今年の夏休みは長くなりそうな予感がしていた。それは休み初日の事件があったからなのだが、その後も色々な出来事が起きる予感がしていた。
七月も終わるという頃、昼の食事を作ろうと思っていたら電話が鳴った。出て見ると相手は女性の声だった。頭の切り替えが出来ていなかった俺は、その声の持ち主がよく知っている者だとはすぐに気がつかなかった。
「はい折木ですが」
「ああ折木さんですか! 良かったです」
「はい?」
「あ、千反田です。千反田えるです。先日は本当にありがとうございました」」
ここまで聴いて俺は電話の相手が千反田だと気がついた。
「ああ千反田か。どうした? それより大丈夫なのか?」
正直、その後のことは俺は聞いていない。だからこの電話はその後のことについての事だと思った。 「あ、先日のことはもう済みました。色々とご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。今日は、新しいことがありましたので、相談というより折木さんに聞いて欲しくて電話してしまいました」
新しいこととは何か? それが千反田の身に降りかかるものなら聞かなくてはならない。そう思った。
「判った。都合をつけるから昼飯を食べたら何処かで逢おうか?」
そう言ったら千反田は含み笑いを押し殺したような声で
「実はもうすぐ傍まで来ているのです。近くの公衆電話からかけているのです。今からお邪魔してもよろしいでしょうか。二人で食べようと思い色々用意して来ちゃいました」
なんのことは無い。相手は既にそこまで来ていたのだった。
「判った。今日は平日だし、姉貴は居ないので家には俺しかいないぞ」
一応言っておかなくてはならないと思う 「はい、実は大事なことなので、わたしもその方が好都合です」
何が好都合なのだろうか。正直二人だけになれば何が起きるか判らないのだが。
「そこまで準備してるなら来れば良いさ。待ってるよ」
「ありがとうございます!」
そう言って受話器を置いて二、三分経った頃に玄関のチャイムが鳴った。開けると外には一杯に詰めたカゴを両手でぶら下げた千反田が立っていた。薄緑色のブラウスに紺のタイトスカートが夏らしさを漂わせていた。タイトスカートとは千反田にしては珍しかった。スカートの裾から伸びた脚が眩しかった。
「お言葉に甘えて来ちゃいました」
その声には喜びの他に安心感が漂っていた。俺は千反田の身の上に置きたことが普通のことでは無いような気がした。
「ま、入れ。何も無いがな」
千反田を招き入れるとスリッパを出した。千反田はそれを履くと
「台所お借りしてもよろしいでしょうか。一緒にお昼を食べたくて」
「ああ構わない」
千反田は以前にもウチに来ているし、その時に台所も使っている。 千反田はそのまま台所に行くとガサゴソと何やら準備をしていた。数分後だろうか、千反田が台所から長盆に色々なものを載せてリビングに入って来た。リビングのテーブルにそれらを並べて行く
「サラダとウチで採れた野菜の煮物と家で作って来たミックサンドです。ハムとチーズ、それにツナ、タマゴです」
野菜サラダはレタス、キュウリ、トマト、それにベビーコーンと脇には生ハムが添えられていた。その脇には千反田の手作りのドレッシングが置かれていた。
「さすが、うまそうだ」
千反田の料理の腕は既に知っている。期待も高まろうと言うものだ。俺は飲み物を取りに台所に向かう
「千反田飲み物は何が良い?」
「そうですね。アイスティーはありますか?」
「あああるぞ、既製品だがな」
大きめのボトルを千反田に見せると
「それは好きな銘柄です」
そう言ったのでグラスに氷を入れて注ぎリビングのテーブルに置いた。
「折木さんもこの銘柄がお好きだったのですね」
本当は姉貴が買っておいた奴だが
「まあな。これは良く飲むよ」
そう言って誤魔化す。
「それじゃいただきまよう」
「ああ、いただきます!」
「いただきます」
千反田の手作りドレッシングは爽やかで夏向きで食欲を増進させる気がした。サンドイッチも旨い。普通の食パンとは違う気がした。
「このパンが普通とは何か違うな。何処かの有名な店のか?」
俺は千反田が昨日あたり市内の有名な店で買っておいたのだと思ったのだが
「喜んで貰えて嬉しいです。それは昨夜、わたしが焼いたやつです」
「お前、パンも焼くのか?」
「はい。子供の頃から母に教えて貰い焼いていました」
それを聞いて俺は千反田の料理の腕が付け焼き刃では無いとは思っていたが筋金入りなのだと認識した。
「サンドイッチのからしバターも塩梅が丁度良い。辛すぎず甘すぎずだな」
俺の感想を耳にして千反田は嬉しそうな表情を見せた。この笑顔を見るだけでも今日は良かったと思った。 野菜の煮物は里芋、人参、牛蒡、椎茸、南瓜などだった。これも薄味ながらちゃんと芯まで味が染みている。
「これも朝から煮たのです」
つまり千反田は昨日から今日は俺の家に来るつもりだったのだ。俺が用事でもあればどうしたのだろう? それを問うと
「それはほぼ大丈夫だと思っていました。ある方に相談したら『多分大丈夫だと思うわよ』と言われ」ましたので」
その相手は大体想像出来た。何のことはない仕組まれていたことだったのかも知れなかった。 最初は他愛ないことを話していたのだが、突然千反田が思い切ったように語りだした
「実は今日聞いて欲しかったのはわたしが何故、家を継がなくても良いと言われた原因が判ったのです」
その言葉で二人の間の空気が一変した
「理由があったのか? 家に縛られなくても良いという理由以外にか?」
「はい。もしかすると、事情によりわたし二学期から家を出ることになるかも知れません」
「家を出る? 転校するのか?」
「いいえ、転校はしませんが今住んでいる家を出ることになるかも知れないのです」
全く困ったものだが、千反田の悪いクセで自分の中にある結論から語りだしてしまう。
「最初から説明してくれないか」
「ああ、すみません。いつも癖で……。実は千反田の家が破産するかも知れないのです」
破産とは穏やかなことではない
「どういうことなんだ?」
「はい、千反田農産なのですが、実は借入金がありまして、これまでちゃんと返済していたのですが、今年の不作が響いて返済が滞ることがありました。そうしたら担保として取っている抵当権のついた農地を売却して返済するように言って来たのです」
「交渉はしたのか?」
「はい弁護士なども交えて交渉したのですが今年に入って利息も払えない状態でしたので」
俺は千反田の家がそこまで困っているとは思ってもみなかった。
「それで家を継ぐ必要はないということなのか? で、家を出るというのは?」
破産は兎も角、農地の一部を売却しても千反田の土地は広大だ。資産は減るだろうが、家の売却まではありえないと思った。そのことを問うと千反田は
「確かに返済はそれで済みますが、一度こんなことがあると、今後は融資をしてくれる所もありません。資金を得る為には他の土地も売却しなくてはならないのです」
「じゃあ全部でどほど売るんだ」
「今判っているだけでも大凡八割です」
それを聞いて愕然とした。恐らく鉄吾さんは千反田を騒ぎに巻き込みたく無いのだろうと推測した。だから家を継がなくても良い。家から一旦出た方が良いと考えたのだろう。
「それで何処に行くのか決まったのか?」
「多分横手の伯母のところだと思います。あそこならわたしも慣れていますから」
俺は雨の降る中蔵に閉じこもっていた千反田を思い出した。 外が急に暗くなって来ていた。千反田の話に夢中で気が付かなかったが、にわか雨が降りそうだった。
「千反田。自転車で来たのか?」
「はい」
「雨が降ってくるぞ、自転車を中にいれておいた方がいいな」
そう言って俺は玄関の外に置かれていた千反田の自転車を家の中に入れた。その瞬間だった。ザーという音とともに雷が鳴り滝のような雨が落ちて来た。
「危ないところだったな」
心配そうな表情で俺の作業を眺めていた千反田に安堵の表情が浮かんだ。
「わたし、今少しだけですが想像してしましました」
千反田が少し恥ずかしそうな表情を浮かべていた。
「何を想像したんだ?」
「もし、今が高校を卒業する時期なら、こうやって一緒に住むのもいいなって」
見ると千反田は真っ赤な顔をしている。今までそれを考えなかったと言えば嘘になるが、来年のことなのだ。ずっと先のことではないのだ。玄関の上がり口を上がると千反田がそっと傍に寄り添って来た。その華奢な肢体をそっと抱きしめる。
「わたしの心の中にずっと折木さんが住んでいました」
「俺も同じだよ」
昨年の『生き雛祭り』で己の心に気がついて以来、この両腕の中の愛しい人が常に俺の心に住んでいた。
「卒業したら一緒に住むか?」
「はい。実はそのつもりでした」
そっと腕に力を入れて抱き締めると千反田も腕に力を入れてきた。自然と唇を重ねる。甘い感じがしたのは気のせいではないだろう。長いときの後唇を離すと
「ずっとこのままで……このままでいたいです」
玄関の扉の外からは夏の雨が激しく叩きつけるように降っている。その音にかき消されぬように千反田の耳元で告白する
「俺はお前が好きだ。誰にも渡したくない」
その声を聞いて俺の背中に廻した千反田の手に一層力が入ったのが判った。
<了>
「はい折木ですが」
「ああ折木さんですか! 良かったです」
「はい?」
「あ、千反田です。千反田えるです。先日は本当にありがとうございました」」
ここまで聴いて俺は電話の相手が千反田だと気がついた。
「ああ千反田か。どうした? それより大丈夫なのか?」
正直、その後のことは俺は聞いていない。だからこの電話はその後のことについての事だと思った。 「あ、先日のことはもう済みました。色々とご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。今日は、新しいことがありましたので、相談というより折木さんに聞いて欲しくて電話してしまいました」
新しいこととは何か? それが千反田の身に降りかかるものなら聞かなくてはならない。そう思った。
「判った。都合をつけるから昼飯を食べたら何処かで逢おうか?」
そう言ったら千反田は含み笑いを押し殺したような声で
「実はもうすぐ傍まで来ているのです。近くの公衆電話からかけているのです。今からお邪魔してもよろしいでしょうか。二人で食べようと思い色々用意して来ちゃいました」
なんのことは無い。相手は既にそこまで来ていたのだった。
「判った。今日は平日だし、姉貴は居ないので家には俺しかいないぞ」
一応言っておかなくてはならないと思う 「はい、実は大事なことなので、わたしもその方が好都合です」
何が好都合なのだろうか。正直二人だけになれば何が起きるか判らないのだが。
「そこまで準備してるなら来れば良いさ。待ってるよ」
「ありがとうございます!」
そう言って受話器を置いて二、三分経った頃に玄関のチャイムが鳴った。開けると外には一杯に詰めたカゴを両手でぶら下げた千反田が立っていた。薄緑色のブラウスに紺のタイトスカートが夏らしさを漂わせていた。タイトスカートとは千反田にしては珍しかった。スカートの裾から伸びた脚が眩しかった。
「お言葉に甘えて来ちゃいました」
その声には喜びの他に安心感が漂っていた。俺は千反田の身の上に置きたことが普通のことでは無いような気がした。
「ま、入れ。何も無いがな」
千反田を招き入れるとスリッパを出した。千反田はそれを履くと
「台所お借りしてもよろしいでしょうか。一緒にお昼を食べたくて」
「ああ構わない」
千反田は以前にもウチに来ているし、その時に台所も使っている。 千反田はそのまま台所に行くとガサゴソと何やら準備をしていた。数分後だろうか、千反田が台所から長盆に色々なものを載せてリビングに入って来た。リビングのテーブルにそれらを並べて行く
「サラダとウチで採れた野菜の煮物と家で作って来たミックサンドです。ハムとチーズ、それにツナ、タマゴです」
野菜サラダはレタス、キュウリ、トマト、それにベビーコーンと脇には生ハムが添えられていた。その脇には千反田の手作りのドレッシングが置かれていた。
「さすが、うまそうだ」
千反田の料理の腕は既に知っている。期待も高まろうと言うものだ。俺は飲み物を取りに台所に向かう
「千反田飲み物は何が良い?」
「そうですね。アイスティーはありますか?」
「あああるぞ、既製品だがな」
大きめのボトルを千反田に見せると
「それは好きな銘柄です」
そう言ったのでグラスに氷を入れて注ぎリビングのテーブルに置いた。
「折木さんもこの銘柄がお好きだったのですね」
本当は姉貴が買っておいた奴だが
「まあな。これは良く飲むよ」
そう言って誤魔化す。
「それじゃいただきまよう」
「ああ、いただきます!」
「いただきます」
千反田の手作りドレッシングは爽やかで夏向きで食欲を増進させる気がした。サンドイッチも旨い。普通の食パンとは違う気がした。
「このパンが普通とは何か違うな。何処かの有名な店のか?」
俺は千反田が昨日あたり市内の有名な店で買っておいたのだと思ったのだが
「喜んで貰えて嬉しいです。それは昨夜、わたしが焼いたやつです」
「お前、パンも焼くのか?」
「はい。子供の頃から母に教えて貰い焼いていました」
それを聞いて俺は千反田の料理の腕が付け焼き刃では無いとは思っていたが筋金入りなのだと認識した。
「サンドイッチのからしバターも塩梅が丁度良い。辛すぎず甘すぎずだな」
俺の感想を耳にして千反田は嬉しそうな表情を見せた。この笑顔を見るだけでも今日は良かったと思った。 野菜の煮物は里芋、人参、牛蒡、椎茸、南瓜などだった。これも薄味ながらちゃんと芯まで味が染みている。
「これも朝から煮たのです」
つまり千反田は昨日から今日は俺の家に来るつもりだったのだ。俺が用事でもあればどうしたのだろう? それを問うと
「それはほぼ大丈夫だと思っていました。ある方に相談したら『多分大丈夫だと思うわよ』と言われ」ましたので」
その相手は大体想像出来た。何のことはない仕組まれていたことだったのかも知れなかった。 最初は他愛ないことを話していたのだが、突然千反田が思い切ったように語りだした
「実は今日聞いて欲しかったのはわたしが何故、家を継がなくても良いと言われた原因が判ったのです」
その言葉で二人の間の空気が一変した
「理由があったのか? 家に縛られなくても良いという理由以外にか?」
「はい。もしかすると、事情によりわたし二学期から家を出ることになるかも知れません」
「家を出る? 転校するのか?」
「いいえ、転校はしませんが今住んでいる家を出ることになるかも知れないのです」
全く困ったものだが、千反田の悪いクセで自分の中にある結論から語りだしてしまう。
「最初から説明してくれないか」
「ああ、すみません。いつも癖で……。実は千反田の家が破産するかも知れないのです」
破産とは穏やかなことではない
「どういうことなんだ?」
「はい、千反田農産なのですが、実は借入金がありまして、これまでちゃんと返済していたのですが、今年の不作が響いて返済が滞ることがありました。そうしたら担保として取っている抵当権のついた農地を売却して返済するように言って来たのです」
「交渉はしたのか?」
「はい弁護士なども交えて交渉したのですが今年に入って利息も払えない状態でしたので」
俺は千反田の家がそこまで困っているとは思ってもみなかった。
「それで家を継ぐ必要はないということなのか? で、家を出るというのは?」
破産は兎も角、農地の一部を売却しても千反田の土地は広大だ。資産は減るだろうが、家の売却まではありえないと思った。そのことを問うと千反田は
「確かに返済はそれで済みますが、一度こんなことがあると、今後は融資をしてくれる所もありません。資金を得る為には他の土地も売却しなくてはならないのです」
「じゃあ全部でどほど売るんだ」
「今判っているだけでも大凡八割です」
それを聞いて愕然とした。恐らく鉄吾さんは千反田を騒ぎに巻き込みたく無いのだろうと推測した。だから家を継がなくても良い。家から一旦出た方が良いと考えたのだろう。
「それで何処に行くのか決まったのか?」
「多分横手の伯母のところだと思います。あそこならわたしも慣れていますから」
俺は雨の降る中蔵に閉じこもっていた千反田を思い出した。 外が急に暗くなって来ていた。千反田の話に夢中で気が付かなかったが、にわか雨が降りそうだった。
「千反田。自転車で来たのか?」
「はい」
「雨が降ってくるぞ、自転車を中にいれておいた方がいいな」
そう言って俺は玄関の外に置かれていた千反田の自転車を家の中に入れた。その瞬間だった。ザーという音とともに雷が鳴り滝のような雨が落ちて来た。
「危ないところだったな」
心配そうな表情で俺の作業を眺めていた千反田に安堵の表情が浮かんだ。
「わたし、今少しだけですが想像してしましました」
千反田が少し恥ずかしそうな表情を浮かべていた。
「何を想像したんだ?」
「もし、今が高校を卒業する時期なら、こうやって一緒に住むのもいいなって」
見ると千反田は真っ赤な顔をしている。今までそれを考えなかったと言えば嘘になるが、来年のことなのだ。ずっと先のことではないのだ。玄関の上がり口を上がると千反田がそっと傍に寄り添って来た。その華奢な肢体をそっと抱きしめる。
「わたしの心の中にずっと折木さんが住んでいました」
「俺も同じだよ」
昨年の『生き雛祭り』で己の心に気がついて以来、この両腕の中の愛しい人が常に俺の心に住んでいた。
「卒業したら一緒に住むか?」
「はい。実はそのつもりでした」
そっと腕に力を入れて抱き締めると千反田も腕に力を入れてきた。自然と唇を重ねる。甘い感じがしたのは気のせいではないだろう。長いときの後唇を離すと
「ずっとこのままで……このままでいたいです」
玄関の扉の外からは夏の雨が激しく叩きつけるように降っている。その音にかき消されぬように千反田の耳元で告白する
「俺はお前が好きだ。誰にも渡したくない」
その声を聞いて俺の背中に廻した千反田の手に一層力が入ったのが判った。
<了>