誰でも人生に於いて「通過儀礼」というものがあるのなら、僕にとって、あの期間がそうだったのかも知れなかった。
二週間前に高校を卒業した僕は、都内のある大学のキャンパスで呆然と立ち尽くしていた。受験した学部の合格発表の日だったが、目の前の掲示板には僕の受験番号は無かった。
予備校や高校の模試でAランクの言わばすべり止めの大学だった。数回模試を行って一度もBに落ちた事の無い安全パイのはずだった。
普通ならここで途方にくれるとか、自分の将来を悲観するとか選択肢があるのだが、その時の僕にはそんな選択肢は無かった。
何故なら次の目的の学校の願書の締め切りまで一時間しか無かったからだ。だから掲示板の前で喜んでいる男女をかき分けて、キャンパスを出てタクシーを探す。振り返ると掲示板を見て悲観してるのは自分しか居なかった。他の受験生は皆喜んでいるか、当たり前の顔をしていた。そりゃそうだよな。僕だってこんな大学。まさか落ちるなんて少しも思って居なかった。でも現実だった。信じられない事だがこれは現実なのだ。
タクシーは直ぐに捕まって、乗り込み次の学校を目指す。さすがに締め切り前に到着して願書を出した。受験票を貰って学校の表に出て来た。そしてもう一度振り返り学校の名前を確認する。そこには「丸々栄養専門学校」と書かれていた。そう僕は大学に行くことを諦めて調理師学校に入る事に決めたのだった。
専門学校といえども試験はあるらしい。受験の当日少し早めに学校に向かう。受験票を見せて建物の中に入る。そして「受験会場」と書かれた一室に入る。そこは講堂になっていて、机が並んでいて、その両端に受験番号と思われる数字の書いた紙が貼られていた。僕の受験番号と同じ数字の書かれた席に座る。隣を見ると現役の女子高生とおぼしき女子が座っていた。僕は実は一浪で、昨年は高望みの学部ばかり受験して落ちていたのだった。だから今年は確実に合格する所ばかりを選択したのだが、まさかこんな事になるとは思ってもいなかった。
講堂を見渡してみると、様々な年齢の人が居る事に気がついた。そこで黒板を確認すると、この専門学校には昼間の部と夜間の部があるそうだ。今日は最終の試験の日なので昼の部と夜の部の合同の受験だと説明が書かれてあった。それで納得する。
時間になり試験官が入って来て、試験の?明をした。何でも開始から二十分を過ぎたら、試験用紙を裏替えして退出しても良いと言う。入学試験でそんなのは珍しかったので、やはり大学とは違うのだと思った。その後に面接を行い、結果を発表するという。
時間になり、用紙が配られ試験が開始された。問題を読んで見ると内容は中学の理科の時間に学ぶ事ばかりだった。これなら間違い様がない。二十分で退席しても良いと言う意味が判った。これなら全問解くのに五分もあれば充分だと思った。
開始から二十分丁度で答案用紙を裏返して講堂の外に出た。僕に続いて続々と講堂から受験生が出て来た。
喫煙所でたばこを吸っていると、確か二列ほど向こう側に居た女性から声を掛けられた。特別目立つ人だったので覚えていたのだった。
「あなた、昼の部の方?」
「ええ、そうですけど」
「私は夜間部なの。一緒になれないのね。少し残念」
僕は女性から、そんな事を言われた事が無かったので、何と返事をして良いか判らなかった。
「面接まで時間があるから、お茶でもしません?」
「そうですね。行きましょうか?」
そんな会話をして、僕と女性は学校の隣のビルにある喫茶店に入った。面接までは一時間あった。その時間までに先程の講堂の自分の席に帰れば良い。
喫茶店では僕も彼女もブレンドを頼んだ。女性は二十五~三十歳ぐらいだろうか? そんな事を考えていたら
「私は秋山節子と言います。新宿の法律事務所に勤めているのよ」
いきなり自己紹介をされた。僕は面食らってしまったが、何とか
「風間翔太と言います。一浪して大学受験に失敗してここを受けました」
それだけが口をついて出た。
「受験失敗しちゃったんだ。高校はどこなの?」
確かに卒業した高校を言わないと話題が出難いかも知れなかった。
「望洋台付属です」
「あら、結構レベルの高い所でしょう?」
節子さんはコーヒーカップにミルクを入れてかき回しながら僕に尋ねる。
「まあ、世間的には中の上ぐらいですかね。でも生徒が皆大学に進学出来る訳じゃ無いんです。成績と入学の為の試験があって、一定以上のランクにならないと進学出来ないんです。僕は僅かの差で落ちてしまって、一般入試に回ったんです。そこでも落ちて、一浪して今年は絶対に入れるはずのレベルの大学ばかり受けたのですが何故か皆落ちてしまって、そこで線路を挟んで反対側の予備校から毎日眺めていたここに入る事にしたのです。でも、まさかここでも簡単とは言え試験があるなんて」
普段の僕からは信じられない事だった。初対面の人、それも女性相手にこんなにペラペラ言葉が口から出るなんて初めてだった。
「そうなんだ。それはきっと神様があなたを大学に進学させたく無かっただと思うわ。あなたは調理師になるべき人だったのよ。私は何かそんな気がする」
節子さんはそんな事を言ってコーヒーを美味しそうに飲んだ。僕はブラック派なのでそのままカップを口にした。苦くも魅惑的な香りが鼻を突いた。
面白い考えをする人だと思った。確かに僕にとって、どこの試験の答案も完璧に近い形だったから落ちた理由は正直、判らなかった。
「そうなんですかね。大学に行っても、調理師学校には入ろうと考えていました。職業としての調理師に魅力を感じていた事は確かですけど。秋山さんはどうして調理師学校に入ろうと考えたのですか?」
夜間部に入ろう等と言う人は、きっと自分で店を持ちたい等の理由だと決めつけていた。だが節子さんは
「私には弟が居るのだけど、中学にも満足に行かなかったの。校長先生の配慮で卒業はさせて貰えたけど、正直読み書きも満足に出来ないの。今は飲食店に勤めているのだけど、将来は自分でお店を持ちたいと考えていて、それなら私が資格を取って名前を貸してあげる。って言う事になったの」
飲食店を持つのは通常では調理師や栄養士の資格が居る。だが厚生省は資格を取れない人の為に「食品衛生責任者」と言う資格を拵えた。これは保健所などの開く講習会に参加すれば資格を貰える。だが通常これも「平日に開催される事が多い。平日は仕事で休めないと言う人も居るのも事実なのだ。だからこのような名前貸しと言う行為もあるのだ。僕はそんな事情は知っていた。何故なら僕の家の商売が代々続いた料理屋だからだ。だから調理師の資格を取るのは当たり前なのだが、僕の両親は家業を継がせたくなかった。労多くて益少ない商売だからという理由だった。
節子さんは正直、美人だと思った。でも、その頃の僕にしてみれば六~十歳近くも歳上の女性は恋愛の守備範囲から外れていると思っていた。
一時間後に戻って面接の準備をしていると受験番号順に名前を呼ばれ講堂の入り口とは廊下を隔てて反対側にある面接室に入る算段だった。
次々と名前を呼ばれ、やがて僕の番になった
「風間翔太さん。どうぞ面接室にお入り下さい」
係の人に呼ばれて僕は面接の部屋に向かった。ドアを開けると、部屋の中は窓の側に机が置かれ、その前に椅子が置かれていた。
「失礼致します」
「どうぞお入り下さい」
その声で部屋に入り一礼する
「どうぞおすわり下さい」
椅子に座って前を見ると、学校のパンフレットに副校長と載っている人だった。
「風間翔太さんですね」
「はい、そうです」
「実は問題がありまして」
「どうような問題でしょうか?」
「実はこの募集は三次募集なのです。例年では三次まで募集しないと定員にならなかったのですが、今年は応募者が多く、昼間部は定員が一杯になってしまったのです。通常ならあなたを落とす所なのですが、成績を見ると、あなたは素晴らしいです。落とすには余りにも惜しいので、空きがある夜間部なら如何でしょうかと思いまして。どうでしょうか?」
何だ、僕は本当に受験の運が無いのだろうか。確かに調理師の仕事は学校を卒業したからと言って出来るものではない。実際の現場で修行しないと使い者にならない事は知っていた。夜なら昼は家を手伝っていれば良いと思った。
「そうですか、僕は夜間部でも構いません」
そう返事をした。それで面接は終わりだった。後から聞いた話では他の人はもっと色々と訊かれたらしい。
面接後小一時間で結果が発表された。僕の名前と受験番号は夜間部に載っていた。それでも落ちた人もいる。むしろ、その事に驚いた。
夜間部に僕の名前を載っている事を確認した節子さんは、僕の所に近寄って来て
「良かった! 翔太くんが夜間部で。これからよろしくお願いね」
そう言って右手を出した。僕も右手を出して握手したが、その手は白く、細くて少し冷たくて、とても柔らかかった。
「こちらこそよろしくお願いします!」
夜に学校に通う……そこで行われる事は僕にとって全てが未知の世界だった。期待と不安が心に渦巻いていた。
二週間前に高校を卒業した僕は、都内のある大学のキャンパスで呆然と立ち尽くしていた。受験した学部の合格発表の日だったが、目の前の掲示板には僕の受験番号は無かった。
予備校や高校の模試でAランクの言わばすべり止めの大学だった。数回模試を行って一度もBに落ちた事の無い安全パイのはずだった。
普通ならここで途方にくれるとか、自分の将来を悲観するとか選択肢があるのだが、その時の僕にはそんな選択肢は無かった。
何故なら次の目的の学校の願書の締め切りまで一時間しか無かったからだ。だから掲示板の前で喜んでいる男女をかき分けて、キャンパスを出てタクシーを探す。振り返ると掲示板を見て悲観してるのは自分しか居なかった。他の受験生は皆喜んでいるか、当たり前の顔をしていた。そりゃそうだよな。僕だってこんな大学。まさか落ちるなんて少しも思って居なかった。でも現実だった。信じられない事だがこれは現実なのだ。
タクシーは直ぐに捕まって、乗り込み次の学校を目指す。さすがに締め切り前に到着して願書を出した。受験票を貰って学校の表に出て来た。そしてもう一度振り返り学校の名前を確認する。そこには「丸々栄養専門学校」と書かれていた。そう僕は大学に行くことを諦めて調理師学校に入る事に決めたのだった。
専門学校といえども試験はあるらしい。受験の当日少し早めに学校に向かう。受験票を見せて建物の中に入る。そして「受験会場」と書かれた一室に入る。そこは講堂になっていて、机が並んでいて、その両端に受験番号と思われる数字の書いた紙が貼られていた。僕の受験番号と同じ数字の書かれた席に座る。隣を見ると現役の女子高生とおぼしき女子が座っていた。僕は実は一浪で、昨年は高望みの学部ばかり受験して落ちていたのだった。だから今年は確実に合格する所ばかりを選択したのだが、まさかこんな事になるとは思ってもいなかった。
講堂を見渡してみると、様々な年齢の人が居る事に気がついた。そこで黒板を確認すると、この専門学校には昼間の部と夜間の部があるそうだ。今日は最終の試験の日なので昼の部と夜の部の合同の受験だと説明が書かれてあった。それで納得する。
時間になり試験官が入って来て、試験の?明をした。何でも開始から二十分を過ぎたら、試験用紙を裏替えして退出しても良いと言う。入学試験でそんなのは珍しかったので、やはり大学とは違うのだと思った。その後に面接を行い、結果を発表するという。
時間になり、用紙が配られ試験が開始された。問題を読んで見ると内容は中学の理科の時間に学ぶ事ばかりだった。これなら間違い様がない。二十分で退席しても良いと言う意味が判った。これなら全問解くのに五分もあれば充分だと思った。
開始から二十分丁度で答案用紙を裏返して講堂の外に出た。僕に続いて続々と講堂から受験生が出て来た。
喫煙所でたばこを吸っていると、確か二列ほど向こう側に居た女性から声を掛けられた。特別目立つ人だったので覚えていたのだった。
「あなた、昼の部の方?」
「ええ、そうですけど」
「私は夜間部なの。一緒になれないのね。少し残念」
僕は女性から、そんな事を言われた事が無かったので、何と返事をして良いか判らなかった。
「面接まで時間があるから、お茶でもしません?」
「そうですね。行きましょうか?」
そんな会話をして、僕と女性は学校の隣のビルにある喫茶店に入った。面接までは一時間あった。その時間までに先程の講堂の自分の席に帰れば良い。
喫茶店では僕も彼女もブレンドを頼んだ。女性は二十五~三十歳ぐらいだろうか? そんな事を考えていたら
「私は秋山節子と言います。新宿の法律事務所に勤めているのよ」
いきなり自己紹介をされた。僕は面食らってしまったが、何とか
「風間翔太と言います。一浪して大学受験に失敗してここを受けました」
それだけが口をついて出た。
「受験失敗しちゃったんだ。高校はどこなの?」
確かに卒業した高校を言わないと話題が出難いかも知れなかった。
「望洋台付属です」
「あら、結構レベルの高い所でしょう?」
節子さんはコーヒーカップにミルクを入れてかき回しながら僕に尋ねる。
「まあ、世間的には中の上ぐらいですかね。でも生徒が皆大学に進学出来る訳じゃ無いんです。成績と入学の為の試験があって、一定以上のランクにならないと進学出来ないんです。僕は僅かの差で落ちてしまって、一般入試に回ったんです。そこでも落ちて、一浪して今年は絶対に入れるはずのレベルの大学ばかり受けたのですが何故か皆落ちてしまって、そこで線路を挟んで反対側の予備校から毎日眺めていたここに入る事にしたのです。でも、まさかここでも簡単とは言え試験があるなんて」
普段の僕からは信じられない事だった。初対面の人、それも女性相手にこんなにペラペラ言葉が口から出るなんて初めてだった。
「そうなんだ。それはきっと神様があなたを大学に進学させたく無かっただと思うわ。あなたは調理師になるべき人だったのよ。私は何かそんな気がする」
節子さんはそんな事を言ってコーヒーを美味しそうに飲んだ。僕はブラック派なのでそのままカップを口にした。苦くも魅惑的な香りが鼻を突いた。
面白い考えをする人だと思った。確かに僕にとって、どこの試験の答案も完璧に近い形だったから落ちた理由は正直、判らなかった。
「そうなんですかね。大学に行っても、調理師学校には入ろうと考えていました。職業としての調理師に魅力を感じていた事は確かですけど。秋山さんはどうして調理師学校に入ろうと考えたのですか?」
夜間部に入ろう等と言う人は、きっと自分で店を持ちたい等の理由だと決めつけていた。だが節子さんは
「私には弟が居るのだけど、中学にも満足に行かなかったの。校長先生の配慮で卒業はさせて貰えたけど、正直読み書きも満足に出来ないの。今は飲食店に勤めているのだけど、将来は自分でお店を持ちたいと考えていて、それなら私が資格を取って名前を貸してあげる。って言う事になったの」
飲食店を持つのは通常では調理師や栄養士の資格が居る。だが厚生省は資格を取れない人の為に「食品衛生責任者」と言う資格を拵えた。これは保健所などの開く講習会に参加すれば資格を貰える。だが通常これも「平日に開催される事が多い。平日は仕事で休めないと言う人も居るのも事実なのだ。だからこのような名前貸しと言う行為もあるのだ。僕はそんな事情は知っていた。何故なら僕の家の商売が代々続いた料理屋だからだ。だから調理師の資格を取るのは当たり前なのだが、僕の両親は家業を継がせたくなかった。労多くて益少ない商売だからという理由だった。
節子さんは正直、美人だと思った。でも、その頃の僕にしてみれば六~十歳近くも歳上の女性は恋愛の守備範囲から外れていると思っていた。
一時間後に戻って面接の準備をしていると受験番号順に名前を呼ばれ講堂の入り口とは廊下を隔てて反対側にある面接室に入る算段だった。
次々と名前を呼ばれ、やがて僕の番になった
「風間翔太さん。どうぞ面接室にお入り下さい」
係の人に呼ばれて僕は面接の部屋に向かった。ドアを開けると、部屋の中は窓の側に机が置かれ、その前に椅子が置かれていた。
「失礼致します」
「どうぞお入り下さい」
その声で部屋に入り一礼する
「どうぞおすわり下さい」
椅子に座って前を見ると、学校のパンフレットに副校長と載っている人だった。
「風間翔太さんですね」
「はい、そうです」
「実は問題がありまして」
「どうような問題でしょうか?」
「実はこの募集は三次募集なのです。例年では三次まで募集しないと定員にならなかったのですが、今年は応募者が多く、昼間部は定員が一杯になってしまったのです。通常ならあなたを落とす所なのですが、成績を見ると、あなたは素晴らしいです。落とすには余りにも惜しいので、空きがある夜間部なら如何でしょうかと思いまして。どうでしょうか?」
何だ、僕は本当に受験の運が無いのだろうか。確かに調理師の仕事は学校を卒業したからと言って出来るものではない。実際の現場で修行しないと使い者にならない事は知っていた。夜なら昼は家を手伝っていれば良いと思った。
「そうですか、僕は夜間部でも構いません」
そう返事をした。それで面接は終わりだった。後から聞いた話では他の人はもっと色々と訊かれたらしい。
面接後小一時間で結果が発表された。僕の名前と受験番号は夜間部に載っていた。それでも落ちた人もいる。むしろ、その事に驚いた。
夜間部に僕の名前を載っている事を確認した節子さんは、僕の所に近寄って来て
「良かった! 翔太くんが夜間部で。これからよろしくお願いね」
そう言って右手を出した。僕も右手を出して握手したが、その手は白く、細くて少し冷たくて、とても柔らかかった。
「こちらこそよろしくお願いします!」
夜に学校に通う……そこで行われる事は僕にとって全てが未知の世界だった。期待と不安が心に渦巻いていた。