昭和50年代の中頃と言えば、どんな時代だったのだろう?
確かインベーダーゲームが流行り、マクドナルドが日本に上陸したのもこの頃だったかな。
僕の記憶ではその様な事は余り関係が無かったかも知れない。
なぜなら僕は、浪人をしていたからだ。
その年の春、僕は見事にすべり止めまで全て落ちてしまい、親に頼んで1年だけ浪人をさせて貰うことになった僕は、一応はちゃんと勉強をしていた。
だがその実、受験に失敗したのは実力を返りみず、やたら高いレベルの大学ばかり受験した結果だと気がついていたので、来年はぐっとレベルを下げれば、簡単に合格するだろう、とも思っていた。

その日僕はお婆ちゃんの経営する連れ込み旅館に母親の使いで来た処だった。
「お前、バイトしないか?」
店の自販機を開けて、コーラをちょろまかして飲んでいた僕に婆ちゃんは平然と言ってのけた。
「バイト、何の? まさかここの?」
「ああ、そうだよ。他に何処だと思った」
「何やるの? 掃除とかやだよ」
「そんな事やらせるかい。店番だよ」
「店番?ってフロントかい?」
「ああ、そうだよ、それも深夜な」
「深夜? 未成年を深夜労働させていいのかい!」
「家の手伝いだ。関係無いだろうな。お前どうせ夜は深夜放送聴いて勉強するんじゃろ?」
「だったら?」
「だったら、それを此処でやれば良いだろう。一応バイト代も出るし」
「いくらだい?」
「一晩千円……」
「安すっ! 幾らんなんでも安過ぎるだろう!」
当時、国鉄の初乗りが30円だったな?都バスが40円、駅の立ち食い蕎麦が掛けが90円で、
天ぷらに卵を載せても180円だったと思う。
喫茶店のコーヒーが150〜250円ぐらいで、タバコはセブンスターが150円だったかな、
兎に角そんな時代だった。

「判ったよ。で、受付の店番だけやればいいいの?」
僕はここでゴネても婆ちゃんは絶対に賃上げはしないと判っていたので、渋々引き受けることにした。
仕事はフロントで待機していて、お客が来たら、休憩か泊りか訊くのだけど、僕の居る時間は休憩は無いので止まりだけで、前金で勘定を貰う。
途中で出前等を取った場合いは現金と交換となっていて簡単なシステムだ。

お金を貰うと部屋に案内して終わり。
つまり、お客をひたすら待つ!と言う行為なわけだ。
客室は2階に10部屋程あり、それぞれに小さい浴室がある。
部屋はいまどきドアではなく襖で仕切られていて、当然和室なので、四畳半的な雰囲気が漂い、
布団の枕元には行灯型のスタンドが備え付けてある。
部屋の隅には四角いちゃぶ台が備え付けてあり、その上にはお茶と幾ばくかの菓子が丸いお盆の上に乗っている。
これは、宵の口に昼の掃除のパートさんがセットしておいてくれてる。
その部屋に案内して、部屋と風呂の説明をしたら、終わりでフロントに戻って来る。
大体がそんな仕事だから、最大で一晩10回働けば良いのだ。

そんな感じで超安い賃金でもまあ勉強のついでに千円貰えると思えば良いかと思い直して
僕は婆ちゃんの頼みを引き受ける事にした。
大体が幼い頃から見ていたので、常連さんとも顔なじみなのだ。

「あら、しんちゃん。バイト?おばさんから押し付けられたんでしょう」
そう言ってくれたのは、近くでスナックをやっている茜さんだ。
茜さんの彼氏の陣さんは某指定暴力団の構成員で、現役の人だ。
だが、僕らにはとても優しく、普段は「この人が?」と言う感じなのだ。
茜さんにスナックをやらせていて、売上の何割かは上納しているそうだ。
「そうなんですよ。勉強のついでだからって」
「おばさんもこの前、夜は辛いってコボしていたからさ、婆さん孝行だと思ってさ。それで何時もの所空いてる?」
前金を払って笑いながら二階に上がって行く。世話の無い人だ。

下の様子はと言うと玄関の前にフロントがあり、玄関の脇にはロビーで、応接セットがあり、一応6人は座れる様になっている。
自販機もそこに置いてある。この頃は瓶のコーラの自販機で四角いボックスで蓋を開け、お金お入れるとスライドして瓶のコーラが取り出せる様になっているのだ。
フロントの横は「家族風呂」がある。
昔は風呂は此処だけだったそうだが、保健所の指導で各部屋に浴室が儲けられたそうだ。
その奥は家族のスペースや物置となっている。
文字通り、バスタオルやらカミソリやた歯ブラシなんかが仕舞ってある。

その日は茜さんの前には中年のカップルと大学生らしい二人連れが入っただけだった。
妙に蒸し蒸しした晩で、クーラーを点けるかどうかと言う感じだった。
午前2時を廻った頃だろうか、なんだかうめき声みたいな声が2階から聞こえる。
僕も知ってるが、あの時に物凄い声を出す女性と言うのは存在するので、その時は気にしていなかった。
ひと月もやってると、女性のアノ時の声もさほど気にならなくなって来る。
最も初めは、興奮して大変だったが……
だから僕は気にせずに勉強をしていた。ラジオも丁度面白いコーナーになった頃だった。

気がつくと、茜さんがロビーでタバコを吹かしてる。
「そう言えば陣さん遅いですね」
そんな事を言ったと思うが、茜さんはそれには応えず。
「ねえ、しんちゃん。あの部屋の娘、可笑しいと思わない?」
そういきなり訊いてきたのだ。
「あの部屋の娘? って大学生の方?」
僕のつぶやきに茜さんは「そう、若そうな声だけど、なんか変よ。あそこ」
「そうかな? 確かに声はお大きいかも知れないけど……」
僕はまた聞こえ出したうめき声に耳を傾けた。
「このうめき声が、あの娘?なのかな」
「あたしはその娘見てないけど、若い娘の声よこれ」
余りうるさいと他のお客の迷惑になるから、注意しないとならないのだが、加減が難しい。
下手に注意して「いいとこだったのに」なんて言われ兼ねないからだ。
浪人生でもそのくらいは知っている。

そのうち止むと思っていたのだが、段々声は激しくなって来て、もう建物の何処に居ても聞こえる有様だった。
「うううん、あああん、おおおうん」
とまるで獣が吠えてる感じだ。
本当に人間なのだろうか?
実は、バンパイヤか狼男かなんかで、アノ時だけ真の姿になるとか……冗談だよね。
僕が密かに怯えていると、中年のカップルが降りて来て
「あのう、うるさくてこっちが集中出来ないんですけど」
とクレームを着けられてしまった。
これはフロントの仕事だ。
やれやれ、こんな事は滅多に無いはずなのに、仕事始めてひと月経つか経たぬうちに起こるとは……と思っていると、もの凄い声が聞こえて来た。
「うわあああああ〜ケイ、ケイしっかりしろ!おわあああう! いたあああああ」
階下にいた4人が顔を見合わせる。

「しんちゃん。見て来なくちゃ!」
そう茜さんに云われて僕はフロントの懐中電灯を持って2階に上がって行く。
後から3人が後を付いて来る、「あやめの間」の前にたって
「もしもし、どうしましたか?」
そう声を掛けても返事はない。
いや無いどころか、物凄く中で暴れてる感じなのだ。

この2階の部屋は、襖なのだが中からはネジ式の鍵が一応は掛かる様になっている。
まあ、襖ごと外してしまえば関係無いのだが……
僕は声を掛けても返事がないので、思い切って襖を開けて見る事にした。

手を襖に掛けて横に引くと、鍵は掛かって無く簡単に開いた。
僕は薄暗い部屋の中を懐中電灯で照らすと、なんと若い男のほうが、下になっている女性の口に手を突っ込んでいて、その手からは大量の血が流れてる。
男は歯を食いしばって我慢してるのだ。
それを見た茜さんが「変なプレイじゃないよね?」
なんて言ってる。
その下の女性を見ると、白目を剥いて、口からは泡を吹き、身体全体を激しく痙攣させていた。
「痙攣だわ。早く救急車を!」
茜さんの叫び声で僕は転げる様に階段を降りて電話に飛びつく。
震える手で119を回すと「火事ですか?救急ですか?」と云われる。
初めての事で動揺している僕は焦ってしまい上手く言えなくて
「救急車です」と言って仕舞った。
すると、電話の向こうから、落ち着いた声で、住所や名前や状態を訊いてくれたので、何とか話す事が出来た。

電話を終えると僕は急いで2階へ戻ると部屋はもう血の海で、茜さんと中年二人は男性の手を女性の口から外して、代わりにタオルを詰めようとしてるのだが上手く行かなくて、焦っている。
そんな中でも男性の方は「ケイ、ケイ、大丈夫か?」と心配している。
僕は痙攣を起こしてる女性もその口に手を入れて噛みつかれて血を流してる男性も両方心配だった。

やがて、救急車の音が聞こえてきて、僕は玄関に降りた。
車が着くと救急隊員の方が直ぐにやって来たので、場所に案内する。
僕はそのシーンを見ていなかったのだが、救急隊員の人が女性の頭を下にして顎を突き出す様にすると、手が外れたので、タオルを口に挟み込んだそうだ。
後で茜さんから聞いた。
急いで男性を階下に降りて貰い、手の応急処置をする。
僕はそこはちゃんとみていたのだ。
少し経つと発作が治まったので、担架に載せて運ばれて行った。
当然男性も連れて行かれ、いっぺんで騒ぎが収まってしまった。
気がつくと、玄関の外には野次馬が大勢いて、僕は訳を言って引き取って貰った。
奥で寝ている婆ちゃんは平気だったのかと思ったら、確か睡眠薬を飲んで寝ていた事に気がついた。あれもよし悪しだなと思う。

再び2階に上がって部屋を見てみると、シーツや枕カバーは血で真っ赤。
一部はふとんにも血がこびり付いているし、当然布団カバーも赤い。
とりあえず、かたして、ゴミの袋に血の付いてるものを入れる。
捨てるか洗濯するかは明日婆ちゃんが決めるだろう。

とりあえず片付けてフロントに戻ると茜さんが番をしてくれていた。
礼を言うと「いいよ、どうせ来ないから暇だからさ」
そう言ってタバコを吹かしてる。
僕は自販機からコーラを2本ちょろまかすと1本を茜さんに渡した。
中年のカップルは直ぐに部屋に戻ってしまったと言う。
あんなものを見た後で、よく直ぐその気になるものだ。
確か血を見ると興奮する人も居るとかいないとか……

「驚いたね。しかし……あたしも初めてだよこんなの」
「そうですか、僕なんか呆然自失ですよ」
「無理無いよね、しんちゃん童貞でしょ?」
「え、まあ、未だ知りませんが……」
「そのうち、あいつの目を盗んであたしが教えてあげるからね」
「はあ。ええ!それはヤバイですよ。陣さん怒ったら怖そうだし」

そんな事を話していたら陣さんがやって来た。
「おう、坊主どうした?しけた顔して……」
そこで茜さんが今の顛末を話して聞かせる。
「ふ〜んそりゃ災難だったな、じゃ俺からこれやるよ」
そう言って僕に5千円札を握らせた。
「陣さん、これ……」
「ああ、今日はかなり勝ったからな、おすそわけだ」
「あら、じゃあ、あたしにも服かなんか買ってよ」
「ああ、いいともお安い御用さ」
「坊主、これに懲りずに婆さん助けてやれよ」
そう言って二人は部屋に消えて行った。

僕のアルバイトの最初の出来事だった。

その後聴いた処によると、彼氏の手の怪我は治るまで結構かかったそうだ。
責任を感じた女性も彼氏を大事にして、結婚したとか。
実は女性は結構な家の令嬢でこの事で二人の事が公になって、返って良かったとも言える事件だった。

でも、痙攣を起こす程感じてしまうのだろうか……僕にとってそれが謎である。