私の体はすっかり治った訳ではありませんが、かなり良くなりました。
宮田先生も「良くこれほどまで回復したね」と言ってくれました。
そうなると、家の用事が待っています。
朝早く起きて市場に仕入れに行き、帰ってきて皆の朝ご飯の支度をして、片付け、洗濯、掃除とやるともう11時近くになります。
お昼の用意をして、店の方に行き、夜のお客さんの仕込みをします。
終わるのはもう3時過ぎになります。
家に帰って洗濯物をたたみ、夕飯の支度をして店に帰ります。
5時ごろからお客さんの料理をこしらえ始め、お姉さん方に運んで貰います。
そして、全て出し終わるのが7時頃でしょうか、それから自分達の夕飯を食べます。
ありあわせのもので済ますのです。
お客さまが帰って片付けが終わるのが9時半~10時頃です。
それから家に帰って息子の顔を見ます。
やっと、ほっとする時間です。
お風呂に入り、終い湯で湯船を洗って、11時には床につきます。
これが、その頃の私の一日でした。
余裕はありません。
当然、働いた報酬もありません。
姑いわく、「家の仕事に報酬なんか払えないし、第一嫁に払う金なんか無い」
そうハッキリと言われました。
二言目には「嫌なら出て行け!」これが口癖でした。

その内に、夫の兄弟は独立して家庭を持ち始めました。
結婚して世帯を別にしたのです。
姑は家の傍を希望していた様ですが皆、1時間以上掛かる千葉に引っ越して行きました。
残った娘、夫の妹も恋人を作り結婚すると言い出しました。
この娘は末の子だけに我侭一杯に育てられたので、言い出したら聞きませんでした。
お腹が大きくなり、姑はショックで寝付いて仕舞いました。
「あんな、田舎出の男じゃ無く、良い家に嫁がせたのに」
そう言っていましたが、本人はもう夢中でした。
そんな姑に私は「お義母さん、良い家だったら、こちらは一切口出し出来ないけれど、あの人なら、お義母さんの意の侭でしょう!」
それを聴いて姑は考えを改めた様で、渋々でも結婚を認めました。

でも、それからは、店の売上のかなりをこの娘夫婦につぎ込み始めたのです。
やがてはそれが自分にのしかかって来る事になるのですが……

ある日、こんな事がありました。
姑の幼なじみの人が、息子や娘から小遣いを貰ってると言う事を聴いた姑は
自分も欲しいと言い出しました。挙句
「なんでお前らは私に小遣いをよこさないんだい」
と文句を付けました。
夫を始め、殆んどの兄弟は黙っていましたが、男の子で一番末のデパートに勤務している子が
「店の売上や実権をみんな、義姉さんに渡せば、使い切れないぐらいやるよ。何もかもみんな握っていて、小遣いよこせとは呆れるよ」
そうはっきりと言ったのです。
この子は親の援助を一切受けず、自力で現金で家を立てた程しっかりとしていた子でした。
10代の頃は不良だったのですが18になったら真面目になる。と言ってて、事実18歳の誕生日には、髪の毛も切って不良を止めた様な子だったのです。
流石に姑も言葉が出ませんでした。

そして、夫とその弟の後押しもあり、私は雀の涙程ですが、日当を貰える様になりました。
それは、私が嫁いでから15年も経っていました。

家の方の借金ですが、登記上はウチの名義なのに良く判らない土地が見つかり、その土地は公園と隣接していたので、都が買い上げる事になり、その売却益で返済が出来ました。
これにもやはり15年かかって仕舞いました。
昔は土地のこと等はいい加減な事が多かったそうですが、これもその一つです。

息子は私たちの事を見て育ちましたから、「親と同じ料理の世界には行かない」と言っていました。でも大学受験を控えたある日
「俺、受験に失敗したら調理師学校に行くから」
そう言ってわたし達を喜ばせました。
そうです。お分かりと思いますが息子は実力以上の大学ばかり受験し、尽く落ちて仕舞いました。そして調理師学校に入ったのです。

そんなある冬の日でした。
姑が脳梗塞で倒れたのです。
私は、容態が落ち着くと、近くの病院に入院させました。
ここは介護の人が必要で、入院費と合わせると1日7000円かかりました。
「高額医療費」で半分は返って来ますが、三ヶ月先のことです。
その間のお金のやりくりが大変でした。

中々回復が見込め無いので、私は知人が言っていた、箱根仙石原の温泉病院に入院させる事にしました。
この時まで、倒れてから半年経っていますが、あの下の弟が何回か来ただけで、娘は1度、上の二人はちらっと顔を見せただけでした。
姑は利けない口を動かして「あんなにしてやったのに……」と口ずさんでは泣いていました。
でも正直、全ては遅かったのです。
借金が返済して、土地の抵当が外れ、名義を変更しなくてはならなかったのですが、私と夫は
「夫の名義にしてくれる様に頼みました。そうすれば後々楽だと思ったからです。
でも姑は兄弟の共同名義。建物は真ん中の弟の名義にしてしまったのです。
この為、私と夫は後々まで借金をして名義変更をする事になるのです。

そう全ては遅かったのです気が付くのが……
それからは「お前、あれ、名義、早く、変え」と何回も言いますが、そんなお金等一切ありあません。
第一姑は忙しかった1月の売上の殆んどを娘に持って行ってしまっていたのです。
入院の保証金さえありませんでした。

それからは「すまなかった。すまなかった」と何遍も言ってくれましたが、正直後の祭りでした。只、あのまま亡くなってしまうよりは良かったです。
温泉病院には1年半いましたが、病院から「我侭でリハビリもちゃんとやらないので退院して欲しい。順番を待っている人が沢山いるので」と言われ、帰ってきました。
最初の病院に入院させましたが、我侭なので、今度は家族が交代で下の世話等を見る事にしました。
この点では息子に髄分世話をして貰いました。
息子は学校の合間に病院に寝泊まりして世話をしてくれたのです。
そんな、姑でしたが、それから半年後、腎臓がひどくなり、段々衰弱して行きました。
もう臨終が近いと言われ夫の兄弟が呼ばれましたが姑は
「もういいよ。あんなの来なくても」
そう言って永眠したのです。
思えば可哀想な人だったのかも知れません。
息子だ、娘だと湯水の如くお金を注ぎ込んだ子供には見向きもされず。
亡くなる時に枕元にいたのは、私と夫と末の弟の三人でした。
私の息子は店で料理を担当していて来れませんでした。

20年以上に渡った、私と姑の戦いもこの日で終わったのです。