ゆきは思わず声を出してしまった。そして少し考えて自分は、宗十郎の息子の事は何も知らなかったと思った。
「申し訳ありません。つい声を出してしまいました」
 ゆきが謝ると陽子は
「あなた宗十郎という名前に反応したみたいね」
 そう言って少し口角を上げた。
「私は今年で七十八になるわ」
「お若いです!」
「そう、ありがとう。でも歳は歳なのよ。私の父は宗十郎さんの晩年に生まれたの。それまでは女の子ばかりで、諦めかけた時に男の子が生まれたのよね。無論三番目の奥さんだったけどね。昔は産後の肥立ちが悪くてね。今から考えると結核だったと思うけど、それで簡単に亡くなったのよね。最初の奥さんも二番目もそれで亡くなってるのよ。父の話だと、諦めて婿養子を入れようと思っていた時に、私の祖母が縁があって嫁いで来たそうなのよ。まあ、女手がこの家には必要だったしね」
 ゆきは自分の後の話を聴けて少し興奮していた。
「では宗十郎さんは長生きされたのですね」
「そうね。大正の末まで生きていたそうよ。九十を越えていたとか」
 ゆきは宗十郎が長きをしたと判り安堵するのだった。
「でもね、私のお祖母さんの事は良く判っていないのよね。名前が雪子というだけなのよ。写真も晩年のだけで、それも一枚だけなのよね。後は残っていないのよね。何で若い頃の写真を残しておかなかったのかが疑問なのよ」
 陽子はそんなことを言ってからゆきに
「そう言えばあなたの名前を聴いていなかったわ」
 そう問いかけた
「失礼しました篠山ゆきと申します」
「篠山さん。ゆきちゃんね。私のお祖母さんと同じ名前ね。尤もこちらは子がついて漢字の雪だけどね」 
 この時この場にいる三人は、将来のことなぞ判る由もなかった。
 ゆきは陽子に茶々を入れられながら幸子に教わった通りに掃除機で掃除を済ませた。
「ねえ幸子、ゆきちゃんにトレーナーか何か着せて擧げた方が良くない。着物じゃ汚れちゃうわよ。もし向こうに帰ることがあったら必要になるだろうし」
「そう言ったのだけど、ゆきちゃんがこの方が動き易いからって」
「そうなのです。私にとっては先日までこの格好で働いていましたから、この方が楽なんです」
 それを聞いて陽子も幸子も何も言わなくなった。
「そうそう、ゆきちゃんは変体仮名って読める?」
「あの、崩しのかな文字のことですか?」
 ゆきの時代では江戸時代に使われていた崩しの仮名を「変体仮名」とは呼んでいなかった。これは明治三十三年以降に付けられた名前だからだ。
「読めますけど。一応読み書きは習いましたので」
 ゆきの返事に陽子は
「確か、納戸に江戸の頃に書かれたこの家に関する文書があるのよね。それに確か納戸の秘密の扉の事も書かれているとお義父さんに教わったけど、何せ私らには全く読めないから。ゆきちゃんが読めるなら暇な時にゆっくり読んでみたらいいと思う。帰れる方法も判るかも知れないしね」
 そんなことを言ってゆきに望みを持たせた。
「そうですか、じゃあ時間がある時に探して読んでみます」
 掃除が終わるとお昼にすることにした。
「母さんも食べて行くでしょう?」
 幸子が陽子に言うと
「勿論よ。だってハワイから帰って来たのは私だけだから」
「え、お父さんは向こうなの?」
「そうよ。あの人はハワイが気に入ったみたいで、最後まで居るからって言うから、私だけ帰って来たのよ」
 幸子は母らしいと思った。大体が自分の思った通りの行動をする人だから、自分の亭主をハワイに置いたまま帰って来るのも何とも思わない。普通の夫婦ならそんな行動は取らない。それに父親も父親だと幸子は呆れた。置いて行かれても何とも思わないところが呆れるのだ。
「お父さんは向こうで平気なの?」
「大丈夫よ。雅史のお嫁さんの美智子さんがついてるから」
「じゃあ、母さんは一人で帰って来たんだ」
 雅史というのは陽子の夫の兄弟で一番末の弟だ。その細君は歳が離れており確か未だ四十代のはずだった。幸子にとっては義理の叔母にあたる。
「だから大丈夫」
 夫婦の関係だが、そもそも幸子が当人たちから訊いたところでは、幸子の父親が陽子に惚れ込み、頼み込んで結婚したそうな。本当なのかは判らないが、幸子が幼い頃から見て来た夫婦関係は完全に陽子が上だった。かかあ天下と言う訳だ。
「ところでお昼は何にするの?」
 陽子が幸子に尋ねる。幸子は陽子のことだから、自分の気に入らないものなら、いきなり帰ると言い出すと思っていた。
「夜も食べて行くのでしょう」
「当然よ。可愛い孫の顔も見たいしね」
 幸子から見て、陽子は自分の母親ながら孫。つまり翠や高志を猫可愛がりはしなかった。幼い頃から人格を認めて大人と同じように扱ったのだ。
「じゃあ、にゅう麺にしようか。夏に貰った素麺が残ってるから。子供たちは余り素麺食べなかったのよね。確か母さんも好きだったわよね」
「にゅう麺なら喜んで食べさせて貰いまようね」
 そう言って喜んでいる。
「では、私が作ります!」
 ゆきがそう言って張り切っている。彼女としてみれば、やっと自分の仕事が回って来たという想いなのだ。幸子が台所の棚から素麺の桐の箱を出した。
「凄いですね桐の箱に入っています。島原そうめんと書いてあります。これ九州の島原産なのですね」
 ゆきとしてみれば九州は見果てぬ遠い異国の地なのだろう。
 幸子は冷蔵庫から葱とカニかまと卵を取り出した
「これはカニじゃないですね。もしかして蒲鉾ですか」
 ゆきがしげしげとカニカマを見つめる。
「そう普通の蒲鉾より彩りが良いでしょう」
「そうですね。便利なものがあるんですね」
「出汁はどうします? 昨日の顆粒ですか?」
 ゆきとしてみれば、昨日の味噌汁もにゅうめんの出汁も同じ延長線上にあるので同じものを使うと思ったのだ。
「今日はね、これを使います」
 そう言って幸子が出したのは濃縮の汁の素だった。
「これは醤油ですか?」
 ゆきの疑問に
「醤油と味醂、それにお酒も少し入っているかな。それに鰹と昆布の出汁が入っているのよ。つけ汁なら三倍、暖かいお汁なら六倍に薄めて使うのよ」
 それを聞いてゆきは小皿に少しだけ取って舐めてみた
「確かに鰹と昆布の風味がします。それに香りもします」
 ゆきは大きめの鍋に水を張りガス台に掛けた。その片方では幸子が、やや小ぶりの鍋に水を入れて出汁の素を入れて火を点けた。鍋が沸くまで幸子とゆきは葱を刻み、卵を割って溶き卵を作った。
「さあ沸いたから入れてね」
 幸子の指示でゆきが鍋に素麺を入れる。さーっと広がりそうめんが鍋に溶けて行く。この辺りの手際は見事だ。
「茹で時間は二分から三分だけど、にゅう麺だから短めで二分でいいわね」
 幸子はそう言ってタイマーをセットする、ゆきにしてみれば初めて見るものだが使い方や用途はすぐに理解した。
「さ、二分経ったわ」
 幸子が時間を教えてくれたので、ゆきは鍋を持ってザルに素麺を空けた。急いで水道で洗って冷やす。にゅう麺でもこの作業が無いと麺が締まらない。
 隣の鍋も出汁が沸いて来ていて、そこに幸子が溶き卵を回しながら入れる
「かき卵ですね」
 ゆきがそう言って嬉しそうな顔をする
「溶き卵好き?」
「はい! 好きです」
「じゃあその素麺をこっちに入れてくれる?」
 幸子の指示で洗っ手束ねた素麺を少しずつ入れて行く。ひと煮立ちして火を止める。ゆきが用意した丼に幸子が麺と出し汁、それに卵を入れて行く。その上にカニカマを乗せて最後に刻んだ葱を乗せた。
「さ、出来たわ。熱いウチに食べましょう」
 長手盆に三人分の丼と箸を乗せて食卓に運んだ。食卓には漬物や箸休めが並んでいた。これは陽子が冷蔵庫から出したものだ。
「いただきま〜す」
 三人が揃って食べだした。
「うん。美味しいわ」
 陽子が満足げな表情をすると幸子が
「お母さんも溶き卵好きだものね」
 そういうと、ゆきが
「お二人も好きなのですね。私もなんです」
 そう言って嬉しそうにする。
「何でも、お義父さんが言ってたけど幼い頃に、お義母さんに年中作って貰っていたそうよ。お義母さんも喜んで作っていたそうよ。だから私が好きなのはお義母さん仕込みかな。幸子が好きなのは私の影響ね」
 陽子がそう言って懐かしそうにした。ゆきはそれを嬉しそうに聴いていた。