梅色ごよみ

梅色ごよみ  第13話 受け継がれるもの

 予約していた母の心臓の血管の検査の為に大学病院に赴く。母は、自分の事なのだが、どうやら実感が無いらしい。前回一度行っているので、今回は余裕があるのだろう。検査自体を楽しんでいたみたいだった。
 だが、結果は、余り良くはなかった。前回より確実に進行しているとの診察結果で、やはり狭くなっている箇所にステントを入れる事になり、四月の終わり、ゴールデンウイークに入る前に手術の予定が組まれた。
「今ならベッドも空いていますからね」
「先生、簡単に終わるのでしょう?」
 母は病気持ちとは思えないような質問をする。
「まあ、今のうちにやっておけば安心です」
 それを聞いた母は嬉しそうな顔をした。
 手術そのものは簡単に終わり、母の場合は腕からステントを入れたので、事後の処置も短くて済んだ。午前中に手術して、その日の夕方には話が出来た。
「今夜は重湯みたいなお粥だって」
 食欲旺盛で不満気な母に
「一応心臓の手術したのだから、当然でしょう。さっき看護師さんに訊いたらすぐに普通の食事が出るみたいよ。後は悪い所無いらしいから」
 腎臓や肝臓の検査の値が悪いと、色々とあるそうだが、母の場合は、後は至って健康なのですぐに普通食が出るのだと言う。
やや早めの、その「夕食」を母はぺろりと食べてしまった。本当に重湯にご飯粒が浮かんでいるようなお粥で、物足りなさそうな母の顔が印象的だった。
 夜になり娘と息子もやって来て母を喜ばせた。夫は今日から数日出張で来る事は出来ない。それを残念がっていた。両親を亡くした夫は母が義理でも最後の親なのだ。
 帰りの車に娘と息子も乗って来たので
「何か食べて帰りましょうよ。帰っても何も無いから」
 二人共賛成したので、国道沿いのファミリーレストランに入る。息子がハンバーグを口に運びながら
「でも早いうちで良かったね。友達の親父さんなんか詰まってしまって、何でもドリルみたいなので血管を通したそうだよ」
「うん、先生も言っていたわ、半分は予防みたいなものだって」
 娘はグラタンを頬張りながら
「退院しても暫く通院するの?」
「二週間後様子を見せに行って、それからは定期的になるそうよ」
「そうか、それは仕方ないのね。今日も元気そうだったけどね」
 わたしが思ったより二人共母の事を心配していた。


 家に帰り、わたしはお湯を沸かしてコーヒーを入れてミルクをタップリと入れて口に運ぶ。鼻先をコーヒーの香りがくすぐった。
 誰も居ないダイニングに座る。日常生活で何時かはこの様な自分だけの時がやって来るのだろう。それは思ったより早いかも知れないし、遅いかも知れない。
 わたしは、娘と息子が病院に来る前に母と話した事を思い出していた。母の病室は三人部屋だったが、他の二人の方は退院する日だったらしく、母と入れ替えのように出て行った。わたしと母の二人だけだったからかも知れない。母が静かに話しだした。
「こんなに簡単に済むのなら、もっと早くやっておけば良かったわ。検査と変わりがなかったわ」
「やっぱり、症状が出ていたのでしょう」
「そうでも無かったけど、たまによ」
「たまでも苦しい時があったのでしょう?」
 わたしの問い掛けに母は少し諦めた表情で
「だって心臓なら、すぐに死ねるじゃない。あんた達に迷惑かけないで済みそうだし」
 そう言って、悪びれもせずにベッドに寝ていた。
「冗談じゃ無いわよ。そっちは良くても、こっちはそんな事になったら、大変なのよ!」
 何の前触れも無く行かれてしまったら、どんなに大変か、この前は夢とは言え、擬似的に体験したばかりだ。
「だから、ちょっとした希望よ。こうなったら良いかな? と言う希望よ」
 希望だか何だかたまったものでは無い。たった一人の親に何の前触れも無く行かれた娘の気持ちはどうでもよいのだろうか?
「だって、自分の事が自分で出来る内なら良いけど、出来なくなって、あんた達に迷惑掛けるようにはなりたく無いのよ」
「そうなって、手に負えなくなったら、施設に入れるから大丈夫よ」
「それだって、負担を掛けるでしょう。わたしはそれが嫌なのよ」
 親として、出来れば子供の世話にはなりたくないかも知れない。でも、それは仕方ないのでは無いだろうか?
「自分の親がそうなったら、当たり前でしょう。だって親孝行したいと思っているわよ。産んで貰った事がそもそも恩だし」
 わたしは自分の思っている事をそのまま母に告げた。


 暫く母は黙っていたが、やがて静かに語りだした。
「違うのよ。違うの。今まで言わなかったけど、実はあなたは生まれた時にね、僅かな時間だけど心臓が止まっていたのよ。それを病院の先生始め多くの人が蘇 生させてくれたの。だから、無事に心臓が動き始めた時、心の底から嬉しかった。その時本気で『自分の命と交換してでも良いから助けて下さい!』って祈った わ。おかげ様で助かってちゃんと育ってくれたけどね」
 そんな事があったとは知らなかった。父も教えてくれなかったし、母もそうだ。
「なんで今、そんな事言いだしたの?」
 わたしの疑問に母は遠くを見つめながら
「だってね。嫁に来て、中々子供が出来なくて、やっと出来たのよ。本当に嬉しかった。その時の喜びは何物にも代え難かったわ。それは、あなたも人の親だから理解出来るでしょう。だからね、恩なんて感じなくても良いのよ。あの時に充分幸せにして貰ったのだから」
 わたしは、母の言葉を聞いて、命の繋がりと言う事を強く意識した。これは、わたしが女だったからかも知れない。
 誰も居ないダイニングでわたしは母の有り難さを想うのだった。
 その後、入院期間中の母は全く病人らしからぬと話題になり、同室の方に元気を分けてあげた感じがした。
 結果としてこの手術は家族にとって憂いを取り除けた事で、良かったと思えた。


 今年も庭の梅の木にたわわに梅の実が生った。取り入れようと庭に出ると、休みで家に居た娘が
「ねえ、手伝うから、梅酒と梅干しの作り方教えて」
 そう言って庭に降りて来た
「どうしたの、急に」
 少し意地悪にそんな事を言って恍けてみると
「だって、彼と将来一緒に梅酒を呑みたいし、それに結婚したら彼のお弁当に手作りの梅干しを入れたいのよ。市販品じゃなくて」
 そう言って恥ずかしげな顔をした。
「そう、じゃあ基本から教えてあげるわね」
 わたしと娘は梅の実を収穫し始めた。
「梅の実をあなたが収穫する事はここに住まないうちは無いと思うけど、一応教えておくわね。表面についている産毛がとれてツルツルになったら収穫するのよ。赤く色が変わってからでも良いけど、わたしは青いうちに収穫するわ」
 わたしの言葉を娘は注意深く聞いている。
「赤くなってもいいの?」
「別に構わないけど、青いのがわたしは好きだし、その方がポピュラーだからね」
 籠いっぱいに収穫した青梅を台所に運んでヘタを取る
「売っている梅はヘタを取ってあるけど、ウチはちゃんとひとつずつ取るのよ」
 判ってはいるだろうが、何気ない事でも教えて行く。気が付いたら、自分が母から教わった通り、同じ事を言っている事に気が付いておかしくなった。
「どうしたの?」
 怪訝そうな表情の娘を無視して作業を続ける。
「あなたも、そのうち判るわよ」
 出来れば、そうなって欲しいと思う。


「丁寧に水洗いして、綺麗な布巾で良く水気を拭き取るのよ。この広口の梅酒を漬ける瓶を用意しておくのよ。ホームセンターで売っているし、ウチに来れば沢 山あるからあげるわよ。他にはホワイトリカーを一升、それに氷砂糖を一キロね。これは梅一キロに対してだからね。間違わないようにね。それに、ホワイトリ カーじゃなくてもブランデーでも良いのよ。三十五度以上の蒸留酒ならスピリッツなら何でも良いのよ。尤も好みや癖が出るからホワイトリカーが無難なのだけ ど、好みを訊いて作った方が良いわよ。でも他のお酒だと高くつくけどね」
 実は転勤先で、何回かブランデーで作った事があるが、確かに美味しいのだが、主人の好みでは無いので止めてしまった。再転勤する時に皆近所の人にあげてしまった。今思えば少し勿体無かったと思う。
 今年は豊作だったので、二つ瓶が出来た。
「お嫁に行く時にひとつ持って行きなさい」
 そう言うと娘が嬉しそうな顔をした。あの娘にとっての最初の梅酒になるだろう。見上げると五月晴れの空が眩しかった。

 エピローグ

 娘はこの年の秋に結婚して、翌々年の年明けに長女を出産した。その時の母の喜びはどの様なものだっただろうか。娘も良く我が家にやって来て母を喜ばせた。
 その子がやっと言葉をしゃべりだして「ひいばあ」と言った時、涙もろくなっていた母は泣いてしまった。わたしも思わず涙ぐんでしまった。
それから半年後、少しずつ弱くなっていた母は肺炎で結構あっさりと、この世から旅立ってしまった。病院に皆が駆けつけて見送った。
 恐らくだが、母は薄れゆく意識の中で皆が傍に居る事は判ったのではないかと思った。最後に娘の子の手を母が握り、母の頬をその子が撫でていたのが印象的だった。
 その年の梅干しは予想に反して、いつもどおりの出来だった。悪くはならなかったのだ。これは母があの世から気を使ってくれたのだと理解するようにした。梅干しでさえ、我が家では生かされている気がした。娘も自分で漬けた梅干しを持って来て
「わたしの所も出来は良かったわよ。やはりこれは、おばあちゃんのおかげだと思うな」
 差し出した梅干しをひとつ摘むと、それは我が家の味がした。


  梅色ごよみ                     <了>

梅色ごよみ  第12話 家族の情景

 今年も見事に桜が咲いた。家の前の通りは桜並木になっているので、それは毎年見事なものだ。
 母は自治会の老人会主催の「観桜会」に行っている。これは、自治会の老人会に入っている人が街の公園の集会所に出向いて、そこで桜を鑑賞しながらお昼を食べると言う趣向の会で、無論お酒も出る。
 母は毎年これを楽しみにしており、カラオケなんかで歌も披露するらしい。先ほど、わたしは近所の方を乗せて送って行ったのだった。
 三時過ぎに迎えに行くと、かなり呑んだのか、陽気になった母が近所の方と一緒に車に乗って来た。
「随分呑んだのでしょう?」
 わたしの問いに母は首を左右に振りながら
「そんなに呑んでいないわよ。チーちゃんの方が呑んだわよ」
 チーちゃんと言うのは一緒に居る近所の方で、母とは付き合いが長い
「嘘よ! そんなに呑んでいないわよ」
「呑んだわよ! わたしが知っている」
 こうなって来ると酔っ払いの戯言なので、構わずに車を出した。
 帰って来ると母は
「ちょっと寝るね。夕飯は要らないかな」
 そう言って自分の部屋に入ってしまった。その様子が何時もと違った感じがした。わたしは珍しくも、熱ぽかったので、そのまま寝てしまい、翌朝も特に起こしに行く事をしなかった。そう、翌日、母は起きて来なかったのだ。
 救急車を呼んで、救急病院に向かう。医師の診断は「脳血栓」だった。時間が経っているので、かなり危ないとの事だった。
 結果、三日後の夕方、母はわたし達に別れも告げずに旅立ってしまった。


 その翌日、春には珍しく朝から雨が少し激しく降っていた。わたしは今夜の通夜までには晴れてくれる気がしていた。何故か実感が伴わなかった。
 葬儀屋さんがやって来て、母の遺体を棺に入れると、寝台車に運び込み今夜通夜が行われるセレモニーホールに運んで行ってくれた。
 先ほどまで母が横たわっていた布団を片付ける為に立ち上がると軽い目眩がした。そう言えばあれから満足に眠っていなかったと思い出した。そう、そんな事さえ判らなくなるほど、わたしは狼狽えていたのだろう。
 心臓の血管が悪くなりつつあると言う事は検査で知っていて、もうすぐ再検査の予定だった。
 母は検査以来胸の事に関しては口を閉ざした。たまにわたしが
「ねえ、胸は苦しくないの?」
 先日も、そう尋ねると平然として
「だいじょうぶ! 平気よ」
 そう言って努めて明るい表情を見せていた。それが作り物だとは判っていたが、わたしはその言葉を鵜呑みにしたのだ。嘘かも知れないと思いつつ。
 でも、まさか脳血栓とは思わなかったのだ。
 雨は昼過ぎに止み、太陽こそ出ないが今日明日はもう雨は降らないだろうと天気予報が言っていた。
 わたしと夫、それに子どもたちもセレモニーホールに向かう。家族四人が車に乗り込む。
 セレモニーホールの祭壇は母が好きだった花で埋め尽くされていて、ちょっと豪華に見えた。花の祭壇が良いと言った娘が
「へえ~結構いいわね。ねえ、おばあちゃんも喜んでいるよ、きっと」
 そう言って明るい顔をしていたが、実は亡くなってから昨晩まで泣き通しだったのだ。
「もう少し生きていて、曾孫を見せてあげたかったのに」
 大泣きに泣いて、目が腫れるほど泣き尽くしたのだが表では明るく振る舞っている。下の息子は黙っていて一言も口を開かない
「きっと口を開くと泣いちゃうからだよ。ああ見えてもおばあちゃんの事好きだったから」
 娘が自分の事のようにつぶやいた。


 通夜は定刻通りに始まった。菩提寺の住職さんが読経を唱えて、暫くすると親族から焼香が始まる。先日お彼岸でお寺に行ったばかりなのだと思った。
 夫の会社の関係や娘の勤務先等からも焼香に来てくれたので、思ったより寂しい通夜にはならなかった。
 自宅で通夜をしていた時はお線香を絶やさないように、誰かが交代で起きていたそうだが、今では時間になると帰らなくてはならない。お線香は蚊取り線香の大きな感じのお線香があり、それを灯すのだという。変われば変わったものだと思った。
 時間ギリギリまでセレモニーホールに居たのだが、泊まる訳には行かないので自宅に帰って来た。それにしても時間の経過が早く感じる。
明日は十時から告別式だから、その為の準備もしなくてはならない。精進落としの料理の数や色々に用意することがあるのだ。でも実は細かい事は皆夫がやってくれた。夫は会社の総務に居た事があり冠婚葬祭は慣れていたのだ。

 翌日は良い天気で、雨の心配は無かった。セレモニーホールに行くと葬儀屋さんが
「火葬場に行く霊柩車には誰が同乗されますか?」
 そう尋ねて来たので
「わたしが乗ります」
 と答えると夫に「一」と書かれた紙を渡し
「では今乗ってこられた車にこれを貼りつけておいて下さい。順番に貼って戴き、最後はマイクロバスになります」
 そんな細かい事も打ち合わせておく必要がある。
 昨日と同じように住職の読経が始まり告別式が始まった。今日来てくれた人は昨晩も来てくれた人ばかりなので、静かに式が進む。やがて出棺の時間になり蓋が開いて祭壇の花を一同で遺体を埋め尽くすように入れて行く。
 もうこれ以上入らないほど花で埋め尽くされた。
「それでは蓋をして釘を打ちます」
 そう言って棺の蓋が閉められ釘で固定された。この棺箱を親類縁者一同で担いで霊柩車に乗せる。
「プワァーン」
 長い クラクションが鳴らされいよいよ出棺となる。わたしは霊柩車に乗り込んで母と一緒に火葬場の斎場に向かう。
 途中何の問題も無く火葬場に到着して、直ぐに火葬場の係員によって棺は霊柩車からストレッチャーに移され、火葬炉の前に運ばれた。火葬炉の前には祭壇が設えてあり、持参した白木位牌、遺影、花を飾った。


 それから棺の窓を開け、最後のお別れをした。姿が残っているのはこれが最後になる。
 住職が読経をしてくれ野辺の送りとなる中、炉に納さまる。そして蓋が閉められスイッチが入れられた。
 その後は控室へ移動して火葬が終わるまでお茶や菓子をつまみながら待機する。やがて係員が連絡に来て、もう一度炉に向かう。
 炉から骨になった母の遺灰が出され、拾骨室中央の骨上げ台に運ばれて来ると、係員の指示に従って、拾骨する。この時喉仏の話をしてくれた。
 母は長く患った訳では無かったので、骨が太くて丈夫だった。骨壷に入り切らないので係員が
「はいりきらないので潰させて戴きます」
 そう言って潰して残りの骨を壺に入れた。その後は、私が遺骨を胸に抱え、夫に位牌、娘が遺影をそれぞれ胸に掲げて車に乗ってセレモニーホールに帰って来た。この後は精進落としとなる。

 全て終って自宅に母と一緒に帰って来たのはもう夕暮れだった。お骨とお位牌を葬儀屋さんが貸してくれている小テーブルに花と一緒に飾る。それからダイニングの椅子に座ると全身が疲れていると自覚した。 
「少し呑むか?」
 気が付くと夫が缶ビールを出してくれていた。
「ありがとう」
 礼を言って缶のプルトップを引っ張り「プシュー」と言う音を立ててから喉に流し込む。なんとも言えない気持ちがビールと一緒に流れた気がした。
「今日は早く休もう」
 夫の言葉通り、早く寝ることにする。
 明日からは何時もの平時の時間がやって来ているはずだが、それが実感出来ない。
「慌ただしかったな。本当に急だった」
 夫の言葉を聞きながらも、わたしの心に何か忘れ物がある様な気がする。大事な事なのだが、でもそれが何か思い出せない。


 そう思っていたら遠くで、誰かが呼んでいる気がした。その声が段々と大きくなって来る。誰が呼んでいるのだろう? ぼんやりと気持ちが戻って来た感じがして目が開いた。
「お母さん大丈夫? 汗びっしょりだから着替えた方が良いよ」
 その声は娘だった。上からわたしの顔を覗きこんでいる。寝ていたわたしの額の冷却シートを取り替えてくれた。その冷たさに我に返る。
「あれ? おばあちゃんは?」
 母の事が心配になる。すると、わたしのすぐ傍で元気な返事が聞こえた
「なあに? 呼んだ?」
 母はグラスに何か液体のようなものを入れてわたしに差し出した。
「スポーツドリンクよ。汗掻いたから水分補給した方が良いわよ」
 グラスを受け取り口を着けると、心地良く喉を通って行った。
「インフルエンザなら特効薬があるけど、風邪は暖かくして寝て熱が出たら汗を掻くのが一番だからね」
「お母さん、大丈夫だったの?」
「は、何の事? わたしは元気よ。この前はちょっとお酒呑み過ぎたけどね」
 母の言葉に、今の出来事が夢だったと判り、胸が一杯になった。涙ぐむわたしを見て娘と母が
「どうしたの?」
 声を揃えて呟いた。
「なんでもないわよ」
 平静を装ったが、わたしはこの時「全ては生かされている」と実感した。理由なんてない。心の底から感じたのだ。それにしても、どうやって二人を誤魔化す かが問題だった。まさか本当の事は言えない。必死で繕ったが、娘は兎も角、母の事だ、きっと追求して来るだろう。今から言い訳を考えておかなくてはと思っ た。
「少し空気入れ替えようか?」
 娘が窓を開けてくれると、春の風に乗って、桜の花びらが二~三枚部屋に舞い降りて来た。わたしは、その一枚を手のひらで受け止めて、家族の有り難さを改めて感じるのだった

梅色ごよみ 第11話 彼岸桜とぼたもち

「暑さ寒さも彼岸まで」とは本当に良く言ったものだと感心をする。我が家は古い家なのでこの街にある菩提寺にやって来た。
 穏やかな早春の日差しの中、わたし達夫婦と母の三人連れだ。住職さんに挨拶をして、「御灯明料」を差し出すと、いくばくかのお菓子と菩提寺の宗派の会報をくれた。確か年末に来た時はカレンダーも貰ったと思い出した。
 お線香を戴いて、夫が桶に水を汲み小さな柄杓を入れて歩き出す。お線香を母に持って貰い、私がお墓に供える花を手に持っていた。
 境内には大きな彼岸桜が咲いていて、この花を眺めるのも楽しみのひとつだった。
「悪いわね。毎年こっちに先に来て」
 何時も夫の家のお墓参りは後になってしまう。それは母の体調を夫が優先するからなのだ。
「別に構わないよ。どうせ今日あたりは兄貴か誰かが来ているだろうし」
 それはそうだと思うが、一応わたしは嫁なのだ。向こうの親戚が集まった場所で肩身の狭い思いはさせたくないと考えてしまった。だから一層夫への感謝の気持ちが強くなった。
「行かない訳じゃないし、回数だけ言ったら、俺たちの方が多く行っていると思う。だから気にしなくて良いだろう」
 そこまで言われたら、わたしは黙るしかない。でも、感謝と自分の後ろめたさが同居しているのには変わりない。
「今年も綺麗に咲いたわね。この彼岸桜を見ると、ああ今年も生き延びたってお姑さんが良く言っていたけど、本当だと思う。この頃は良く判るのよ」
 母は立ち止まって彼岸桜を眺めている。淡いピンク色の花びらが早春の風に僅かにゆっくりと落ちていた。今がまさに満開なのだと思う。来週からはソメイヨシノが咲き出すのだろうが、その頃には散ってしまっているのだろう。
「人間、最後は潔く散りたいわね」
 またしても母が不吉な事を言った。
「満開の桜の下で何か言うと本当になるって、言わなかったかしら?」
 わたしの言葉に夫が笑いながら
「そんな事は聞いた事ないな。それ確か阪口安吾じゃなかった? 桜の花の下では狂気になるとか」
 そうなのかも知れないが、わたしにとって阪口安吾はどうでも良く、母の言葉が狂気であって欲しかった。


「今すぐって訳じゃ無いわよ。その時はって事よ」
 母はそう言って鼻歌を歌いながら、わたし達の前を歩き出した。仕方ないのでその後に続く。
「ああ、いい気分ねえ、風が柔らかくなって気持ちが明るくなるわね」
 お墓に着いて、柄杓で雨水を掃除し、草なども取って、お墓に水を掛ける。お線香と花を供えて先祖に祈る。
 祈る事はいつも同じだが、わたしはまたしても母の事を祈ってしまった。このお墓に眠る父にむかって『母に安らかな気分で過ごさせて欲しい』と願ったのだ。これは毎日過ごす上での事だった。心なしかお墓に眠る父が笑った気がした。
『お父さん、お母さんに何があっても、宜しく』
 もう一度父に祈った。

 菩提寺の前に古くからやっている和菓子店がある。地元でも知る人ぞ知るという感じの店なのだが、このお店に秋と春の彼岸の時期だけ「ぼたもち」が並ぶのだ。尤も秋は「おはぎ」なのだが。
 母はわたし達を気にする事なくお店に入って行った。そして
「餡子を六つと黄粉と胡麻をひとつずつ下さい」
 そう注文してしまった。六つって!
「家族皆の分よ。それと仏様の分、お父さんは餡子より胡麻が好きだったし、お姑さんは黄粉が好きだったからね」
 そう言えば、父は胡麻の料理が好きだった。夫の転勤で父とは余り一緒に住めなかったが、それでも思い出した。
 結局母の言う通り買って帰って仏壇にそなえた。
「何だかおかしい」
「何がおかしいの?」
 母が不思議そうにわたしに尋ねる
「だって、今さっきお墓に行ってお祈りしたのに、今はこうやって仏壇にお供えしてまた祈っているから」
「そんな事気にしないの、だって人間じゃ無いのだから、何処でも一緒に居るのよ。わたしはそう考えるの」
 母らしい考えだと思った。
「それより、早く『ぼたもち』食べましょう。お茶入れてね」
 母に急かされて、湯のみを出してお茶を入れる。小皿に「ぼたもち」を取り分けると真っ先に母が手を出した。


「美味しいわ。やっぱり、あそこのお店は美味しいわね」
 ニコニコしながら食べる母を見るのは娘としても嬉しいものだ。
「ねえ、あの子達が食べなかったら残ってしまうわよ」
「大丈夫、わたしが食べるから」
 そう言って笑った。恐らく息子は食べないだろうし、娘も食べても半分程度だろう。大きめに拵えてあるこの「ぼたもち」をペロっと食べてしまった母に正直驚いたのだ。
 そう言えば、子供の頃に何回か母がお彼岸に「ぼたもち」や「おはぎ」を作ってくれた事があったのを思い出した。それを母に問うと
「ああ、そう言えば作ったわね。よく覚えていたわね」
「どうして止めちゃったの?」
「お隣さんも拵えていたから、ウチは五目寿司を拵える事にして交換したのよ」
 そうだ、そう言えば、何時の頃からか、我が家ではお彼岸に五目寿司を作るようになっていた。それはそれで楽しみだったのだ。でも、「ぼたもち」や「おはぎ」を隣から貰っていたとは初耳だった。
「わたし、その交換して貰ったもの食べた記憶が無いのだけれど?」
 訝るわたしに母は笑って
「だって、仏様にお供えして、わたしとお父さんで食べてしまったら残らないぐらいだったのよ」
 そうか、それにあの頃のわたしは、餡子が何とか食べられるようになったばかりで、五目寿司の方が良かったのかも知れなかった。錦糸卵が沢山乗っていて嬉しかったのを思い出した。
「それに、お寺の前のお店で売っている事を知ったからね」
 気が付くと、息子にと取ってあった分を、母と夫が半分にして食べていた
「あ、ああ!」
「どうせ食べやしないさ!」
 夫が悪い事が見つかった子供の様な表情をした。
「違うわよ、それなら三等分にして欲しかったと思ったの!」
 わたしの子供みたいな言い出しに、二人が思わず笑ってしまった。それを見てわたしも恥ずかしくなって笑ってしまった。
 仏壇でお線香の煙が揺れていた。

梅色ごよみ  第10話  雪の日

002_convert_20110117082329 二月になると関東では雪が降りやすくなる。昨夜から降りだした雨が夜明け前に雪に変わって庭を白く覆っていた。
「積もるかしら?」
 母は外を見ながらつぶやく。
「少しは積もるみたいだけど、交通にはそんなに影響無いみたいよ」
 今朝、夫を駅まで送って行ったのだった。電車は動いていてもバスは大分遅れていたからだ。後ろには娘も乗っていて
「沢山積もるみたいなら、彼の家に泊まるからね。向こうのお義母さんも『そうしなさい』って言ってくれるから」
 その言葉に夫が何か言うかと思ったら無反応だった。普通、父親なら何か言いそうだと思ったのだが、帰ったら訊いてみようと思った。
「温かいもの飲もうよ」
 こんな時母が飲みたがるのは紅茶だ。でもわたしはコーヒーを選択する。ティーポットにアールグレイを入れてお湯をさす。透明なお湯に段々紅茶の色が染み だして行く。その様子を見ながらわたしは、コーヒーカップにドリップバッグをセットして、こちらにもお湯を注ぐ。フワっと泡が膨らんで香りが漂ってわたし の鼻をくすぐる。
「悔しいけど香りはコーヒーの勝ちね。でも味ならダージリンなら負けないわよ」
「別に勝負している訳じゃ無いわよ」
 母はどうしても、わたしに紅茶を飲ませたいらしい。別に紅茶が嫌いでは無いのだが、よりコーヒーが好きなだけなのだ。その辺母は勘違いしている。でも今日もわたしはコーヒーの気分なのだ。
「レモン入れてね。ミルクも悪く無いけど、寒いこんな日はレモンティーが美味しいと思うのよ」
 そんな母の好みも判るが、熱々のアメリカンを何も入れずに飲むのも悪く無い。母は少しだけ砂糖を入れたレモンティーを口にすると
「ああ、美味しい」
 母の口元に紅茶の湯気が立ち上り、僅かに逆光になって母のシルエットが浮かび上がる。その向こうに白くなった庭が見えていて、見事な対比になっていた。
「雪が酷くならないうちに、買い物行って来ようかな」
 まさかと思ったが、天気予報が外れる可能性もあると思った。昨日のうちにある程度は買っておいたが、これほど降ってくると俄に心配になって来たのだ。
「あるもので食べれば良いでしょう。何かあったらつまらないわよ」


 母の言葉に我に帰る。そうだ、何も買いだめする必要なんて無かったのだ。雪国みたいに連日降り続く事なんて、ありえないし、恐らく明日は晴天で、雪なんかいっぺんで解けてしまうだろうと思い直した。
「そうする。あるもので済ますね」
「それが良いわよ」
 結局、お昼はうどんにした。乾燥和布を戻して、沢山うどんに入れた。うどんに関して最近は冷凍が以外と美味しい。あとは竹輪を輪切りにして載せたシンプルなうどんだ。
「温かくて美味しいわね。天ぷらがあれば最高だったけど、今日は我慢ね」
 恐らく先ほど買い物に行けば、出来合いの惣菜の天ぷらぐらいは買っていたと思う。それを思うと少し残念な気がした。
 昼を過ぎて雪は小降りになって来ていた。夫から携帯に連絡が入った。何でも予報ではこれから大雪になるから会社が早く終業したのだと言う。社員に残業せずに帰るように命令が出たのだという。だから駅まで迎えに来て欲しいと言う事だった。
 わたしは、家の前の道を確かめると、道の両側には雪が積もっていたが、真ん中は雪が無かった。
 そろそろと車を出して駅に向かう。大通りに出たら、普段と変わりなく車が流れていた。
 帰りは夫が運転して家に帰って来た。携帯が鳴ったので見て見ると、娘からのメールで、やはり彼の家に泊まるとの事だった。
「やっぱり泊まるそうよ」
 夫に言うと、事もなげに
「それがいい」
 そう、素っ気なく答えたので、今朝の事も含めて問うてみた。すると
「あの子が生まれた時から覚悟はしていたよ。それに小さい頃は俺になついていたから、何処に行くにも一緒だったし、首が座ってからは風呂も俺が何時も入れ ていたな。あの頃にありったけの愛情を注ぎ込んだから、悔いは無いよ。俺は、いつまでも子離れ出来ないのは愛情が注ぎ足りないと思っているんだ」
 確かに、あの子は夫に懐いていて、起きている間は何時も夫と一緒だった。そう、仕事で出ている時以外は何時も一緒だったのだ。それこそ寝る時も一緒だったし、たまに帰りが遅くなると、眠い目をこすって帰りを待っていた。
「そうか、充分に愛情を注いだのね」
「別に、もう可愛くないと言うのじゃ無いんだ」
 それは、判る気がする。父親としての態度は他の父親と変わりはしないだろう。心の問題なのだと思った。


「決まったのか?」
「何でも秋らしいわ」
「仕事の事があるから、決まったら早く教えて欲しいな」
「ちゃんと言っておくわ。ところで、明日はどうなるの?」
「朝電車が遅れなく動いているかどうかだな」
「積もったら車出せないわよ」
「その場合は歩いて行くよ」
 その晩は、ありあわせの材料で「寄せ鍋」をした。息子は大学がもう休みなので、バイトに行っていて、今日はそっちに泊まるそうだ。友達と一緒なので気が楽なのだろう。
「結構豪華ねえ」
 母が豆腐をすくい、取り皿に入れて嬉しそうに言う  
「半端になっていた物、皆入れちゃったからね」
 白菜や葱、豆腐を始め、竹輪や蒲鉾、しめじにえのき、それに白身魚や海老も入れてしまった。それぞれがいい出汁を出していて、中々の味だと思った。
「体が温まるから鍋はいいな」
 夫は熱燗をちびりちびりと呑んでいる。息子が居れば一緒に呑んだのではないかと思った。そう言えば息子と夫の関係はどうなのだろうか?
 他所の家では「口も利かない」と言う関係の親子もあると聞くが、我が家ではそこまでの関係では無いと思う。たまにだが一緒に呑む事もあるし、色々な事を 話している姿も見た。でも何か関係が薄い感じがするのだ。もしかしたら、それが夫のスタイルなのかも知れないと考えた。良く言えば「大人扱いをしている」 悪く言えば「よそよそしい」のかも知れない。
 何時か二人は独立して出て行く。娘は来年にも、そうなりそうだし、息子も卒業したら判らない。その時は、夫婦ふたりになるのだろうか? 母はその時まで元気で居てくれるだろうか?
 鍋をつつきながら、そんな事を考える。夫が外を見て来て
「雪、完全に止んだな。かなり積もったけど、明日は大丈夫だな」
 その言葉にわたしも窓の外を見ると、煌々と月が出ていた。
 明日は良い天気になると思った。

梅色ごよみ 第9話 冬来たりなば

 新年も「小正月」と言われる十五日を過ぎると正月気分は全くと言って良いほど無くなってしまう。
「今年は何時もより寒い気がするのだけどねえ」
 母が縁側に出て、咲き出した梅の花を見ながらつぶやくように言う
「まあ、そんな気はするわね。でも統計を取ってみると、そんなに変わりは無いと思うけどね」
「気持ちの問題よ。あんたは、そういう感覚が鈍いのよね。育て方を誤ったかしらね」
 母が手にした湯のみには梅干しと白湯が入っていて、箸で崩して少しずつそれを口にしている。
「お父さん似なのよ」
 確かに、昔は今よりさほど寒く感じなかった事も事実だが、わたしは自分たちが歳を取ったのも原因だと思っていたのだ。
「ねえ、小正月に煮た小豆、餡子にして凍らせてあるのでしょ。それでお汁粉しない?」
 我が家では小正月には小豆を焚く。小豆粥にする習慣が残っていて、今でもそれを行うのだ。その残りを粒餡にしておくのだ。
「いいわね。お昼はそれにしましょうか」
「熱々でね」
 母の楽しみそうな声が聞こえて来る。毎年の事なのだが、寒い日には不思議とお汁粉が食べたくなるのだ。それもお餅をいれた奴が。
 冷凍庫から餡が入っているタッパを出して電子レンジで解凍する。ついでに真空パックのお餅も食べるだけ封を切って取り出しておく。
「幾つ食べるの?」
「二つね」
 自分の分と四つ出して、焼くためにガス台に焼き網を乗せてお餅を乗せる。解凍した餡を鍋に入れて火に掛ける。少しだけ水を入れる。完全に溶けたら更に水や砂糖を入れたりして味を整える。
 お餅が膨らんで来たので箸で摘んで鍋に移して行く。もうすぐ熱々のお汁粉が出来上がる。
 湧き上がったので火を止めて、お椀によそって行く箸をお盆に乗せ、冷凍庫から壺漬けを出して小鉢に入れて一緒に持って行く
「お待ちどう様」
「わあ、美味しそうね。お茶は入れておいたわよ」
「熱いうちに食べましょう」
 お汁粉は甘さも塩加減も丁度良かった。甘さと熱さが体に染み渡る気がした。口にお汁粉を含むと小豆が口の中で軽く潰れる感触が心地よかった。
「ちょうど良い塩梅ね」
 母も今日の味には満足してくれたようだ。お餅も柔らかく煮えていて、表面のカリッとした感じも心地よい。
「ね、覚えている? あなたね。子供の頃チョコレートなんかは食べられたけれど、餡子とか和菓子が全く食べられなかったのよね」


 そう言われてみれば幼稚園の頃はそんな感じだったかと思いだした。
「よくそんな昔の事覚えているわね」
「当たり前よ。続きがあるのよ」
 思わせぶりな母の表情に、お汁粉を食べたがったのは、この話がしたかったのだと理解した。
「どんな続き?」
 わたしの言葉に母は嬉しそうに話し出した。
「あれは、あんたが幼稚園の年長さんの時だった。小学校に入学するのでランドセルなんかを東京のデパートに買いに来た時だったわ。お父さんは仕事だったか ら平日だったと思う。帰りに一休みしたくなって、デパートの近くにあった有名な甘味処のお店に入ったのよ。今のように気軽に入れる喫茶店なんかも少なかっ たし、女のわたしとあんただけだったから、ちょっと怖かったしね」
 それを聞いて、そんな感じが当時はしていたと思いだした。そう、女だけで気軽に入れるのは甘味処だけだったと聞いた事があった。
「入って何を頼もうかと思ったけど、あんたは和菓子が苦手だったから、アイスクリームを頼んだのよ。わたしはお汁粉を頼んだの。出て来たお汁粉を見てね、 『自分も食べてみたい』ってあんたが言い出したのよ。わたしは、どうせ一口ぐらい食べてみるだけだと思ったから、食べさせたのよ。どうしたと思う?」
 その時の事はぼんやりだが覚えている。ランドセルを買って貰ったのが嬉しくて、早く小学校に通いたいと思ったからだ。
「半分ぐらい食べたのだっけ?」
「嘘よ、全部食べたのよ。仕方ないからもう一つ頼んだのよ」
「アイスクリームは?」
「二人で半分ずつ食べました」
 そうか、そうだったのかと思った。記憶ではアイスとお汁粉が混ざり合って、小豆味のアイスクリームを食べたと思っていたのだ。人の記憶は時にいい加減だと思う。
「それからよ、あんたが急に和菓子を食べるようになったのは」
 今では、洋菓子も好きだが和菓子はもっと好きになっている。繁華街に行って気分が高揚していたのだろうか? きっと普段と違った感じがしたのだろう。
 甘さに慣れた舌に壺漬けの程よい加減が美味しい。甘さと醤油の混ざった感じがお汁粉に合うと思った。


「庭の梅、良く咲いたわね。今年も豊作かな」
「楽しみね」
「漬けるより、食べる方でしょう!」
 冗談を言うと母が嬉しそうに笑う
「当たり前じゃない。今年の実も何時かは食べるのよ。わたしが死んだら仏壇に梅酒の梅お供えしてね。約束だから」
「シワシワの方? それとも」
「皺の無い方よ。当然でしょう」
 やはり母の食べる事に対する気持ちは変わらないのだと改めて思った。

 朝大学に行った息子がもう帰って来た。
「お腹すいたけど、これから図書館に行くから簡単に食べられるもの無い?」
 そんな事を言って台所をウロウロしている。わたしは
「お汁粉ならあるわよ。お餅を入れて食べる?」
「お汁粉かぁ。じゃあ、お餅三つね」
 作ってやると、ふうふうしながら食べる。
「たまにはいいね。俺、酒も甘いのも両方平気だから」
「お父さん似なのね。わたしは、お酒より甘味だからね」
「ごちそうさま、頭脳労働には甘いのが良いそうだよ。これで図書館での勉強が進めば良いけどね。じゃ、行って来る」
 息子が、そう言い残して出て行った。振り向くと母がちょっとがっかりした顔をしている。
「どうしたの?」
「もう少し食べようかと思っていたら、全部たべられちゃった」
「あとで小豆買って来るから、明日も食べましょう」
「そうね。それなら我慢する。今度も大納言にしてね」
 笑った母の顔が先ほどの息子の顔に重なって見えた。
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