花連荘の出来事

第10話 口では言えない事 ~こぶしの間~「(完結)」

20070409 154 季節の巡るのは早いもので、いつの間にか僕は志望校を決めなくてはならない時期に来ていた。
今年は僕は予備校の模試でAランクの評価をとっている大学を選ぶ事にした。
 まあ、安全パイと言うヤツだ。

 その日、僕は予備校の帰り、茜さんの店の前を通ると、茜さんが店の前に立っていた。
 茜さんはこの前、やっと部屋を空けてアパートに帰って行ったばかりだ。最もそれからも週に3回は泊まりにくるのだけども……
「今帰り?」
 茜さんは僕に挨拶代わりに話しかけてくれる。僕もいつもの様に「うん、そう。茜さんはどうしたの?店は休み?」
 そう訊くと茜さんは困った顔をして
「そうなのよ。ビールクーラーが壊れてさ、メーカーの人に見て貰ったら部品が無いと直らないって言うからさ、明日になるんだって直るのが」
「そうなんだ。じゃあ今日はお休みなんだね」
 僕が訊くと茜さんは僕を横目で見て
「ねえ、あたしウチの人から聞いちゃったの。生みの親の事。おばさんの親友だったんだって? なんで今まで黙っていたのかな? 理由が聞きたくない?」
 いや理由と言ってもそりゃあ簡単には言えない事でしょう。そう僕が思っていると茜さんは
「それでね、今日お店休みだから、おばさんに訊こうと想って。それでウチの人としんちゃんにも証人になって欲しいの……駄目かな……」
 茜さんはちょっと俯いて親指の爪を軽く噛みながら僕に迫った。正直、こういうの苦手です!
「判ったよ。今日は火曜で、たぶん暇だろうからつき合いますよ」
 そう返事をすると、茜さんはうれしそうに
「ありがとう!しんちゃん!今度たっぷり可愛がってあげるからね」
 なんて事言うのだろう。通る人が笑って聞いてるじゃないか……
「じゃ、あとで……」
 そう言って僕は花連荘に帰った。


「なんだって、今夜訊きに来るって?」
「うん、そう言ってたよ茜さん」
 婆ちゃんは茜さんからの伝言を聞くと
「全く、陣のヤツも上手くなんか言いくるめれば良かったんだよ」
「でも婆ちゃん、何で今まで黙っていたの?」
「そりゃ、それが幸子との約束だからさ。真実なんてこの場合知らない方が幸せと言うものさ」
 そうかな? と僕は思うが、戸籍も何もかも実の子として育てられるのだから、余計な事は知らない方が良いと言うのも一理あると思った。

 夕方、茜さんと陣さんが鮨を手にやって来た。
「おはようございます。おばさんお寿司かって来たから皆で食べようよ」
 さすがに茜さんだ。いきなりは言わない。
 婆ちゃんは「ああ来たのかい」とややぶっきらぼうな言い方で二人を歓迎した。早速、茜さんが慣れた様子で小皿や醤油、それにお茶を入れて食べられる様にする。
 茜さんは陣さんと婆ちゃんにビヤタンを出して奥の冷蔵庫からビールを出して二人に注ぐ。
「いただきま~す」
 真っ先に茜さんが鮨を一つ口に運ぶ。
「うん!誠鮨はいい腕してるわ」
 ご機嫌で箸を進めるとやがて
「ねえ、おばさん、あたしの生みの親の事教えてくれないかな」
 茜さんは決意した感じで婆ちゃんに語りかけた。

 婆ちゃんは暫く迷っていた様だが、やがてこれも決意した様に
「大体はこの前陣が聞いていた通りでね。特に言う事は無いんだけどね……」
「名前はなんて言うの?」
「名前かい……高子、そう青山高子って言う子だった。父親の名は知らないよ。とうとう最後まで言わなかったからね」
「そう、青山って言うんだ……お墓は? 何処にあるの?」
「遠いよ、あの子は九州だから亡くなった後は親が遺骨を持って帰ったからね……行ってみたいのかい?」
「判らない。今は判らないと言うのが正直な処かな」
「あの鞄の生地はねえ。当時あの子は進駐軍のメイドをしていてね。そこの奥さんから貰ったそうなんだ。当時としては上質の生地だから、喜んでねえ。器用なあの子は鞄や巾着や色々なモノを作ったよ」
「そう……だったんだ……」

 茜さんはお茶に口をつけると一口飲んで
「ねえ、もし間違ったら御免なさい。その子ってもしかしたらおばさんじゃ無い?」
 そう言われて婆ちゃんの様子は恐らく僕が見た婆ちゃんの様子では最も印象的だっただろうと思う。
「ば、バカなこと言うんじゃ無いよ。何処からそんな事が飛びだすんだい。あたしはあんたの親じゃ無いよ」
 そう婆ちゃんが言っても茜さんは顔色を変えず
「おばさん、本当に違うの? あたしは今まで密かにおばさんが生みの親だったらどんなに良いかと思っていたの。おばさんこそが本当の親なのではと何回も思ったわ。もう一度訊くけど、おばさんはあたしの生みの親じゃ無いの?」
 そのとき、婆ちゃんの眼から一筋の涙が流れ落ち頬を伝わって落ちた。そして
「違うよ、違う!あたしはあんたの生みの親じゃ無いんだよ」
 叫ぶ様に苦しげにそう言うと婆ちゃんは自分の部屋に引きこもってしまった。
「おばさん……」
 茜さんがその婆ちゃんの部屋を見つめていると、陣さんが
「真実を言えない事もあると言う事か……」
 そう言ったのが印象的だった。

 後から僕が考えた事だけど、よし悪しは別にしても、子供の斡旋という法に触れる事をしている人がいる。それを望んでる人もこの世にはいる。
 法がおかしいのか人の世がおかしいのかは僕には判らない。でも、それを望んで、それで幸せになる人がいるなら、その事によって不幸な人が出ないなら、少しは、少しは良いかも知れない……僕はそう思う。
 茜さんが僕の肉親かも知れないという疑惑はとうとうハッキリとはしなかった。でも茜さんは、「おばさんからおばちゃんに呼び方が変わり、たまには「おかあさん」としらばっくれて呼ぶ事もあるらしい(二人だけの時に)

 数年後、陣さんと茜さんの間に子供が出来たのを期に二人は籍を入れた。
「俺みたいなのは世帯持っちゃイケナイんだがな」と陣さんが照れていたのが印象的だった。
 生まれた子を婆ちゃんは本当に良く可愛がっていた。
 それから更に数年後、婆ちゃんが脳血栓で倒れた。その時甲斐甲斐しく介護してくれたのは茜さんだった。(僕も少しやったけどね)
 勿論費用は僕の親と叔父が出したが、現実に面倒を見るのは並大抵の事じゃ無い。更に倒れてから1年半後に婆ちゃんはこの世を去った。
 死ぬ数日前に茜さんに、涙を流しならお礼を言ったそうだ。
 その時茜さんは「産んでくれてありがとう……」と逆に婆ちゃんにお礼を言ったとか……
 きっと涙もろくなっていた婆ちゃんは泣いたのだろうか、それとも「あたしはあんたの親じゃ無いよ」と言ったのだろうか?
 茜さんは「それは秘密。あたしがお墓まで持って行くから」そう言って笑っていた。

 婆ちゃんの死後、花蓮荘は取り壊され、今ではマンションが立っている。その昔、ほんの30年前にここで色々な男女の思いが交差した事を殆んどの人は知らない。
 僕も人の親になり、過去の事は言わなくなった。たまに陣さん夫婦と会って話をするぐらいだ。
 でも、口には出せないが、僕の心には何時でもあの時の思い出が詰まっている……


 花連荘の出来事

 了


第9話 疑惑 ~けしの間~

  「本当に有難う御座いました」
「いいえ、当然の事ですから」
何度もお礼を言ってその女性は帰って行った。

昨夜の事だった。日付の変わる少し前に「一人でもいいいでしょうか?」
と中年の女性がやって来たのだ。
花蓮荘はお一人様大歓迎なので当然お客として迎えたのだ。
別に事件になるような事は何も起こらず「くちなしのい間」に泊まった女性は朝早く旅立って行った……ハズだった。
その人は僕が婆ちゃんとフロントを交代する寸前に戻って来て「忘れ物をしました」と言って来た。
「部屋は未だ片付けていませんからどうぞ」と僕は言って部屋を開けてあげた。
女性は中に入ると、小さな鞄の様なものを見つけて嬉しそうに
「ありました!これ母の形見なんです。本当に有難う御座いました」
と喜んで帰って行ったのだ……

「という事さ」
僕はその晩、相変わらずアパートに帰らない茜さんに語って聞かせた。
「ふううん。形見か、それも鞄ねえ……あたしも持ってるんだ。形見の鞄……あ、形見かどうかは判らないね。あたしの場合は」
僕は茜さんの物言いが変な感じがしたので、詳しい事を訊きたくなっていた。
「ねえ、それどういう事?」
「ああ、それはねえ、あたし今の苗字の親から生まれたんじゃ無いんだよね」
「え、じゃあ、貰いっ子だったの?」
「さあ、そこがハッキリしないんだ」
「どういう事?」
「うん、話すと長いんだけどね……聴く?」
「うん、訊きたい」
「じゃあ……」
と言って茜さんは話始めてくれた。
「あのね。実はずっとその二人が本当の親だと親が亡くなるまで思っていたんだよね。
とても優しくて、厳しくて、暖かくて……今でも本当の親だと思ってるんだ。
でも、二人が交通事故であたしが高校を卒業する寸前に亡くなってね……
そしたら、二人の血液型が、AとABでね。あたしOじゃ無い、だからその時にね。「ああ、あたしはこの親から生まれたんじゃ無いんだって知ったの……」

茜さんは煙草に火を点けると軽く吸って白い煙を吐いた。
「それで、遺品を整理していたらね。手作りの粗末な布の鞄が見つかってね。
あんまり古いのになんで取って置いたんだろう、って思って中を見たの」
茜さんはそれから少し笑って
「あたし宛の母の手紙が入っていてね。それにはあたしが貰われた事情が書いてあったの」
「なんて、なんて書いてあったの?」
思わぬ展開に僕は先を訊いてしまう。
「それにはね『茜、実は貴方はわたし達の生んだ子ではありません。高校を卒業して社会に出る時に真実を言おうと二人で相談して決めました。ですからこれを読んでるという事は高校を無事卒業したと言う事ですね。おめでとう!
当時、わたし達夫婦には子供が出来ず。寂しい思いをしてました。その時にある方から子供の斡旋を受けたのです。そして会ってみると本当に可愛い女の子の赤 ちゃんでした。わたし達は直ぐにでも欲しいと返事をしました。そして貴方がわたし達の子になったのです。当時は戦後の混乱時期でしたので戸籍も簡単に変え られました。最もちゃんとした産科のお医者さんが出産証明書を書いてくれたので、誰も疑う人はいませんでした。今まで大事な事を隠していてご免なさい』そ う書いてあったわ。一字一句忘れはしないわ……」

「その鞄ってのはなんだったの?」
「ああ、それはね、その手作りの布の鞄にあたしの産着とかオシメとかが入っていて、一言
『育てられなくて申し訳ありません。この子を宜しくお願い致します』って書いた紙が入っていたそうよ。だからその鞄は今でも大事に取ってあるんだ。だってたった一つの生みの親のものだからね」
「へええ、見てみたいな」
僕がそう言うと茜さんは「いいわよ、ちゃんとこっちにも持って来てあるから」
そう言って部屋に取りに上がって行った。

「これよ」そう言って茜さんが見せてくれたのは、本当に粗末な布製の鞄だった。
今では布の色も大半が抜けているので元が何色だったのかは良く判らないが、アルファベットの大文字が並んでいる模様だった。
当時の日本のものにしては垢抜けている感じだ。
「もうかなり古いから実用には使えないけどね。これを見るとあたしは、育ててくれた両親と産んでくれた親と一緒に思い出すんだ。でも産んでくれた人は想像だけどね」
そう言って陽気に笑う茜さんだが、実は僕は、その鞄の模様に見覚えがあった。

茜さんが部屋に戻ってしまうと、しばらくして婆ちゃんが起きて来た。
「寝られ無かったの?」
そう僕が訊くと婆ちゃんは「まあね。お前茜の鞄見たのかい?」
婆ちゃんにしては不思議な事を訊くものだと思い
「見たよ。そういえば同じ様なのがウチ、いやここにあったよね」
僕は先ほどの疑問を婆ちゃんにぶつけてみた
「お前、知っていたのかい」
「うん、まあ見た事があるという処だけどね」
「そうかい、当時流行っていた柄でさ、良く見かけたものだよ」
そう婆ちゃんは言っていたが、いくら僕が子供でも解る。茜さんと婆ちゃんは何らかの関係があるのだと……それに茜さんが言っていた斡旋してくれた人やお医者さんって、佐藤先生じゃ無いのだろうか?
若しかしたら……茜さんを生んだのは……」
そこまで考えているとばあちゃんは
「茜はあたしの子じゃ無いよ」
そう先制攻撃されてしまった。
「違うの?」
僕は更に問い正した。

婆ちゃんはロビーのソファに腰掛けると煙草を出して火を点けた。
紫煙をくゆらせながらため息をつくと
「茜はねえ。当時のあたしの友達の子なのさ。戦後の混乱期だった、その子は不倫の子を宿してね。降ろせと言われたけど、産んでしまったのさ」
「意地で生んだの?」
「いいや、その子は肺を病んでいてね。あの頃は皆栄養が悪いから直ぐに結核に掛かってね。いつ死ぬかも判らないから、せめて自分が生きた証拠に子供が出来たならせめて産んでおきたいって言ってね。それにストマイなんかは高くて庶民には手がでないじゃ無いか」
「じゃあ……」
「ああ、生んだらお腹で止まっていた病気が一気に全身に廻ってね……」
婆ちゃんは煙草の火を消すと僕に向かって
「もう解るだろう、後は幸子に頼んでさ……」
「じゃあ、あの同じ柄の巾着は……」
「ああ、その子の形見だよ」

それだけを言うと婆ちゃんは自分の部屋に戻って行った。
僕は事実だけを重く受け止めて、その頃の事に想いを馳せたのだ。
でも、玄関の陰で陣さんが隠れていたのに気がついた。
「あ、陣さん…‥どうしたの、そんな所に隠れて?」
僕がそう言うと陣さんは苦笑いしながらフロントにやって来た。
「婆さん寝たのか?」
そう短く訊くので僕も簡単に返事をする「うん、寝たよ」
「そうかあ、婆さん嘘をついてるな」
陣さんはそう言い切った。何が嘘なのだろう?
僕は陣さんの顔をまじまじと見つめてしまった。
「そんな顔して俺を睨むなよ坊主!」
陣さんはロビーに座るとコーラを取り出して、栓を抜き一口、くちをつけた。
「なあ坊主、俺は茜とは長い付き合いだ。アイツの育ての親が交通事故で亡くなって、アイツの処に賠償金やら二人の遺産やらが一気に集まって来た」
陣さんは二口目を飲み込むと
「そうなりゃ、その金目当てに良くないのが集まって来るという寸法だ。そんな時に俺はアイツと知り合ったんだ」
僕は始めて二人の馴れ初めを聞いている。でもそれと婆ちゃんと茜さんの関係とどう繋がるのだろう? それが不思議だった。
「俺は最初そんな事は知らなかったのだが、アイツを取り巻いてる奴らの中に良くない顔見知りが居たんだ。で、こいつは、ぼやぼやしてると身ぐるみ剥がされてしまうと思ってな、その金を強制的に預金させたんだ。そして俺を通さないと何も出来ない様にしたんだ」
「で、どうなったの?」
「ああ、それで今に至るという訳さ。金は今でも一文も手を付けていない。店も俺の稼ぎで持たせているんだ」
以外だった。陣さんも組織の一員だから、結構そのあたりは自分の物にしてると思っていたのだ。
「そしてここの馴染みになった時に俺は感じたんだ。茜とばあさんが同じ匂いのする人種だという事を……」
陣さんは空になった瓶をケースに入れると
「俺のこういう感は外れた事が無いんだがな。でもここまで来て婆さんがシラを切る理由が判らんな」
僕はどっちが本当なのだかもう判らなかった。
確かに茜さんと婆ちゃんはなんとなく似ている部分もあると僕も思っていたのだ。
「まあ、急ぐ事は無い。真実は一つだからな」
そう言い残して陣さんは部屋に行こうとする。僕は慌てて
「陣さん!今の事茜さんに……」
「言うわけ無いだろう。その時は必ずやって来る。慌てなくてもな……」
陣さんはそう言って僕に片目を瞑ると2階へ上がって行った。

僕は只それを見送るしか無かった……

第8話 命の価値 ~くちなしの間~

   僕が予備校から帰って来ると婆ちゃんは
「お前明日も予備校行くのかい?」
そう訊いてきたので僕は一応もっともらしく
「うん、行くつもりだけど……なんかあるの?」
と訊いてみた処、明日友達と歌舞伎を見に行くのだそうだ。
ついては、留守番件フロントの仕事をして欲しいという事で
「バイト代は5千円だすから」という婆ちゃんの申し出に僕は即決で快諾した。
予備校なんて毎日行かなくても良いのだ。
僕にとっては5千円の方が遥かに大事で、貧乏な予備校生には有難い話である。
婆ちゃんの見に行くのは夜の部なので、夕方に華連荘を出て行った。

「しんちゃ~ん。御飯たべましょう!」
茜さんが台所からロビーに夕飯のおかずを並べて御飯を盛り、僕を手招きして呼ぶ。
茜さんはもうひと月以上経っていて、アポートの改装も終わったのに、未だに出て行かない。
「だって、ここに居ると暖かいんだもん」
それが茜さんの理由だ。
まあ、いいんだけどね。それに何故か婆ちゃんも部屋代を半額にしたままなのだ。
理由は訊いてないけど、急に変えるのも面倒臭いのかも知れない。
「今日はハンバーグよ。好きでしょう!ウチの人も好きなのよ」
そう言って4人のハンバーグを載せたそれぞれのお皿をテーブルに並べる。
お皿にはマッシュポテトと人参が綺麗に飾り切りされて載っている。
こういうのを見ると茜さんは家庭に憧れているのかも知れない。
2階から陣さんも降りて来て3人で夕食を採る。

食べながらなんとなく窓から外を見ると、この花蓮荘の斜め前に電話ボックスがあるのだが、
そこに誰か入った様だった。
今日は昼過ぎからしとしと雨が振り出し、この時間でも止んでいない。
傘が必要か要らないか迷う程度の雨が降り続いている。

ふと視界の隅にオレンジ色の光が目に入る。
「なんだろう」と思いその方向を見ると、電話ボックスからオレンジ色の炎が立ち上がった。
「ボン」という軽い音もしたかも知れない。
「あ、火、電話ボックスで火だ!」
僕は思わず声に出して叫ぶと、陣さんが窓から半身を乗り出して確認している。
茜さんは台所へ行くとバケツに水を汲んで、玄関から急いで電話ボックスへ駆けて行く。
僕も残りのバケツに水を汲んで出て行こうとすると陣さんが
「俺がそれをやるから、電話しろ!”消防と110番に!」
僕は云われた通りに受話器を取るとダイヤルを廻す。
窓越しに見える限りでは、どうやら人が焼身自殺を謀ったようだ。
陣さんが火を消して、人を表に出している。雨に当ててる様だ。
火傷しているだろうと思う。
僕はもうすっかり慣れた調子で電話をして、今度は警察に電話をする。
そして「もしかしたら焼身自殺かも知れない」旨を伝える。
そして僕も電話ボックスへ急いだ。

そいつは男だった。陣さんが
「こいつ頭から石油かぶりやがって、火を付けやがった。そしたら髪の毛が燃えて
服に火が移って熱いもんだから服を脱ぎやがった」
陣さんが早口で説明してくれる。
「止めるくらいならやんなきゃ良かったんだ」
陣さんは茜さんが汲んで来たバケツの水をその男にかけてやる。
男は電話ボックスの外で小雨に打たれながら、膝小僧を抱えて体育座りをしている。
頭はチリチリに焼けて、顔も真っ黒で、人相も判らない。
「かずちゃん、かずちゃん。酷いよ、酷いよ」とぶつぶつ言っている。
陣さんが「こいつ女に振られての自殺か?」
そう言って男の顔を覗き込む。

「きみ、大丈夫?痛く無い?」
茜さんが男に訊くと「はい、少し痛いです」と言って腕を差し出すと、すでに腕は水ぶくれで腫れていた。
「うわあ~これはお医者さんで無いと駄目だわ」
茜さんはそう言って持って来た氷を当ててやるが焼け石に水だった。
気がつくと、女の子が目の前に立っていた。

僕はその顔を見て、先ほど「くちなしの間」に大学生らしき男と入った娘だと思った。
「お客さんの知り合いですか?」
そう僕が訊くと、その娘は引きつった顔で
「知り合いなんかじゃ無いわよ。こんな奴。だから私は迷惑だって何回言えば解るの!」
そう吐き捨てる様に言った。
そう云われてその男は
「だってかずちゃん、急に冷たくなるんだもん。俺、一度でいいから話聞いて欲しくて……」
そう哀願する様に言うと娘は
「だから、私は話なんか無いの!あんたが貯金無くなったら関係が終わるって前から言っていたでしょう」
「だから、だから俺は最後にせめてお礼が言いたくて……」
「だからぁ、それも迷惑なんだよね」
そう言って、男を蹴ろうとした時だった
「ちょっと待ちなよ。あんたおんなじ女として最低だね。男を騙して金を巻き上げるのは構わないけど。騙すなら最後まで気持ち良く騙してやんなよ。それも出来ない小娘なんかこの人に何かする資格なんか無いね」
茜さんが怒りの表情でその娘に言うと流石に貫禄の違いとでも言うのだろうか黙ってしまって花蓮荘に帰って行った。
救急車の音が直ぐ傍まで聞こえてきた。
「あんた、あんな女の為に命を粗末にする事は無いよ。でも命を捨てるくらいなら、何でも出来たと思うけどね……」
茜さんがそう言うと、男は泣きながら礼を言っていた。
救急車が到着して、陣さんや茜さん、それに僕が事件の証言をした。
隊員が「火傷はちょっと酷いですが面積的には大丈夫ですので、命に別状は無いでしょう」
そう言って応急手当てをして貰って救急車に乗り込んだ。

野次馬もかなり居たが、救急車が去って、パトカーもいなくなると次第に居なくなって行った。
その頃だ、婆ちゃんが青い顔をして帰って来た
「大丈夫かい? 駅降りたらさ知り合いが『花蓮荘が火事で孫が火傷で大変で女の子も大変な事になってる』って言うからさ、もう久しぶりに走ってしまったよ」
僕は、今迄の経緯をちゃんと話して婆ちゃんを安心させた。
さすが茜さんの事まで心配するとは婆ちゃんは人が出来ていると思った次第だ。


「御飯食べ損ねたね。皆揃ったからもう一度食べようよ」
茜さんの提案で今度は4人で座ってテーブルに着いた。
「やっぱり4人揃うと味が違うね」
そう言って嬉しそうだった。

それから2階の「くちなしの間」の二人は帰る時も一言も口を利かなかった。
それを見ながら婆ちゃんは
「ほっときな!いずれああ言うのには報いが来るんだよ」
そう言ったのが印象的だった……

第7話 自殺志願 ~菊の間~

  その晩、日付の変わる少し前に訪れた30代と思われる女の人は茜さん曰く
「ちょっと変」と言う事なので僕は1時間間隔で菊の間の前を様子を見て歩いていた。
何か問題でも起こされたら大変だからだ。
警察なんかに突っ込まれて、根掘り葉掘り訊かれたら困るからだ。
2時を廻った頃だろうか、茜さんが降りて来て
「なんか生臭いのよね」と言うではないか。
僕は「生臭いって魚臭いの?」と今から思えばトンチンカンな事を聴いていた。
陣さんも降りて来て
「坊主、あの部屋の女じゃ無いのか?」
と言う。陣さんがこんな事言うのは珍しいので僕は意を決して菊の間に行ってみた。
先ほど見廻った時は何でも無かったのだが……

部屋の前迄来ると確かに変な匂いがする。
確かに生臭いのだが、魚等ではない。
何の匂いだろうと思っていると、何やら微かに声が聞こえる。
耳を済ませて聴いてみると
「……すいません……ごめんなさい……」と聞こえる。
僕はとっさに閃いて、部屋の襖を開けようとしたが、内側から鍵が掛かっているので、二枚の襖ごと敷居から外して一気に取り去った。
そして僕が見た光景とは、何と風呂場から持って来たであろう洗面器に右腕を晒し
左手でナイフを使って、手首を切って血を貯めている光景だった。
「何してるんですか!」
そう大声を出して、ナイフを取り上げる。
そして、大声で階下の陣さんと茜さんに「救急車呼んで!自殺!リストカットだ!」と叫んだ。

それを聴いて陣さんが上がって来て、自分の部屋(茜さんの部屋だね)から包帯を持って来た。
そして手首を巻くと言うより締め上げる感じで止血する。
もう洗面器一杯になろうとした血は鈍く光っている。
「人の血って沢山あるとこうなるのか」と心に思ってしまった。
茜さんが電話してくれたのだろう、救急車のサイレンの音が聴こえ始めた。
僕はその音が中々近づか無い感じがしてしまったが、実際はそうでも無かったのだろう。

やがて、救急車と消防車が到着して救急隊員が菊の間に上がって行く。
僕は救急車が花蓮荘に来るのは2回めなので前より若干落ち着いていた。
陣さんの止血が良かったみたいで命は大丈夫だとの事だったが、
「もしかしたら血液を輸血しないとならなくなるかも知れません」
そう言うので、僕は「僕で良ければ構いませんが何型ですか?」
と聞くと「患者さんに聞いたらO型だそうです」と言う。
僕もO型だと言うと陣さんは「俺はAだから駄目だな」
茜さんは「私もOよ」と言う。
確か婆ちゃんも同じだったと思い出した。
そのうちにパトカーが来て色々と事情を聴いて来るので、僕は見た事をそのまま警察に話した。
僕はもう19歳なので、別にこの時間労働していても構わ無いのだそうだ。
それに家業を手伝っているのは労働に当たらないそうだ。
婆ちゃんも起きて来て、責任者なので色々と応対に当たっている。
それやこれやで夜が白々と明けて来てしまった。

自殺未遂の人は警察が付き添い病院に送られた。
僕は部屋にはいると洗面器に貯まった血を流しに流して、綺麗に洗った。
正直もう使いたくは無い。
婆ちゃんも買い換えると思う。
婆ちゃんが「お前、ご苦労だけどもう一度警察に訊かれるかも知れないから覚悟しておくんだね」
そう忠告してくれる。
僕は、取り敢えずそんな事はどうでも良くなっていて、お腹が空いているのに関わらず
食欲が湧かないのが変だと思っていた。

それから暫くは何だかんだと落ち着か無い日が続いていた。
僕も毎日は予備校には通えなかった。
最もこの頃になると、予備校も春の半分も生徒は来ておらず。
人気の無い講師の授業はそれは悲惨だった。
僕は予備校で知り合った友達には家の事は何も話さなかった。
僕は冗談で「茜さんも僕も同じ血液型だったよ。最もOも大勢居るからね。そうだ婆ちゃんも同じだよね?」
そう訊くと婆ちゃんは
「お前がOならあたしだって同じだろう! 当たり前じゃ無いか」
何故かつまらなそうに言う婆ちゃんだった。

それから暫くして判った事は、あの自殺未遂の人は亭主に逃げられてから精神的に可笑しくなり、あちこちで自殺のまね事をしている常習者だったそうだ。
只、今回はかなり本気だったと見えて、かなりの出血にも関わらず、自分からは騒がなかったので、一応本当の自殺未遂として扱われたそうだ。
全く迷惑千万なのでこういう事はやりたければ、自分の家でやって欲しいものだと思う。

同じ血液型だと判った茜さんは、増々婆ちゃんと親しさを増した様だ。
僕もいよいよ志望校を決めないと行けなくなって来た。
今度は合格120%の所を選ぶ積りだ。
でも、茜さんと婆ちゃんやたら仲がいいような感じがする……気のせいかな……

第6話 同居人 ~カンナの間~

僕が婆ちゃんとフロントを交代して直ぐに茜さんが顔を出した。
「あ、いらっしゃい、いつもの部屋でいいですか?」
僕がそう訊くと茜さんは
「今日は違うのよ。おばさんにお願いがあって来たの」
それを聴いたのか婆ちゃんは自分の部屋からビールの大瓶とビヤタンを2個持って出て来て
「あたしに何の用だい?」
そう言って、茜さんをロビーに座らせビヤタンを置いてビールを並々と注ぐ。
白い泡が盛り上がり、旨そうな音を立てる。
「ま、取り敢えず飲もうや」
そう言ってグラスを合わせて飲み込む
茜さんも喉を鳴らしながら飲み込む。
「ああ、美味しい!」
本当に美味しそうにこの人は飲むと思う。
「で、なんだい、頼みって?」
そう云われて茜さんはちょっと言い難くそうに
「あのね、おばさん。わたしをひと月置いてくれないかな?」
「なんだい、それは。うちはアパートじゃ無いんだがね」
「うん、それは判っているんだけど、実はね私の入ってるアパートがね、改装と言うのかな、最近の言葉だとリ・ニューアルと言うのかな、なんか直すらしいんだよね」
そこまで言って茜さんはビールを口にして
「それで、その間だけ部屋を貸してくれないかな……なんて思って……」
婆ちゃんはビールを飲みながら聴いていたがビヤタンを置いて
「なら仕方ないけど、住めないのかい?」
「うん、その間ガスも電気も止めるんだって……だから……」
「じゃあ、角のカンナの間を使えばいいよ」
「本当!おばさん有難う!本当に恩に着るわ!」
「勘違いしたら困るよ何でもタダで貸す訳じゃ無いんだからね」
「もう、嫌だおばさん、当たり前じゃない。ちゃんと部屋代は払いますよ」
そう言って茜さんは来週からひと月この花蓮荘に住む事になった。
後から婆ちゃんに訊いた処部屋代は通常の半額にしてあげたそうだ
「だって、あの娘からお金を巻き上げる訳には行かないだろう」
それが婆ちゃんの理屈だった。

翌週から本当に茜さんは身の回りの荷物を持って引っ越して来た。
「必要な物は取りに帰れば良いから必要最低限の物だけにしたんだ」
茜さんはそう言って何やら嬉しそうにしている
「何がそんなに嬉しいの?」
僕は上機嫌の茜さんに訊いてみた
「当たり前じゃない。だっておばさんやしんちゃんと同じ屋根の下で暮らすのよ」
まあ、当たり前の事だと思うのだが、もしかして茜さんは本当は寂しがり屋なのかも知れないとその時思った。

でも、身近に居ると、色々な事が分かって来る。
以外と綺麗好きで、部屋の掃除なんかも熱心にやっているそうだ。
それに、これは当たり前だが、料理が得意で台所を借りては料理を作り、僕やばあちゃんと一緒に食べるのが多くなった。
「こうしてると、まるで家族みたいね」
なんて言って喜んでる。
夜遅くだとそこに陣さんも一緒に加わるのだ。

花連荘には相変わらず変わった人がやって来る。
先ほど来た人は女の人で30代ぐらいだろうか?
一人で来て、僕が「後からお連れさんが来ますか?」
と問うと
「いいえ、私だけです。一人では駄目ですか?」
と訊くので僕は
「いいえ、料金さえ払ってくれたら構いません」と言うと安心したように思えた。
この頃の連れ込みはおひとり様お断り、という所がほとんどだったのだ。
だから、一人でも利用できるウチなんかはその面でもお客の利用があったのだ。

女の人を案内して降りてくると、茜さんがフロントに座っていた。
「店番もしてくれるの?」
と冗談を言うと茜さんは
「どこに通したの、今の人?」と真剣に訊いて来るので僕は「菊の間だよ」と答える。
「あのね、おばさんには言わなくてもいいけど、今の人なんかヤバい感じがする」
茜さんはそう言って2階を見つめるのだ。
僕は茜さんに「何がヤバいの?」と訊いてしまう。
そんな変な感じはしなかったからだ。
「なんかね、変に暗かったでしょう。思い詰めてる感じと言うのかな。なんかね」
茜さんも若いけど水商売の人だ。人を見る目は持っていると思う。
「じゃあ、それとなく部屋の前を見回ってみる事にするよ」
「うん、それが良いと思う。じゃあわたしは帰るからね」
「ああ、おやすみなさい」
「おやすみ、しんちゃん」
そう言って茜さんは部屋に帰って行った。

事件はそのあと起こった……

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