既に開場は満員となっていた。全席予約のみなので立ち見がいないはずだが、なぜだかちらほらと後ろの通路に立っているものがいる。彼らは取材の人間なのだ。この落語会を取材して報道しようとやって来た者達だった。
 落語ファンはもとより、乾のコラムはマスコミを賑わせていた。あの意見に賛成する者、反対の意見を述べるもの、それぞれが言いたい事を発言していた。これこそが乾が目論んでいた事だった。彼は最初から目的があって、あのような発言を書いたのだった。だがその真意は彼と取り巻きの噺家数名しか知らない。

「満員だそうですよ」
 柳星が開場を覗いて来て、自分の師匠の柳生や遊蔵と仙蔵に報告する。
「まあ前売りが完売で当日券は少ししか無かったそうだから、満員になるだろうね」
 遊蔵が足袋を履きながら答えると仙蔵が
「シュークリームもう食べちゃった」
 そう言って名残惜しそうに紙袋を眺める。柳生が
「師匠、私の分もどうぞ」
 そう言って勧めると
「え、良いのかい。嬉しいねえ。甘いもの駄目なのかい」
 そんなことを尋ねるので柳生は
「いいえ、買ってきた者が食べるのもどうかと……」
 そう答えたので遊蔵がそれを聞いて
「そうか、そんな価値観もありますよね。お持たせなんて事もありますからね」
 そう言ってフォローする、仙蔵はそれを聞いて自分の荷物から四合瓶を取り出した
「これ昨日の旅先の地酒なんだそうだ。良かったら飲んで見てくれ」
 そう言って柳生に差し出した。
「ありがとうございます! 酒は好きなんですよ」
「だと思った」
 仙蔵がそう言って笑った。横では遊蔵が柳星に
「本当は今日柳生師匠と一緒になるので、何が良いか悩んで買ったのだけどね」
 そう小声で耳打ちをする。すると仙蔵が
「余計なこと言うな」
 そう言って窘めた。そんな事をやってるうちに時間となった。柳星が羽織を着て出囃子が鳴り出すのを待っている。
「出囃子は何になったんだっけ?」
 遊蔵が尋ねると柳星は
「『藤娘』です。下座の師匠方がこれが似合ってるからと勧めてくださいました」
「あれって、本当に自分に合うのを勧めてくれるよね。凄いよね」
 遊蔵が感心していると仙蔵が
「馬鹿、下座の師匠方は本当に邦楽に造詣が凄いんだぞ」
 そう言いながら笑っている。柳生も
「出囃子と言えば自分と仙蔵師匠は同じ『外記猿』でしたね」
 柳生と仙蔵は同じ出囃子なのだ。これは普段の協会が違うから寄席では同じでも問題無いのだが、このような落語会で共演すると出囃子が被ってしまう
「まあでも今日は俺がトリだから『中の舞』になるから大丈夫だろ」
 寄席や落語会などではトリに出る者は自分の出囃子ではなく『中の舞』を使うのが習わしとなっている
「じゃ師匠と共演しても大抵は大丈夫ですね」
 柳生がそう言って笑うので仙蔵が
「どうしてだ?」
 訝しむので弟子の遊蔵が
「だって落語界で師匠より上の人物なんて、もう引退同然でしょう」
 そう言って仙蔵より香盤の上の噺家のことを語った。そうしたら仙蔵が
「馬鹿、そういう時はその師匠がトリだよ」
 そういうので皆がはっと気がついたようになった
「違いないですね」
 柳生の言葉が終わった時に柳星の出囃子「藤娘」が鳴り出した
「よし行って来い!」
「お先に勉強させて戴きます」
 柳生の声に送られて柳星が楽屋から飛び出して高座に向かった。

 場内はシーンと静まっていた。それはこれから始まるという合図の木がチョーンと打たれたからだ。その後「藤娘」が流れ出して会が始まった事が告げられた。
「藤娘」の艶やかな三味線が流れると、それに乗って柳星が高座の袖に姿を表した。一斉に拍手が湧き起こる
「え〜開口一番でございます、麗麗亭柳星と申します。柳星と言っても流れ星じゃありませんので、どうかお見知り置きを」
 挨拶をするとマクラに入って行く
「もう少ししますと東京や関東でも桜の季節となりますが、昔から日本人は桜が好きでして、何時から花見をするようになったかと言うと、これが古くて平安時代の中頃だったそうですな。それまでは花見というと梅だったそうです。桜で良かったですよね。梅の時期なら寒くて仕方ありません。きっと流行らなかった可能性がありますね。花見に行って風邪引いちゃいますよね」
 どっと笑いが起きる。
 噺は江戸の版だと、自分の長屋の悪い噂を耳にした大家さんが、それを払拭しようと長屋総出で花見をしようと計画をする。この時代の大家とは今だと管理人に当たる職業で、これが判らないとこの噺は理解出来ない。この頃の今の大家に相当するのは家持ちとか地持ちとか言って大家とは呼ばなかった。家賃の管理もしていると家持大家、という言い方をしたのだ。
 柳星は勿論そんな事を説明はしない。しかし聴いた者が自然と理解出来るように噺を進める。
「大家さんからの呼び出しだとさ。何だと思う」
「そりゃお前家賃の催促だろうさ。お前ちゃんと払ってるか?」
「そうさなぁ前に払ったのは去年の盆だったかな」
「へ〜そりゃ文句言われるぞ」
「お前はどうなんだ」
「俺は一月さ」
「一月しか貯めてないのかい?」
「いいや入る時に一月入れただけ」
 等と語り、大家さんが家賃の管理人であることをさり気なく判らせている。またこの噺の価値観が今と違う所が後半にも出て来る。それは卵焼きと蒲鉾の事である。この頃卵は高級品でそれをふんだんに使った卵焼きはご馳走だった。蒲鉾もそうであり、かの信長は蒲鉾を最高のご馳走と語っていたほどで、その辺りが今とは全く違うのだ。ここでも柳星は
「卵焼きかぁ。何時以来かな」とか「ありがたいね蒲鉾だってさ、生涯で食べられるとは思ってもいなかった」
 とか登場人物に語らせた。噺ではこれが卵焼きはたくあん。蒲鉾は大根だったのだが、今や無農薬の品なら下手な卵焼きや蒲鉾よりも高い。
 やがて噺は下げにかかる。下げはお酒と思っていたのが実は番茶で、それを渋々飲んでいたのだが、一人が
「大家さん。長屋に近々良い事がありますよ」
 と言うので大家も
「そうかい。それは良かったな。でもどうしてだい?」
「へえ、湯呑みに酒柱が立っています」
 と落とすのだが、今の若い人はこれが理解出来ない。これはお茶の茶柱が湯呑みに立っていたのだ。茶柱が立つのはかなり安いお茶だと言う事、良いことがあると言うのはそれらを隠す為とも言われていること。
 さらに、この場で酒を呑んでるのに茶柱の事は言えないので機転を利かせて「酒柱」と言ったという事を瞬時に理解出来ないとこのサゲが理解出来ないのだ。だから噺家が学生相手にこの噺をすると全く受けないのだそうだ。
 だが今日のこの会場の客はそんな事もなく、ウケに受けてサゲが決まった。柳星は拍手の中、頭をサゲて高座を降りた。
「お先に勉強させて戴きました」
 柳星がそう言って挨拶をする。高座では次の遊蔵の出囃子「小鍛冶」が流れ始めていた。遊蔵がやはり
「お先に勉強させて戴きます」
 そう挨拶をして高座に出て行った。