決心はついた。陽子に確かめなければならないことがある。しかし、簡単に訊ける内容では無い。訊き方や話し方によっては陽子の気持ちを傷つけてしまう恐れもあった。順調過ぎるほど順調にここまで来たのだ。なるべくならこのままの関係を維持したかった。前の俺なら出たとこ勝負で簡単に訊いてしまっただろう。でも中身オヤジの俺は色々な事を考える。陽子を傷つけてしまった時の事や、陽子の想いと俺の想いがずれていた時の事を考えてしまう。若さとは、勢いなのだろうか? それとも向こう見ずと言う事なのだろうか……自分の中で中々決心が付かなかった。
鬱々とした日々を過ごしていた。勿論表面上はそんな素振りは見せない。この辺はオヤジそのものだ。陽子は二人だけになると俺に甘える様になって来た。そう言えば前の時も結婚したばかりの時はこんな感じだったと思い出した。だから、俺の考えはやはり当たっているのでは無いかと、段々思い始めていた。
そんな時。転機と言うかチャンスが訪れた。両親が町会の旅行で家を空けると言うのである。しかも妹はその時は中学の林間学校で家には居ないと言う。まあ、妹が家に居ないので両親が旅行に出掛ける事にしたのだが……。
「留守番頼むわね」
その日、母親はそんな言葉を残して父親と町会が用意した大型バスに乗り込んで行った。
土曜日の朝は夏を思わせるように太陽が輝いていて、五月晴れだった。
『今日しかない』
そう決断出来た。誰にも聞かれずに二人だけの空間と時間が作れる。その日の登校の時に陽子に
「今日は誰も家に居ないから、ウチに来ないか。勉強しても良いしさ。LP買ったからそれを聴かないか?」
「誰の買ったの?」
「陽子の好きな『かぐや姫』さ」
「ああ、聴きたかったの! 嬉しい!」
話は簡単について、帰りに陽子の家まで送って行って、陽子が着替えたらそのまま乗せて俺の家まで行く事になった。
決まったので、どんな言葉で陽子に尋ねようか授業も全く耳に入らず考えていた。オヤジだから色々な文言が浮かぶが、どれが良いか決められない。窓際の陽子を見ると目が合って、陽子が嬉しそうに微笑んだ。堪らなく可愛い。あんな天使みたいな陽子を悲しませずに訊き出さないとならないと考えた。
授業が終わり陽子を後に乗せて一路陽子の家を目指す。お昼は母親が何か作っておいてくれたのでそれで済ますつもりだった。
「ねえ憲くん」
背中で陽子が話しかける。この頃は既に陽子は俺の事を「憲司くん」から「憲くん」と呼ぶようになっていた。前の時もそう呼んでいたと記憶している。実はこの所陽子にどう訊きだすかを考えているせいか、前の幸せだった時の記憶が薄れている。まさか、もう死神が約束を実行しているのでは無いかと不安になる。尤も記憶を死神に取られたなら陽子の事も何もかも判らなくなってしまうのだろうが……。
「何だい?」
「あのね。わたし、もしかして一番幸せかも知れない」
「え、どうして?」
「だって、好きな人が漕ぐ自転車に乗せて貰って、一緒に移動しているのよ。まるで人生を一緒に生きてる感じがするじゃない。これって素晴らしい事じゃないかと思うの」
それは俺も背中で陽子を感じながら思っていた事だった。実際、前の時は結婚して陽子が亡くなるまで一緒に暮らしたのだ。
「本当に一緒に生きても良いとは思わないかい」
冗談めかしてはいたが、俺の本心だったし、もう一度こうしてやり直しているのは陽子を心の底から愛し、幸せにしたかったからだ。
「そうなればいいな……わたしもそう思っているの」
陽子は何気なく言ったかも知れないが以前の陽子は結婚に関しては大学に進んでから言うようになったと記憶している。高校のしかも一年生の時はそんな事は全く口にしてなかったはずだ……薄れがちな記憶をたぐり寄せても、それだけは思い出せた。間違いない……決心はついた。
家に着くと、まずお昼ご飯を食べる事にした。既に昼の一時を過ぎている。お腹はかなり空いていた。母親はカレーを用意してくれていた。カレーの鍋を温める。俺がやろうとしたら陽子がやってくれた。
「この次は、わたしが何か作ってあげるわね。これでも料理は得意なのよ」
それは俺が一番よく知っている。その恩恵を陽子が病で入院するまで受けたからだ。
「美味しい! お母さん料理上手なのね」
確かに美味しかったが、陽子はカレーを温める時に冷蔵庫を見て牛乳を取り出して、使っても良いか尋ねたのだ。俺は何をするのか判らなかったが許可を出す。すると陽子はカレーに牛乳を加えて温めたのだ。だから風味が増してより美味しくなったのだった。これも以前陽子が良くやっていた事だった。
食べ終わって、コーヒーを入れることにする。もう夏なのでアイスコーヒーなのだが、前の時はスーパーに行けば無糖のアイスコーヒーが簡単に買えたが昭和のこの頃はそんなものは滅多に手に入らなかった。たまに見かけても砂糖がたっぷりと入っていたり、コーヒー牛乳もどきのものが大半だった。自然と俺は豆を買って来てこの頃やっと浸透し出した。ペーパーフィルター方式で自分で煎れてていた。
沸騰した薬缶のお湯を少しずつ粉になったコーヒーに浸透させて行く。そんな様子を陽子は身ながら
「憲くんのコーヒー美味しいものね。ああ良い香り」
何気なく言ったのだが、この言葉が良い切っ掛けとなった。
「ねえ、正直に答えてくれると約束してくれるかな」
いきなりの俺の言葉に陽子はちょっと驚いて
「え、なぁに。正直って……わたし憲くんに何時も正直に接しているわよ」
「うん。それは判っている。だけど、これから俺が尋ねる事は大事なことなんだ」
散々考えた文言とは全く関係の無い言葉が口をついて出る。
「大事な事?」
「ああ……実は俺は未来から来たんだ」
「未来?」
陽子に説明をするのには簡単に理解しやすい方が良かろうと思った。
「俺たちは将来結婚して夫婦になる。それは幸せな人生だった。でも君は数十年後進行性のガンで亡くなる。その当時でも直す手立てが無かったんだ。俺はそれを運命だと思い受け入れた。そして君が少しでも穏やかに過ごせるようにしたんだ。でも亡くなった後に君が書いた日記を見つけた。読んではならないと思いながらも少しでも君の思い出に触れたくてそれを読んでしまった。そこには君の想いが溢れていた。涙が止まらなかった。そして、出来るならもう一度やり直して今度こそ君を幸せにしようと思ったんだ。そうしたら人の寿命を司る神と言うのが現れてね。俺は死神と呼んだのだが、そいつと交換条件をしたんだ。戻してくれる代わりに成功時の幸せな記憶を取り上げると言う約束だった。俺はそれを呑んだ。だってきちんと君が幸せになるなら俺の記憶なんかどうでも良いと思ったからだ。だからここに居る俺は未来から来た俺なんだ。将来の事も知っている。でも、実際にやり直して見ると、当時より二人の関係の進行が速い事に気がついた。幾ら何でも速すぎる。現に四月の中頃に図書委員になって今はやっと六月だ。もう君と俺は恋人同士と周りから思われている。実際の関係は兎も角、心は完全に繋がっていると俺も思っている。そこで色々と疑問が湧いたんだ。だから、これかから大事な事を尋ねるから正直に答えて欲しいんだ」
陽子は俺の長いせりふを頷きながら聴いてくれた。
「陽子、もしかして君も前の記憶を持っているんじゃないのかい?」
尋ねたい事はそれだけだった。もし、そうなら何かも頷けるし辻褄が合う。陽子は下を向いて暫く考えていた。俺は煎れたアイスコーヒーを氷の入ったグラスに注いで行く。パリパリと氷が解けて行く音が響く。俺はそれをそのまま陽子に出した。俺の記憶通りなら陽子はアイスコーヒーはそのまま飲むのが好きだったからだ。
陽子はそのグラスを手に取ると
「覚えておいてくれたのね。嬉しいわ……そう、わたしは前の時の記憶を持っているの。あなたと同じかも知れない。だからこの世であなたとやり直せる事がとても嬉しかったの。私が亡くなる前の晩だった。やはりわたしの所に黒いスーツを着た初老の女性が現れたの。当時のわたしは、あなたに申し訳なさでいっぱいだったの。あなたの事が好きで堪らなかった。日記に書いて自分の気持ちを伝える事にしたのもその為なの。でも書いても自分の心は晴れなかった。だってあなたはわたしの全てだし。あなたの居ない人生なんか考えられなかった。だからやり直せるなら、どんな条件でも呑むつもりだったの」
はやり陽子は俺の思っていた通りだった。だから時々昔の陽子を感じたのだ。
「でもね、わたしにとってはこの世は始めてじゃあ無いのよ」
「それはどう言う意味なんだい?」
「それはね、わたしは何回もやり直しているのよ。今まで何度もやり直しているのだけど、わたしばかり記憶があるから積極的に行ってもあなたが引いてしまって失敗してしまった事が幾度もあるの。それであきらめかけていたら、黒スーツの人が、またやって来て『今度は旦那さんもあなたと同じ想いでこちらにやって来ます。今度は向こうも前の記憶を持っています。これが最後ですから、上手くおやりなさい』と言ってくれたの。だからわたしは今回は必死だった。だってわたしにはあなたしか居ないのよ。あなたが全てだったから」
陽子は涙を流しながら今までの己の事を正直に話してくれた。しかし、何回もやり直していたなんて……俺は全く知らなかった。俺と陽子が結ばれない世界があるなんてっちょっと信じられなかった。
「わたしが病になってからのあなたは本当に無理をしていて、見るのが辛かった。だからあなたに心の底からの笑顔を取り戻して欲しかったの。わたしの願いはわたしの力であなたを幸せにすること……それが出来たらもう心残りは無いの」
陽子の気持ちは痛いほど理解出来た。
「だから黒スーツの人からこの次はあなたも前の記憶を持ってこちらにやって来ると教えられた時は本当に嬉しかった。あなたの気持ちも教えられて、わたしは本当にあなたに感謝したの。だから少しでもわたしとあなたが一緒に居る時間を多く作りたくて急いでしまった。それが返ってあなたに疑問を抱かせるなんて思わなかったの」
陽子はアイスコーヒーが入ったグラスに手を掛けながら俺の顔を見つめている。俺はそっと陽子の背中に回り、陽子を抱きしめる。
「ありがとう……俺は本当に幸せな奴だ。そんなにまで君に愛されていたなんて」
「ううん、いいの。だってあなたのお陰でわたしは幸せな一生を送ったのだし。病で先に亡くなる事は運命だから仕方が無いと思っていた。でも、あなたが、そこまでわたしの事を想ってくれていたと知って、やっぱり、わたしにはあなたしか居ないと想ったわ」
報われた……俺の想いも陽子の想いも報われたのだと想った。その時……。
不意に、何もかもが真っ白になって行く。陽子の姿も己の姿も何もかもが真っ白になって昇華されて行く。そうか、これでお互いの想いが達成されたのかと、最後にそう考えた……。
秋の風が菩提寺の紅葉を揺らしている。陽のあるうちは暖かいが陽が陰ると急速に寒くなる。
今日は陽子の一周忌だ。お寺に行きお経を上げて貰う。お墓に卒塔婆をあげて、陽子が好きだったイタリアンホワイト(向日葵)を備える。陽子は生前この花を良く活けていた。季節外れだが花屋に頼んで仕入れて貰ったのだ。
この花の花言葉は「あなたを想い続けます」だ。俺の気持ちでもあるが何故か陽子の心情もそうなのではと想った。
陽子が向こうでも元気にやってくれている事を祈って墓を後にした。何だか陽子が喜んでいてくれる気がした。
この世界の一人として君を愛す!
<了>
鬱々とした日々を過ごしていた。勿論表面上はそんな素振りは見せない。この辺はオヤジそのものだ。陽子は二人だけになると俺に甘える様になって来た。そう言えば前の時も結婚したばかりの時はこんな感じだったと思い出した。だから、俺の考えはやはり当たっているのでは無いかと、段々思い始めていた。
そんな時。転機と言うかチャンスが訪れた。両親が町会の旅行で家を空けると言うのである。しかも妹はその時は中学の林間学校で家には居ないと言う。まあ、妹が家に居ないので両親が旅行に出掛ける事にしたのだが……。
「留守番頼むわね」
その日、母親はそんな言葉を残して父親と町会が用意した大型バスに乗り込んで行った。
土曜日の朝は夏を思わせるように太陽が輝いていて、五月晴れだった。
『今日しかない』
そう決断出来た。誰にも聞かれずに二人だけの空間と時間が作れる。その日の登校の時に陽子に
「今日は誰も家に居ないから、ウチに来ないか。勉強しても良いしさ。LP買ったからそれを聴かないか?」
「誰の買ったの?」
「陽子の好きな『かぐや姫』さ」
「ああ、聴きたかったの! 嬉しい!」
話は簡単について、帰りに陽子の家まで送って行って、陽子が着替えたらそのまま乗せて俺の家まで行く事になった。
決まったので、どんな言葉で陽子に尋ねようか授業も全く耳に入らず考えていた。オヤジだから色々な文言が浮かぶが、どれが良いか決められない。窓際の陽子を見ると目が合って、陽子が嬉しそうに微笑んだ。堪らなく可愛い。あんな天使みたいな陽子を悲しませずに訊き出さないとならないと考えた。
授業が終わり陽子を後に乗せて一路陽子の家を目指す。お昼は母親が何か作っておいてくれたのでそれで済ますつもりだった。
「ねえ憲くん」
背中で陽子が話しかける。この頃は既に陽子は俺の事を「憲司くん」から「憲くん」と呼ぶようになっていた。前の時もそう呼んでいたと記憶している。実はこの所陽子にどう訊きだすかを考えているせいか、前の幸せだった時の記憶が薄れている。まさか、もう死神が約束を実行しているのでは無いかと不安になる。尤も記憶を死神に取られたなら陽子の事も何もかも判らなくなってしまうのだろうが……。
「何だい?」
「あのね。わたし、もしかして一番幸せかも知れない」
「え、どうして?」
「だって、好きな人が漕ぐ自転車に乗せて貰って、一緒に移動しているのよ。まるで人生を一緒に生きてる感じがするじゃない。これって素晴らしい事じゃないかと思うの」
それは俺も背中で陽子を感じながら思っていた事だった。実際、前の時は結婚して陽子が亡くなるまで一緒に暮らしたのだ。
「本当に一緒に生きても良いとは思わないかい」
冗談めかしてはいたが、俺の本心だったし、もう一度こうしてやり直しているのは陽子を心の底から愛し、幸せにしたかったからだ。
「そうなればいいな……わたしもそう思っているの」
陽子は何気なく言ったかも知れないが以前の陽子は結婚に関しては大学に進んでから言うようになったと記憶している。高校のしかも一年生の時はそんな事は全く口にしてなかったはずだ……薄れがちな記憶をたぐり寄せても、それだけは思い出せた。間違いない……決心はついた。
家に着くと、まずお昼ご飯を食べる事にした。既に昼の一時を過ぎている。お腹はかなり空いていた。母親はカレーを用意してくれていた。カレーの鍋を温める。俺がやろうとしたら陽子がやってくれた。
「この次は、わたしが何か作ってあげるわね。これでも料理は得意なのよ」
それは俺が一番よく知っている。その恩恵を陽子が病で入院するまで受けたからだ。
「美味しい! お母さん料理上手なのね」
確かに美味しかったが、陽子はカレーを温める時に冷蔵庫を見て牛乳を取り出して、使っても良いか尋ねたのだ。俺は何をするのか判らなかったが許可を出す。すると陽子はカレーに牛乳を加えて温めたのだ。だから風味が増してより美味しくなったのだった。これも以前陽子が良くやっていた事だった。
食べ終わって、コーヒーを入れることにする。もう夏なのでアイスコーヒーなのだが、前の時はスーパーに行けば無糖のアイスコーヒーが簡単に買えたが昭和のこの頃はそんなものは滅多に手に入らなかった。たまに見かけても砂糖がたっぷりと入っていたり、コーヒー牛乳もどきのものが大半だった。自然と俺は豆を買って来てこの頃やっと浸透し出した。ペーパーフィルター方式で自分で煎れてていた。
沸騰した薬缶のお湯を少しずつ粉になったコーヒーに浸透させて行く。そんな様子を陽子は身ながら
「憲くんのコーヒー美味しいものね。ああ良い香り」
何気なく言ったのだが、この言葉が良い切っ掛けとなった。
「ねえ、正直に答えてくれると約束してくれるかな」
いきなりの俺の言葉に陽子はちょっと驚いて
「え、なぁに。正直って……わたし憲くんに何時も正直に接しているわよ」
「うん。それは判っている。だけど、これから俺が尋ねる事は大事なことなんだ」
散々考えた文言とは全く関係の無い言葉が口をついて出る。
「大事な事?」
「ああ……実は俺は未来から来たんだ」
「未来?」
陽子に説明をするのには簡単に理解しやすい方が良かろうと思った。
「俺たちは将来結婚して夫婦になる。それは幸せな人生だった。でも君は数十年後進行性のガンで亡くなる。その当時でも直す手立てが無かったんだ。俺はそれを運命だと思い受け入れた。そして君が少しでも穏やかに過ごせるようにしたんだ。でも亡くなった後に君が書いた日記を見つけた。読んではならないと思いながらも少しでも君の思い出に触れたくてそれを読んでしまった。そこには君の想いが溢れていた。涙が止まらなかった。そして、出来るならもう一度やり直して今度こそ君を幸せにしようと思ったんだ。そうしたら人の寿命を司る神と言うのが現れてね。俺は死神と呼んだのだが、そいつと交換条件をしたんだ。戻してくれる代わりに成功時の幸せな記憶を取り上げると言う約束だった。俺はそれを呑んだ。だってきちんと君が幸せになるなら俺の記憶なんかどうでも良いと思ったからだ。だからここに居る俺は未来から来た俺なんだ。将来の事も知っている。でも、実際にやり直して見ると、当時より二人の関係の進行が速い事に気がついた。幾ら何でも速すぎる。現に四月の中頃に図書委員になって今はやっと六月だ。もう君と俺は恋人同士と周りから思われている。実際の関係は兎も角、心は完全に繋がっていると俺も思っている。そこで色々と疑問が湧いたんだ。だから、これかから大事な事を尋ねるから正直に答えて欲しいんだ」
陽子は俺の長いせりふを頷きながら聴いてくれた。
「陽子、もしかして君も前の記憶を持っているんじゃないのかい?」
尋ねたい事はそれだけだった。もし、そうなら何かも頷けるし辻褄が合う。陽子は下を向いて暫く考えていた。俺は煎れたアイスコーヒーを氷の入ったグラスに注いで行く。パリパリと氷が解けて行く音が響く。俺はそれをそのまま陽子に出した。俺の記憶通りなら陽子はアイスコーヒーはそのまま飲むのが好きだったからだ。
陽子はそのグラスを手に取ると
「覚えておいてくれたのね。嬉しいわ……そう、わたしは前の時の記憶を持っているの。あなたと同じかも知れない。だからこの世であなたとやり直せる事がとても嬉しかったの。私が亡くなる前の晩だった。やはりわたしの所に黒いスーツを着た初老の女性が現れたの。当時のわたしは、あなたに申し訳なさでいっぱいだったの。あなたの事が好きで堪らなかった。日記に書いて自分の気持ちを伝える事にしたのもその為なの。でも書いても自分の心は晴れなかった。だってあなたはわたしの全てだし。あなたの居ない人生なんか考えられなかった。だからやり直せるなら、どんな条件でも呑むつもりだったの」
はやり陽子は俺の思っていた通りだった。だから時々昔の陽子を感じたのだ。
「でもね、わたしにとってはこの世は始めてじゃあ無いのよ」
「それはどう言う意味なんだい?」
「それはね、わたしは何回もやり直しているのよ。今まで何度もやり直しているのだけど、わたしばかり記憶があるから積極的に行ってもあなたが引いてしまって失敗してしまった事が幾度もあるの。それであきらめかけていたら、黒スーツの人が、またやって来て『今度は旦那さんもあなたと同じ想いでこちらにやって来ます。今度は向こうも前の記憶を持っています。これが最後ですから、上手くおやりなさい』と言ってくれたの。だからわたしは今回は必死だった。だってわたしにはあなたしか居ないのよ。あなたが全てだったから」
陽子は涙を流しながら今までの己の事を正直に話してくれた。しかし、何回もやり直していたなんて……俺は全く知らなかった。俺と陽子が結ばれない世界があるなんてっちょっと信じられなかった。
「わたしが病になってからのあなたは本当に無理をしていて、見るのが辛かった。だからあなたに心の底からの笑顔を取り戻して欲しかったの。わたしの願いはわたしの力であなたを幸せにすること……それが出来たらもう心残りは無いの」
陽子の気持ちは痛いほど理解出来た。
「だから黒スーツの人からこの次はあなたも前の記憶を持ってこちらにやって来ると教えられた時は本当に嬉しかった。あなたの気持ちも教えられて、わたしは本当にあなたに感謝したの。だから少しでもわたしとあなたが一緒に居る時間を多く作りたくて急いでしまった。それが返ってあなたに疑問を抱かせるなんて思わなかったの」
陽子はアイスコーヒーが入ったグラスに手を掛けながら俺の顔を見つめている。俺はそっと陽子の背中に回り、陽子を抱きしめる。
「ありがとう……俺は本当に幸せな奴だ。そんなにまで君に愛されていたなんて」
「ううん、いいの。だってあなたのお陰でわたしは幸せな一生を送ったのだし。病で先に亡くなる事は運命だから仕方が無いと思っていた。でも、あなたが、そこまでわたしの事を想ってくれていたと知って、やっぱり、わたしにはあなたしか居ないと想ったわ」
報われた……俺の想いも陽子の想いも報われたのだと想った。その時……。
不意に、何もかもが真っ白になって行く。陽子の姿も己の姿も何もかもが真っ白になって昇華されて行く。そうか、これでお互いの想いが達成されたのかと、最後にそう考えた……。
秋の風が菩提寺の紅葉を揺らしている。陽のあるうちは暖かいが陽が陰ると急速に寒くなる。
今日は陽子の一周忌だ。お寺に行きお経を上げて貰う。お墓に卒塔婆をあげて、陽子が好きだったイタリアンホワイト(向日葵)を備える。陽子は生前この花を良く活けていた。季節外れだが花屋に頼んで仕入れて貰ったのだ。
この花の花言葉は「あなたを想い続けます」だ。俺の気持ちでもあるが何故か陽子の心情もそうなのではと想った。
陽子が向こうでも元気にやってくれている事を祈って墓を後にした。何だか陽子が喜んでいてくれる気がした。
この世界の一人として君を愛す!
<了>