季節の巡るのは早いもので、いつの間にか僕は志望校を決めなくてはならない時期に来ていた。
今年は僕は予備校の模試でAランクの評価をとっている大学を選ぶ事にした。
まあ、安全パイと言うヤツだ。
その日、僕は予備校の帰り、茜さんの店の前を通ると、茜さんが店の前に立っていた。
茜さんはこの前、やっと部屋を空けてアパートに帰って行ったばかりだ。最もそれからも週に3回は泊まりにくるのだけども……
「今帰り?」
茜さんは僕に挨拶代わりに話しかけてくれる。僕もいつもの様に「うん、そう。茜さんはどうしたの?店は休み?」
そう訊くと茜さんは困った顔をして
「そうなのよ。ビールクーラーが壊れてさ、メーカーの人に見て貰ったら部品が無いと直らないって言うからさ、明日になるんだって直るのが」
「そうなんだ。じゃあ今日はお休みなんだね」
僕が訊くと茜さんは僕を横目で見て
「ねえ、あたしウチの人から聞いちゃったの。生みの親の事。おばさんの親友だったんだって? なんで今まで黙っていたのかな? 理由が聞きたくない?」
いや理由と言ってもそりゃあ簡単には言えない事でしょう。そう僕が思っていると茜さんは
「それでね、今日お店休みだから、おばさんに訊こうと想って。それでウチの人としんちゃんにも証人になって欲しいの……駄目かな……」
茜さんはちょっと俯いて親指の爪を軽く噛みながら僕に迫った。正直、こういうの苦手です!
「判ったよ。今日は火曜で、たぶん暇だろうからつき合いますよ」
そう返事をすると、茜さんはうれしそうに
「ありがとう!しんちゃん!今度たっぷり可愛がってあげるからね」
なんて事言うのだろう。通る人が笑って聞いてるじゃないか……
「じゃ、あとで……」
そう言って僕は花連荘に帰った。
「なんだって、今夜訊きに来るって?」
「うん、そう言ってたよ茜さん」
婆ちゃんは茜さんからの伝言を聞くと
「全く、陣のヤツも上手くなんか言いくるめれば良かったんだよ」
「でも婆ちゃん、何で今まで黙っていたの?」
「そりゃ、それが幸子との約束だからさ。真実なんてこの場合知らない方が幸せと言うものさ」
そうかな? と僕は思うが、戸籍も何もかも実の子として育てられるのだから、余計な事は知らない方が良いと言うのも一理あると思った。
夕方、茜さんと陣さんが鮨を手にやって来た。
「おはようございます。おばさんお寿司かって来たから皆で食べようよ」
さすがに茜さんだ。いきなりは言わない。
婆ちゃんは「ああ来たのかい」とややぶっきらぼうな言い方で二人を歓迎した。早速、茜さんが慣れた様子で小皿や醤油、それにお茶を入れて食べられる様にする。
茜さんは陣さんと婆ちゃんにビヤタンを出して奥の冷蔵庫からビールを出して二人に注ぐ。
「いただきま~す」
真っ先に茜さんが鮨を一つ口に運ぶ。
「うん!誠鮨はいい腕してるわ」
ご機嫌で箸を進めるとやがて
「ねえ、おばさん、あたしの生みの親の事教えてくれないかな」
茜さんは決意した感じで婆ちゃんに語りかけた。
婆ちゃんは暫く迷っていた様だが、やがてこれも決意した様に
「大体はこの前陣が聞いていた通りでね。特に言う事は無いんだけどね……」
「名前はなんて言うの?」
「名前かい……高子、そう青山高子って言う子だった。父親の名は知らないよ。とうとう最後まで言わなかったからね」
「そう、青山って言うんだ……お墓は? 何処にあるの?」
「遠いよ、あの子は九州だから亡くなった後は親が遺骨を持って帰ったからね……行ってみたいのかい?」
「判らない。今は判らないと言うのが正直な処かな」
「あの鞄の生地はねえ。当時あの子は進駐軍のメイドをしていてね。そこの奥さんから貰ったそうなんだ。当時としては上質の生地だから、喜んでねえ。器用なあの子は鞄や巾着や色々なモノを作ったよ」
「そう……だったんだ……」
茜さんはお茶に口をつけると一口飲んで
「ねえ、もし間違ったら御免なさい。その子ってもしかしたらおばさんじゃ無い?」
そう言われて婆ちゃんの様子は恐らく僕が見た婆ちゃんの様子では最も印象的だっただろうと思う。
「ば、バカなこと言うんじゃ無いよ。何処からそんな事が飛びだすんだい。あたしはあんたの親じゃ無いよ」
そう婆ちゃんが言っても茜さんは顔色を変えず
「おばさん、本当に違うの? あたしは今まで密かにおばさんが生みの親だったらどんなに良いかと思っていたの。おばさんこそが本当の親なのではと何回も思ったわ。もう一度訊くけど、おばさんはあたしの生みの親じゃ無いの?」
そのとき、婆ちゃんの眼から一筋の涙が流れ落ち頬を伝わって落ちた。そして
「違うよ、違う!あたしはあんたの生みの親じゃ無いんだよ」
叫ぶ様に苦しげにそう言うと婆ちゃんは自分の部屋に引きこもってしまった。
「おばさん……」
茜さんがその婆ちゃんの部屋を見つめていると、陣さんが
「真実を言えない事もあると言う事か……」
そう言ったのが印象的だった。
後から僕が考えた事だけど、よし悪しは別にしても、子供の斡旋という法に触れる事をしている人がいる。それを望んでる人もこの世にはいる。
法がおかしいのか人の世がおかしいのかは僕には判らない。でも、それを望んで、それで幸せになる人がいるなら、その事によって不幸な人が出ないなら、少しは、少しは良いかも知れない……僕はそう思う。
茜さんが僕の肉親かも知れないという疑惑はとうとうハッキリとはしなかった。でも茜さんは、「おばさんからおばちゃんに呼び方が変わり、たまには「おかあさん」としらばっくれて呼ぶ事もあるらしい(二人だけの時に)
数年後、陣さんと茜さんの間に子供が出来たのを期に二人は籍を入れた。
「俺みたいなのは世帯持っちゃイケナイんだがな」と陣さんが照れていたのが印象的だった。
生まれた子を婆ちゃんは本当に良く可愛がっていた。
それから更に数年後、婆ちゃんが脳血栓で倒れた。その時甲斐甲斐しく介護してくれたのは茜さんだった。(僕も少しやったけどね)
勿論費用は僕の親と叔父が出したが、現実に面倒を見るのは並大抵の事じゃ無い。更に倒れてから1年半後に婆ちゃんはこの世を去った。
死ぬ数日前に茜さんに、涙を流しならお礼を言ったそうだ。
その時茜さんは「産んでくれてありがとう……」と逆に婆ちゃんにお礼を言ったとか……
きっと涙もろくなっていた婆ちゃんは泣いたのだろうか、それとも「あたしはあんたの親じゃ無いよ」と言ったのだろうか?
茜さんは「それは秘密。あたしがお墓まで持って行くから」そう言って笑っていた。
婆ちゃんの死後、花蓮荘は取り壊され、今ではマンションが立っている。その昔、ほんの30年前にここで色々な男女の思いが交差した事を殆んどの人は知らない。
僕も人の親になり、過去の事は言わなくなった。たまに陣さん夫婦と会って話をするぐらいだ。
でも、口には出せないが、僕の心には何時でもあの時の思い出が詰まっている……
花連荘の出来事
了
今年は僕は予備校の模試でAランクの評価をとっている大学を選ぶ事にした。
まあ、安全パイと言うヤツだ。
その日、僕は予備校の帰り、茜さんの店の前を通ると、茜さんが店の前に立っていた。
茜さんはこの前、やっと部屋を空けてアパートに帰って行ったばかりだ。最もそれからも週に3回は泊まりにくるのだけども……
「今帰り?」
茜さんは僕に挨拶代わりに話しかけてくれる。僕もいつもの様に「うん、そう。茜さんはどうしたの?店は休み?」
そう訊くと茜さんは困った顔をして
「そうなのよ。ビールクーラーが壊れてさ、メーカーの人に見て貰ったら部品が無いと直らないって言うからさ、明日になるんだって直るのが」
「そうなんだ。じゃあ今日はお休みなんだね」
僕が訊くと茜さんは僕を横目で見て
「ねえ、あたしウチの人から聞いちゃったの。生みの親の事。おばさんの親友だったんだって? なんで今まで黙っていたのかな? 理由が聞きたくない?」
いや理由と言ってもそりゃあ簡単には言えない事でしょう。そう僕が思っていると茜さんは
「それでね、今日お店休みだから、おばさんに訊こうと想って。それでウチの人としんちゃんにも証人になって欲しいの……駄目かな……」
茜さんはちょっと俯いて親指の爪を軽く噛みながら僕に迫った。正直、こういうの苦手です!
「判ったよ。今日は火曜で、たぶん暇だろうからつき合いますよ」
そう返事をすると、茜さんはうれしそうに
「ありがとう!しんちゃん!今度たっぷり可愛がってあげるからね」
なんて事言うのだろう。通る人が笑って聞いてるじゃないか……
「じゃ、あとで……」
そう言って僕は花連荘に帰った。
「なんだって、今夜訊きに来るって?」
「うん、そう言ってたよ茜さん」
婆ちゃんは茜さんからの伝言を聞くと
「全く、陣のヤツも上手くなんか言いくるめれば良かったんだよ」
「でも婆ちゃん、何で今まで黙っていたの?」
「そりゃ、それが幸子との約束だからさ。真実なんてこの場合知らない方が幸せと言うものさ」
そうかな? と僕は思うが、戸籍も何もかも実の子として育てられるのだから、余計な事は知らない方が良いと言うのも一理あると思った。
夕方、茜さんと陣さんが鮨を手にやって来た。
「おはようございます。おばさんお寿司かって来たから皆で食べようよ」
さすがに茜さんだ。いきなりは言わない。
婆ちゃんは「ああ来たのかい」とややぶっきらぼうな言い方で二人を歓迎した。早速、茜さんが慣れた様子で小皿や醤油、それにお茶を入れて食べられる様にする。
茜さんは陣さんと婆ちゃんにビヤタンを出して奥の冷蔵庫からビールを出して二人に注ぐ。
「いただきま~す」
真っ先に茜さんが鮨を一つ口に運ぶ。
「うん!誠鮨はいい腕してるわ」
ご機嫌で箸を進めるとやがて
「ねえ、おばさん、あたしの生みの親の事教えてくれないかな」
茜さんは決意した感じで婆ちゃんに語りかけた。
婆ちゃんは暫く迷っていた様だが、やがてこれも決意した様に
「大体はこの前陣が聞いていた通りでね。特に言う事は無いんだけどね……」
「名前はなんて言うの?」
「名前かい……高子、そう青山高子って言う子だった。父親の名は知らないよ。とうとう最後まで言わなかったからね」
「そう、青山って言うんだ……お墓は? 何処にあるの?」
「遠いよ、あの子は九州だから亡くなった後は親が遺骨を持って帰ったからね……行ってみたいのかい?」
「判らない。今は判らないと言うのが正直な処かな」
「あの鞄の生地はねえ。当時あの子は進駐軍のメイドをしていてね。そこの奥さんから貰ったそうなんだ。当時としては上質の生地だから、喜んでねえ。器用なあの子は鞄や巾着や色々なモノを作ったよ」
「そう……だったんだ……」
茜さんはお茶に口をつけると一口飲んで
「ねえ、もし間違ったら御免なさい。その子ってもしかしたらおばさんじゃ無い?」
そう言われて婆ちゃんの様子は恐らく僕が見た婆ちゃんの様子では最も印象的だっただろうと思う。
「ば、バカなこと言うんじゃ無いよ。何処からそんな事が飛びだすんだい。あたしはあんたの親じゃ無いよ」
そう婆ちゃんが言っても茜さんは顔色を変えず
「おばさん、本当に違うの? あたしは今まで密かにおばさんが生みの親だったらどんなに良いかと思っていたの。おばさんこそが本当の親なのではと何回も思ったわ。もう一度訊くけど、おばさんはあたしの生みの親じゃ無いの?」
そのとき、婆ちゃんの眼から一筋の涙が流れ落ち頬を伝わって落ちた。そして
「違うよ、違う!あたしはあんたの生みの親じゃ無いんだよ」
叫ぶ様に苦しげにそう言うと婆ちゃんは自分の部屋に引きこもってしまった。
「おばさん……」
茜さんがその婆ちゃんの部屋を見つめていると、陣さんが
「真実を言えない事もあると言う事か……」
そう言ったのが印象的だった。
後から僕が考えた事だけど、よし悪しは別にしても、子供の斡旋という法に触れる事をしている人がいる。それを望んでる人もこの世にはいる。
法がおかしいのか人の世がおかしいのかは僕には判らない。でも、それを望んで、それで幸せになる人がいるなら、その事によって不幸な人が出ないなら、少しは、少しは良いかも知れない……僕はそう思う。
茜さんが僕の肉親かも知れないという疑惑はとうとうハッキリとはしなかった。でも茜さんは、「おばさんからおばちゃんに呼び方が変わり、たまには「おかあさん」としらばっくれて呼ぶ事もあるらしい(二人だけの時に)
数年後、陣さんと茜さんの間に子供が出来たのを期に二人は籍を入れた。
「俺みたいなのは世帯持っちゃイケナイんだがな」と陣さんが照れていたのが印象的だった。
生まれた子を婆ちゃんは本当に良く可愛がっていた。
それから更に数年後、婆ちゃんが脳血栓で倒れた。その時甲斐甲斐しく介護してくれたのは茜さんだった。(僕も少しやったけどね)
勿論費用は僕の親と叔父が出したが、現実に面倒を見るのは並大抵の事じゃ無い。更に倒れてから1年半後に婆ちゃんはこの世を去った。
死ぬ数日前に茜さんに、涙を流しならお礼を言ったそうだ。
その時茜さんは「産んでくれてありがとう……」と逆に婆ちゃんにお礼を言ったとか……
きっと涙もろくなっていた婆ちゃんは泣いたのだろうか、それとも「あたしはあんたの親じゃ無いよ」と言ったのだろうか?
茜さんは「それは秘密。あたしがお墓まで持って行くから」そう言って笑っていた。
婆ちゃんの死後、花蓮荘は取り壊され、今ではマンションが立っている。その昔、ほんの30年前にここで色々な男女の思いが交差した事を殆んどの人は知らない。
僕も人の親になり、過去の事は言わなくなった。たまに陣さん夫婦と会って話をするぐらいだ。
でも、口には出せないが、僕の心には何時でもあの時の思い出が詰まっている……
花連荘の出来事
了