「氷菓」二次創作

「氷菓」二次創作  あと少しだけ

 ここの所めっきり日の暮れるのが早くなった。気温も今年は一気に下がって寒くなるのだそうだ。暑さは兎も角、寒さだけは余りお近づきにはなりたくない。
 今年の文化祭も終わった。例年通りに古典部には災難が降り掛かったが、それは機会があったら述べるとしよう。
 「あの日」から千反田の顔から以前のような笑顔が消えた。俯いて考え事をしている事が多く、何か冗談を言っても、一応笑顔は見せるが以前の感じではない。自然と古典部には重い空気が漂っていた。

 ある日のこと、千反田が部室に来なかった。伊原が顔だけ出して
「ちーちゃんは家の用事で今日は休むそうよ。伝えたからね」
 そう言って行ってしまった。今日は俺一人と思っていて、文庫を十ページも読み進めた頃に里志がひょっこりと顔を出した。
「どうした、珍しい事もあるものだな。お前一人なんて」
 何気なく挨拶代わりに言った言葉だが
「摩耶花は今日も河内先輩と漫画を書いてるよ。何でも次の公募が見つかったので、それに向けて忙しいのだそうだ。漫画なら僕が何か手伝う事は無いからね。それで古典部に来てみたんだ」
 里志は手に持っていた巾着を机に置くと、俺の隣に腰掛けた。
「何だ? 改まって話でもあるのか?」
 すると里志は俺が思ってもみなかった……いや、心の底に蹲っている事を訊き出した。
「ねえ、夏休み明けからの千反田さんなんだけど、何か前と感じが違う時が多い気がするんだけど、ホータローは何か知っているのかな?」
 ある意味、俺が一番訊かれたくない事柄だったかも知れない。正直に言うべきか、言わざるべきか悩んだが、里志の反応を見ながら話を進めることにした。
「千反田は、今まで家を継ぐ事を自分の人生の柱にして生きて来たろう?」
 突然、確信的な事柄だったので、里志は俺の正面を向いて座り直した。
「そうだね。千反田さんは一人っ子だし。他に家を継ぐ者がいる訳ではなさそうなので、当然そう言うことになるだろうね」
 何も知らなければ当然の答えだと俺も思う。
「その前提がひっくり返ったらどうする?」
 俺の言い方がおかしかったのか、里志は暫くその意味を理解出来ずに居た。俺は再度
「家を継ぐことを考えなくて良いと言われたら千反田はどうすると思う?」
 はっきりと事柄を伝えた。里志は驚きながらも半分笑いながら
「まさか、鉄吾さんが千反田さんにそう言ったのかい?」
 そう言って俺の目を見据えた。その瞳には明らかに疑いの色が見て取れた。
「信じられないのも無理は無いと思う。正直俺も最初に聴いた時は『まさか』と思った」
 里志は左手を顎に添えると考えながら
「親としては、家を継ぐと言う決まった人生よりも、もっと広い世界に羽ばたいて欲しいと思うのは当然だと思うけど、千反田さんは、それを全て受け入れて、その上で自分をどうするか考えていたのだから、困惑するだろうね」
「そう言うことだ。だから俺もどうして良いやら……」
 事実、あれから千反田と「その件」に関して話したことは無い。文化祭やら何かで忙しかった事もあるが、意識的に避けて居たことも事実だ。
「実は、摩耶花も心配していてね。千反田さんが何も言わないから、ホータローに直接尋ねようか迷っていたそうなんだ。ならば僕も真相を知りたいから、今日はいいチャンスだから訊いてみたんだ」
 そうか、伊原にも千反田は打ち明けていなかったと言う事が正直驚きだった。考えて見れば、漫画家になる事を夢見て、しかも頑張れば手の届きそうな位置にいる伊原と、考えていた地盤が崩落してしまって、最初から築かなければならなくなった自分とでは随分立場も違ってしまったと言う事なのだろう。
「そうか、ところでお前らは順調なのか?」
 俺がそんな事を尋ねるとは思っても見なかったのだろう。里志は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして
「僕たちは順調だよ。尤も摩耶花が賞を取ってプロになっても今は神山でも活動出来る時代だしね。摩耶花より自分のことを考えなければならないよ」
 そう言って窓から遠くを見ていた。
「で、それは決まったのか?」
「これからだよ。ホータローだって決まってはいないのだろう?」
 確かに、その通りで俺もそろそろ進路を決めければならない。
「事情は理解したよ。でもこれは僕達が手伝ってあげられることは無いかも知れないね。千反田さん本人が決めなければならない事なんだろうね……じゃ僕は行くよ。正直、摩耶花も答えを知りたがっていたしね」
 里志はそう言って机に置いた巾着を手に持つと地楽講義室を出て行った。教室は再び俺一人となった。

 文庫を切りの良い所まで読むと帰る事にした。続きは家で読むつもりだった。
 日の暮れかかった校庭を歩いて行くと、長い影が伸びて校門に掛かっていた。その影を手繰るように校門まで歩いて行く。
 校門を出たところにある橋の上で自転車のハンドルを持った一人の人が俺を待っていた。
 私服姿の千反田だった。プリーツの入った濃紺のスカートに白のブラウス。その上に萌黄色のカーデガンを羽織っていた。カーデガン以外は直前まで、正式な装いが必要な場所に赴いていたことを表していた。家の用事とはそのようなものなのだろう。
「用事は済んだのか?」
「はい、今日は午前中で早退しましたから、もう済みました。水梨神社に今年の収穫を感謝する行事でした。それ自体はもう済んだので……」
 千反田の言い方と俺と目を合わさないので、その行事に関しても何か言われたのだろうと推測出来た。
「何か言われたのか? 家を継がないなら出なくても良いとか」
 余りにも飾りのない言葉だが他に言い様がなかった。
「そうですね。遠回しには言われました。でもわたし自身気持ちが揺れ動いていますので、やはり出た方が良いと思ったのです」
 答えの出せない中で最善の道を類ったと言う事なのだと理解した。
「時間あるのか?」
「はい、家の者は行事や直会で遅くなりますから。少し遅くなっても大丈夫です」
 俺も、今日は親父も出張で帰って来ない。姉貴も大学だから今日は神山には居ない。
「俺しか居ないがウチに来るか? 表だとこれから冷えるからな」
 別に千反田を取って食おうとは思っていない。誰も邪魔の入らない空間と時間が欲しかった。
「折木さんさえ良ければ……」
「じゃ決まりだ。兎に角冷えることは無いのは約束する」
 千反田が自転車を押して俺と並んで歩いて行く。
「どうして学校まで戻って来たんだ?」
 今更だとは思うが、今日戻って来なくても良かったのだ。次の休みに逢っても良いし(その癖ここの所そのことから逃げていたのだが)別に時間を作っても良かった。
 千反田は俺の意図をすぐ理解し
「家の行事に参加して、やはり折木さんに自分の気持ちをもう一度聞いてほしくなったのです。折木さんなら聞いてもらえると思いまして……」
 俺は今日、里志が尋ねた事を話し、伊原も心配している事を伝えた。
「自分のことなのに皆さんにご心配をおかけして本当に申し訳ないです。わたし、自分がこんなに弱い人間だと初めて知りました」
「お前が弱いんじゃない。誰でも急に梯子を外されたら困惑する」
 俺の言葉に千反田は黙っていた。答え難い話だとは理解していたので、そのまま黙って家まで歩いた。

「何もないが、温かい紅茶ぐらいは入れられる」
 そう言って玄関を開け、千反田を招き入れた。
 リビングに通してソファーに座らせると台所で薬缶に水を入れて火に掛けた。
「何が良い? 紅茶か、お茶か? 即席だったらココアもある」
「じゃあ、紅茶をお願いします」
「判ったちょっと待っててくれ」
 誰も居ない家に千反田を招き入れて良かったのかと思ったが、今は千反田の本音を訊き出して、千反田の負担を減らしてやらねばと思った。今現在、千反田がこの事に関して本音を出せるのは自分しか居ないのでは無いかと考えたからだ。
 台所を捜索すると「ダージリン」と「フォートメイソン」が見つかった。どちらも姉貴の物だ。両方とも少し使った跡があった。
「『ダージリン』と『フォートメイソン』どちらが良い?」
 台所から声を掛けると、千反田は俺の傍までやってきて、紅茶の缶を手にとって眺めた。
「『ダージリン』はトワイニングで、『フォートメイソン』と言うのは、「フォートナム&メイソン」と言う会社が出している紅茶の種類だ」
 俺の拙い英語の読解力と以前姉貴が言っていた事を思い出した。
「『フォートメイソン』なんて珍しいですね。ここのはミルクティーで飲むと美味しいのですが、これだけはストレートで飲んだ方が美味しいのです。中国茶が僅かにブレンドされていてわたしは好きな銘柄です」
 恐れ入った。俺なんか多分、姉貴が買って来た時に飲んでいるのだろうが全く憶えていなかった。大体が紅茶よりコーヒーと言う口だからなのだが……
 それから後は千反田が全てを取り仕切った。俺は紅茶に合いそうなクッキーを戸棚から見つけて出しただけだった。
 千反田はリビングで紅茶を飲むと
「久しぶりですが、やはり美味しいです。これを飲めただけでも折木さんの家に寄らせて戴いて良かったです。ここの所気が塞ぐ事が多かったのですが、美味しいものを頂戴すると気持ちも晴れますね」
 そう言った千反田の顔は久しぶりに見る笑顔だった。
「親父さんは何と言っているんだ?」
 ここはストレートに尋ねてみた。
「はい、父は、家のことは考えなくても良い。ここは自由にお前の好きな道を選べば良い。と言いました。でも、正直言って今更そんな事を言われても困ると思いました。幼い事から家を継ぐ期待を掛けられ、行事にも参加させられ教育を受けて来ました。それなのに今更なんです。今更自由にしても良いと言われても困るんです。ならば神高でも理数系じゃ無く文化系に進みたかった気持ちもありました。歴史や文学も好きだったからです。どうして良いか判らずにいました」
 千反田の暗い顔にはそんな秘密があっただろうとは考えていたが、俺には理解してやることは出来ても、普段の「気になる」とは違って解決してやる事は出来ない。
「でも、折木さんが少しでもわたしの気持ちを理解してくれていると言う事が判って。わたしの気持ちも落ち着きました。未だ時間はあります。理数系で進学するにも、色々学部も選べます……折木さん! わたしの心がどこかに行かないように、しっかりと抱きしめて下さい」
 気がつくと千反田が目前に居た。思わず、その細い両肩をそっと抱きしめる。
「こうか?」
「はい、嬉しいです」
 既に日は暮れて夜の帳が落ちていた。千反田は遅くなっても良いと言っていた。ならば、暫くこのままでいようかと考える。
「折木さん……あと少しだけ、あと少しだけこのままでいてください」
 千反田の潤んだ瞳を見詰め、一番大事な人だと悟る……。
 柔らかな体を抱く腕の力を少しだけ強くすると、千反田も俺の背中に手を回す。
 遠くから虫の声が聞こえ二人を包んでいた。

                                                              <了>

「氷菓」二次創作  「あなたの暮らす街」

 新幹線「のぞみ」は滑るように東京駅のホームに到着しました。わたしは少しばかりの荷物を持つとホームに降り立ちます。折木さんの住む街東京にやって来たのです。

  東京には何度か訪れていますが、今までは常に誰かが一緒でした。子供の頃は両親が一緒でした。高校を卒業して、わたしと折木さんとが別々の街で暮らす事が 決定的になると、わたしは折木さんの住むアパートに引っ越しの手伝いをしに来ました。だから、たった一人でやって来たのは初めてなのです。

 わたしも大学生です。一人で京都から東京までやって来るのは訳もありません。でも、今回の上京について、わたしは心にある不安を抱えていたのです。

  山手線に乗り換えて数駅。そこで地下鉄に乗り換えます。そしてまた幾つかの駅を乗り過ごすと折木さんが住んでいる街に到着します。東京は本当に大きいと思 います。神山ならとっくに市街を出てしまっています。わたしの住んでいる京都も神山に比べると大きいと思いましたが東京はその比ではありませんでした。

 エスカレーターを登り最後は階段を駆け上がるように昇るとやっと地面に出ます。お陽様がわたしを照らしてくれました。これは東京も神山も同じと思います。

 商店街を歩きながら「買い物をして行こうか」迷いますが、後にする事にしました。今は少しでも早く折木さんのアパートへ直行したいからです。


  神山高校を卒業した古典部の面々は、福部さんと摩耶花さんが県内の同じ大学に進学しました。今では岐阜市内で一緒に暮らしています。わたしは京都の大学の 農学部に進みました。それに対して折木さんは東京の大学で「農業経済学」について学ぶ事を決意したのです。それが、やがてはわたしの為、ひいては千反田家 の為であり、将来は神山の為だと信じていたからでした。

 正直、その事を告げられた時はショックでした。「一緒に暮らせる」と信じていたわたしは遠くはなれた地で暮らす事なぞ思いも依らなかったのです。

「大丈夫だ。新幹線ならすぐだし、それにたった四年間だ。すぐ過ぎてしまうよ。携帯で毎日やり取りすれば寂しく無いし、声も聴ける」

  そんな事を言ってはいましたが、それが折木さん特有の強がりだと、すぐに判りました。お互いどの様な所に住むのか確認し合いました。合鍵も交換したので す。それが今年の春でした。大学に入ると想像以上に理系は大変でした。一年から実験があったからです。勿論、ゼミのではありません。実験科目の実験です。 それのレポートの提出も思ったより大変でした。

 何しろ、わたしも一人暮らしは初めてでしたので、色々な事に慣れるまで時間がかかったのです。

  きっとそれは折木さんも同じだと思います。入学当初は長い時間のやりとりだった携帯での会話も、段々と短くなり、時にはおざなりな感じになって来ました。 そして時には会話さえしない日も出て来ました。これではいけないと思いますが、なんせ自分も部屋に帰って来て電話しようと時計を見て十時を遥かに過ぎてい ると携帯を開ける手が停まってしまいます。

「遅くかけると、迷惑かも知れない」

 ……ううん、本当は違います。

「出なかったら、どうしよう? 電源が切れている圏外と言われたら……」

 そんな弱気な想いがボタンを押す手を緩めさせるのです。本当はそんな事無しに

「きっとわたしの電話を待っていてくれるはず……」

 そう想いたいのにです。

 一度、思い切って電話をしてみました。時間は十時を少し過ぎた頃でした。

「……留守番電話が要件を伺います。ピー」

 そこで通話のボタンを切りました。何かの用事で電話に出られないのですね。仕方ありません。もしかしたら、着信記録を見てこちらに掛けてくれるかも知れません。

 携帯を手にベッドに潜り込みます。着信のランプが光るのを見逃さないように手に握りしめます。でも夜半まで着信のランプが光る事はありませんでした。気が付くと朝日が登っています。

「今夜こそ掛かって来るかもしれない。いいえ、お昼休みには……」

 そんな虚しい期待を込めて大学に行く為に部屋を出ます。睡眠不足には初夏の太陽は余りにも眩し過ぎました。

 そんな時でした、かほさんが京都に用事でやって来たのです。大学の休みに家の用事を兼ねて京都にやって来たのでした。勿論当初は日帰りだったのですが、かほさんが余裕を保たせたのでわたしの部屋で一泊することになりました。

「やっほー える元気だった?」

「かほさん。元気ですよ。かほさんも元気そうで」

「うん、相変わらずやっているわ」

 そんなやり取りがとても嬉しいです」

「える、少し痩せた?」

「え、そうですか?」

「うん、何か痩せたというよりやつれた感じが……何か心配事があるのね。良かったら相談に乗るわよ」

 やはり幼い頃からの親友には顔色を見ただけで判ってしまうのですね。わたしは自分の不安を正直にかほさんに述べました。

「行ったら良いと思う」

「え? 東京にですか?」

「そう、実際に行って顔を見てくれば良いと思う」

 かほさんの答えは大胆でした。沈着冷静な印象が強いかほさんですが、意外と行動派なのです。

「ここで毎日暗くなって考えるより、行って見て話をすれば良いと思う。わたしなら、そうする。その為の時間を作るわ」

 わたしも行けるなら、そうしたいとは思っていました。でも今は実際に連絡も満足に取る事が出来ません。

「何言ってるの! 何の為の合鍵なの! 部屋の中には入れるから最低でも野宿はしなくても済むでしょう。遅くなっても折木くんが帰って来れば話は出来るじゃない」

 そうでした。わたしは自分でも知らず識らずに逃げていたのだと、その時自覚したのです。

 それからは、東京に行く為の時間を拵える事が重要になりました。実験のレポートも一番に早く書きあげて提出します。それやこれやで、やっと土日を利用して一泊二日で東京に行く事が出来るようになりました。その旨をメールで連絡します。すぐに電話で返事がありました。

「大丈夫なのか? 俺なら心配するな! ちょっと忙しいだけだ。何の問題も無い」

 喜んでくれている声でした。それを耳にしただけでも胸が熱くなります。『同じだった』そう感じました。折木さんもわたしと同じ想いだったと……

「行きます! ……行きたいんです。駄目ですか?」

 本当は心の中のことを全て言ってしまいたいのですが、それ以上言葉が出ません。

「俺も逢いたい……だが、お前はこの時期にこちらに来て、大丈夫なのか? 俺はそれが心配だ。だから遅くなると電話は勿論、メールも遠慮していたんだ」

 万が一、心が遠くなってしまったのか? という不安はありましたが、杞憂でした。わたしの折木さんは、そのような人ではありませんでした。

「何時来る?」

 日時を言うと声が曇りました。

「その日はバイトなんだ。以前シフトを変わって貰ったから、どうしても休めないんだ。すまん」

「大丈夫です。留守の間にお邪魔してご飯作って待っています」

「すまん……いや、ありがとう!」



 初夏のお陽様に照らされて、地下鉄の駅から数百メートル歩き、商店街を抜けた場所に折木さんの住むアパートはありました。二階建ての白い建物で、一階は二間の間取りの部屋割りになっていて家族向きになっています。二階は六畳の間取りの部屋が幾つも並んでいます。

 階段を登り突き当りの部屋に向かいます。茶色のドアの鍵穴に鍵を差し込んで廻すと鍵が解かれました。ドアノブをゆっくりと廻すとドアが開きました。

 最初に感じたのは折木さんの匂いでした。久しく触れていなかった恋しい人の記憶がフラッシュバックのように蘇ります……正直、これだけだけでも来た甲斐があると思いました。

 靴を脱いで部屋に上がります。上がった場所が三畳ほどの台所です。その奥に六畳の部屋があります。右側にはトイレと、お風呂が並んでいます。

 部屋はカーテンが掛かっていて薄暗くなっています。台所の小さなテーブルに荷物を置いて六畳の部屋に向かいます。カーテンを開けると陽の光が一斉入り、部屋の様子を一変させます。

  ベッドの上には起きたままの布団の形がそのまま残っています。その上には脱ぎっぱなしのパジャマ。その向かいには机と本棚が並んでいます。確か、この本棚 は折木さんが実家の自分の部屋から持ち込んだものです。そこに何冊もの本が並んでいます。その殆んどが経営関係の本です。それと農業関係の本もあります。 それらの内の何冊かはわたしが送った本です。ちゃんと読んでくれている跡があり嬉しくなります。電話で言っていた事は本当でした。

 ベッドメイクをしてパジャマを畳みます。どうやら洗濯したてのようで、昨晩降ろしたみたいでした。これは洗濯する必要は無いと思いました。

  お風呂の脇にある洗濯機を覗きこむと幾つかの洗濯物が入っていました。洗剤を入れてスイッチを入れます。洗濯機が動き出したので、冷蔵庫を開けてみます。 中にはコーラやコーヒーのたぐいの飲み物以外は入っていませんでした。シンクを見ると渇いています。長く水を使った形跡がありませんでした。

 只、寝るだけに帰って来ているのだと思うと少し悲しくなりました。わたしさえ傍に居れば、こんな事にはならなかったと……いつの間にか自分を責めていました。

  ふと壁に掛かったカレンダーに目が行きます。それには今日の日が赤く囲んでいました。そして赤い字で『千反田』と……その文字、自分の名を見た瞬間に心の 中から熱い想いが湧きだして涙が頬を伝わりました。何故だか自分でも判りません。只、嬉しかったのです。赤い丸で囲むほど待っていてくれたのかと……


 荷物を解いて買い物に行く事にします。今日は何にしましょうか? 折木さんの好きな献立にしましょう。台所の隅にあったお米入れをみると半分ほどありました。先日、実家から送って貰った千反田のお米です。でも自炊する暇もないとは思いませんでした。

 商店街の小さな個人でやっているスーパーに入りました。このようなお店は以外と値段と品質のバランスが整っているのです。

 最初に野菜を買います。色々な野菜を買ってしまいました。良く考えれば今日届くように実家から送って貰えば良かったかな? とも思いましたが、ここは自分が頑張らなければと思い直します。

  お肉も買って帰路につきます。帰ったらお部屋を掃除してから料理に取り掛かります。そうです! お風呂も掃除しなくてはなりません。先ほど少し覗いたら、 普段はシャワーだけなのでしょう。湯船は渇いていました。追い焚き機能があるお釜でしたから、湯船に浸かっていれば水のなごりがあるはずです。

 帰って来て買い物を冷蔵庫に入れると、掃除に取り掛かります。埃や汚れのあるお部屋で折木さんを過ごさせたくありません。お風呂場も掃除をしておきます。帰ったら気持よくお風呂に入って欲しいです。


夕食の献立は「南瓜の煮物」「茄子のしぎ焼き」「豚肉の生姜焼き」にしました。もっと凝った献立でも良かったのですが、以前、このようなのが好みと言っていた記憶があります。

 気が付くと既に暗くなっていました。陽の長いこの時期なら時間は既に夜間と呼ばれる時間になっていました。正直、夕方には帰って来ると思っていましたから、少し心細くなりました。

 そんな事を思っていた時でした。ドアが開いて

「ただいま~ える来てるのか?」

 今までで一番聴きたい声でした。

「おかえりなさい! 来ちゃいました!」

思い切り笑顔を作って出迎えます。そんなわたしを見て折木さんは

「ありがとう。こんな俺の為に京都から来てくれて……それなのに遅くなってすまん。残業までやっていたから……でも、そのおかげで、明日は一日一緒に居れられる。お前が帰るまでずうっと一緒だ」

 その言葉を最後まで聴く前に折木さんの胸に飛び込みます。そして背中に腕を回して思い切り抱きしめます。同じように折木さんもしっかりとわたしを抱きしめてくれます。

「逢いたかった……」

「わたしもです……」

 その後は言葉になりませんでした。言葉で伝えなくても心が通い合ってると実感した瞬間でした。

「神山を出てからそう月日が経っていないのに、考えるのはお前のことばかりだ。京都でどうしてるのか、上手くやっているのだろうか? とかそんな事ばかり考えている。全く困ったものだと自分でも呆れているんだ」

「同じです……今日もこちらに来て見て、冷蔵庫に何も入っていないので悲しくなりました。わたしが傍についていれば、とつくづく思いました」

 そんな事を言った途端唇が塞がれました。折木さんの熱い想いがわたしの想いと交差して重なり合いました。

「折木さん」

「千反田」

 もう一度想いを交差させます……

 台所の小さなテーブルに座って落ち着きを取り戻します。

「部屋に来てみて、何も無いのに驚いたか?」

「はい、飲み物しかありませんでしたから、驚くと言うより悲しくなりました」

「すまん。実は食事はバイト先で出してくれるので、食費を浮かしているんだ。朝は食べずに昼は学食で済ます事もあるしな」

 そう言えば少し痩せた感じがします。先ほど抱きしめた時にも感じました。

「食費を浮かせなければならないほど苦しいのですか?」

 つい思っていた事が口から出てしまいました。まさか本当に苦しいとは思っていませんでしたが、折木さんの口から出た言葉は意外なものでした。

「千 反田、今回はお前がこうして京都から来てくれて本当に嬉しいよ。でもこれから先は、お前はこちらに来るのが難しくなるだろう。そんな顔をするな。いいか い、これから先はお前はゼミに入るだろう? そうすれば色々な研究が待っている。一旦研究を始めれば結果が出るまで休む訳には行かなくなる。そうすれば京 都を離れられなくなる。俺はその時に備えてバイトをしてお金を貯める事にしたんだ」

 正直、折木さんの言ってる内容が理解出来ませんでした。

「折木さん。何故、わたしの研究が忙しくなると折木さんがバイトしてお金を貯める事になるのですか?」

 わたしの質問に折木さんは前髪を触りながら

「東京と京都を行き来するにはお金が掛かる。まさか、そんな費用まで親に頼る事は出来ない。だから俺はバイトして貯金する事にしたのだ」

「ですから、その意味が……」

「俺が京都に行く! お前を支えに俺が京都まで出向く。今回、お前が来てくれたように、俺がお前のアパートまで出向いて色々と世話をしてやるよ。炊事、洗濯、掃除、何だってやってやるよ」

 意外でした。まさか、そんな事を折木さんが考えてくれているなんて、全く思っていませんでした。

「理系はな、結構実験が大変なんだぞ。ウチの姉貴も実験では相当遅くなる日もあったし、時には日曜で研究室に出向く日もあった。お前の様な農学部なら実験の結果も長期間見なければならないだろう? そんな時、少しでもお前の役に立てれば良いと思っている」

「そうだったのですか……でも、折木さん自身は大丈夫なのですか?」

「だから、なるべく多くの科目を取っている。四年までには殆どの単位を取ってしまおうと思っている。大学に行くのは週一ぐらいになるようにな。その頃、お前はきっと実験やら進学で大変だろう?」

「進学ですか?」

「ああ、お前ほどなら、きっと大学に残る話も出るかも知れない。そんな時俺が足を引っ張っては申し訳ないからな」

 折木さんは、そんな先の事まで考えてくれていたのでした。わたしは目の前の事しか頭に入っていませんでした。

「ありがとうございます! 嬉しいです。でも……」

「でも? ……」

「もっと声を聴きたいです。お話もしたいです! せめて離れているなら……」

 わたしの声が終わらないうちに抱きしめられました。

「すまん……寂しい想いをさせて本当にすまん」

 思い切り折木さんの胸で甘えます。本当にわたしが求めていたのは、これだったのかも知れません。


「さあお腹が空いた。今日はバイト先で食事をしないで帰って来たんだ」

 勿論、そうだと思っていました。お味噌汁を温め、ご飯をよそいます。お茶碗を持つ手の指先が触れ合うだけで喜びが体を駆け抜けるのが判ります。

「旨い! やはり俺はお前の味付けが一番だと実感するよ」

「沢山食べてくださいね」

 何気ない言葉のひとつひとつが嬉しさを含んでいます。

 食事の後は、ベッドに腰掛けて折木さんの膝に抱かれながら一緒にテレビを見ます。幸せとは、このようなものでしょうか? 今、わたしは何も要らないと思いました。傍に折木さんさえ居れば良い。そう考えていました。

「お風呂湧いていますよ」

 先ほどお風呂のスイッチを入れておいたのでした。

「狭いから一緒には入れないな」

 冗談とも本気とも言えない事を笑顔で言って、折木さんはお風呂に向かいました。

 その後、わたしもお風呂に入ります。上がると折木さんが冷たい飲み物を出してくれました。コーラを飲めないわたしに別な飲み物を買って来てくれました。

 汗が引くと折木さんが

「明日は何処へ行く? どこか行きたい所あるか」

 わたしはどこでも良いのです。折木さんと二人で居られるなら何処でも構いません。

「どこでも良いです。明日は夜の新幹線で帰りますから大丈夫です」

「そうか、なら何処か綺麗な花が咲いてる所にでも行こうか。神山なら色々な場所があるけどな」

「はい! 楽しみにしています」


 その後、折木さんが部屋の明かりを消しました。先に横になります。わたしも隣に並んで横になります。

「客布団出せば良かったかな?」

「いいえ、要りません」

 既に折木さんの手が私の体を弄っています。その仕草に体が喜びを感じます。

「千反田……」

「える、と呼んでください」

「える、愛しているよ……」

「嬉しいです……」

 二人だけの夜が過ぎて行きました。


 翌日、東京を折木さんが色々な場所に案内してくれました。折木さんが暮らすこの街……

 わたしはこれから何回もはこの街に来られません。でもこの都会で折木さんが暮らして行くのだと実感する事が出来ました。

 決して忘れません……あなたの暮らすこの街を……


                                   了

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