行く小径を歩いて行くと、えるがラボに向かって行くのは見えた。
俺は鉄吾さんにえると結婚する時に小さくても良いからラボを作って欲しいと頼んだ。ラボは千反田邸から田圃に行く小径の途中にある。プレハブの建物で大きさは20畳ぐらいだろうか。そこに実験室と温室などの植物を栽培する所がある。表には「千反田農産研究所」と書かれた看板が掛かっている。
当初は、える一人で作業していたのだが、えるが妊娠して研究を中断しなくてはならなくなった時に大学の後輩の女性が手伝ってくれるようになった。今では立派な研究員として勤務して貰っている。農業の研究には二人一組でやる事が多いのでその意味では大いに助かっている。
田圃で作業をしていると娘の恵が登校するのが見えた。この辺りは家々が離れているので集団登校が早くから行われている。俺の育った神山市内ではそんな事が無かったので新鮮だった。
お昼は普通はお義母さんが拵えてくれるが、えるも研究に余裕がある時は作る。夢中で作業しているとスマホが震えた。昼飯の時間の通告だった。基本的には社員一緒になって食べるのだが、中には弁当を持って来る者もいるし、家から特別なものを持って皆に振る舞ってくれる者もいる。例えば食後の果物とか、あるいは三時のおやつに蒸した薩摩芋等だ。
手を洗って作業場で食べる。今日は握り飯に鶏の唐揚げ。沢庵に南瓜の煮物。それに筍と和布の酢味噌和えだった。酸っぱさが体に心地よい。少し遅れて、えると研究員の子も加わる。えるは
「この酢味噌和えは昨夜わたしが作っておいたのですよ。味は如何ですか」
そう言って味を尋ねて来た。それで納得いった。味が俺好みだったからだ。
「ああ特別に美味しいよ」
そう答えると、えるは照れ隠しか
「頬にお弁当付いていますよ」
そう言って俺の頬からご飯粒を取って自分の口に入れた。それを皆がニヤニヤしながら笑っている。
小一時間の休憩もそこそこに農作業に戻る。えるも研究員の子と一緒にラボに戻った。研究は結構成果を挙げており、先日はこのラボが改良を加えた野菜の種がえるが以前勤務していた種苗会社に権利を買い上げられた。結構な金額だったという。千反田農産としてはこの陣出では余り育たない種類の野菜だから権利ごと売った方が利益になる。その資金を元手にして地域に色々な事が出来ると、鉄吾さんと俺、それにえるが同意したのだ。
えるが以前勤務していた種苗会社からは色々な研究の要請を受けている。大手では手が届かない分野の研究依頼だそうだ。これも研究費共々となる。
そのような事で、ラボ単体では結構な黒字になっている。えるとの結婚が決まり、彼女が退職する時は会社の上役達が惜しんだものだ。俺はえるより遅くまで会社に勤務していたので、随分と言われたものだ。
陽が西に傾く頃に作業から上がる。社員達も作業場で着替えるとそれぞれ帰路に着く。俺も着替えると湧いている風呂に入る。結婚当初はえると一緒に入ったものだが、最近はご無沙汰だ。尤もその分は夜に廻している。
風呂から上がると夕食の用意が出来ている。夕食は結婚当初は鉄吾さん夫婦と一緒に採っていたのだが、娘が生まれると食事のサイクルが合わないので
「無理に合わせることも無いだろう」
そう鉄吾さんが言ってくれたので、それからは無理に合わせることは無くなった。勿論朝などは一緒に採ることが多いのは言う間でもない。きょうは、二人は夕刻に出かけたので夕食は夫婦と子供だけとなった。
「今夜はカレーにしました」
カレーは娘の恵が好きな料理だ。但し辛くない奴だが。テーブルの上には大盛りの野菜サラダが大皿に乗せられている。脇には揚げ物が乗せられた皿がある。揚げ物はコロッケ、エビフライ、それと一口カツだ。それらを自由にトッピングする趣向だ。鉄吾さん夫婦と一緒ならこんな献立は出来ない。子供に合わせた献立だからだ。
席に座ると前は娘の恵で右側にえるが座る。えるは冷蔵庫からビールを出して来てグラスに注ぐ。俺もえるの小さめのグラスにビールを注ぐ。最近は一口ぐらいなら大丈夫になった。娘の恵には既にカレーがよそわれている。
「いただきま~す」
手を合わせて感謝すると恵はカレーをスプーンで掬って食べ始めた。俺とえるは軽くグラスを交えてビールを口に運ぶ。冷えた刺激が心地よい。
ビールを飲み終わるとカレーがよそわれた。俺自身、家で晩酌の習慣は無いのでこのぐらいが丁度良いのだ。
家族で今日あった事などを話し合う。恵が学校で起きた出来事を夢中で話している。それを楽しそうに聴いてやってる妻は本当に幸せそうだ。こんな光景を昔の俺が見たら何と言うだろうか。そんなことを考えていたら、えるが
「どうかしましたか」
不意にそんなことを訊いて来た。俺は首を左右に振って
「幸せってこんな感じなのかな。なんて思ってさ」
そんな返事が口をついて出た。
「そうですね」
そう言ったえるの表情は輝いていた。
氷菓二次創作
縁があったのだろう。俺は彼女と同じ部活動に入って高校時代を一緒に過ごした。
そして彼女はいま、俺の隣で眠りについている。その緩やかな寝息がこちらまで伝わって来る。
高校を卒業した後、色々なことが二人の間にあったが、今はではそれが幻のように感じてしまう。それぐらい今は全てが上手く行っている。
枕元のぼんやりとした仄かな灯りが彼女の顔を少しだけ照らしている。先程まで同じ布団で一つになっていたのが嘘のようだ。
「う、う〜ん」
浅い眠りから目ざめたのか、布団から枕元の水差しに手が伸びる。布団が捲れて素裸の二の腕が顕になる。はっとするような白い腕だ。やがてそれでは届かないと悟ったのか、うつ伏せのまま体を起こした。しどけなく開いた寝間の胸元から深い谷間を覗かせる。やがて俺が見ていたことに気が付き
「起きていらしたのですか」
自分の行動を全て見られていたという恥じらいからか頬を淡く染めていた。
「ああ、眠れなくてな。お前の寝顔を見ていた」
「趣味が悪いです」
「そうか、それはすまん」
「駄目です。許しません」
「おやおや怖いことだ」
彼女は水差しからグラスに半分ほど水を注ぐとそれを口に含み半分ほど飲み込んだ。そして俺の顔を抱き込み、そのまま口を付けて残りの水を俺に口移しで飲み込ませた。やっと飲み込み
「こぼしたら布団が駄目になるところだった」
悪い遊びを注意すると彼女は自分の布団から俺の布団に移って来た。
「眠れないなら……」
彼女はそこまで言うと俺に口づけをして来た。お互いが口の中で絡み合うような濃厚な口づけだった。思い切り彼女の躰を抱きしめる。柔らかで溶け込みそうな感触が襲う。
彼女が俺の手を取り、自分の寝間の紐を外しにかかる。開くと中は何も身に付けていなかった。大きく美しい形の良い二つの高まりが俺を誘っているようだった。
「脱がせてあげます」
そう言って彼女は俺の寝間も脱がせにかかる。
「うふ。もうこんなに……」
「こんな素晴らしい景色を見て正常に居られる訳がないよ」
彼女の右手が俺の固くなったものを柔らかく握る。そのまま抱きしめて口づけをしながら、寝間を肩から脱がせ、生まれたままの姿にする。仄かな灯りに照らされて浮かび上がる裸身は想像以上に美しく男の欲望を掻き立てる。
「なぜ何も下に身に着けていなかったんだ」
「あなたも同じでした。同じ理由です」
そう言って俺の股間に顔を埋めた。
お互いに求め合い喜びを求め合う。彼女が何度も極めた後に俺も彼女の中に喜びを放出する。
その後俺が腕枕をすると喜んで頭を付けて来て俺の胸に顔を埋めて
「このまま朝まで……」
そう御ねだりをして来たので、黙って頷く。お互い素裸のまま抱き締め合う。布団を肩まで掛けてやると、そのまま寝息を立て始めた。俺もいつの間にか眠りに落ちた。
翌朝、気がついてみると彼女の姿はなく、朝日が部屋に差し込んでいた。
「起きましたか?」
彼女が無地の薄く蒼いウールの着物の上に割烹着を着て部屋に入って来た。
「早起きだな」
「はいお風呂も沸かしておきました。あなたもお入りなさいな」
そうか、昨夜はあのまま寝て、今朝早く風呂に入ったのかと納得した。綺麗好きな彼女なら、あの後シャワーでも浴びると思ったのだが、それより温もりが大事だったのだと思った。
言われたまま浴室に赴くと、着替えやタオルがちゃんと用意されていた。顔を見せた彼女に
「出来れば一緒に入りたかったな」
そんな戯言を言うと
「わたしも、そう思いました。でも、あなたが中々起きませんので、遅くなってしまいました。今度二人だけの時に一緒に入りましょう」
「明るい時にかい」
その言葉には返事こそしなかったが、嬉しそうな表情が物語っていた。
さて今日も頑張って働こうか。
<了>
千反田と初めて逢ったのは神山高校に入学間もない頃だった。
OGの姉貴のたっての願いで「古典部」に入部する事にしたのだった。その入部願いを出しに「古典部」の部室である特別棟の四階にある地学講義室を訪れた。もとより「古典部」には部員はおらず誰も居ないのを見越して職員室から鍵を借りて出向いたのだった。
だが俺の考えとは違い地学講義室の扉は鍵が掛かっていなかった。不思議に思いそっと扉を開くと教室の窓際に一人の髪の長い少女が外を見て立っていた。少女は俺が扉を開いた音に反応して振り向いた。その瞳を見た時何故だか俺は吸い込まれる様な気がした。そして初対面の俺に向かって
「折木奉太郎さんですね」
そうハッキリと言ったのだ。俺は何故初対面の人間の名前が判るのか疑問に思ったが、少女が言うのは隣の組との芸術科目の合同授業で一緒になったらしい。しかし、この授業は入学してから一度しか行われていなかった。凄まじい記憶力だと思った。
少女の名は千反田える。後から里志から聞いた限りでは北陣出の旧家で豪農だそうだ。そこの一人娘だった。そして俺は不思議な縁に導かれて「古典部」に入部した。部員は千反田える、折木奉太郎、福部里志、そして少し遅れて伊原摩耶花の四名となった。
同じ部活をしている間に、俺は千反田の頼みを聞き入れ、彼女の忘れていた記憶を取り戻す切っ掛けを手助けした。後から思えばこの時にある程度信用されたのでは無いだろうか? 今ではそう考えている。
千反田は段々と学校の外の事にも俺に同道を求めるようになって行った。当初俺はその意味を深く理解していなかった。俺がその事を理解したのは、二年になった四月の初めの「生き雛祭り」だった。
艶やかに着飾った千反田の姿を見、その後ろから傘を差して行列をしたのだった。この時俺は自分の気持ちに気がついた。それからと言うもの俺は次第に千反田の考えを推理するようになっていく。言い換えれば千反田の立場で物事を考える事が多くなった、と言う事でもある。
下級生との行き違いをマラソン大会の最中に整理したり、音楽コンクールで姿を隠した千反田を雨の中迎えに行ったりもした。昔の俺なら到底考えられないことである。でも俺は選択してしまった。何処まで行けるか判らぬがこの道を行くと言うことを……。
二年の夏休みの初日の夕刻、俺は南陣出の横手さんの家の蔵に居た。降り出した雨に濡れながら佇んでいると、蔵の扉がそっと開かれた。薄暗い蔵から現れたのは白いブラウスに黒いスカート姿の合唱団の制服を身に纏った千反田だった。しかしその表情には精彩が無く顔色は蒼白だった。
「折木さんありがとうございます!」
「どうするんだ? 行けるのか。無理しなくても良いんだぞ」
千反田の様子を見ると、とても舞台で独唱しろなどとは言えない。
「でも皆さんに迷惑がかかってしまいます。千反田の娘としても行かなくてはなりません」
千反田はそうは言ったが明らかに無理をしてるのが判った。
「千反田。もう一度言う。無理しなくても良いんだぞ」
今度はゆっくりと口にした。すると千反田は
「折木さん……わたし怖いんです。何も無かったら怖くも何とも無かったと思います。でも、でも今はあそこで独唱するのが怖いんです」
初めて見る千反田の怯えた表情だった。恐らく家族以外……いいや今まで誰にも見せたことの無い千反田の心の弱さだった。
薄暗い蔵の中に一歩踏み入れて千反田をそっと抱きしめた。そこには成績優秀で旧家の一人娘の千反田えるはいなかった。多くの重圧から突然開放され行き場を失った一人の少女だった。
「おれきさん」
何も言葉は出なかった。ただ、しっかりと抱きしめた。千反田もその躰を俺に預けてくれた。自然と唇を重ねる。何も言わなくても理解していた。この場に留まれば俺も非難の対象になる。それを理解した上での言葉だと言う事を。俺の気持ちはお前と一緒なんだと言う事を……。
その後はやはり大変な事となったし、俺と千反田の関係も世間に知られる事となった。何れ判ることなのでここには記しない。俺と千反田は学校以外でも自然と一緒に居る事が多くなった。
千反田は俺にそれまでは語ることの無かった自分の本音を言う事が多くなった。それらは他愛ないものもあったが、自分の将来についての事柄も含まれた。
「折木さんはもう進学先を考えていらっしゃいますか?」
千反田が俺の家に来て、昼食を作ってくれて一緒に食べていた時のことだった。
「まあ凡そはな。俺の成績なら入れる所優先だよ」
お世辞にも俺は成績の良い方ではない。かと言って特別悪い方でもない。所謂普通なのだ。
「お前は決めたのか?」
千反田の作ってくれた野菜ソテーを取皿に盛りながら問うた。
「はい、やはり京都の京大に進もうと思っています」
「農学部があるからか?」
「はい。そうですね。許されるなら日本でも有数の所で学びたいと考えています。東京大学もありますが、京都の方が家に近いもので、父の許しも出そうなのです」
神山から東京は遠い。神山線の特急で名古屋まで出てそこから新幹線となる。時間にしては四時間半ほどだが事実上半日以上が潰れてしまう。岐阜羽島まで迎えが来たらかなり楽にはなるが、それでも名古屋で乗り換えが必要になる。富山まで出て新幹線という手もあるが時間が掛かるのは変わりない。それに比べ京都ならこだまで直ぐだ。一時間かからない。比べれば京都という結論が導かれるはずだと思った。
「わたし、将来は農学博士の資格を取って神山と陣出の農業に尽くしたいんです」
「嫁に行っても良いと鉄吾さんは言っていたけどな」
「それとこれとは別です。例えばわたしが折木えるになっても農業の道には進めます」
うん? 今何か大変な事をさらりと言った気がするが。
「あ、これは例えです。はい」
千反田は真っ赤な顔をしている。俺はここはツッコミどころかとも思ったが
「おれきえる。オレキエル。俺消えるだな」
詰まらないベタなダジャレでしのいでしまった。
「折木さん。将来もこうやって毎日一緒に食事が出来れば良いですね」
「ああ、そうだな」
その時は普通にそう思っていた。かなり現実味のある未来だと……。
千反田は京大に合格し、京都に住まいを移した。俺は東京の三流大学に進学した。俺と千反田は離れ離れとなった。
当初はそれなりに連絡を取り合っていたのだが、やがて千反田の実験が始まるとそうも行かなくなった。段々と連絡が途切れがちになった時だった。夜遅く千反田から電話が入った。思えば久しぶりの電話だった。
「よう暫くだな。元気にしていたか?」
「はい元気でやってます。こんな遅くにすみません。どうしても伝えたい事がありまして」
思い詰めたような千反田の声だった。思わず姿勢を正す。
「何があったんだ?」
「はい実は留学のチャンスが訪れたのです。わたしが師事してる教授が交換留学生の相手にわたしを推薦してくれたのです」
「留学か……。どのぐらいなんだ?」
「とりあえず二年です。わたしが希望して成績が良ければ延長出来ます」
「そうか、好条件だな。行くのか?」
「出来れば 行きたいです。でも折木さんと別れるのは辛いです」
正直言えば日本に居る限りは都合さえ付けば何時でも逢えると思っていた。でも留学となるとそうは行かない。
「留学先はアメリカか?」
バイオ関係の研究が進んでるアメリカなら得るものも多いだろう
「はいそうです。ニュヨークです。あそこは生活費も高いので裕福な家の者でないと……。授業料は兎も角。そんな事情もあったみたいです」
アメリカの田舎ならイザ知らず。ニュヨークは家賃も高いと聞く。千反田家ならそこら辺は問題ないのだろう。
「良いチャンスじゃないか。世界最先端の研究が出来るんだろう。大きくなって帰ってくれば良いさ」
思っていた事と反対の言葉が口から出た。本音では俺が京都に移り住みたいぐらいだった。でもその言葉を飲み込んだ。
「行っても良いですか?」
「ああ」
「本当に行っても良いのですね。翼を使っても良いのですね」
「ああ、その翼で飛んで行けば良い、そして大きくなって帰って来い」
「ありがとうございます」
その言葉は涙声だった。
その後は経過を書いておく
千反田は向こうでも優秀な成績を収め留学を延長するように向こうから求められた。最終的にはアメリカで博士論文を提出して農学博士の資格を得た。神山高校のOB達の間でも話題になった。
アメリカに行った当初はメール等もあったが、いつの間にかそれも無くなった。それはそうだろう。異国の地での勉学はそれほど甘くはない。俺は大学を卒業して中規模の商社に入社した。主に農産物を扱う商社だった。
今年久しぶりに高校の同期会が開かれることになった。普段は東京住まいだが休暇を取って神山に帰って来た。会場のホテルに向かう前に母校に寄ってみる事にした。出来れば思い出の教室である古典部の部室、地学講義室をこの目でもう一度見ておきたかった。
受付でOBである胸を告げ、用紙に書き込んで特別棟の四階に向かう。鍵を借りて来るのを忘れたと思ったが、使用中かも知れないと思いそのまま階段を登った。校舎はそのままで、まるで時間が逆行した感じだった。
四階は静かだった。もしかして今は使っていないのかも知れないと思った。誰も居ない廊下を歩いて行く。受付で借りたスリッパの音が静かに響いている。地学講義室の扉は鍵が掛かっていなかった。そっと開く。
教室の中には窓際に一人の髪の長い女性が校庭を見ながら立っていた。俺はその後ろ姿に見覚えがあった。声をかけようとしたら女性がこちらを振り向いた。
「こんにちは折木さん。わたし帰って来ました。あなたのところに」
その言葉は俺の空白を埋めるのに充分だった。
「おかえり」
ありったけの想いを込めて……。
<了>
「折木さん、もっと強く抱きしめて下さい」
「ああ」
千反田の甘い香りが二人を包み込んだ。周りに人が居るかも知れなかったが目に入らなかった。
「本当に俺の家に来るか?」
「はい。出来れば」
ならば何も言うことは無い。千反田と並んで歩き出すと千反田が俺の腕に自分の腕を絡めて来た。横を向いて千反田の表情を見ると嬉しそうに微笑んだ。
「ウチに来れば取り敢えずおせちはあるからな。それに雑煮ぐらいは出せる」
「大丈夫です。お昼は食べて来ました。朝が早いのでお昼も早かったのです」
「そうか千反田家ともなれば新年の行事が色々とあるのだろうな」
「そうですね。若水を汲んで供えたりしますが特別な事はしません」
千反田は気が付いていないだろうが、当たり前と思ってる事の殆どは普通の家では行わない事だと思う。
「でも元旦からこうやって折木さんと二人だけになれるなんて」
よく考えると、新年早々千反田とデートをしてる事になる。昨年も初詣に行ったので実感が湧かないが、これは立派なデートだ。それにキスもしたし、抱き合うなんて事もした。何処からどう見ても恋人同士に見えるのだろうな。そんな事まで考えてしまう。そんな事を思っていたら千反田が
「先のことは判りませんが今は、もう少し折木さんと特別な関係でいたいです」
「特別な関係か」
「はい。わたしにとって折木さんは特別な人ですから」
嬉しいような、こそばゆいような感じだ。
そんな会話をして我が家に到着した。
「ただいま~」
玄関を開けると奥から姉貴の声が聞こえた
「あら奉太郎? 早いじゃないの。さては、えるちゃんに嫌われた?」
「違う! 千反田を連れて来たんだ」
その声が終わると同時ぐらいに姉貴が自分の部屋から飛び出して来た。
「あらいらっしゃい。初めまして奉太郎の姉の供恵です」
姉貴が自己紹介をすると
「千反田えると申します。正式には初めてお会いしますね。宜しくお願いします」
千反田がそう言って頭を下げた
「さあ上がって。 奉太郎にしては上出来だわ」
姉貴は俺の事は眼中に無いらしく千反田の手を取って居間に向かった。居間では親父が出かける支度をしていた。
「お父さん。奉太郎の彼女の千反田えるちゃんよ」
姉貴よ彼女は未だ早いと思うぞ。でも早くないのか?
「これはこれは、いらっしゃい。奉太郎の父です」
親父が自己紹介をすると千反田も
「千反田えると申します。今日は厚かましくもお邪魔してしまいました」
「いえいえ何の、どうぞゆっくりして行って下さい。生憎わたしは新年の挨拶に出かける所ですが」
毎年親父は元旦は午後から挨拶回りに出かける。今までだと姉貴は国外に旅行に出掛けているので正月の元旦は俺一人の事が多いのだ。だからこその、やどかりの生体模倣なのだが。
「それじゃ出掛けて来る」
親父の言葉に姉貴が近寄ってネクタイの曲がりを修正し
「行ってらっしゃい。余り出先で飲みすぎちゃ駄目よ。怪しくなったら連絡するのよ。迎えに行くから」
そう言って送り出した。
「行っちゃった。えるちゃんお腹は空いてない?」
「はい大丈夫です」
「そうか。ならお茶でも入れようかしらね」
姉貴はそう言って冷蔵庫からレアチーズケーキを小皿に載せて出してきた。姉貴は千反田の着物を眺めて
「良く似合ってるわ。ホント綺麗。でも、万が一という事もあるから着替えた方が良いも。わたしの服で良いなら丁度良いのがあるから」
不安そううな顔をした千反田に姉貴は
「大丈夫。帰る時に着付けしてあげるから。えるちゃんもある程度出来るんでしょう」
「はい。でも他人のなら着付けられても自分のは不安だったのです」
「大丈夫。お姉さんに任せて。さ、わたしの部屋で着替えれば良いわ。丁度、明日出社するので、着物を着て行こうと思って着物掛けを出したところだから大丈夫よ」
姉貴はそう言って千反田を自分の部屋に連れて行った。俺は仕方なしに薬缶に水を入れてコンロに掛けた。
その薬缶が沸いた頃だろうか、姉貴と千反田が部屋から出て来た。
「おまたせ~奉太郎えるちゃんの着替えた姿を見たかったでしょう」
「べ、別に……」
そうは言ってみたが、どうのようなものを着たのか、見てみたかったのは悔しいが事実だった。
「じゃ~ん」
姉貴の後ろから現れた千反田は若草色のVネックのセーターにスリムのデニムだった。確かに姉貴の服だが良く似合っていた。但し、頭がそのままなので和洋折衷という感じだった。でも悪くなかった。
「ほら、奉太郎は見惚れているでしょう」
姉貴の冷やかしでは無いが確かに俺は千反田の姿に見惚れていた。Vネックからは豊かな谷間が覗いていたし、躰のラインがハッキリと出ていて、こんもりとした胸や豊かな腰の線が何とも眩しかった。これは姉貴は確信犯だと思った。千反田は少し恥ずかしそうな表情を見せている。
「良く似合ってるよ」
やっとそれだけが口から出た。続きの言葉が出なく困ってると台所の薬缶のお湯が沸いたのでその場を去る事が出来た。すると姉貴が
「紅茶で良いわよね。わたしが入れるから」
そう言ってさっさと台所に去ってしまった。居間には俺と千反田だけが残された。
「余りにも躰の線が顕なんで恥ずかしいと言ったのですが供恵さんは、これぐらいが魅力を現せていい感じだと言うものですから」
千反田は立ったままセーターの裾を両手で引っ張っている
「今日は着物姿といい。俺にとっては嬉しい事が続くな」
「そう言って頂けると嬉しいです」
その時だった。姉貴が銀盆に紅茶をティーカップに三杯入れて持って来た
「さあお茶でも飲んで。その後は奉太郎の部屋にでも行けば良いわ」
その後は姉貴が海外旅行の失敗談や武勇伝を披露して千反田を大層喜ばせた。そう言えば、こいつはこの手の話が好きだったと思い出した。でも困ったのは千反田が笑うとセーターの胸が揺れる事だった。正直目のやり場に困ってしまった。
だが姉貴は千反田の立場を判っていたみたいだった。千反田がトイレに立った時に俺に
「えるちゃん。羽織の紋が一つ紋だったわね」
「ああ、それが何か?」
「あんた鈍いわね。今日は初詣のついでにお父様の代理でお使いをしたのでしょう」
「ああ、昨年もやった」
「去年の事は判らないけど。今年は家のお使いなのに一つ紋という事はどうなのよ。紋の数が多いほど格が高くなるのよ。五つ紋、三つ紋、一つ紋の順なのよ、五つ紋は第一礼装、三つ紋と一つ紋は略礼装となるの」
「だから?」
「判らない? えるちゃんは家の公式なお使いという立場からは外されそうなのよ。もう満なら十七歳よ。昔なら十八だわ。お嫁に行ってもおかしく無い年頃よ。つまり大人という事」
「そうか。それなのに略礼装という事は……」
「まあ、えるちゃんにはアンタという存在があると知って、わざわざ顔見世しなくても良いという考えだったのかも知れないけどね。兎に角、えるちゃんは家の中でも微妙な立場に立たされていると言う事なのよ。アンタ大丈夫? えるちゃんを支えてあげられる?」
「大丈夫だ。元よりそのつもりだ」
「なら良いけどね。しっかりしなくちゃ駄目よ」
姉貴はそう言って自分の部屋に下がって言った
「帰る時に声を掛けてね着付けしてあげるから」
俺は姉貴の後ろ姿を見ながら改めて千反田の事を考えるのだった。
その後、千反田が帰って来て
「供恵さんのお話、面白かったですね。思い切り笑ってしまいました」
そう言って嬉しそうな顔をする。でも俺は今、姉貴が言った事を千反田には言えない。言えるはずが無いのだ。だから、そっと千反田を抱きしめた。柔らかい千反田の胸が俺の体で潰される。いきなり抱き締められて戸惑う千反田
「折木さんどうしたのですか?」
そう言っていたが、やがて千反田も両方の腕を俺の背中に回した。
新年の午後の陽が柔らかく差し込んでいた。
この次は二人でやどかりの生体模倣でもしようか。
<了>
「もしもし、折木さんですか?」
「はい、折木ですが……千反田か?」
「あ、はい。良かったです」
「どうした。何かあったのか?」
昨年は元旦の夕暮れに一緒に初詣に荒楠神社に出掛けた。千反田の家の使いがてらとは言え元旦から一緒だったことは間違いない。その時の事件については、改めて語る事も無いだろう。
「いえ、特別な事は無いのですが、元旦は何かご用事がありますか?」
昨年に続いて家の使いのついでに一緒に荒楠神社に初詣に行かないか? という誘いだと思った。正確には今年なのだが便宜上昨年と記す。
「特別な用事はないぞ。やどかりの生体模倣をする以外はな」
「やどかりの生体模倣ですか。わたしも一緒にしても良いですか?」
「は!?」
「冗談です。まさか折木さんのお宅で、一緒にそんな事をする訳には行きません」
千反田がこんな冗談を言うのは珍しいと思った。
「実は、昨年に続いて一緒に荒楠神社に初詣に行って頂けないかと思いまして」
「ああ、いいぞ。どうぜ暇だからな。時間は昨年と同じか?」
「いいえ今年はお昼ごろなんです」
「昼ごろ? お昼には来客の相手をしなくてはならないのでは無いか?」
「今年は少し様子が違うのです。詳しい事は電話では……」
何か事情がありそれが千反田家の事柄に絡むなら電話口で軽々しく言えはしない。
「判った。事情は当日訊こう」
「ありがとうございます。そうして頂けると助かります」
電話の向こうで千反田が頭を下げた気がした。結局、お昼ごろの時間を約束して電話を切った。待ち合わせ場所は昨年と同じ荒楠神社の石段の下にした。その方が判り易いからだ。昼なら昨年よりも人の数は多いに違いない。下手な場所で待ち合わせをしたら間違いが起きる可能性もあると思ったからだ。
年が開け元旦となった。今年は姉貴が家に居る。二日から仕事だからだ。海外相手なのでのんびりと正月を過ごす時間は無いそうだ。俺は姉貴の冷やかしの言葉を背に受けて家を後にした。
荒楠神社まではゆっくりと歩いても二十分ぐらいだ。通常なら十五分もあれば到着する。正直俺は、今年は千反田がどのような着物姿で現れるか楽しみだった。
荒楠神社に到着して腕時計を確認すると約束の時間までは少し間があった。今日は穏やかな天気で風も無いので幾分か楽だった。しかし、そこは神山。東京などよりかなり気温が低いのも事実だった。トレンチコートの襟を立てて寒さを避ける。
「お待たせしました」
その声に振り返ると、千反田が立っていた。薄いピンクの地に白い梅の花が描かれた着物に朱の帯をしていた。帯にも柄があるみたいだが判らなかった。そして昨年と同じように羽織を着ていて、その色地は明るいグレーに僅かに赤みがかった感じの色地で、後で霞色と言うのだと知った。柄は特になく恐らく千反田家の紋が入っていて所謂「紋付き」と呼ばれるものだった。
シックな感じながらも着物の柄が映えて千反田の存在を一際輝かせていた。袖は振り袖ではなく普通の長さの袖だった。今年も着物姿の千反田を見る事が出来て嬉しかった。見惚れるという言葉があるなら、それだと思った。
「明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します」
千反田がそう言って頭を下げる。俺も
「おめでとうございます。こちらこそ宜しくお願い致します」
そう返事をする。
「今年の着物も良く似合ってるな」
「ありがとうございます。今年も小紋です。江戸小紋なんですよ。似合っているかどうか自信が無かったのですが、折木さんに褒められて嬉しいです」
アップした髪のせいでハッキリと見えるようになったうなじが本当に色っぽく、真っ赤に染まっていた。
「あまり見つめないで下さい。嬉しいのと恥ずかしいので混乱してしまいます」
千反田はそう言っていたが満更でもなさそうだった。
「その酒を持とう」
そう言って千反田が下げていた包を受け取った。
「ありがとうございます。何だか時間以外は昨年と同じですね」
千反田はそう言ってニコニコしている。一緒に石段を登りながら
「来客の相手はしなくても良いのか?」
俺は普通の質問だと思ったのだが千反田の口は重かった。
「そうですね。結果だけ見れば何でも無いのです」
「どういう意味だ?」
「元旦の来客ですが、午前中は親戚が中心です。父は親戚には、わたしが家業の農業を継がないと知らせました。だから新年の挨拶でもその事に触れる者はいません。でも午後からは親戚以外のお付き合いのある方が中心です。噂を聞いて必ずその事に話しが及ぶと思うのです。そこに、わたしが居たら両親も困る事になります。だから家のお使いという用事で出かける事になったのです。わたしがその場に居なければ、その事に触れる事も少なくなるとの考えなんです」
そうか、何か事情がるとは思っていたが、正式な後継者なら来客の相手もしなくてはならないが、そうで無ければ、その場に居る必要は無いという事だ。しかし、それで良いのだろうか? それが正しいのだろうか?
「父はわたしの事を考えての事だと思っています」
理屈ではそうだろうが、俺は何かスッキリしないものが残ったのだった。 石段をゆっくりと登って行くと千反田が酒を持っていない方の手に自分の指を絡ませて来た。
「もし折木さんが転んだりしたら大変ですから」
頬を赤くしてそんな事を言う。俺は千反田がいじらしくなってしまった。『お前は跡継ぎでは無いのだから家で来客の相手をしなくても良い』と暗に言われたのと同じだからだ。
しっくかりと指を絡め合う。出来ればこんな家の用事の物なぞ放り出してこの石段のお踊り場で千反田を抱き締めたかった。
「折木さん。本当にこれからも宜しくお願いします」
「当たり前だろう。どんな立場になってもお前に変わりは無い。俺は相手の立場で付き合いを変える人間じゃ無いと自分では思っている」
「それは判っていたのです。信じていました。でも実際にこう扱われると……」
恐らく千反田の心にはポッカリと穴が開いてるのだろう。俺の力でそれを少しでも埋められれば良いと思った。
石段を登りきり拝殿に向かう。二拍二礼をして参拝を済ませる。千反田は色々な事をお願いしたのだろう。俺は今までは特に考えなかったが、今年は違った。今年は千反田の行く末に幸あれと祈ったのだった。
「今までは色々な事をお願いして来ましたが。今年は一つだけにしました」
「ほう何をお願いしたんだ?」
俺がそう尋ねると千反田は顔を真赤にして
「それだけは言えません」
そう言って首を左右に振った。うなじ迄が真っ赤になってるのも良いと思った。
その後社務所に趣き、新年の挨拶をした。これは昨年と同じだったが、来た時刻を見て十文字には大凡の事が判ったみたいだ。
十文字は俺だけを呼び寄せると小声で
「折木くん。えるをしっかり支えてあげてね。あの子には君しか居ないから」
俺にそう言った。やはり事情が判っていたのだ。俺も
「判った。元よりそのつもりだ」
そう言って自分の考えを述べた。
帰りの道すがら
「このまま帰れないのだろう。何処かで時間を潰して行くか」
「そう出来れば助かります」
「じゃあウチに来るか? 今日は親父も姉貴も居るがな」
「供恵さんがいらっしゃるのですか、それにお父様も居るならご挨拶したいです」
千反田は嬉しそうに言う。
「お前はウチの姉貴をどう思っているんだ?」
「そうですね。とても聡明で広い考えの持ち主で素敵な方だと思います。あのような方なら姉になって欲しいです」
「そうか、お前は弟か姉が欲しかったんだっけな」
「はい。供恵さんなら最高です」
そんなものか。俺にとっては悪夢だがな。
「折木さん寒いですね」
千反田がそう言って俺の左腕に絡みついて来た。最初はそのままにしていたが、その腕を解いて、千反田の肩を抱いて自分の方に引き寄せた。
「おれきさん……」
「千反田。俺は微弱な力しか無いが、お前を守りたいんだ。どんな事があってもな」
それを聴いた千反田は最初は驚いて俺を見つめていたが
「嬉しいです! わたしも、この腕を放したくありません」
それは俺も同じ気持ちだった。誰も通らない道の影に二人で行き、千反田の華奢な躰を抱き締めて、そっと唇を重ねた。二人の上空には冬晴れの空が広がっていた。
<了>