僕の家は戦前はかなり大きな資産家だったそうだ。
この辺も今は家が建ち並んでいるが、その当時は辺り一面の田圃だったとか。
だから我が家は農家の傍ら土地を貸して生計を立てていたそうだ。
そこの一人娘として生まれたのが婆ちゃんで、その昔はなんとか小町とも呼ばれたそうだ。
10代の頃に婿を取らされ家を継がされたのだが、戦争で夫である爺ちゃんが亡くなり子供を残されて結構大変だったらしい。
戦後の農地改革であらかたの土地を手放してしまい、しかも女手で農家は出来ないと思った婆ちゃんは、この花連荘を建てて今の商売を始めたのだ。

「なんでこの商売をはじめたの」と訊いた事があるが
「日銭が入るだろう。だからさ。それに仕入れなんかも要らないしね」
以外と合理的な考えの婆ちゃんらしいと、そのときは思ったものだ。

戦後女手一人で3人の子供を育てた婆ちゃんだが、実はもう長い関係の恋人がいる。
この近くの川沿いにあるある会社の会長だ。
規模的には中企業とも言う存在で、そこの創業者で今は社長を息子さんに譲っている。
かなり早くに奥さんを病気で亡くなされて、それ以来独り身を貫いていたのだが、どういう訳か婆ちゃんと親しくなった。
婆ちゃんは今年還暦だが、会長さんは65くらいだろうか、精力的な感じの人だ。

会長さんは一月に2〜3回ほど花連荘にやって来る。婆ちゃんとの逢瀬を楽しみに来るのだ。
その日は婆ちゃんは朝から機嫌が良い。
まあ、婆ちゃんは孫の僕から見てもかなり若く見えるので、そういう年代の人からはかなり魅力的に見えるのだろうか……

「お前今度の土曜は用無いだろう? フロント代わりにやってくれないか」
そう言って婆ちゃんは僕にフロントの仕事を頼む。
アルバイト代はいつもの3倍だそうだ。
最も3千円だけどね。
その日は朝から婆ちゃんはソワソワしていて、会長さんの好きだというおつまみなんかを作っている。
チーズに板海苔を巻いたり、ガラスの器に氷を入れてそれにキューブ状のレーズンバターを乗せたりしている。
誠鮨から出前も取り寄せている。
「あの人はこれが好きだからね」と用意しているのはジョニ黒だ。
この頃は昔より大分安くはなっていたが、やはり高級ウイスキーの代表ではあった。

土曜の11時頃になると黒塗りの車が玄関に横付けされて、中から老年の紳士が降りて来た。
婆ちゃんはいそいそと、出迎えて一緒に2階に上がって行った。
僕はとりあえず、夕方まで留守番をする。

昼を少し過ぎた頃だろうか、常連さんのおじさんがやって来た。僕のいつも居る夜間はあまり来ないが、昼は結構利用してくれるおじさんだ。
この人は、いつも一人でやって来て、相手を呼ぶのだ。

ウチも商売だから、その筋の組織を幾つか知っている。
陣さんをはじめ、紹介してくれる人もかなり居るが、ウチは前にお客から「中間搾取をしているだろう」と言われて婆ちゃんは怒り、それ以来その商売の電話番号を教えるだけにしている。
「呼ぶなら勝手に呼んでちょうだい」と言うスタンスだ。
この常連のおじさんはウチに来る前に電話をして都合をつけてからやって来るのだ。

おじさんを「えびの間」に案内して下に降りて来ると間もなく、めがねを掛けた上品そうな30代の主婦らしき人がやって来た。手には買い物カゴを持っている。
とても知的な感じで、上品な人だと感じた。
買い物カゴを持っていなければ、中学の数学の教師かと思ったくらいだ。
その人がフロントで「あのう、先ほど一人で来られた方……」と言ったので僕はすぐに判り、「こちらです」と言って先ほどの「えびの間」に案内する。

このおじさんが贔屓なのは陣さんの組織がやっている所だそうだ。
おじさん曰く「品ぞろえが良い」のだそうだ。
そんな事を考えていたら、2階から誰か早足で降りて来る。
まさか婆ちゃんじゃ無いよな? と思っていると、さきほどのめがねの人だった。
フロントから見ても息が荒いのが判る。
おまけにブラウスのボタンがちゃんと掛かってないので、胸が開いていて、深い胸の谷間が覗いている。
「着やせするんだな」自然とそう思った。
その人は「はあ、はあ」と本当に息を乱して、髪もやや解れぎみで、僕の視線に気がついたのか、片手で胸元を押さえて「先に帰ります」と言って姿を消した。

その女の人が去った後には、化粧の匂いに女の匂い、それに男の精の匂いが混じった香りがしていた。
「ああまで急いで帰らなくても……」
そう僕なんかは思っていたのだが、小一時間もしたらおじさんが降りて来て精算した。
「ずいぶん急いで帰りましたね」
そう言うと、おじさんは
「いや〜急いで帰らないと、子供と旦那が家で待ってるからだろう」
とニヤニヤしながら言う
「やっぱり主婦だったのですか?」
「主婦って言うなよ人妻だよ! たまらんぜ」
そう言って帰って行った。
昼間は昼間の事情があるのだとそのときは思ったのだ。

夕方になると、会長さんと婆ちゃんが下に降りて来る。
すでに車が迎えに来ている。
ばあちゃんは「それじゃうーさん、また」
そう言って車まで会長さんを送り手を振る。
それを見ながら僕は「婆ちゃん青春してるな」と思うのだった。

それから数日後、僕は予備校の帰りに婆ちゃんに頼まれた品を買いに駅前のスーパーで買い物をしていた時だった。
僕の目の前を、見た人が通り過ぎて行く。
その人は30代の主婦でめがねを掛けていて、まるで「中学の数学の先生」を思わせる人だった。
「あのときの人だ」そう瞬間に判ったが口には出さないし、向こうも知らん顔している。
僕も知らん顔で横目で見ていると、左の手には5歳位の女の子を連れていた。
その光景は幸せそうな親子の風景そのものだった。

僕は黙ってそこを後にした。