ビブリア古書堂の事件手帖二次創作

「二人の距離の概算」と二人の関係  最終回

第6話 「二人の距離の概算」と二人の関係

 ビブリア古書堂から自宅までの道のりの半分を歩いた頃に、俺の中で先程の黒い思いが蘇って来た。二回目の田中からの手紙だが、あれは本当に田中からだったのだろうか? 
 確か文面は「篠川栞子……早く連絡しろ、さもないと大変なことになる」と言うものだった。田中が書いたにしては文面が少しおかしいと感じた。
「大変なことになる」と言う書き方がそぐわない感じがしたのだ。
 勿論、理論的なものは全く無いのだが、それ故に気持ちが疑惑色で染まるのだ。
 
 不意に携帯が鳴り出した。着信を見ると栞子さんだった。
『もしもし、どうかしましたか?』
 考えていた内容が内容だから不安になる。
『母が来ていたのです……わたしの帰りを待っていました』
 栞子さんの声が震える様な感じだった。
『すぐ帰ります』
 短く言うと通話を切り、今来た道を今度は走り出した。もうアルコールは抜け掛かっていて、少々の走りなら大丈夫そうだった。
 しかし、こんな遅くまで栞子さんの帰りを待っていたなんて、何か特別な事があったのだろうか……走る頭に考えが追いつかない。気持ちが焦るだけだった……

 当然の事ながら先ほどよりは早く店に到着した。栞子さんは店の前に出て不安げな表情で俺の来るのを待っていた。
「すいません。折角帰っていた処だったのに……」
 栞子さんはそう言うと、俺にしがみついて来た。柔らかな感触を感じながら俺も栞子さんを抱きしめる手に力が入った。
「店の中に入りましょう」
 俺の言葉に栞子さんは我に返った感じで、そのままの体勢で中に入った。
 カウンターの中に座ると栞子さんは落ち着いたのか、ほっとした表情をしていた。
「母が来ていました。大輔くんも一緒で良いから一緒に行こうと誘われました。グズグズしてるとあいつが来るからって……」
 やはり、あの事を持ちだしたのかと思い、俺は自分の考えを栞子さんに言った。
「二回目の紙は、智恵子さんが挟んだのでは無いでしょうか? それこそ栞子さんを誘い出す為に……」
 あくまでも俺の推論でしか無いが、一旦心に湧いた黒い疑惑は収まらなかった。
「まさか……今度訊いてみます。まさかとは思いますが母ならやりかねません。それと……」
「それと……?」
「父と母の関係についてもわたしが知らない事を話して言ったのです。それがショックで……」
 俺はカウンターの中に入り、震える栞子さんを抱きしめた。
「大輔くん。思い切り抱いて下さい。わたしが何処にも行かないように……」

 母屋の方に栞子さんを連れて来て、居間に座らせる。床の間に向かって、何時も栞子さんが食事の時に座る場所だった。
「店に鍵を掛けてきますから、待っていてください」
 そう言い残して、店と勝手口に鍵を掛ける。「お待ちどう様」と言って居間に戻ると栞子さんの方から抱きついて来た。俺はその背中を優しくさすりながら
「もう大丈夫です、誰も入れませんから。それに居ても良いなら、朝までここに居ます」
 その言葉で安心したのか、表情が和らいだ。
 この前、門野澄夫の事件の時に智恵子さんと会った時は平常に近かったが、今日はかなり怯えている様な感じだ。父親との事がかなりショックだったのだろう。そう思い、なるべく栞子さんに刺激を与えない様にした。
「このまま……このまま一緒にいて下さい……」
 俺は、栞子さんの望み通り朝まで一緒にいた……

 翌朝、篠川文香が一緒にいる二人を見て、特別驚くでも無く
「おはよう五浦さん。お姉ちゃんも」
 そう言ったのが印象的だった。夏の朝日がやかに眩しかった。
 それからは通常通りに仕事をした。文香は夏休みには未だ日があるらしく、学校へと行った。
 残った店にはいつもの様に二人だけとなった。事務的な会話以外は殆んどしなかった。
 休憩時間には、栞子さんが貸してくれた「二人の距離の概算」を読んでいた。栞子さんは手が空くと覗きに来て、お茶などを入れてくれた。その顔が以前より優しくなっていた。
 俺は小説を読みながら、俺達の距離も縮まったのを感じたのだった。本を読んでいて目眩が起きそうになるタイミングで栞子さんが声を掛けてくれた。それはまるで俺の全てを理解してくれている様だった。

 篠川文香が夏休みなる前に「二人の距離の概算」を読み終わった。中々洒落たタイトルだと思った。色々な二人の話で、その関係を距離と言い表しているのが良く出来ていると思った。
「読了しました」
 栞子さんにそれだけを言うと彼女も判った様に
「じゃあ、今夜……」
 今ではその言葉に二通りの意味が出来た……

 居間に座って、栞子さんが入れてくれたコーヒーを飲みながら語り出す。
「読んでみて感じたのは、前作の『遠回りする雛』から二月近く経ったあたりの出来事だと言う事ですから、当然千反田さんと奉太郎の関係も非常にゆっくりですが進行して居るという事です。それがこの話の基本になります」
 俺がそう言うと栞子さんは優しげな顔をしながら
「そうですね。その事が理解出来ていないと、あそこまで頑なだった千反田さんの心を解して奉太郎に全てを任せると言う選択技は出ない訳ですからね」
 言いながら俺の顔を見て嬉しそうにする。それが何を意味するのかはもう俺には判っている。栞子さんは千反田さんに対する奉太郎の様に、自分と俺を見ているのだ。もう俺もそれぐらいは理解出来る。
「当 然、この話の登場人物の、大日向とその友達、奉太郎と千反田さん。それに案外気が付きませんが里志と奉太郎の関係も表されていますね。最後の里志の言葉 『学校以外の場所に手は伸ばせない』に対して奉太郎は『果たしてそうだろうか』と疑問を呈しています。ここに二人の物の考え方に対する距離があると思いま す」
 俺はまず、案外見落としがちな処から話に入って行った。
「大輔くんは、読解力が物凄く向上しましたね。元から頭の良い方ですから、読める様になれば早いですよね」
 栞子さんの喜びはちょっと大げさなくらいだった。

  「さて、次にですが、大日向と千反田さんの関係です。大日向は千反田さんを、底知れぬ鵺の様な先輩だと勘違いしていました。それは己の心に住むやましさ が、天衣無縫の千反田さんを屈折して見ていたのです。だから、最後に『さようなら』と言った時に自分も鵺になってしまっていた事に気が付かなかった。それ を奉太郎が救ってくれたのです。奉太郎は自分のした事を『大日向の誤解は解くことが出来たかもしれないが、それはこいつの抱える問題に千反田は無関係だと 証明したにすぎない』と語っていますが、それは奉太郎が己が行った事の影響力を軽視しているからです」
 
 ぬるくなる前にコーヒーを飲む。ほんのりとした甘さと強い苦味が、俺に更に話す活力を与えてくれる。
「そして、大日向と奉太郎の関係も、変わりました。部の平凡な先輩でしか無かった奉太郎は、彼女にとって恐らく忘れられない存在になったでしょう。次の話があれば読んでみたいですね」
 俺が珍しく軽口を言ったのがおかしかったのか、栞子さんは笑って
「千反田さんとの三角関係ですか?」
 自分でそう言いながら嬉しそうだった。

 後は特別に言う事も無いだろうと思っていたら、栞子さんが俺に質問をした
「奉太郎の誕生日に千反田さんと二人で台所での会話で、家に来た事を隠したのは何故だと思いますか?」
 その質問は正直想像していた。自分も読んで、そこに理由を考えたからだ。
「こ の時には奉太郎も千反田さんも「雛祭り」からあまり時間が経っていません。だからあの時の思いが未だ心に残っています。そして自分の為に一生懸命にしてく れた奉太郎が熱を出したら、放おって置けないのが彼女だと思います。誰にも言わなかった自分の想いを伝えた人なのですからね。その事と言うよりも、その心 を判られるのが避けたいと言うか恥ずかしかったのだと想います」
 俺の答えは以上だった。それを聞いた栞子さんは嬉しそうにして
「お見事でした。これで一応『古典部シリーズ』は終わりです。後でアニメを見ましょうね。二人だけで……」
 それがどう言う意味なのかは俺でも判った。結局『二人の距離の概算』は大幅に縮まったのだった。

 今後、きっと二人の前に色々な事が起きて来るだろう。田中が必ずやって来るし、智恵子さんだって未だ諦めた訳では無い。だけど、俺は栞子さんを必ず守るし、栞子さんも強くなった。人は愛する者を守る時には強くなるからだ……

 居間から外を眺めると、夜空に夏の月が昇っていた。俺と栞子さんは一緒にその天空の月を眺めたのだった。


 了

「遠まわりする雛」に込めた栞子さんの想い~

第5話 「遠まわりする雛」に込めた栞子さんの想い~

 栞子さんに見せられた紙を見て俺は怒りがこみ上げた。
「やはり警察に言いましょう」
 俺の提案に栞子さんは幾分か首を傾げながら
「通報しても結果はこの前と同じだと思います。それにわたしには今度はどうも違うような感じがするのです」
 一体何を言っているのか、こんな文をよこすのは、あいつしかいない……本人がやったので無ければ、誰かに頼んだに決まってる。それはどうなのだろうか?
 あくまでも本人が被害者と接触しなければ仮釈放は続けられるのだろうか?
 俺にはそこまでは分からなかった。

「遠まわりする雛」は順調に読み進んでいた。短編集なので、長い時間読む事が出来ない俺にとっては割合楽な本だった。
 でも、先日俺がこのシリーズを買おうと言った時の栞子さんの慌てぶりはなかった。本の話なのに、言葉が乱れてしまい、少しおかしかった。何故なのだろうか、気に入った本なら所有したいと思うのは人の常だろうと思うのだが……
 これを読み終わると後は「二人の距離の概算」というやや長い話しになる。今の所はそれで終わりで、短編があるらしいが、いずれこの様に一冊にまとまるのだろう。

 夏の太陽が熱く輝きだした頃に読了した。
 俺は栞子さんに読了したことを告げると、彼女は嬉しそうな表情で
「じゃあ、今夜感想を聞かせてください。たまには二人でどこかで食事でもしますか? 今日は文ちゃんも遅くなるので、外食するつもりだったのです」
 意外な栞子さんの積極的な誘いに驚くが
「いいですね。たまには外で食べましょうか。俺が奢りますよ」
 そう男気を出したら栞子さんは
「駄目です。わたしが誘って、わたしが聞きたがったのです。当然わたしが持ちます。それに……」
「それに?」
「……それにわたしが年上ですから……」
 何故だか分からないが栞子さんは耳まで真っ赤にした。

 結局、大船の駅の近くにある、古くからやっているレストランで食事をする事にした。
 ここは俺も何回か入った事があるし、栞子さんも、それは学生の頃は常連だったそうだ。それに値段もリーズナブルだった。
 俺は「本日のコース」というのを選ぶ。洋食屋さんなので、そう凄いものは出てこない。
 栞子さんは、カニクリームコロッケのセットを頼んだ。栞子さんが俺に付いているキッシュが欲しそうだったので、栞子さんのお皿に載せると、大層喜びして、お礼にコロッケの一つをナイフで半分に切りフォークで刺して俺の口元に運んでくれた。
 人前で少々恥ずかしかったが、思い切ってそれを口に入れた。栞子さんはニコニコしながら残りの半分を自分の口に入れた。

 食後のデザートを食べながら俺は感想を口にし出した。
「7 編ある話のうちで「やるべきことなら手短に」「大罪をを犯す」「正体見たり」の三編は既にアニメでも見ていましたから、それを追認した形となりました。で すから感想も言いにくいのですが、最初の事件がまさに里志が言っていた様になりましたね。「心あたりのある者は」は奉太郎の推理力の見事さが逆に証明され たと言う皮肉な結果となりました。でも推理とはこう考えるのか、という思いですね」
 俺はこの本の中でもあたりさわりの無い話しについては一気に話した。問題は次から始まる3編の物語である。次の3つは推理物としてはそう大した物では無い。問題なのは古典部4人の心模様が描かれていて、それを読み違うと大変な事になるからだ。

「そうですね。まさに大輔くんの言った通りだと思います。そこで切ったと言う事はその次からの話は違うと言う認識なのですね」
 さすが栞子さんだ。本の事なら他人の心の内まで読めてしまう……俺は智恵子さんを思い出した。そして恐ろしい事を思いついた……
 俺が何か別の事を考えているのが分かったのだろう、気が付くと栞子さんの顔が目前にあった。
「どうしましたか?」
 慌てて次を話し出す。

「あきましておめでとう」ですがこれからが、千反田さんが明らかに奉太郎を異性として、そして自分の将来の伴侶候補としての行動が描かれています。ちょっと言い方は悪いですが、狙った獲物と言う感じです。逆に言えば一途な想いですかね」
 俺の言い方がおかしかったのか、栞子さんは笑ってしまった。
「そんなにおかしかったですか?」
 俺の質問に栞子さんは
「いえいえ、その狙った獲物と言う言い方がおかしかったので……」
 やはり言い方が変だったかと反省する。

「家と家の付き合いの現場に同席させるのも、意識しての行動ですよね」
「大輔くんはそう言うの嫌ですか?」
 今度は栞子さんは真剣な目で俺を見つめていた。そうか、そうなのか……栞子さんがこの前、俺が本を買うと言った時の慌て様……この話に自分の思いを重ねていたのかと分かった。
「いいえ、嫌じゃないです。現に、俺たちはもうとっくに公私混同してますよ」
 その俺の言葉を訊いた栞子さんはぽかんと口を開けて、それから笑い出した。それは安堵の笑いだったのかも知れなかった。

デザートは食べ終えてコーヒーが運ばれて来た。栞子さんは紅茶だ。
「手作りチョコレート事件は、里志と麻耶花の話しですが、二人だけだった事が千反田さんを巻き込む事によって問題が表面化して来たのですね。
 千反田さんが出てくれば当然奉太郎は黙っていない訳です。そして4人の問題となってしまった。
 ここで、やはり「口に出して言えない想い」という事が表面化して来ました。
 外から見れば里志のこだわりなのですが、これも実は彼は気がついていませんが、未だに彼はこだわり続けているのです。「こだわらない」と言うこだわりに……そこにどこまで自分で気がついているかです。
 だから俺が里志に言ってやれる事は麻耶花にこだわっても何の問題も無いという事だと……」

 熱いコーヒーを口にしながら栞子さんを見ると、いつもより真剣な眼差しで俺を見つめている。
 そうか、次の「遠まわりする雛」が栞子さんの本命の話だと気が付いた。
「次に表題作の『遠まわりする雛』ですが、これは表向きは千反田さんが自分の決意を聴いて貰いたくて奉太郎に「雛まつり」の手伝いを頼む話なんですが、もしかして、栞子さんは、この千反田さんに自分の想いや境遇を重ねていませんか?」
 やはり、その通りだと思った。栞子さんは俯いて俺の方を見ていられない感じだ。それに構わず俺は話を続ける。
「千反田さんは旧家で大農家の一人娘として生まれ、生まれた時からこの家を継ぐ事が宿命づけられています。でも彼女はその境遇に文句も言わず、受け入れて、もっと発展させて行きたいと前向きに考えています。
  その想いを一番大事に思っている奉太郎に聴いて欲しかった。言い換えればこれはプロポーズですよね。千反田さん自身はどこまでそれを思っていたのかは、こ の話だけでは判りませんが、恐らく今は疑問を持っていないか、持っても自分の境遇が変わる訳では無いので、そこら辺は自分の中で結論が出ているのだと思い ます」
 栞子さんは呆然としていて、それでいて何処か嬉しそうな表情になっていた。
「奉太郎はその決意を受け止め、「お前が諦めた経営的 戦略眼についてだが俺が修めると言うのはどうだろう」と言う言葉を言おうとして、口に出そうとしますが、言えませんでした。ここで、前作で二人が「言えな かった想い」と言うキーワードから外されていた意味が判ります。千反田さんは自分の運命を、奉太郎はその千反田さんの想いの全てを理解してしまった為に自 分の希望も言えなかったのです。そこで奉太郎は里志の気持ちに気が付きます」

 コーヒーはもう冷めていた。冷たくなったコーヒーを飲み干すと
「出ませんか?」
 そう栞子さんに問いかける。この世の人では無い様な心持ちで、わずかに頷いた栞子さんは俺に連れられて店の外に出た。会計の時になっても心ここにあらずと言う感じなので、俺が支払った。もとよりそのつもりだったので、これはこれで良かった。
 大船の商店街を腕を組んで歩いて行く。少しお酒が飲みたい気分だった。商店街の外れにある、前に何度か入った事があるカウンターだけのバーの扉を開ける。
 ドライマティーニを頼むと栞子さんも同じで良いと言うので2つ頼んだ。
「すいません。気がついたら大輔くんに支払わせていて……」
「気にしないで下さい。勤務の後のデートと言う事でいいじゃ無いですか」
 正直な想いを伝えると
「じゃあ、せめてここはわたしが支払います」
 そう言ってカウンターの下で俺の手を握り締めた。
「わ たし……生まれた時からこの商売を継ぐ事が決まっていた様な感じがして、ずっと千反田さんはわたしと同じだと思っていました。でも、大輔くんと出会って、 色々な本にまつわる事件を解決して来て、自分は幸せだと思ったのです。わたしは彼女とは違う! だってもしわたしが旅立ってしまう様な事があっても大輔く んは一緒に来てくれると言いました。それって、わたしにとっては天地がひっくり返る様な言葉だったのです……だから……」
 俺のあの言葉が栞子さんの人生観まで変えたとは思わなかった。
「きっと、奉太郎が、その事を言える時と言うのは覚悟も状況も整った時なんでしょうね。そしてその時まで物語が続くのですね」

 二杯ずつ飲んでから店を出た。
「いよいよ次は『二人の距離の概算』ですね。この表題には色々と意味があります。そんなところも気にして読んで見て下さい」
 店まで送って行って、歩いて家に帰る。手には『二人の距離の概算』がある。これも薄くは無いが今の俺なら何とか読めるだろう……そう俺は考えて帰り道を急いだ。

 
 大輔くんが帰った後で裏口から家に入ると人の気配がした。文ちゃんかと思い
「だあれ? 文ちゃんなの?」
 そう声を掛けると、その人物は
「文香はもう寝たわよ。五浦くんとデート?」
 その声で誰だかは判った。
「わたしを待っていたの?」
 母の後ろ姿に語り掛けると
「もう抱いて貰った?」
 あっさりと、そんな言葉が口を付いて出て来た
「そ、そんなことは……も、もっと……」
「なんだまだなの……自分が良いと思ったら逃げられない様にしておかなくては駄目よ」
 そうなのだ、この人にとっては全てが手段でしかない……
「わたしは、お母さんとは違う……そう、もっと人の心がある」
「それは、弱いと同類語ね。人間の弱さが強いと言う事でしょう」
 あっさりとそう言い切るこの人が時々本当に自分の母親なのか疑問に思って来た。
「何か用があったの?」
 わたしは、自分の母親にまるで他人の様な口で訊いた。その言葉に母は
「一つ忠告しておこうと思ってね。あなた、例の奴からメッセージを受け取ったのでしょう? 脅迫とも取れる内容の事を……」
 なんでこの人が知っているのだろうか? そういえばモノレールの駅で「ここに残るのなら気をつけなさい」と言われた事を思い出した。やはり何らかの情報を持っているのだ、この人は……
「きっと、保護観察期間が過ぎたらきっと、何かして来るわよ。せいぜい気をつけなさい。だから、今なら未だ間に合うわよ。私と一緒に来ない? 素晴らしい知識の旅が出来るわよ。何ならあの五浦くんと一緒でもいいわ」
 なんて事を言うのだろう。わたしの想像以上の事を平然と言う……
「行きません! 第一、文ちゃんが可哀想です」
「あら、文香はちゃんと仕送りだけしてくれれば最低限良いと言ってくれたわよ」
 そうか、そこまで手を回す為にこの家に来たのかと思う。
「でも行きません! あ、あなたは、家族と言うものが判っていない!」
 ずっと思って来た事だった。言ってはいけないと思っていたが、言ってしまった。母はそれを訊いて
「やれやれ、そこまで言われたら、私は兎も角、お父さんが可愛そうだわ。本当の事を教えてあげる。私達の関係を……」
 母はそう言ったかと思うと今迄に無い目つきをして、遠い一角を見詰めながら語り出した……

「私 とお父さんはね、私が旅だった後も定期的に連絡を取っていたのよ。信じられ無いと言う顔をしているわね。無理も無いわ、だってそれは二人だけの秘密で、誰 にも言ってはならなかったのよ。私が苦しい時はお父さんから送金して貰ったし、私が法外な利益を得た時はあなたたちの将来の為にと送金したわ。そうやって やりとりをしていたのよ。何度も帰ろうか迷ったわ。その度にお父さんが『君は望みのものを手にいれたのか? 入れて無いなら帰るべきでは無い。子供達は自 分がちゃんと育てる』って言ってくれた。涙が出るほど嬉しかったけど、あなた達と再会するのは当分無理だと諦めたの。
 私は今までお父さん以外に 心を許した人は居なかった。只唯一の人だったのよ。お父さんは本当は私が望みのものを手に入れて、私が家に帰ってきて暮す事を望んでいたわ。でもそれはと うとう叶わなかった。私が心に残る事は、あの人に本当の笑顔をさせてあげられなかった事なの……」
 
 知らない事ばかりだった……父が、母と定期的に連絡を取り合っていたなんて……
「随分、ショックだったみたいね……お父さんと私は今でも心が繋がっていると思っているわ。だから誰に何を言われても良いと思っているの。この世に唯一心を許した人の理解さえ得られればね」
 そこまで強い想いで二人が結ばれていたなんて……わたしは、わたしは。もし大輔くんが一緒に行くと言ってくれたら、付いて行っても良いのだろうか……
 どこか身体が浮遊感を感じていた。現実と空想の間に居る様な感じだった。
「いい年をして未だ契も結んでいないのなら、未だ無理そうね……また気持ちが固まった頃に来るわ」
 母はそう言い残して、店の方から消えて行った。カーテンが夜風に震えていた。

 無性に、いまさっき別れたばかりなのに、大輔くんに逢いたかった……

「クドリャフカの順番」に隠された想い~

第4話 「クドリャフカの順番」に隠された想い~

 田中敏雄……彼がガラス戸にひびを入れ、「『晩年』をすり替えたお前の猿芝居を知っている。連絡しろ」と印刷した紙をガラス戸に差し入れて、姿を消した事に、大輔くんが
「警察に届け出た方が良い」と言ってくれたので、警察に届けた。
 でも、警察に呼ばれて証言した田中敏雄は「自分はあそこへは行っていない」と供述し、実際にアリバイがあったという……ならば誰が……
 私は、正直、背筋が凍ると言うよりも、遂にその時がやって来たのか、と言う思いだった。
 だが、本当かどうか、彼は知らないと言っている……大輔くんはかなり怒っていて「絶対に嘘をついている」と言うのだが……

 確かに、本はわたしの命と言っても良いし、ましてあの太宰の「晩年」の初版本は他の人間には渡せない……そうこの前までは思っていた。彼がわたしの大事な人になるまでは……


 大輔くんは、古典部シリーズでも一番厚い「クドリャフカの順番」を色々なやり方で読んでくれていた様だった。
 わたしは、彼のその努力に嬉しくなる。だからこれでも、ついつい甘くなる態度を自制しているつもりなのだ。
 もうすぐ6月が終わる。「氷菓」のアニメは次回で「愚者のエンドロール」が終わる。録画して勿論大輔くんと一緒に見るつもりだ。それは結局は本の話になってしまうのだが、一応はアニメの話で、それは少しでも大輔くんの負担を減らしたいからだ。
 今のわたしには彼抜きでの生活は考えられない……もうそこまで来てしまった。毎晩の様に一緒に夕飯を食べ、彼の好みも判って来た。心の底から大輔くんと出会って良かったと思う。

 7月の最初の週に「愚者のエンドロール」が終わり、いよいよ「クドリャフカの順番」が次週からの放送となった頃に大輔くんが
「何とか読み終わりました。面白かったですね。正直今までで一番かな」
 そうわたしに伝えてくれた。わたしは嬉しくなり
「じゃあ、今夜も夕飯食べて行って下さいね」
 と今夜感想と、わたしが出した「宿題」を訊く約束をした。
 いつの間にかわたしは口笛をふいていたみたいで大輔くんにからかわれてしまった。それも嬉しい……

 「それじゃ後はお願いねお姉ちゃん。それから五浦さんもよろしくね」
 妹の文ちゃんが大雑把にあとかたずけをすると、そう言って自分の部屋にさがって行った。
 わたしと大輔くんで残りのあとかたずけを行う。正直、仕事を離れるとちょっとしたことが嬉しく感じる。そんな時、ああ、わたしはこの人に恋をしているのだと実感出来る。
「どうしました? 何か俺の顔に付いていましたか?」
 大輔くんがわたしの顔を覗き込む様に言うので、ちょっとドキッとしてしまった。
「いいえ、片付いたらコーヒーを入れますから、それからお話しましょう」
 取り繕う様な事を言ってコーヒーを沸かす。

「はい、お待ちどう様」わたしは大柄のカップにやや薄めのブレンドを入れ、大輔くんの前に出した。自分にはミルクを沢山入れ、自分の座る席、つまり大輔くんの隣の席に置き座る。もうここがこう言う話をする時の定位置となりつつある。
 一口、コーヒーをすすると大輔くんは語り出した……

「ま ず、通して読んで感じたのは、摩耶花も里志も田名辺委員長もそして河内先輩も声に出しては言えない問題を心に抱えていたと言う事ですね。それがこの作品の テーマだと感じました。それぞれは別な悩みを抱えていたのですが、その中心となるのが「夕べには骸に」と言う同人漫画誌でした」
 大輔くんは、そこまで言ってコーヒーに口をつける。
「そ して決局は誰もが自分の中にあるわだかまりに決別をつけられずに文化祭が終了して行くのですね。この話で奉太郎と千反田さんだけがその思いの渦には入って いないのですね。それが少し引っかかりました。単に描かれていないだけで、後の話で問題となって来るのか? そこが気になりました」
 わたしは、この「古典部シリーズ」を読むと言う行為を通して、大輔くんがここまで深く読解するのか本当に以外で、そして読み進めばそれだけ深くなるのが素晴らしいと思っていた。
「凄いです! そこまで読み解くなんて凄いと思います。そうなんです二人の心の話は後でちゃんと描かれるのです。楽しみにしていて下さい」
 わたしがそう言うと大輔くんは目をしばたつかせて
「やっぱり、最後まで行くんですね」
 そう言って笑っている。笑ってる彼を見るとわたしまで嬉しくなってしまう……

 二杯目のコーヒーを入れて、それに口をつけると大輔くんは次のテーマについて語りだした。
「次に、里志が言っていた「期待」と言う言葉ですが、辞典などで調べると『あることが実現するだろうと望みをかけて待ち受けること。当てにして心待ちにすること』とあります。この望みと言う心の持ちようを考えた時に、実は2つあると思うのです。
 一つは里志が言った様な「期待」ですよね。絶望から生まれる「期待」です。その意味では里志は正しいのですか、俺は「期待」にはもうひとつあると思うのです」
 そこまで言って大輔くんはコーヒーに口をつける。わたしも同じタイミングでカフェオレに口をつけた。

「もう一つとは、希望から来る「期待」です。これに里志は気がついていません、それは何故なのか? その答えは小説の前の方で奉太郎が語っています。「楽しむことへのこだわりが学業や社交などのなすべきことを平然と打ち捨てさせてしまうほどに強いのだ」と語っています。
 つまり、自分が楽しんでいる者には希望による「期待」は必要ないのです。だから、里志にはそれが見えないのです。故に彼は「期待」の暗黒面と向き合っているのです」
 そこまで言って大輔くんは二杯目を飲み干した。沢山話したから口が乾いたのかも知れなかった。
「もう一杯入れましょうか?」
 大輔くんの顔色を伺うと
「いや、もういりません。お腹がイッパイで……」
 はにかむ様に言うその仕草だけでもわたしには嬉しくなる様だった。
「自 分が絶望して出す「期待」と希望から出る「期待」は根本から違います。前者は自分が成し得なかった事に対する「期待」です。後者は自分の望みから来る「期 待」ですが、これは発展的未来と繋がっています。両者はそれだけ違うと思うのです。この作品上、前者に的を絞るのは致し方ありませんが、作者は読者を上手 くミスリードしています。つまり、その語り口さえトリックなのです。そう言う書き方をしているのです。これはある意味凄いと思います」
 
 大輔くんは、そこまで言ってハンカチで汗を拭いている。とてもこの前(あるいは今でも)本が読め無かった人だとは思え無かった。
「次は『遠まわりする雛』ですね」
 わたしが、次の作品の名をあげると大輔くんは
「面白くなって来たからいっそ買ってしまおうかとも思うのですが……」
 そう言ってわたしを慌てさせた。
「駄目です! 買っては駄目です……買わないで下さい……わ、わたしの本を読んで下さい…‥」
 そこまで言うのが精一杯だった。
「わ、判りました。でも何故そこまで強く言うのですか?」
 大輔くんに不思議がられて、墓穴を掘ったかも知れないと思う。
「そ、それは……よ、読めば、わ、わかります」
 本の事なのだがここまで口調が乱れるのは自分でも珍しいと感じた。
 それは「遠まわりする雛」の一番最後の話、表題の話に秘密がある。わたしはその話に登場人物の千反田さんの想いを被せていたからだ……だが、大輔くんは今はそれを知らない……
 
 母屋の裏口から出て来た大輔くんとわたしは、夏の夜空を見ながら
「もうすぐ七夕ですね。織姫と彦星ですか」
 そう大輔くんが言うのでわたしは
「二人の様にはなりたくありません。何時も傍に居て欲しいです」
 そう想いを告白すると大輔くんは、優しく抱きしめてくれて
「そんな思いはさせませんよ」
 その口から、ちから強く言ってくれたのだった。
 
 お休みのキスをして、大輔くんは帰って行った。
 店の表側に回ると、ガラス戸に白い紙が挟まっていた。
 それを抜いて、広げると
「篠川栞子……早く連絡しろ、さもないと大変なことになる」
 そう書かれていた……
 
 大丈夫、わたしには大輔くんがいる。家に帰った頃に電話をして帰って来て貰おう。
 そう心に決める。今のわたしには大輔くんがいるのだと……

大輔「クドリャフカの順番」に挑む

第3話 大輔「クドリャフカの順番」に挑む 


 定時になり店の回転式の看板を裏返し、閉店の準備に掛かる。ガラス戸にカーテンを閉めると栞子さんに
「店、閉店しました」と告げる。栞子さんは「お疲れ様」と言ってくれ俺に微笑み掛けてくれた。そして母屋の妹の篠川文香に
「文ちゃん、大輔くんの分も用意しておいてね」
 と声を掛けた。最近かなりの確率で夕飯をご馳走になる事が多い。最も今日は「愚者のエンドロール」の感想を言う事になっていたのだ。
 栞子さんがネットの仕事をしている間に明日の午前中に発送する本をチェックしておく。そうしていたら
「それじゃ食べましょうか」
 嬉しそうな表情で俺に声を掛けた。

 今夜の夕食は、茄子のはさみ揚げと揚げ出し豆腐。ひじきと大豆の煮物、それにキャベツの一夜漬けに馬鈴薯とわかめの味噌汁だった。この子は本当に渋い献立を作ると思う、そして上手に作ると思う。
 食べながら、妹の文香は上機嫌で
「ねえ、五浦さんとお姉ちゃんは交際することにしたの?」
 いきなりの質問に栞子さんがむせた。
 「ち、ちょっと文ちゃん。いきなり……」
 栞子さんが言い淀んでいるのにも関わらず
「不出来な姉ですが、どうぞ宜しくお願い致します」
 そう言って頭を下げたのだ。釣られてこちらも頭を下げる。栞子さんを見れば、耳まで真っ赤にして俯いてしまっている。
「ほら、お姉ちゃん、良かったじゃない。わたし、結構応援していたんだよ」
 それを訊いて益々赤くなる栞子さんだった。

 夕食の片付けが終わると栞子さんがコーヒーを入れてくれた。そして俺は「愚者のエンドロール」の感想を語り始めたのだった。
「まず、小説の中だけでなく、入須冬美と言う先輩は奉太郎を非常に上手にリードして自分の望む方向に導き出しましたよね。まるで最初から全てが判っていた様な感じを受けました」
 読んで見て素直な俺の感想だった。
「そうですね。彼女は予めパズルのピースを探すかの様に奉太郎の答えを導き出しましたね。実にその手腕は鮮やかだったと思います」
 栞子さんは、自分の見方を紹介すると、自分用に入れた紅茶のカップを持ちながら俺の隣に座って来た。篠川文香は既に自分の部屋に下がっていた。
「本当は自分の部屋で話をすれば良いのですが……」
 困った様にそこまで言うと黙って仕舞った。その意味を俺は判っている。栞子さんの部屋はベッドとタンス以外は本しか無いのだ。本の山に埋もれて暮らしていると言っても過言じゃない。
 現に、親友の滝野リュウには「何時か本の下敷きになって死んで発見されるから」と言われたそうだ。
 
 この「愚者のエンドロール」の登場する入須冬美と言う人物は俺には栞子さんの母親の知恵子さんを想像させた。
 何もかも判っていて、それでいて相手を確かめる様な感じが同じだと思ったのだ。だがそれは栞子さんに言う訳はいかない。
 それは親子ともなれば、二人だけにしか判らないものがあると思うからだ。だから栞子さんは、あれだけ嫌っていても、母親に会い確かめられずにはおれなかったのだ。

「入須先輩と喫茶店であって、奉太郎は真実を知るのですが、あの時最後に奉太郎は『それを聞いて安心しました』と言っていますね。これについて大輔くんはどう思いましたか?」
 やはり、そこに来るかと思う。それについては俺は自分なりの答えを見つけている。
「そ の言葉の前に『誰でも自分を自覚すべきだと言ったあの言葉も、嘘ですか?』と言う奉太郎のセリフですが、これは完全に彼自信が否定して欲しいと期待して 言った言葉ですよね。一見肯定を期待して言ってる様に感じますが、実はその言葉、自分が踊らされた事を否定して欲しいのだと気が付きました。だからその次 の『心からの言葉ではない。それを嘘と呼ぶのは君の自由よ』と言う自分が期待した言葉を受けて、そう言ったのだと思います」

「大輔くん。素晴らしいです。本が読めなかったなんて信じられません。本当にお見事だと思います。結局、奉太郎のコンプレックスの話なんですよね」
 栞子さんはそう結論づけて言ったが、その感じが少し母親を感じさせた。やはり親子なのだと思う。同じ土壌があるから親和性が高いのだ。だから返って俺が栞子さんを守ってあげなくてはと考えた。

「遅くまですいませんでした。でも大輔くんとこうして本の話が出来るのは本当に私、幸せです」
 帰ろうと席を立った俺に栞子さんはそう言いながら俺に持たれ掛かる。俺は軽い体重の重さを受け止めて、しつかりと栞子さんを抱き寄せる。
 栞子さんの顔が上を向き、その唇は顎をあげる事で俺に一層近づいた。それが何を表していて、栞子さんが何を求めているのかは、いかな俺でも解る。
 俺はその求めに応じて自分の唇を重ねた……
「また、あした……」
 栞子さんが潤んだ瞳で別れの言葉を言う。そして……
「これ、次に読んで下さいね」
 手渡された文庫本は「クドリャフカの順番」と書かれた大層厚い本だった。
「栞子さん、これ……厚いです」
 俺の抗議に栞子さんは笑いながら
「でも、このシリーズ屈指の面白さです。それに古書のお店の店員に必要な知識を面白く吸収出来ますから時間が掛かっても構いません。読んでみて下さい」
 そう言われては仕方が無い。俺はその晩から少しずつ読み始めたのだった。

 次の日栞子さんは「クドリャフカの順番」について語ってくれた。
「この巻は、神山高校の文化祭の話なんですが、テーマは非常に重い内容です。筋書きは大変面白いのですが、読了感がとても切なくなります。『期待』と言う言葉をやたら使えなくなりますよ」
 そう言ってくれたのだが、少ししか読んでいない俺には何の事やら判らなかった。

 午後になり均一台に乗せる本を値付していた時だった。せどり屋の志田がやってきた。
「よお、元気か? 買い取り頼むわ」
 そう言って俺の知らない本を栞子さんに見せている。
「お時間貰えます? 査定しますから」
 栞子さんが、査定している間、志田は俺の所にやって来て
「何だって、毎晩三人で夕飯食べているんだってな? いよいよ同棲か?」
 とんでも無い事を言うと思ったし、何処から訊いたのだろう。
「いや、違いますよ。本の話をしていて遅くなった時だけですよ」
 正直に言う。ただし、最近は殆ど毎晩なのだが……
 瞬間、志田が誰から訊いたか想像がついた。妹の篠川文香だ。
「文ちゃんですか、情報源は?」
「さすが解るか! お前、姉ちゃんと付き合って鋭くなったんじゃ無いのか」
 半分冗談なのだろうが、笑いながら言われると馬鹿にされた気分になる。
「怒るな、冗談が通じねえな。お詫びの代わりにいい事を教えてやるよ」
「何なのですか?」
 興味半分に尋ねると志田は
「お前、本を読むと頭痛や目眩がするんだろう? それは黙読してるからだろう。だから小さくても音読するんだよ。そうすれば声が耳から入るので、頭の負担が軽くなるんだ。それに慣れてくれば早さも同じ位までになる。騙されたと思ってやってみな」
 そこまで言った時に栞子さんが、査定が出来たと伝えて話はそれきりとなった。そうか、それで治るならやってみようか、この厚い本は読まなくてはならないからだ。
「じゃあ、五浦やってみな」
 その言葉を言い残して志田は鎌倉の街に消えて行った。

 その日からは音読するようにした。結果としてはかなりの効果があったが、完全には治らなかった。だが、それでも俺にとっては進歩と言えるだろう。
「クドリャフカの順番」は今までが奉太郎視点の書き方だったのだが、今作は多視点となっている。 
 奉太郎、里志、摩耶花、えるの古典部員四名の視点から文化祭が行われて行く。それそれがそれぞれ悩みを抱えていて、それとどう向き合うのもこの作品の目玉となっていた。

「大輔くん。どうですか? 長い話ですが我慢して読んで下さい」
 栞子さんは、俺が読むのに苦労をしていると思っているらしい。そこで志田から言われた音読の事を伝えると、大層喜んで、俺に抱きついた。俺は柔らかな栞子さんの身体を抱きしめながら、これは思わぬ効果だと思ったのだった。

栞子さんと大輔の「愚者のエンドロール」

第2話 栞子さんと大輔の「愚者のエンドロール」

 6月に入っていた。俺はあれから栞子さんとアニメ「氷菓」の原作のエピソードを休みの日に二人で母屋で見ていた。
 原作の「氷菓」はアニメだと5話までなので、午前中から見始めて昼食を挟んで結局午後2時近くまで掛かって見てしまった。
 「すいません。結局仕事までさしてしまって……」
 残った時間で、昨日やり残していた仕事の続きをしたのだ。俺としては栞子さんと二人だけの時間を共有している様な感覚だったので、無理やりと言う感じは無かった。
 それに、あの田中から何か繋ぎでもつけて来るのでは無いかと言う思いもあり、俺は彼女の傍に居てやりたかった。例え役に立たなくてもだ……

「一休みして下さい」
 栞子さんが大き目の氷が入ったアイスレモンティーを持って来てくれた。
「お昼のおかずも、これも文香が作ったものですけど」
 そうなのだ、篠川姉妹の妹の篠川文香はこの家の炊事を担当している。俺の卒業
した高校の在学生だが滅法料理が上手い。栞子さんも炊事をするが、妹ほど得意ではなさそうだった。
「あ、すいません。自分の好きで始めた事ですから」
 実際俺は仕事と言うつもりでやっていた訳では無いので、栞子さんの気遣いが嬉しかった。
「でも、最後でえるが涙を流したシーンは俺もちょっと来ました。原作でも触れていましたが、原作よりも訴える演出でしたね」
 そう、俺は今日のアニメを見る前に既に原作の「氷菓」を読了していた。俺が読了出来たのは、原作への興味もそうだが、まず本が薄かった事だ。それだけでも心理的には大分違う。
「そ うですね。あのシーンは私もアニメの演出は良いと思いました。それと心に残ったのは『きっと十年後この毎日の事を惜しまない』と言う言葉でした。正直言っ て、大輔くんと出会って好意を持った時に、母の様に全てを捨てて行ってしまう自分が怖かったのですが、その時に私はこの言葉を言えるのか? と自問しまし た。その答えが、後悔しないのは大輔くんと共に過ごした時間なのだと判ったからです……そして大輔くんのあの言葉が決定的でした」
 梅雨の午後、うっすらと晴れ間が覗き、夏の暑さを少し感じさせてくれる午後、栞子さんは俺に自分の想いを打ち明けながら傍に座り込む。
 その距離は体温を感じさせる程近く、まるで千反田える嬢を思わせた。
「大輔くん……」
 栞子さんが目をつむり、顎を少し持ち上げ突き出す様にした。誰でも判る行為だった。俺は栞子さんの頬を優しく二つの手で引き寄せて自分の唇を近づける……そしてまさに触れようとした瞬間……カーテンが掛かったガラス戸を開けて入って来た人物がいた。
「ただいま~あれ? 五浦さん今日はお休みじゃ無かったんだ……ああ! 御免ね、邪魔しちゃって」
 にやけた顔をしながら妹の篠川文香が俺達の脇を通って母屋に消えて行った。
「……大輔くん、今週の放送から「愚者のエンドロール」編が始まるんですよ」
 真っ赤に頬を染めながら、栞子さんはわざとらしく話題を変えたつもりだろうが、まるで小学生なみだ。
 俺はそんな栞子さんに構わず彼女を軽く抱きしめて唇を重ねた……栞子さんの腕にも力が入る。
 俺達は梅雨の午後、店内で暫くの時間そのままでいた……


 暫く後、俺は仕事の続きを始めていた。何もやることが無かった訳では無く、どうせなら切りの良い処までやっておきたかったからだ。栞子さんも一緒に付き合ってくれる。
 その横顔を見ていたら、ふと笑い顔になった。
「どうしたのですか?」
 明らかに何かを思い出し笑いしている感じだったので、思わず口をついて出たのだ。俺の質問に栞子さんは顔を赤くしながら
「こ の前、母と会った時に私の様子を見ていきなり『五浦くんに手でも握ってもらった?』って訊かれて、動揺して母のペースに載せられそうになったんです。その 時に大輔くんの声が頭に響いて、戻れたんです。でもそれが今なら母は「キスでもして貰った」とか言うのでしょうね。そうなったら私はどうなるのか、自分で も判らないと思ってしまったんです。今でも残っています。この感触を忘れない限り、私は大丈夫だと思います。あなたの事を一生忘れません」
 恐らくは、そんなやりとりがあったであろうとは思っていたが、智恵子さんは並外れた洞察力の持ち主だと改めて感じさせてくれた。
「大丈夫です。栞子さんが何処かへ行くなら俺も一緒ですから」
 そう力強く言うと栞子さんは明るく
「はい!」
 そう言って笑顔を見せてくれた。

「大輔くん、これを」
 栞子さんがそう言って俺に手渡してくれたのは「愚者のエンドロール」と書かれた文庫本だった。
「今週の放送からこの話に入ります。放映前に読まれておいた方が良いですよ」
 見てみるとこの前の「氷菓」よりも大分厚い。本格的な長編の小説だ。それも日常のミステリーだ。正直俺には敷居が高いと思ったが栞子さんの手前、無下には断れない。どうしたものかと思っていると
「じゃあ、私が読まれる前に解説をしてみましょうか? そうなれば読み易くなるのでは無いでしょうか?」
 そこまで言われては俺も断る訳には行かなかった。
「お願いします」
 その言葉を聴いて栞子さんは静かに語り出した。

「『愚者のエンドロール』は「氷菓」に続く「古典部シリーズ」の第2作です。奉太郎達古典部が文化祭の自主制作の映画の脚本に関する事を解いて行くのですが、奉太郎が失敗して挫折を味わいます。後味のあまり良く無い作品と言えるかも知れませんね」
 「挫折ですか……またしてもほろ苦い結末なんですね」
 栞子さんは改めて俺の隣に椅子を持って来て座ると
「えるさんはこのぐらいパーソナルスペースが近いのでしょうね」
 そう言って俺との距離を詰めて来た。栞子さんは俺の右側。つまり杖をはめていない方の腕が俺の右腕に触れている。柔らかな体温を感じる近さだった。
「奉太郎がアニメでも目を白黒させる訳ですね」
「こ の作品は冒頭から普通の入り方とは違っています。そこがこの話の肝要な処です。最後に意味を持ってきます。アニメでも同じになるかは分かりませんが、小説 ならではの書き方だと思います。そして奉太郎は新しい登城人物によって、踊らされてしまうのです……今日はそれくらいにしましょう。全部話してしまうと読 む楽しみが無くなりますからね」
 栞子さんはそこまで言うと立ち上がろうとしてバランスを崩して、倒れそうになった処を俺が抱きかかえて支えた。
「すいません。ありがとうございます」
 栞子さんが他人行儀な口を利いたと思ったら、母屋に通じる廊下に栞子さんの妹の文香が立っていて
「仲が良いのは嬉しいけど、もう夕飯だよ。五浦さんも一緒に食べて行って!」
 笑いながらそう言って母屋に帰ろうとしてこちらに向き直り
「正直言うとね。母屋とか店に五浦さんが居てくれると、安心するんだ」
 それだけを言い残すと文香は母屋に消えて行った。
「あの子、大輔くんを兄代わりに思い始めているのかも知れないです。私もその気持は判ります」
 どうやら、いつの間にか俺はこの篠川家である程度の地位を占める様になったのだと感じたのだった。

 結局、アニメ版の「愚者のエンドロール」の第1回が始まるまでには文庫を読み終える事が出来なかった。
 アニメ版は若干の設定の違いはあるが、おおよそは同じだった。冒頭のチャットが携帯でのメールのやりとりに変わっていたが、その後のチャットは同じだった。
 俺は目眩を抑えながら、二回目の放映前には読み終えた。
「随分頑張りましたね。段々良くなってる様な気がします」
 栞子さんは俺が以前よりも本が読める様になったと思ってるらしかった。まあ、読める様になったのは事実だが、目眩は治っていない……

「如何でしたか? 大輔さんの感想を聴きたいです。今日終わったら聴かせてくれますか?」
 栞子さんは、スクータを降りた俺を表で待っていて、朝の挨拶の代わりにそう言って微笑んでいた。
 どうやら、この調子で俺は家に居る時間よりも篠川家に居る時間が長くなりそうだ。
 ……だが、それも悪く無いと俺は思い始めていた。

 
 
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