「最高の贅沢」

 ここに帰ってきたのは何時以来だろうか。子供の頃には良い想い出はあまりない。いつもひもじかった記憶しかなかった。
 そんな俺にたったひとりの姉が自分の分もいつも分けてくれた。嬉しかった。姉だってお腹を空かせていたはずだ。
 それなのに、姉はいつも俺に自分の分の食べ物を分けてくれたのだ。その姉は十五の歳に病気で亡くなった。
 泣いた。泣いて泣いて、幾日も泣き続けて、周りの大人から呆れられた。それから俺にかまってくれる人間はいなくなった。その時、中学を出たらここを出よう。そう早くから思った。この場所を、この街を、何も良いことが無いこの場所を。
 中学の先生は高校に進学するように進めてくれたが、俺は先生に言った
「一分、一秒でも早くここを出たいんです。もう、うんざりなんです」
「だから、進学しないで働くのか? 今は高校ぐらい出てなければ働く場所もないぞ」
 先生はそう言ってくれたが、俺の考えは変わらなかった。結局、何も言わなくなった。俺の人生の責任は先生には取ってくれないから……

 卒業式の後、街を見下ろす墓地にある姉の墓にお参りした。
「姉ちゃん。たった一人、俺の全てだった姉ちゃん。俺は今日街を出るよ。そこで見ていてくれ。姉ちゃんは凄い人だったから、きっと神様に近い場所で暮らしているんだろうな。聖人だよね。今だから判るけど、姉ちゃんは聖人として生まれたんだと思った。
 さらば俺の生まれた街よ……
 
 そこまで読んでタブレットの電源を切った。退屈な小説だと思った。電子書籍で安かったから買ってみたのだが、安いのはそれだけの価値しかないと思った。それに、電子書籍は正直読んだ気がしない。やはり小説は紙媒体だろう。
 だが、今は森林資源の保護の名目に紙の生産は規制されている。伝統的なものや、紙でしか製品化出来ないものを除いて基本的に紙の生産が大幅に規制されてしまった。
 特に目をつけられたのが紙の媒体の本だ。あっという間に店頭から排除され、それらの本は国会図書館での保存意外は資源の再利用に使われてしまった。
 それから、本は全て電子媒体となったのだ。今や、紙の本を持ってるだけで罰金の対象になる。自宅に紙の本を隠してると密告されて酷い場合は逮捕拘留されるのだ。うっかりと人前で本も読めなくなった。
 だが世の中には裏の道もあり、非合法で紙の本を読ませる商売が横行していた。それらは会員制になっており、秘密のパスワードと電子化された会員カードがなければ利用出来ないのだ。
 俺もある秘密倶楽部の会員になっている。そこには読書をするのに快適な空間が用意されており、リクエストを出しておけば自分の読みたい本を読めるのだ。 勿論そんな贅沢をするのだから会費は高いが、それは仕方ない。これだけの本を当局の目を逃れ保存していたのだ。そのコストは膨大になるだろう。それを考え ればむしろ安いくらいだと思うのだ。
 その秘密倶楽部では飲食は禁止されている。うっかり本にシミでも作ったら、その本を基本的に買い取って貰うことになっている。中にはそれで破産した人もいる。くわばらくわばらだ。
 
 今日も俺は秘密倶楽部で本を読んでいる。その昔あった文庫本と呼ばれる本の一種だ、手に持ちやすく、当時は値段も安かったそうだ。それに色々なカバーも 付いていた。この文庫本のカバーだけの売り買いも行われていて、ロングセラーの文庫本では何回かカバーが変わっていることがあるので、それらを全て揃える マニアが発生したのだ。今では裏経済の投機の対象になっている。一枚の文庫本のカバーに数億円の価値が発生している。中にはカバーが数億円だが肝心の本が 二束三文の場合がある。面白いものだ。
 わたしは今日もゆっくりと続きものの小説を読んで満足すると、カウンターに本を返して
「ありがとう。面白かったよ」
 そう倶楽部の係員に礼を言って表に出る。
 外は核の冬で辺り一面霜で覆われている。作物はおろか木々もこれでは育たないだろう。そう考えるとわたしは最高の贅沢をしているのかも知れない……
 何と言っても紙の本の匂い、手触り、果てはページの間を動く「本の虫」までもが愛しい。
 そうは思わないかい皆さん……

        了