二次創作

「氷菓」二次創作 「箱根の夜」

 里志からの電話の内容は俺を旅行に誘う内容だった。
「じゃあ楽しみにしているからね」
「ああ、判った」
 そう返事をしてスマホの通話ボタンを押して終了させた。程なく里志からグループLINEで旅行の場所や日時、そして当日の待ち合わせ場所が確認の為送られてきた。それに目を通す。
 グループLINEのメンバーは四人。俺と里志、それに伊原と千反田だった。里志と伊原は先年籍を入れて夫婦となっている。だが伊原が漫画家として売れだしてしまい、夫婦としての時間があまり取れないらしい。そこで思い切って旅行を計画したのだった。何でも伊原は連日仕事用に借りたマンションに居て余り帰っては来ないらしいのだ。これは里志が先程電話で俺に言った内容だ。
 大学を出てはや二年。社会人として何とか格好が付き始めた頃だった。千反田とは高校を卒業して以来数回逢っただけだ。京都の大学に行った千反田と東京の三流大学に進学した俺はじっくりと逢う事もままならなかった。
 週に一度ぐらいは電話を掛けていたが、普段はそんなものだった。お互いに帰省する時期も違うので神山で逢う事もなかったのだった。
 理系の学部というのは実験や観察で結構忙しいらしい。文系の俺とはそれも食い違うことだった。就職した俺と違い、奴はそのまま大学院に進学した。だから今でも京都住まいだった。関西に出張したついでに一度立ち寄ったことがあるが、友達が来て居たので、顔だけを見るとそのまま失礼した。どうもその友人がその晩泊まることになっていたそうだ。そんな状況では長居できない。数日後、千反田からお詫びの連絡が入ったが、そもそも急に立ち寄った俺も悪いのだと言ってその時はそのままとなった。それ以来じっくりと話をしていない。
 里志のプランでは最初は神山近郊の温泉に行くというプランだったが、伊原が反対した。
「家の近くでは旅行に行った気がしない」
 というものだった。確かに日常から離れてこそ旅の醍醐味があろうと言うものだと思う。東京住まいの俺でもそう思う。結果、箱根と決まった。小田原の駅前に十二時に集合と決まった。俺は小田急か新幹線で、里志と伊原、それに京都から来る千反田は新幹線となった。
 里志が予約した宿は塔ノ沢温泉にある宿で箱根登山鉄道の塔ノ沢駅を降りて吊橋を渡った先にある宿だそうだ。
「少し歩くけど大丈夫だよね」
 歩いても十~二十分程度なら大したことはない。
 季節は六月でどういう訳か皆の仕事が一段落するということだった。

 当日は曇り空だったが、雨とはならなかった。小田原の駅前で待っていると改札から三人が姿を見せた。
「偶然新幹線が一緒でね」
 里志が嬉しそうな表情で説明をする。
「こんにちは折木さん。暫くぶりです。いつぞやは本当に申し訳ありませんでした」
 千反田は俺が今日で千反田の部屋に寄った時の事を詫た。
「いいや俺の方こそ不意に寄ったのが悪かったのだ」 
 そんな二人のやり取りを伊原が興味深そうに見ている。
 千反田は夏物のモスグリーンのカーデガンに麻のワンピースを着ていた。スカートの裾から伸びた脚が眩しかった。
 四人は箱根登山鉄道に乗り塔ノ沢を目指す。電車はスイッチバックを繰り返しながら山を登って行く。線路の脇の紫陽花が満開で千反田も伊原も見とれていた。
「綺麗ですね。花に囲まれているみたいです」
 東京では少し盛りが過ぎた紫陽花だが涼しい箱根では今が満開なのだった。
「いやこれほど美しいとは思わなかったな」
 里志もその美しさに驚いていた。
 やがて電車は塔ノ沢駅に到着した。駅を降りて早川の方角に歩いて行くと、川を渡る吊橋が見えて来た。道から少し入っただけなのだが、辺りは霧に覆われていて吊橋の先は霞んでいた。
「何だか、とても神秘的ですね」
 千反田に言われなくても、恐らく皆同じことを考えていただろう。とてもここが東京から日帰り圏内とは思えなかった。
 吊橋を渡り道なりに歩いて行くと目指す宿はあった。だが霧の中に忽然と現れた感じがしたので、益々この世のものとは思えない感じがした。
 チェックインして部屋に案内される。部屋は二部屋とってあった。
「僕たちは構わないけど、ホータローと千反田さんは微妙な関係だからね」
 なるほど気を回してくれた訳かと納得する。
 結局、里志と俺、千反田と伊原となった。部屋に入ると窓から下の早川の流れが見えた。悪くない景色だった。
 早速風呂に入る。里志の言うには
「露天風呂もあるんだ。後でそっちにも行くつもりさ」
 そういえばこいつは温泉に来ると何回も入るのだと思いだした。
 夕食は別の部屋で四人で食べた。中々のもだったと記しておく。里志と伊原、千反田と俺が並んで、千反田と伊原が向かい合わせになった。
 夕食が終わり部屋に帰ってみると布団が敷かれていた。寝転がろうとした時、里志が
「ホータロー悪いけど、ここにこれから摩耶花が来るんだよね。だから悪いけど……」
 里志の言いたい事はすぐに理解できた。里志と伊原は夫婦の時間が余りにも取れないので今夜、その埋め合わせをしようとしているのだと理解した。
「そうか、じゃ俺はロビーにでも寝るとするか」
「おいおいホータロー。行く場所が違うじゃ無いのかい」
 やはりそうだと思った。俺に千反田の部屋に行けという事なのだ。
「千反田は知っているのか?」
「ああ、摩耶花が説明したら快諾してくれたそうだよ」
 どうような説明をしたのか判らないが納得してるなら、それでも良いかと考えた。
「判った。向こうの部屋に行こう」
「悪いね」
 特別悪くは無い。だが朝までには大分時間がある。それをどうするかだ。まさかずっと千反田と話をしてる訳には行くまい。
「千反田来たぞ」
 部屋の前で声をかけると中から
「はいお待ちしていました」
 そう声がした。襖を開けると部屋の中には千反田が浴衣姿で座っていた。髪の毛はそのままにしてあった。湯に入った時は上げていたのだろうと思った。
「摩耶花さんたち今夜はゆっくりと二人の時間を過ごしたいそうです。だから快諾したのです」
 俺も想いは同じだった。千反田の向かいに座る。俺も浴衣姿だ。
「思いがけなくわたしたちも二人だけの時間が持てましたね。本当はこの時を待っていたのか知れません」
「京都では時間が持てなかったからな」
「はい、あの日、わたし自分の間抜けに呆れました」
「あれは俺が悪かったんだ。前に電話でも入れておけば良かったんだ」
「でもお仕事の都合もありますから」
 でもそれは言い訳でしかないと思った。その気があればどうにでもなる。
「そっち行っても良いですか?」
「あ、ああ」
 返事がぎこちないとは思う。千反田は立ち上がると回って俺の隣に座った。
「わたし大学に行って折木さんと離れ離れになって本当の自分の気持に気がついたのです。遅いですよね。その時折木さんは東京に住んでいたのですから。だから高校を卒業してから折木さんの事を忘れた事はありません」
 千反田に言われなくても俺も同じ気持ちだった。千反田がそっと躰を近づけて来る。そっと浴衣の上から抱きしめた。浴衣越しに千反田の柔らかい躰の感触を感じる。耳元で柔らかいため息が漏れる。
「折木さん。しっかりと抱きしめてください。どこにも行かないように」
 その言葉を耳にして両腕に力を入れる。豊かな胸の感触を感じる。そういえば高校の時に市民プールで千反田の水着姿を見たが、あの頃より豊かな感触だった。背中に回した手の感触で少なくとも上半身は浴衣の下は何も身に着けていないと思った。
 お互い見つめ合い口づけをする。口づけは高校の時に経験済みだった。
「折木さんキスが上手くなってます。誰としたのか、わたし気になります」
「上手くなったと判るという事は誰と比べているのかな」
「折木さんイジワルです」
 そう言って俺のはだけた浴衣の胸に顔を埋めた。
 背中の手を下に移して行く。腰のあたりで下着の感触が無いことに気がつく。その気配が判ったのか
「湯から上がって躰を拭いたあと素肌にそのまま浴衣を着ました」
「じゃあ食事の時も……」
「はい」
「大胆だな」
「だって今夜はどうしても折木さんに気に入って欲しかったのです。こんなわたし嫌ですか?」
「いいや。その気持も嬉しいよ」
 千反田の浴衣の合わせは既に乱れていて、豊かな谷間が覗いている。そっと手を入れると甘い吐息が漏れた。
「すごく敏感になっています」
 それは膨らみの先が固くなっているので判った。
「もうわたし……」
 その言葉に布団の上に寝かせ、帯を解き浴衣の前を開くと芸術品と言っても良い美しい千反田の躰が現れた。シミひとつ無い白い素肌。豊かな胸と腰。男としてこれほど恭悦を感じた事はなかった。
 長年の想いが叶った瞬間でもあった。千反田もそれは同じ想いだったのだろう。その喜びでそれが判った。
 その夜は人生に於いてお互い本当に喜びに満ちた夜だった事を記しておく。


                      <了>

「氷菓」二次創作 「最後の星ヶ谷杯」

 あれだけ祈ったのにも関わらず、今年も雨は降らなかった。昨年、一昨年と祈る事の無駄を悟ったはずなのに、今年も祈ってしまったのだった。
 神山高校の行事で嫌なものの一番手に来るであろうマラソン大会。正式には「星ヶ谷杯」と言う。何でもかって長距離種目で日本記録を打ち立てた卒業生にちなんでるという事だが、それ以上は知らない。
 学校の裏を一周するのだが、その距離は二十キロだ。半端な覚悟では走れない。尤もこの距離をちゃんと走ろう等と考えて実行するのは一部の生徒だけだと思う。殆どの生徒。それも文化系の部活に籍を置いている者は部分的に走り、部分的に歩くという行為を繰り返すのだ。もちろん俺もその考えに賛成をする。
 一昨年は何事も無かったのだが、昨年は少々事件が起きた。それを解決する為に、いや解決はされなかった。ただ俺の気が晴れただけの事だった。それでもあの行為が全く無駄にはならなかったのは、その後大日向が復帰してくれた事で判る。
 今年は部分的だがゲリラ豪雨の可能性もあると予報が出ていたが、朝起きてみると雲ひとつ無い快晴だった。天気予報を恨んだ。
「星ヶ谷杯」は三年A組からスタートする。順次クラスごとにスタートして最後は一年H組となる。今年は俺は三年A組となったので一番速いスタートとなった。ちなみに伊原はC組里志も同じクラスだ。千反田は二年の時と同じH組だ。このH組というのは所謂進学クラスで理系でも成績上位者が比較的集まっているそうだ。公立ではそんなクラス分けはしないと思いがちだが現実にはハッキリとそうカテゴライズされていなくてもある事だそうだ。文系にもそんなクラスがあるそうだが、AでもCでも無いことは確かだ。
「三年A組、前へ」
 クラス一同の者がスタートラインに並ぶ。その一番後方に位置づけた。
「用意」
 次の瞬間火薬が炸裂して轟音が鳴り響いた。ちなみにピストルを打ったのは総務委員で彼は二年生だと思った。昨年は里志が副委員長だったので俺と大日向のショートカットを握り潰してくれた。今年は総務委員ではあるものの実質OB扱いなので大会の運営には参加していない。長いコースを見張る警備に付いているそうだ。だから里志は一度もこのコースを己の体を使って走る事がないまま卒業するのだ。
 校門を抜けて川沿いに走り一キロほど一列で走ると大きく右に曲がる。ここからが坂となっており難関の始まりだ。今年で三度目だからどこで手を抜けば良いかぐらいは三年生は判っており、あまり真面目にこのダラダラした坂を走るものはいない。なんせあと十八キロほどもあるのだ。
 学校の裏手の山道を走って行く。走って行くと言ったのは建前だ。実際は走ってるふりをして歩いているのだ。殆どの生徒はそうしてる。その横を体育会系の部活に入っている生徒が追い抜いて行く。体育会系の弱い神山高校の部員にとってこの日は実力の見せ所だからだ。
 先日、「新入生歓迎会」が行われ、我が古典部にも二人の女性徒が入部してくれた。一人は千反田の知り合いでもう一人は大日向が勧誘したのだった。ちなみに部長は大日向が務める事になった。部長職を外れた千反田の晴れやかな顔は見ものでもあった。
 かなりキツイ坂を歩くように登って行く。このあたりが一番辛いかも知れない。やがてそこを過ぎると僅かだが道が平坦になる。そう言えば昨年はこのあたりで伊原に話を訊いたのだった。同じC組でも今年は伊原はやって来ない。それは俺が昨年より僅かだが真面目に走っているからだろう。
 やがて道は下り坂になるこの辺で全体の四分の一は走った計算になる。その先は平坦になるが、やがて見えて来る小山を登る事を知っている上級生は油断はしない。そう言えば里志はどのあたりに居るのだろうか?

 暫く、ゆっくりとだが走り続ける。その間に色々な事を考える。古典部に入部した一年生は横手深雪と笹原華音という女生徒だ。名字でも判る通り横手深雪はあの横手さんの親類にあたる。当然千反田も知っていた。親類縁者では無いものの
「歳が近いので小さい頃は一緒によく遊びました」
 そう言って嬉しそうな顔をした。俺は千反田が誘ったのだと考えていたが、どうやら新入生歓迎会の時に机を出して俺と千反田と大日向で色々と話し込んでいたら、それを見て『楽しそうだ』と思ったのだという。その時話していたのは、今年部員が入らなかったら、どうするか? と言う切羽詰まった内容だったのだが、判らないものだ。
 何処までも続くと思われた長い平坦な道が終わり、また道は登り始める。ダラダラと列が続くように生徒が走っている。そんな光景を見ながら山の向こうに黒い雲が現れるのが判った。段々とこちらの方に広がって行く。
「まずいな。ゴールまで降らなければ良いが」
 そう口にしたところ、坂の上から自転車に乗って降りて来る人物が居た。俺の記憶違いで無ければ、あれは里志の自転車のはずだった。
 自転車は勢い良く降りて着て俺の目の前で停止した。
「やあホータロー今年はちゃんと走っているね。でも残念だがここまでだね」
「何故だ?」
「この先がゲリラ豪雨でね。物凄く雨が酷いんだ」
「一過性じゃないのか?」
「雨はそうかも知れないけど、川がね」
 確かに、この先で道は川沿いに進むことになる。
「氾濫しそうなのか?」
「うん、大雨洪水警報が出たんだ。学校側としても万が一と言う事もあるからね」
 時計を確認する。既に一年生も出発してる時刻だった。
「少し遅かったな」
「まあね。それでも一年や二年はまだ学校からそう遠い所を走っている訳じゃないから楽なんだけど、三年生はかなり先まで行って雨に巻き込まれた者もいるんだ。だから何かあっては大変な事になるから中止と決まったんだ」
「それを伝えている訳か」
「そういうことさ。さ、雨も近づいているから、ここから引き返した方が良いよ」
 俺としてもゲリラ豪雨はゴメンだ。里志の忠告どおり引き返そうとしたら、後ろの方から千反田が引きつった顔をして走って来た。伊原も一緒だった。途中で合流したのだろう。それにしても、かなりの距離を走ったのでは無いだろうか、二人共息が上がっていた。
「ああ、折木さん。それに福部さんも……よかったです」
「ここでふくちゃんに逢えてよかった」
「何かあったのかい千反田さん、摩耶花」
 里志の言葉に千反田と伊原は
「一年の横手深雪さんが行方不明なんです!」
「一年生は全員学校に帰って来たのだけど深雪ちゃんだけが居ないのよ」
 そう訴えると
「え、それって……横手さんは何組だったけ?」
「一年A組です。ですから一年では一番先に帰ってるはずなのですが、総務委員が点呼していたら横手さんだけが見当たらないのです。知り合いの総務委員の方から聞きました」
「じゃあ走っているうちに行方が判らなくなったということだね」
 里志の言葉に頷く千反田と伊原だった
「折木さん!」
 まさか俺に探せと言っている訳ではないよな。と思いながら千反田を見ると黙って俺を見つめている
「おれきさん」
「折木あんたの出番でしょ!」
 千反田の二言目の言葉と伊原の刺すような寸鉄で無視するのを断念した
「仕方ない……何か知っているなら話を聞こうか」
「ありがとうございます!」
 一転して千反田の表情が明るくなった。
「それにしてもここで話をするのは不味いよ。もうすぐ雨が降って来る」
 里志の言葉通り、太陽は隠れ黒い雲で空が覆われつつあった。
「ここから少し戻った場所に農作業用の小屋があります。一時的にそこに避難しまよう」
 さすが大農家のお嬢様だ。陣出ではないのに良く知っている。
「黙って使ってもいいのか?」
 万が一と言う事もあるので確認をする。
「大丈夫です。よく知っている方の小屋なので勝手も知っています。福部さんはどうなされますか?」
 確かに里志は俺達と一緒には行動出来ないだろう総務委員としての仕事がある。
「残念だけど僕は更に引き返して三年生と先行してる二年生を引き返えさせなければならないから行くよ。じゃあ! ホータローあとで顛末を聴かせてね」
 里志はそう言うと自転車に跨り俺達の来た方向に走って行った。
「大雨洪水警報が発令されました! 危険ですのでマラソン大会は中止です! すぐに学校に戻って下さい!」
 そう声をかけながら走り去って行った。その後ろ姿を見送りながら
「わたしたちも急ぎましょう。濡れないうちに」
 千反田がそう言って先に走り出した。伊原と俺が後を追う。
 
 千反田が案内したのはコースを少し戻り田圃の中を十メートルほど入った場所に立っている本当の作業小屋だった。千反田は引き戸の扉を開けると
「雨ぐらいなら凌げますから」
 そう言って先に中に入って行った。
「アンタ先に入りなさいよ」
「普通、こういう時はレディファーストだろ」
「別にアンタにレディファーストして貰おうとは思ってないから。それにちーちゃんをひとりにしちゃ駄目でしょう」
 確かに小屋の中を見ると千反田が不安げな笑顔でこちらを見ている。
「ほら」
 伊原に促されて小屋に入って行く。中は農器具や合羽など作業時に使う衣類道具が収まっていた。長椅子が置かれていて、千反田が
「立っているのも何ですから座りましょう」
「でも何で作業小屋に長椅子があるんだ?」
「天気の悪い時に小屋の中でお昼を食べる時に使うのです。ここは長椅子ですが丸椅子を置いている所もありますよ。その方が重ねられて良いと言う方もいます」
 さすがに良く知っている。一番奥に俺、それから千反田、その隣に伊原が座った。その時急に雨が降って来た。みるみるうちに勢いが強まり叩きつけるぐらいになった。

 コースになった道路がみるみるうちに濡れて水溜りが出来て行く。雷も鳴って轟音が轟いている。その光景を見ながら俺は千反田に幾つかのことを訪ねた。入部して日も浅い横手深雪に関して俺は殆ど情報を持っていない。千反田なら俺の知らない情報を持っていると思ったからだ。
「なあ千反田。横手深雪について教えてくれないか」
「はいわたしで知っている事なら何でも」
「まず、印字中出身なんだな?」
「はいそうです。中学時代は陸上部でした。確か五千メートルの中学の県の記録を持っていたと思います」
 その言葉を聴いて伊原が疑問を持った
「それなら何故神高でも陸上に入らなかったの? 確か部活は古典部だけだと言っていたわよ」
 俺もそれは疑問に思った。記録を出すほどの選手なら高校でも続けるのが本来だと思ったからだ。
「神山高校で陸上部に入らなかったのには理由があるんです」
「理由? なあにそれ」
 伊原の疑問に千反田は少し声を潜めて
「わたしも疑問に思ったので古典部に入部する時に尋ねたのです。そうしたら、『陸上は中学でやり尽くしました。高校では新しい自分を見つけたいのです』と語っていました」
「やり尽くしたって……これからじゃない!」
 伊原としてみれば納得のいかない答えだったのだろう
「それは表向きの答えかも知れないな」
 俺の言葉に伊原が
「それはどういう意味?」
「いやつまり、それだけの記録を出した逸材なら神高の陸上部が声を掛けないはずがない。それを断るには最もな理由が必要だった。幸いと言うか不幸にと言うか我が高校の陸上部は強くないしな」
「それって、十年に一人の逸材が入ってしまったら、返って揉め事が起きると言う意味?」
 伊原が何故そんな事を言ったのかは知らないが、一理はあると思った。
「まあ弱い所に逸材が入っても迷惑がられるのが関の山だろうな」
 俺の言葉に伊原が妙な反応をした
「河内先輩と同じことを言うんだ」
「河内先輩って摩耶花さんが漫画研究会にいらした頃の先輩ですよね」
 千反田に突っ込まれ
「あ、いや何でもないのよ」
 笑って誤魔化すが昨年の文化祭でコンビを組んで同人誌を売ったのは知っている。
「家は何処なんだ?」
「はい、南陣出です。あの横手さんの本家からそう遠くない場所です。そう言えばマラソンのコースからも遠くない場所ですね」
「そうか、あのあたりか」
 南陣出と聴いて伊原が
「家に帰った訳じゃ無いわよね。陣出ならコースの後半だものね。わたしたちを追い越さなくてはならないしね」
 そう言って家に帰った訳ではないと述べた。
「そうですね。わたしも家ではないと思います。かと言って学校で無い気がします」
 千反田も同意見なのだろう。
 俺は数少ないが古典部で一緒になった時の横手の様子を思い出していた。髪が千反田ほどではないが割合長く肩を隠す程は伸びていた。一緒に入部した笹原華音がショートカットでどちらかと言うと活発な感じがしたが彼女は運動部に所属した事は無いそうだ。
 細面で一見静かに読書でもしている方が似合う感じだった。恐らく高校からの彼女を見ていれば中学の時に陸上部だったとは思えないだろう。
 暫く古典部での横手の行動ぶりを思い出す。
「千反田、横手は右利きか?」
「はいそうですが」
「ねえ何でそんな事が今重要なの?」
 伊原の疑問は尤もだが今は答えてる暇はない
「最近どこか病院に通院してるとか知らないか?」
「さあ……別に具合が悪かった感じは受けませんでした」
 表を見ると雨が少し小降りになって来た。もう少しすると止むかも知れない。
「南陣出に行くにはこのまま先に進んだ方が速いかな?」
 俺の言葉に千反田は
「そうですねその方が速いですね。もうコースは後半ですからね」
「ええ、学校に帰るのじゃなく陣出まで行くの?」
 伊原が驚いた表情でつぶやく
「別に先に帰っても良いんだぞ。里志に連絡さえ取れたら良いからな」
「え、ふくちゃんに?」
「ああ、大事な事を頼みたいんだ」
「携帯なら持って来たから連絡は取れるわよ」
「それは有り難いな。じゃぁ早速連絡してくれないか」
 俺の言葉を聴いて伊原は里志に連絡をしてくれた
「あ、ふくちゃん? 今大丈夫? うん折木が何か話があるって言うの。替わるわね」
 伊原はそう言って俺に携帯を寄越した。
「ああ、里志か、そっちはどうだ?」
「どうだもこうだも無いけどね。一年は横手さん以外は問題なく戻っている。二年も殆ど戻って来たね」
「そうか、実は頼みがあるんだ。これから横手深雪を迎えに行くから、俺と伊原と千反田は遅くなる」
「ああ判ったよ。上手く誤魔化せという事なんだね」
「まあそういう事だ」
「それで行き先が本当に判ったのかい?」
「まあ、俺の考えが当たっていれば、そこに居ると思う」
「そうかい。じゃぁ楽しみにしているからね。帰ったら聴かせて貰うよ」
「頼む」
 そう言って携帯を伊原に返した。
「折木、本当に深雪ちゃんの居る場所が判ったの?」
「確実とは言えないが大凡な」
「大凡ってどれぐらいの確率よ」
「そうだな八十%ぐらいかな」
 そこまで言って千反田が
「それ本当なんですね」
 真剣な眼差しで確かめに来たので
「ああ、八十は八十だ。雨が止んだら行こう。里志に頼んだから遅れても大丈夫だ」
 コースを見ると雨は止んで舗装道路に水溜りが出来ていた。

 俺を先頭に伊原、千反田と続く。確か陣出まではそう距離はない。
「この先でバス停の『陣出南』に繋がるかな?」
 俺の記憶ではマラソンのコース上にはバス停の『陣出南』はなかった。
「途中で追分がありますのでそこを左です」
 左という事は山の方に行くことになる
「でも何で南陣出に居ると判ったのよ。それにわたしたちを追い越していないのだから物理的に無理でしょう」
 伊原がそう言って疑問を挟む千反田も同意見なのか頷いている
「学校から陣出に行くならどう行く?」
「あ、そうか」
「そうって?」
 伊原は判ったみたいだが千反田はピンと来ないようだ。
「千反田。お前家に帰るのにこのマラソンのコースで帰るのか?」
「ああ、そういうことでしたか!」
 やっと納得したみたいだ。マラソンのコースは大まかに言って学校を基準として反時計回りになっている。陣出はコースの後半で全体の四分の三ほどの位置だ。順目に行くより反対から回ればかなりの短縮になる
「だから、わたしたちと遭わなかったのですね」
「まあ意識的だろうな」
 やがて「陣出南」のバス停が見えて来た。ここまで来て千反田にも横手深雪がどこに居るのか判ったみたいだった。先頭になって先を行く。
「どういうことなの?」
 伊原の疑問に
「古典部で横手の動きにおかしな点があったはずなのだが気が付かなかったか?」
「動き?」
 俺の言葉を聴いて千反田も興味を示す
「折木さんは何か気がついていたのですか?」
「まあ、その時は何とも思わなかったが今にしてみれば納得出来たという事だよ」
「折木勿体ぶらないで教えてよ」
 千反田も頷く
「横手深雪は左膝を痛めていたんだ。だから神山高校では陸上部には入部しなかった。恐らく痛めた箇所が治れば入部も考えたのだろうが、それより新しい事をやってみたかった」
「折木。どうして左膝を痛めていたと判ったのよ?」
 伊原は歩きながらも頬を膨らませている。
「右利きの人間の利き足は通常左足だ。歩く時も通常は左足から先に出る。これは日常の行動でも同じだ。そこで俺は横手の古典部での身のこなしに違和感を感じていたんだ。それが彼女は体を動かす時に必ず右足から先に出していた。古典部には今の所左利きの人間は居ない。だから酷く目立ったんだ。それを覚えていたんだ」
「じゃあ左の膝を痛めていたから利き足の左を上手く使えなかったという事?」
「そうなるな」
「それは判りましたが、どうして今日のマラソン大会をエスケープなどしたのでしょう」
「その答えはこの蔵の中に居る横手自身に尋ねれば良い」
 俺たち三人は横手本家の蔵の前に居た。そうあの時千反田が隠れていた蔵だった。
「千反田声をかけてみてくれ」
 俺の頼みに千反田が蔵の扉の外から声をかける
「深雪さん。えるです! 中にいらっしゃるのですか?」
 少し間があって声が聴こえて来た
「えるさん……どうしてここが?」
「折木さんが考えてくれました」
「折木先輩が……」
「伊原さんも心配して来てくれています」
「深雪ちゃん。大丈夫だからね」
 やがて静かに扉が開いた
「ご心配おかけして申し訳ありませんでした」
 出て来た横手深雪は深々と頭を下げた。
「深雪さん膝が悪かったのですか? それなら正式に欠場すればよかったのに」
 千反田がそういうと横手深雪は首を横に振り
「膝は大分良くなって来たんです。ムリすれば走れない事はありませんでした。でも陸上部の先輩達が『今日の結果を楽しみにしてる』と言われ怖くなったのです。元々陸上は好きで入った訳ではありません。友達のついでで入ったのです。それなのにわたしの記録が良いものだから途中で辞められ無くなってしまったのです。そうしたら記録を出した後で練習中に膝を痛めてしまいました。わたしはこれは好都合だと思いました。幸い中学では受験に備えて部活を引退する時期でしたので、膝の事は殆ど知られませんでした。そして神山高校に入学したのです」
「そうだったのですね。だから今日が来るのが怖かったのですね」
 千反田の言葉に横手深雪は頷きながら幾度も頭を下げた
「それにしても折木先輩は何故わたしがここに居ると判ったのですか?」
 横手深雪の疑問に千反田と伊原が
「そう、それを知りたいです」
 そう言って迫って来たので理由を説明する
「まず、千反田と横手は幼馴染で一緒に遊んでいたという。更に千反田は幼い頃から何かあるとこの蔵に隠れるような事もあったと聴いた。恐らく幼い頃から二人はこの蔵を中心として遊んでいたのだろう。だからここに来ると精神的に落ち着くのだと理解した。それにここはマラソンのコースを逆に走るとそれほど時間がかからず到着する。殆どの者は誰も知らない。一時的に身を隠すには最適だった。恐らく時間を見てコースに復帰するつもりだったのだろう。だが誤算が起きた」
「それは雨ですか?」
 千反田が答える
「そうゲリラ豪雨が起きた。こればかりは予測出来なかった。降る雨を見ながら帰る潮時を見失ってしまったのだろう」
「何で折木はそこまで判るのよ?」
「だから俺たちが迎えに来たんだ。皆心配してるぞ一緒に帰ろう」
 千反田が右手を差し出すと横手深雪は嬉しそうにその手を取った。

 後日。横手深雪は総務委員会から注意を受けただけで済んだ。彼女は正式に陸上部への入部を断った。
「でも折木先輩の洞察力って凄いですね。驚きました」
 古典部皆が揃った席で横手深雪がそう言って笑っている
「そうよ。古典部で油断ならないのは折木奉太郎その人なんだからね」
 大日向が何時ものように大げさにすると
「失礼ですがえるさんから何時も聴いていた折木先輩の印象と違うので戸惑いました」
 その言葉を聴いた大日向と伊原が
「ちーちゃん。普段はどんな事言ってるの?」
「千反田先輩が折木先輩の事どうのように言っているのか興味があります!」
 そう言って千反田に迫って来た。俺も正直興味があるので文庫を読む振りをして聞き耳を立てる。
「そんな特別な事は言っていないですよ!」
 千反田がそう言って二人から逃げ惑うのだった。

 

「氷菓」二次創作 「奉太郎の誕生日」

 神山祭も終わり、この街に本格的な春がやって来ました。宮川を流れる水の音も軽やかに聴こえます。
 その四月も終わろうかと言う日、わたしは飛騨一ノ宮の駅前で人を待っていました。
 東京あたりなら暖かいので着るものは単衣を着てる方もいらっしゃるかも知れませんが、神山では桜が終わろうとしている時期ですのでまだ袷です。
 今日の出で立ちは薄い桃色の地にこの時期しか着られないであろう桜の花があしらわれたものです。帯は藍に小さなサクランボが描かれたものにしました。本来なら髪も結い上げるのですが、今日逢う方が
「ポニーテールも見てみたいな」
 そう希望したので、それにしました。今日に限ってはどんな頼みも聞き入れなくてはなりません。だって四月二八日は彼、折木奉太郎さんの十八歳の誕生日だからです。十八歳です! もう選挙に行けるのです。それに親の承諾が要るとはいえ結婚も出来るのです。凄いと思いませんか? まあ、わたしも今年中には十八歳になるのですけどね。
 盛りを過ぎたとはいえまだ見られるとの情報を貰ったので今日は臥龍桜を見て水梨神社にお参りをしようと約束したのです。
 わたしは家からさほど遠く無いので歩いて来ました。折木さんは自転車で来ると言っていました。駅の時計を見ると約束の時間です。その時
「悪い、遅くなってしまった。待ったか?」
 後ろから声が聞こえました。振り返り
「いいえ、今し方来た所ですよ」
 そう言って着物の袖を掴んで手を広げながら振り返ります。こうすると柄が良く見えるのです。
「おお、綺麗だな。良く似合ってるよ。でもまさか着物姿で来るとは」
「今日は折木さんの誕生日です。それも十八歳です。今日から選挙権もあるのですよ。大事な日です。だからわたしも折木さんに喜んで貰えるようにしました」
「そうか、俺だけの為にしてくれたんだな。俺は果報者だな」
「そんな……折木さんが喜んでくれたなら本望です」
 そうなのです。幾日も前からお祖母様に相談してこの日に何を着て行くか相談したのです。お祖母様は
「この時期しか着ることが出来ない柄が良いと思うわね」
 そう言ってこの柄を勧めてくれました。

 臥龍桜は駅を水梨神社とは反対側の陸橋を降り、小さな道路を渡ると目の前です。多分飛騨一ノ宮の駅のホームからも見えるでしょう。
「おお綺麗だな。満開を過ぎてしまったが、桜吹雪が綺麗だ」
「毎年見ているのですが今年は咲く時期が神山祭と重なっていて、それはそれで良かったです」
 折木さんはわたしの右側に立って、そっと左手を差し出してくれます。わたしは右手を出して折木さんの手を握ります。
「カメラ持って来たんだ。桜をバックに撮ろう」
 折木さんは小型のデジカメを持っていました。
「はい」
 わたしは、桜の前に立って少し畏まります。
「少し笑った方が良いぞ」
 折木さんがそう言ったので緊張しているのが判りました。おかしなものです。普通に写真を撮られるだけなのにです。
「それじゃ写すからな」
 そう言って折木さんは数枚の写真を撮影しました。ちゃんと撮れたでしょうか? そう思っていたら、
「良かったら写してあげますよ」
 男の人にそう言われました。恋人同士だと思われたのでしょうか? 嬉しくなります。
「はい笑って!」
 お互いに緊張していたのでしょう。そんなことを言われてしまいました。
「ありがとうございます!」
 お礼を言ってカメラを受取ります。折木さんが画像を確認して見せてくれます。
「綺麗に写っているよ」
  見せてくれた写真は小さかったですが、良く写っていました。
「あとで印刷して渡すから」
 楽しみが増えました。

 駅の反対側に回り、益田街道の交差点を過ぎると神橋を渡ります。下の宮川を見て折木さんが
「ほら花筏になってる」
 その声に川面を見ますと駅を超えて飛んで落ちた桜の花びらが花筏を作っていました。
「綺麗ですね」
 この時期にしか見られない光景です。
 渡ると水梨神社です。階段を登りお参りをします。いつも来なれているはずなのに、今日は何時もと景色が違って見えます。
「何をお願いしたんだい?」
「志望校に合格する事と……」
「後は?」
「秘密です」
 そうです。これだけは言えません。わたしが、どんなに折木さんと一緒にいられることを望んでいるのか……。
「この後はウチに寄って下さいね。わたしが腕を奮って美味しいものを作りますから」
 わたしの申し出に折木さんが優しく頷いてくれました。

                             <了>

「氷菓」二次創作 お昼ご飯をご一緒に

 四月になってすぐに千反田の家の傍にある水梨神社で「生き雛まつり」が行われた。これについては別に話す事もあると思うので又の機会にする。結果だけ言えば千反田にとって最後の雛となった。俺はそれを十二分に楽しませて貰った。
  ところで俺は今、フライパンを左手に持って野菜と豚肉を炒めている。時々ひっくり返して万遍なく火が通るようにしているのだ。
 え、昼飯でも作っているのかだって? まあ当たらずとも遠からずと言っておこう。俺の隣には千反田が白地にピンクの柄のエプロンをして立っている。良く似合っている。千反田は手際よく野菜を切って野菜サラダを盛りつけている。
「折木さん、野菜は火が通ればそれで結構です。用意した調味料を入れてください」
 ここは俺の家の台所だ。姉貴は会社の研修で海外に行っていて暫くは帰って来ない。親父はいつもの通り出張だ。従ってこの家には俺しか居ないのだ。その事を「生き雛」の時に話したら
「それでは食事なんかどうなさっているのですか?」
 そんなことを尋ねてきたので
「別にいつもの通りさ。適当にしてる。冷蔵庫に残り物があればそれで何か作るし、無ければスーパーにでも買い出しに行けば良い。こういう事は今までも良くあったしな」
 そうなのだ姉貴が家に居ないのはほぼ日常だった。大学に行っているときは講義がある期間は家にいなかったし、休みの時は大体旅行に出ていた。
 だから千反田に不自由を問われてもピンと来なかったのだ。だが、千反田はそうではなかった。
「そうだ! 春休み中に折木さんのお宅にお邪魔させて戴いて、わたしが何か作くりましょう。幾品か拵えておけば二三日は大丈夫ですし」
「千反田。それは有り難いが、俺は今までも適当にやって来た。わざわざ来てくれなくても大丈夫だぞ」
 俺がそう言うと千反田は頬を膨らませて
「お邪魔しては駄目ですか?」
 そう言って訴えるような目をした。
「いや、お前さえ良ければ構わないが、大変じゃないのか?」
 実は俺も本気で大丈夫と言った訳ではない。心の何処かでは『春の一日千反田と二人だけで過ごすのも悪くはない』そう思いかけていたのも事実なのだ。
 千反田は家から色々な野菜を持って来てくれた。自転車の前の籠と後ろの荷台には野菜で溢れ返っていた。これだけの量の荷物を乗せてあの坂を登るのは女子にはキツかったと思う。そのことを問うと
「わたし、これでも体力は自信があるんです。それに陣出の坂は慣れていますから」
 そんな答えが返って来た。そう言えばコイツは長距離走が得意だと言っていたことを思い出した。

 フライパンの中の炒まった野菜と肉に千反田が作ってくれた調味液を入れる。「ジュワー」と言う音と共に炎が燃え盛る。急いで中身をかき混ぜる。
「絡まったら出来上がりか?」
「はい、そうです。そこの器に盛りつけて下さい」
 横を見ると千反田が大きめの皿を出しておいてくれた。こんな皿ウチにあったかと思っていたら
「先日、供恵さんに伺っていたのです。そうしたら食器棚の下の扉の中にあると教えてくださいました」
「何だと! 姉貴が知っていたのか?」
「はい、お留守の間にお邪魔致しますので、一応ご挨拶するのが礼儀だと思いまして」
 何のことはない。またしても俺は姉貴の手の平で踊らされたのだ。
「でも、心配なさっていました。『一人だと面倒くさがって、ろくなものを食べないから良かった』と」
 ろくなものしか食べていない訳ではないが、それはそれで千反田が来る理由にはなると思った。

 テーブルには千反田が盛りつけた野菜サラダ、それに俺が炒めた野菜炒め。それに千反田が今朝自分で作って来たという豆腐が冷奴として乗っている。
「ご飯は炊けていますから、お味噌汁を作りましょう」
 千反田は皮を剥いてスライスして水に入れておいたジャガイモを出汁張った鍋に入れると火にかけた。やがて沸き始めると今度は戻してカットしたワカメを鍋に入れた。
「スライスしたジャガイモは直ぐに火が通るので、味噌を入れてしまいましょう」
 千反田は持って来たタッパを開けた。
「家で作っている味噌なんです。どうしても折木さんに食べて戴きたくて」
 茶色の味噌をお玉に取ると箸で少しずつ溶かしはじめた。
「出来ました。食べましょう」
 戸棚から俺が取皿と茶碗と箸。それにお椀を二人分出すと、千反田が電気釜の蓋を開けてご飯を盛り付ける。ご飯はキラキラと光っていて湯気を立てている。正直、この千反田米を食べられるだけでも嬉しい。最後に千反田が味噌汁をよそうと支度が出来た。
「さあ出来ました。食べましょう」
 テーブルを挟んで向かい合う。
「いただきます!」
 食べようとしてつい前の千反田に視線が行く。千反田は味噌汁に口をつけてからご飯を一口食べて取皿に野菜炒めを取ろうとして俺の視線に気がついた。
「折木さん。そんなに見つめては恥ずかしいです」
 ほほを染めた
「あ、すまん。つい見てしまった」
 俺がそう言うと千反田は茶碗を移動させて、俺の隣に座った。
「ここなら折木さんの隣ですから」
 そう言って嬉しそうな顔をした。それにしても近い。千反田の体温も感じるほどだ。
「どうしたのですか、食べないと冷めてしまいます」
 その声に我に返り箸を動かす。口に入れた艷やかな千反田米はやはり味が違う。
「お味噌汁も飲んでみてください」
 千反田は盛んに味噌汁を勧める。一口飲んでみると、味噌が旨い。市販のものとは基本的な所が違っていると思った。
「旨いな。やはり違うよ」
 俺の言葉を聞いて嬉しそうな顔をした。
「折木さん口を開けて下さい」
 いきなり千反田がそんな事を言うので口を開くとそこに千反田が自分の箸で自分の茶碗のご飯を摘んで俺の口に入れた。
「ん、」
「驚いてモグモグしている折木さん。可愛いです」
 嬉しそうにはしゃいでる千反田を見て俺も嬉しくなった。
「将来は毎朝、こうして一緒に朝ごはんを食べれたら幸せですね」
 千反田はそう言って箸を持ったまま右手を俺の左腕に絡める。
「もしかして来年の今頃のことか?」
 千反田は返事の代わりに俺の右腕を更に強く絡めるのだった。そういえば冷凍庫にハーゲンダッツのチョコレートアイスが入っていることを思い出した。

                                  <了>

「氷菓」二次創作 古典部の活動

 春休みほど心が開放される日々はないと常々思っている。それは季節的な事もあるし、何より日々の勉強と言う苦行から暫しとは言え開放されたからだ。この気持ちの持ちようは素晴らしいと俺は思う。
 春休み初日。俺は思い切り惰眠を貪っていた。姉貴は既に百日紅書店に勤務を始めていた。勿論正社員になるまでの試用期間みたいなもので色々と講習を受けるらしい。特に姉貴が配属される部署は洋書の取り扱いをするらしいので、その点の講習らしい。
 昼近くに起きて冷蔵庫を漁っていると玄関のインターホンが鳴った。まるで俺が起きてくるのを待っていたようだった。誰かと思いドアの覗き窓から覗くと魚眼レンズの向こうには千反田と里志。それにその後ろに伊原が立っていた俺がドアの内側で覗いた事が判ったのか里志が片手を上げた。驚きそして急いで玄関を開ける。
「こんにちは折木さん」
 白いコートにモスグリーンのセーターを着た千反田が頭を軽く下げる
「あれ、あんたまだそんな格好しているの?」
 里志の後ろから水色のパーカーを羽織った伊原が冷ややかな視線を浴びせる
「まさか、約束を忘れていた訳では無いよね。ホータロー」
 ダッフルコートの里志までもが呆れていた。はて俺は今日こいつらと何か約束をしていただろうか?
「皆で何かあるのか?」
 グレーの寝間着兼用のスエット姿の俺の言葉に
「昨日学校で約束したでしょう。忘れちゃったの?」
 伊原の言葉に昨日の記憶を思い出す。確か昨日は年度末最後の登校日だと言うので古典部の部室に大日向を含め皆が揃ったのだった。
 だが別に特に活動の目的も無い我が古典部だからそれぞれが勝手な事をしていてそのまま下校となったと記憶していた。
「あのう、昨日大日向さんが言っていた事覚えていませんか?」
 千反田の言葉にはっとした。そう言えば何か大日向は言っていたのだ。俺はそれを良く聞いておらず文庫本に夢中になっていた。
「大日向さんが『古典部なんですから、たまには皆で古典の勉強をするのはどうですか』と言って、今日の午後から某放送局の落語会の収録に行かないかと誘われたのです。何でもハガキが当たって、一枚で五人まで入れるそうです。それでどうかと」
 そうかあの時、そんな事を話していたのか。全く聞いていなかった。
「行かないのかいホータローは」
 里志はそんなことを言ったが、この状況で俺だけ行かないのは不味い。
「行く! すぐ支度するから中で待っていてくれ」
 三人を招き入れリビングで待って貰っている間に支度をする。支度と言ってもスエットを脱いで着替えるだけだ。数分もあれば終わる。壁に掛かっていたトレンチコートを手に取り、リビングに降りた。メモ用紙には「出かける。遅くなるかも」とだけ書いておく。
「お待たせ。行こう」
 四人で表に出ると流石に三月下旬だけあって少し暖かい風が穏やかに流れていた。三人のうち千反田だけは何かが入っていそうなボストンバッグを持っていた。
「ところで、何処でやるんだ。その落語会は」
 俺の質問に千反田が
「文化会館の大ホールだそうです。何でも五十五分の番組を二本収録するとか。だから都合休憩を入れて二時間半ほどだそうです」
 文化会館には何かと因縁がありそうだった。
「大日向は落語が好きなのか?」
「さあ、でも番組の収録に応募したら当たったそうよ。普段から落語の放送を聴いてるんじゃないかしら」
 伊原がそんな分析をする。
「何でも今日は古琴亭左朝がトリで出るそうだよ」
 里志が嬉しそうに話す。そういえばこいつは落語が好きだった。恐らくこいつのデータベースには色色々な情報が入っているのだろう。古琴亭左朝の名前はいかな俺でも聞いたことがある。 
「大日向とは何処で待ち合わせているんだ」
「何でも文化会館の前で待っているそうです。今日は福部さんと摩耶花さんも一緒なので大丈夫です」
 千反田が安心したように言うがその意味が判らないでいると伊原が
「わたしとふくちゃん。それにひなちゃんも携帯を持っているから迷わないと言うことよ」
 そうか、同じ市民会館の前と言っても場所が微妙に変われば出会うのに時間が掛かってしまう。携帯で連絡を取れば簡単という訳だ。
 市民会館の前では大日向が待っていた。ここには「あの日」以来だった。千反田にとっては思い出したく無い出来事だろう。でも目の前の千反田はそんな事を感じさせない雰囲気を醸し出していた。
 大日向はスリムのデニムに赤いブルゾンを羽織っていて、確かに目立と思った。
「ゴメンね。折木のところで時間掛かってしまって」
 伊原が少し遅れた訳を言うと大日向が
「いいえ、わたしも今来たところですから。殆ど待っていませんよ。それより自由席なので早くしないと良い席取られてしまいますから急ぎましょう」
 そう言って大日向は入り口に向かって歩き出した。文化会館のホールの入り口には、大きな立て看板が立っていた。
「TBKほろ酔い落語会収録会場」
 その看板を見ながら横を抜けると大日向が係員に当選したハガキを手渡した。係員が俺たちの人数を確認して中に通してくれた。
 扉を開けて会場に入ると既に半分ほど席が埋まっていた。もう半分ほどは赤いシートの色がそのまま残っていた。
「いい席埋まっちゃった?」
 伊原が心配していると大日向が
「前の方空いてますから大丈夫です。落語って仕草も大事だそうですから余り遠いと判らないですよね」
 そう言って先頭になって通路を前の方に歩いて行く。次が伊原でその後ろが里志。そして千反田と最後に俺が続く
「折木さんは今まで生で落語を聴かれたことありますか?」
 千反田が後ろを振り返りながら俺に尋ねる。
「いいやCDや放送ならあるが生では始めてだ」
「わたしもなんです。一度聴いてみたかったのですが、東京や大阪に行かないと無理なので諦めていたのです。だから大日向さんに生で聴けると言われて嬉しかったのです」
 千反田あたりの家なら押し入れの奥に戦前のSP版がありそうだと思った。そんなことを考えていたら千反田が階段に躓いた。急いで手を伸ばして千反田の体を支える。
「さすが折木先輩。千反田先輩のことには抜かりはありませんね」
 大日向が嬉しそうにそんなことを言う
「仲の良いのを見るのが好きなんだろう」
「そうなんです。特に最近は二人を見てるだけで癒やされます」
 別に俺はそんな事を思ってる訳では無いと言おうとしたが止めた。千反田が嬉しそうに笑っていたからだ。
 前から五列目に五人揃って並んで座れる席が空いていた。
「ここならどうですかね?」
 大日向が後ろを振り向きながら確認する
「いいんじゃない。見易そうだし」
「うん。丁度良いと思うよ」
「いいですね。良い席だと思います」
 その後俺の言葉を待っていた四人が俺を見つめるので
「うんいいんじゃないか」
 とりあえず、そう言っておいた。
 席の位置は高座に向かって一番右から大日向、伊原、里志、千反田、俺となった。それぞれがコートを脱いで膝に置く。この時になって俺は朝から何も食べていない事に気がついた。千反田がそれを察したのか俺に右手に何かを握らせた。そっと確認するとラップに包まれたお握りだった。
「収録の合間に食べられたらと思って握って来たのです。お茶も用意してありますから食べて下さい。お腹空いていらっしゃるのでしょう?」
「どうしてそれが判った?」
「折木さんの様子を見ていれば判ります。それに今し方折木さんのお腹が鳴っていましたよ。わたしが隣で良かったです」
 まさかお腹の鳴った音を千反田に聞かれていたとは思わなかった。改めてこいつの五感の能力の高さに驚く。そしてバッグの中身はお握りとお茶だったのだ。その言葉にありがたく頂戴する。かぶりつくと中身は刻み昆布だった。その甘じょっぱさが腹に沁みる。
「旨いよ」
「お茶もどうぞ」
 千反田が紙コップにポットからお茶を注いでくれた。いつもの味のお茶に安心感が漂う。千反田の気遣いに嬉しくなり、そっっと手を握る
「おれきさん……」
 言葉はそのまま途切れた。

 やがて時間になりアシスタントディレクターという人物が前説を始めた。拍手をするタイミングの指示をする。尤もこれは登場する時や退場する時の拍手で。途中の笑いや拍手は自由で良いとのことだった。これは助かる。面白くないのに笑うのはある意味苦痛だからだ。
 アシスタントディレクターが高座の隅に下がると出囃子が鳴り始めた。聴いた事あるのだろうが、正直余り馴染みの無い音楽だと感じた。
 出て来たのは漫才師の二人で、余りテレビでは見た事の無いコンビだった。多分俺の顔に出ていたのだろう千反田が
「テレビに余り出ませんが東京の寄席では年中出ているそうですよ」
 そんな解説をしてくれた。千反田が何故東京の寄席に詳しいのか疑問に思っていたら
「ほら入場する時に貰ったパンフレットに書いてあります」
 そう言えばそんなものを貰った気がした丸めてズボンのポケットに刺していた。取り出して眺めると確かにそう書いてあった。聴いてみると確かにテンポも良く面白い。里志や伊原、それに大日向は大きな声で笑っていた。千反田も楽しそうだ。俺もそれに習う。
 次の出演者はマジックだった。マジックの鮮やかさよりも話術で笑わせながら見せる趣向だった。これも思わず笑ってしまった。
「折木さん。楽しいですね」
 千反田が本当に楽しそうだ。それだけでも来た甲斐があろうと言うものだ。
 一本目の最後は落語だった。テレビにたまに出る噺家で若手から中堅になるのだそうだ。これもパンフレットに書いてあった。
 高座の袖に立っている「めくり」という登場する芸人の名前が特殊な文字で書かれている。すぐには読めないがじっくりと見ていると三圓亭友雀と書かれていた。
 出囃子に乗って本人が登場するとディレクターに催促されなくても自然と拍手が起こった。やがて高座の真ん中の座布団に座ると扇子を前に置いて深々とお辞儀をした。
「え~ようこそのお運びで御礼を申し上げます。神山には良く来るんですが、落語をするのは今日が初めてでして。じゃあ何しに来るのかと言うと、あたしは山が好きなので上垣内連峰の山に登りに来るんですよ。神山は山は最高で酒も旨くてね。良い所です」
 さすが芸人だ。客を完全に掴んでしまった。
「良く、花見と一口に言いますが花見と言うのは桜を見に行く事なんですね。他の花は花見とは言わない。梅は梅見ですし、菊も菊見ですからね。只花と言った時は桜なんですね」
 こんな前振りを降って噺に入って行った。横を眺めるともう千反田は完全に噺に入り込んでいた。
 噺は、長屋の連中が大家に連れられて上野に花見に行くものだった。すわ花見と聞いて長屋の連中は喜ぶが、お酒と思ったのは「お茶け」蒲鉾と思ったものは大根の漬物。卵焼きに見えたのは沢庵だった。一気にテンションが下がる長屋の連中。そこに半分シャレで半分皮肉で
「大家さん近々長屋に良いことがありますよ」
「ほう、そうかい。どうして判ったんだい」
「だって酒柱が立っています」
 一斉に拍手が起こり、友雀は頭を下げて下がって行った。
「ありがとうございました。次の収録まで三十分休憩です」
 緞帳が下げられ元から暗くはなかった場内が少し明るくなった。落語を聴く時は演劇の時のように余り暗くならない。それは高座に立った芸人がお客の表情を確認するためだそうだ。これは里志から後で聴いた事だ。
「世の中にはお酒にも柱が立つ事があるんですね」
 千反田が感心して言う。隣の里志がぎょっとした表情で
「千反田さん。それ違うよ。酒柱なんて無いよ。お茶の茶柱と言えないので、酒柱と言ったんだよ」
「ちーちゃん。まさか本当に信じたの?」
 里志と伊原に言われて千反田はやっと納得したようだった。
「ああそうだったのですか! 面白いですね!」
 ニコニコしながらそう言って口を押さえて笑いだした。当然周りの観客は戸惑っていた。
「千反田先輩って本当に天然な部分があるのですね。納得しました」
 大日向も半分笑いながら呟いていた。
「でも、そんな千反田先輩を見守る折木先輩の優しい眼差しも素敵ですね」
 そんな事も大日向は口に出した。すると伊原が
「ひなちゃん。それは良く見過ぎよ。こいつは単なる折木でしかないのだから」
 いつにも増した毒舌が俺に刺さる。すかさず里志が
「摩耶花。そのぐらいにしてあげなよ。千反田さんが困ってるよ」
 里志に注意された伊原は顔を真赤にして黙ってしまった。そんな行動を大日向が喜んで眺めていた。

 休憩中に千反田が持って来たお握りとお茶を配った。
「わあ、ちーちゃんありがとうね」
「すいません千反田先輩」
 伊原と大日向が喜んでお握りをパクつく。里志は
「千反田米で握ったお握りは本当に美味しいんだよね。その証拠に冷めても本当に美味しいんだ」
 正直、里志に言われなくても、そんな事はとっくに判っている。俺は二つ目を楽しんで口にした。
 休憩の後、二回目の収録が始まった。二回目は最初がギター漫談で、中々のテクニシャンで音楽が良く判らない俺でも凄いと思った。
 その次が物真似で動物の鳴き真似だった。千反田は目を瞑って聴いていて
「まるで本当の動物や虫がいるようですね」
 そう言って感心していた。そして最後が古琴亭左朝だった。左朝といえば、次の人間国宝になるのではないかと噂されている大物噺家で、普段ならこんな地方でのラジオの落語番組の収録に出る事なぞ無い。
「折木さん。凄いです。テレビでしか見たことの無い方が高座に出て来ました」
 左朝は高座に座り頭を下げるとマクラを語り始めた。マクラというのはその落語に関する前説のようなもので蕎麦の出る噺だったら当時の蕎麦に関する事を説明するのだ。噺の筋は
 江戸の夜、往来を流して歩く二八蕎麦屋(にはちそばや)にひとりの客がやって来る。
男は「しっぽく」を頼むと「景気はどうだい?商売は商い(あきない)というくらいだ、飽きずにやんなくちゃいけねえぜ」と亭主に話しかける。亭主が相手をすると客は更に屋号や蕎麦の味、ダシのとりかた、竹輪の切り方、箸、器までを褒めちぎり蕎麦一杯をたいらげる。
 二八蕎麦の値段は一杯十六文と相場は決まっている。客は一文銭十六枚で勘定を支払うと言うと小銭を取り出し、「・・・五つ、六う、七つ、八つ、蕎麦屋さん、いま何時だい」「へい九つです」「十、十一、十二・・・」
 男は勘定の途中で時刻を訪ね、一文ごまかすことに成功する。
 その様子を見ていた間抜けな男がこのからくりに気がつき、翌晩、自分も真似をしようとする。
 翌日、昨日より早く出てしまった間抜けな男は、通りがかった蕎麦屋をやっとの思いで呼び止め、昨日の男と同じ事をやろうとするのだが、尽く反対になってしまう。おまけに蕎麦も、とてもじゃないが食べられたモノではない。早々に勘定にしてしまう。
「蕎麦屋さん幾らだい」
「へえ十六文で」
「ひい、ふう、みい、……今何時でい」
 とやると、
「へい、四つで」
 と答える。
「ん~五つ、六う……」
 と下げを言って頭を下げた。無論破れんばかりの拍手が起こる。
「お握りを食べたばかりだけど、なんだか蕎麦を食べたくならないかい?」
 里志がそんな事を言うと大日向や伊原も
「そうねえ」
「そうですね。食べたくなりました」
 千反田も
「ほんと見事な芸でした。本当に食べていると感じました」
 確かに左朝はその仕草だけで見る者に蕎麦の存在を感じさせたのだった。
 帰りに皆で蕎麦屋に寄ったのは言う間でもない。

 帰る道すがらそれぞれに別れると最後は俺と千反田の二人だけになった。
「やっと二人だけになれました」
 そっと千反田の肩を抱き寄せる。
「春休みのうちに何処かに行きたいですね」
「ああ、そうできれば良いな」
「本当に考えてくれますか?」
「まさか泊まりがけか?」
「わたしは、それでも良いです」
 千反田はその体温を感じるほど俺に身を寄せて来た。その肩をしっかりと抱きしめる。
 何も言葉は要らなかった。その気持ちが痛いほど伝わって来たからだ。
「今日は送って行くよ。少し遅くなっても良いだろう?」
 その問いかけに千反田が静かに頷いた。

                           <了>
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