氷菓二次創作

氷菓二次創作 「オレンジの花嫁」

  四月も数日が過ぎてここ神山にも遅い春がやって来た。桜もポツポツと咲き出していた。今頃からは農家にとっても重要な時期だ。それぐらいは俺でも判る。
 個人的には新学期が始まっていたが、果たして今年は入部してくれる新入生がいるだろうかと考えた。通常なら部長だって下級生に譲っているはずだったが、今日現在、古典部の部長は千反田がやっている。そんな事を考えながら古典部部室の特別棟四階の地学講義室に向かう。
 扉を開けると千反田の他に里志や伊原も揃っていた。俺が来たのでこれで古典部は全員揃ったと言う事になる。特に里志が居るのが意外だった。総務委員会の仕事があるのかと思ったからだ。
「やあホータロー。授業が終わってから随分時間が経っていたから、今日は来ないのかと思ったよ」
「ふくちゃん。きっと何時もの気まぐれよ。そうに違い無いわ」
 里志の隣で伊原が相変わらず鋭い事を言う。そう、正直に言うと今日、ここ古典部に寄ったのは気まぐれ以外の何物でもなかった。
「まあまあ摩耶花、何でも四人が揃うのは悪い事では無いよ」
 里志がそう言って伊原をなだめた。
「お前は総務委員会はいいのか?」
 先程の疑問をぶつけると
「ああ、もう三年だからね。もうすぐ役員の改選があるから、僕の副委員長もお役御免なのさ。形だけは三年生も残ってはいるけど、殆どOB扱いなんだ」
「そうなのか、もう三年生か……早かったな。この前の事だと思っていたがな」
 考えていた事が口をついて出てしまったみたいだった。
「入学したことかい? それはそうだけど、未だ早いんじゃ無いかな。少なくとも卒業の時に言う言葉だよね」
 里志の言葉を耳にして、自分の言葉が外に出ていた事を知った。
「あ、いや何でも無い」
 実は俺が思っていたのは、入学からの事ではなかった。何時もの自分の席に座る。すると、それまで黙っていた千反田が自分の荷物から何かを取り出した。見ると何やらオレンジ色の球体だった。
 千反田はそれを一つ一つ里志や伊原に手渡した。そして俺の所にやって来た。
「実はこれはオレンジの新種なんです。アメリカのバレンシアオレンジよりも甘く、何より簡単に皮が剥けるのです。試験的にウチのハウスで育てていたのですが、この春に採れたので皆さんに食べて戴いて、感想を戴けたらと思って思って来ました」
 千反田は昨年の夏に色々とあって、俺も多少それに関わったが、本題の本質は未だに解決してはいない。何より千反田の方向性が未だはっきりと決まっていないのだ。相変わらず農業関係に進みたいそうだが、今更進んでどうなると言うのが俺の正直な想いだ。
「折木さんも食べてみて下さい」
 千反田は俺の前に立つと、紙袋から二つのオレンジを机の上に並べた。
「何で俺だけ二つなんだ」
 何でも無い疑問だったが千反田は少し狼狽えて
「あ、あのお姉さんの分です。お姉さんにも食べさせてあげて下さい」
 そう言ったが、それなら里志にだって妹は居る。
 まあ兎に角食べてみないことには感想も言えないので、早速食べさせて貰う事にする。
 確かに皮はすぐに剥ける。みかんと同じぐらい簡単だ。これは評価出来る。バレンシアオレンジも良いがナイフが必要なので、みかんがあれば、そっちを選択してしまう。
 続いて房を一つ分けて口に入れる。確かに甘い。それに口の中でオレンジの香りが広がり鼻に抜けて行く。そのおかげで口の中が甘いのに爽やかさが広がるのだ。
「うん! 千反田さん。これはいいね。甘くて爽やかで、その上簡単に食べられる。僕は好きだな」
 里志が目を輝かせて感想を言うと伊原も
「うん本当に美味しい。しかも驚くほど食べやすいから、あっという間に食べてしまうわ」
 そう言って夢中で食べていた。三人の視線が俺に向かられる。俺にも何か感想を言えと里志と伊原が無言の圧力を掛け、千反田は目を輝かせて俺の感想を待っていた。
「そうだな……ほんと、食べやすくて甘いのに香りが鼻に抜けるので妙に爽やかなんだ」
「折木、妙に爽やかって言い方はおかしく無い?」
「そうか?」
「まあ、摩耶花の言う通りだね。妙にと言うのはこの場合は使うのには相応しく無いと僕も思うね」
 二人に攻撃されてしまった。横を見ると千反田が笑っている。
「でも、折木さんのその気持判ります。わたしも最初に食べた時は同じに感じました」
「ちーちゃん。折木を甘やかしては駄目よ」
 伊原の隣では里志が笑って頷いている。それを眺めながら俺は残りのオレンジを口に入れた。甘酸っぱくて切ない感触が襲う。これはこの爽やかが俺には似合わないからだろう。
「千反田。このオレンジの名前はあるのか?」
「まだ正式な名前は決まっていないそうです。いずれ発売が決まれば名前を公募すると思われます」
 そうなれば、この新種が神山で栽培されれば良いと思った。だが採算的にはどうなのだろうか。新種で珍しいとは言え、柑橘類は日本では山ほどある。しかも安価で輸入物のバレンシアオレンジやネーブルオレンジが出回っている。この新種にそれらを打ち破る力があるのだろうか? いつの間にかそんな事を考えていた。

「どうしましたか?」
 千反田の声で我に返る。気がつくと里志と伊原が帰る支度をしていた。
「ホータロー。千反田さん。今日は摩耶花の買い物に付き合うので、お先に失礼するよ」
「ちーちゃん、折木また明日ね」
 二人は手をひらひらさせて帰って行った。
 二人だけになると千反田は俺の隣に越して来て、袋からもう一つオレンジを取り出した。
「折木さんに二人あげたのは、二人だけで一緒に食べたかったからなんです」
 千反田は俺と並んでオレンジの皮を剥きだした。そして房をつまむと
「折木さん口を開けて下さい」
 いきなり、そんな事を言う。何をするかは判った。つくづく里志と伊原が帰っていて良かったと思った。仕方が無いので言われた通りに千反田に向かって口を開けると、その口にオレンジを入れた。先ほどと同じような爽やかな感触が体を抜けて行った。
「どうですか?」
 千反田は自分の分はさっさと食べてしまった。俺も房の一つぐらいは千反田に食べさせたかった。仕方ないので感想だけを言う。
「ああ、お前に食べさせて貰うと先ほどより美味しい気がするよ」
 正直に言うと千反田は喜んでから何か意味ありげな表情を浮かべて別な紙袋から何やら取り出した。
「折木さん。今日は何の日かご存知ですか?」
 突然突飛な事を言う
「今日は四月十四日だ。平凡な日常だが、それがどうした?」
 二月や三月の十四日なら特別な日なのだろうが、それでも確か千反田家では多分何も無い日なのだろう。
「今日はオレンジデーです」
「オレンジデー? そんなものがあったのか。全く知らなかった。それで、それはどのような日なんだ」
 俺が知らないと言う事は千反田には判っていたのだろう。嬉しそうな表情をした。
「オレンジやオレンジ色のプレゼントを贈り、愛し合う二人の愛を確認し、より高める日なのです。ヨーロッパではオレンジは花と実を同時につけることから愛と豊穣のシンボルとされオレンジの花は花嫁を飾る花として頭につけるコサージュに使われるのですよ。それで……」
 千反田は先程の紙袋から白い花の花束を取り出した。
「これは先程食べた新種のオレンジの花です。先程も言ったように、オレンジは実と花を同時につけるので、実を採る時に花も戴きました。折木さん。わたしは先程オレンジを折木さんに贈りました。今度はわたしのことを想ってくださるなら、この花束をわたしに贈って下さい」
 俺はこの時になって初めて千反田の真意を理解出来た。
「判った。千反田。喜んで贈らせて貰うよ」
 俺は机に置かれた花束を千反田に贈った。千反田は嬉しそうにそれを受け取ると
「オレンジの花言葉を知っていますか?」
「いいや。知らない。何か特別な意味があるのか?」
「オレンジの花の花言葉は『花嫁の喜び』です」
 そう言った千反田の嬉しそうな表情は一生忘れないだろう……。
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 あれから随分経った。今日俺は改めて最愛の人にオレンジの花束を送った。
 階段を静かに白いベールを被り白いドレスを身に纏った千反田が降りて来る。手には俺の贈ったオレンジのブーケがあった。
 そう、今日は二人の結婚式なのだ。俺と千反田は千反田の農業は継がなくても良かったが、やはり名前は出来たら千反田を名乗って欲しいと鉄吾さんに言われた。
 元よりそのつもりだったから、構わなかった。千反田奉太郎を名乗る事に抵抗はなかった。
「おまたせしました」
「ああ、でもやっとこの時が来たな」
「はい。そして本当にオレンジのブーケを贈ってくれるとは思いませんでした」
「あの時の事を覚えているかい」
「はい。はっきりと覚えています。正直、奉太郎さんは忘れていると思っていました」
「あんな大事な事を忘れはしない」
 この先、辛いこともあるだろう。涙を流すような出来事もあるに違いない。でも俺はお前の涙もろとも受け止めてやりたい。そう、喜びも悲しみも、お前のすべてを……素直にそう想った。
 そっと手を出すと千反田がそれに応える。式場の前では鉄吾さんがバージンロードを歩く準備をしていた。
『花嫁の喜び』……この言葉を改めて胸に刻む。
 いずれ水梨神社での式も行うが、どうしても俺はこの四月十四日に千反田にオレンジのブーケを贈りたかったのだった。


                    このシリーズ 終わり

氷菓二次創作 「湯の宿にて」

  車は亀岡市に入っていた。あと少しで到着する。助手席の千反田は夢中で外の景色を眺めている。
「綺麗なところですねえ」
「ああ、京都も嵐山を抜けてこのあたりまで来ると中々風光明媚と言っても良い景色が広がっているからな」
「宿に着くのが楽しみです」
 そう言ってニコリとした。

 最初は思いつきに近かった。ゴールデンウイークが近づいても千反田は研究所に通い詰めている。
「連休ぐらい休めないのか?」
 俺の疑問に千反田は申し訳なさそうに
「すいません。共同研究の相方が連休で帰省するので、わたしは休めないのです」
 そう言って悲しい顔をした。もとより千反田を責めた訳ではない。正直に言うと俺も連休は仕事が入ってしまって休めないので、千反田の都合を尋ねたのだった。
「そうか、それでは仕方ないな」
「でも、連休が終われば今度は交代でわたしが休めるのです」
 千反田はそう言って目を輝かした。
「そうか、三日ほど休めるか?」
 俺はこの時、休めると言ってもせいぜい二日程度だと思っていた。
「三日なら安めます。もっと休めるかも知れません」
 だから千反田がこのような事を言ったのが意外だった。
「そうか、ならば二泊三日で温泉にでも行こうか?」
 この時は軽い気持ちだった。俺も連休中の出社で代休になっていたからだ。どうしても行きたいと言う事より、こんな事を言ったならば千反田が喜ぶだろうと考えたのだった。それに千反田には陣出に帰りたくない訳があると思った。
 やはりと言うか千反田は本気にした。俺もそれならそれで良いと思っていた事は事実だった。
「ほんとうですか!行きたいです!」
 この時久しぶりに千反田の目の輝きを見てしまった。結局行くことになったのだが、行く場所は実は密かに考えていた。
 観光と言うよりも千反田と一緒に温泉で疲れを取り除いてリフレッシュするのが目的だからそれほど遠く無くても良い。会社の同僚にも尋ねて、京都の奥座敷とも言える「湯の花温泉」に決めた。そこに宿を取った。決め手は景色の良さと温泉の良さだった。露天風呂付きの部屋があるのでそれを申し込んだ。二人で誰にも邪魔されずにゆっくりとしたかった。
 部屋は洋室もあったのだが結局和室にした。部屋付きの風呂以外にも色々なお風呂があると言うのも売りだった。
 交通の不便な場所なのでレンタカーを借りようとしたら、同僚が車を貸してくれた。
「お土産よろしくな!」
 そんな冗談付きだったが、俺がこの春から千反田と一緒に暮らしている事を知っているので貸してくれたのだ。
 千反田が山の景色に見とれている間に車は宿に到着した。荷物を降ろしてから駐車場に車を駐める。
「予約している折木ですが」
「いらっしゃいませ。ご用意出来ております」 
 カウンターでチェックインを済ませると、仲居さんが部屋まで案内してくれた。
「こちらでございます」
 案内された部屋は十畳ほどの部屋に次の間が付いていて、そこには炬燵があった。きっと冬には炬燵にあたりながら酒でも飲んで外の景色を堪能するのだろうと思った。
 山の景色には神山で慣れているが、ここはまた格別の景色だと思った。仲居さんは
「今頃の時期でも夜は冷え込みますから、炬燵をご所望ならすぐにご用意出来ます」
 そう言ってくれた
「そうですか、冷え込む様ならお願いします」
 千反田がそう言ってポチ袋をそっと仲居さんに渡した
「あら、ありがとうございます!」
 仲居さんは、部屋についている露天風呂の案内をしてから、礼を言ってお茶の用意をして下がって行った。入れてくれたお茶を飲みながら
「一休みしたら風呂に入ろう。小さいが露天風呂付きなんだ」
 そう言うと頬を少し赤く染めて
「最初にそれを聞いた時は正直、恥ずかしと思いました。でも二人だけならとも考えました。温泉と言うと高校時代に古典部四人で合宿に行きましたね。楽しかったので今でも鮮明に覚えています」
 千反田にとっては良い思い出かも知れないが、俺にとっては、余り良い思い出は無い。
「そう言えばあの時、折木さんは湯あたりをしたのでしたね」
 やはり覚えていたみたいだ。目が笑っている。
「ああ、そうだった。部屋で寝ていたらお前が心配して来てくれたな」
「そうでした額に手をあててみると、未だ熱かったのを覚えています」
 そうだった。あの時千反田が余りにも接近したので、俺は緊張したものだった。
「あの時は一人で寂しかったでしょう」
「まあ、寂しいと言うより自分自身が情けなかったな」
「でも、その後首縊りの幽霊騒動もあり一緒に色々調べて楽しかったです」
「そして兄弟の事もだろう?」
「そうですね。わたしは一人っ子ですから兄弟が欲しかったですね。でも、このまま折木さんと一緒になれば、わたしには素晴らしい姉が出来ます」
「素晴らしいは余計だと思うぞ」
 そう言って二人で笑った。
「さ、風呂に入ろうか」
「はい、そうですね」
「先に行っているからな」
 そう言って浴衣に着替えて部屋に続いている露天風呂に通じる扉を開けた。初夏の心地よい風が体を包む。手前の小部屋で浴衣と下着を脱いで露天風呂に入って行った。湯をすくって体に掛けると程よい熱さが気持ちよかった。
 湯船に入ると外の山々が一望出来る。来て良かったと思った。両手で湯をすくって顔に浴びると温泉に入っていると言う気が湧いて来る。その時扉の開く音がした。千反田が入って来たのだ。
「入りますね」
 そう言って一糸まとわぬ姿でこちらに歩いて来る。この時の千反田の美しさは俺の言葉では表現出来ないと思った。この美しい人を俺は独占出来るのだと言う喜びは他に例えられない。
 長い髪はタオルで包んでいて、うなじの美しさが際立っていた。白い肌が午後の陽を浴びて輝いている。素直に言葉が出た
「綺麗だよ。明るい場所だと一層実感出来るよ」
 俺の言葉に千反田はすぐに反応して
「そんな、恥ずかしいです。毎日の事で見慣れているではありませんか」
「それはそうだが、今日は本当に美しいと思ったのさ」
 千反田はかけ湯をすると湯船に入って来た。
「こちらへおいで」
 そう言って手を引くと千反田は俺の両腕の中に落ちた。後ろから抱えて腕を伸ばして豊かな胸をまさぐると
「エッチです折木さん。未だ明るいし、それにここでは……」
 そう言って慌てる千反田に
「抱きしめるだけだよ。このまま一生このままで居たい気持ちさ」
 千反田が首だけを振り返り俺の目を見詰める。その口に自分の口を重ねる。
 唇を離すと僅かに糸が引いた。
「わたし怖いぐらいです。こんなに幸せで良いのでしょうか?」
「良いんじゃ無いか。今までならこの時期は陣出に帰らないとならなかっただろう? 農繁期だからな。猫の手も借りたい時期だ」
 千反田は俺に体を預けるように保たれて来て
「そうなんです。今は実家に帰ってもプロの農作業をする人が大勢居て、わたしなんかが居る場所はありません。だから帰りたくなかったのです」
 千反田の気持ちは判っていた。それだからこそこの旅行を考えたのだ。
 手の中に収まりきれない膨らみの感触を楽しむと
「わたしおかしくなりそうです。今日はわたしが湯あたりしてしまうかも知れません」
「そうなったら今度は俺が朝まで介抱してあげるさ。それに、そうはさせないから安心しろ」
 山々の間の陽はゆっくりと傾き始めていた。俺はこの時が本当に何時迄も続けば良いと思っていた。


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氷菓二次創作 「新生活」

 春の暖かい日を選んで千反田が俺のアパートに引っ越して来た。元々俺はロクな荷持も無いので部屋の空間という空間は千反田の荷持で埋め尽くされてしまった。 「嫁入りみたいなものですから」  真顔でそんな事を言う千反田に 「籍も入れたら式や披露宴もやらなくてはな」  そう言ったところ 「そうですね。父があんなに簡単に許してくれるとは思ってもみませんでした」  そう言って少し憂いた顔をした。  先日、雪の残る陣出の千反田家に赴いて、鉄吾さんに正式に挨拶をしたのだ。その席で 「えるさんとの結婚を認めて下さい」  そう申し込んだのだ。鉄吾さんはすぐに 「不束かな娘ですが、よろしくお願い致します」  そう言ってくれて、一番大事な問題は思ったより簡単に片が付いた。少なくとも俺はそう思ったのだが千反田はそう考えていないらしい。それからの千反田は何か考えている表情を見せるようになった。俺はそれについて思い当たる事もあるが、確信は持てなかった。 「来年、博士過程に進んだら籍も入れて式も挙げましょう」  一応はそんな約束をした。俺は実は鉄吾さんが簡単に一人娘を嫁に出すとは思えない事が千反田の考えている事では無いかと思っている。  俺は、一応「家を継がなくても良い」と述べたとは言え、本当は千反田の名は残したいのではと思っている。  「跡を継がなくても良い」の真の意味は「農業を継がなくても良い」ではなかったかと思うのだ。俺は千反田が研究室から帰って来て一緒に食事をしながら、その事を問うてみた。 「やはり折木さんも、そう思いますか? じつは、わたしも同じなんです。家業の農業と名前を存続させるのは父は別物と考えているのでは無いかと思うのです。その場合、折木さんの家にもご迷惑を掛けてしまうと思うのです」  やはりそうだったと思った。茶碗を持つ手を食卓に置いて千反田は暗い表情を見せた。 「心配するな。俺は千反田奉太郎になっても一向に構わない。折木の家はどうでも良い。特別由緒ある家でもないしな」 「そうなんですか? お家(うち)の方はそれで良いのですか?」 「当たり前だろう。旧家の一人娘と一緒になるんだ。それぐらいは考えているさ」  確かに、地方の資産家で旧家の一人娘には婿候補を探すのは大変らしい。この前帰省した時も、神山市役所に勤務している里志が、 「過疎と言う側面もあるけど、今は本当に旧家の大農家と言えども婿のなり手が無いからね。市役所も色々イベントを仕掛けてはいるんだけどね」  そんな事を言っていた。 「それはきっと今は言いませんが、当然そう考えていると思っています。でも、わたしは折木家に嫁ぐ気持ちですが、きっと父は折木さんに形だけでも千反田を名乗って欲しいと言い出すと思うのです。それを考えると少し憂鬱になります」  シチューを口に運びながらそんな事を言う千反田をテーブルの反対側に座って眺めていると、一緒に暮らしてると言う実感が湧く。 「折木さん。そのままにしていて下さい」  不意に千反田がそんな事を言ったかと思うと、脇に置いたティシュで俺の口元を拭ってくれた。 「あ、ありがとう」 「ふふふ、折木さん。ちょっと子供みたいでした。口の脇にシチューを付けて、何か話してるのは、何だかちょっと可笑しかったです」  一転して笑顔になった千反田に 「そんなに心配するな。俺なら何時でも千反田を名乗ってやるよ。俺にはわだかまりは無い」 「ありがとうございます! 嬉しいです」  これは俺の個人的な想いだが、恐らく俺はこのまま行けば、折木から千反田に姓が変わる事になると思っている。千反田農産を経営しなくても、鉄吾さんが亡くなった後に千反田の人間が誰も居なくなるのは良くない事ぐらいは俺でも判る。千反田の心配もその辺りだったのだと思う。  食事の後片付けを千反田がやろうとしているので 「片付けは俺がやっておくので、今日は遅かったから疲れているのじゃないのか? 風呂を沸かしておいたから先に入ったらどうだ?」  そう言って先に風呂に入らせる。年度が変わり、研究も新しい分野が増えたらしい。千反田は詳しくは言わないが、顔に出る質なので簡単に判る。 「ありがとうございます! いいのですか?」 「ああ構わない」  夕食の器を洗っていると浴室から千反田の鼻歌が聴こえて来た。何の歌かは判らないが気分良く歌っている。千反田の気持ちが晴れたならそれで良いと思った。  千反田が上がって来た。頭にはタオルを巻いている。パジャマのボタンの一番上が外されていて、胸元が紅く染まっているのが判った。俺の視線を感じたのか 「あまり見つめないで下さい。上はパジャマの下は何も身につけていませんから……。それより折木さんも入ったら良いですよ」  もとより千反田の胸元を見たかった訳ではない。第一その気になれば……よそう。 「判った。入るよ」  そう千反田に告げてタオルを持って風呂に入る。頭や体を洗いシャワーを浴びて湯船に入る。湯の中に疲れが溶け込んで行く様だ。  湯から出ると千反田が新しい着替えを用意してくれている。こんな時に一緒に暮らしている幸せを感じる。  着替えて部屋に戻るとアイスコーヒーを用意してくれていた。自分はアイスティーを飲んでいた。  何もかもが俺の事を考えていてくれている。一緒に暮らすと言う事は、この様な事なんだと理解した。  寝る時は独身の頃はパイプベッドを使っていたが、千反田が来てからは布団を引いて並んで寝ている。尤も朝になったら一緒に寝ているのだが……。  幸せを感じるのは、朝、俺の方が早く目を醒ました時に目の前に千反田の寝顔がある事だ。これを見られるのはこの世で俺だけだと思うと悪くないと思う。  布団の中で俺の胸元で千反田がため息混じりに呟く 「わたし、怖いぐらい幸せです。昨年の十二月までは一人で研究だけの暮らしをしていたのに、春にはこうなってるなんて本当に怖いぐらいです」 「それは俺も同じさ。でも怖がらくても良い。これからは絶えず俺が傍に居るから」 「はい。嬉しいです」  千反田はそう呟くと両手を俺の背中に回した。   春になった今宵は短く感じるだろうと想像した……。                    <了>

氷菓二次創作 「新しい生活へ」

 京都の冬は、寒さが嵐山から降りて来るような気がしてとても寒いです。神山よりも寒いかも知れません。ここに来て六年目ですが、でも今年は一番暖かい冬になりそうです。
 それはお正月に学内で折木さんに出会ったからです。それは、わたしにとって運命的とも思える出来事でした。
 学内での仕事を終えた折木さんとわたしは一緒にお茶をすることにしました。こんなことなら先程研究室でお弁当など食べなけれな良かったと少し後悔しました。折木さんは
「朝が遅かったからお腹は未だ空いていないんだ。お前はどうなんだ?」
 そう言ってわたしのことを気遣ってくれました。
「実はお弁当を食べたばかりなのです」
 そう返事をすると
「じゃあ夕食は一緒に出来るかな?」
 そう尋ねてくれたので、わたしは嬉しくなり二つ返事をしました。
「はい、喜んで!」
 一緒に並んで歩きます。思えば高校時代はわたしが自転車を押して、二人で部活の後など薄暗くなった道を歩いたものでした。
 手が触れると折木さんはわたしの手をそっと握ります。わたしは手袋をしていたのですが急いで脱ぎます。折木さんは手袋をしていませんでした。
 「千反田、手が冷えるぞ」
 そう言ってわたしの手を自分のコートのポケットに握ったまま入れてくれました。ただ、それだけなのに、わたしの心はときめいてしまいました。記憶が確かなら高校時代も幾度か同じようなことをしてくれた事を思い出しました。
「暖かいです。前も同じことをしてくれたのを思い出しました」
「そうだったかな。あの頃は随分ドキドキしたものだが、人間て変わらないものなんだな。今でもちょっと心がときめいているよ」
 それはわたしも同じです。気持ちがあの頃に戻ってしまいました。
 街を歩いていても昨日まではカップルに目が行ってしまいましたが、今は気になりません。それはわたしには折木さんが居てくれるからです。
 行きつけの喫茶店に入ります。マスターが「おや」って言うような顔をして迎えてくれました。
「あけましておめでとうございます。今年もどうぞご贔屓に願います」
 マスターが挨拶をしてくれます
「あけましておめでとうございます。こちらこそ宜しくお願い致します!」
 そう返事を返します。奥の何時もの席に座るとマスターに
「今日はダージリンをお願いします。折木さんは何にしますか」
 そう尋ねます。折木さんはブレンドを頼みました。マスターが注文した持って来て置いてくれます。
「今日は何か嬉しいことがあったのですね」
 そう言ってくれました。
「判りますか?」
「はい、あなたの注文するもので判りました。紅茶は楽しい気分の時に飲むものですから」
 わたしと同じ考えでした。静かに笑って頷きました。
「いい感じの店だね。それに良い豆を使ってる」
 折木さんはそう言ってコーヒーを口に運びます。わたしは再会してから殆ど何も折木さんの事を知らない事に気が付きました。
「折木さんは今はどちらにお勤めなんですか?」
「会社自体は前と変わらないが、一年半の研修と試用期間を経て昨年の後半に関西支店に配属になったんだ。だから今度の会も俺が担当になったんだ。尤も担当と言っても単なるスタッフの一人だがな」
 では、折木さんは、随分前から京都に居たのだったと始めて知りました。
「京都にずっと居らしたのですか?」
 わたしの質問の意味を理解した折木さんは
「お前が大学に居るのは判っていたが、おいそれと顔を出せる訳じゃなし、こういうのは一種の運命だからな。それに俺はふられた方だからな」
 そうでした。わたしは今日出会えた喜びを忘れてはなりません。
「ではアパートは市内なんですか?」
「ああ、ここからバスで三十分ほどの所さ。お前はこの近くなのか」
「はいここから歩いても、そう遠くありません」
 この時、わたしは素晴らしいアイデアを考え付きました。
「あの、良かったら夕食はわたしが何か作りますから、折木さんのアパートで一緒に食べませんか?」
 完全に考えついた勢いだけで言ってしまいました。折木さんは一瞬驚いていましたが
「そうか、それなら二人だけになれるしな。人の目を気にすることもない。でも明日も研究室に行くのだろう? そっちはいいのか?」
「はい、明日は共同研究している者が帰省から帰って来るので、わたしは休みなんです」
 思えばこれもあからさまでした。まるで『明日休みだから今晩はあなたの家に押しかける』と言っているのですから。でも折木さんは笑って
「じゃあ、ついでに掃除もお願いするかな」
 そんな冗談を言うのでした。

 喫茶店をマスターに見送られながら、バス通りを歩いて行きます。かなり冷えて来ているはずですが不思議と寒くはありませんでした。通り沿いにあるスーパーで買い物をします。折木さんの好きな献立にしました。
「千反田の手料理なんて本当に久しぶりだな。楽しみだよ」
 そんな事を言ってくれますが、一人暮らしを始めてからは、ろくなものを作っていません。腕が落ちていなければ良いのですが……。
 バスで三十分と言っていましたが、それほど掛からずバス停に着きました。バスを降りると
「荷物を持とう」
 そう言って先程スーパーで買った品物の袋を持ってくれました。わたしはまた折木さんのコートのポケットに手を入れます。折木さんは左手に持った荷持を右手に持ち替えて、空いた左手をわたしが入れているポケットに入れてわたしの手をギュと握ってくれました。この時何故かわたしは心の底から嬉しさと安心感を感じたのでした。
 
 アパートは思ったより広く、充分に二人でも住める程の広さでした。
「一人では広すぎるとは思ったのだが、結構安くてな。ここに決めてしまった」
 そんな部屋の広さをわたしが見たのはきっと心の何処かで、折木さんと一緒に暮らせたらどんなに良いだろうと漠然と考えていたせいだと思います。
 わたしが料理を作ってる間に折木さんは部屋を片付けていました。でも、元々それほど散らかっていた訳ではありません。手持ち無沙汰を解消する感じでした。
 二人だけの食事が始まりました。この空間には二人以外は誰も居ません。わたしと折木さんだけです。昨日まではこんな事になるなんて全く思ってもいませんでした。
「俺も明日は休みなんだ。今日は泊まってくれると嬉しいな」
 それが何を意味するのかは、さすがのわたしでも判ります。あの時、わたしが別れの言葉を口にした時、折木さんは何も言わずわたしの好きにしてくれました。そんな折木さんに求められているのは心が震える程嬉しいのです。
 食事が終わり、片付けをします。この時わたしは重要なことを思い出しました。着替えを持っていないことを思い出したのです。そのことを言うと
「洗濯すれば良いよ。全自動だから乾燥までやってくれる。それから先は野暮だから言わないがな、とりあえず新品のバスローブはあるから」
 そうですね。折木さんのアパートに伺うと決めた時にもうこうなるのは判っていた事でした。お互いにそれを望んでいた事も判っていました。
 
 枕元の僅かなスタンドの灯りがぼんやりと二人を照らしてくれています。わたしはベットで折木さんの胸に抱かれながら、幸せを噛み締めていました。
「千反田、落ち着いたら一緒になろう……いいだろう?」
 わたしは、折木さんに口づけをします
「約束の口づけです。前の時は別れの口づけでした。もうそんな事は言いません。こんなわたしで良かったら宜しくお願い致します」
 折木さんはわたしの言葉を耳にして、もう一度強く抱きしめてくれるのでした。


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氷菓二次創作 「新しい年」

  新しい年が明けました。今年は歳女でもあります。本来なら神山に帰って水梨神社で歳女のお祓いを受けなければなりません。現に前の時は父に連れられてお祓いを受けました。それが千反田を継ぐ者の慣わしだったからです。
 でも今のわたしは、もうそんな事もしなくても良い身になったのです。家を継ぐ事がなくなり自由の翼を貰ったのです。でも、飛び方を知らないわたしは、幾つもの過ちをしてしまいました。
 現にお正月だと言うのにこうやって大学の研究室に閉じ篭っているのです。教授も
「千反田君、二三日なら実家に帰れるからどうかね」
 そう進めてくれましたが、気が進みませんでした。今更帰っても何があるのでしょうか?
 家の農業は組織化され会社組織となりました。株式会社「千反田農産」。
 これが今のわたしの実家なのです。そこには既に農業のプロと呼ばれる方が大勢入り、わたし等が入れる余裕はありませんし、父もそれを望んではいないと思います。
 そして、もう一つの大きな理由……わたしが神山に帰りたく無い理由。
 それは、高校時代に唯一と言って良い程心を通わせた人……その人が今は神山には居ないからです。いいえ、この事も今となってはわたしが言うべき事では無いのかも知れません。
 帰省を尋ねる父には「研究が忙しくて」と偽りの返事をしてしまいました。それがわたしの父に対する抵抗だとは判ってはいました。
 彼とは、高校を卒業する時に別々の進学先になり、離れ離れとなってしまいました。それは、心の何処かで高校を離れる時には充分考えられる事だと判っていた事だったのにです。
 進学にあたって、わたしは京都の国立大学の農学部に進みました。農業を継がなくても良い、と言われましたが、やはり自分には農業関係しか無いと考えたからです。
 想いを通わせた人もわたしの我儘を理解してくれました。その時わたしは、同じ地域の大学に彼が進むと思っていました。現に彼も同じ県にある大学を受験してくれました。誤算だったのは彼が希望の大学を落ちてしまった事でした。
 結果としてすべり止めの東京の大学に進む事になってしまったのです。その時、わたしは悟りました。
『わたしはいつの間にかこの人を縛っていた。本来ならもっと別な道があるのでは』
 と言う事を……。
 それでも彼は、京都と東京での離れ離れの暮らしの中で色々な提案をしてくれました。でも、それは返って彼を縛って辛くさせるだけでした。
『わたしが居てはこの人の為に良くない』
 そう結論づけました。その事を彼に伝えると彼は何も言わずわたしの元から去ってくれました。
 本当は納得できなかったでしょう。もし自分が立場が逆だったら怒り心頭だったと思います。でも、彼は私の思いを汲んでくたのです。本当に優しい人でした。今でもありありとその姿を思い出す事ができます。
 本当は互いに想い合っていることがわかっていました。でもわたしが彼の傍にいることを望んではいない。それだけを理解すると彼は去って行ってくれたのです。心の底では誰よりも彼に傍に居て欲しいと望んでいて、彼も同じ気持ちと理解していたのに……。
 わたしの勝手な我儘に彼は何も言わなかったのです。

 今でもわたしの心には彼が住んでいます。その人の名は……折木奉太郎……
 一見ぶっきらぼうで面倒くさがり屋な感じがしますが、本当は誰よりも人の事を心配し、相談されれば、その明晰な思考で必ず結果に導いてくれる人でした。

 新年の京都の街は人で溢れかえっています。研究の観察を記録すると、今日はお終いにしてアパートに帰る事にしました。途中で何か買ってそれを夕食にしようと思っていました。今年は修士課程の二年目です。来年は博士課程に進むつもりです。今はそれだけが僅かな希望です。そして、そのまま研究室に残れれば良いと考えています。帰る拠り所を失ったわたしにはそれしか希望がありませんでした。
 途中のコンビニで幾つか買い物をしてアパートに帰ります。
 アパートに着くと、ポストに年賀状が数枚入っていました。その中には摩耶花さんと福部さんからのもありました。昨年、大学を卒業した二人は結婚したのです。「わたし達結婚しました!」の文面が踊って喜びを表していました。
 あとは古くからの付き合いのある方ばかりでした。でも、その中に一枚、思いがけない方からのものが混じっていたのです。
 思わず差出人を見てしまいました。その方の名は「折木奉太郎」と書いてありました。既製の文字入りの年賀葉書に自分の住所と名前だけを書いた簡単なものでした。
「どうして……ここの住所なんか知らないはずなのに」
 懐かしい名前を見て心が揺れたのでしょう。何も考えられなくなってしまいました。それを同時に淡い期待が浮かびます。
『もしかしたら、もう一度逢える時が来るかも知れない』
 でもすぐに否定的な想いが浮かびます。
『自分の我儘で別れていて、それは余りにも虫が良すぎる』
 両方とも間違いなくわたしの心でした。
 でも、許されるなら、もう一度逢いたい。逢ってこの胸の内を聴いて欲しい。それだけでいいのです。それ以上はわたしに望む権利なぞありません。
 飲めなかったコーヒですが、一人暮らしが長くなり、アメリカンなら飲めるようになりました。インスタントですが、マグカップに少量入れてお湯を注ぎます。楽しい語らいには紅茶を、一人の時はコーヒが似合う気がします。
 居間の方に、先程コンビニで買ったサンドイッチとサラダを持って行来ます。テレビを点けるとお笑い番組がやっていました。幾つかチャンネルを変えますが結局ニュースを選択してしまいます。
 ニュースでは各地のお正月風景を放送していました。偶然ですが、神山の様子も映されていました。そのせいでしょうか、その夜は高校時代の夢を見ました。懐かしく、とても幸せだった三年間でした。自分の人生であれほど楽しくて輝いていた時代はもう来ないのでは無いでしょうか。そんな事も考えました。
  朝起きると枕を濡らしていました。鏡を見ると酷い顔をしています。
 
 翌日は、昼過ぎに研究室に顔を出し、研究の観察結果を記録すれば良いので、午前中の昼近くに、わたしも近くの神社に初詣に出かけます。何時もは殆ど人も居ないのですが、お正月なので結構な人で賑わっていました。
 お願いする事は沢山あります。両親の健康。研究の成功。それにわたし自身の健康です。でも夢を見たせいか、もう一つお願いをしてしまいました。でもこれは無理な願いかも知れません。
 神社を出て研究室に向かいます。今日はお弁当を作って来ました。それを昼食にするつもりです。
 研究室での仕事は直ぐに終わります。お正月ですので大学も休みですし、学内に居るのはわたしの様な研究をしている者だけです。学食も休みなのでお茶を入れてお弁当を広げます。研究室でも外の見える窓の所でお弁当を広げます。食べながら帰ったら何をしようか考えます。思えば研究だけの毎日になっていました。
 記録も終えたので帰る事にします。今日は何時もとは違う道順で帰ろうと思いました。そんな事を思ったのはやはり昨夜の夢のせいかも知れません。
 学内で気がついたのは講演会の立て看板があちこちに立っていました。わたしが師事している教授ではありませんが、学内でも有名な教授です。その教授が外部の農業の専門家を招いて講演会や対談をするのだそうです。それを見て時間が合えば覗いてみたいと思いました。
 学内を出ようとした時の事でした。誰かが人を呼び止めていました。振り返ると大学の事務員さんが誰かを呼び止めていました。その名前に思わず振り返ります。
「……さん。……木さん。折木さん」
 間違いなく折木さんと呼んでいます。その名前を耳にした途端に体の血が動き出すのを感じます。聞き間違いではない……。
 呼び止められた折木さんは建物の中から出て来ました。その姿はスーツ姿に身を包んだ折木奉太郎その人でした。
 この時ほど今朝ほどの初詣の時にお願いをした事を感謝したことはありません。折木さんは事務員さんと何か打ち合わせをしていました。簡単な確認だったようです。すぐに終わりました。わたしは自分の姿を整えます。髪も手ぐしで整えます。こんな事態になるなら、もう少し良いものを着てくれば良かったと思いました。
 期待と不安が心を過ります。わたしに気がついてくれるでしょうか?
 それとも気が付かずに去ってしまうでしょうか?
 わたしを見つけ、以前の事をなじるでしょうか?
 出来れば、出来れば……。

「千反田か?」
 その声は穏やかながらも戸惑いと期待が感じられました。
「はい……えるです」
 それだけが精一杯でした。胸が一杯になって声が出ませんでした。
「元気そうだな……こんな時期に大学に来てると言う事は研究か……続けていたんだな」
 昔と同じ、穏やかな表情。昔と同じにわたしを気遣った物言い。何もかも昔のままでした。
「どうした? 何か俺の顔についているのか。そんなに見つめていて」
「怒っていませんか? わたし、酷い事をしたのに」
「別に怒ってはいないよ」
「今日は何故ここに」
「ああ、仕事だよ。今度の公演会だがウチの会社と大学の共催なんだ。俺が使いで打ち合わせに寄越されたんだ。でもここでお前に逢えるとは思ってもいなかった」
 何時の間にか頬を熱いものが流れていました。
「この五年間一度もお前を忘れた事は無かった。神山に帰ってもお前は殆ど帰って来ないと聞いたが、何時の日か逢える時が来ると信じていたんだ」
「じゃあ許してくれるのですか?」
「許すも許さぬも無いさ。離れて如何に俺はお前の事を想っていたのかが判った。お前はどうだ?」
「卒業してから折木さんの事を考えない日はありませんでした。今朝も高校の時の夢を見て泣いていたんです。今朝神社に初詣に行って折木さんに逢えるようにお願いしたのです」
「そうか、じゃお礼参りに行かなくてはな」
「はい!」
 折木さんが左手を出しました。わたしは右の手をそれに添えて一緒に歩き出します。もう、この手を離してはならないと強く想うのでした。

       
                                                             <了>
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