二次創作

氷菓二次創作「翼の飛び方教えてください」

 今年の神山の夏は暑いのでしょうか。それともそれほどでは無いのでしょうか?
 何も感じることが出来ずに夏休みが過ぎて行きました。さすがに家の人々もわたしの様子の変化に気が付き始めました。わたし自身はそれほど様子が変わったとは意識していなかったのですが、家の跡取りという立場が変わってしまった今、それまでとは心の持ちようが変わるのは仕方ないことだと思っています。
 それにしても考えるのはあの時の事だけです。雨の降る中バスに乗ってわたしを迎えに来てくれた人。今となっては家族以上にわたしの心情を理解してくれていてる人。 
 その人の名は折木奉太郎。神山高校の同級生で同じ古典部員であり、わたしが一番心を許せる人です。

 今日は古典部の集まりがあります。秋の文化祭で販売する文集「氷菓」の編集会議です。既にテーマは決まっていて各自が原稿を書いてるはずです。今日はその進行状況の報告です。
 テーマは神山高校と神山市の歴史についてです。神山高校の存在や卒業者が神山の街とどのように関わって来たのかを各自が自由に書くのです。わたしは、わたしの家の者で神山高校の卒業者が数名居ますが、彼らが神山とどのように関わって来たかを書くことになっています。資料は揃いましたが、どうしても書く気にならず、まだ原稿は手付かずなのです。
 折木さんや福部さん。それに摩耶花さんや大日向さんも原稿を書きます。編集は摩耶花さんが大日向さんと一緒に行い来年以降に備えます。
 古典部の部室である地学講義室の扉を開けると折木さんが一人でいつもの席に座っていました。その姿を目にして心が安らぐのを感じます。自分でも表情が緩むのを自覚します。
「こんにちは折木さん」
 声を掛けると折木さんは読んでいた本を脇に置いて振り返り
「おう千反田か。どうだ少しは落ち着いたか?」
 折木さんはわたしの状態を酷く気にしていました。その具合は家族以上と言っても良かったでしょう。
「落ち着きはしましたが、まだ先の事を考える余裕はありません」
 正直に己の心を伝えます。それが折木さんに対するわたしの誠意だと思うからです。今日こうして少し早く来たのも実は折木さんと二人だけで話がしたかったからです。多分、下校時にも話をすることは出来るでしょう。でも、誰とも会う前に折木さんと話がしたかったのです。そして恐らく折木さんは、わたしがそう思っている事を見抜いて早く来てくれると思ったからです。やはりそうでした。
「そうか仕方ないか、今になって急にだからな」
「いまさらなんです。いまさら翼をくれても飛び方が判りません」
「そうだよな」
「家を継がなくても良いと言われても、わたしはやはり千反田の娘なんです。それは変わることがありません。だから……」
「何をしても良いとは思えないか」
 やはり折木さんは判ってくれていました。嬉しくて目の奥が熱くなります。思わずハンカチで目頭を抑えます
「どうした。大丈夫か? 家の中でそんなに辛い立場なのか?」
「違うんです。この世界にたった一人だけでも自分のことを理解してくれる人が居ると思うと」
「まあ頼りないかも知らんが俺はお前の味方だからな」
 前にも言ってくれた事ですがやはり、ハッキリと言ってくれると嬉しいです。でも……。
「折木さん。これからは味方以上の存在になって欲しいと言ったら軽蔑しますか?」
「それは……」
 そこまで言いかけた時でした。教室の扉が開き
「あ、ちーちゃんもう来ていたんだ。折木も早いじゃん」
「こんにちは~ あ、お二人は早いですね」
 摩耶花さんと大日向さんが入って来ました。
「おう伊原と大日向か、里志はどうした?」
 折木さんが摩耶花さんに尋ねると
「ふくちゃんは手芸部に何か提出物があるからと寄ってから来るって」
「そうか、里志は両方だから大変だな」
「それはそうだけど、だからといって昨年みたく原稿が遅くなるのは許さないからね」
 摩耶花さんはそう言って笑っています。わたしは「許さない」という言い方が二人の信頼の深さを表していると思い少し羨ましく感じました。わたしは折木さんにあのような言葉は使えませんし折木さんも、わたしには言わないと思います。
 そんな事を考えていたら福部さんがやって来ました。
「遅れてゴメン。早速始めようか」
 その言葉で編集会議が始まりました。今年はそれぞれが順調に進んでいる事が確認出来ました。一番遅れているのがわたしのようでした。

「それじゃ、今度は二学期の前ね」
「それじゃ失礼します」
「じゃホータロー、千反田さんまたね」
 三人が手をひらひらさせて帰って行きました。また二人だけになります。少しぼおっとしていたら
「どうした?」
 眼の前に折木さんの顔がありました。思わず少し引きます。
「何でも無いのですが、さっき摩耶花さんが福部さんの原稿の事で遅れるのは許さないと言っていました」
「ああ、あいつらしいと思ったよ。昨年は大変だったからな」
「わたしは羨ましいと思いました」
「羨ましい?」
 折木さんは判らないという表情をしています。
「だって、そう思いませんか? 古くからの友人とは言え、人の前であのような言い方をするという事はどれだけ二人の絆が強いのだろうかと思いました」
 わたしの言葉を折木さんは聴いて少し考えてから
「図書室で最初に伊原に会った時の事覚えているか?」
「はい覚えています。神高ベストカップルだとかどうとか」
「いや、そうじゃなくて、里志は伊原の事なんて呼んでいた」
「摩耶花と呼んでいました」
「そう、その通り。それで判らないか?」
「何がですか」
 わたしが折木さんの真意を理解出来ていないので折木さんは説明をしてくれました。
「暑いな。窓を開けよう」
 窓を開けると夏の風が入って来てカーテンを揺らします。
「あの時、二人はまだ交際していなかった。伊原の告白を受けていたが里志はそれを拒否していたんだ」
「そうでした」
「そんな関係なら普通はどう呼ぶ?」
「ええと……伊原とか名字かあだ名かですか?」
「まあ通常はそうだろうな。言っておくが里志は俺たちとは小学校は違う。中学で二人は出会ったんだ」
「あ……」
 わたしは今まで折木さんが摩耶花さんと小学校以来の付き合いなので福部さんも同じと思っていました。
「つまり中学の三年間で、二人は心の中を慮る(おもんばかる)程の関係を築いていたと言う事なんだ」
 折木さんの言いたい事は判りました。摩耶花さんと福部さんは交際する前からお互いの心情を深く理解していた仲だったと言う事なのです。
 風の入って来る窓辺に立ちます。折木さんがそっと後ろに付いてくれます。
「わたしのお願い聞いてくれますか?」
「お願い?」
「はい。貰った翼の飛び方を一緒に考えてくれますか?」
 ここ数日思っていた事でした。わたしの一番大事な人だからお願いしたのです。
「ああ、俺で良かったら一緒に考えよう」
 折木さんはそう言って後ろからそっと抱きしめてくれました。嬉しさと恥ずかしさで体温が上がるのが判ります。でもこの状態が何時までも続けば良いと思うのでした。


                          、<了>

「氷菓」二次創作 えると奉太郎

 初夏の風は梅雨の合間にも関わらず爽やかで躰を包んで後方に流れて行く。自転車を漕ぐペダルに力が入る。すると道を行く俺の前を一羽のツバメが低く横切った。思わずブレーキを掛けて自転車を停めた。
 ツバメは俺の前を横切ると道沿いの民家の軒先に入って行った。恐らく、あそこに巣があるのだろう。緑が多くツバメの好みそうな虫も多いこのあたりなら子育てにピッタリなのかも知れない。
 俺はそんな事を考えて再び走り出した。約束の時間までには千反田家に到着していなくてはならない。例えそれが余り乗り気では無い事柄でもだ。

 昨夜金曜の夜の事だった。九時を少し回った頃だったろうか、家の電話が鳴り出した。こんな時間に掛かって来るのは凡そ想像がついた。姉貴に用事なら自分の携帯に掛かって来るだろうし、親父でも同じだと思う。
「はい折木ですが」
「夜分遅くすいません。千反田と申しますが……」
「千反田か、どうした?」
「ああ、折木さんですか。よかった。明日は何かご用事がありますか? もし無いなら相談に乗って欲しいのです」
 姉貴は仕事に行っている。洋書を取り扱う部署なので休みが土日とは限らないので、明日も仕事のはずだった。親父は今日から出張だった。
「特別な用事は無いな。一週間の疲れを取る為に休むという大事な用以外はな」
「駄目でしょうか?」
「何か困った事でもあったのか?」
「はい。というより折木さんの考えをお聞きしたいのです」
「俺の考え?」
 どうやら、いつもの「気になります」では無いらしい。
「電話では駄目なのか?」
「はい、出来れば直接……」
 千反田の歯切れの悪い言い方に己の事では無いと考えた。
「誰かに相談でも持ちかけられたのか?」
「判りましたか! さすがです」
「お前の言い方で何となく判ったよ」
「それで来て戴けるのでしょうか?」
「行かねばならないだろう。特にお前の頼みならば」
「ありがとうございます! 嬉しいです。よろしくお願いします」
「それで何時までに行けば良いんだ?」
「はい、出来れば午前十時頃までには」
「判った。それまでには行く」
 そう言って電話を切った。
 自転車は陣出の坂を登り始めていた。立ち漕ぎになり脚に力が入る。坂を登り切ると陣出が一望出来た。

 約束の十時少し前に千反田邸に到着した。木戸の前では千反田が着物姿で佇んでいた。多分、俺を待っていたのだろう。俺の姿を認めると表情が明るくなった。
「お休みの日に申し訳ありません」
 両手を揃えて頭を下げた
「なに、それは構わないが、今日は何か特別の日なのか?」 
「特別な日と言うよりは、先日田植えが終わったので今日は皆を招いての慰労会なのです。一応、父が挨拶する事になっています。
 そうか、農業に関わっていないとウッカリするがこの時期は農家にとってみれば大事な時期だったのだ。
「それで着物姿か……一年に数度も拝めるとは役得かな」
「そんな……」
 千反田が両方の手で顔を隠した。薄紫の一重の着物の裾が乱れて真っ赤な緋縮緬の長襦袢が見えて白い千反田の脚が覗いた。
「恥ずかしがってる場合じゃ無いんじゃないか?」
 俺の言葉に千反田は我に返り
「そうでした。折木さんの意見を伺いたいのです」
 そう言って木戸を開けて俺を中に通した。
 家の中では宴会の準備が進められていて、幾人もの人々が動き回っていた。それとは別な所に案内される
「お父様、折木さんがいらっしゃって下さいました」
 襖を開けながら膝を着いて部屋の中の人物に声を掛けた。その仕草が美しい。幼い頃から生きて来た環境が俺とは明らかに違うのだと感じた。
「入って戴きなさい」
 奥から声が聞こえた。恐らく鉄吾さんの声だろう。
「さ、どうぞ」
 千反田に言われて部屋の中に入ると座卓に数名の男が座っていた。見ると吉田さんや花井さん達だった。一番奥が鉄吾さんだった。
「折木さん。わざわざ呼びつけるような事をして申し訳ありません。何せおおやけには出来ぬ事が発生したので、誰か頼りになる人物がいるか、皆に訊いたところ、えるが『心当たりな人がいます』と言う事だったので頼む事にしたのです」
 つまり、今日の慰労会に向けて何か問題が起きたと言う事なのだろう。その解決に俺が呼び出されたと言う訳だ。
「その問題とは一体どのような事なのですか?」
 俺の質問に鉄吾さんが語り出した。
「毎年、田植えが終わると慰労会を開きます。昔は千反田家が全てを負担していましたが、小作関係だった昔と違い今は全ての農家が独立しております。ただ田植えや刈り入れなどの人手が必要な時はお互いに手伝いしあいます。そんな事も含めて終わると慰労するのですが、基本は会費制です。足りない場合はわたしどもから出しますが、会計を決めて会費制で行うのです」
 年に二回会費制で慰労会を行うとは以前に千反田から聞いた事がある。それが今日だったと言う訳だ。
「それで何が起きたのですか? まさかその会費が無くなったとか?」
 俺の質問に鉄吾さんは首を振り
「それは、花井さんがちゃんと管理してくれていますので大丈夫だったのですが、祭壇のお供え物が……」
「盗まれてしまったのですか?」
「盗まれたというよりは消えてしまったのです」
「消えた?」
 俺の言葉に吉田さんが
「そうなのです。お供え物は山の幸を色々と供えたのですが、全部消えたと言うよりは一種類だけが忽然と消えてしもうたのです」
「兎に角、現場を見せて下さい」
 俺はその祭壇に案内して貰った。
 千反田の家の広い庭の一角に祠がある。千反田に尋ねたところ
「はい、先祖代々お稲荷さんを祭っています。お稲荷さんは米作りの神様ですから」
 そう言っていた。その祠に案内された。お稲荷さんは綺麗に飾り付けられ、幟も何本か立っている。そこに真新しい祭壇が拵えられて、そこに色々なものが供えられている。
「何が無くなったのですか?」
 俺の質問に吉田さんが
「鮎ですじゃ」
「鮎ですか? 山というより川や海の幸じゃないですか?」
「確かに、鮎は川で採れますが、農業には水も大事ですじゃ。それにこの陣出では良い鮎が採れますので、水の事も祈ってお供えしますのじゃ」
 確かに農業にとって水は大事だ。特にの陣出ではかって水の争いもあったと聞く。
「すいません。一人で少し考えたいので、ここに残ります」
 そう吉田さんに言うと千反田が傍に付いてくれた。
「いいのか? 行かなくても」
「はい。わたしにとっては好都合な言い訳が出来ました。こうして今日も一緒に居られるだけでも幸せです」
 誰も居なくなった庭の片隅で二人だけの時間が過ぎて行く。
「お前気が付かなかったのか?」
 俺の言葉に千反田は訳が分からないと言う表情をしている。
「コタローは今日はどうした?」
 俺の言葉に千反田はハッとして
「そう言えば……」
 俺は声に出してコタローを呼んでみた。
「コタローコタロー」
 すると、暫くしてコタローが植え込みの間から出て来た。大分大きくはなっていたが、面影は変わらない。
「ニヤー」
 そう言って俺の足下にじゃれついた。
「元気にしてたか」
 そう言って手を出すと飛びついて来た。
「ニャン!」
 俺に抱かれて喉をゴロゴロ鳴らしている。千反田はそんな様子を見ながら俺に尋ねた。
「折木さん。まさかコタローが盗んで食べてしまったのですか?」
「多分、そうでは無いだろう。猫は子供の頃に口にしなかったものは食べないと言う。お前、子猫の頃に鮎なんて食べさせたか?」
「いいえ、食べさせていませんけど」
「ならば、何処かに隠してあるな。恐らく片方のサンダルやスリッパ等と一緒にあると思うな」
「サンダルやスリッパですか?」
「ああ、お宝だよ」
「ええ! どうしてですか」
「コタローにとっては若鮎はキラキラして綺麗だったのだろう。だからついお宝として失敬してしまったのだろう」
 幸い神主を招いてのお祈りの時は別な鮎を使ったそうだが、本来の鮎はコタローの隠し場所にあるのだろう。
 数日後、腐り始めて臭いでその場所が判り、見つかったそうだ。
 後日、陣出の人々は狐の他に猫も関わったと言うので「今年は豊作間違い無し」と喜んだという。
「やはり折木さんは、わたしが選んだ方です」
 俺は千反田が身につけていた緋縮緬の長襦袢があんなに色っぽいものだとは思わなかった。

                     <了>

「氷菓」二次創作 「箱根の夜」

 里志からの電話の内容は俺を旅行に誘う内容だった。
「じゃあ楽しみにしているからね」
「ああ、判った」
 そう返事をしてスマホの通話ボタンを押して終了させた。程なく里志からグループLINEで旅行の場所や日時、そして当日の待ち合わせ場所が確認の為送られてきた。それに目を通す。
 グループLINEのメンバーは四人。俺と里志、それに伊原と千反田だった。里志と伊原は先年籍を入れて夫婦となっている。だが伊原が漫画家として売れだしてしまい、夫婦としての時間があまり取れないらしい。そこで思い切って旅行を計画したのだった。何でも伊原は連日仕事用に借りたマンションに居て余り帰っては来ないらしいのだ。これは里志が先程電話で俺に言った内容だ。
 大学を出てはや二年。社会人として何とか格好が付き始めた頃だった。千反田とは高校を卒業して以来数回逢っただけだ。京都の大学に行った千反田と東京の三流大学に進学した俺はじっくりと逢う事もままならなかった。
 週に一度ぐらいは電話を掛けていたが、普段はそんなものだった。お互いに帰省する時期も違うので神山で逢う事もなかったのだった。
 理系の学部というのは実験や観察で結構忙しいらしい。文系の俺とはそれも食い違うことだった。就職した俺と違い、奴はそのまま大学院に進学した。だから今でも京都住まいだった。関西に出張したついでに一度立ち寄ったことがあるが、友達が来て居たので、顔だけを見るとそのまま失礼した。どうもその友人がその晩泊まることになっていたそうだ。そんな状況では長居できない。数日後、千反田からお詫びの連絡が入ったが、そもそも急に立ち寄った俺も悪いのだと言ってその時はそのままとなった。それ以来じっくりと話をしていない。
 里志のプランでは最初は神山近郊の温泉に行くというプランだったが、伊原が反対した。
「家の近くでは旅行に行った気がしない」
 というものだった。確かに日常から離れてこそ旅の醍醐味があろうと言うものだと思う。東京住まいの俺でもそう思う。結果、箱根と決まった。小田原の駅前に十二時に集合と決まった。俺は小田急か新幹線で、里志と伊原、それに京都から来る千反田は新幹線となった。
 里志が予約した宿は塔ノ沢温泉にある宿で箱根登山鉄道の塔ノ沢駅を降りて吊橋を渡った先にある宿だそうだ。
「少し歩くけど大丈夫だよね」
 歩いても十~二十分程度なら大したことはない。
 季節は六月でどういう訳か皆の仕事が一段落するということだった。

 当日は曇り空だったが、雨とはならなかった。小田原の駅前で待っていると改札から三人が姿を見せた。
「偶然新幹線が一緒でね」
 里志が嬉しそうな表情で説明をする。
「こんにちは折木さん。暫くぶりです。いつぞやは本当に申し訳ありませんでした」
 千反田は俺が今日で千反田の部屋に寄った時の事を詫た。
「いいや俺の方こそ不意に寄ったのが悪かったのだ」 
 そんな二人のやり取りを伊原が興味深そうに見ている。
 千反田は夏物のモスグリーンのカーデガンに麻のワンピースを着ていた。スカートの裾から伸びた脚が眩しかった。
 四人は箱根登山鉄道に乗り塔ノ沢を目指す。電車はスイッチバックを繰り返しながら山を登って行く。線路の脇の紫陽花が満開で千反田も伊原も見とれていた。
「綺麗ですね。花に囲まれているみたいです」
 東京では少し盛りが過ぎた紫陽花だが涼しい箱根では今が満開なのだった。
「いやこれほど美しいとは思わなかったな」
 里志もその美しさに驚いていた。
 やがて電車は塔ノ沢駅に到着した。駅を降りて早川の方角に歩いて行くと、川を渡る吊橋が見えて来た。道から少し入っただけなのだが、辺りは霧に覆われていて吊橋の先は霞んでいた。
「何だか、とても神秘的ですね」
 千反田に言われなくても、恐らく皆同じことを考えていただろう。とてもここが東京から日帰り圏内とは思えなかった。
 吊橋を渡り道なりに歩いて行くと目指す宿はあった。だが霧の中に忽然と現れた感じがしたので、益々この世のものとは思えない感じがした。
 チェックインして部屋に案内される。部屋は二部屋とってあった。
「僕たちは構わないけど、ホータローと千反田さんは微妙な関係だからね」
 なるほど気を回してくれた訳かと納得する。
 結局、里志と俺、千反田と伊原となった。部屋に入ると窓から下の早川の流れが見えた。悪くない景色だった。
 早速風呂に入る。里志の言うには
「露天風呂もあるんだ。後でそっちにも行くつもりさ」
 そういえばこいつは温泉に来ると何回も入るのだと思いだした。
 夕食は別の部屋で四人で食べた。中々のもだったと記しておく。里志と伊原、千反田と俺が並んで、千反田と伊原が向かい合わせになった。
 夕食が終わり部屋に帰ってみると布団が敷かれていた。寝転がろうとした時、里志が
「ホータロー悪いけど、ここにこれから摩耶花が来るんだよね。だから悪いけど……」
 里志の言いたい事はすぐに理解できた。里志と伊原は夫婦の時間が余りにも取れないので今夜、その埋め合わせをしようとしているのだと理解した。
「そうか、じゃ俺はロビーにでも寝るとするか」
「おいおいホータロー。行く場所が違うじゃ無いのかい」
 やはりそうだと思った。俺に千反田の部屋に行けという事なのだ。
「千反田は知っているのか?」
「ああ、摩耶花が説明したら快諾してくれたそうだよ」
 どうような説明をしたのか判らないが納得してるなら、それでも良いかと考えた。
「判った。向こうの部屋に行こう」
「悪いね」
 特別悪くは無い。だが朝までには大分時間がある。それをどうするかだ。まさかずっと千反田と話をしてる訳には行くまい。
「千反田来たぞ」
 部屋の前で声をかけると中から
「はいお待ちしていました」
 そう声がした。襖を開けると部屋の中には千反田が浴衣姿で座っていた。髪の毛はそのままにしてあった。湯に入った時は上げていたのだろうと思った。
「摩耶花さんたち今夜はゆっくりと二人の時間を過ごしたいそうです。だから快諾したのです」
 俺も想いは同じだった。千反田の向かいに座る。俺も浴衣姿だ。
「思いがけなくわたしたちも二人だけの時間が持てましたね。本当はこの時を待っていたのか知れません」
「京都では時間が持てなかったからな」
「はい、あの日、わたし自分の間抜けに呆れました」
「あれは俺が悪かったんだ。前に電話でも入れておけば良かったんだ」
「でもお仕事の都合もありますから」
 でもそれは言い訳でしかないと思った。その気があればどうにでもなる。
「そっち行っても良いですか?」
「あ、ああ」
 返事がぎこちないとは思う。千反田は立ち上がると回って俺の隣に座った。
「わたし大学に行って折木さんと離れ離れになって本当の自分の気持に気がついたのです。遅いですよね。その時折木さんは東京に住んでいたのですから。だから高校を卒業してから折木さんの事を忘れた事はありません」
 千反田に言われなくても俺も同じ気持ちだった。千反田がそっと躰を近づけて来る。そっと浴衣の上から抱きしめた。浴衣越しに千反田の柔らかい躰の感触を感じる。耳元で柔らかいため息が漏れる。
「折木さん。しっかりと抱きしめてください。どこにも行かないように」
 その言葉を耳にして両腕に力を入れる。豊かな胸の感触を感じる。そういえば高校の時に市民プールで千反田の水着姿を見たが、あの頃より豊かな感触だった。背中に回した手の感触で少なくとも上半身は浴衣の下は何も身に着けていないと思った。
 お互い見つめ合い口づけをする。口づけは高校の時に経験済みだった。
「折木さんキスが上手くなってます。誰としたのか、わたし気になります」
「上手くなったと判るという事は誰と比べているのかな」
「折木さんイジワルです」
 そう言って俺のはだけた浴衣の胸に顔を埋めた。
 背中の手を下に移して行く。腰のあたりで下着の感触が無いことに気がつく。その気配が判ったのか
「湯から上がって躰を拭いたあと素肌にそのまま浴衣を着ました」
「じゃあ食事の時も……」
「はい」
「大胆だな」
「だって今夜はどうしても折木さんに気に入って欲しかったのです。こんなわたし嫌ですか?」
「いいや。その気持も嬉しいよ」
 千反田の浴衣の合わせは既に乱れていて、豊かな谷間が覗いている。そっと手を入れると甘い吐息が漏れた。
「すごく敏感になっています」
 それは膨らみの先が固くなっているので判った。
「もうわたし……」
 その言葉に布団の上に寝かせ、帯を解き浴衣の前を開くと芸術品と言っても良い美しい千反田の躰が現れた。シミひとつ無い白い素肌。豊かな胸と腰。男としてこれほど恭悦を感じた事はなかった。
 長年の想いが叶った瞬間でもあった。千反田もそれは同じ想いだったのだろう。その喜びでそれが判った。
 その夜は人生に於いてお互い本当に喜びに満ちた夜だった事を記しておく。


                      <了>

「氷菓」二次創作 「最後の星ヶ谷杯」

 あれだけ祈ったのにも関わらず、今年も雨は降らなかった。昨年、一昨年と祈る事の無駄を悟ったはずなのに、今年も祈ってしまったのだった。
 神山高校の行事で嫌なものの一番手に来るであろうマラソン大会。正式には「星ヶ谷杯」と言う。何でもかって長距離種目で日本記録を打ち立てた卒業生にちなんでるという事だが、それ以上は知らない。
 学校の裏を一周するのだが、その距離は二十キロだ。半端な覚悟では走れない。尤もこの距離をちゃんと走ろう等と考えて実行するのは一部の生徒だけだと思う。殆どの生徒。それも文化系の部活に籍を置いている者は部分的に走り、部分的に歩くという行為を繰り返すのだ。もちろん俺もその考えに賛成をする。
 一昨年は何事も無かったのだが、昨年は少々事件が起きた。それを解決する為に、いや解決はされなかった。ただ俺の気が晴れただけの事だった。それでもあの行為が全く無駄にはならなかったのは、その後大日向が復帰してくれた事で判る。
 今年は部分的だがゲリラ豪雨の可能性もあると予報が出ていたが、朝起きてみると雲ひとつ無い快晴だった。天気予報を恨んだ。
「星ヶ谷杯」は三年A組からスタートする。順次クラスごとにスタートして最後は一年H組となる。今年は俺は三年A組となったので一番速いスタートとなった。ちなみに伊原はC組里志も同じクラスだ。千反田は二年の時と同じH組だ。このH組というのは所謂進学クラスで理系でも成績上位者が比較的集まっているそうだ。公立ではそんなクラス分けはしないと思いがちだが現実にはハッキリとそうカテゴライズされていなくてもある事だそうだ。文系にもそんなクラスがあるそうだが、AでもCでも無いことは確かだ。
「三年A組、前へ」
 クラス一同の者がスタートラインに並ぶ。その一番後方に位置づけた。
「用意」
 次の瞬間火薬が炸裂して轟音が鳴り響いた。ちなみにピストルを打ったのは総務委員で彼は二年生だと思った。昨年は里志が副委員長だったので俺と大日向のショートカットを握り潰してくれた。今年は総務委員ではあるものの実質OB扱いなので大会の運営には参加していない。長いコースを見張る警備に付いているそうだ。だから里志は一度もこのコースを己の体を使って走る事がないまま卒業するのだ。
 校門を抜けて川沿いに走り一キロほど一列で走ると大きく右に曲がる。ここからが坂となっており難関の始まりだ。今年で三度目だからどこで手を抜けば良いかぐらいは三年生は判っており、あまり真面目にこのダラダラした坂を走るものはいない。なんせあと十八キロほどもあるのだ。
 学校の裏手の山道を走って行く。走って行くと言ったのは建前だ。実際は走ってるふりをして歩いているのだ。殆どの生徒はそうしてる。その横を体育会系の部活に入っている生徒が追い抜いて行く。体育会系の弱い神山高校の部員にとってこの日は実力の見せ所だからだ。
 先日、「新入生歓迎会」が行われ、我が古典部にも二人の女性徒が入部してくれた。一人は千反田の知り合いでもう一人は大日向が勧誘したのだった。ちなみに部長は大日向が務める事になった。部長職を外れた千反田の晴れやかな顔は見ものでもあった。
 かなりキツイ坂を歩くように登って行く。このあたりが一番辛いかも知れない。やがてそこを過ぎると僅かだが道が平坦になる。そう言えば昨年はこのあたりで伊原に話を訊いたのだった。同じC組でも今年は伊原はやって来ない。それは俺が昨年より僅かだが真面目に走っているからだろう。
 やがて道は下り坂になるこの辺で全体の四分の一は走った計算になる。その先は平坦になるが、やがて見えて来る小山を登る事を知っている上級生は油断はしない。そう言えば里志はどのあたりに居るのだろうか?

 暫く、ゆっくりとだが走り続ける。その間に色々な事を考える。古典部に入部した一年生は横手深雪と笹原華音という女生徒だ。名字でも判る通り横手深雪はあの横手さんの親類にあたる。当然千反田も知っていた。親類縁者では無いものの
「歳が近いので小さい頃は一緒によく遊びました」
 そう言って嬉しそうな顔をした。俺は千反田が誘ったのだと考えていたが、どうやら新入生歓迎会の時に机を出して俺と千反田と大日向で色々と話し込んでいたら、それを見て『楽しそうだ』と思ったのだという。その時話していたのは、今年部員が入らなかったら、どうするか? と言う切羽詰まった内容だったのだが、判らないものだ。
 何処までも続くと思われた長い平坦な道が終わり、また道は登り始める。ダラダラと列が続くように生徒が走っている。そんな光景を見ながら山の向こうに黒い雲が現れるのが判った。段々とこちらの方に広がって行く。
「まずいな。ゴールまで降らなければ良いが」
 そう口にしたところ、坂の上から自転車に乗って降りて来る人物が居た。俺の記憶違いで無ければ、あれは里志の自転車のはずだった。
 自転車は勢い良く降りて着て俺の目の前で停止した。
「やあホータロー今年はちゃんと走っているね。でも残念だがここまでだね」
「何故だ?」
「この先がゲリラ豪雨でね。物凄く雨が酷いんだ」
「一過性じゃないのか?」
「雨はそうかも知れないけど、川がね」
 確かに、この先で道は川沿いに進むことになる。
「氾濫しそうなのか?」
「うん、大雨洪水警報が出たんだ。学校側としても万が一と言う事もあるからね」
 時計を確認する。既に一年生も出発してる時刻だった。
「少し遅かったな」
「まあね。それでも一年や二年はまだ学校からそう遠い所を走っている訳じゃないから楽なんだけど、三年生はかなり先まで行って雨に巻き込まれた者もいるんだ。だから何かあっては大変な事になるから中止と決まったんだ」
「それを伝えている訳か」
「そういうことさ。さ、雨も近づいているから、ここから引き返した方が良いよ」
 俺としてもゲリラ豪雨はゴメンだ。里志の忠告どおり引き返そうとしたら、後ろの方から千反田が引きつった顔をして走って来た。伊原も一緒だった。途中で合流したのだろう。それにしても、かなりの距離を走ったのでは無いだろうか、二人共息が上がっていた。
「ああ、折木さん。それに福部さんも……よかったです」
「ここでふくちゃんに逢えてよかった」
「何かあったのかい千反田さん、摩耶花」
 里志の言葉に千反田と伊原は
「一年の横手深雪さんが行方不明なんです!」
「一年生は全員学校に帰って来たのだけど深雪ちゃんだけが居ないのよ」
 そう訴えると
「え、それって……横手さんは何組だったけ?」
「一年A組です。ですから一年では一番先に帰ってるはずなのですが、総務委員が点呼していたら横手さんだけが見当たらないのです。知り合いの総務委員の方から聞きました」
「じゃあ走っているうちに行方が判らなくなったということだね」
 里志の言葉に頷く千反田と伊原だった
「折木さん!」
 まさか俺に探せと言っている訳ではないよな。と思いながら千反田を見ると黙って俺を見つめている
「おれきさん」
「折木あんたの出番でしょ!」
 千反田の二言目の言葉と伊原の刺すような寸鉄で無視するのを断念した
「仕方ない……何か知っているなら話を聞こうか」
「ありがとうございます!」
 一転して千反田の表情が明るくなった。
「それにしてもここで話をするのは不味いよ。もうすぐ雨が降って来る」
 里志の言葉通り、太陽は隠れ黒い雲で空が覆われつつあった。
「ここから少し戻った場所に農作業用の小屋があります。一時的にそこに避難しまよう」
 さすが大農家のお嬢様だ。陣出ではないのに良く知っている。
「黙って使ってもいいのか?」
 万が一と言う事もあるので確認をする。
「大丈夫です。よく知っている方の小屋なので勝手も知っています。福部さんはどうなされますか?」
 確かに里志は俺達と一緒には行動出来ないだろう総務委員としての仕事がある。
「残念だけど僕は更に引き返して三年生と先行してる二年生を引き返えさせなければならないから行くよ。じゃあ! ホータローあとで顛末を聴かせてね」
 里志はそう言うと自転車に跨り俺達の来た方向に走って行った。
「大雨洪水警報が発令されました! 危険ですのでマラソン大会は中止です! すぐに学校に戻って下さい!」
 そう声をかけながら走り去って行った。その後ろ姿を見送りながら
「わたしたちも急ぎましょう。濡れないうちに」
 千反田がそう言って先に走り出した。伊原と俺が後を追う。
 
 千反田が案内したのはコースを少し戻り田圃の中を十メートルほど入った場所に立っている本当の作業小屋だった。千反田は引き戸の扉を開けると
「雨ぐらいなら凌げますから」
 そう言って先に中に入って行った。
「アンタ先に入りなさいよ」
「普通、こういう時はレディファーストだろ」
「別にアンタにレディファーストして貰おうとは思ってないから。それにちーちゃんをひとりにしちゃ駄目でしょう」
 確かに小屋の中を見ると千反田が不安げな笑顔でこちらを見ている。
「ほら」
 伊原に促されて小屋に入って行く。中は農器具や合羽など作業時に使う衣類道具が収まっていた。長椅子が置かれていて、千反田が
「立っているのも何ですから座りましょう」
「でも何で作業小屋に長椅子があるんだ?」
「天気の悪い時に小屋の中でお昼を食べる時に使うのです。ここは長椅子ですが丸椅子を置いている所もありますよ。その方が重ねられて良いと言う方もいます」
 さすがに良く知っている。一番奥に俺、それから千反田、その隣に伊原が座った。その時急に雨が降って来た。みるみるうちに勢いが強まり叩きつけるぐらいになった。

 コースになった道路がみるみるうちに濡れて水溜りが出来て行く。雷も鳴って轟音が轟いている。その光景を見ながら俺は千反田に幾つかのことを訪ねた。入部して日も浅い横手深雪に関して俺は殆ど情報を持っていない。千反田なら俺の知らない情報を持っていると思ったからだ。
「なあ千反田。横手深雪について教えてくれないか」
「はいわたしで知っている事なら何でも」
「まず、印字中出身なんだな?」
「はいそうです。中学時代は陸上部でした。確か五千メートルの中学の県の記録を持っていたと思います」
 その言葉を聴いて伊原が疑問を持った
「それなら何故神高でも陸上に入らなかったの? 確か部活は古典部だけだと言っていたわよ」
 俺もそれは疑問に思った。記録を出すほどの選手なら高校でも続けるのが本来だと思ったからだ。
「神山高校で陸上部に入らなかったのには理由があるんです」
「理由? なあにそれ」
 伊原の疑問に千反田は少し声を潜めて
「わたしも疑問に思ったので古典部に入部する時に尋ねたのです。そうしたら、『陸上は中学でやり尽くしました。高校では新しい自分を見つけたいのです』と語っていました」
「やり尽くしたって……これからじゃない!」
 伊原としてみれば納得のいかない答えだったのだろう
「それは表向きの答えかも知れないな」
 俺の言葉に伊原が
「それはどういう意味?」
「いやつまり、それだけの記録を出した逸材なら神高の陸上部が声を掛けないはずがない。それを断るには最もな理由が必要だった。幸いと言うか不幸にと言うか我が高校の陸上部は強くないしな」
「それって、十年に一人の逸材が入ってしまったら、返って揉め事が起きると言う意味?」
 伊原が何故そんな事を言ったのかは知らないが、一理はあると思った。
「まあ弱い所に逸材が入っても迷惑がられるのが関の山だろうな」
 俺の言葉に伊原が妙な反応をした
「河内先輩と同じことを言うんだ」
「河内先輩って摩耶花さんが漫画研究会にいらした頃の先輩ですよね」
 千反田に突っ込まれ
「あ、いや何でもないのよ」
 笑って誤魔化すが昨年の文化祭でコンビを組んで同人誌を売ったのは知っている。
「家は何処なんだ?」
「はい、南陣出です。あの横手さんの本家からそう遠くない場所です。そう言えばマラソンのコースからも遠くない場所ですね」
「そうか、あのあたりか」
 南陣出と聴いて伊原が
「家に帰った訳じゃ無いわよね。陣出ならコースの後半だものね。わたしたちを追い越さなくてはならないしね」
 そう言って家に帰った訳ではないと述べた。
「そうですね。わたしも家ではないと思います。かと言って学校で無い気がします」
 千反田も同意見なのだろう。
 俺は数少ないが古典部で一緒になった時の横手の様子を思い出していた。髪が千反田ほどではないが割合長く肩を隠す程は伸びていた。一緒に入部した笹原華音がショートカットでどちらかと言うと活発な感じがしたが彼女は運動部に所属した事は無いそうだ。
 細面で一見静かに読書でもしている方が似合う感じだった。恐らく高校からの彼女を見ていれば中学の時に陸上部だったとは思えないだろう。
 暫く古典部での横手の行動ぶりを思い出す。
「千反田、横手は右利きか?」
「はいそうですが」
「ねえ何でそんな事が今重要なの?」
 伊原の疑問は尤もだが今は答えてる暇はない
「最近どこか病院に通院してるとか知らないか?」
「さあ……別に具合が悪かった感じは受けませんでした」
 表を見ると雨が少し小降りになって来た。もう少しすると止むかも知れない。
「南陣出に行くにはこのまま先に進んだ方が速いかな?」
 俺の言葉に千反田は
「そうですねその方が速いですね。もうコースは後半ですからね」
「ええ、学校に帰るのじゃなく陣出まで行くの?」
 伊原が驚いた表情でつぶやく
「別に先に帰っても良いんだぞ。里志に連絡さえ取れたら良いからな」
「え、ふくちゃんに?」
「ああ、大事な事を頼みたいんだ」
「携帯なら持って来たから連絡は取れるわよ」
「それは有り難いな。じゃぁ早速連絡してくれないか」
 俺の言葉を聴いて伊原は里志に連絡をしてくれた
「あ、ふくちゃん? 今大丈夫? うん折木が何か話があるって言うの。替わるわね」
 伊原はそう言って俺に携帯を寄越した。
「ああ、里志か、そっちはどうだ?」
「どうだもこうだも無いけどね。一年は横手さん以外は問題なく戻っている。二年も殆ど戻って来たね」
「そうか、実は頼みがあるんだ。これから横手深雪を迎えに行くから、俺と伊原と千反田は遅くなる」
「ああ判ったよ。上手く誤魔化せという事なんだね」
「まあそういう事だ」
「それで行き先が本当に判ったのかい?」
「まあ、俺の考えが当たっていれば、そこに居ると思う」
「そうかい。じゃぁ楽しみにしているからね。帰ったら聴かせて貰うよ」
「頼む」
 そう言って携帯を伊原に返した。
「折木、本当に深雪ちゃんの居る場所が判ったの?」
「確実とは言えないが大凡な」
「大凡ってどれぐらいの確率よ」
「そうだな八十%ぐらいかな」
 そこまで言って千反田が
「それ本当なんですね」
 真剣な眼差しで確かめに来たので
「ああ、八十は八十だ。雨が止んだら行こう。里志に頼んだから遅れても大丈夫だ」
 コースを見ると雨は止んで舗装道路に水溜りが出来ていた。

 俺を先頭に伊原、千反田と続く。確か陣出まではそう距離はない。
「この先でバス停の『陣出南』に繋がるかな?」
 俺の記憶ではマラソンのコース上にはバス停の『陣出南』はなかった。
「途中で追分がありますのでそこを左です」
 左という事は山の方に行くことになる
「でも何で南陣出に居ると判ったのよ。それにわたしたちを追い越していないのだから物理的に無理でしょう」
 伊原がそう言って疑問を挟む千反田も同意見なのか頷いている
「学校から陣出に行くならどう行く?」
「あ、そうか」
「そうって?」
 伊原は判ったみたいだが千反田はピンと来ないようだ。
「千反田。お前家に帰るのにこのマラソンのコースで帰るのか?」
「ああ、そういうことでしたか!」
 やっと納得したみたいだ。マラソンのコースは大まかに言って学校を基準として反時計回りになっている。陣出はコースの後半で全体の四分の三ほどの位置だ。順目に行くより反対から回ればかなりの短縮になる
「だから、わたしたちと遭わなかったのですね」
「まあ意識的だろうな」
 やがて「陣出南」のバス停が見えて来た。ここまで来て千反田にも横手深雪がどこに居るのか判ったみたいだった。先頭になって先を行く。
「どういうことなの?」
 伊原の疑問に
「古典部で横手の動きにおかしな点があったはずなのだが気が付かなかったか?」
「動き?」
 俺の言葉を聴いて千反田も興味を示す
「折木さんは何か気がついていたのですか?」
「まあ、その時は何とも思わなかったが今にしてみれば納得出来たという事だよ」
「折木勿体ぶらないで教えてよ」
 千反田も頷く
「横手深雪は左膝を痛めていたんだ。だから神山高校では陸上部には入部しなかった。恐らく痛めた箇所が治れば入部も考えたのだろうが、それより新しい事をやってみたかった」
「折木。どうして左膝を痛めていたと判ったのよ?」
 伊原は歩きながらも頬を膨らませている。
「右利きの人間の利き足は通常左足だ。歩く時も通常は左足から先に出る。これは日常の行動でも同じだ。そこで俺は横手の古典部での身のこなしに違和感を感じていたんだ。それが彼女は体を動かす時に必ず右足から先に出していた。古典部には今の所左利きの人間は居ない。だから酷く目立ったんだ。それを覚えていたんだ」
「じゃあ左の膝を痛めていたから利き足の左を上手く使えなかったという事?」
「そうなるな」
「それは判りましたが、どうして今日のマラソン大会をエスケープなどしたのでしょう」
「その答えはこの蔵の中に居る横手自身に尋ねれば良い」
 俺たち三人は横手本家の蔵の前に居た。そうあの時千反田が隠れていた蔵だった。
「千反田声をかけてみてくれ」
 俺の頼みに千反田が蔵の扉の外から声をかける
「深雪さん。えるです! 中にいらっしゃるのですか?」
 少し間があって声が聴こえて来た
「えるさん……どうしてここが?」
「折木さんが考えてくれました」
「折木先輩が……」
「伊原さんも心配して来てくれています」
「深雪ちゃん。大丈夫だからね」
 やがて静かに扉が開いた
「ご心配おかけして申し訳ありませんでした」
 出て来た横手深雪は深々と頭を下げた。
「深雪さん膝が悪かったのですか? それなら正式に欠場すればよかったのに」
 千反田がそういうと横手深雪は首を横に振り
「膝は大分良くなって来たんです。ムリすれば走れない事はありませんでした。でも陸上部の先輩達が『今日の結果を楽しみにしてる』と言われ怖くなったのです。元々陸上は好きで入った訳ではありません。友達のついでで入ったのです。それなのにわたしの記録が良いものだから途中で辞められ無くなってしまったのです。そうしたら記録を出した後で練習中に膝を痛めてしまいました。わたしはこれは好都合だと思いました。幸い中学では受験に備えて部活を引退する時期でしたので、膝の事は殆ど知られませんでした。そして神山高校に入学したのです」
「そうだったのですね。だから今日が来るのが怖かったのですね」
 千反田の言葉に横手深雪は頷きながら幾度も頭を下げた
「それにしても折木先輩は何故わたしがここに居ると判ったのですか?」
 横手深雪の疑問に千反田と伊原が
「そう、それを知りたいです」
 そう言って迫って来たので理由を説明する
「まず、千反田と横手は幼馴染で一緒に遊んでいたという。更に千反田は幼い頃から何かあるとこの蔵に隠れるような事もあったと聴いた。恐らく幼い頃から二人はこの蔵を中心として遊んでいたのだろう。だからここに来ると精神的に落ち着くのだと理解した。それにここはマラソンのコースを逆に走るとそれほど時間がかからず到着する。殆どの者は誰も知らない。一時的に身を隠すには最適だった。恐らく時間を見てコースに復帰するつもりだったのだろう。だが誤算が起きた」
「それは雨ですか?」
 千反田が答える
「そうゲリラ豪雨が起きた。こればかりは予測出来なかった。降る雨を見ながら帰る潮時を見失ってしまったのだろう」
「何で折木はそこまで判るのよ?」
「だから俺たちが迎えに来たんだ。皆心配してるぞ一緒に帰ろう」
 千反田が右手を差し出すと横手深雪は嬉しそうにその手を取った。

 後日。横手深雪は総務委員会から注意を受けただけで済んだ。彼女は正式に陸上部への入部を断った。
「でも折木先輩の洞察力って凄いですね。驚きました」
 古典部皆が揃った席で横手深雪がそう言って笑っている
「そうよ。古典部で油断ならないのは折木奉太郎その人なんだからね」
 大日向が何時ものように大げさにすると
「失礼ですがえるさんから何時も聴いていた折木先輩の印象と違うので戸惑いました」
 その言葉を聴いた大日向と伊原が
「ちーちゃん。普段はどんな事言ってるの?」
「千反田先輩が折木先輩の事どうのように言っているのか興味があります!」
 そう言って千反田に迫って来た。俺も正直興味があるので文庫を読む振りをして聞き耳を立てる。
「そんな特別な事は言っていないですよ!」
 千反田がそう言って二人から逃げ惑うのだった。

 

「氷菓」二次創作 「奉太郎の誕生日」

 神山祭も終わり、この街に本格的な春がやって来ました。宮川を流れる水の音も軽やかに聴こえます。
 その四月も終わろうかと言う日、わたしは飛騨一ノ宮の駅前で人を待っていました。
 東京あたりなら暖かいので着るものは単衣を着てる方もいらっしゃるかも知れませんが、神山では桜が終わろうとしている時期ですのでまだ袷です。
 今日の出で立ちは薄い桃色の地にこの時期しか着られないであろう桜の花があしらわれたものです。帯は藍に小さなサクランボが描かれたものにしました。本来なら髪も結い上げるのですが、今日逢う方が
「ポニーテールも見てみたいな」
 そう希望したので、それにしました。今日に限ってはどんな頼みも聞き入れなくてはなりません。だって四月二八日は彼、折木奉太郎さんの十八歳の誕生日だからです。十八歳です! もう選挙に行けるのです。それに親の承諾が要るとはいえ結婚も出来るのです。凄いと思いませんか? まあ、わたしも今年中には十八歳になるのですけどね。
 盛りを過ぎたとはいえまだ見られるとの情報を貰ったので今日は臥龍桜を見て水梨神社にお参りをしようと約束したのです。
 わたしは家からさほど遠く無いので歩いて来ました。折木さんは自転車で来ると言っていました。駅の時計を見ると約束の時間です。その時
「悪い、遅くなってしまった。待ったか?」
 後ろから声が聞こえました。振り返り
「いいえ、今し方来た所ですよ」
 そう言って着物の袖を掴んで手を広げながら振り返ります。こうすると柄が良く見えるのです。
「おお、綺麗だな。良く似合ってるよ。でもまさか着物姿で来るとは」
「今日は折木さんの誕生日です。それも十八歳です。今日から選挙権もあるのですよ。大事な日です。だからわたしも折木さんに喜んで貰えるようにしました」
「そうか、俺だけの為にしてくれたんだな。俺は果報者だな」
「そんな……折木さんが喜んでくれたなら本望です」
 そうなのです。幾日も前からお祖母様に相談してこの日に何を着て行くか相談したのです。お祖母様は
「この時期しか着ることが出来ない柄が良いと思うわね」
 そう言ってこの柄を勧めてくれました。

 臥龍桜は駅を水梨神社とは反対側の陸橋を降り、小さな道路を渡ると目の前です。多分飛騨一ノ宮の駅のホームからも見えるでしょう。
「おお綺麗だな。満開を過ぎてしまったが、桜吹雪が綺麗だ」
「毎年見ているのですが今年は咲く時期が神山祭と重なっていて、それはそれで良かったです」
 折木さんはわたしの右側に立って、そっと左手を差し出してくれます。わたしは右手を出して折木さんの手を握ります。
「カメラ持って来たんだ。桜をバックに撮ろう」
 折木さんは小型のデジカメを持っていました。
「はい」
 わたしは、桜の前に立って少し畏まります。
「少し笑った方が良いぞ」
 折木さんがそう言ったので緊張しているのが判りました。おかしなものです。普通に写真を撮られるだけなのにです。
「それじゃ写すからな」
 そう言って折木さんは数枚の写真を撮影しました。ちゃんと撮れたでしょうか? そう思っていたら、
「良かったら写してあげますよ」
 男の人にそう言われました。恋人同士だと思われたのでしょうか? 嬉しくなります。
「はい笑って!」
 お互いに緊張していたのでしょう。そんなことを言われてしまいました。
「ありがとうございます!」
 お礼を言ってカメラを受取ります。折木さんが画像を確認して見せてくれます。
「綺麗に写っているよ」
  見せてくれた写真は小さかったですが、良く写っていました。
「あとで印刷して渡すから」
 楽しみが増えました。

 駅の反対側に回り、益田街道の交差点を過ぎると神橋を渡ります。下の宮川を見て折木さんが
「ほら花筏になってる」
 その声に川面を見ますと駅を超えて飛んで落ちた桜の花びらが花筏を作っていました。
「綺麗ですね」
 この時期にしか見られない光景です。
 渡ると水梨神社です。階段を登りお参りをします。いつも来なれているはずなのに、今日は何時もと景色が違って見えます。
「何をお願いしたんだい?」
「志望校に合格する事と……」
「後は?」
「秘密です」
 そうです。これだけは言えません。わたしが、どんなに折木さんと一緒にいられることを望んでいるのか……。
「この後はウチに寄って下さいね。わたしが腕を奮って美味しいものを作りますから」
 わたしの申し出に折木さんが優しく頷いてくれました。

                             <了>
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