今まで連載していました「天と鈴」は既存の作品を載せてしまいましたので、新作を書くまでお待ち下さい。
代わりに暫く「この世界の一人として君を愛す!」を連載します。

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ある中年男が人生、もう一度やり直せるとしたら……誰も一度は考えたことがあると思います。そんな内容です。

第一話

 晩秋の風が窓の外の赤くなった木々の木の葉を揺らしていた。
 妻の陽子は既に意識もなくここ数日は目を閉じたままだった。医師の見立てでは、かなり危険な状態だと言う事だった。
 病室には俺しか居なかった。陽子の親は昨年亡くなっていたし、俺には既に妻以外の家族は居なかった。
 気が付くと既に窓の外は暗くなっており、俺は枕元の灯りのスイッチを入れて、少しでも病室が明るくなるようにした。今の俺にはこんな事しか出来ないのが歯がゆかった。
 陽子の病が判ったのは市が行っている健康診断がきっかけだった。馴染みの医師の元で行ったのだが、血液検査で異常な数値が見つかったのだった。
「念のため」
 と言う医師の勧めで大学病院で検査をしたのだが、そこで進行性のスキルがんだと診断された。しかも余命半年から一年だ言われたのだった。
 正直、信じられない気持ちだった。現にこうして元気な妻が一年先にはこの世には居ないとは思えなかったのだ。妻もいきなりの事で実感が無かったようで
「わたし、一年しか生きられないそうよ。何か信じられない気持ち」
 そんな言葉を口にしていた。
 だが、病は確実に進行して、現在に至る。この間には色々な事があった。でも、それを言うのは俺の本意では無い。現在に至って、一つだけハッキリと判ったのは俺は心の底から陽子を愛していたと言う事だった。
 高校時代からの付き合いで、若い頃は兎も角、結婚してからは口に出して「好き」とか「愛してる」等とは言った事がなかったが、今になって、そのことが実感出来たと言うお粗末様だった。
 もし、もう一度人生があるなら、陽子の事を、もっと大切にしてやりたいと思った。だが、それも既に遅い……。
 結局、陽子は数日後、目覚める事なく旅立ってしまった。最後の言葉も交わす事なく逝ってしまった。
 その後の事は良く覚えていない。夢中で色々な手続きを行い、葬儀も行った。必死で感情を繕い、弔問してくれる人にも淡々と見えるようにしたし、一度も会った事の無い親類縁者にも対応した。
 そして、数日後には一応全てが終わった。俺一人になった家で妻の遺品を整理しようと思って、病院から持って来て手つかずだった陽子の持ち物を整理していた時だった。正直言ってこの時俺は家中の陽子の面影を整理しようとしていた訳ではない。逆に陽子が居た時、そのままにしようと思っていたのだ。その為には病院の荷物を整理して何処かにしまっておく必要があると考えたのだった。
 病院で着ていたパジャマや、使っていたタオルなどを整理していたら、メモ帳みたいな手帳が出て来た。開いてみるとそれは日記だと判った。陽子が日記をつけている事は何となく知ってはいたが、例え夫婦と言えどもプライバシーに関わる事なので一度も見た事が無かった。病院でも書いていたとはちょっと意外でもあったが陽子の性格を考えると、充分にそれは理解出来た。
 他の物を整理してから、自分の机に置いて、改まった気持ちでそれを開いた。
 最初は入院に際しての気持ちが書かれていて、陽子の不安がそのまま俺に伝わって来た。あの時、努めて平静を装っていたが、心の中は不安でいっぱいだったのだ。俺はそれに薄々気が付いていたが言葉にすることで陽子の心を乱したく無いと考えてしまっていた。あの時、もっと心を通わせていたら陽子はどんなに心強く感じたかと改めて思う。
 次第に進んで行く病気に対しての心模様が描かれていて、読み進める事が辛くなってしまった。でも、これを最後まで読むのが自分の勤めのような気がしていたのも事実だった。
 日記には勿論俺の事も書かれていて、俺が何気なく言った言葉などもきっちり書かれていた。それを読むと、病院暮らしの中で俺だけが心を完全に許した人間だと言う事が判る。子供の居ない俺と陽子には、互いが心の底まで見せても、許し合える仲だったと言う事なのだと改めて思わせてくれた。読み進めるうちに、己に対して後悔が浮かんで来る。何故、あの時もっと……。
 今更だ。今更何を口にしても遅い。どんなことをしても陽子は帰って来ないのだ。既に中年の坂を登りきり、あとは下るだけとなった今は、自分があと何年だか判らないが、彼女の元に行くまで待たなくてはならない。そして逢って謝ろう……そう心に決めた時だった。日記の最後に一番大事で、恐らく陽子が一番書き残したかった事が書かれてあった。以下、それをそのまま書き写してみる。


 この日記をあなたが読むことがあれば、少し恥ずかしいですが、自分の正直な気持ちを書き残しておきたいと思います。
 もしかしたら、あなたのことですから、気が付かずに他の物と一緒に処分してしまうかも知れませんが、それなら、あなたが後から来た時に直接言おうと思います。
 まず、ありがとう!
 病気になったわたしの事を何時も気に掛けてくれ、本当に申し訳無いと思いながらも嬉しかったです。
 特に、普段の暮らしを、わたしに合わせてくれた事が嬉しかったです。反面、あなたの自由を束縛してしまった事が申し訳なかったです。
 正直言うと、こうしてペンを走らせ文章を書くのも辛くなって来ました。そう長くは無いと感じます。ですから、最後にこれだけは言いたかったです。口に出すのは恥ずかしいのでここに書き残す事にします。

 あなた、本当にありがとう!
 生まれ変わっても、再びあなたと出会い、一緒になりたいです。
 残念だけど、少し先に行っています。あなたはゆっくりと来て下さい。そして、向こうで再会しましょう。それまで、わたし、もう少し綺麗になっておきます。だって、あなたに嫌われたくないから……。
 この世で両親以外で愛した人はあなただけ、心の底から好きです……


                            陽子



 なんて奴だ! 人生の最後に強烈な恋文を寄越しやがって……。
 返事が出来ないじゃないか。どうしてくれるんだ。俺がそっちに行くのは未だ先だ。俺は自分で命を絶つ事なぞしないからな。
 感情が押さえられなくなって、気が付くと涙が止まらなくなっていた。この世で一番大事な大事なものを失った事を改めて自覚した。そしてそれは再び手に入れられる事が無いと悟ったのだった。
 散々涙を流して、そして疲れ我に返る。今宵は陽子とお別れを行おうと思った。冷蔵庫から氷を出してグラスに入れて、陽子が好きだっつたスコッチを入れる。本当は奇跡的に退院出来たらお祝いに飲もうと思っていたグレンファースの二十四年ものだった。今ではそう高くない値段で買える。その昔、新婚旅行で陽子が絶対買って帰りたがったスコッチだった。二つ作って片方を位牌に供える。本当はグラスを交えて飲みたかった。
 
 何時頃だろうか? 寝汗を掻いて目が覚めた。枕元のタオルで汗を拭ってトイレに立つ。歳のせいか、最近は夜中に一度起きるようになってしまった。回数が増えなければ良いと思う。
 手を洗って、台所で水を飲むと寝室に戻る。すると部屋の中には見慣れない人物が座っていた。いや、正式には人らしきものだった。
「寝る前に随分泣いていたじゃないか」
 見ると、痩せた老人らしき人物が白い寝間着らしきものを身にまとっていた。
「あんた誰だ? それにどうやって家の中に入ったんだ?」
 俺の質問に老人は
「俺は人間じゃ無いので何処からでも入れる。俺は人の寿命を司る神だ」
「人の寿命を司る神……死神か? 俺は死ぬのか? ならばすぐに殺してくれ! 陽子の元に行けるなら、それも良い」
「バカな事を言うんじゃない。確かに俺はお前らが死神と呼ぶ存在だ。だが今夜はお前を連れに来たんじゃない。お前の寿命は未だあるからな。最初にも言ったが、女房に先立たれて悲しいか?」
 死神はそう言って懐からキセルを取り出して煙草を吹かし始めた。
「当たり前じゃないか、あんなラブレターを読まされたんだ。恋しいと思うのが常だろう」
 俺の言葉を耳にした死神は真面目な顔になり
「じゃあ、お前、やり直せるならやり直したいか?」
 俺は死神が訳の判らない事を話してるとは思ったが
「ああ、やり直せるなら叶ったりだ。次があるなら今度はもっと陽子を大事にするし、ガンの検診も毎年受けさせる。決して今度のような事にはさせない」
 当たり前だが俺にはそう言うしか無かった。それしか言いようが無かったのだ。それに俺の本心だった。この次があれば、俺は……。
「そうか、なら一度だけ戻してやる。但し交換条件がある」
 死神は意外な提案をしてきた。何時頃なのか判らないが戻してくれるなら、最善を尽くすまでだと思った。
「交換条件とは?」
「上手く行った場合。今までのお前の記憶を全て貰う。それが条件だ。やり直して上手く行った場合、今世の記憶を俺が貰う。お前は新しい人生をやり直すのだ」
「上手く行かなかったら?」
「何時までもお前が後悔の海に泳ぐ事になるのさ。俺たちは成功した人間の思考が欲しい。それが人の寿命にも関わって来るからな。どうだい、俺たちに協力するかい? それとも死んだ女房の事を思って、これからの人生を過ごすかい?」
 死神はゆっくりをキセルを吸い込むと口から白い煙を吐いた。
「条件を呑む! 戻してくれると言うが何時頃なんだ?」
「お前と女房が出逢う頃さ。最初からやり直しだ。取り敢えず記憶は今のままだ。人生経験があるのだからヘマはするなよ」
 死神はそう言うと俺に煙草の煙を吐いた。目の前が真っ白になって気が遠くなって行った……。


 遠くで目覚ましが鳴っている。今時電子音ではなくベルの「ジリジリ」なんて珍しいと言うか時代遅れだと、ぼんやりした頭で考える。次第にそれが現実の音で、しかもすぐ傍で鳴ってると気が付いた。目を開けると枕元でそれは音を立てていた。手探りで時計の頭にあるポッチを押して音を止める。薄目を開けて時間を確認すると七時丁度だった。
「未だ早いじゃないか。今日は確か今日も会社は休みのはずだった。もう少し寝ようか」
 そんな事を言って部屋を見回すと俺の家ではなかった。いや、正確には元の俺の家でそれも高校時代の俺の部屋だった。
「まさか、あれは夢じゃなかったのか?」
 ぶつぶつと独り言を言ってると、ドアの向こうから、俺が社会人になってすぐ事故で亡くなった母の声が聞こえた
「憲司、さっさと起きて来ないと遅刻するからね」
 それは、懐かしい紛れもなく母の声だった。