遙かなる流れ

遙かなる流れ 16 最終話

新しく立てられた店は近代的で、今迄の日本的な風情に溢れた建物とは正反対でした。
身体障害者用にリフトまで用意されていました。
それが中途半端で使い難いのはお役所仕事と言った処でしょうか。
開店と同時に予約で一杯になりました。
人は新しい場所へと流れるものなのでしょう。
私も夫もそして息子も一生懸命に働きました。
実はこの時に、家を立てたローンの他に土地の関係での借金もあり、わたし達一家は、必死になって働かないとならなかったのです。

問題はこの年から管理が都から区に移管されました。
大雑把だった都に比べ区は細かい所も管理して来ます。
値段から料理の内容まで全てに渡って管理してくるのです。
それは、店側の自由を奪い膠着した献立になる事を意味しています。
お役所がお客さまのニーズを判るハズが無いのです。
その証拠にバブルが弾けると区の施設に入っていた飲食関係のお店は殆んど撤退して仕舞いました。
それは、先ほど述べた理由と、自由に内装の模様替えが出来ない事です。

普通の飲食店はお客様の足が悪くなると改装して「新規開店」と称してお客様を呼ぶのです。
それが、建物がお役所の管理だと、それが出来ません。
その結果「何時行っても同じだから‥…」と言われ段々寂れて行くのです。
それが役人には理解出来ません。
「業者さんの怠慢」の一言で片付けられて仕舞うのです。

私どもの処もその危険は孕んでいましたが、従来からあるお客様を大事にしていましたので、当分はその心配はありませんでした。
もう一つは値段の設定です。
兎に角安いのです。
例をあげると300円前後でウチに納入されるビールの大瓶の値段が当時360円売りでした。
60円しか差額が無いのです。
ビールの冷やし代やビールクラスの値段や洗浄のコストを考えると儲けはゼロです。
一時が万事で区役所はこの通りなのです。
ですので、ウチは薄利多売を心がけました。
予約もできるだけ多く入れ、無駄の無い様にしました。
でもそれさえも、役所の管理下にあるので余り自由は利きません。
地道にやるのみです。

そうですねえ。開店から10年間は忙しい日々が続き、なんとかローンも返済してきました。
つぎに夫が考えたのは、お客様の送迎でした。
マイクロバスを購入し、夫のハイヤー時代の友人にドライバーと運行管理者になって貰い、
駅や近くの場所までの送迎を始めたのです。

これは特に役所に好評でした。
この当時は官官接待が公然と行われていました。
バスによる送り迎えと「自分達の施設」と言う気楽さから、役人のそう言った宴会の殆んどがウチに来る様になりました。
まあ、でもそれもバブル崩壊と同時に無くなりましたが……

私と夫は時代、時代に合わせて何とか店を切り盛りしてきました。
そして姑が亡くなって20年後に全ての借金が無くなりなした。
良く頑張ったと自分でもこの時は思いました。

息子も嫁を貰い女の子を儲けました。
でも息子はその孫に跡を継がせる気は無いそうです。
「もう、料理屋の時代は終わったよ母さん、それに今どき婿なんて、よっぽど財産が無ければ来ないよ。娘は貰い手があったら嫁にやるから」
そう言っています。
それが時代なのでしょうね。少し寂しい気もしますが……

その後は息子が中心となって切り盛りしています。
息子は仕入れも色々な処から確保しているようです。
値段の安い通販とかネットでの購入も早くからやっているみたいでした。
もう、私達の様な物が出しゃばる時代では無いのかも知れません。
でも、店に出ないとボケてしまう、ので店に出てお客様には挨拶します。
たまに出ないと「ばあさん死んだか?」と言う口の悪いお客が居るからです。
まあ、古いお客さんなので、言いたい事を言い合うのですが……

そんな時でした。
夫が交通事故で救急車で運ばれました。
私と息子はすぐに駆けつけましたが、ここで問題が起こりました。
左の大腿骨が骨折していたのですが、手術の為検査した処、
夫の心臓の血管が殆んど詰まっており、手術に耐えないと言うのです。
このままでは手術も出来ずに寝たきりになってしまう……
私はそう考えて、家の近所の循環器専門の病院に転院させる事を選びました。

事故から五日目に転院をして、翌週とりあえず、心臓の血管3本のうち、一番太い血管に
カテーテルの手術をする事になりました。
私はどうして、こんなに悪くなるまで黙っていたのか、夫に訊きました。
そうしたら「心臓ならあっと言う間に死ねるだろう」と言うとんでも無い答えでした。
「いきなり死んだら困るのは私だから」
そう言って夫を窘めました。
その時の夫の顔は、まるで叱られた子供そのものでした。

4時間に及ぶ手術の結果上手く行きました。
後で先生に聞いた処、余りにも硬かったのでダイヤの歯を付けて削ったそうです。
それから1週間後に足の手術も行われました。
骨折した箇所をボルトで固定する手術でした。
予定では、手術からすぐにリハビリをする予定でいたが、ここで意外な病気が見つかったのです。
それは元からあった糖尿病から来る腎臓の機能低下でした。
その結果、人工透析をする事に決まりました。
でもこの1回4時間で週に3回と言うのが夫の体力を少しずつ奪って行ったのです。
それは食べ物を体が受け付けなくなって行ったのです。
点滴で保たせていましたが、それも限界があります。
その結果、胃ろう、にする事になりました。
いわゆる胃に穴を開けて、直接食べ物を流し込む方法です。
これなら吐き気が起こらないので、段々と体力が回復して、リハビリも出来る。
と言う説明でした。
夫も私も、それに掛けたのです。

胃ろうの手術後にぬるいお湯を入れて試すのですが、夫はここで拒否反応を起こしてしてしまったのです。
「不味い!中止だ!」
そういう声が私にも聞こえました。
胃ろうは失敗に終わったのでした。
それからの夫は生きる気力も無くしてしまったみたいでした。
私や息子や嫁がしきりに励ましますが、段々と衰弱して行きました。
そして、事故から丁度半年後の4月8日お釈迦様の誕生日に夫は天に召されました。
満80でした。

葬式や色々な手続きは全て息子がやってくれました。
あの子がここまで、こういう事に詳しいとは思いませんでした。
灰になり骨になった夫は骨も痩せていました。
足に埋め込んだボルトが痛々しげでした。

それでも私は店に出てお客様に挨拶をしています。
もう、好きな時に友達と温泉に行ったり、旅行に行ったりします。
その分、かっての私のやっていた事を息子がやっています。
暫くは旅行にも行けないでしょう。
それはこの仕事をやってる限り仕方無いと思います。

遥か北の地、樺太で生まれ、戦争に負けて青森に住みつき、東京に親の納骨に来てそのまま嫁に来て、50数年が経ちました。
もう私の御役目は終わったと思います。
そう理解しています。
そうそう、夫は私を迎えに来てくれるのでしょうか?
あの世に行ったならば、姑のいない新婚時代をもう一度過ごしたいと思う私です。
きっとそれはもうすぐでしょう……


遙かなる流れ 了

遙かなる流れ 15

 姑の葬儀は、派手好きだった人なので、当時の我が家としては随分と派手に行いました。
結果、大勢の方がお焼香にやって来て下さいました。
きっと姑も納得して喜んでくれたと思います。

でも、お陰で蓄えも底をついて仕舞いました。
そんな時でした。我が家に色々な問題が持ち上がったのです。

第一は、かってのわたし達のあった公園内での営業の事ですが、建物等はわたし達が使っていた設備を改修せずにそのまま使っていた為、随分と老朽化して仕舞いました。
そこで、設備を見直し、立て直し公園が都から区に移管される事と同時に建て替えて近代的な
設備にすると言うものでした。

心配だったのは「新たに業者を入札で決める」と言う事でした。
噂では大手の業者が狙っている、と言う噂がありました。
果たして、どうなってしまうのでしょうか?
私の処はすでに会社化してあり、夫が代表取締役についていました。
でも、この際に、夫の友人でもあり、かっての遊び友達だった葛飾区の有名な料理屋さんの社長さん達にも名前だけの役員になって貰いました。
これは入札対策です。

第二は、葛飾も来ればせながら、下水道が完備されたので、トイレの改修工事の事でした。
見積もりを出して貰ったら2百万程掛かると言われました。
そのお金の事も心配の種でした。

話は意外な事から回り出しました。
毎月、月掛け預金をしている銀行の人が、我が家に来ていました。
この人は、暇があると年中我が家に寄って、お茶を飲んで休憩して行ってたのです。
その人が「おばさん(こう呼ばれていました)下水工事はどうするんですか?」
と訊いてきたのです。わたしは
「そうねえ、直さなくてはならないけど、お金がねえ~貴方の所で貸してくれる?」
そうわたしは訊き直しました。すると彼は
「ウチはいいですよ。でもこの家もそうとう来ていますから、下水だけじゃ済まないかも知れませんね」
そういいました。私はそれに
「いっそ全部建て直したいけどねえ」
そう冗談交じりに言った処
「3階建にして、上はアパートにして、その上がりから返済と言う事なら、僕がここに居る間なら支店長を口説いて貸付ますよ」
そう言ったのです。
私はその時、ひらめきました「建て替えるなら今しか無い!」
すぐさま、私はそのように頼むのでした。

銀行の貸出はすぐに決まりました。
当時は未だ景気が良かったので金利は高かったものの、返済に関しても楽観的な空気がありました。
これで、家は建て替える事が決まったのです。

もうひとつの方ですが、やがて、区役所で入札が行われました。
参加した業者は、ウチの他に2社でした。
そのうちの一つは大手の業者で名前を言えば誰でも知ってる業者でした。
やがてプレゼンが始まりました。
夫はハイヤーの会社で労組の委員長をやっていますので、こう言う事には慣れていました。
でも大手に比べて、目を見張る様な写真やパネルがある訳ではありません。
手作りの資料があるだけです。
それでも夫は今迄の実績と地域に密着した会社である事を訴えて終わりました。
大手や、その他の業者さんのプレゼンはそれは見事でした。
いかに効率的な経営をするか?とか、他の経営する店との連携でお客のニーズに応えるとか、
素晴らしいものでした。

家に帰り、(この頃は既に引っ越して仮住まいでした)夫と
「もしかしたら負けちゃうね」
そう言っていました。夫が
「負けちゃったら、あの世で御先祖さまに会わせる顔がないな」
そう言うので、私は
「そうなったら仕方無いですよ。やるだけやったんだし、それで負けたら……」
そう言って夫を慰めます。
わたし達は地域の政治家の方とかにも頼んでいましたが、それはいわゆるロビー活動と言うものでした。

暫くして、発表がありました。
契約課の廊下の壁に貼りだされたのです。
それと同時に電話も掛かって来ました。
結果は……わたし達の会社が受注を取りました!
プレゼンに勝ったのです!

後から判った事ですが、地元密着、と言う事が明暗を分けた様です。
公園事態は6月が植わっている花の開花時期なので、この前後は大変混み合いますが、他の時期は閑古鳥が鳴いている事もあります。
私達は個人的な付き合いもありますので、地元の町会や会社等が積極的に使ってくれるのです。
だから、違う会社が経営する事になると、それが全て無くなってしまうと考えたそうなのです。
夫とは「負けたら別な店でもやろうか?」と話していました。

年が開けて、夫は定年になり(当時55歳です)お店に集中する事になりました。
そして、外に修行に出ていた新太も帰って来て手伝ってくれる事になったのです。
まさに家族で切り盛りする状態になりました。

家も3階建が完成し。2階3階はアパートになっていて、その借り手も決まりました。
我が家に新しい時代が訪れたのを私は感ぜずにはおれませんでした。

遙かなる流れ 14

私の体はすっかり治った訳ではありませんが、かなり良くなりました。
宮田先生も「良くこれほどまで回復したね」と言ってくれました。
そうなると、家の用事が待っています。
朝早く起きて市場に仕入れに行き、帰ってきて皆の朝ご飯の支度をして、片付け、洗濯、掃除とやるともう11時近くになります。
お昼の用意をして、店の方に行き、夜のお客さんの仕込みをします。
終わるのはもう3時過ぎになります。
家に帰って洗濯物をたたみ、夕飯の支度をして店に帰ります。
5時ごろからお客さんの料理をこしらえ始め、お姉さん方に運んで貰います。
そして、全て出し終わるのが7時頃でしょうか、それから自分達の夕飯を食べます。
ありあわせのもので済ますのです。
お客さまが帰って片付けが終わるのが9時半~10時頃です。
それから家に帰って息子の顔を見ます。
やっと、ほっとする時間です。
お風呂に入り、終い湯で湯船を洗って、11時には床につきます。
これが、その頃の私の一日でした。
余裕はありません。
当然、働いた報酬もありません。
姑いわく、「家の仕事に報酬なんか払えないし、第一嫁に払う金なんか無い」
そうハッキリと言われました。
二言目には「嫌なら出て行け!」これが口癖でした。

その内に、夫の兄弟は独立して家庭を持ち始めました。
結婚して世帯を別にしたのです。
姑は家の傍を希望していた様ですが皆、1時間以上掛かる千葉に引っ越して行きました。
残った娘、夫の妹も恋人を作り結婚すると言い出しました。
この娘は末の子だけに我侭一杯に育てられたので、言い出したら聞きませんでした。
お腹が大きくなり、姑はショックで寝付いて仕舞いました。
「あんな、田舎出の男じゃ無く、良い家に嫁がせたのに」
そう言っていましたが、本人はもう夢中でした。
そんな姑に私は「お義母さん、良い家だったら、こちらは一切口出し出来ないけれど、あの人なら、お義母さんの意の侭でしょう!」
それを聴いて姑は考えを改めた様で、渋々でも結婚を認めました。

でも、それからは、店の売上のかなりをこの娘夫婦につぎ込み始めたのです。
やがてはそれが自分にのしかかって来る事になるのですが……

ある日、こんな事がありました。
姑の幼なじみの人が、息子や娘から小遣いを貰ってると言う事を聴いた姑は
自分も欲しいと言い出しました。挙句
「なんでお前らは私に小遣いをよこさないんだい」
と文句を付けました。
夫を始め、殆んどの兄弟は黙っていましたが、男の子で一番末のデパートに勤務している子が
「店の売上や実権をみんな、義姉さんに渡せば、使い切れないぐらいやるよ。何もかもみんな握っていて、小遣いよこせとは呆れるよ」
そうはっきりと言ったのです。
この子は親の援助を一切受けず、自力で現金で家を立てた程しっかりとしていた子でした。
10代の頃は不良だったのですが18になったら真面目になる。と言ってて、事実18歳の誕生日には、髪の毛も切って不良を止めた様な子だったのです。
流石に姑も言葉が出ませんでした。

そして、夫とその弟の後押しもあり、私は雀の涙程ですが、日当を貰える様になりました。
それは、私が嫁いでから15年も経っていました。

家の方の借金ですが、登記上はウチの名義なのに良く判らない土地が見つかり、その土地は公園と隣接していたので、都が買い上げる事になり、その売却益で返済が出来ました。
これにもやはり15年かかって仕舞いました。
昔は土地のこと等はいい加減な事が多かったそうですが、これもその一つです。

息子は私たちの事を見て育ちましたから、「親と同じ料理の世界には行かない」と言っていました。でも大学受験を控えたある日
「俺、受験に失敗したら調理師学校に行くから」
そう言ってわたし達を喜ばせました。
そうです。お分かりと思いますが息子は実力以上の大学ばかり受験し、尽く落ちて仕舞いました。そして調理師学校に入ったのです。

そんなある冬の日でした。
姑が脳梗塞で倒れたのです。
私は、容態が落ち着くと、近くの病院に入院させました。
ここは介護の人が必要で、入院費と合わせると1日7000円かかりました。
「高額医療費」で半分は返って来ますが、三ヶ月先のことです。
その間のお金のやりくりが大変でした。

中々回復が見込め無いので、私は知人が言っていた、箱根仙石原の温泉病院に入院させる事にしました。
この時まで、倒れてから半年経っていますが、あの下の弟が何回か来ただけで、娘は1度、上の二人はちらっと顔を見せただけでした。
姑は利けない口を動かして「あんなにしてやったのに……」と口ずさんでは泣いていました。
でも正直、全ては遅かったのです。
借金が返済して、土地の抵当が外れ、名義を変更しなくてはならなかったのですが、私と夫は
「夫の名義にしてくれる様に頼みました。そうすれば後々楽だと思ったからです。
でも姑は兄弟の共同名義。建物は真ん中の弟の名義にしてしまったのです。
この為、私と夫は後々まで借金をして名義変更をする事になるのです。

そう全ては遅かったのです気が付くのが……
それからは「お前、あれ、名義、早く、変え」と何回も言いますが、そんなお金等一切ありあません。
第一姑は忙しかった1月の売上の殆んどを娘に持って行ってしまっていたのです。
入院の保証金さえありませんでした。

それからは「すまなかった。すまなかった」と何遍も言ってくれましたが、正直後の祭りでした。只、あのまま亡くなってしまうよりは良かったです。
温泉病院には1年半いましたが、病院から「我侭でリハビリもちゃんとやらないので退院して欲しい。順番を待っている人が沢山いるので」と言われ、帰ってきました。
最初の病院に入院させましたが、我侭なので、今度は家族が交代で下の世話等を見る事にしました。
この点では息子に髄分世話をして貰いました。
息子は学校の合間に病院に寝泊まりして世話をしてくれたのです。
そんな、姑でしたが、それから半年後、腎臓がひどくなり、段々衰弱して行きました。
もう臨終が近いと言われ夫の兄弟が呼ばれましたが姑は
「もういいよ。あんなの来なくても」
そう言って永眠したのです。
思えば可哀想な人だったのかも知れません。
息子だ、娘だと湯水の如くお金を注ぎ込んだ子供には見向きもされず。
亡くなる時に枕元にいたのは、私と夫と末の弟の三人でした。
私の息子は店で料理を担当していて来れませんでした。

20年以上に渡った、私と姑の戦いもこの日で終わったのです。

遙かなる流れ 13

病院のベッドの枕元で夫が私に言います
「先生に言われたよ、体が衰弱しきっているので手術はできないと」
この当時、結核の患者には今では考えられない事ですが、犯された肺を摘出する手術が普通に行われていました。
その方が体力があれば早く回復するので、一般的に行われていたのです。

でも、私の場合はその手術さえも出来ない程体力が落ちていました。
ベッドから自力で起き上がる事さえ出来ませんでした。
今のように上半身や足元だけ持ち上げられる介護ベットは当時はありませんでした。
「新太はどうしました?」
夫に最愛の我が子の様子を訊きます・
この春から幼稚園に通わせています。
私は、何とか入院前に入園式だけはついて行ったのです。
親と初めて離れた入園式では少しベソを掻いていましたが、その後はどうしてるか、気になっていました。
「大丈夫だよ。元気に通ってるよ。ちゃんと言いつけを守っているから」
「そうですか……」
「会いたいだろう?」
「そりゃもう……」
「帰りに先生に訊いてみよう。許可が貰えるなら連れて来る」
その夫の言葉が何よりでした。
「それからお袋のやつ、こんな事言いやがった。『家に帰って来るより四つ木に行った方が早いんじゃ無いのかい』って、そう言いやがった。いくら親でも許せん」(四つ木には火葬場がありました)
私はそれを訊いて、このままでは死ねないと改めて思いました。
必ず元気になり、姑を見返してやろうと思ったのです。
二言目には『私には他にも子供がいるんだからお前たちは嫌なら何時でも出て行って良いんだよ』そう言うのです。
何にも知らない姑です。他の子は誰もそんな事は思っていません・
ある弟は『財産も無いのに家なんか継ぐなんてナンセンスだよ。ちゃんと育てて貰って無い人の老後なんか面倒見る気無い』とハッキリと言っていました。
この日から、私はある意味姑に思い知らせる為に必ず病気を直すと決意しました。

それから半月もたった頃でしょうか、幾分気分の良い日が続きました。
売血の為に(この当時は売血によって輸血の血液が確保されていたのです)かかった肝炎も薬で抑えていられる様になりました。
そんな時です。病院の廊下をパタパタと子供が歩く足音がするのです。
そしてこれからは私にとってとても懐かしくて、心待ちにしていた声が聞こえました。
「ねえ、この先のお部屋にお母さんがいるの?」
足音は病室の入り口で止まりました。
そして、開け放たれた病室の入り口に、小さな影が写ります。
そして、そっと顔をのぞかせます。
「おかあさん……ぼくだよ!ぼくきちゃった!」
そうです!最愛の我が息子が来てくれたのです。
感染するからと今までは面会の許可が下りませんでした。
でもとうとう、この日がやってきたのです。
私は動かない体を無理にでも動かし、ベッドを下りて、這いずる様に息子に近づきます。
「おかあさん。ねていないとダメだよ」
息子はそう言って、私の体を起こしてベッドまで連れて行きます。
「新太、いい子にしていた?」
「うん、いい子にしてると、おかあさん逢えると言われたからボクちゃんと約束守ったんだよ」
「そう…‥いい子にしていたんだね」
それからは涙でもう何も言えませんでした。
息子が抱きついて来ます。
「病気がうつるから」
そう言うと「おかあさんと同じ病気になれば、何時も一緒にいられるでしょう」
そう言うのです。
私は、もう何も言えませんでした。

夫が「15分だけならって許可が出てな。短いけど早速連れて来たんだ。これからはなるべく連れて来るからな」
そう言って、私を喜ばせました。

それが良かったのか、段々結核は回復に向かって行きましたが、私の療法は結核菌に犯された右肺を固めて死滅させてしまうというものでした。
ですから、今でも私の肺は片肺でレントゲンを写すと右肺は真っ黒になって写ります。
約1年の入院を経て退院となりましたが、本当はもう入院費が払え無かったのです。
だからといって、この日までの分を全額払った訳でもないのです。
この後分割で払う事になります。

家に帰ってくると、早速以前の馬車馬の様な生活が始まります。
結核は何とかなりましたし、掛かり付けの宮田医院で見て貰っていましたから強い注射も打って貰いました。
困ったのは肝炎の方です。
慢性になってしまったのか、ダルさが半端ありません。
父親も肝臓の病気で亡くなっているので、肝臓が遺伝的に弱いのかも知れません。

退院したとは言え、体力が無いので薬の効きも悪いのです。
そんな時でした、宮田医院で診察をして貰った後のことでした。
家に帰る道にしじみやあさりを売っている人がいました。
「そうだ、夕飯のおかずにじじみを買って帰ろうと思い、売っているおじさんに声を掛けました。
「しじみを2ハイほど下さい」
「はい、2ハイですね、っと……」
そこまで言っておじさんの声が止まりました。
「奥さん、肝臓が悪いね。それもかなり」
ずばり、その通りでした。
「はい、実は血清肝炎にかかってしまって……」
「そうでしょう、その顔色見れば判りますよ。いいことを教えてあげましょう」
そう言っておじさんは、しじみによる肝臓の回復方法を教えてくれました。
(今日はここにそれを書きますので、肝臓が心配な方は参考にして下さい。)
おじさんは、
「しじみを量が多い方が良いけど、良く洗って泥を吐かしてから、蓋の出来る鍋にしじみを入れて蓋をして火に掛けるんだ。
そうすると、じじみの口が開いて泡を吹いてくる。そうしたら蓋を開けてじじみがちゃんと口を開いているのを確認したら、火を止めてそれをザルにあげて、汁気を絞り取るんだ。
この汁こそ特効薬でね。飲み難いけど冷やしても良いからそれを毎日コップ1杯ずつ飲むんだよ」
「おじさん、それじゃ沢山買わないとダメですね」
「まあ、そうだけど、そこは何とかして欲しいね。それから、その絞ったしじみを袋に入れて、お風呂に入れるんだ。これは臭うから終い風呂でやるんだ。そのお湯に体をつける。ゆっくりと入ること、それから、その袋で体をこするんだ。必ず良くなるよ」
そう教えてくいれました。

私はこの時、まさに藁をもつかむ思いだったので、すぐにそれを実行しようと思いました。
幸いと言うか、都に売却後も園内での料理の営業は許されましたので、その後も縮小して、営業をしています。
最も公立の施設なので格安の値段なので、以前の様に板前さんは使えません。
夫と私が代わりにやっているのです。
ですから、仕入れも二人で行っています。
だから、市場でしじみを仕入れようと思いました。
安く大量に仕入れられます。
夫も「売上は皆お袋が持って行って俺達には何も残らないんだから、経費でしじみを買おう」
そう言ってくれ、それから毎日私はしじみの汁を飲んで、お風呂に入ったのです。
それは、効き目があったらしく、段々私の体調は良くなって来ました。
しじみと一緒に肝臓の薬も飲んでいたので薬も効いて来たのです。
退院から1年半、やっと私は体が回復したのを感じました。
それを夫は確かめると
「俺、外に稼ぎに行こうと思うんだ。このままなら俺達には何も残らない。自分の財産は自分でこさえ無ければ……」
「判りました。私もそう思います。家の方は私が頑張りますから」
二人の間で約束を交わしました。
そして、夫は車の2種免許を持っている事からハイヤーの会社に務める事になったのです。
この仕事は泊りがけなので、今までより私と姑の時間が増える事を意味します。
でも、私は負けない積りでした。
再び、嫁と姑の戦いが始まりました。

遙かなる流れ 12

産後ある程度の日数が過ぎると日常の生活に戻ります。
生まれた息子の名前を「新太」とつけました。
「この子はあらたにこの家を再興する人間になるように」と言う意味でお祖母さんがつけてくれました。
でも私は結核が進んで来てしまって、夕方になると熱が出る始末です。
それでも休む事は許されないので、無理をしてでも働きます。
お祖母さんが心配をしてくれますが、休む事は許されません。
そんな様子を見てお祖母さんは自分で飼っている鶏の卵を私にくれて、呑ませてくれます。
涙が出る程有難いです。
「母ちゃんは病気で寝付いた事が無いから病人の辛さが判らないんだよ」
そう言って慰めてくれます。
夫は昼間は家にいないので、事情が良く判っていません。
最も、判っていても、親には逆らえない人なので、期待は出来ません。
それでも私は、体をだましだまし、暮らして長男が生まれてから一年が過ぎようとしていました。
姑には「ウドの大木」と罵られていましたが、私は開き直って言い返します
「戦後随分景気の良い時もあったそうですが、蓄財していなかったから破産寸前なんですよね。お母さんは経営者としてどうかと思います」
それが気に喰わないのでしょう。
益々私に辛く当ります。
私が女学校を出ているのも背が高いのも何もかも気に喰わないのです。
後にこの人は孫にまで「お前なんか生まれて来なければよかったんだ」と言い放ったのです。

台風22号が段々近づいて来ます。
私はラジオの放送を夫と聴いていました。
もうすぐ新太のお誕生日がやってきます。
もう雨が1週間も降り続いています。
夫が「このままならまた、大水おおみずになるな」
そう呟きます。
「大水ってなんですか?」
そう訊くと夫は
「洪水だよ。今度は何処の堤防がきれるか……」
そう言って説明してくれました。
このへんは低地なので、雨が続いたりするとすぐに床下浸水ぐらいにはなるのだそうです。
ですからこの辺の旧家には天井裏に船が隠してあり、イザと言う時はそれに乗って逃げるのです。
当然この家にもあります。

台風は9月24日には本州に近づき、大量の雨を降らせます。
25日になり中川が決壊しそうだと連絡が入ります。
私はお祖母さんと新太を抱えてお座敷でも特に高い場所にある「高山」と言う所に非難します。
夫や兄弟は母屋の畳をあげて、家財を天井裏に避難させます。
そして船を降ろして洪水対策をします。
そんな時でした、「青戸の中川が決壊した」との知らせが地元の消防団の人から知らされます。
それから幾らもしないうちに水がやって来ました。
あっと言う間に何もかもが水に呑まれて行きます。
私は初めての事なので、新太を抱きながら震えていました。

結局水は1週間も引きませんでした。
それでもこの辺の人は慣れていると見えて、何事も無く日常生活に戻ります。
それは、全く違う世界から嫁いで来た私には想像を超える事でした。
そして私にも以前の日々がやって来ます。
体は一進一退といった処でしょうか、相変わらず夕方になると熱が出ます。
そんな繰り返しで日々が過ぎて行きました。
そして、家の方の事態はとうとう待った無しの状態になってしまいました。
融資をうけられる所がなくなってしまったのです。
そんな時に、姑は駄目もとで地元の都会議員に都立の公園として買い上げてくれないか、相談に行ったのです。
初めは無謀だと思いましたが、紆余曲折がありましたが、格安ですが都が買い上げてくれる事になりました。
しかも、今までとは違いますが都の施設として料理を提供しても良い、と言う事になりました。
嫁ぎ先の庭が公園としてデビューする事になったのです。
でも、あまりにも買収額が安いので、そのお金を全て返却しても、4割程は残って仕舞いました。
都の課長さんでさえ「山村さんこんな安い値段じゃバカらしいよ」と言って考え直す様に言ったくらいでした。
私はこの時、姑は経済感覚が可笑しい人なのだと判りました。
この人にとっては金額では無く、先祖代々のこの庭を保存する事が大事だったのです。

この庭から少し離れた場所に若干の土地がありましたので、座敷で使っていた建物をそこに移して、あらたな家としました。
そして引っ越しが終わった頃からお祖母さんが寝付いてしまったのです。
最初は風邪を引いた様でしたが、中々治らず重くなるばかりでした。
そして昭和35年3月にとうとう帰らぬ人となりました。
私にとっては大恩ある人で新太を良くかわいがってくれました。

お祖母さんが亡くなったので気落ちしたせいではありませんが
私の病も段々ひどくなり、とうとう入院となって仕舞いました。
尾久にある「女子医大病院」に入院となってしまったのです。
可愛い息子の新太とも別れわかれになりました。
私は幼い我が子が母親無しでちゃんと育つかが心配でした。
息子の事を想い毎日鶴を折ります。そしてそれをお見舞いに来た時に新太に見せてあげるのです。
その時の息子の喜びようはありません。
私にとってはそれが薬より効いたかも知れません

貧血がひどいと言うので輸血を受けたのですが、これによって結核の薬も効き始め、一時は随分良くなりました。
そこで退院となったのですが、私は「血清肝炎」にかかってしまったのです。
とにかくだるくて、体が動きません。
日常の生活も出来ない有り様なのです。
姑はそんな時でも「ウドの大木」と私を罵ります。
おまけに結核も悪くなり、私は1年もたたない内に再入院となってしまいました。
夫は、「奥さんは覚悟をしていて下さい」と言われたそうです。
見舞いに来た姑は「死人の匂いがする」と言って二度とは来ませんでした。
そういう人とは思っていましたが、本人の前で言う言葉では無いと思いました。
もう息子とも会えないと思うと毎日が張り合いが無くなります。
「もうどうでもいいや」と思った事も1度や2度ではありませんでした。
私の傍に確実に死神がやって来たのを感じていました。
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