師匠と弟子と

師匠と弟子と 13 終

 あれから一年後、明日香さんは真打に昇進した。同期の仲間五人と一緒だったが、既にマスコミでは話題になり始めていた。
 あの日、日村さんが言っていたように、華があって、かって劇団に所属していた程の美観なので周りが放って置かなかったのだ。昇進すると直ぐに人気が爆発した。でも、一つだけ俺は知っている。師匠の蔵之介師もウチの師匠も知らない、俺にだけ明日香姉さんが教えてくれた事がある。
 それは、あの日、駅に送って行った時。最後に列車に乗る時に
「本当に辛くなって辞めたいと思った時だけここに連絡しろ。愚痴ぐらいは聴いてやるから」
 そう言って一つのメアドを教えてくれたそうだ。
 そのメアドに明日香姉さんが連絡をしたのかは知らないし、俺も訊く権利なぞない。でもあれから明日香姉さんは年に一~二回纏まって数日の休みを取る事が多くなった。何処に行くのか誰にも教えずに旅に発つと言う。
 休み明けの姉さんは実に生き生きとしている。それが何故なのかは誰にも判らないし、誰も訊かない。勿論俺も……。
 

 その日は日本晴れと言いたい程の良い天気だった。カミさんが出がけに「カチッカチッ」と切り火をしてくれる。
「今日から真打昇進披露だからね。がんばってね」
 周りに人が大勢いるのに、そんな人の目も気にせず俺の頬にキスをする。
 今日から俺の四十日間。国立を含めると五十日間の披露目が始まるのだ。
「今日からは二代目小金亭遊蔵師匠だからね」
 そうなのだ。師匠の名を継いでの昇進で、ちなみに師匠は数年前に五代目小金亭仙蔵を継いでいる。名人ばかりの仙蔵だが師匠もその一人にやがてなる訳だ。
 俺は師匠が大きくした遊蔵と言う名を更に大きくしなくてはならない。
「でも梨奈ちゃんもすっかり噺家の女将さんが板に付いたわね」
 明日香姉さんがニコニコしながら言うと
「そうでも無いですよ。これから弟子が入って来ると思うとねぇ」
 笑いながらも満更でも無いらしい。
 俺と梨奈は彼女が大学を卒業すると結婚した。やっと売れて来た二つ目だった俺は自分の背丈に合った式をした。師匠もそれでよいと言ってくれたし、無理に背伸びしなくても良いと思った。中には「噺家は見栄の商売だから」と言う人もいたが俺は
「それは真打昇進に取っておきますよ」
 そう答えていた。
 一年半後に長男が生まれ、二年後に長女が生まれた。梨奈も今や二児の母だ。でも相変わらず綺麗なのは言う間でもない。
「じゃ行って来る」
「行っておいで」
 カミさんの声に送られて上野の鈴本演芸場に向かう。ここを最初に都内四件と国立演芸場まで五十日間の真打披露興行が始まるのだ。今回は俺一人の「一人昇進」で協会としては三十年ぶりなんだそうだ。その三十年前とはウチの師匠だという。つまり師弟揃って一人昇進なんだそうだ。
 一人で披露興行を行うにはそれだけの力量が求められるし、掛かる費用も期待も半端ではない。俺はそれだけの力量があると世間から認められたと言う事なのだ。正直こそばゆいが……。
 あの日、今は妻となった梨奈を最初に抱いた時に彼女が言った言葉を思い出す。
『鮎は絶対大物になる! わたしがそう感じた唯一の人だから』
 その言葉を胸に俺は高座に上がる。



                                                                               師匠と弟子と  <了>

師匠と弟子と 12

  五月上席、初日はいい天気だった。木戸が開けられると、並んでいた客がどんどん客席に入って来る。一階はたちまち満席になった。すぐに二階籍も一杯になった。
「はあ~本当に良く入りましたね」
 偶然にこの席の前座となった小ふなが袖から見ながら呟く。二つ目ながらこの席に出る事になった俺は既に着物に着替えていた。寄席で二つ目の出番は浅いと相場は決まっている。俺は二番目の出番だった。客席を温めるのが目的みたいなものだ。
 トリは師匠遊蔵で、トリの次に大事な仲入りは弟弟子の蔵之介師で食いつきと言う仲入り後の直ぐの出番には明日香姉さんが出る。先日五人抜きで来春に真打昇進が決まったばかりだった。
 二番太鼓が鳴って開始が近い事が告げられる。客席は立ち見が出ていて表にも切符を買う客が並んでいると言う事だった。
 やがて時間になり前座の小ふなが出て行く。今日で小ふなは五回目の高座だそうだ。何人か居る前座が持ち回りで高座に出て行く仕組みだから数日に一度しか出られない。入門して日が浅い小ふなには順番もそれほど回って来なかった。当たり前だとは思う。前座の高座などは余程の通で無ければ注目なんてしていないからだ。
 小ふなは「子ほめ」と言う噺をして高座を降りた。満員なのでそれなりの拍手が起きる。それを聴いて小ふなは嬉しそうに降りて来た。
「お先に勉強させて戴きました」
 頭を下げて袖に戻ると今度は高座返しをしに高座に出て行く。初めの噺家の出囃子が鳴り出した。
 座布団を返して、めくりをめくると戻って来るのと入れ違いに出番の三遊亭銀太郎師が出て行った。この前の真打昇進で真打になった人だった。今席はこの後にも他所で出るので早い出番になったそうだ。
 そして俺の出番になった。「小鍛冶」が流れ出すと不思議と俺の体に出囃子のリズムが刻まれて行く。自分の決めているタイミングで高座に出て行く。満員の拍手が俺を出迎えてくれた。
「え~いっぱいのお運びで御礼申し上げます。小金亭鮎太郎と申します。今日出会ったのも何かの縁でございます。どうかこの顔と名前を覚えて帰って戴きたいと思っております」
 挨拶とも売り込みともつかぬ事を言って噺に入って行く。今日は「狸の札」をやるつもりだった。命を助けられた子だぬきが恩返しに来て、お礼に札に化けて借金を帳消しにする噺で、このような化ける噺は縁起が良いとされ芝居の初日なんかに演じられる事が多い。
 今日の客はいい客だと感じた。ポイントポイントで確実に笑いが返って来る。結構な手応えを感じて高座を降りた。
「お先に勉強させて戴きました」
「お疲れさまでした」
 小ふなを始め前座が出迎えてくれた。前座の中には半年前までは一緒に働いていた者も居る。
「兄さん。今日のは良かったですねえ」
 小ふながそんな事を言ってくれた。世辞とは言えやはり嬉しい。

 仲入りでは蔵之介師が「青菜」と言う噺をやって場内の客を湧かせて高座を降りた。俺はもう出番を終わっているのだが、師匠がトリなので今日と仲入りと千秋楽の三日は残ろうと決めていた。それはこの三日間は寄席が終わった後に「打ち上げ」があるからだ。初日は十日間の芝居の成功を祈って。中日はここまでの感謝。そして最後は無事に終わった事に対してである。色々と人手も必要なのではと考え残る事にしたのだ。それに師匠や蔵之介師などの高座も見ていたかったからだ。
 仲入り後の食いつきは明日香姉さんの出番だ。休憩が終わり開始を知らせるベルが鳴ると太鼓が鳴り緞帳が上がって明日香姉さんの出囃子「墨田川」が流れる。
 明日香姉さんが高座に登場すると拍手は勿論だが、声が幾つも掛かった。
「待ってました! たっぷり!」
 二つ目でこんな声が掛かるのは本当に珍しい。本当なら真打でそれも名手と呼ばれる程の師匠で無ければ声なぞ掛からなかった。
 明日香姉さんの初日の噺は「厩火事」だった。寄席用に短く刈り込んである。無駄を省いているのでテンポが良い。俺は袖で聴いていたが後ろから
「いい出来だぜ。本当ならもっと早く真打になるはずだったんだ」
 振り返ると蔵之介師だった
「そんな話があったのですか?」
 俺の質問に師は
「ああ、二年前に二十人抜きでなるはずだったんだ」
 悔しそうに語る。
「どうして駄目になったのですか?」
 俺の質問に
「協会の中で、女が噺家になるのを面白く思ってねえ奴がいるんだよ。信じられっか、今時」
 今では女性の真打でも普通に「真打」と呼ばれるがその昔は「女流真打」と呼ばれていたそうだ。つまり本物の真打では無いと言う事だ。
 それを今のように変えさせたのは、ウチの師匠の遊蔵と蔵之介師だ。だから協会の中には二人を快く思わない人が居るのだ。
 番組は進みやがてトリの師匠の出番になった。初日に師匠は、やる演目を決めている事が多い。俺の予想では「明烏」か「船徳」のどちらかだと思った。朝から廓噺は出ていないし、若旦那物も出ていない。寄席では同じ傾向の噺はその日は一つしか出ないのだ。噺がくっつくと言ってタブーとされている。
 出囃子「外記猿」が鳴り出した。この出囃子は本当に師匠に合っていると思う。高座に師匠が出て行くと満員のお客全員が最大限の拍手で迎えてくれた。当然声も多く掛かる。
「え~今日は、私が最後でございまして、この後は掃除のおじさんしか出ない事になっております。気の向いた方はどうぞ一緒に掃除をやって行って下さい」
 一斉に笑いが起きる。つかみも万全だった。高座の袖では珍しく蔵之介師が残っていて
「あれ、今日は打ち上げ出られるのですか?」
 俺の質問に
「ああ、今日は暇なんだ。兄さんと久しぶりに呑みたいしな」
 そうか、二人は仲の良い兄弟弟子だった。二人は小金亭仙蔵と言う俺にとって大師匠の二人だけの弟子だった。仙蔵師匠は家の用事もやらせたが、噺の稽古が一番と言う考えで、余計な用事をさせてるのなら稽古をせよ。と言う方針だった。その頃の噺家の元では雑用をこなして一日が過ぎて行く事が殆どで、二人は
「あんな手にあかぎれも出来ない奴になんか負けないからね」
 と楽屋でも陰口を叩かれたそうだ。だから二人は上手くなる為に必死に稽古をしたのだ。その結果、二人はタイプこそ違うが名手として今に至っている。
 ウチの師匠遊蔵が渋くて古典落語の世界に観客を連れて行ってくれるなら蔵之介師はモダンで現代的な粋を感じさせて古典を分かりやすく演じて見せてくれる噺家だった。
 だから明日香姉さんが蔵之介師の所に弟子入りしたのは偶然ではなく必然だったのかも知れなかった。
 ウチの師匠も家の掃除などはやらせるが、それ以外の雑用は余り無い。勿論師匠の着物などは片付けさせてられるが、本当に大事な着物などは師匠は自分で片付けるし、手入れも自分と女将さんがやる。俺たち弟子は着物の扱い方を学ぶのだ。厳しいのは挨拶等の日常的な礼儀だ。これは完全に叩き込まれる。
 師匠の初日は「明烏」だった。これは堅物の若旦那を心配した父親が町内の遊び人の二人に頼んで吉原に連れて行って貰う噺で、若旦那は吉原に上がるまでそこがお稲荷さんと信じて疑わないのだった。
 この噺は亡き八代目文楽師の十八番で、噺の中に甘納豆を食べるシーンがあるのだが、師がこの噺をやると売店の甘納豆がすぐに売り切れたと言う逸話を持つ噺だった。かの古今亭志ん朝師も若い頃は甘納豆では無く梅干を登場させていて、文楽師との比較を避けたほどだった。
 師匠は若旦那を滑稽に描くでもなく、普通の常識のある若者として描いて行く。若旦那を連れて行っている二人の遊び人も、その道の達人らしく、何とか上手く若旦那を収めようと知恵を絞っている。そんなやり取りが可笑しい。
 結局、若旦那は抵抗するも、納められてしまい。浦里と言う花魁に気に入れられてしまう。
 翌朝、持てなかった二人とは裏腹に若旦那は良い思いをしたみたいだった。呆れる二人は若旦那を残して帰ろうとするが若旦那は
「帰れるものなら帰ってごらんなさい。大門で止められる」
 下げが決まって拍手が鳴り出す。師匠は座布団を外して
「ありがとうございます! ありがとうございます!」
 と頭を下げている。終いの太鼓が鳴る中緞帳が降りて行った。
「お疲れ様でした!」
 小ふなが師匠の羽織を取りに高座に向かう。座布団も一緒に片付けて行く。この後三十分もすれば夜席が始まるのだが、それは別な芝居となる。
 楽屋では既に師匠が着替え始めていた。残っていた蔵之介師が
「兄さんの『明烏』久しぶりに聴いたよ。前と少し変えた?」
 そんな質問をすると
「まあ、少しな。今日は若いやつが聴いてるからさ」
 そんな事を言っていた。

 打ち上げは師匠の行きつけの居酒屋で行われる事になっている。俺は打ち上げに参加する人数を確認して既に予約を入れておいた。
 人数は総勢五人で師匠と蔵之介師。俺と明日香姉さん。それに付き合いの良い龍楽亭新吉師だった。前座の小ふなはこのような打ち上げには参加することが出来ない。俺は晴れて二つ目になったので参加出来るのだ。
 師匠は明日もトリを取るので着物を楽屋に置いて来た。これは良くある事で殆どの噺家は続けて出演する場所では着物を預けて帰る事が多い。中には二種類の着物を持って来て交代で着る師匠も居るほどだった。
 それに明日も違う着物を着るならば、小ふなに着物を家に届けさせて、翌日寄席に行く前に寄らせて着物を持たせると言う手間になる。小ふなは何も無ければ今日はこのまま家に帰れるのだ。明日も寄席にまっすぐに行けば良い。その辺を師匠は考えたのだと思う。
「今日は帰っていいよ」
 小ふなは師匠からその言葉を貰うと
「お疲れ様でした。お先に失礼させて戴きます」
 師匠方にそう言って帰って行った。
「かんぱーい」
 皆がビールで喉を潤す。それからは各自が好きなものを頼んで打ち上げが始まった。師匠と蔵之介師は早速何事か話し始めた。蔵之介師が「兄さんと呑みたい」と言っていたのは何か相談事があったのだと推測した。
 店内が騒がしいのと大きなテーブルの反対側に二人が座っているので、何を話しているのかは全く判らないが、軽い話しでは無さそうだった。二人の表情でそれが推測出来た。
 俺の左隣は明日香姉さんで、その左は新吉師だった。新吉師は明日香姉さんより少し上で真打になってから三年目の若手真打だ。二人は、前座を同じ時期に努めたので仲が良い。
 暫くは雑談になり話が盛り上がったが、不意に明日香姉さんの携帯の着信音が鳴った。実は今日の明日香姉さんは何処か元気が無かった。何時もなら楽屋でも笑い声が絶えないのだが、今日は静かに過ごしていた。だから、明日香姉さんが携帯を開いて顔色が変わった時は何やら胸騒ぎがした。
「あの、ちょっと席を外します」
 姉さんはそう言って店の外に出て行った。師匠はそれを見て、俺に目線で「後を追え」と指示をした。何となくだが、蔵之介師は明日香姉さんの事を師匠に相談していたのでは無いだろうか。なんとなくそんな気がした。
 急いで表に出る。もう日は落ちて暗くなっていた。直ぐに後を追ったが、姉さんの姿が見えなくなっていた。周りの路地を見渡すと。別な方角から声が聞こえた。
「どうして! どうして行っちゃうの!」
 叫ぶような悲鳴にも近い明日香姉さんの声だった。
 その声の方角に行くと、姉さんの隣には男の人が立っていた。直ぐに日村さんだと直感した。
 ネイビーの三つ揃えに赤いネクタイ。濃い茶のサングラスを掛けていた。今日はどっから見ても普通のサラリーマンには見えない。手には大きめのボストンバッグを下げていた。
「どうして……どうして行っちゃうの?」
 明日香姉さんはその日村さんにもたれるように寄り添っている。
「お前の為だよ……判るだろう?」
「ううん。判らない……やっと真を打つことが出来るのに。これからなのに……どうして?」
 姉さんは寄り添いながらも右手で日村さんの胸を軽く叩いた。甘えている感じがした。それを見て二人の関係が理解出来た気がした。
「来年、晴れて真打昇進だ。それも五人抜き。目出度いじゃないか。お前は売れる! きっと売れて天下を取れる大物になる。興行の世界で生きて来た俺には判る。お前には華がある。出て来ただけで会場が明るくなるんだ。こんな芸人はそうは居ない。売れたらマスコミがお前の周りを嗅ぎ回るだろう。俺の存在も知られてしまう。今の世の中、ヤクザと一緒に暮らしてる事が判ったらとんでもない事になる。そんな事ぐらい判るだろう。だから俺が傍に居てはいけないんだ」
 日村さんは優しく姉さんの肩を抱く。その抱き方で如何に姉さんの事を愛してるかが判った。大切な人の存在が出来た今の俺なら理解出来る。
「嘘よ。嘘! そんなの嘘! わたしは、あんたに認められたくて今まで頑張って来たのよ。楽屋で嫌な事をされても。あんたに褒めて欲しくて耐えたの。あんた抜きではわたしなんか存在価値も無いのよ。只、あんたに『上手くなったな』って言って欲しくて、あんたに喜んで欲しくて今まで頑張ったの。だから、何処かへ行くなんて言わないで。今まで通りに暮らしましょう。マスコミなんか構わない。あんたの居ない人生なんて要らない」
 姉さんは泣きながら日村さんの胸に抱かれている。優しく背中を撫でた日村さんは
「未だ判らないか。お前にはとんでもない才能がある。それを開花させるのも俺の役目だと思ったんだ。だからこれからは俺が傍に居ない方が良い。それが俺の下した判断なんだ。お前が開花するのに俺が足を引っ張ってはならない……そうだろう?」
 それを聞いて姉さんはイヤイヤをしながら
「そんなの建前じゃ無い! 本当はわたしに飽きたのでしょう!」
 姉さんがそう言った時だった
「バカ!」
 日村さんの平手が姉さんの頬に飛んだ
「俺だって、俺だってどんなに一緒に居たいか……このまま爺になるまで一緒に居たいさ。でもやがて世間がそれを許してくれなくなる。だからいい機会だから別れようと言っているんだよ」
「うわぁ~ん」
 姉さんは大声でまるで子供の様に泣き叫んだ。
「あんたが居なけりや明日から生きていけない……」
「まこ……これを貰ってくれ」
 日村さんは姉さんの本名を呼ぶと、懐からネックレスを取り出し、姉さんの首に掛けた。大粒のダイヤのネックレスだった。
「あんた、これ……」
「俺の本音だ。お前は永遠に俺のものだ。でもこの世では一緒になることが出来ない。だからせめて、その証だけでも受け取ってくれ」
 ダイヤはかなり大きい。俺は宝石には詳しく無いが、それでも相当な物だと直感した。姉さんもその価値が判ったのか
「わたしは一生あんたのものだよ。約束する。もう誰も愛さない。きっとだよ」
 そう言って立ち上がって日村さんに口づけをした。それは濃厚で二人の想いの籠った口づけだった。
「鮎、御免、この人を駅まで送って行くわ。師匠に言っておいてね」
 姉さんは俺にそう言うと日村さんの腕に自分の腕を通して駅に一緒に歩いて行った。俺はその後ろ姿を只見送っていた。

 居酒屋に戻って簡単に事情を説明する。蔵之介師が
「やはり決着がついたか。俺の所に『今日別れに行きます』と連絡があったんだ。だから明日香も一緒に来させたんだ」
 そういってため息をついた。
「姉さん。あのまま一緒に何処かに行ってしまう、なんて事はありませんよね」
 俺の言葉に師匠が
「それは大丈夫だろう。一緒に行くなら伝言は『師匠ごめんなさい』だろう」
 そんな事を言った。そうか、二人には今夜の事も判っていたのだと理解した。

 翌日、明日香姉さんは何事も無かったかのように出て来た。そして昨日と同じ演目「厩火事」を掛けた。
 高座の袖で俺と蔵之介師が見守っている。昨日の今日だから大丈夫かと思っていた。俺は蔵之介師に
「姉さん大丈夫ですかね」
 そう尋ねると蔵之介師は
「見ろよ。失ったものもデカイが、素晴らしい『厩火事』じゃねえか。もう立派に真打の芸だよ。間違い無いあいつは大きくなる」
 そう言った目には光るものがあった。
 俺の人生で生の高座で一番の「厩火事」だったと記しておく。

師匠と弟子と 11

  わたしの名前は、和久井梨奈。大学の一年生です。この春に大学に入ったばかり。今日は皆さんにわたしの彼氏と言っても良い高梨信春こと小金亭鮎太郎の事を少し話してみようと思います。
 それは、もう六年以上前のことでした。わたしの父は小金亭遊蔵と言って少しは名の売れた噺家なんです。寄席や格式の高い落語会などにも年中出ていて、CDやDVDなんかも出しています。でも、それで売れっ子でいい暮らしをしてるかと言うとそうでも無く、恐らく同年代のサラリーマンとそう変わらないと思います。寄席のワリ(給金)は驚くほど安いし、歌と違って落語のCDやDVDはそんなに売れないし。どれぐらい売れないかと言うとDVDなどは深夜アニメの方が遥かに売れています。まあ、それでも一応生活に困るような事はありません。    
 父は、噺家協会でも幹部なのですが、弟子を取らない方針でした。普通、噺家は真打になり数年経つと弟子を取るものなのです。それは、自分が育って来た落語界に対する恩返し。後継の育成を手がけるものなのです。でも父は
「俺は弟子を取るほどの噺家ではない」
 そんな事を言って、沢山来る入門志願者を断って来ました。中には父に断られて他の師匠に入門して大成した人も居ます。
 そんな父の考えを変えたのが彼、鮎太郎だったのです。

 わたしが小学校の五年生の時でした。父が高校の落語コンテストの審査員を頼まれたのです。
 本当は別な師匠が審査員になるはずでしたが、急な用事が出来て来れなくなったのです。父はその代りを頼まれたのでした。
 高校の落語のコンテストと言ってもちゃんと県単位の地方予選もあり、そこを勝ち抜いて来た人ばかりです。
 鮎太郎はそこに出場して来たのでした。結果は二回戦で負けてしまいましたが、父はその日帰って来て、わたしに
「今日、高校生の落語コンテストの審査員をやったのだが一人だけ面白いのが居たよ。二回戦で負けたけどいいものを持っていた」
 そんな事を言ったのでした。わたしとしては、父がそんな事を言うのが珍しかったので覚えていました。
 それから暫くして、その父が言っていた高校生が我が家に入門を頼みに来たのでした。父は驚いて一旦は断りましたが、彼は一週間連続で家の門をたたき続けました。さすがの
父も根負けしたのか、あるいは彼の才能を認めたのか入門を許しました。
「まあ、三十人以上出ていて一人だけ俺の印象に残った奴だ、鍛えればものになるかもしれない」
 確かそんな事を言っていたと思います。こうして彼は見習いとして入門を許され、我が家に通うようになりました。高校を卒業するまでは主に土日が中心でしたが、朝早く来て家の掃除をして、父の荷物持ちをして一緒に付いて行っていたりしていました。
 父とすれば、連れ回す事により顔を見せていたのだと思います。そうやって自然に業界に馴染ませる考えだったと思います。
 そうして一年経ち、正式に前座として寄席に入る事になりました。この一年間で彼は着物の扱い方や寄席のしきたり等を覚え、太鼓や笛、三味線の稽古もしました。太鼓は他の一門の弟子の方に教わり。笛は専門の師匠に稽古に通いました。三味線は母が教えていたと思います。母は結婚前と結婚して暫くは寄席の下座をしていましたから、三味線の名取でもあったのです。ちなみに私も多少弾けます。
 寄席に上がるので正式に名前を与えられました。小金亭小あゆ。これが彼の前座名でした。何故「あゆ」なのかと言うと魚釣りが父の趣味だからです。
 それからは朝早く来て母に言われながら家の掃除をして、朝ご飯をわたし達と一緒に食べて落語の稽古をして寄席に通う毎日が始まりました。寄席の仕事が終わると、父の仕事先に向かい荷物持ちになります。我が家に帰って来るのは、もう夜遅くです。これが寄席の仕事が夜席なら帰りはもっと遅くなります。我が家に帰って来て、父の着物や荷物を片付けてから家に帰ります。恐らく家に帰るのは日付の変わる頃だったろうと思います。
 そんな暮らしを三年間してきました。本当はまる二年経った時に二つ目になる話もあったのですが、父はもう一年やらせました。その為同期とは差がついてしまいましたが
「なに、今の一年なんざすぐに取り戻せる」
 そう言って気にしませんでした。そして昨年やっと二つ目に昇進したのです。それは小ふなと言う新しい弟子を父が取ったからかも知れません。

 鮎太郎は外見はちゃんと見れば、結構イケメンです。しょうゆ顔とでも言うのでしょうか、中々の男前なんです。でも、育ちが豊かだったのか、若干ホンワリとした雰囲気が漂っています。それが男前に見えにくくしているのかも知れません。そんな様子を父は
「あいつにはフラがある」
 そんな事を言っています。実際「フラ」があると無いとでは噺家として随分違うのだそうです。
 でも鮎太郎の欠点は稽古の時に父の前では上がってしまって上手く話せ無い事です。本当はちゃんと出来るのに、尊敬して憧れの父の前では駄目なのです。だからわたしは彼の噺を極力聴くようにしています。少しでも彼が自信を付けてくれる事を願うからです。
 最初は家に父の弟子が来ると言うので興味津々でした。第一印象は近所の「お兄さん」と言う感じでした。わたしには兄弟が居なかったので、すぐに親しくなりました。でも彼はわたしが父の娘なので年下なのに敬語で接するのが妙に面白くて生意気な口を利いていたと思います。
 そんな気持ちが変わって来た事に気がついたのは、中学三年の時でした。進学先を考えていた時に都立に行くか、私立の女子校に行くか迷っていました。そんな時に相談に乗って貰ったのです。最初に彼の事を意識したのはその時だったかも知れません。
 今、やっとお互いの気持が通じてると判って心が弾んでいます。彼には上手くなって欲しいと思っています。それだけの才能のある人だと思っています。
 どうか、皆さんも街角で彼の名前を見かけたらご贔屓をお願い親します。


 寄席の書き入れ時は年間で決まっています。まず正月。これは何処の寄席でも満員になります。その次が春休みの時期ですね。その次がゴールデンウイークでこのあたりも満員になります。それから夏休み。秋のシルバーウイークも寄席は満員になります。
今年のゴールデンウイークは父が浅草の昼席のトリになりました。何時もは池袋に出ていたのですが、浅草の席亭が是非にと言うので変わったのです。
 寄席はトリの師匠の一門や縁のある噺家が多く出ます。彼、鮎太郎も二つ目ながら出る事になりました。それから真打が近いと言う事で蔵之介師のところの明日香さんも一緒です。楽しい芝居になるとわたしは思っていました。でも、まさか、あんな事が起きるとはこの時は思ってもいませんでした。

師匠と弟子と 10

  梨奈ちゃんはゴミ袋を俺に出させ、それを広げさせると。彼女の目から見て要らなそうなものを次から次へと放り込み始めた。この時俺は女将さんが、かって言っていた言葉を思い出した。
『ねえ、あゆ。あの子が掃除をするって言う時は気をつけなよ。あの子の掃除は単に要らないと思う物を捨てるだけだからね。一見綺麗になったように見えるけど、大事な物まで捨てられてしまうからね』
 そうだった。だから女将さんは、極力梨奈ちゃんには自分の部屋以外は掃除させなかった。尤も師匠の家の八割は弟子の俺が掃除をしていたし、小ふなが入って来てからは二人で掃除をしていた。ちなみに前座時代の俺の名前は『小あゆ』だ。今とあまり変わりが無い。
 俺の部屋は六畳の洋間で、簡素な折りたたみ出来るパイプベッドが置いてある。ベッドの上には母の方針で「無圧ふとん」が敷いてある。
 その反対側には学校に行っていた頃から使っている机。ここにはノートPCなども置いてある。その隣には本棚が置いてあり、ここには落語全集の他に色々な師匠の落語のCD等も置いてある。本棚の上には何年も使っているラジカセがある。
 本棚の先はガラス窓でその下は俺の衣類がしまってあるタンスだ。このタンスは仕事で使う着物や襦袢、帯や足袋等がしまってある。普段着る洋服はベッドの脇に部屋の入口に近い場所に洋服ダンスがあり、そこにしまっている。
 梨奈ちゃんは一番片付いていない机の上を見て
「凄い! よくこんなに積み重ねたね」
 そう言って、机の上に置いてあった色々な落語会のチラシを片っ端からゴミ袋に捨て始めた。
「ああ、それ」
「なあに? これみんな要るの? 要らないでしょう」
 ここで「資料だから要る」と言えば良かったのだが
「ああ、そうだね」
 それしか言えなかった。でも彼女は
「信ちゃん。いや鮎太郎。駄目だよ!こんな人の落語会のチラシなんか貰って来ては」
 そう強く言い放った。
「え、どうして?」
「だって、こんなもの溜め込んで見て、鮎太郎の落語が上手くなるはず無いじゃない。人の事を知るのは大事だけど、それは生の高座を見なくちゃ駄目だと思うの。机の上で他人の落語会のチラシを眺めているだけじゃ上手くならないよ」
 そう言って俺を鼓舞する梨奈ちゃんに俺は女将さんと師匠の影を見た気がした。
「ねえ、バケツと雑巾。それに掃除機を貸して頂戴。ちゃんと掃除するから」
 俺は言われた通りに用意して部屋に持って行った
「ありがとう。掃除が終わったら呼ぶから、それまでは下にでも行っていて」
「任せきりで大丈夫?」
「大丈夫。お母さんが言ったのでしょう。わたしが何でも捨てちゃうって」
「知っていたんだ」
「年中言われているからね。もう大学生よ。そんな事はしないし、気になるなら、わたしが帰ってから袋を点検すれば良いわよ」
 確かに梨奈ちゃんの言う事は最もだった。
「じゃあ頼むね」
 そう言い残して下に降りると母が買い物から帰って来ていた。
「あ、帰っていたんだ」
「まあね。本当に可愛くて綺麗な子ね。あんたには勿体無いわね」
 母はそんな事を言いながらも息子の将来の嫁さん候補を見て満更でも無いみたいだ。
「なんか嬉しそうだね」
 母の表情を読み取って、そんな事を言ってみると
「梨奈ちゃん。本当にあんたの事が好きなのね」
「何でそんな事が判るの?」
 そうなのだ。母は梨奈ちゃんとはそんなに話をしていないはずだった。そんな所まで判るのが変だと思った。
「だって、わたしが怒った時にあの子迷わずに、自分が先に好きになった。と言ったのよ。それがどんな意味だか判る?」
「……」
「あの時、わたしの態度によっては大変な事になるかも知れなかったのに、迷わずに言い切ったと言う事は、これ以上あなたを不利な状況にさせたくないと言う想いだったと言う事よ」
「そんな想いが……」
「本音は咄嗟の時に出るものなのよ」
 母は買い物の袋から二つの紅茶の缶を取り出した。
「オレンジ・ペコーとダージリンよ。梨奈ちゃんはどっちが好きかしらね」
 そう言って目を輝かせた。俺はインスタントコーヒーをマグカップに入れるとお湯を注いだ。スプーンでかき混ぜ口を付けると母が
「それにしてもあなた、片付けてもいない自分の部屋に良く恋人を入れたわね」
 俺は母の言ってる事が良く理解出来なかった。確かに多少は散らかっていたが、部屋に入れたく無いと言う程ではない。
「あの位なら」
「そんな事じゃないの。判らない? 思ったよりデリカシーの無い子ねえ」
 益々意味が判らなかった。母は続けて
「考え方によっては自分の裸を見られるより恥ずかしい事じゃない。わたしなら最初では入れないな。逆に部屋に入れる時は本当に相手に自分の裸を晒しても良いと思った時かな。昔だけどお父さんとは、そうしたけどね。つまりあなた、あの子の前でパンツ脱いじゃった様なものなのよ」
 極論だと思った。確かに、自分の部屋に恋人を入れる時……二人だけの空間に浸れる時間を共有すると言う事だとは判ってはいた。
「でも、俺と梨奈ちゃんは付き合いは長いんだ。知り合って間もない間柄では無い」
「そうね。でも恋人としては浅いでしょう? それとも?」
 母は俺の表情を読んで
「そこまでは未だみたいね」
 そう言って僅かに口角を上げた。これが俺の母親なのだ。その時二階から
「お掃除終わったよ~」
 梨奈ちゃんの声が聴こえた。
「今行く!」
 梨奈ちゃんに返事をして母に
「じゃあ上に行くから」
 そう言うと母は
「ご飯出来たら呼ぶからね」
 そんな事を言って手を振っていた。

 二階に上がり自分の部屋のドアを開けると、窓からの春の風がカーテンを揺らしていて、タンスの上に置いたラジカセ。その隣にあった写真立てが俺の置いた向きとは若干違っていた。写真には俺と梨奈ちゃんが写っている。青森から帰った時に梨奈ちゃんの部屋に入った時にスマホで写したものだった。
 母の考えなら、あの時梨奈ちゃんはどう思っていたのだろうか? そこまで考えて、納得した。あの時梨奈ちゃんは平気な顔をしていたが、俺にフレンチ・キスをした時には、やはり、かなりの覚悟だったのだと考えが及んだ。
「綺麗になったね。見違える様だよ」
「あの時の写真印刷したんだ」
 梨奈ちゃんは俺のベッドの上に座っている。部屋の隅にはバケツと雑巾。それに掃除機とゴミの袋が置かれてあった。
「ちゃんと掃除したんだよ」
「うん。判る」
 梨奈ちゃんが自分の座っている場所の隣を軽く叩く。横に座れと促しているのだ。梨奈ちゃんは姉さんかぶりの手拭いを取ると肩まで伸びた髪が風にふわっと揺れた。
 隣に座り、梨奈ちゃんの肩を軽く抱き寄せると梨奈ちゃんは俺の方に体を向け目を瞑った。その唇に自分の唇を重ねる。お互いの舌が絡み合い、お互いの気持ちが交差して行くのが感じられる。そのまま少し力を入れて梨奈ちゃんの華奢な体を抱きしめた。
 開け放たれた窓から、何処かの薔薇の香りが風に乗って部屋に入って来た。その風は二人を包むと、また外に出て行った。
 梨奈ちゃんも俺の背中に手を回し、お互い抱き合う形になった。唇を離すと梨奈ちゃんの口から言葉が漏れた
「暫くこのままで……」
 俺は返事の代わりに静かに黙って頷き。もう一度唇を重ねたのだった。
 

師匠と弟子と 9

 妹は梨奈ちゃんに挨拶をすると出て行った。その時家の奥から母の声がした。
「信春、帰ったの? 誰か一緒?」
 その声と一緒に母が家の奥の方からエプロンで手を拭きながら出て来た。その姿を見て梨奈ちゃんは
「わたし、信春さんとお付き合いをさせて頂いている和久井梨奈と申します」
 梨奈ちゃんがそう言って頭を下げると、母は
「あら、こんな格好でごめんなさいね。もう、この子何も言わないからこんな格好で……和久井さん?」
「はい」
 頭をを上げた梨奈ちゃんの顔を母はしっかりと見ると
「もしかして、遊蔵師匠の娘さんの梨奈ちゃん?」
「はい、そうです。よろしくお願いいたします」
 梨奈ちゃんがそう言ってもう一度頭を下げた時だった。
「信春! お前なんてことを!」
 その言葉が口から出るや、母の平手が俺の顔に飛んだ。その凄まじい勢いで俺は玄関の外まで飛ばされてしまった。それほど強烈だった。
「お前、師匠の娘さんに手を出したのかい! それがどんな事だか判っているのかい? 御免なさいね梨奈ちゃん。ウチのバカが貴方を騙したのでしょう?」
 母は、俺が梨奈ちゃんを口車に乗せて騙したのだと思っているらしい。この平手はその怒りの現れと言う訳だ。
「お母さん違うんです。むしろ、わたしが最初に信春さんを好きになったんです」
 梨奈ちゃんの言葉に俺は立ち上がり
「違うよ! 俺が先に好きになったんだ」
「違うんです。わたしなんです」
 お互いに自分が先だと言い合っていたら
「そう。判ったわ。お互いが同時に好きになったのね。ウチのバカが騙した訳では無いのね?」
「はいそうなんです」
 答えたのが同時で声が揃った。
「騒がして御免なさいね。わたしは信春の母の恵子です。よろしくお願いね。さあ、上がって下さいな」
 母はそう言ってスリッパを出した。
「ありがとうございます!」
 梨奈ちゃんはそのまま上がると、クルッと体を回して自分の脱いだ靴を揃えた。最初から後ろ向きで上がるなんて不作法な事はしない。
「もうこの子は芸人になるなんて言って親戚一同も驚いたのよ」
 母はそんな事を言いながら、俺と梨奈ちゃんを応接間に通した。応接間と言ってもサイドボードやソファーが置いてあるだけの部屋なのだが、我が家ではこの部屋を応接間と呼ぶのだ。
 俺と梨奈ちゃんを座らせると母はお茶を持って来る為に台所に向った。梨奈ちゃんは脚を揃えてきちんと座っている。脚を少し斜めに揃えている。ミニスカートから出た長い脚が眩しい。手は膝の上に置いている。
「緊張してる?」
「緊張と言うより驚いた……いきなり信ちゃんが飛んだから驚いた」
「まあ、かなり早とちりするタイプだからね。でもさっきの言葉嬉しかった」
「わたしも同じ……イザと言う時にちゃんと守ってくれる人だと判ったしね」
 そこまで言って雰囲気が盛り上がった時だった。母が我が家で唯一の銀盆にティーポットと紅茶のカップを二脚乗せて持って来た。見ればかなり大事なお客さん用のウエッジウッドのワイルドストロベリーだ。確か母が嫁入りの時にセットで持って来たと聞いた事がある。お目にかかったのは数年ぶりだった。未だ大事に取っておいたんだと思った。
「何にも無いのだけど」
 母はそう言って梨奈ちゃんと俺の前にカップを置いてその向こうにパステルのなめらかプリンと銀の匙を置いた。俺の記憶が正しければ、このパステルのプリンは昨日俺が仕事先で戴いて来たもので、俺は食べずに居て確か箱に入っていたのが五個だったので辻褄はあった。食べなかったのは虫の知らせだろうか……。
「ありがとうございます! どうぞお構いなし……」
 梨奈ちゃんはそう言って恐縮しているが母は
「何も無くて御免なさいね。せめて夕飯は食べて行って下さいね」
「ありがとうございます! 本当に急に押しかけて御免なさい」
「いえいえ良いの。正直言うと、とても嬉しいわ」
 母はそう言うと夕飯の買い物に出かけて行った。
 母が出て行ってしまうとこの家には俺と梨奈ちゃんの二人になった。
「素敵なカップね。なんだか飲むのが勿体無い感じ」
「結構古いんだよ。なんせ母の嫁入り道具だからね」
「へえ~、それって素敵じゃない。妹さんが受け継ぐのかな?」
「いや、妹は自分好みの新しいのを買い揃えると思うよ。それとも、そんな所には興味が無くて実用的なのを買ってしまうかも知れない」
 恐らく後者だろうと想像はついた。
「紅茶も美味しい! お母さん紅茶が好きなのね。わたしも好きだから良かった。今度は良いお茶を買って来るね」
 梨奈ちゃんは独り言のような、俺に言っているのか判らない呟きを言っていた。こんな時俺は正直、なんと話して良いか判らない。噺家としてどうなのかとは思うが……。
「信ちゃん……後で部屋が見たいな……駄目?」
「え、駄目じゃないけど、散らかっているから、片付けないと……」
「わたしが片付けて掃除してあげる! いいでしょう?」
 正直困った。頭の中で今朝の部屋の様子を思い出してみる。ベッドは一応整えてある。机の上は……かなり散らかっているが見られて困るような物は無いはずだ。普段から妹が勝手に部屋に入って来るので、そのたぐいの物は隠してある。その心配は無いのだが、何か不安な気持ちになってしまう。部屋が汚いので嫌われてしまうなんて事は無いと信じたいのだが、不安は消えない。
「パステルのプリン。好きなんだ。昔はお父さんが楽屋見舞いで貰って楽屋中に配って余ったのを持って来てくれたんだ。だからこれを食べると何だかお父さんの事思い出すの」
 そう言えば、俺が見習いの頃もたまに、そんな事があった。前座の時は酒もタバコも禁止だ。俺は生憎と言うか好都合で酒は弱いので積極的に呑む習慣は無い。この前のような打ち上げ等では呑むが量はそれほどでもない。タバコは初めから吸わないので困らなかった。逆に好きなのが甘いもので、師匠の家から帰る時にコンビニに寄って何かしら買って帰ったものだった。
「俺のも食べる?」
「え、信ちゃんは?」
「いいよ。梨奈ちゃんが美味しそうに食べる姿を見ている方が余程好きだな」
 本音だった。好きな人が美味しそうに何かを食べている姿を見ているだけで幸福感が湧いて来るのを感じるのだった。

「わあ~思ったより片付けているのね。もっと散らかっていると思ってた」
 紅茶を飲んでプリンを食べて片付ける。梨奈ちゃんが片付けてシンクで洗って食器籠に伏せておいた。その後二階の俺の部屋に行き扉を開けた時の第一声だ。
「ではお掃除させて戴こうかな。普段着で良かったかも」
 梨奈ちゃんはそう言うとカーデガンを脱いで、ブラウスの腕をまくると
「ねえタオルがあれば二枚くれない。一枚は手拭いでも良いわ」
 俺は新しいタオルと俺が二つ目になった時に作った披露の手拭いを渡した。それを見て梨奈ちゃんは
「ねえ、この披露目の手拭い。未だある?」
「あるよ。作りすぎたから」
「じゃあ、わたしにも一枚頂戴。鞄にいつも入れておくから」
「お安い御用だよ」
 俺は熨斗紙に包まれた真新しい手拭いを渡した。梨奈ちゃんはそれを大事そうに鞄に仕舞うと、もう一枚の手拭いで姉さんかぶりをした。
「さて掃除をしましょうか!」
 梨奈ちゃんは鼻歌を歌いながら掃除を始めるのだった。正直梨奈ちゃんの姉さんかぶりはこれも眼福ものだった。


 
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