自作小説

氷菓二次創作「折木奉太郎の資質」 その2

 三年G組での起こった出来事を話しますと、今日、入須さんが手配してくれたお陰で、教室には万人橋さんが居ました。わたしは家の用事や「神山令嬢倶楽部」の事でお会いしていますが、折木さんは初対面です。そこでわたしは二人を紹介しました。
「万人橋さん。こちらが折木さんです。わたしと同じ古典部です。折木さんこちらが入須さんが仰っていた『神山令嬢倶楽部』の支部長の万人橋さんです」
「折木奉太郎です。今日は入須先輩に頼まれてやって来ました。話だけでもさせて下さい」
 折木さんは、そう言って万人橋さんに近づきました。万人橋さんは女子では背の高い方です。わたしや入須さんよりも高いので恐らく百六十五センチはあると思われます。また、わたしと同じぐらいの長い髪の毛をしていてるのも特徴です。交渉事では、大柄で長い髪をなびかせて立ち回るので、大抵の人は、その迫力に負けてしまいます。
「ようこそ。君が入須の言っていた折木くんか、とりあえず話だけは聞こう。君の意見が尤もなことなら変えても良いと思っている。まあ、座り給え」
 万人橋さんはそう言って自分も教室の教壇にある椅子に座りました。折木さんは教室の中ほどにある席に座りました。わたしもその隣に座ります。
「まず、『神山令嬢倶楽部』と言う親睦会があるのを今日初めて入須先輩から伺いました。何でも二十歳以下の神山の良家の子女が入会しているとか……。そこには入須先輩を始め、同じ古典部で活動している千反田も入っていると聞きました。そこで次期の人事について問題が起きてると伺いました」
 折木さんは座りながら今までの経緯を説明します。すると万人橋さんが
「まあ、君のような家柄の者には『神山令嬢倶楽部』の事なぞ知るまい。それは仕方ない事でもある」
「『神山令嬢倶楽部』では家柄が全てだと伺いましたが、それに間違いはありませんか?」
「そうだな。原則としてそうなっている。例外はあるがな」
「それは?」
「今回の事もそうだが、その人物の資質に著しい問題がある場合だな」
「著しい問題ですか……素行とか色々ですね」
「さすがだな。そう、色々な事も含む」
「次の神山高校支部の支部長は本来なら千反田がなると決まっていたそうですが、何故、それが変更されようとしているのですか?」
「それは入須が説明したのでは無いのかな? 千反田えるは家を継ぐ地位から外されてしまったのだ。それがどのような意味を持つか、君なら理解出来るだろう」
「それはおかしな話では無いのでしょうか? 千反田は他に兄弟がいませんが、これが妹がいたら事情は変わりませんか」
 折木さんは私に妹が居たら、どうなるのか尋ねているのです。万人橋さんは少し考えてからおもむろに
「それは仮定の話だな。その場合は、一家に複数の会員が存在した場合、重要な役職に就くのは長子と決まっている。この場合もその長子に問題があれば次女となるがな」
「では千反田は長子です。問題が無いではありませんか」
「だから、長子でも家を継ぐ権利を放棄させられた子であるから、重要な役職に就くのは問題があると言う事なのだ。判りやすいだろう」
 折木さんは、小さくわたしにだけ判るぐらいの声で
『全く話にならないな』
 そう言ってわたしの方を少し見てから
「それは差別にあたるのでは無いですか?」
 そう言って立ち上がりました。
「差別……面白い事を言う子だな君は。差別と言えばそうなるのだろうが、『神山令嬢倶楽部』は本来それを超越している。会員のメンバーを選別するのもそうだし。内部での人事もそうだ。そこには庶民の家の者には判らない事情があるのだ」
 万人橋さんも折木さんに釣られて立ち上がります。
「選民思想ですか?」
 折木さんの言葉に万人橋さんは薄笑いを浮かべて
「わたしたちはユダヤ教ではない。古くからある家柄の者は普通の家とは違い、いろいろな決まり事がある。それらは他の家の者から見れば意味の無い事かも知れんが、その家にとっては重要な意味があるのだ。それを理解出来る者だけで会を構成しているのだ。だから家を継ぐ必要が無くなった言う事は、その家の重要な行事から外されると言う意味でもあるのだ。だから会員であっても重要な地位を占める事には相応しくないと言っているのだ。会員でもこの考えに賛同する者は多い」
 万人橋さんは「どうだ」と言う表情で教壇の上から折木さんを見下ろしました。
「俺は、大した家の生まれではありませんが、今時、この二十一世紀の神山にそんな思想の会が存在していると言う事が驚きですよ。しかも普段から同じ部活動をしている千反田がソノメンバーだなんて……。でも、急にそんな事をして一旦決まっていた事を翻意するなぞ今後に影響が及びませんかねえ」
 折木さんの言った事に対して
「君は個人の資質としてはかなり素晴らしいものを持っているようだ。入須が頼み込んだだけの事はある。だが所詮は旧家良家の事情には疎いと言う事だ」
 それを聴いて折木さんが言ったのがあの言葉なのです。


「どうしましょうか?」
 古典部の部室でわたしは折木さんに語りかけます。折木さんは自分の鞄から文庫本を取り出しながら
「どうしようもしない。第一、お前が次の支部長になるのには乗り気ではないのだろう?」
 そうわたしに尋ねます。わたしは自分の想いを伝えます。
「この前も言いましたが、他に相応しい方が居るなら、その方がなれば良いと思います。今のわたしには正直『神山令嬢倶楽部』の事はどうでも良いのです。今は新しく自分に与えられた翼をどうするかが大事なのです」
「そうか、あんなお嬢様の集まりには興味は無いと言う事か」
「と言いますか、余裕が無い状態ですね。もうすぐ最初の進路相談もありますし、それまでは大凡の方向も決めておかねばなりません」
 わたしは、自分の事だけで精一杯なのかも知れません。以前のように農業の方に進むのか、あるいは新たな道を探るのか決めなくてはなりません。『神山令嬢倶楽部』の支部長になってもそれほどの仕事がある訳ではありませんので、支部長になってもならなくても構わないのです。でも、将来、わたしが折木さんと一緒になるなら、またそれは違って来ます。わたし個人の問題では無くなるからです。
「兎に角、お前が次の支部長にならないと、将来の『神山令嬢倶楽部』に関わって来ると言う事なのだな」
「多分そうなのだと思います。所謂、秩序ですか、入須さんは、それが崩れる事を心配しているのでしょう」
「まあ、少し間を置いてからもう一度行ってみるさ」
 折木さんはそう言って文庫本を読み始めました。わたしも手持ち無沙汰なので、鞄から読みかけの本を出して読み始めます。

 問題が起きたのはそれから二日後でした。放課後の地学講義室に入須さんがやって来たのです。それも万人橋さんを連れて……。
 地学講義室の扉の前で入須さんの声がしました
「入須だ。折木くんは居るかな?」
 今日はある程度落ち着いているみたいです。
「いますよ」
 折木さんが面倒くさそうに答えます。
「入るぞ!」
 その声と同時に扉が開かれ入須さんが入って来ました。
「どうした」
 誰か居るのでしょうか、後ろを気にしています。その声に恐る恐る入って来たのは万人橋さんでした。
「入須先輩に万人橋先輩。いったいどうしたのですか?」
 折木さんの質問に万人橋さんは困った表情をして
「実は困った事が起きたのだ。こんな事を頼める関係では無いのだが、無理を利いて欲しいと思って入須に頼んで連れて来て貰ったのだ」
 先日とは打って変わって生彩の無い表情をしています。気のせいか幾分か小さく感じます。
「何があったのですか。説明をしてくれないと判りませんよ」
 折木さんはわたしが思ったより冷静な感じです。いつもの少しやる気の無い表情をした折木さんです。折木さんのその言葉に促されるように入須さんが
「実は『神山令嬢倶楽部』の集金した会費が行方不明になったのだ」
「えっ!」
 思わず声が出てしまいました。

氷菓二次創作「折木奉太郎の資質」 その1

 秋の夕日が神垣内連峰に沈もうとしていました。
「悪いが俺にはそんな狭い世界の出来事なぞ理解できない。第一、人はそれぞれ役割がある。それを無視しての行動や考えは存在しないと俺は思う」
 折木さんの言葉が終わるのを待っていたかのように、万人橋さんは長い髪を左手でかき上げると
「所詮、普通の家の育ちの子には理解出来ない事だったわね。もう帰ってくれる? 入須が何と言ってのかは知らないけれど、会員の総意は変えられないわ」
 万人橋さんはそう言ってため息の混じった言い方で諦めの言葉が出ました。背の高い万人橋さんは確かに迫力はあります。
 わたしは、それまで折木さんの話の邪魔になるかも知れないと、黙っていようと思っていましたが、つい口に出てしまいました。
「生まれた家柄がそんなに大事なのですか? その人個人の資質が大事なのでは無いのでしょうか?」
 それまで折木さんに対して家柄の事をなじっていた彼女が
「それは、あなた千反田さんが神山でも有数の名家旧家の言生まれだからでしょう。確かにその人の資質は大事だけども。経験した事の無い環境で起こった事柄までは理解できないのでは無いかしら」
 そう言って折木さんには判らない事だと決めつけます。
「そんなことは関係がないと思います。人はその人の持っている資質で語られるべきだと思います。だれでも得手不得手があると思います」
 そこまで言った時でした。それまで黙っていた折木さんが口を開きました。
「よせ千反田。もういい! こいつらに何を言っても無駄だ。俺は俺以外の誰にもなれない」
「でも折木さん。それでは折木さんの想いが伝わりません」
「いいんだ千反田。もういい! いこう。入須先輩には俺から詫びを入れる」
 折木さんはわたしの手を取って教室から出て行こうとしました。その時でした
「やはり庶民の子には理解出来ない世界だったようね。無理も無いわね。千反田さんに旧家の付き合いとはどういうものなのか手取り足取り教えて貰うのが良いわね。尤も家の後継者から外された人だからねえ」
「折木さんは既に色々な事柄を理解してくれています」
 売り言葉に買い言葉とも言うのでしょうか、ついそんな言葉が口を突いて出てしまいまいした。
「行こう。もうここには用は無い」
 折木さんはそう言って三年G組の教室の扉を明けて廊下に出てしまいました。そして振り向き、わたしを誘います。わたしは、仕方ないので後に続きます。
「良いのですか?」
「構わん。どうせ相手も本気で思っていない。俺がどんな奴かと思って興味が湧いただけだろうさ。入須が間に立ったから一応顔を立てただけだろう。なんせ副支部長だからな」
 廊下を階段の方に向かって並んで歩きます。
「それにしても酷すぎます。あんな事を言うなんて」
「本来、お前は兎も角、俺には直接関係の無い事だ。こちらから首を突っ込む事柄でもない。自分たちで勝手に解決するだろうさ。お前は支部長になりたいのか?」
「いいえ、自分が皆さんの役に立つなら、なっても構いませんが、他になり手がいるなら譲ります。入須さんが折木さんに頼んで来たの事が無になりますね」
「それも含めて、どうしょうもない。なんせ向こうから断られたのだからな」
 私たちはこうして古典部の部室の地学講義室に帰って行きました。


 それは数日前の事でした。何時ものように部室で折木さんと二人で目的の無い部活動に励んでいました。わたしとしては折木さんと二人だけの時間ですので、とても大事に思っている時間でもありました。そこに突然入須さんが入って来たのです。
 入須さんはいきなり地学講義室の扉を開けて
「突然すまぬ。実はお願いがあってやって来たのだ」
 その時の入須さんの顔は生彩がなく、明らかに困っている感じでした。
「入須さんどうかしたのですか?」
 わたしは入須さんをとりあえず部室の椅子に座らせる事にしました。その時になって折木さんが読んでいた本から顔を上げました。
「何かあったのですか。そんなに慌てて」
 折木さんの言葉に入須さんは
「さすがだ。わたしが慌てていることを読み取るとは」
 そう言って驚きます。折木さんは
「だって、普段の入須先輩ならドアをノックするか、扉を開ける前に名乗ります。それもせずにいきなり扉を開ける行為はどう見ても急いでいるか、慌てていると言う事でしょう」
 折木さんは読んでいた文庫本を鞄にしまうと入須さんの前の席に座り直して
「正直、先輩の事は苦手ですが、もしかして千反田が関係してるとあれば、仕方ないでしょう。俺で役に立つなら話を聴くだけでもしますよ。どうするかは聴かせて戴いてからですね」
 入須さんは少し驚きの表情を浮かべて
「わたしが慌てていることだけならまだしも、千反田が関係してるだろうと言う事までどうして判ったのだ」
 そう言って少し興奮しています。その状態を見て折木さんは極めて冷静に
「だって、俺に頼み事なら時間的な事もありますが、俺の教室に来るか、誰か使いを寄越すでしょう。最初の時みたいに直接千反田に言っても良い……。それをしなかったのは俺と千反田が揃っている事が大事だったのでは無いですか? そう考えました」
 さすがです。入須さんの行動パターンを読んでそこまで考えるなんて素晴らしい推理力です。
「そこまで判っているなば話は早い。実はこの神山には『神山令嬢倶楽部』と言う親睦会があるのだ。会員は神山市の旧家や資産家の令嬢で二十歳までの年齢の者が名を連ねている。勿論、わたしも千反田も会員の一人だ」
「『神山令嬢倶楽部』ですか、俺はまた『女郎蜘蛛の会』だと思っていましたよ」
 折木さんはかって入学時にわたしに言った秘密クラブの名前を上げました。
「むう、そんなあだ名もある事はある」
 入須さんは思わぬ事を折木さんに言われて動揺したみたいです。言葉尻が弱くなって来ました。
「千反田、入須先輩の言った事は本当なのか? この神山にそんな秘密倶楽部があるのか?」
 わたしは折木さんが勘違いしてるので、修正の文言を伝えます
「折木さん『神山令嬢倶楽部』は秘密クラブではありません。ちゃんとした社交会です。神山市の名家や旧家。それに名士の子女で構成されています。この神山高校にも、わたしや十文字さんや入須さんに万人橋さん。それに遠垣内さん。その他にも数名が在籍しています」
「遠垣内? 卒業したのではないのか。それに奴は男だぞ?」
「妹さんです。一年生です。万人橋先輩は三年生でG組です」
 私が?明をすると、折木さんは感心をしながら
「そうなのか、何せ俺には縁の無い事だからな。すまん。それで入須先輩、そこで何があったのか話して下さい」
 (この時、わたしは折木さんに「縁の薄い」ではなく「興味の無い事」の間違いでは無いかと思いました。)
 折木さんに言われて入須さんは話し始めました。
「『神山令嬢倶楽部』は千反田が?明をしてくれた通りにこの神山高校にも在籍者がいる。それと同じように神山市内の高校に数名ずつ在籍している。つまり、この神山高校では「神山令嬢倶楽部神山高校支部」となるのだ。各支部は僅かだが月会費を纏め、本部に提出をしている。この学校の支部の責任者は万人橋葉子。会計を兼ねている」
 入須さんはそこまで言うと折木さんの反応を伺いました。
「先輩は何もやっていないのですか?」
「わたしは副支部長をやっている。歳の順だからな。来年は恐らく千反田がなると内定している」
 それを聴いて折木さんがわたしの事を見つめました。少し恥ずかしいです。
「そんな、単なる名誉職みたいなものです」
 折木さんは何か思う事があった感じでしたが、入須さんに
「普通は会計は別に置くものでは無いですか?」
 そう尋ねました。入須さんは少し戸惑って
「そうなのだが、なり手が無くてな。今の三年生の会員で会計を任せられる者が居ないのだ」
 入須さんがそう言って?明をしたのです。わたしは会員として
「わたしが会計をやると言ったのですが……」
 そう?明をしました。すると
「千反田は次の支部長候補だしやがては会長になる存在だとわたしが言ったのだ」
 入須さんはそう言ってくれました。
「もしかして、その人事は結局家柄が優先されるのですか?」
 折木さんの質問はその通りでした。
「そうなのだ。『神山令嬢倶楽部』では家柄が最も優先される」
そうなのです。結局、古い世界の価値観で構成されているのです。
「それで、何か問題でも起こりましたか?」
 折木さんは話の核心に迫ります。
「実は、千反田が次の支部長に内定していたのは先程も言った通りなのだが、今回の千反田家の内情が世間に知れて、千反田が家を継がなくなった事が倶楽部でも問題になってな」
「そんな事が問題になるのですか?」
 折木さんは呆れた表情を見せます。恐らく信じられない想いなのでしょう。
「そうなのだ。家を継ぐことが無くなった者が将来会長になるのは、おかしいのではと言う意見が出て、それに賛同する者が続出した。実は神山高校の支部長をやっている万人橋もその一人だ。彼女は次の支部長には遠垣内か十文字が相応しいと言い出している始末だ。家柄だけが大事なら、千反田は真っ先に上げられなくてはならない。十文字家も旧家だが神職だしな。十文字、百日紅、千反田、万人橋の四名家は最優先されなくてはならない。わたしの家や遠垣内は一段下がるのだ。だからこの四家に該当する女子が居ない場合は兎も角、存在する場合は選ばれ無くてはならない」
「それで俺に何をやれと言うのですか?」
「君なりのやり方で万人橋を説得して欲しい。君の洞察力と推理力を持ってすれば可能だと思うのだ」
 入須さんは折木さんの能力を高く評価しています。映画の時は結果として折木さんを傷つける事になってしまいましたが、本当は深く感謝していたのです。
「先輩、俺の事を誤解しています。俺はそんなに能力の高い人間じゃない。成績だって先輩や千反田のように学年のトップと言う事も無いし、平凡な人間です」
 折木さんはひどく面倒くさそうに答えます。恐らくそれは折木さんの中では真実なのでしょう。
「だが君は今年のマラソン大会の最中に、千反田と後輩部員の問題を解決したと聞いた。現にその後輩は古典部に再入部したという。そんな人の心までも翻意出来る人間はそうは居ない」
 折木さんがわたしの方を少し見てから
「全く……誰に聞いたのやら……。第一、それは千反田が望んでいる事なのですか? こいつの為になる事なのですか?」
 折木さんとすれば、神山の社交界なんて、今は自分とは縁の無い世界の話なのです。そんな折木さんの想いを判ったかのように入須さんは
「今は、君には関係の無い世界の話かも知れない。だが、将来の問題とすればどうなのだ?
君と千反田の将来と考えると、全く縁の無い世界とも思わぬがな」
「うっ」
「憎からず思っている相手の事でもある。それに長年続いていた慣例が変わるのは良くない。これも将来に関わって来る事でもある。どうかこの通りだ。頼まれてはくれまいか?」
 入須さんが折木さんの前で頭を下げました。折木さんは仕方ないなといった表情で
「俺が役に立つと言う保証は出来ませんが、話をしてみる事ぐらいなら」
「そうか、有り難い。頼む」
 入須さんはそう言ってホッとした表情を浮かべると
「色々無礼な事も言ったが、許してくれ。結果を楽しみにしている」
 そう言って帰って行きました。


「折木さんこの後どうしますか?」
 地学講義室に帰って来たわたしと折木さんはいつもの席に座って、この後の事を相談していました。
「もう一度ぐらいは行かないと、入須には悪いだろうな」
 先程あれほど酷い事を万人橋さんに言われたのに平然としています。そんなわたしの表情を読み取った折木さんは
「なんだそんな顔をして……別にあれぐらい何とも思わぬよ。俺自身の事を詰られた訳でもない。生まれなんてのは自分の能力とは何の関係も無いさ」
「そうでしょうか?」
「そんなものさ。環境で確かに人は変わるが、それも資質次第さ」
 わたしと折木さんはこの後に起こる事件の事までは想定していませんでした。

氷菓二次創作「二人の心のディスタンス」

  九月は夏の名残の前半と、お彼岸を過ぎた最後の方では気温がまるで違います。それは神山でも同じで、特にわたしの住んでいる北陣出では朝晩の温度と昼の温度の差が激しくなります。でも、その厳しい気候が作物に良い影響を与えている事も忘れてはなりません。わたしは家を継ぐ事がなくなっても農業を一生の仕事として行こうと心に決めました。大学に進み、そしてその上にも進めたら良いと考えるようになりました。
 授業が終わり地学講義室に向かいます。折木さんは相変わらず来たり来なかったりですが、今の時期は学園祭に向けて文集「氷菓」を制作している真っ最中ですので、珍しく毎日顔を出してくれています。
 部室の入り口を開けると、既に摩耶花さんと大日向さんが来ていました。二人は「台割」を見ながら編集の作業をしていました。本来なら部長であるわたしも参加しなくてはならないのですが……。
「ああ、ちーちゃん」
「千反田先輩、こんにちは」
 摩耶花さんと大日向さんが挨拶をしてくれました。
「こんにちは。すいません。本来ならわたしも参加しなくてはならないのに」
「いいんですよ。今日は、改めて進行を伊原先輩に教わっていただけですから」
 大日向さんが嬉しそうな顔をして説明してくれました。
「もう原稿も印刷所に送ったから、あとは出来上がって来るのを待つばかりなのよ」
 摩耶花さんが、さっぱりとした表情で語ってくれます。
「もうそんな所まで」
「これでも遅いぐらいなのよ。わたしと河内先輩の同人誌があったからね」
「そっちは、どうなりました?」
「うん。お陰様でこっちも出来上がりを待つばかりなの」
「そうですが、出来上がりが楽しみですね。当日はわたしの分も確保しておいて下さいね。今から予約しちゃいます」
「あ、それならわたしも」
「既に二冊も売れちゃった」
 摩耶花さんの言い方が可笑しかったので、三人で笑ってしまいました。その時、部室の扉が開いて折木さんが入って来ました。
「おう、里志以外はお揃いか。俺が遅かったみたいだな」
 折木さんは何時もの席に座ると摩耶花さんが
「この前は、助かったわ。まさか、あんたがあんな事出来るなんて」
「よせよ。あれぐらいは誰でも出来るだろう」
「普段省エネとうそぶいているあんたがやった事が驚きだったのよ」
「ほんと、折木先輩って油断ならないですからね」
 どうやら三人の言っている事を纏めると、折木さんは摩耶花さん達の編集の手伝いをしたみたいです。摩耶花さんがそれについてお礼を言ったと言う事でしょうか?
 いつ、そんな事をしたのでしょうか? そんなわたしの気持ちを読み取ったのか折木さんが
「この前、お前が家の用事で部活を休んだ時に、編集を少し手伝ったんだ」
 そう説明をしてくれました。その事にわたしも驚き
「折木さんって、編集も出来たのですか?」
 そんな事を尋ねてしまいました。
「編集なんて大げさなものでは無い。伊原の言う通りの作業をしただけだ」
 それでも今までの折木さんの行動を知っている者から見ると驚き以外の何物でもありません。わたしも、その一人でした。
 少し複雑な想いが躰を駆け巡ります。言葉にならない感情が心に留まります。わたしの勝手な想いだとは理解しているのですが、気持ちが追いつかないのです。
 その後、この日は特にしなくてはならない事が無い為、解散となりました。摩耶花さんは大日向さんと一緒に帰る事になりました。福部さんは総務委員の仕事があり遅くなると言う事でした。
「一緒に帰るか? 途中までだけどな」
 地学講義室には、わたしと折木さんだけが残っていました。
「今日は少しショックな事がありました」
 少し拗ねてみます。
「ショックな事? 何だ。まさか俺が伊原の仕事を手伝った事か?」
 首を左右に振ります。そうでは無いのです。
「そのことでは無く、摩耶花さんの編集の仕事を手伝うのは同じ古典部なのですから、納得出来ます。ショックだったのは、誰もそれをわたしに知らせてくれなかった事なのです。それに、わたしもお手伝いしたかったです。わたしだけが知らなかったなんて……」
 折木さんは困った顔をして
「帰る道々説明するよ。一緒に帰ろう」
 そう言ってわたしの肩を優しく抱いてくれました。
 秋の夕日は釣瓶落としとはよく言ったものです。校庭には並んで歩く二人の長い影が伸びています。
「意識的にお前に黙っていた訳ではない。それは判ってくれ」
 折木さんは丁寧に説明をしてくれ始めました。
「お前の来ない日だと言う事は判っていた。だから帰ろうかと思っていたのだが、途中で気が変わってな」
「どうしてですか?」
「階段を降りる時に大日向を見かけたんだ。向こうは俺に気が付かなかった見たいだが、何か急いでいる感じがして気になってな。それで部室に向かったんだ。行ってみれば大日向と伊原が必死で作業していた。それを見て『俺に出来る事なら手伝うぞ』と言ったんだ。それだけさ」
 折木さんの言う通りなのでしょう。ならば、何故、わたしに言ってくれなかったのでしょうか? その事を問います。
「それは、お前はお前で忙しそうだったしな。特別意図があって黙っていた訳ではない。それが事実だ」
 その時のわたしの顔は少し拗ねていたのでしょうか折木さんは少し表情を崩して
「それにしてもお前の拗ねた顔、初めて見たな。良いものを見させて貰ったよ」
 そんな事を言うのです。その言葉に今までのわたしの気持ちは何処かに消えてしまいました。
「やっと笑ってくれたな。さっきから中々笑ってくれないので弱っていたのさ」
「もっと、弱ってくれていても良かったですよ」
 わたしも少し憎まれ口を言ってみました。あの事以来、折木さんと心の距離がぐんと近づいた気がします。それが態度にも出てしまいます。
 それは商店街に差し掛かった時でした。交差点で女の人が何かを人に言っている様でした。わたしは、最初、それが普通の人同士のやり取りだと思ったのですが、近づくに連れて、そうでは無い事が判って来ました。
 どうやら、その女性は口が不自由らしかったのです。言葉にならない言葉を口から出して、道行く人を呼び止めていたのですが、すれ違う人は誰も困惑してしまって過ぎ去ってしまっていました。
 女性が困っているので、わたしは折木さんと、その女性に声を掛けました。
「どうかなされたのですか?」
 どうやら、わたしに声を掛けられた事は判ってくれた様です。でも言葉にならない声を出すだけでした。
 その時でした。折木さんがその女性に向かって手を動かし始めたのです。そうです手話でした。
  折木さんが手話をし始めるとその女性も手話で答えてくれました。暫くの間、二人の間で会話が交わされました。やがてその女性は折木さんに何度もお礼をして歩いて行きました。わたしは、また驚きの余り声も出ませんでした。
「折木さん。手話が出来たのですね」
 少し経ってから、それだけを言うのが精一杯でした。
「あの女性は単に道を知りたかっただけさ」
 そう説明してくれました。それでも黙っているわたしに向かって
「歩きながら話すよ」
 折木さんはそう言って歩き始めます。わたしも並んで歩きます。
「昔、姉貴が逮捕術を習う為に警察関係に通っていた時があったんだ。その時に一緒に連れて行かれてな。でも俺はそんなものを習う気は無いので、ぶらぶらしていたんだ。そうしたら、警察の偉い人から『君は逮捕術には向いていない感じだから、手話でも習ったらどうかね。聡明そうだし』と言われたのさ。逮捕術に比べれば省エネだしな。まあ、余り真面目にやったとは言えないが、それでも何とか簡単な会話ぐらいなら出来るようになったんだ。それが事実さ。もう昔の事さ。大した事じゃない」
「そうでしたか……」
「どうした?」
「いえ、わたし、折木さんの事で、まだ知らない事があるのだと知りました」
 そうなのです。わたしは、この人の事を知ったつもりでいたのですが、それはこの人のごく一部だと改めて知らされたと思いました。わたしは、高校に入学してからの、この一年半しか知らなかったのです。折木さんの口から小学校の頃の事を聞いて、すっかり知ったつもりでいたのです。そう想うと心に隙間が出来た気がします。その隙間を風が抜けて行きます。今さっき近づいたと思った心が離れて行くのを感じます。
『わたしは、この人の事を何も知らない。いや知っていたつもりだった』
 改めてそう想うのでした。
 でも、それでも、わたしはこの人を……。
 離れたくないと強く想うのでした。
「どうした?」
 折木さんが呆然としているわたしを心配して声をかけてくれました。
「いえ、なんでも無いのです」
「そうは見えなかったぞ」
 折木さんにはお見通しなのですね。
「わたしは折木さんのほんの一部しか知らなかったと想っていたところでした」
 真実をありのままに告げます。すると折木さんは穏やかな笑みを浮かべて
「俺だってお前の事は少ししか知らない。お前が生きて来た世界とか、お前が感じてた重圧などは俺の知らない世界のものだ。今でもそうだが、俺はそんなお前に敬意を抱いている。だから、そんなに気にしなくても良いと思うがな。それに、俺にはそれほど秘密なんかありはしない」
 言われてみればその通りです。
「それに、全てを知ったら幻滅するかも知れないしな」
 そんな事を口にした折木さんは少しイタズラな表情をしていました。そうです! 新しい発見と思えば良いのです。
 やはり折木さんは、わたしには無いものを持っているのだと感じました。
 何時迄も傍に居てくれる事を願うのでした。



                                                                           <了>

氷菓二次創作「新学期 新たなる決意」

  九月一日に新学期が始まるのは以前はどこもそうだったが、最近はそうでもないらしい。世間には八月の末に始まる所もあるらしい。だが、神高は昔ながらのこの日に新学期が始まる。
 始業式が終わり、ホームルームも済むと、部活の無い生徒は帰り支度を始める。我が古典部は今日から活動開始なのだ。正式には今日から新入部員がやってくる。

 特別棟の四階の地学講義室に赴くと。そこには大日向がもう来ていた。
「早いな」
「あ、折木先輩。今日からよろしくお願い致します」
 大日向がそう言ってペコリと頭を下げる。
「ああ、こちらこそよろしくな」
 そう言って何時もの席に座ると、里志と伊原が連れでやって来た。伊原は部屋に入るなり
「ひなちゃん、よろしくね。歓迎するわ」
 そう言って笑顔を見せる。里志も
「よこうこそ古典部へ」
 そう言って右手を差し出した。大日向も
「伊原先輩。またよろしくお願い致します。福部先輩、出戻りですがよろしくお願い致します」
 そう言って二人に頭を下げた。それが終わると今度は千反田が部室の扉を開けた
「わたしが一番遅かったみたいですね。大日向さん。今日からよろしくお願い致しますね」
「こちらこそ本当によろしくお願い致します」
 大日向が四回目の頭を下げて、皆がそれぞれの席に座った。
 古典部は代々、文化祭に文集「氷菓」を作って販売している。昨年は手違いがありかなりの部数を印刷してしまったが、何とか全部売り切る事が出来た。今日は今年の編集会議も兼ねているのだ。既にテーマは決まっていたし、何部印刷するかも決まっていた。今日は、それぞれの原稿について決めるのと、簡単な台割表を作る事だ。
 ここで大日向が
「あの、わたしに編集を手伝わせて下さい」
 そう言い出した。大日向は今日から入ったばかりだし、いきなり文集制作に参加させるのも、如何なものかと思ったのだが
「だって、来年もありますし、来年は先輩達は三年ですから、古典部を引退してるかも知れないですよね。そうしたら、一年生は入っていたとしても、わたしが、どのような文集を作るのか理解して居なかったら駄目だと思うのです。だから今年のうちに色々と勉強させて下さい」
 そう言って伊原を感激させた。伊原は今年は河内先輩と組んだ同人誌の事もあるから、人手は多い方が良い。
「ホント! 助かるわ。色々と教えてあげるからね」
 その日、大日向は里志や伊原と一緒に帰って行った。編集会議は簡単に終わって、台割表は大日向と伊原が作る事になった。
 俺と千反田。それに里志が原稿を担当する。テーマも決まっているし、特に問題があるとは思わなかった。
「さて、帰るか?」
 地学講義室は夏の名残の夕日が長い影を作っていて、廊下側の壁には俺と千反田の影が重なっていた。
「そうですね。下校時間には未だ時間がありますが、最後まで居なくてはならないと言う訳ではありませんからね」
 千反田も立ち上がって自分の鞄を手していた。
「少し散歩してから帰りませんか?」
 千反田の言葉に何か話があると直感した。
 結局、校門を出て宮川沿いを歩く事にした。三福寺町の交差点を右折して万人橋を渡って「宮川緑地公園」に赴いた。
 春なら桜が見事だが、今の時期では葉が茂っているばかりだった。ベンチを見つけて二人で並んで座る。
「今日は風もあって過ごしやすいな」
「そうですね。今年の夏はおかしな天候でした」
 千反田は少し俯いて視線を地面に落としている。やがて
「わたし、駄目ですね。関谷の伯父に『強くなれ』と言われていたのに、あんな事で逃げてしまって……」
 夏休みの期間で、千反田は平素に戻ったと思ったのだが、そうでは無かったようだった。
「家の事を言われて、動揺したからと言って責任ある立場を投げ出して逃げてしまったなんて……『生雛祭り』の時に折木さんに自分の決意を話して、偉そうな事を言ったのに、実際は責任を放り出してしまったなんて……軽蔑されても仕方ない事をしたのです」
 やはり、あの事は千反田の中では終わっては居なかったのだ。
「千反田……それは違うぞ。お前は行くつもりで歌の練習をしていた。単に逃げたのなら、そんな事はしない。行くつもりだったから練習をしていたんだろう」
「でも、結局、皆さんに迷惑をかけて、独唱しませんでした」
「それは、お前のせいではない。誰が歌うかは段林さんが決める事だ」
 千反田は自分なりに努力をしたのだ。それをどう判断するのかは、千反田の責任では無い。
「お前は、最大限の努力をした。そりゃ結果は伴って来なかっただろうが、それは又別な事だ」
「ありがとうございます! そう言ってくれるのは折木さんだけです。とても嬉しいです。今回の事でわたしが一番恐れていた事は、折木さんなんです」
 何だ? 何故そこに俺の名が出て来る。
 呆気にとられた俺の顔を眺めながら千反田は
「本当は折木さんに軽蔑されて嫌われる事が一番怖かったのです。関谷の伯父の言葉を受け継いだはずなのに……あの日誰にも言っていなかった自分の決心を折木さんだけに語ったのに……なのに大事な役目がありながら逃げてしまった……軽蔑されて嫌われても仕方ない事をしてしまったのです」
 見ると千反田の影の顔の部分の地面が濡れている。泣いているのだ。正直、千反田の涙を見るのは辛い。ワイシャツの胸ポケットに入れておいたハンカチを取り出すと千反田に手渡した。
「涙を拭け。お前に泣き顔は似合わない。俺はそんな事でお前を軽蔑したりはしない。俺は常にお前の味方だ。俺がお前の傍に居る限り、俺はお前の味方だ。軽蔑するなんて事はしない」
 千反田は、俺の言葉をじっと聴いていた。そして、俺の差し出したハンカチで涙を拭うと
「ありがとうございます! それを聴いて心強くなりました。正直、折木さんに嫌われたらどうしようかと思っていました」
 安堵した千反田の顔に笑みが戻った。
「なあ、考えたのだが、家を継がなくても、別に農業の道に進んでも良いのではないか?」
「え? それはどう言う事ですか?」
「だから、別に家の家業としての農業ではなく、新しい自分の道としての農業を納めれば良いと思ったのさ」
 あの時、俺は遂に口に出せなかった『経営的戦略目を俺が納ると言うのはどうだろう』と言う言葉はもう必要無くなっているかも知れない。だが、今ならこの事は言えるかも知れない
「なあ千反田。お前が自分の道を歩き始めるまで、俺が傍に居たら駄目か?」
 すっと口に出せた。あれから五ヶ月しか経ってしかないが、俺は更に千反田の事をよく知った。
 マラソン大会の時に後輩の誤解を解いた。俺に付き合って俺の中学時代の教師の過去まで一緒に調べてくれた。一緒に稲荷社を掃除した。雨の中を失踪した千反田を探しに行って千反田の心情を推理した。だから、今なら言える。
「もう一度言う。お前の傍に居ては駄目か?」
 俺の言葉が理解出来ないのだろうか、千反田は口を半開きにして、焦点の合わない表情をしている。
「あの、あの……それって……」
「ああ、駄目か?」
「駄目だなんて……そんな」
 では良いのだろうか? そう思っていたらいきなり千反田が胸に飛び込んで来た
「折木さん!」
 必死で腕を俺の背中に回している。俺も、そっと千反田の背中を手で抑えると
「正直、折木さんに嫌われたらどうしようかとばかり考えていました。今まで築いて来た関係が壊れてしまったら、どうしようかと」
 ワイシャツの胸の部分が少し冷たい。恐らく千反田の涙なのだろう。
「大丈夫だ。俺はお前が求める限り、傍を離れたりしない」
「はい!」
 千反田が涙でクシャクシャになった顔を上げた。
 千反田の背中に両腕を回してしっかりと飽きしめた。この腕を放してはならぬと……。

                  
                                                        <了>

蛍が舞う

306830783099306a304430db30bf30eb7d75-2 子供の頃、夏休みの楽しみと言えば、母の実家に遊びに行く事だった。
 当時は何回も電車を乗り換えて行った記憶もあり、見渡すばかりの田圃だったので、かなりの田舎なのかと思っていた。だが、高校生の時にその実家に住んでいた祖父が亡くなって葬式に行った時に、思っていたほど田舎ではないのだと判った。
 もしかしたら、俺の小学生の時代から高校生になるまでの数年間で発展したのかも知れなかった。なんせ当時は夜になると田圃の上で蛍が妖しく乱舞するのが信じられなかったからだ。その時、生まれて初めて飛んでいる生の蛍を見た。その興奮と衝撃は今でも体のどこかに残っている気がする。
 祖父が作ってくれた即席の虫かごに捕まえた数匹の蛍を入れたのだが、その蛍は朝には死んでいた。夜の間は綺麗に光っていたのだが、朝見た虫かごの中は無惨な様子を呈していた。子供心に『あのまま飛ばせていれば良かった』と思った。
 祖父の葬式の時は真冬だったので蛍は居なかったが、祖母の言うにはその頃には蛍の数もめっきり少なくなっていたそうだ。
 実はその時が数年ぶりの母の実家だった。中学一年の時が最後で、冬になると祖父や祖母は東京に住んでる子供の家に泊まり歩いていたせいで、こちらから行くと言う事はしなかったのだ。
 結局、それが田舎に行った最後となった。一人暮らしをさせられないと、母の兄弟が相談した結果。比較的裕福な暮らしをしている一番下の叔父が引き取る事になった。田舎の家は売却して、そのお金が祖母の持参金となった。
 その持参金がどうなったかは俺には判らない。だが、祖母が亡くなった後で、遺産のもめ事が無かったので、それまでには残っていなかったのだろう。
 そんな母が家で酒を飲んで酔って一度だけ言った事がある。
「本当はあんたにも幾らか残せるほどあったのだけどね」
 それが祖母の持参金の事だと判ったのは暫く後の事だった。
 その母だが、今はやっと四十になったが、見かけは三十そこそこにしか見えない。恐ろしく若く見える。街を歩いていても良く声を掛けられるそうだ。
 女の子には判らないが、男の子には思春期に少しだけ、あるいは一瞬の間だけ、母を「おんな」として見てしまう時期がある。単なる通過儀礼なのだが、俺にもあった、その時期には母の事を恐ろしく魅力的に見えてしまった事があった。高校生の俺は
「なんで父親みたいな人と結婚したのだろうか? 母ならもっと良い所があったのでは無いか」
 等と考えた。別に父が嫌いな訳ではない。世間に良くある、父親と息子が反発しあってる。等と言う事は我が家には無かった。父は良き父親だったが、特別の美観を誇る母とは釣り合いが取れない感じがしたのだ。
 俺が成長して判った事だが、俺が幼い頃から母には常に愛人が居たそうだ。やはり周りの男が放って置かなかったのだ。俺が高校生の頃、母は三十代だったが、子供から見てもその美しさは輝くばかりだった。学校の参観日等では綺麗な母が誇らしかった。そんな俺の気持なぞ理解しない母は家では無造作に俺の前で着替えたりしていた。俺はそれを目にしながら心に黒い感情が湧くのを押さえられなかった。
 高校を卒業すると進学せずに就職した。本来勉強の嫌いな俺が大学に行くなんて事は考えられなかった。でも学校の成績が悪かった訳ではない。進学担当の先生も
「もったいない。大抵の所なら狙えるぞ」
 等と言ってくれたが、本人に全くその気が無いのだから仕方がない。
 結局考えていた日本料理の道に進む事にした。子供の頃から何か料理を作る事が好きだったし、それを食べて喜ぶ顔を見るのが嬉しかったからだ。それに、有名な料亭は、住み込みで修行しなければならない。その為には家を出なくてはならない。正直、母と一つ屋根の下で暮らしたくは無かった。この頃母の行動は次第に大胆になっており、平気で愛人に家の前まで送らせるような事をしていた。父が気がつけば、すぐに問題になると思っていた。俺はそんな家から逃げ出したかったのだ。
 料理の修行は辛かった。でもそれは覚悟の上だった。半年で同期で入った者が半分になった。最初の半年では包丁はおろか、食材も触らせて貰えない。掃除や洗い物がメインで、後は食材が市場から届くとそれを運ぶ事。ビール等を冷蔵のビールクーラーに運んだりする力仕事が殆どだった。
 一年すると、食材に触らせて貰えるようになる。それは食材の保存だ。冷蔵庫の管理をさせられるようになるのだ。この時は少し嬉しかった。それに店でも包丁は無理だが、大根おろしや山葵をおろす事などもさせられるようになる。そして、今までと違うのは「まなかい」を作るようになる事だった。決められた金額を女将さんから阿預かって、店の従業員全員の夕食を作るのだ。一人で作る事もあるが、同期の仲間と一緒に作る事もある。でもこの頃には同期は俺の他には一人だけになってしまっていた。結局、これが料理の修行になるのだから、お互いに交代でやる事にした。
 店の営業が終わってから夕食になる。店によってはホールと板場で別々に食事をする所が多いそうだが、俺の店は全員が揃って食べる決まりだった。
 板場とホールの者が一緒に食事をして、今日の反省会となる。色々な意見が出るのだが、それが店の為になるのだ。
 そして、その夕食の場は、当然味の品評の場となる。誉められる事なぞ殆ど無い。板場の先輩は技術的なことを注意してくれる。それは本当に有り難い。ホールの仲居さん達は、お客の好みから来る感想を言ってくれる。これはこれで有り難い。板場に居たのでは得られない情報だからだ。
 そんなことをして瞬く間に二年が過ぎた。この頃にはやっと包丁を持たせて貰えた。切る材料は野菜ばかりだったが、それでも嬉しかった。板前としてやっと歩き出した実感がしたからだ。下の者も出来て、俺にも少しは教える事が出来たのが嬉しかった。
 だから家には毎年、正月休みにだけ一日のみ帰っていた。その日は正月では無かったが、連休で休みが続くので思い切って帰って見る事にしたのだ。

 久しぶりの家には、茶の間に父だけがぼんやりとテレビを見て座っていた。その姿が少し寂しそうだった。
「ただいま。母さんは?」
「おう、お帰り。出かけているよ。それにしても久しぶりじゃないか。正月以外で帰って来るなんてさ」
 元から静かな人だった。だがそれは表面的であり、本来は何か得体の知れないものを持っている人だとは感じていた。だがそれが俺の前で出た事はない。
「また、男の所?」
 父は苦笑いを浮かべた。
 父は母が浮気を繰り返しても俺の前で母をなじるような事はしなかった。高校を卒業して家を出る前に父に尋ねた事がある。
「どうして父さんは母さんが浮気を繰り返しても何も言わないのさ!」
 その時、父からはハッキリとした答えを貰った記憶は無かった。
 一つだけ覚えているのは、父が
「小学生の頃、お母さんの実家に行って、蛍を見たのを覚えているか?」
 そんな、全く関係ない事を逆に俺に尋ねた事だった。
「ああ、覚えているよ。あんな光景忘れられないに決まってるじゃない」
 俺がそう答えると父は薄笑いを浮かべて
「やはりお前は俺の息子なんだな」
 そんな事を呟いたのを覚えていた。
「もうすぐ帰って来るんじゃないかな。今日はお前が帰って来るのを知って出かけたからな」
 普通の母親は息子が帰って来る日には家にいるものだ。少なくとも俺の知人や友人の所はそうだ。
 父の言葉が終わって間もなくだった。家の前で車が停まり、ドアの開閉音が聴こえた。
「ただいま~」
 母の陽気な声が聴こえた。テレビを見ていて、動かない父に代わり、玄関まで出て見た。
母が登場すると何処でもその場がパッと明るくなる。
 玄関から上がって来た母は、初夏に相応しいモスグリーンのカットソーを着ていた。薄い生地で透けていて涼しさを感じさせた。しかし、母はその下に大きく胸の開いたタンクトップを着ていて、胸の谷間が露わになっていた。いかにも今まで男と情事をしていた事が伺えた。それに息から少しアルコール臭がした。正式にはアセトアルデヒドなんだろうが……。俺の姿を見ると
「もう帰っていたんだ。夕方かと思ってた」
 カットソーを脱ぐと俺に手渡し居間に向かった。母が通り過ぎた後に化粧の残り香が鼻を突いた。その後を追って居間に行くと母は父の隣に座り
「ただいま。朝からわたしが居なくて寂しかった?」
 そう言って父に持たれかかった。以前の母は息子の前でこんな事はしなかった。
「なんだ、随分大胆な格好で出かけたんだな」
 父がそんな事を言っているが顔は言葉とは裏腹で紅色そうな表情をしていた。今までもこうだったのだろうか? 俺が子供だったので気が付かなかったのだろうか?
「だって、こんな格好をすると皆喜ぶんだもの」
 そう言って大きく躰を揺すった。揺れる胸の谷間を見て、父も満更でもなさそうだった。
 それにしても、己の母親ながら、若い! 実際は四十に手が届きそうな年齢なのに、どう見ても三十前にしか見えない。それに加えて若い頃から周りの男どもを魅了したと言われる美観。こればかりは化物じみてるとしか言えない。恐らく顔だけではなく躰、スタイルも若い頃の体型を保っているのだろう。
「皆じゃなくて男が喜ぶんだろう?」
 父はまるで母が他の男にモテるのが嬉しいような素振りを見せている。俺が高校を卒業してから夫婦ふたりだけの生活になり、二人の関係があからさまになったのだろうか?
「今夜は泊まって行くんでしょう?」
 父の躰に持たれながら俺に尋ねる
「ああ、連休中は店も休みだし。寮に帰っても誰も居ないしね」
 店の隣にある寮では十人ほどの住み込みの者がいたが、この連休で皆実家に帰っていて、残ってる者は居なかった。居ても自分で食事の用意をしなければならず。返って面倒くさかった。
 その夜は昔と同じように親子三人で夕食を採った。只、以前と違っていたのは、母が俺の前でも「おんな」の部分を隠そうとしなくなった事だった。
 連休の終わりに、色々な事を考えながら店に戻った。よく夫婦の事を『割れ鍋に綴じ蓋』と言うが、俺の親もそうなのだと思う事にした。理想では自分の親は理想の親であって欲しかったし、それは今でも変わりは無い。
 例えそれが手に入れる事が出来ない幻想だとしてもだ……。

 それから半年後の年の暮。俺は思いがけなく『焼き方』に昇進した。同期の奴と一緒だったが、やがて同期の奴は同じ系列店に移って行った。これからは別々の店になるが、あいつにだけは負けられないと思った。それからは休みの日でも包丁の練習をした。少しでも上の仕事をしたかったからだ。
 だから、その正月は親に事情を言って家には帰らなかった。今思えばそれが良くなかったのだろうか。年が明けて春になった頃にそれは起きた。店で仕事をしていた時だった。 春と言うのは昔は歓送迎会などがあり忙しかったのだが、最近の日本人はそれをしなくなったらしく、さほど忙しい日では無かった。店の店長が俺に
「電話が掛かって来ている。伯母さんとか言っていたぞ」
 そう教えてくれた
「ありがとうございます!」
 そう言って急いで手を洗って店の事務室にある電話に飛びついた。電話の主は母の姉の伯母だった。あの田舎の母の実家で母と一緒に育った人だった。
「あんた、お店の電話が判らなくて苦労したのよ。大変なのよ! テレビ見て無かったの?」
 伯母が何を言っているのか理解出来なかった。
「テレビ見てないから……俺、仕事してたし」
 俺の頓珍漢な答えを聴いて伯母は
「お父さんがお母さんを刺したのよ!」
 あまりのことでその後暫くの事は記憶残っていない。気がつけば何処かの病院の霊安室に居た。寝台には布を掛けられた母の遺体が横たわっていた。伯母が教えてくれた所によると、隣家の人が母の絶叫を聞いて急いで来てみたら、父が真っ赤な血に染まった包丁を握って立ち尽くしていたそうだ。その足元には母が横たわっていて、隣家の人は急いで百十番に電話をしたのだという。
 そっと布をめくって母の顔を見た。まるで眠っているようだった。声を掛ければ起きるのでは無いだろうかと思った。それほど綺麗な顔だった。
 救急車が到着した時には、未だ息があったのだそうだ。だが病院に運ばれてすぐに息を引き取ったという。父はそのまま現行犯で警察に逮捕された。包丁を持ったままで、特別に抵抗しなかったという。
 いったい何が二人の間であったのだろうか? 父は母の放蕩にキレてしまったのだろうか? 普通ならそう思うのだろうが、俺にはそれでは無いと思った。父は母の行動を認めていたのだ。家庭を壊さない範囲。家庭に自分の関係を持ち込まない範囲なら、むしろ父は認めていた節さえあった。いいや、むしろ楽しんでいたのでは無いだろうか?
 伯母は母とは全く正反対の性格で、母の行動を心配していた。俺とたまにだが顔を合わすと母の事を心配していた。
「あんな事続けていると、いつか問題になるからね」
 そんな事を決まり事のように言っていた。生憎それが現実となってしまった訳だ。
 その後はお決まりのコースだった。母の葬儀を行い。四十九日の納骨まではすぐだった。俺はその度に店を休まなくてはならないのが申し訳無かった。店で俺に対する視線が違って来たのはすぐに判った。殺人者の息子であり、被害者の息子でもある訳だが、今までとは違って見られる事になった。
 父は殺人罪で起訴され、すぐに結審して懲役七年の実刑となった。思ったより軽かったのは、母の日頃の行動……つまり浮気に業を煮やした父が母と口論となりカッとなって思わず台所にあった包丁を持って来て刺してしまった、突発的な事件だと結論付けられたからだ。母の夫婦関係を破綻させる行動は簡単に立証出来たので、初犯だし情状酌量の余地もあり思ったより軽くなったのだ。弁護士は国選だったが
「もう少し頑張れば五年まで縮まりますよ」
 と言ったが父は刑をそのまま受け入れた。
 刑務所は長野刑務所に収監された。初犯で暴力団と繋がりの無い八年未満の刑期という事らしい。
 長野には面会に行くつもりだったし、刑期を終えて出て来る時は迎えに行くつもりだった。

 結局五年を過ぎた頃に模範囚となり仮釈放された。俺はその頃一人で暮らしていた。実家は父の意向で売却されてしまっていたので、俺は少し広いアパートを借りて父を迎い入れるつもりだった。
 店の方は結局別な店に移動させられた。そこは俺の事なぞ誰も知らない場所だった。父の起こした事件はマスコミには夫婦喧嘩の末の痴情という扱いで少しはワイドショーに取り上げられたがそれ以上話題になる事もなかった。
 父が仮釈放される頃には誰も覚えていなかった。俺の事もそんな事件に関わる者とは全く思われていなかった。
 新しい店では今ではこの春から『煮方』をやらせて貰っている。少し早いかも知れなかったが店の親方が俺の事を買ってくれたのだ。期待には応えなくてはならない。俺は頑張しかなかったからだ。
 道の脇が一段下がっていて、そこが歩道となっている。コンクリートの高い塀の上が金属の網が張られた塀が乗って、その塀が道なりに続いている。そう、ここは長野刑務所だ。今日は父の仮出所の日で俺は店を休んで車を借りて迎えに来たのだった。
 やがてスライド式の門扉が開かれ、ボストンバッグを持った一人の男が中から出て来た。それにしても刑務所なのに小学校の門の様な門扉だと思った。守衛さんにお礼を言って頭を下げると、俺の姿を見つけ僅かに嬉しそうな顔をした。
「お疲れさん」
「ああ、ありがとう。迎えに来てくれたのかい」
「うん。このまま東京まで帰ろうと思ってね。明日は店に出ないとならないし」
「そうか、悪かったな」
「まあ良いよ。乗りなよ」
 助手席のドアを開けて父を座らせる。自分も乗り込むとエンジンを掛けて車を走らせた。
 父はまっすぐ前を見ていた。俺はその横顔をチラチラと見ながら、何か話さねばと考えていた。すると
「高速に乗ったら少し話をする事があるんだ」
 父がそんな事を言いだした。
「何で高速に乗ってからなのさ」
「街中だと、驚いて運転ミスしたらヤバイだろう、人も歩いているし」
 良く判らないが、それだけ驚く内容なのだろうか。
 街中を抜けると、車は高速に入った。順調に流れているみたいだった。
「で、話って何さ」
「ああ、実は所長の世話で就職が決まってるんだ。長野の会社でな。お前の所で少し居て、準備が整ったら長野に戻るわ」
 実は父はある特殊技能の資格を持っていて、その方面では常に人手不足なので母を刺すまで、前の会社でも結構良い給料を稼いでいた。
 犯した罪も償った今は、その会社も父の技能が欲しいのだろう。その方面では父は優秀だったからだ。知る人ぞ知るという訳だった。
「そう、良かったじゃない。東京から離れた方が良いかもね。母さんの思い出とか色々あるだろうし」
 サービスエリアが近づいて来た。
「何か食べる?」
「ああ、そうだな。今食べておけば東京まで寄らなくても済むかもな」
 俺は車線を外れてサービスエリアの駐車場に車を駐めた。思ったより混んではいなかった。平日ともなれば、こんなものなのだろう。
 レストランに入ってそれぞれ注文をする。俺はトンカツ定食、親父は迷った挙句刺身定食にした。この山の地方で刺し身かよ、と思ったが、
「パフェも頼んでいいか?」
 そんな事を訊いて来た。
「ああ良いよ。でも甘いもの好きだったけ」
「いや、中では甘いものは食べられないからな。それと刺し身なんかもな」
 そうか、父は普通の状態では無かったと思い出した。七年の間、食べたい物が食べられ無かったのだ。そうなるかと納得した。
 注文したものが運ばれて来て食べながら
「家を売った金な。半分お前にやるよ。本来なら遺残相続でお前に行くはずだったからな」
 家を売った金は父の高座に入っていた。中からでも預金の管理は出来る。勿論俺とか弁護士の協力が必要だが。
「ありがとう。いいのかい。それと東京に戻ったら弁護士の先生に挨拶に行くんだろう?」
「行かないと不味いな」
「そうだね」
 実際刑事事件で挨拶に行く者は余り居ないそうだが、父の場合は行っても罰は当たらないと思った。
 と言うのも、当時、父と母は区役所の相談所に離婚の相談をしていたのだ。母が相談に訪れたらしい。裁判ではそのことが重要視され、離婚したがっていた母と離婚したくない父の対立が元からあり、それが事件の下敷きになっていると、弁護士が論点を展開したのだ。元より計画的犯行の跡は感じられず。その意見が採用され、カッとなった時の犯行と結論づけられたのだった。
「母さんは本当にいい女だったよ」
 刺身定食を食べ、デザートのパフェに口を付けながら父が思い出したように言い出した。
「魔性の女と呼んでも良かったな。兎に角、何処へ行っても男が放おって置かなかった」
 確かに母の美しさ、妖艶さは息子の俺が見ても、信じられないぐらいだった。そこで俺はこの数年間疑問に思っていた事を尋ねる事にした。予てから父が出所したら訊いてみるつもりだった。
「あのさ、母さんが浮気していたのは随分昔からだったじゃない。父さんはそれを認めていたのでしょう。なら何故急に怒ったりしたのさ。母さんが離婚しようと言って来たから?」
 父はパフェのイチゴを惜しそうに口に入れると
「母さんが離婚を口走ていたのは毎度の事さ。新しい男が出来ると口癖の様に『離婚しようかな』と言っていたさ。そんな事では俺は動じないよ。本当の事を言うのは構わないがここでは駄目だな。車の中で走りながら話すよ」
 その言葉に俺は飲みかけのコーヒーを口に流し込んだ。

 車は信越道を東京に向かっていた。渋滞も無く、スムーズに流れている。ぼんやりしてると眠くなりそうだった。
「実はな、お前はできちゃった婚だったんだ」
 それはかなり前に誰かから聞いた事があった。別に驚くような事では無かった。
「母さんが短大の時でな。この頃既に母さんには交際してる男が複数居た。俺が知ってるだけでも二人は居たから、本当はもっと居たかも知れん」
 まあ、後の母さんの異常なモテぶりからすれば、想像出来る事だった。
「それで父さんが勝ち取ったのか」
「勝ち取った言うより、俺の子だって言うからな」
「それじゃ、母さんは他の男とは何も無かったの?」
「まさか、避妊をしなかったのが俺だけだったという事さ。安心しろ、お前は確実に俺と母さんの子だから」
 別に特別安心はしないが、今更、真実の親を探して歩きたくは無い。
「母さんな、実は事件の時付き合っていた男の子供が欲しいと言い出したんだ。だから離婚してくれと……」
 それは初めて知った。まさかそんな理由を離婚相談には話せない。
「色々な事を許していた俺だったが、それだけは許せなかった。それに若く見えても四十だしな。アイツはどんなに外で遊んでいても、やがて必ず俺の元に帰って来る。戻る所は俺の所しかない。というのが俺の自負でもあった。事実母さんは外で他の男に抱かれた後は必ず俺に抱かれたがった。それは可愛いものだったよ。この魔性の女は俺のものだと実感出来たからな」
 そうか、その想いが父を夫婦関係を支えていたのだと実感した。
「だから永遠に母さんを俺のモノにする事にしたんだ」
 それは……それが殺人の本当の理由?
「じゃあ、咄嗟に頭に来て刺したのじゃ無いの?」
 父はそれには直接答えず
「お前は知らんだろうが、あの包丁な、昔お前がくれたものでな。母さん大切にして一度も使わなかった。新品のままだった」
 よく殺人が計画的だった場合、包丁の入所ルートを調べられる事があるが、俺が母に買ってあげたのはかなり前だ。それも家庭仕様の店ではなく俺が仕事の包丁を買ってる店で買ったものだった。作りが違う。
 あの裁判では包丁の入手ルートは勘案されなかった。計画的な犯行では無いとされたからだ。
「何時やろうかじっくりと考えた。勿論口論になったら何時でも使えるように用意していたけどな」
「じゃあ父さんは母さんを殺す事を計画していたの?」
「殺すと言うより、母さんは永遠に俺のものになったのさ。誰にも渡さないのさ」
 計画的であろうと無かろうと俺の母を殺したのは助手席に座っている父なのだ。
 胸糞が悪くなるという表現があるが、まさにその想いだった。でも俺はここに来て、思春期の頃母の着替え姿を見たり、母のだらしない格好を見たりした時の黒い感情が何かのか理解出来た。それは今から思えば「嫉妬」だったのだろう。子供として愛して欲しいと常に思っていた俺の嫉妬なのだ。
「母さんは蛍なんだよ。野に居れば毎夜、怪しい光で人々を魅了するが、籠に入れてしまえば、すぐに死んでしまう。だから母さんは他の男の子供を産んで……まあ歳もあるから難しいとは思ったがね。人のものになって籠に入ってはならないんだよ。そうなったらすぐに光を失ってしまうだろう。だから彼女の真の理解者は俺しか居なかったのさ」
 俺は父の呟きを耳にしながら車を東京に向かって走らせていた。俺は男として密かに父に嫉妬と殺意が湧いて来るのを抑えられなかった。                  
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