その晩、日付の変わる少し前に訪れた30代と思われる女の人は茜さん曰く
「ちょっと変」と言う事なので僕は1時間間隔で菊の間の前を様子を見て歩いていた。
何か問題でも起こされたら大変だからだ。
警察なんかに突っ込まれて、根掘り葉掘り訊かれたら困るからだ。
2時を廻った頃だろうか、茜さんが降りて来て
「なんか生臭いのよね」と言うではないか。
僕は「生臭いって魚臭いの?」と今から思えばトンチンカンな事を聴いていた。
陣さんも降りて来て
「坊主、あの部屋の女じゃ無いのか?」
と言う。陣さんがこんな事言うのは珍しいので僕は意を決して菊の間に行ってみた。
先ほど見廻った時は何でも無かったのだが……

部屋の前迄来ると確かに変な匂いがする。
確かに生臭いのだが、魚等ではない。
何の匂いだろうと思っていると、何やら微かに声が聞こえる。
耳を済ませて聴いてみると
「……すいません……ごめんなさい……」と聞こえる。
僕はとっさに閃いて、部屋の襖を開けようとしたが、内側から鍵が掛かっているので、二枚の襖ごと敷居から外して一気に取り去った。
そして僕が見た光景とは、何と風呂場から持って来たであろう洗面器に右腕を晒し
左手でナイフを使って、手首を切って血を貯めている光景だった。
「何してるんですか!」
そう大声を出して、ナイフを取り上げる。
そして、大声で階下の陣さんと茜さんに「救急車呼んで!自殺!リストカットだ!」と叫んだ。

それを聴いて陣さんが上がって来て、自分の部屋(茜さんの部屋だね)から包帯を持って来た。
そして手首を巻くと言うより締め上げる感じで止血する。
もう洗面器一杯になろうとした血は鈍く光っている。
「人の血って沢山あるとこうなるのか」と心に思ってしまった。
茜さんが電話してくれたのだろう、救急車のサイレンの音が聴こえ始めた。
僕はその音が中々近づか無い感じがしてしまったが、実際はそうでも無かったのだろう。

やがて、救急車と消防車が到着して救急隊員が菊の間に上がって行く。
僕は救急車が花蓮荘に来るのは2回めなので前より若干落ち着いていた。
陣さんの止血が良かったみたいで命は大丈夫だとの事だったが、
「もしかしたら血液を輸血しないとならなくなるかも知れません」
そう言うので、僕は「僕で良ければ構いませんが何型ですか?」
と聞くと「患者さんに聞いたらO型だそうです」と言う。
僕もO型だと言うと陣さんは「俺はAだから駄目だな」
茜さんは「私もOよ」と言う。
確か婆ちゃんも同じだったと思い出した。
そのうちにパトカーが来て色々と事情を聴いて来るので、僕は見た事をそのまま警察に話した。
僕はもう19歳なので、別にこの時間労働していても構わ無いのだそうだ。
それに家業を手伝っているのは労働に当たらないそうだ。
婆ちゃんも起きて来て、責任者なので色々と応対に当たっている。
それやこれやで夜が白々と明けて来てしまった。

自殺未遂の人は警察が付き添い病院に送られた。
僕は部屋にはいると洗面器に貯まった血を流しに流して、綺麗に洗った。
正直もう使いたくは無い。
婆ちゃんも買い換えると思う。
婆ちゃんが「お前、ご苦労だけどもう一度警察に訊かれるかも知れないから覚悟しておくんだね」
そう忠告してくれる。
僕は、取り敢えずそんな事はどうでも良くなっていて、お腹が空いているのに関わらず
食欲が湧かないのが変だと思っていた。

それから暫くは何だかんだと落ち着か無い日が続いていた。
僕も毎日は予備校には通えなかった。
最もこの頃になると、予備校も春の半分も生徒は来ておらず。
人気の無い講師の授業はそれは悲惨だった。
僕は予備校で知り合った友達には家の事は何も話さなかった。
僕は冗談で「茜さんも僕も同じ血液型だったよ。最もOも大勢居るからね。そうだ婆ちゃんも同じだよね?」
そう訊くと婆ちゃんは
「お前がOならあたしだって同じだろう! 当たり前じゃ無いか」
何故かつまらなそうに言う婆ちゃんだった。

それから暫くして判った事は、あの自殺未遂の人は亭主に逃げられてから精神的に可笑しくなり、あちこちで自殺のまね事をしている常習者だったそうだ。
只、今回はかなり本気だったと見えて、かなりの出血にも関わらず、自分からは騒がなかったので、一応本当の自殺未遂として扱われたそうだ。
全く迷惑千万なのでこういう事はやりたければ、自分の家でやって欲しいものだと思う。

同じ血液型だと判った茜さんは、増々婆ちゃんと親しさを増した様だ。
僕もいよいよ志望校を決めないと行けなくなって来た。
今度は合格120%の所を選ぶ積りだ。
でも、茜さんと婆ちゃんやたら仲がいいような感じがする……気のせいかな……