自作小説

氷菓二次創作「新年の珍事」

 千反田にとっては、伯父の関谷純がインドで僧侶になっている可能性があると言う事は、恐らく生死は判らなくとも、行方不明後の行方が少しでも判ったのは自分の今後の進路を決める上で何かを変えた可能性があると俺は考えていた。
 だが、そんな事が問題にならないほど大変な事が俺と千反田の上に起こったのだった。

 歳明けの日、その日は明け方から枕や布団の感じが何時もと違っていたのだが、眠かったのでそのまま寝ていた。
 と、不意に枕元の目覚ましが鳴り出した。音源の方に手をやって目覚ましのスイッチを 切ろうとしたが、目覚ましの手触りが違っていた。
『はて、いつもは目覚ましは窓際に置いてあるはずだが、何故今日に限って枕元にあるのだろうか? それに目覚ましそのものの形も違った感じだ』
 そんな事を思いながら目を開けると天井が見えた。朝起きて天井が見えるのは当たり前の事だ。よっぽど寝相が悪くなければ、それが見えるのが普通だった。
 だが、それは見慣れた天井ではなかった。俺の部屋の天井はボードで白いクロスが貼ってある。細かい文様はあるが一見無地に見えるもののはずだった。だが俺が今見てるのは純日本間で使われる木の板がはめ込まれた天井だった。良く旅館に泊まるとこんな天井にお目にかかる。だが俺は旅行に行った記憶は無かった。
 静かに自分の周りを見渡して見る。左右は襖となっており、足下と頭の方は壁となっていた。足下の方には机と椅子があり、その横には制服が掛けられていた。見慣れた制服だったが、俺のでは無かった。それは神山高校のそれで、しかも女子の制服だった。どうやら俺は人様の家寝てしまったらしい。でも昨夜、俺は自分の部屋で寝たはずなのだが……。
 部屋の外で人の声がした。何を言っているのかは聞き取れなかったが、姉貴やオヤジの声ではない事は確かだった。
 そっと起きあがって見て部屋を詳しく見渡すと、この部屋に見覚えがあった。俺の記憶が正しければここは千反田の部屋だった。畳の上に敷かれた二枚の布団。そして俺に掛かってる毛布と羽毛布団。寝具はかなり良いものだと思った。俺は記憶に無いが千反田の家に泊めて貰ったのだろうか?
 それにしても肝心の千反田は何処にいるのだろうか?
 まあ、幾ら俺の部屋で一緒に抱き合ったからと言って一線を越えていない関係だから、あからさまに一緒に寝るなんて事にはならないだろうが、通常ならこの部屋に千反田が寝て俺が客間に寝るのが筋だと思った。
 そんな事を考えていたら廊下側の襖が開いた。
「える。早く起きなさい。神棚の方にはわたしが若水を上げたから仏壇の方はお願いね」
 千反田の母親だった。これは不味いのでは無いだろうかと思っていると、母親はさっさと行ってしまった。何故だろうか、俺を千反田と間違えたのだろうか……そんな事はない。あるとすれば、あり得ない事だが俺が千反田になってしまったと言う事だと思った。飛び起きて部屋にあった鏡に向かう……そこには驚いた表情をした千反田が立っていた。夢かと思い顔を叩いて見る。間違いない。これは現実だ。俺は意識が千反田の体の中に入ってしまったと言う事だ。大変な事になった。
 今日は確か元旦だ。元旦の千反田家は大変だと昨年千反田も言っていた。夕方まで訪問客に愛想を振りまいて「良い子」を演じていなくてはならない。そこまで考えてトイレに行きたくなった。トイレの場所は覚えている。あの時この家で迷った事が役立つとは思わなかった。
 急いでトイレに行き雉をを打つ。ん? これもそう言うのだろうか。そんなことを考えてしまう。
 済ませて部屋に帰って何か着なければならない。何せ俺はパジャマのままなのだ。千反田の事だから寝るときは寝間でも着てるのかと思っていたが普段はパジャマだったのは意外だった。
 幼い頃から姉貴の着替えを見ていたから千反田の体でも着替えるには迷いは無かった。下着も無事に着る事が出来た。姉貴はブラジャーのフォックは前で停めて後ろに回しているので、俺もその通りにした。それにしてもブラジャーをしていないと胸が揺れて気持ちも収まらないと判った。少し自分で触ってみたが、あの時俺の部屋で触った感触と同じだった。悪くはない! と言うより改めて千反田の胸の大きさを確認出来た。
 そんなことより千反田の母親が言っていた用事を済ませねばならない。台所に行くと恐らく仏壇に供える湯飲み茶碗の様なものが置いてあった。これに水を汲んで仏間に持って行く。
 急いでいたら注意された
「える。どうしたのですか。寝坊したからと言ってそんなに乱暴な歩き方はいけませんよ」
 俺としてみれば普通だったのだが千反田はこんな歩き方はしないのだろう。
 用が済むと急いで俺の家に電話を掛ける。恐らく俺と千反田の中身が入れ替わっているのなら、向こうでも戸惑っていると思ったからだ。電話をすると直ぐに千反田が出た。正確には体は俺だが中身が千反田と言う事だ。
「もしもし、折木ですが」
「俺だ」
「あ、折木さん。良かった……じゃなくて、もしかして、わたしの体になってしまっているのですか?」
「ああそうだ。驚いたよ。今、仏壇に水を上げた所だ。とりあえずこの後はどうなるんだ?」
「ええと、まず家族揃ってお雑煮を食べます。その後着替えてお客様の相手をします。もっともこれは、笑顔で会釈して相づちをしていれば良いです」
「そうか、良い子をしてればいいな」
「はい、そうです」
「着替えるって俺は着物を自分では着れないぞ」
「ああ、そうですね。では着付けを祖母に頼んで下さい。祖母は感が良いから何か言われるかも知れませんが、味方になってくれると思います。そして夕方には荒楠神社に挨拶に向かいますから、そこでお逢いしましょう」
「判った。昨年と一緒だな。とりあえずボロを出さないように頑張るよ」
「お願いします。ところで、わたしは何をすれば良いのでしょうか?」
「そうだな。ヤドカリの生態模倣かな」
「え?」
「つまり、オヤジも姉貴も居ないはずだから、好きにしていれば良い。適当に時間を潰してくれ。それから待ち合わせの時間は昨年と同じ頃で良いのか?」
「多分大丈夫だと思います。それから……」
「どうした?」
「先ほどトイレに行ったのですが、立ってするのが初めてだったので自信が無いので結局座ってしました。それとトイレを済ませたら大きさが……すみません」
「あ、そうか、何でも良いよ。上手くやってくれ。俺の方は特に問題はない。姉貴を見て育ったからな。それじゃ夕方にな。何かあればまた連絡する」
「お願いします」
 千反田にはそう言ってはみたが俺だって今日一日千反田えるを演じる自信なぞ無い。そんな事を考えていたら台所から呼ばれた
「える、朝のお雑煮よ」
「はーい。今行きます!」
 そう返事をして行くと。鉄吾さんと母親。それのお婆さんが座っていた。
「あけましておめでとうございます」
 俺がそう挨拶をすると三人が揃って
「あけましておめでとうございます」
 挨拶を返してくれた。千反田のお婆さんは前に一度だけ見た事があるが俺を見ると不思議そうな表情をした。もしかしたら気がついているのかも知れない。
 母親が雑煮をよそってくれたので、有り難く頂戴する。食卓にはお決まりのおせちが並んでいたが俺は雑煮以外は口にしなかった。
「わたしが片づけます」
 多分千反田なら、そんな事を言うのではないかと考えた。
「お昼はお客様もお見えになるから客間ですからね。える、着替える前に手伝ってね」
「判りました」
 何をするのかは判らないが、とりあえずそんな返事をする。元に戻るまでバレてはならない。

 結局、手伝ったのは客間で昼食を食べる用意だった。座布団を並べたり、箸を置いたりする作業だった。確か「生き雛祭り」の時は業者が入っていたはずだったが、正月はそうも行かないのだろう。
 手伝いが終わると祖母の部屋に赴いた。
「あのう……」
 俺が話をする前に
「あんた。えるでは無いでしょう。多分えるが好きな折木君じゃないのかしら」
 判っていた! 正体がバレていた。
「判っていたのですね」
「台所で逢った時から判っていたよ」
「自分でも判らないのです。急いで折木の家に電話したら、俺の体に入ったえるが出ました」
「やはり……昔から、たまにこの家にはそんな事もあったそうだからね。直ぐに元に戻るから安心しなさい」
 その言葉は俺を安心させてくれた
「着物を着たいのでしょう?」
「はい。夕方にえると逢うのですが、それまではえるを演じていなくてはなりませんので」
「じゃあ、着付けてあげましょう。着物はえるの部屋にあるから」
 お婆さんはそう言って一緒に付いて来てくれて、着物や帯を選んでくれた。
「えるは若いから地味な色が似合うのよね。若いうちしか着られない色や柄ってあるから」
 結局、葡萄色に赤い牡丹の柄の入った着物に濃い緑色の帯を選んでくれた。羽織は昨年と同じものになった。
「髪も拵えてあげましょうね」
 お婆さんは鏡の前に俺を座らせると、千反田の居長い髪を櫛で解いてアップにしてくれた。そこに珊瑚の飾りのついた簪を刺してくれた。
「よく似合うわ」
 確かに鏡の向こうには美しい千反田が居る。葡萄色の地に赤い牡丹の花が咲いている着物を着た千反田が立っていた。素直に美しいと思った。でもこれは俺の今の姿なのだ。何か変な感じがした。俺が俺に恋いしてる。敢えて言うならそんな感じだった。
 来客中はこれほど時間が経つのが遅いと思った事は無かった。困ったのはずっと正座をしていなくてはならない事だった。そこで足がしびれるとトイレに通った。その他は千反田が言っていたように本当にニコニコしているだけだったからだ。だが陽が暮れるとそれも終わった。俺は鉄吾さんから預かったお酒を風呂敷に包んで貰って、呼んで貰ったタクシーに乗り込んだ。
「荒楠神社までお願いします」
「かしこまりました」
 運転手さんがそう言って静かに車は走り出した。
 走り出して少し落ち着いたので色々と考える余裕が生まれた。千反田は朝のトイレの事を言っていたが、やはりする時に俺のものを触ったのだろうな。俺もトイレで用を済ませた後はトイレットペーパーを挟んでいたとは言え、間接的には千反田のあそこを触った事になる。考えるとお互いにかなり恥ずかしい事をしていたのだ。
 タクシーが到着すると俺の姿をした千反田が石段の下で凍えながら待っていた。そして俺の姿を見つけると顔の表情が明るくなった。
「折木さん!」
 姿形は俺なのだが、言葉や仕草が千反田なので何かおかしい。
「とりあえず、家の用事を済ませてしまおう」
「そうですね。それわたしが持ちましょうか」
「そうか、そうだな、外見的にはそれが普通か」
「そうですよ。ほら持っても軽く感じます」
 石段を登って行く。俺は千反田のお酒を持っていない方の腕に自分の腕を絡める。俺の姿をした千反田が照れている。なにかおかしい。
「今日の着物はお婆さんの見立てですか? よく似合っていますよ」
 千反田は嬉しそうに笑っている。
「ああそうだ。すっかり見抜かれてしまっていたよ。だから正直に話したんだ」
「お婆さんは感が鋭いですからね」
 百段を越す石段を登りきり社務所に行き、十文字に挨拶をする。
「新年、明けましておめでとうございます。これは父鉄吾からのお使いでございます。どうぞお納め下さい」
 昨年、傍で二人のやりとりを見ていたからすんなり言葉が出た。
「ありがたく受け取らせて戴きます。どうぞよしなにお伝え下さい」
「える。何だか今日は何時もと感じが違うわね。さては折木くんと何かあったのかな?」
 十文字は恐らく勘違いして、にやにやしている。俺はどう返事をして良いやら判らずに千反田の方を見ると、千反田は半分笑いながら首を左右に振っている。
「ま、いいか。二人は運命の人なんだからね。お参りしたら、寄ってね。今年は暖かい物を出すから」
 十文字にお礼を行って本殿にお参りに向かう。
「かほさんは何か感じていましたね」
「ああ、危なかったな。本当の事を言っても良いが、色々と突っ込まれると困るからな」
「そうですね。特に元に戻った後に色々と訊かれると困ります」
 本殿に参拝した後で
「ついでですから稲荷社にも行きましょう」
 千反田の提案で更に上を目指した。稲荷社では
『早く、体と心が元に戻りますように』
 そんな事をお願いした。そして降りる時だった。千反田と手を繋いで階段を降りていたら、この前降った雪が残っていて、俺の草履がその上に乗って滑ってしまったのだ。その結果、二人でもんどり打って転がってしまった。
「いたたた。千反田大丈夫か?」
「大丈夫です。折木さんは怪我ありませんか?」
「俺は大丈夫」
 そう言って己の体を見ると、首から下にはトレンチコートを着ていた。
「戻った! 千反田戻ったんだ!」
 俺の言葉に千反田も己の姿を見ると
「本当です! 戻りました!」
「着物は?」
「何ともありません」
「それは良かった!」
「折木さん!
「俺たち……」
 参拝客でごった返すのにも関わらず二人で抱き合って喜んだのだった。後で十文字に
「やっぱり。何かおかしいと思ったのよね。でもあのままだったら面白くなったかも知れないわね」
 そんな事を言われてしまった。
 この事があり俺と千反田の仲は一層親密になったのだった。


                                               <了>

氷菓二次創作 「ベナレスに死す」 後編

 俺は更に千反田から情報を仕入れる。
「なあ千反田。そのベナレスと言う街について他に何か知っていることはあるか? あれば教えてくれ」
 俺の頼みに千反田は澱み無く答えた
「そうですね。ベナレスは首都デリーから南東に約820km、東部最大の都市コルカタから北西に約700kmの場所に位置し、両都市を結ぶ幹線鉄道のほぼ中間地点に位置します。ウッタル・プラデーシュ州にあり」
「いやもっと具体的な事なんだが」
「そうですか、ウッタル・プラデーシュ州は北でネパールと国境を接しています。殆どがガンジス川の流域の平原ですね」
 要するにインドでも北に位置すると言う事だけは理解出来た。
「伯父がバングラデシュから入国したという事はインド国内をかなり移動したのだと思います」
 インドに魅せられた人物は結構居て、大きく分けると二通りになるという。片方は「二度と行くものか」と思う人間と魅せられて何回も行く人間に分かれると言う。恐らく関谷純は後者だったのだろう。
「ベナレスには多くの人々が死を待つだけに滞在すると姉貴の手帳に書いてあった。関谷純はベナレスに死にに行ったのだろうか?」
 俺の疑問に千反田は
「関谷家が葬儀をしたのは法律的な側面もあったと思います。親族は心の中では生きていると思っているはずです。それは、わたしも同じです」
 それが親族の偽りのない気持ちだろう。そう考えた時だった玄関が開き姉貴が帰って来た。
「あら、えるちゃんじゃない。今日はお家デート?」
 姉貴は一人で気楽な雰囲気を醸し出していた。
「なあ姉貴に尋ねたい事があるんだ」
 俺の言い方が普段とは違っていたので、さすがに姉貴も何かあると感づいた様だった。
「ちょっと待って着替えて来るから」
 そう言って自分の部屋に消えた。
「訊きたい事ってなぁに」
 着替えてリビングに出て来た姉貴に俺は
「昨年の春から夏にかけて、旅行に行っていたろう? 確かインドのベナレスから手紙をくれた」
 姉貴は俺の言葉に敏感に反応した。
「ああ、確かに手紙を出したわね。それが何かしたの?」
「姉貴は何故ベナレスに行ったのかい」
「そう……あんたは変な所の感が良いから、判ったのかな?」
 含み笑いをした姉貴はソファーに座ると、千反田と俺にも座るように促した。
「まさか、あんたとえるちゃんがこんな関係になるなんて、あの時は全く思っていなかったからね。少しうかつだったかな? 訊きたい事は関谷純の事でしょう?」
 やはり姉貴は知っている。それもかなり深い所までの事情を知ってると思った。
「奉太郎。最初にあんたの考えを聞かせてくれない。それから真実を話すわ」
 姉貴の目は完全に真剣な時のもので、この目をした時の姉貴は俺の想像を上回る。俺は小さく深呼吸をすると頭の中で整理していた事を語り出した。
「まず、姉貴がかって『神山令嬢倶楽部』の会員だった事。そこから俺はインドに旅行に行く姉貴に関谷家の誰かからコンタクトがあった。その内容はインドに行くならベナレスに寄って欲しい。恐らく旅費もある程度は負担してくれたのだろうと思う。その内容はベナレスで行方不明になった関谷純に関するものだった。滞在していたホテルの部屋からパスポートが残されていたという。ならば関谷純は未だインド国内に居る可能性がある。当地でその足取りを確かめて欲しいとかそのたぐいだったと俺は思った」
 ここまでは千反田にも語った内容だ。
「そして姉貴はそれを了解した。古典部員としても関谷純の行方は興味のある事だからだ。それは俺も色々と推理したので理解出来る」
 そこまで言うと姉貴は
「まあ、遠からず。と言う事ね。引き受けたのは何よりわたしがベナレスに行ってみたかったからよ。それが第一。関谷純の事はえるちゃんには悪いけど、ついでかな」
「いえ。とんでもないです。それは当然だと思います」
 俺は次を話しだした。
「そして実際にベナレスで関谷純の足取りを追った。それについては苦労したのか簡単に判ったのかは俺には判断出来ないが、兎にある程度は判った。それは奇跡に近いものだったかも知れないが……その結果は」
「折木さん。伯父の行方が当時判ったのですか?」
 千反田が驚きの声を上げる。
「ああ、俺はそう考えた。そして恐らく姉貴は関谷純とコンタクトを取る事に成功した」
「まさか……伯父が生きていたのですか!」
「千反田。これは俺の推理だ。事実ではない。恐らく関谷純はヒンドゥー教の僧侶になっていたのでは無いかな。だからもう一生日本に帰る意志は無かった。それを姉貴に伝え、関谷家にも伝えて欲しいと語ったのは無いかと言うのが俺の推理だ。どうだい姉貴、間違っていたかな?」
 俺の言葉を最後まで聞いた姉貴はおもむろに
「まあ、大凡は合っていたわ。じゃあ、あんたの足らない事を補足しようか。まず、わたしが関谷家から頼まれたのは事実だけど、偶然だったのよ。当時行方不明から七年が過ぎようとしていて関谷家では関谷純の処遇に困っていたのよ。それを見かねて鉄吾さんが仲に入ってわたしに相談が来たのよ。わたしの名は『神山令嬢倶楽部』でも有名だったからね」
「父が絡んでいたのですか! 全く知りませんでした」
「えるちゃん。皆、悪気があって隠していた訳じゃないのよ。あなたが伯父の関谷純に懐いていたから変な情報は知らせたくなかったのよ。その頃はウチの奉太郎と仲良くなるなんて思わなかったからねえ」
 俺は姉貴に先を言うように促す。
「費用はある程度は出してくれたわ。本当は要らなかったけど、向こうがどうしてもと言うので有難く受け取ったの。そしてベナレスに行った。最初は全く手掛かりも無かった。そこで日本人として探す事にしたの。そうしたらベナレスに日本人のヒンドゥー教の僧侶が居ると言う情報を見つけたの。でも、そこからが大変だった。なんせベナレスはヒンドゥー教の聖地だから寺院の数も半端ないぐらいにあるのよ。だから、何処の寺院かを特定するのは本当に苦労したわ。日数もかかった。だから東ヨーロッパに行くのが遅れたのよ。そこで色々なトラブルにも巻き込まれたわ」
「そこで見つかったのですか?」
 千反田が真剣な表情で尋ねる。姉貴は千反田の入れてくれたお茶を一口飲むと
「結果だけ言えば見つけたわ。その過程は省略するけど、ある寺院に日本人の僧侶がいる事を突き止めたの。もしその人物が関谷純では無かったら諦めるつもりだったわ。それぐらい大変だったのよ」
「それで伯父と会えたのですか?」
「まず、会えた事は事実だわ。寺院に尋ねて行き、合ったのよ。、わたしが神山高校の古典部出身だという事を最初に言ってこちらを信用して貰ったわ。そして関谷家から頼まれた事も告げたのよ」
「そうしたら伯父は何と言ったのでしょうか?」
 もう俺の話す余地は無かった。千反田がその代わりになっている。
「あなたの伯父の関谷純はね、『自分は長い事考えた結果、ここベナレスに来て人生を終える決意をしました。もう日本に帰るつもりはありません。多くの人々と同じようにここで最高の死を迎えようと思っています。だから自分の死期が来るまで他の方のお手伝いをしようと考えたのです。わたしは高校で人生を変えられました。ならば最後だけは自分できめようと思います。日本に帰ったらこうお伝え下さい。関谷純はここベナレスでヒンドゥー教徒として最後を迎えます。もう探さないでください。それがわたしの意志です。関谷純はベナレスに死す。とお伝え下さい」
「伯父は生きていたのですね。そしてそんなメッセージを伝えたのですね。だから関谷の家では葬儀をしたのですね」
 千反田が思い詰めた表情で語ると姉貴は
「でもね。こうも言っていたわ『わたしは、最高の死を迎える事が出来るのです。悲しむ事なんて必要ありません』とね」
 関谷純がヒンドゥー教の僧侶になった可能性もあるとは思っていたが、それ自体が目的だったとは意外だった。
 姉貴は最後に
「帰っても暫くは関谷家と千反田鉄吾さん夫婦以外には言わない事。それが条件だったわ。だから、えるちゃんにも本当の事を言う訳にはいかなかったのよ」
「伯父は未だ生きているのでしょうか?」
「それは判らない。何せ、インド各地から、年間100万人を超える巡礼者や参拝客が来るらしいいし、死を待つ人々は解脱の館という施設で死を待つのよ。無論そこにも僧侶が居るわ。関谷純はそこの僧侶なのかも知れなかった。あるいは、インド各地から多い日は百体近い遺体が金銀のあでやかな布にくるまれ運び込まれるそうだから、それに祈りを捧げる僧侶の可能性もあったわ。兎に角、今はもう判らないと言う事なの」
 姉貴は語り終わると千反田に
「もし今でも生きていても彼は既に関谷純では無いのよ。ヒンドゥー教の一僧侶になってしまったと言う事なんだと思う」
 そう言って優しい目をした。千反田は暫く目を瞑っていたが
「伯父は日本に居る間常に考えていたのですね。それを幼いわたしは知りませんでした」
 姉貴は千反田の頭を優しく撫でると自分の部屋に戻って行った。千反田は少し放心した様な感じだった。
 だが、何と言う偶然だろうか。俺と千反田の仲が良く無ければ。この事実は千反田に知られる事は無かったのだろう。そう考えると俺と千反田の仲は関谷純のお陰とも言えると思うのだった。
 そしてこう考えた……千反田の伯父の関谷純はインドベナレスで亡くなったのだと……。
「千反田」
 静かに呼ぶと千反田は俺の胸に飛び込んで来た。そっと抱きしめる。このショックは暫く収まらないだろう。それまで俺が千反田を支えてやらねばならない。
「折木さん。しっかりと抱きしめてください。わたしの心が何処にも行かない様に」
 俺はその言葉を心に言い聞かせるのだった。


                              <了>

氷菓二次創作 「ベナレスに死す」 前編

  思いがけない事と言うのはあるもので、この事が俺と千反田の関係に影響を与えるとは当初は思ってもいなかった。
 年末も控えた十二月のある日、学校はとうに冬休みに入っていて、俺は惰眠を貪っていた。普段から早く起きて高校に通っているのだ。休みの時ぐらいは寝かせて欲しかった。だが、それを許してくれるほど我が家の主は優しくなかった。
「奉太郎。ここにゴミ袋出しておくから、あんたもゴミがあったらこの袋の中に入れておきなさいよ。わたしは、ちょっと出かけてくるからね」
 未だ十時だというのに起こされてしまったのだ。あくびをしながら階下に降りると、やけに大きなゴミ袋が居間に鎮座していた。
 中を除くと恐らく姉貴の部屋の要らない書類らしきものが大量に捨てられていた。俺は普段から余りこのたぐいは溜め込まない主義だが、ゴミなら多少あった。ゴミ袋ごと持って部屋に戻る。
 部屋の中で要らないものを袋に投げ捨てていたら、当たりどころが悪かったのか、姉貴のゴミの一部が袋から出てしまった。その中にB5サイズの能率手帳があった。我が姉貴はどんな事を書くだろうかと思いそれを捲ってみたのだが、どうやら昨年俺が高校入試の頃に海外に行った記録と言うかメモらしかった。あの旅行は確かアジアから中東を経て東ヨーロッパまで横断したのだった。確かインドのベナレスから手紙が来た。俺を古典部に入れさせる手紙だった。
 偶然と言うか捲った所が丁度ベナレスについて書かれた所だった。手帳にはベナレスに入った日時が書かれていた。そのページに気になる文言を見つけた。
『ベナレス市内で見つかれば良いが、見つからない時は領事館に相談』あるいは
『ここはヒンドゥー教最大の聖地なのでそちらも調べる事』
 等と書かれてあった。この文言が本当だとすると姉貴はベナレスに誰かを探しに行った事になる。
 インドと聴いて一番に思い出させるのは千反田の伯父の関谷純だ。千反田の言う事ではインドで行方不明になったと言う。まさか……。
 いや単なる偶然だろう。インドは広い。姉貴の用事と関谷純が行方不明になった国がたまたま一致しただけだと考えた。
 俺は先を捲った。そこには
『ガンジス河の南北約6kmに渡って伸びる河岸のガート(階段状の防波堤)で身を清め、市内の寺院に参拝すると言う。このガートも、500kmの間に、大小合わせて70以上もありるそうだ。その何処かで身を清めたのだろうか?』
 姉貴は明らかに誰かの行方を探しに行ったのだと判る書き込みだった。次のページには
『インド各地から多い日は100体近い遺体が金銀のあでやかな布にくるまれ、この地に運び込まれて来る。あるいは、インド中からこの地に集まり、ひたすら死を待つ人々も居る彼らは彼らはムクティ・バワン(解脱の館)という施設で死を待つそうだ。そこに記録があるのだろうか』
 もう間違い無かった。誰かを姉貴は探しに。あるいは足跡を探して行ったのだと思った。その事を鑑みても俺は関谷純の事が気になっていた。千反田は単にインドで行方不明になっていたと言っていたがもう少し詳しい事情は知らないのだろうか? 
 例えばもし関谷純が行方不明になった場所がベナレスなら、姉貴は何故それを知ったのか? またどうして行方を探す様な行動を取ったのだろうか?
 時計を見ると未だ十一時前だった。千反田に電話をしてみる事にした。年末で忙しいだろうが、少しでも事情を訊きたかった。
 千反田の家に電話をしてみると千反田本人が出た
「はい千反田です。あら折木さん。どうしたのですか? 昨日も逢ったのに」
 そうなのだ。ここの所毎日のように千反田と逢っている。逢うこと自体が嬉しくて仕方ない。一線は未だ越えていないが、時間の問題かも知れない。
「千反田。実は尋ねたい事があるんだ」
「はい。どんな事でしょうか?」
「いや電話では不味い事だ。お前の伯父の関谷純に関する事だ」
「伯父の事ですか……」
「ああ」
 電話の向こうの千反田は明らかに動揺していた。
「今日は逢えないかな?」
 俺の頼みに少し間があってから
「お昼に市内に出かける用があります。その後で良ければ時間がありますが」
「それでいい。俺もそれまでにお前に尋ねる要点を整理しておく」
「折木さんがそこまで言う伯父に関する事って何だか不安です」
「詳しくは逢ってから話すが、関谷純が行方不明になった場所は判っているのか?」
「はいバラナシです」
「バラナシ……」
「英語だとベナレスですね」
「なんだって!」
「もう時間なので続きは後で……多分お家にお邪魔出来ると思います」
 千反田はそう言って電話を切った。
 関谷純が行方不明になった場所がベナレスなら、姉貴はやはり関谷純の足跡を探してその場に行ったのだろう。他には考え難い。でも何故、姉貴はそんな事まで知っていたのだろうか? 
 そこまで考えて俺はある事が頭に浮かんだ。それは「神山令嬢倶楽部」の事だ。神山の名家旧家の令嬢だけが入会を許される秘密倶楽部。当然千反田も入会していた。本来なら我が折木家はその資格が無いが姉貴の場合は何かの繋がりで入っていたのでは無いだろうか? もしそうならあそこに入っていれば色々な情報を得る事は出来るはずだった。この前の時はまさか折木家には縁の無い話なので全く考えていなかったのだ。
 千反田を待つ間にポイントを押さえておく。ます、ベナレスで本当に行方不明になったのか? 次にその詳細。さらに「神山令嬢倶楽部」の事だ。
 それらがどう繋がって行くのか、それを考えていた。
 
 昼を過ぎた頃に家のチャイムが鳴った。出て見ると千反田だった。オフホワイトのコートを着ていた。
「こんにちは折木さん。昨日も逢ったのに今日も逢えるなんて嬉しいです。折木さんお一人ですか?」
「ああ、姉貴は出かけている。それでとんでもない事をかんえたんだ。ま、上がってくれ」
「それじゃお邪魔させて戴きます」
「今日は何で出て来たんだ? バスか?」
「はいバスです。今日はバスで帰ります。雪も降っていませんし」
 先日の事を言っているのだろう。あの日から俺と千反田の関係はかなり縮まった。千反田の気持ちも良く判ったし。俺の気持ちも理解してくれたと思った。
 上がってコートを脱ぐとリブニットのタートルネックのセーターを着ていた。
「この前の折木さんの丹前と同じ葡萄色です」
 体に密着したそれは千反田の体の線を露わにしていた。まあ千反田の胸に関してはそのボリュームも既に判ってはいるのだが、やはり制服姿を見慣れた目には眩しい。
「よく似合ってる」
「嬉しいです」
 その笑顔を見るならこれぐらいは言わないといけない。
 リビングに通して座らせ。この前と同じダージリンを入れて出す。
「ありがとうございます! 表は寒かったので温かい飲み物が嬉しいです」
 千反田はそう言って口を付ける。
「美味しいです」
「それは良かった。ところで実は、姉貴が俺達が高校に入る頃にベナレスに行っているんだ」
 俺の言葉に千反田は驚きの顔をして
「それは本当ですか! 供恵さんは何故あんな所まで行ったのでしょうか?」
「それを考えていたんだ。その為の情報をお前から訊きたい」
「はい折木さんの為なら何でもお話します」
 千反田は笑顔で紅茶を飲んでいる。その姿に見惚れながら
「関谷純は本当にベナレスで行方不明になったのか?」
「わたしが知る限りでは領事館からそのように連絡があったそうです」
「でも最初は確かマレーシアに向けて旅立ったと聞いているが」
 俺は千反田の向かい側に座って続きを訊く
「わたしが関谷の家から聴いた限りではマレーシアからタイに渡り、そこからバングラデシュを経由してインドに渡ったどうです」
「どうしてそこまで判ったのだ」
「伯父が滞在していたホテルの部屋にパスポートが残されていたそうです。そこから足取りが判ったそうです」
「そうか、では失踪するまでは連絡があったのか?」
「それは殆ど無かったそうです。たまに手紙が来るぐらいで、それも『これから何処何処んに行く』程度だったそうです」
 関谷純の足取りに関してはそれで判った。残りは
「もう一つ訊きたいのだが、ウチの姉貴は『神山令嬢倶楽部』と関わりがあったのか?」
 多分、あったのだろうとは思っていたが千反田の答えは俺の想像を上回っていた
「供恵さんは会員だったそうです。この前伺いました。何でも入須家の推薦で入ったそうです。『神山令嬢倶楽部』では強力な会員の推薦があれば例外的に家柄に関係なく入会出来るのです。供恵さんはそれは素晴らしい活躍をなされたそうです」
 多分そんな事だと思った。
「じゃあ、もしかして関谷家も会員なのじゃないか」
「はい関谷家も旧家ですから」
 やはりそうだ。姉貴と関谷家とは「神山令嬢倶楽部」を通じて旧知の間柄だったのだ
「折木さんそれはどのような意味なのですか? わたし気になります!」
 千反田の瞳の色が変わった。
「俺の想像だが、姉貴は関谷純の足跡を調べる事を関谷家から直接頼まれたのではないかと言う事さ」
「まさか……ではもしかして伯父が生きてる事もあるとか?」
「全く無いと言う事ではないと言う程度だがな……僅かだが可能性が考えられる」
 そうなのだ。全ては姉貴に問い正す事が大事だと思うのだった。
 

夜の調理室 11 蜆の効果

 翌日の朝早く、僕は父親と一緒に市場に出かけた。今までも一緒に行く事は多かったのだが、今日は特別な目的があった。

「なんだ、今日はやけに気合が入っているように見えるが、何かあったのか?」

 父親がハンドルを握りながら僕に尋ねる。隠すことでもないので正直に

「友達がB型肝炎でね。蜆のエキスを飲みたいって言うから蜆を買って来て作ってやろうかと思ってね」

 僕の言葉をどうのように受け取ったのかは判らないが父親は一言だけ呟いた

「そうか女がらみか……うまくやれよ」

「いや、そんな」

「違うのか?」

 父親は助手席の僕の方を全く見ずに前だけを見て運転している。

「友達だから……男じゃないけど」

 全くキスまでしながら友達もあったもんじゃないとは僕も思った。

「何処が違うんだ? 男女で」

「いや、深い関係にはなってないと言うか、その心の底から治してあげたいと思っているんだ」

「それは好きだからだろう?」

「判った?」

「顔に書いてある」

 そこまで判っているなら仕方ないと思った。

 市場で適当なものを物色する。蜆そのものを食べる訳ではないので、大きさには拘らなかった。小さくても良質のものが欲しかった。勿論単価が安ければ文句はない。

「これなんか安くて良いよ。少し小粒だけど宍道湖のだしね」

 蜆は宍道湖産が良いとされている。関東のものは黒っぽいが関西や西の方の蜆は色が若干薄く茶系統の色をしている。

「じゃそれください」

 黒い網の袋に入った蜆を買った三キロだった。これだけあれば結構な量を取れる。家に帰って来ると砂抜きをするためにボールに入れて水を張る。半日から一日あれば砂は抜ける。

 昼過ぎに見ると砂をかなり吐いていた。一応「砂抜き」と表示してあっても余りあてにならない。

 更に、それをよく洗う。その後にザルで水気を切って鍋に入れて蓋をして火に掛ける。暫くすると蓋の合間から泡がブクブクと湧いて来るので、手で押さえて汁が出ないようにする。若干収まった感がしたら蓋を開けて蜆の貝殻が開いているのを確認する。

 開いていたら鍋をボールを敷いたざるに空け、汁気を切る。このボールに溜まった青白い汁が蜆のエキスだ。冷まして適当な瓶に入れる。これで一応は出来上がり。冷やして飲めば良い。

 実は肝炎を治すにはもう一つ方法があって、これは匂いとか出るので嫌がる人も居るのだが、エキスを搾り取った貝殻を身も一緒に布の袋に入れて口を縛り、お風呂に入れて入浴するのだ。通常は家族で一緒に入っているなら、終い風呂しか出来ないし、一日経っと匂いが出て来るので一人で入っていても水を交換しなくてはならない。蜆の費用も含めて結構な出費となる。

 僕は瓶に入れたエキスとビニール袋に入れた蜆の貝殻を銀色の保冷バッグに入れて学校に持って行った。急いで自分のロッカーにしまう。余り人目に晒したくない。でも門倉さんと飯岡さんにはきちんと事情を説明した。二人共、節子さんに同情してくれた。ちなみに二人は結婚を前提に交際している。

 授業が終わると僕と節子さんは彼女の家に急ぐ。早くエキスを冷蔵庫にしまっておきたかったし、お風呂の件もあったからだ。

 アパートに到着すると、小さめのグラスを出して貰って、そこにエキスを注いだ。青白く少しどろりとした感じがする。でも実際はサラリとしているのだが……。

「飲んでみて」

「うん」

 節子さんはグラスを傾けて少しだけエキスを口に含んだ。

「あ、思ったより飲みやすいわ。これなら私飲める」

 節子さんはそう言ってグラスを一気に空けた。

「美味しいわ」

 新鮮なうちに搾り取ったエキスは確かに美味しいのだ。だが日数が経ってしまうと飲みにくいエキスとなってしまう。急いだ甲斐があったと思った。

「美味しいと言う事はやはり体が悪いから必要としてるのね」

 そんな理屈も理解出来るが僕には続けて行く為にも味に抵抗が無いのは救いだった。

「良かった。続けて飲まないとね。この量を毎日飲んでね」

「寝る前でいいの?」

「肝炎の薬と一緒の方が良いな」

「判った。そうする。それからこの蜆のお金」

 僕の気質から言うと、断りたかった。『僕が出すからいいよ』と言ってみたかったのだが、そうしてしまうと僕と節子さんの仲が長くは続かないと考えた。

「じゃあ実費だけ貰うね」

「手間とかガスの費用は?」

「それぐらい出させてよ。どうせ店の費用で落とすから」

 確かに僕は店のガス台でエキスを搾り取ったのだった。

「ありがとう。じゃ甘えさせて貰うわね」

「お風呂の方はどう?」

「やって見る。それが肝炎に良いなら私入る!」

 節子さんはお風呂にお湯を張り始めた。予め手拭いで作ってあった綿の袋に僕の持って来た蜆の殻を入れると口を縛って湯船に落とした。そして追い焚きをした。

「最初だから本当は一緒に入って欲しいけど、アパートのお風呂は二人は無理だから、せめてここに居てくれない?」

 本当は一緒に入って節子さんの状態を見たかった。でも彼女は病気なのだ。嫌らしい妄想は駄目だ。

「私、病気を治して翔くんと身も心も一緒になりたい。だから、それまで待っていてくれる?」

 僕もそのつもりだった。中途半端な事はしたくなかった。黙って頷いた。

「ありがとう。一日も早く治すわ」

 そう言って節子さんは僕の目の前で下着姿になるとタオルを手にお風呂に入って行った。僕は節子さんの圧倒的な美しさに只感激するだけだった。

 出てきた節子さんは

「全然匂いも気にならなかった。これなら毎日続けられる。明日も入れそうよ」

 季節的には日を追って気温が下がって行く時期だったから、二日ぐらいは入れるかと思った。後に母に尋ねたら二日ぐらいは平気だそうだ。返って二日目の方が濃いエキスが溶け出すので体に良いそうだ。

「もう終電が近いから帰るよ」

「本当は泊まって行って欲しいけど。無茶言っては駄目ね」

 僕が成人しいていたら恐らく泊まって行ったと思う。でも僕は未だ十九歳なのだ。自動車の運転免許を持っていても、二十歳ではないのだ。今は我慢しなくてはならない。それは節子さんも理解してくれた。

 こうして投薬と蜆の療法を暫く続けて行く事となった。

 三月が過ぎる頃に効果が出始めた。節子さんの体調が著しく良くなったのだ。肝臓の値もかなり改善されていて、彼女も「調子が良い」と口にすることが多くなって来た。僕も節子さんも希望が見えて来たと思うのだった。


夜の調理室 10 告白

 試験が終わるとまた新しい授業が始まる。それは僕にとって嬉しい事でもあった。何故なら一日も早く立派な板前になりたかったからだ。

 この頃僕はもう日本料理の道に進む事に決めていた。白衣を着て調理実習をするのは楽しい事だったし、科学的な説明を聞くと感心したりした。

「何故、リンゴやじゃがいもは皮を剥くと黄色く変色するのか」とか「青い野菜を茹でる時には何故塩を入れる必要があるのか」とかは僕の料理に関する目を開かせてくれるのに充分な事だった。

 ちなみに前者は「褐変」と言い、表面が酸化するからだ。後者は塩と言うよりナトリウムと野菜の青い成分が結合してクロロフィルに変わるので、塩を入れないとクロロフィルにならないからだ。

 僕と節子さんの関係は相変わらずで、キス以上の進展はない。学校の帰りにお茶をする程度だった。当時の僕はそれでも結構満足していたし、それ以上を望めば節子さんと深い関係になるのも訳はないと思っていた。全く子供だったのだ。

 ある日、節子さんが学校を休んだ。週末の金曜日だったから休みを取ったのかも知れないと考えた。帰ってから節子さんの家に連絡をしてみた。

 結果として節子さんは電話には出なかった。やはり何処かに旅行にでも行っているのかも知れないと思った。来週学校に出て来たら訊いてみようと考えた。

 翌週の月曜日、節子さんは学校に出て来た。しか普段より体調が悪そうだった。僕は

「どうしたの、具合が悪いの?」

 そう言って節子さんの顔色を見ると明らかに悪い。これは尋ねなくても具合が悪いのだと直感した。

「無理しない方が良いよ」

「ありがとう。でも金曜も休んじゃったから今日は授業受けないと」

 それは理解出来たが、出席日数的には問題ないだろうと思った。僕の記憶ではこの前の金曜日が初めての欠席だと思った。

 悪いと思ったが額に手をあてた。熱があると思ったからだった。僕の手に感じる節子さんの額の熱は少し熱く感じた。微熱ぐらいはあると考えた。

「熱あるんじゃない?」

 僕の問いかけに節子さんは無理をして笑顔を作って

「うん。少しだけだから。それに私、平熱が高いから平気」

 その言葉に無理があるのは判ったが、今はそれ以上詮索しない事にした。節子さんの想いも理解出来るからだ。

 授業が終わると僕はすぐに節子さんの前に行き

「家まで送って行くよ。一人では帰せないよ」

 そう言って送って行く事を宣言した

「ありがとう。悪いわ。一人でも大丈夫だと思う」

 そう言いながらも立つのもやっとと言う感じだった。僕は節子さんの腕を支えて一緒に教室を出て行った。

 電車の中でも座らせて、なるべく体力の低下を防いだ。彼女は座ると目を瞑って動かなくなった。やはりそうだ、起きているだけで精一杯だったのだと思った。

 節子さんのアパートは駅からそう遠くないので、僕は彼女を抱きかかえるように一緒に歩いた。アパートに着くと一人で階段を登ろうとするので僕は彼女をお姫様抱っこして階段を登った。

「凄い。翔ちゃん見かけより力があるのね」

「一応僕も男ですから。それに今日の節子さんは軽い。殆ど食べて無いのじゃない?」

 僕の質問に節子さんは黙って目を瞑った。その通りなのだろう。

 部屋のベッドに上着を脱がせて、そのまま寝かせる。節子さんが元気ならそのまま全て脱がせたい所だが今はそんな気は起きない。

「ありがとうね。助かったわ。正直言うと、今日はどうしても翔ちゃんの顔が見たかったの。だから無理して行っちゃった」

 節子さんはベッドから起き上がりブラウスを脱ぎ始めた。僕は慌てて後ろを向いたが

「構わないわ。こんな病人の下着姿を見ても何とも思わないでしょう」

 確かに今はそんな気は無い。元のように節子さんの方を向く。節子さんはスリップ姿だった。いつの間にかスカートも脱いでいた。そして、そのスリップも脱ぎブラジャーとパンツ姿になった。そして

「これが私の下着姿よ。色っぽくも何ともないでしょう。悪いけどその足元に掛かっているパジャマを取ってくれないかな」

 節子さんに言われるまで僕は彼女の下着姿に見とれていた。体調が悪くても節子さんは綺麗だったからだ。胸の谷間も僕の想像より遥かに深かった。着痩せするのだと思った。そして言われたようにパジャマを取って差し出した。

「ありがとうね。正直、助かったわ。本当は一人では一歩も歩けないと思ったの。翔くんのお陰でこうやって部屋まで帰ってこれたわ」

「お礼なんてとんでもない。当たり前でしょう」

 僕としてみれば当然の事をしたまでだった。節子さんはブラジャーも外してパジャマの上着を羽織った。僕はその時だけは横を向いた。

「わたしね。翔くんに隠してる事があるの。そして嘘もついているの」

 僕は節子さんを横にならせて毛布と布団を掛けた。

「熱があるんだから横になった方が良いよ。でも嘘って?」

 僕の言葉に節子さんはベッドの脇まで寄って。近くに感じていたいの」

 そ言葉に僕は節子さんの顔にくっつく様に座った。

「これでいい?」

「うん」

「それじゃ続きを」

 僕の言葉に節子さんは話しだした。

「嘘と言うは最初の受験の時に志望理由を『弟のため』と言ったけど。それが

嘘なの。私には妹はいるけど弟はいないのよ。本当の理由は、自分で料理の勉強がしたかったから」

「それだけ? ならわざわざ資格を取らなくても」

「それが次の隠してる事と繋がるのよ」

「隠してる事って。誰か恋人が居るとか……」

 僕の言っていることが余りにも幼稚だったのか節子さんは笑いだした

「あはは。また面白い事を。私には今は好きな人は翔くんだけよ。他には誰もいないわ。一番好きなあなたにだけは本当の事を知って欲しいの」

 思ったより重い内容だと推測で出来た。

「本当の事って……」

 僕の言葉を待っていたかのように節子さんは語りだした。

「私ね実はキャリアなの」

「キャリア?」

「B型肝炎のキャリアよ」

 実は僕の周りでB型肝炎に掛かった人は僕を産んでくれた母だけだった。僕を産んだ後に結核にかかった。その当時には薬も出来たてはいたが、母の衰弱が酷く薬の効果が望めなかった。仕方ないので輸血して体力の回復を図ったのだった。

 当時は「売血」の時代でそれらの血液は良く検査されずに輸血された。僕の母はその時に感染したのだった。幼かった僕は今でもその時の事は覚えている。長い間の入院を経てやっと回復したのだった。だから僕は物心ついた時に傍に母の姿は無かった。遠くの病院に月に二三度行く時に逢える存在だったのだ。だから「B型肝炎」と聞いて他人事とは思えなかった。

「いつ頃掛かったの?」

「子供の頃かな。何かの予防接種で針の使い回しで感染したの。暫く判らなかった。中学の頃かな、夜遅くまで勉強して無理した頃から何か怠くなってね。それに熱ぽいし、それで近所のお医者さんに診察して貰ったの。そうしたら」

「そうしたら」

「B型肝炎と診断されたの」

「それからずっと治療を?」

「うん。このところは発病しなかったのだけどね。色々と無理したから出たのかも知れない」

「医者に行ったの?」

「うん。薬も貰った。それで金曜は休んだの。先生も数日は寝ていなさいって言うからね」

「じゃあ今日も寝ていないと」

「でもね。金土日って寝ていると翔くんの事だけ考えちゃってね。本音を言うと翔くんに傍に居て欲しかった。でも真実を言ったら、きっと私嫌われる。そう思ったの。電話かけてくれたでしょう? すぐにあなただと判った。でも出たら来て欲しいって言ってしまうのが怖くて出られなかった。私嫌われたくなかったの」

 僕は苦笑いしか出来なかった。

「実はね……」

 僕は自分の母の事を話した。それは節子さんにとって驚きだったようだ。所々で驚きの感想を述べながら頷いていた。

「お母さんはどうやって直したの」

「基本的には薬だけど。薬が百%効くようにしたんだ」

「何をしたの」

 そこで僕は母がやった事を話した。それは蜆を沢山買って来て砂を抜いてから大きな鍋に入れて蒸すのだった。そうすると蜆は青白い液体を吐き出して殻が開く。これをザルに取り液体を絞ってそれを毎日すこしずつ飲むのだ。

 慣れないうちは飲み難いが、段々と慣れて来る。母はこれをやりだしてから見違えるように回復して行ったのだった。それまでは怠くて階段も登れないほどだった。

「わたし、やってみようかな。蜆って市場で買える?」

「ああ、買えるよ。僕が手伝ってあげるよ」

「ほんと! 嬉しい。今まで一人でやってきたの。誰にも怖くて言えなかった」

「大丈夫。今日から僕がついているから」

 ベッドから出した節子さんの手をしっかりと握った。

「ごめんねキスでも伝染るかも知れない。もう翔ちゃんに伝染ったかな」

「大丈夫だよ。僕にはうつらない。母の結核だって平気だったしね」

 そうなのだ。結核の母に接触しても僕には感染しなかった。僕にはそんな所がある。

「じゃあキスして」

 この時から僕は本気で彼女を愛して行く事になった。




※第16回「星の砂賞」で三田誠広先生より審査員特別賞を戴きました。応援して戴いた皆様。本当にありがとうございます。m(_ _)m
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