氷菓二次創作

氷菓二次創作 「出会いと別れ」

 千反田と初めて逢ったのは神山高校に入学間もない頃だった。
 OGの姉貴のたっての願いで「古典部」に入部する事にしたのだった。その入部願いを出しに「古典部」の部室である特別棟の四階にある地学講義室を訪れた。もとより「古典部」には部員はおらず誰も居ないのを見越して職員室から鍵を借りて出向いたのだった。
 だが俺の考えとは違い地学講義室の扉は鍵が掛かっていなかった。不思議に思いそっと扉を開くと教室の窓際に一人の髪の長い少女が外を見て立っていた。少女は俺が扉を開いた音に反応して振り向いた。その瞳を見た時何故だか俺は吸い込まれる様な気がした。そして初対面の俺に向かって
「折木奉太郎さんですね」
 そうハッキリと言ったのだ。俺は何故初対面の人間の名前が判るのか疑問に思ったが、少女が言うのは隣の組との芸術科目の合同授業で一緒になったらしい。しかし、この授業は入学してから一度しか行われていなかった。凄まじい記憶力だと思った。
 少女の名は千反田える。後から里志から聞いた限りでは北陣出の旧家で豪農だそうだ。そこの一人娘だった。そして俺は不思議な縁に導かれて「古典部」に入部した。部員は千反田える、折木奉太郎、福部里志、そして少し遅れて伊原摩耶花の四名となった。

 同じ部活をしている間に、俺は千反田の頼みを聞き入れ、彼女の忘れていた記憶を取り戻す切っ掛けを手助けした。後から思えばこの時にある程度信用されたのでは無いだろうか? 今ではそう考えている。
 千反田は段々と学校の外の事にも俺に同道を求めるようになって行った。当初俺はその意味を深く理解していなかった。俺がその事を理解したのは、二年になった四月の初めの「生き雛祭り」だった。
 艶やかに着飾った千反田の姿を見、その後ろから傘を差して行列をしたのだった。この時俺は自分の気持ちに気がついた。それからと言うもの俺は次第に千反田の考えを推理するようになっていく。言い換えれば千反田の立場で物事を考える事が多くなった、と言う事でもある。
 下級生との行き違いをマラソン大会の最中に整理したり、音楽コンクールで姿を隠した千反田を雨の中迎えに行ったりもした。昔の俺なら到底考えられないことである。でも俺は選択してしまった。何処まで行けるか判らぬがこの道を行くと言うことを……。

 二年の夏休みの初日の夕刻、俺は南陣出の横手さんの家の蔵に居た。降り出した雨に濡れながら佇んでいると、蔵の扉がそっと開かれた。薄暗い蔵から現れたのは白いブラウスに黒いスカート姿の合唱団の制服を身に纏った千反田だった。しかしその表情には精彩が無く顔色は蒼白だった。
「折木さんありがとうございます!」
「どうするんだ? 行けるのか。無理しなくても良いんだぞ」
 千反田の様子を見ると、とても舞台で独唱しろなどとは言えない。
「でも皆さんに迷惑がかかってしまいます。千反田の娘としても行かなくてはなりません」
 千反田はそうは言ったが明らかに無理をしてるのが判った。
「千反田。もう一度言う。無理しなくても良いんだぞ」
 今度はゆっくりと口にした。すると千反田は
「折木さん……わたし怖いんです。何も無かったら怖くも何とも無かったと思います。でも、でも今はあそこで独唱するのが怖いんです」
 初めて見る千反田の怯えた表情だった。恐らく家族以外……いいや今まで誰にも見せたことの無い千反田の心の弱さだった。
 薄暗い蔵の中に一歩踏み入れて千反田をそっと抱きしめた。そこには成績優秀で旧家の一人娘の千反田えるはいなかった。多くの重圧から突然開放され行き場を失った一人の少女だった。
「おれきさん」
 何も言葉は出なかった。ただ、しっかりと抱きしめた。千反田もその躰を俺に預けてくれた。自然と唇を重ねる。何も言わなくても理解していた。この場に留まれば俺も非難の対象になる。それを理解した上での言葉だと言う事を。俺の気持ちはお前と一緒なんだと言う事を……。

 その後はやはり大変な事となったし、俺と千反田の関係も世間に知られる事となった。何れ判ることなのでここには記しない。俺と千反田は学校以外でも自然と一緒に居る事が多くなった。
 千反田は俺にそれまでは語ることの無かった自分の本音を言う事が多くなった。それらは他愛ないものもあったが、自分の将来についての事柄も含まれた。
「折木さんはもう進学先を考えていらっしゃいますか?」
 千反田が俺の家に来て、昼食を作ってくれて一緒に食べていた時のことだった。
「まあ凡そはな。俺の成績なら入れる所優先だよ」
 お世辞にも俺は成績の良い方ではない。かと言って特別悪い方でもない。所謂普通なのだ。
「お前は決めたのか?」
 千反田の作ってくれた野菜ソテーを取皿に盛りながら問うた。
「はい、やはり京都の京大に進もうと思っています」
「農学部があるからか?」
「はい。そうですね。許されるなら日本でも有数の所で学びたいと考えています。東京大学もありますが、京都の方が家に近いもので、父の許しも出そうなのです」
 神山から東京は遠い。神山線の特急で名古屋まで出てそこから新幹線となる。時間にしては四時間半ほどだが事実上半日以上が潰れてしまう。岐阜羽島まで迎えが来たらかなり楽にはなるが、それでも名古屋で乗り換えが必要になる。富山まで出て新幹線という手もあるが時間が掛かるのは変わりない。それに比べ京都ならこだまで直ぐだ。一時間かからない。比べれば京都という結論が導かれるはずだと思った。
「わたし、将来は農学博士の資格を取って神山と陣出の農業に尽くしたいんです」
「嫁に行っても良いと鉄吾さんは言っていたけどな」
「それとこれとは別です。例えばわたしが折木えるになっても農業の道には進めます」
 うん? 今何か大変な事をさらりと言った気がするが。
「あ、これは例えです。はい」
 千反田は真っ赤な顔をしている。俺はここはツッコミどころかとも思ったが
「おれきえる。オレキエル。俺消えるだな」
 詰まらないベタなダジャレでしのいでしまった。
「折木さん。将来もこうやって毎日一緒に食事が出来れば良いですね」
「ああ、そうだな」
 その時は普通にそう思っていた。かなり現実味のある未来だと……。
 千反田は京大に合格し、京都に住まいを移した。俺は東京の三流大学に進学した。俺と千反田は離れ離れとなった。
 当初はそれなりに連絡を取り合っていたのだが、やがて千反田の実験が始まるとそうも行かなくなった。段々と連絡が途切れがちになった時だった。夜遅く千反田から電話が入った。思えば久しぶりの電話だった。
「よう暫くだな。元気にしていたか?」
「はい元気でやってます。こんな遅くにすみません。どうしても伝えたい事がありまして」
 思い詰めたような千反田の声だった。思わず姿勢を正す。
「何があったんだ?」
「はい実は留学のチャンスが訪れたのです。わたしが師事してる教授が交換留学生の相手にわたしを推薦してくれたのです」
「留学か……。どのぐらいなんだ?」
「とりあえず二年です。わたしが希望して成績が良ければ延長出来ます」
「そうか、好条件だな。行くのか?」
「出来れば 行きたいです。でも折木さんと別れるのは辛いです」
 正直言えば日本に居る限りは都合さえ付けば何時でも逢えると思っていた。でも留学となるとそうは行かない。
「留学先はアメリカか?」
 バイオ関係の研究が進んでるアメリカなら得るものも多いだろう
「はいそうです。ニュヨークです。あそこは生活費も高いので裕福な家の者でないと……。授業料は兎も角。そんな事情もあったみたいです」
 アメリカの田舎ならイザ知らず。ニュヨークは家賃も高いと聞く。千反田家ならそこら辺は問題ないのだろう。
「良いチャンスじゃないか。世界最先端の研究が出来るんだろう。大きくなって帰ってくれば良いさ」
 思っていた事と反対の言葉が口から出た。本音では俺が京都に移り住みたいぐらいだった。でもその言葉を飲み込んだ。
「行っても良いですか?」
「ああ」
「本当に行っても良いのですね。翼を使っても良いのですね」
「ああ、その翼で飛んで行けば良い、そして大きくなって帰って来い」
「ありがとうございます」
 その言葉は涙声だった。
 その後は経過を書いておく
 千反田は向こうでも優秀な成績を収め留学を延長するように向こうから求められた。最終的にはアメリカで博士論文を提出して農学博士の資格を得た。神山高校のOB達の間でも話題になった。
 アメリカに行った当初はメール等もあったが、いつの間にかそれも無くなった。それはそうだろう。異国の地での勉学はそれほど甘くはない。俺は大学を卒業して中規模の商社に入社した。主に農産物を扱う商社だった。

 今年久しぶりに高校の同期会が開かれることになった。普段は東京住まいだが休暇を取って神山に帰って来た。会場のホテルに向かう前に母校に寄ってみる事にした。出来れば思い出の教室である古典部の部室、地学講義室をこの目でもう一度見ておきたかった。
 受付でOBである胸を告げ、用紙に書き込んで特別棟の四階に向かう。鍵を借りて来るのを忘れたと思ったが、使用中かも知れないと思いそのまま階段を登った。校舎はそのままで、まるで時間が逆行した感じだった。
 四階は静かだった。もしかして今は使っていないのかも知れないと思った。誰も居ない廊下を歩いて行く。受付で借りたスリッパの音が静かに響いている。地学講義室の扉は鍵が掛かっていなかった。そっと開く。
 教室の中には窓際に一人の髪の長い女性が校庭を見ながら立っていた。俺はその後ろ姿に見覚えがあった。声をかけようとしたら女性がこちらを振り向いた。
「こんにちは折木さん。わたし帰って来ました。あなたのところに」
 その言葉は俺の空白を埋めるのに充分だった。
「おかえり」
 ありったけの想いを込めて……。

                            <了>

氷菓二次創作「奉太郎の決意~その後」

 唇が離れると千反田が潤んだ瞳で俺の胸に飛び込んで来た。そっと背中に手を回し抱きしめる。
「折木さん、もっと強く抱きしめて下さい」
「ああ」
 千反田の甘い香りが二人を包み込んだ。周りに人が居るかも知れなかったが目に入らなかった。
「本当に俺の家に来るか?」
「はい。出来れば」
 ならば何も言うことは無い。千反田と並んで歩き出すと千反田が俺の腕に自分の腕を絡めて来た。横を向いて千反田の表情を見ると嬉しそうに微笑んだ。
「ウチに来れば取り敢えずおせちはあるからな。それに雑煮ぐらいは出せる」
「大丈夫です。お昼は食べて来ました。朝が早いのでお昼も早かったのです」
「そうか千反田家ともなれば新年の行事が色々とあるのだろうな」
「そうですね。若水を汲んで供えたりしますが特別な事はしません」
 千反田は気が付いていないだろうが、当たり前と思ってる事の殆どは普通の家では行わない事だと思う。
「でも元旦からこうやって折木さんと二人だけになれるなんて」
 よく考えると、新年早々千反田とデートをしてる事になる。昨年も初詣に行ったので実感が湧かないが、これは立派なデートだ。それにキスもしたし、抱き合うなんて事もした。何処からどう見ても恋人同士に見えるのだろうな。そんな事まで考えてしまう。そんな事を思っていたら千反田が
「先のことは判りませんが今は、もう少し折木さんと特別な関係でいたいです」
「特別な関係か」
「はい。わたしにとって折木さんは特別な人ですから」
 嬉しいような、こそばゆいような感じだ。
 そんな会話をして我が家に到着した。
「ただいま~」
 玄関を開けると奥から姉貴の声が聞こえた
「あら奉太郎? 早いじゃないの。さては、えるちゃんに嫌われた?」
「違う! 千反田を連れて来たんだ」
 その声が終わると同時ぐらいに姉貴が自分の部屋から飛び出して来た。
「あらいらっしゃい。初めまして奉太郎の姉の供恵です」
 姉貴が自己紹介をすると
「千反田えると申します。正式には初めてお会いしますね。宜しくお願いします」
 千反田がそう言って頭を下げた
「さあ上がって。 奉太郎にしては上出来だわ」
 姉貴は俺の事は眼中に無いらしく千反田の手を取って居間に向かった。居間では親父が出かける支度をしていた。
「お父さん。奉太郎の彼女の千反田えるちゃんよ」
 姉貴よ彼女は未だ早いと思うぞ。でも早くないのか?
「これはこれは、いらっしゃい。奉太郎の父です」
 親父が自己紹介をすると千反田も
「千反田えると申します。今日は厚かましくもお邪魔してしまいました」
「いえいえ何の、どうぞゆっくりして行って下さい。生憎わたしは新年の挨拶に出かける所ですが」
 毎年親父は元旦は午後から挨拶回りに出かける。今までだと姉貴は国外に旅行に出掛けているので正月の元旦は俺一人の事が多いのだ。だからこその、やどかりの生体模倣なのだが。
「それじゃ出掛けて来る」
 親父の言葉に姉貴が近寄ってネクタイの曲がりを修正し
「行ってらっしゃい。余り出先で飲みすぎちゃ駄目よ。怪しくなったら連絡するのよ。迎えに行くから」
 そう言って送り出した。
「行っちゃった。えるちゃんお腹は空いてない?」
「はい大丈夫です」
「そうか。ならお茶でも入れようかしらね」
 姉貴はそう言って冷蔵庫からレアチーズケーキを小皿に載せて出してきた。姉貴は千反田の着物を眺めて
「良く似合ってるわ。ホント綺麗。でも、万が一という事もあるから着替えた方が良いも。わたしの服で良いなら丁度良いのがあるから」
 不安そううな顔をした千反田に姉貴は
「大丈夫。帰る時に着付けしてあげるから。えるちゃんもある程度出来るんでしょう」
「はい。でも他人のなら着付けられても自分のは不安だったのです」
「大丈夫。お姉さんに任せて。さ、わたしの部屋で着替えれば良いわ。丁度、明日出社するので、着物を着て行こうと思って着物掛けを出したところだから大丈夫よ」
 姉貴はそう言って千反田を自分の部屋に連れて行った。俺は仕方なしに薬缶に水を入れてコンロに掛けた。
 その薬缶が沸いた頃だろうか、姉貴と千反田が部屋から出て来た。
「おまたせ~奉太郎えるちゃんの着替えた姿を見たかったでしょう」
「べ、別に……」
 そうは言ってみたが、どうのようなものを着たのか、見てみたかったのは悔しいが事実だった。
「じゃ~ん」
 姉貴の後ろから現れた千反田は若草色のVネックのセーターにスリムのデニムだった。確かに姉貴の服だが良く似合っていた。但し、頭がそのままなので和洋折衷という感じだった。でも悪くなかった。
「ほら、奉太郎は見惚れているでしょう」
 姉貴の冷やかしでは無いが確かに俺は千反田の姿に見惚れていた。Vネックからは豊かな谷間が覗いていたし、躰のラインがハッキリと出ていて、こんもりとした胸や豊かな腰の線が何とも眩しかった。これは姉貴は確信犯だと思った。千反田は少し恥ずかしそうな表情を見せている。
「良く似合ってるよ」
 やっとそれだけが口から出た。続きの言葉が出なく困ってると台所の薬缶のお湯が沸いたのでその場を去る事が出来た。すると姉貴が
「紅茶で良いわよね。わたしが入れるから」
 そう言ってさっさと台所に去ってしまった。居間には俺と千反田だけが残された。
「余りにも躰の線が顕なんで恥ずかしいと言ったのですが供恵さんは、これぐらいが魅力を現せていい感じだと言うものですから」
 千反田は立ったままセーターの裾を両手で引っ張っている
「今日は着物姿といい。俺にとっては嬉しい事が続くな」
「そう言って頂けると嬉しいです」
 その時だった。姉貴が銀盆に紅茶をティーカップに三杯入れて持って来た
「さあお茶でも飲んで。その後は奉太郎の部屋にでも行けば良いわ」
 その後は姉貴が海外旅行の失敗談や武勇伝を披露して千反田を大層喜ばせた。そう言えば、こいつはこの手の話が好きだったと思い出した。でも困ったのは千反田が笑うとセーターの胸が揺れる事だった。正直目のやり場に困ってしまった。
 だが姉貴は千反田の立場を判っていたみたいだった。千反田がトイレに立った時に俺に
「えるちゃん。羽織の紋が一つ紋だったわね」
「ああ、それが何か?」
「あんた鈍いわね。今日は初詣のついでにお父様の代理でお使いをしたのでしょう」
「ああ、昨年もやった」
「去年の事は判らないけど。今年は家のお使いなのに一つ紋という事はどうなのよ。紋の数が多いほど格が高くなるのよ。五つ紋、三つ紋、一つ紋の順なのよ、五つ紋は第一礼装、三つ紋と一つ紋は略礼装となるの」
「だから?」
「判らない? えるちゃんは家の公式なお使いという立場からは外されそうなのよ。もう満なら十七歳よ。昔なら十八だわ。お嫁に行ってもおかしく無い年頃よ。つまり大人という事」
「そうか。それなのに略礼装という事は……」
「まあ、えるちゃんにはアンタという存在があると知って、わざわざ顔見世しなくても良いという考えだったのかも知れないけどね。兎に角、えるちゃんは家の中でも微妙な立場に立たされていると言う事なのよ。アンタ大丈夫? えるちゃんを支えてあげられる?」
「大丈夫だ。元よりそのつもりだ」
「なら良いけどね。しっかりしなくちゃ駄目よ」
 姉貴はそう言って自分の部屋に下がって言った
「帰る時に声を掛けてね着付けしてあげるから」
 俺は姉貴の後ろ姿を見ながら改めて千反田の事を考えるのだった。
 その後、千反田が帰って来て
「供恵さんのお話、面白かったですね。思い切り笑ってしまいました」
 そう言って嬉しそうな顔をする。でも俺は今、姉貴が言った事を千反田には言えない。言えるはずが無いのだ。だから、そっと千反田を抱きしめた。柔らかい千反田の胸が俺の体で潰される。いきなり抱き締められて戸惑う千反田
「折木さんどうしたのですか?」
 そう言っていたが、やがて千反田も両方の腕を俺の背中に回した。
 新年の午後の陽が柔らかく差し込んでいた。
 この次は二人でやどかりの生体模倣でもしようか。


                 <了>

氷菓二次創作「奉太郎の決意」

 その電話は、暮れも押し詰まった十二月の三十日に掛かって来た。受話器を取り上げると電話の主は千反田だった。
「もしもし、折木さんですか?」
「はい、折木ですが……千反田か?」
「あ、はい。良かったです」
「どうした。何かあったのか?」
 昨年は元旦の夕暮れに一緒に初詣に荒楠神社に出掛けた。千反田の家の使いがてらとは言え元旦から一緒だったことは間違いない。その時の事件については、改めて語る事も無いだろう。
「いえ、特別な事は無いのですが、元旦は何かご用事がありますか?」
 昨年に続いて家の使いのついでに一緒に荒楠神社に初詣に行かないか? という誘いだと思った。正確には今年なのだが便宜上昨年と記す。
「特別な用事はないぞ。やどかりの生体模倣をする以外はな」
「やどかりの生体模倣ですか。わたしも一緒にしても良いですか?」
「は!?」
「冗談です。まさか折木さんのお宅で、一緒にそんな事をする訳には行きません」
 千反田がこんな冗談を言うのは珍しいと思った。
「実は、昨年に続いて一緒に荒楠神社に初詣に行って頂けないかと思いまして」
「ああ、いいぞ。どうぜ暇だからな。時間は昨年と同じか?」
「いいえ今年はお昼ごろなんです」
「昼ごろ? お昼には来客の相手をしなくてはならないのでは無いか?」
「今年は少し様子が違うのです。詳しい事は電話では……」
 何か事情がありそれが千反田家の事柄に絡むなら電話口で軽々しく言えはしない。
「判った。事情は当日訊こう」
「ありがとうございます。そうして頂けると助かります」
 電話の向こうで千反田が頭を下げた気がした。結局、お昼ごろの時間を約束して電話を切った。待ち合わせ場所は昨年と同じ荒楠神社の石段の下にした。その方が判り易いからだ。昼なら昨年よりも人の数は多いに違いない。下手な場所で待ち合わせをしたら間違いが起きる可能性もあると思ったからだ。
 年が開け元旦となった。今年は姉貴が家に居る。二日から仕事だからだ。海外相手なのでのんびりと正月を過ごす時間は無いそうだ。俺は姉貴の冷やかしの言葉を背に受けて家を後にした。
 荒楠神社まではゆっくりと歩いても二十分ぐらいだ。通常なら十五分もあれば到着する。正直俺は、今年は千反田がどのような着物姿で現れるか楽しみだった。
 荒楠神社に到着して腕時計を確認すると約束の時間までは少し間があった。今日は穏やかな天気で風も無いので幾分か楽だった。しかし、そこは神山。東京などよりかなり気温が低いのも事実だった。トレンチコートの襟を立てて寒さを避ける。
「お待たせしました」
 その声に振り返ると、千反田が立っていた。薄いピンクの地に白い梅の花が描かれた着物に朱の帯をしていた。帯にも柄があるみたいだが判らなかった。そして昨年と同じように羽織を着ていて、その色地は明るいグレーに僅かに赤みがかった感じの色地で、後で霞色と言うのだと知った。柄は特になく恐らく千反田家の紋が入っていて所謂「紋付き」と呼ばれるものだった。
 シックな感じながらも着物の柄が映えて千反田の存在を一際輝かせていた。袖は振り袖ではなく普通の長さの袖だった。今年も着物姿の千反田を見る事が出来て嬉しかった。見惚れるという言葉があるなら、それだと思った。
「明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します」
 千反田がそう言って頭を下げる。俺も
「おめでとうございます。こちらこそ宜しくお願い致します」
 そう返事をする。
「今年の着物も良く似合ってるな」
「ありがとうございます。今年も小紋です。江戸小紋なんですよ。似合っているかどうか自信が無かったのですが、折木さんに褒められて嬉しいです」
 アップした髪のせいでハッキリと見えるようになったうなじが本当に色っぽく、真っ赤に染まっていた。
「あまり見つめないで下さい。嬉しいのと恥ずかしいので混乱してしまいます」
 千反田はそう言っていたが満更でもなさそうだった。
「その酒を持とう」
 そう言って千反田が下げていた包を受け取った。
「ありがとうございます。何だか時間以外は昨年と同じですね」
 千反田はそう言ってニコニコしている。一緒に石段を登りながら
「来客の相手はしなくても良いのか?」
 俺は普通の質問だと思ったのだが千反田の口は重かった。
「そうですね。結果だけ見れば何でも無いのです」
「どういう意味だ?」
「元旦の来客ですが、午前中は親戚が中心です。父は親戚には、わたしが家業の農業を継がないと知らせました。だから新年の挨拶でもその事に触れる者はいません。でも午後からは親戚以外のお付き合いのある方が中心です。噂を聞いて必ずその事に話しが及ぶと思うのです。そこに、わたしが居たら両親も困る事になります。だから家のお使いという用事で出かける事になったのです。わたしがその場に居なければ、その事に触れる事も少なくなるとの考えなんです」
 そうか、何か事情がるとは思っていたが、正式な後継者なら来客の相手もしなくてはならないが、そうで無ければ、その場に居る必要は無いという事だ。しかし、それで良いのだろうか? それが正しいのだろうか?
「父はわたしの事を考えての事だと思っています」
 理屈ではそうだろうが、俺は何かスッキリしないものが残ったのだった。 石段をゆっくりと登って行くと千反田が酒を持っていない方の手に自分の指を絡ませて来た。
「もし折木さんが転んだりしたら大変ですから」
 頬を赤くしてそんな事を言う。俺は千反田がいじらしくなってしまった。『お前は跡継ぎでは無いのだから家で来客の相手をしなくても良い』と暗に言われたのと同じだからだ。
しっくかりと指を絡め合う。出来ればこんな家の用事の物なぞ放り出してこの石段のお踊り場で千反田を抱き締めたかった。
「折木さん。本当にこれからも宜しくお願いします」
「当たり前だろう。どんな立場になってもお前に変わりは無い。俺は相手の立場で付き合いを変える人間じゃ無いと自分では思っている」
「それは判っていたのです。信じていました。でも実際にこう扱われると……」
 恐らく千反田の心にはポッカリと穴が開いてるのだろう。俺の力でそれを少しでも埋められれば良いと思った。
 石段を登りきり拝殿に向かう。二拍二礼をして参拝を済ませる。千反田は色々な事をお願いしたのだろう。俺は今までは特に考えなかったが、今年は違った。今年は千反田の行く末に幸あれと祈ったのだった。
「今までは色々な事をお願いして来ましたが。今年は一つだけにしました」
「ほう何をお願いしたんだ?」
 俺がそう尋ねると千反田は顔を真赤にして
「それだけは言えません」
 そう言って首を左右に振った。うなじ迄が真っ赤になってるのも良いと思った。
 その後社務所に趣き、新年の挨拶をした。これは昨年と同じだったが、来た時刻を見て十文字には大凡の事が判ったみたいだ。
 十文字は俺だけを呼び寄せると小声で
「折木くん。えるをしっかり支えてあげてね。あの子には君しか居ないから」
 俺にそう言った。やはり事情が判っていたのだ。俺も
「判った。元よりそのつもりだ」
 そう言って自分の考えを述べた。
 帰りの道すがら
「このまま帰れないのだろう。何処かで時間を潰して行くか」
「そう出来れば助かります」
「じゃあウチに来るか? 今日は親父も姉貴も居るがな」
「供恵さんがいらっしゃるのですか、それにお父様も居るならご挨拶したいです」
 千反田は嬉しそうに言う。
「お前はウチの姉貴をどう思っているんだ?」
「そうですね。とても聡明で広い考えの持ち主で素敵な方だと思います。あのような方なら姉になって欲しいです」
「そうか、お前は弟か姉が欲しかったんだっけな」
「はい。供恵さんなら最高です」
 そんなものか。俺にとっては悪夢だがな。
「折木さん寒いですね」
 千反田がそう言って俺の左腕に絡みついて来た。最初はそのままにしていたが、その腕を解いて、千反田の肩を抱いて自分の方に引き寄せた。
「おれきさん……」
「千反田。俺は微弱な力しか無いが、お前を守りたいんだ。どんな事があってもな」
 それを聴いた千反田は最初は驚いて俺を見つめていたが
「嬉しいです! わたしも、この腕を放したくありません」
 それは俺も同じ気持ちだった。誰も通らない道の影に二人で行き、千反田の華奢な躰を抱き締めて、そっと唇を重ねた。二人の上空には冬晴れの空が広がっていた。

                   
                     <了>

氷菓二次創作「授乳に関する一考察」

 俺と千反田もとい、えると一緒になって二年が過ぎようとしていた。える自体は千反田家の本業である農業そのものは継がなかったが、旧家としての千反田の家は継ぐことになった。父親の鉄吾さんの考えでは、えるを千反田の軛から解き放して自由に人生を過ごして欲しかったみたいだが、肝心の後継者が見つからない。それはそうだと思う。江戸の初め頃からこの地方を納めていた千反田家という大きな存在を簡単に継ごうという者が見つかるはずもなかった。
 現在は形だけだが、俺が養子に入り千反田家を継いでいる。千反田家の用事などは主に鉄吾さんが行っているが、常に俺が帯同している。所謂顔を繋ぐということだ。そのうち俺が表に出ることになるのだろう。
 その俺達夫婦に待望の第一子が誕生した。長女で名を「めぐみ」と名付けた。えるは乳の出も良く母乳で育てることにした。実はそのことで意外な一面を発見してしまったのだ。
 それは授乳にあった。普段の千反田家の家の中はえるの母親と祖母、それにえるとめぐみと女性しか居ない。朝夕はそこに俺と鉄吾さんが加わる程度だ。だからと言う訳ではないが、めぐみがお腹を空かせると所構わず授乳をするのだ。
 ご存知の方もいると思うがえるは決して胸の小さな方ではない。むしろ大きい方だと言える。誰かが「隠れ巨乳」だと言ったが、正にそうだった。その点では非常に好ましかったのだが、出産して授乳するようになると乳が張って今までよりかなり大きくなっていた。それを家の中だと所構わずに出すのだ。
 それが悪いという訳ではない。家族しか居ないのだから我が子がお腹を空かせれば授乳するのは当たり前のことだ。白くて大きな乳房に娘が吸い付き、ごくごくと飲んでいる姿は親としても好ましいのは言うまでもない。
 それを微笑みながら家族が見ている……それも理解出来る。だがだ、俺の中に何かモヤモヤしたものが湧いているのも確かなのだ。めぐみが泣くとえるはすぐに白く大きな乳房をポロッと出して授乳する。それが当たり前なのだが、何かそこに釈然としない感情が芽生えているのも事実なのだ。当然、えるは俺がそんな感情を持っていることなぞ知りはしない。
「どしたのですか奉太郎さん。最近何かお悩みですか? 何か悩みがあるなら仰って下さいね。夫婦の間に隠し事は無しですよ」
 えるは授乳しながら俺にそんなことを言う。別に隠しごとをしてる訳では無い。何か判らないものが俺に湧いてるだけなのだ。
「昼間はめぐみのものですからね」
 俺の視線をどう勘違いしたのか、意味あり気な表情を浮かべた。
「別に、それはそれで楽しみだけど、そうじゃない」
 俺は何を言っているのだろうか……。
「でもこうやってお腹を痛めた子が、すくすくと育って行くのを見ると早く二人目も欲しくなりますね」
 えるは微笑みながらそんな事を言う。確かに二人目を作るのは吝かではない……そうじゃない! そうでは無いのだ。そこまで考えて、この道では先輩に当たる里志夫婦が思い当たった。
 それから暫くして里志夫婦が遊びにやって来た。伊原はえるとめぐみと楽しそうに話してる。二人には沙也加という女の子が居るのだが、今日は保育園に行っていて今日は連れて来ていなかった。俺は里志を別室に呼び出した。
「どうしたんだいホータロー。二人だけで話なんて何かの悪巧みかい」
 奥の座敷で二人だけになると里志はそんな冗談を言った。
「悪巧みではないが女性陣が居ると話しずらい事なんだ」
「へえ、それは何かな。ホータローがそんなことを言うなんて珍しいね」
「実はな……と言うよりお前の時はどうだったのか教えて欲しいんだ」
「僕の時?」
「ああ、確か沙也加ちゃんも母乳で育てたんだよな」
「そうだよ。尤も最初の半年ぐらいかな。それからは混合栄養で、一年を過ぎる頃は人工栄養に切り替えたけどね」
「そうか、それでも最初の半年は母乳だけだったんだな」
「ああ、そうだよ。それが?」
「ああ、伊原もとい奥さんは主に何処で授乳していた?」
「場所? そうだね。家の中なら何処でもだね。仕事場が一番多かったかな。仕事しながら授乳させていた事もあったからね」
 そこまで聴いて福部家は姑と一緒に住んでる訳では無かったと思った。でも確か漫画家の井原花鶴にはアシスタントが居たはずと思った。
「仕事場でも授乳していたのか?」
「ああ、アシスタントは女性だから別に気にもしなかったよ。はは〜ん、大体判ったよ。ホータローは千反田さんが何処でも授乳するんで、そのあたりがモヤモヤしてるんだね」
 図星だった。こいつも経験があるのかと思った。
「僕の場合は昼は会社に行ってるから知らないけど。実家でも平気で晒していたよ。摩耶花も授乳の時は凄く大きく張っていたからね。僕も嬉しかったけど本人が一番喜んでいたかな」
 そんなものなのか。それで良いのか……。そんな思いの俺に里志は
「まあ千反田さんは元からある方だからホータローも余計に気にかかるんだろうけど、誰も変な目で見てはいないって。心配無用だよ」
 そうだろうか……まあ普通はそうか。
「ホータローのそのモヤモヤは嫉妬だよ。嫉妬から来るものだと思うよ。自分だけの千反田さんであって欲しいという思いから来る」
 嫉妬と言われ妙に腑に落ちた感じがした。
「お前は感じなかったのか?」
 俺の質問に里志はニヤッと笑いながら
「僕の場合は既に摩耶花は多くの人に自分の才能を分け与えていたからね。読者にとって摩耶花こと井原花鶴は読者のものでもあったからね」
「お前はそれで納得したのか?」
「納得も何も、僕は売れっ子漫画家を娶る事に納得したのだから」
 そうか、里志の場合はまた俺とは違っていたのかと思った。
「千反田さんだって、来客中は自分たちの部屋か何処かでするんだろう?」
「まあ、そうだが」
「なら何も問題はないじゃや無いか。恐らく千反田さんは誇らしい気持ちもあると思うよ」
「誇らしい?」
「ああ、だって子供を生むという事は連綿と続いて来た家系を絶やさないことだからね。それこそ、千反田家のような旧家にとっては、大事な事なのだと思うよ」
「そうか」
 里志の考えを聴いて納得した自分が居た。三人が居る部屋に帰ると伊原もとい里志の奥さんが
「ふくちゃん。ちーちゃんたちは二番目の子を作るそうだから、わたし達も頑張りましょう!」
 それを聴いた里志は苦笑いをするのだった。
 それから二年後に我が家に長男が誕生した。

                                                                             <了>

                                  

「氷菓二次創作」秋の想い

 神山の稲の刈り入れは殆どが十月に行われる。一部早稲の品種が九月に借り入れるがそれは、それほど多くは無い。部屋の窓から空を見上げ、『今年はこれ以上台風が来ませんように』と願うのだった。
 とここまで考えて、俺はいつからこんなにも神山の農業のことを心配するようになったのかと自問して苦笑した。そう、俺がこのような想いをするようになったのは、かのお嬢様のせいだと……。
 千反田と係わり合いを持つようになって一年半が過ぎた。人との係わり合いをなるべく避けるように生きて来た俺にとって千反田は正反対の生き方をして来た。尤もそれが判ったのは最近になってからだ。
 暑さも収まりそろそろ千反田の家でも忙しくなるのだろうと薄曇りの空を眺めていた。すると下から姉貴が俺を呼ぶ声が耳に入った。
「ちょっと奉太郎、いる? いるなら降りて来てくれない」
 今日は土曜日、めずらしく姉貴は仕事が休みだった。昨夜、遅く帰って来たのは知っていたが、俺は部屋から出なかった。眠りに落ちる寸前だったのだ。
「ああ、いるが、何か用か?」
「うん。用と言うより面白いものを見つけたから、アンタにあげようかと思って」
 気まぐれな姉貴のことだ、いったい何をくれようと言うのだろうか。階段を降りてリビングに行くと、いきなり二冊の本を手渡された。
「何だこれ?」
「アンタに参考になると思ってね」
 二冊の本を見てみると片方は「本当はダメなアメリカ農業 」と書かれており表紙にはアメリカの大統領の顔が書かれている。もう片方は「アメリカ農家の12カ月」という本で、表紙はアメリカの穀倉地帯が描かれていた。
「これは農業の本じゃないか。これが俺と何の関係があるんだ?」
 俺は神山高校の二年生だ。進路だって未だ決めていない
「あら、関係無くないと思うけどね」
 姉貴が意味有りげな笑みを浮かべた
「そりゃ俺と千反田は親しい関係にあるが、だからといって俺と農業は関係がない」
「今はね」
「今は?」
「そう、だってえるちゃんは家を継がなくても農業の方に進むのでしょう?」
 いったい姉貴はそれを何処から知ったのだろうか?
「どうしてそれを知った」
「ああ、やっぱりね。普段のあんたの顔や行動を見ていたら簡単に想像がつくわ。それでアンタはそれをサポートする為に農業経営を学ぼうと考えているのでしょう」
 これは驚いた。千反田がやはり農業の方に進もうと考えていることは、多分俺しか知らない。そして俺の考えは誰にも口にしていない。今の段階では千反田にさえこの前口にしただけで、正式には話していない。
「呆れたな」
「どうしてよ。優しいお姉様に感謝しなさい。『アメリカ農家の12カ月』は古い本だから廃棄処分になるのを貰ったのよ。でも『本当はダメなアメリカ農業 』は新刊だからわざわざ買ったのよ。但し、それが無用の長物になるかどうかは、アンタ次第だからね」
 姉貴はそう言って自分の部屋に消えて行き、やがて
「出かけて来るからね。多分夕飯は要らないわ」
 そう言って出かけて行ってしまった。親父は出張なので今夜は俺一人だと言う訳だ。
 部屋に帰って姉貴に渡された本を眺めて見る。「アメリカ農家の12カ月」は単行本で分厚いが活字が大きいのでそれほど読むのに時間はかからなそうだった。特に用事も無いので手にとって読んで見る。
 内容はアメリカ農業の仕組みというか、どのような工程で農家が活動しているのかというものだった。これを読むと、日本とアメリカの違いがよくわかり、とても面白かった。たしかに、この栽培方法では、日本はコスト的に勝てないと思った。
 
 月曜日の放課後地学講義室で「本当はダメなアメリカ農業」の続きを読む。昨日途中まで読んだので続きだった。程なく読み終えた。要約すると、今のアメリカ農業の問題点が書かれていて、特に農薬と遺伝子組み換え問題が重くのしかかっていて、更に保護主義がアメリカ農業を一人負け状態に追い込んでいるという内容だった。
 本を置くと千反田が声をかけて来た
「さきほどから、面白そうな本をお読みになっているのですね。読み終えたら、わたしにも貸してください」
 目の前に座ってニコニコしている。
「何を読んでいたのか判っていたのか」
「はい、だって折木さんカバーも掛けずに読んでいましたから」
 そうか、文庫あたりだとカバーを掛けるのだが新書なのでそのまま読んでいたのだった。
「ならば」
 俺はカバンからもう一冊の本を出した。
「こっちと対で読んだ方が良い」
「そうですか、こちらは『アメリカ農家の12カ月』ですか、そして折木さんが今読んでいたのが『本当はダメなアメリカ農業』ですね」
「ああ、前者がアメリカ農業のやり方を書いている。特にコスト関係なら参考になる。後者は今のアメリカ農業の問題点が書かれている。これはもしかしたら明日の日本の農業の問題かも知れない」
「そうですか、ならば是非貸してください。でも、どうして折木さんが農業関係の本を読んでいたのですか? やはりこの前打ち明けてくれたからですか?」
「実はな、姉貴に読めと言って渡されたんだ」
「供恵さんがですか?」
「ああ、一言も言っていないのにな。全く油断のならない女だ」
「油断がならないなんて……素敵なお姉様じゃないですか。わたし願うなら将来は、供恵さんにお姉様になって戴きたいと思ってるのですよ」
 はあ? それって……。
「あ、わたし、つい普段思ってることを口に出してしまいました」
 目の前の千反田の顔がみるみる内に真っ赤になって行く。今千反田が口にした内容が、何を表すかはさすがに俺でも理解出来る。
「普段から思っていたことなのか?」
「ああ、また、わたし……」
 俺は普段から千反田からどう思われていたのかを理解した。そして俺の顔も真っ赤になっていくのを自覚した。
「あれ、ふたりともどうしたの? 今日はそれほど暑くないわよね」
 伊原が入って来て、真っ赤になってる俺と千反田を見て疑問に思っている。伊原の後から入って来た大日向が伊原の制服の裾を引っ張り
「どうも、わたしたちお邪魔なようですよ」
「そうみたいね。じゃ、ちーちゃんまたね」
 二人はそう言って教室から出て行った。俺と千反田は揃ってそれを見送る。
「行っちゃいましたねお二人」
「ああ、何か勘違いしたのかな」
 千反田は俺の隣に座り嬉しそうに語りだす。
「わたし、ひとりでいる時にたまに空想するんです。その中のわたしの隣には常に折木さんがいるんです」
 まさか千反田の妄想に俺がいつも出ているとは思わなかった。
「こんな俺で本当に良いのか?]
「はい、もう折木さんはわたしの心に住み着いているのです」
 千反田の告白を聴いて俺は自分の進路を真剣に考えるのだった。

                           <了>

 
最新コメント
記事検索