茨城の霞ヶ浦を望む広大な土地に、わたしの勤務する研究施設があります。「茨城研究農場」です。多くの温室や栽培の施設。通常の物の他に水耕栽培の施設も整っています。無論そこは人工の光源を採用したものもあります。
 ここに赴任してから一月が経ちました。やっと慣れて来たところです。こちらに赴任するに当たって困ったのは住む所でした。会社も色々と応ってくれたのですが近所では見つからず車で二十分ほど離れた所に部屋を借りることが出来ました。
 滋賀の施設でも通勤は車でしていたので、引っ越しの時に、わたしがそのまま滋賀から乗って来ました。そのことを折木さんは呆れていました。
 その折木さんですが、仕事でこの施設によく来るという言葉は本当で、月に二度は来るそうです。まあ目的は研究施設そのものよりも、ここに駐在してる営業の人との商談が多いそうです。でも、わたしとしてみれば、その度に理由をつけては折木さんと逢えるのが嬉しいのです。そして今日は、その折木さんが来る日なのです。予めその日は一緒にお昼を食べる約束をします。それがわたしの楽しみでもあります。
 週末、休みが重なれば、わたしは折木さんのアパートに泊まりに行きます。本当は折木さんにも、わたしの部屋に来て欲しいのですが、未だ荷物が整理出来ていません。折木さんは
「俺が行って一緒に片付けてやるよ」
 そう言ってくれてくれました。その日も一緒にお昼を食べながら
「今週末はどうなんだ。研究か?」
 相手は植物ですから土日だからと言って休んでくれません。
「今週は土曜は出番ですが日曜は休みです」
「じゃあ土曜の晩から行って荷物の整理をしてやるよ。男手があった方が良いだろう」
「ありがとうございます! では後で細かい時間を連絡しますね」
 こうして折木さんに大きなものを片付けて貰いました。今週も折木さんは、そのつもりだったみたいですが
「今週は神山に帰らないとならないのです」
 昼食を食べながら伝えます。
「神山に帰るのか。何か用事があるのか?」
 用事などはありません
「実は父の呼び出しなのです」
「鉄吾さんが?」
「はい何の用かは判りませんが、わたしに話があるそうです」
「そうか、逢えないのは残念だが、何か判ったら教えてくれ」
「それはもう」
 そうは言いましたが、わたしには凡その内容はおぼろげながらも判っていました。

 その週の週末、土曜日の早朝わたしは新幹線に乗っていました。東京駅までは折木さんが送ってくれました。名古屋で「こだま」に乗り換えて岐阜羽島で降ります。駅には父が迎えに来てくれていました。
 車の助手席に載ります。父が
「新しい研究所には慣れたか?」
 前を見ながらハンドル操作をしてわたしに尋ねました。
「はい。大分慣れました」
「そうか。なら良いが、色々と噂を耳にしてな」
 それからの父の言葉は、わたしには思ってもみなかった内容でした。
「噂ですか?」
「ああ、離婚してやっと落ち着いたら、高校時代の同級生と交際してるとか」
 間違いなく折木さんのことです。折木さんとは復縁してから日も浅いのにと思いました。
「農協の者が苗種会社の人と懇意でな。そういえば神山出身の研究者が茨城の研究所に転任して来て。ということから話が始まったそうだ。農協の者が、『それなら陣出の千反田さんでしょう。京都の大学を卒業しておたくに就職したはずですから』と直ぐに判ってな。それでお前の最近の噂を色々と話したそうだ」
 車は国道を神山に向かって走っています。休日の朝なので交通量は多くはありません。
「その噂だがな。正直、陣出の千反田家としては嬉しくない内容だ」
「わたしは正式に離婚もしました。それが変な噂を呼んでいるのですか?」
「離婚そのものではない。その後のことだ」
 その後のこと……やはり折木さんとわたしのことなのでしょう。
「あくまで噂だが、お前が離婚したばかりなのに早くも男を作っていると。その男が研究所に来ると嬉しそうに一緒にお昼を食べている。という内容だった。千反田さんは、大人しそうな可愛い顔をしているけど発展家だと言う者も居るそうだ」
 まさか、陰でそんなことを言われていたとは思いませんでした。
「違うのです! 離婚して半年経ちました。その時に同期会があり、わたしも久しぶりに出席したのです。それで旧交が温まったのです。それだけなのです」
「本当かな?」
 父の言葉は、わたしを疑う気持ちの入ったものでした。既に車は神山市内に入っていました。
「まさかとは思ったから、悪いが調べさせたよ」
「調べた?」
「興信所に頼んだ。調査の結果を見てお前を呼んだのだ。家でも話せない内容だから車の中で親子二人だけで話したかった」
「その調査の内容はどのような物でしたか?」
 父は信号で車が停まった時に鞄の中から一冊のファイルを出して、わたしに渡してくれました。
「見れば判る」
 その言葉にそっとファイルをめくります。そこにはわたしが折木さんのアパートに入る所や、出て来るところが写されていました。勿論研究所の食堂で一緒に食事をするところもです。
「かなり親密なんだな。昔の男がそれほど良いか」
 父とは言え、酷い言い方です。
「折木さんは素敵な人です!」
「恋は盲目という言葉もある。まあ、お前も大人だ。誰と付き合おうが構わないが、結婚となるなら相手を選ばなくてはならない。何処の馬の骨では困るのだ。例えお前が家を継がなくても、千反田の名に関わるからな」
 車は陣出の坂を登っていました。もうすぐ到着します。
「お前も未だ若い、やり直しは幾らでも出来る。しかし相手は選ばないと駄目なことぐらいは理解出来るだろう」
「わたしは……わたしは……」
「お前の相手は、今度はこちらで間違いの無い相手を選んでやる。それまでの火遊びだと思うが良い」
 父の言いたかった事はそれだけでした。要するに折木さんとは程々にして、親の選んだ相手とサッサと再婚しろということなのです。
 車は家に着きました。母が迎えに出てくれました。母も事情は判っているみたいです。表情でそれが判りました。
 その日は家の自分の部屋で色々と考えていました。自分の行動が甘かったのは事実です。でもまさか……。家を継がなくなったわたしは、千反田の楔からも解き放たてられたと思っていたのです。でもそれは間違いでした。やはりわたしは千反田の楔に繋がれていたのでした。
 お昼過ぎに摩耶花さんと、少しだけ時間を作って貰い逢うことが出来ました。正直に今朝のことを打ち明けると
「まさか! 確かに神山では、ちーちゃんは色々な目で見られていたかも知れないけど、茨城くんだりまでとは……それだけ目立っていた訳なのね。折木もそんなことぐらい考えなかったのかしら」
「折木さんは悪くありません。わたしの甘さなんです」
「でもちーちゃんは正直、折木と一緒になりたいのでしょう?」
 それは今までも心の隅にいつもありました。一日足りとて忘れたことはありませんでした。
「ならこれは二人の問題よ。折木にもちゃんと正直に話して、アイツにも協力させた方がいいわ」
 確かにそれが正解なのでしょう。でも折木さんがわたしとの結婚を望まないなら。このままの関係で満足なら……。
「もう、なんでそんなこと考えるのよ。このままならちーちゃんは、何処かのバカ息子の所にお嫁に行かされてしまうのよ。折木だって協力するわよ。折木だったら何か妙案がある気がする。アイツの頭の中は普通じゃないから」
 確かに、折木さんはわたしでは及びもつかない思考で問題を解決してくれました。今度も頼って良いのでしょうか?
「それしか解決作は無い気がするわ」
 わたしは摩耶花さんの言葉を胸に茨城に帰って来ました。新幹線の中からも折木さんに電話をして、今日父から言われた事と摩耶花さんの言葉を伝えました。
「そうか、俺はお前がまた誰かに抱かれるのは嫌だな。おれだけの千反田で居て欲しい。それが俺の真意だ。誰にもやりたくない」
 はっきりと言ってくれて嬉しかったです。
「本当は直に言う積りだったんだ」
 電話の向こうで折木さんが少し微笑んだ気がしました。
「俺は俺で色々と考えてみるから、安心しろ」
 その言葉が頼もしく嬉しかったです。

 それから二週間は折木さんの仕事の都合で逢うことが出来ませんでした。正直、何処かで見張られているのかと考えてしまいました。一人で食堂でお昼を食べていると同僚の女子が
「千反田さんて岐阜の旧家の生まれで名家なんだって?」
 そんなことを尋ねて来ました。誰から聞いたのでしょうか。
「ええ、名家かどうかはともかく、古いことは古いです」
「そうなんだ。よく一緒にお昼食べてる商社の人は?」
「ああ、高校の同級生なんです。同じ部活にいました」
「へえ、すると昔の彼氏?」
「そんなんじゃありません。敢えて言うなら傷を分け合った同士です」
「同士……へえ〜」
 同僚は半分関心して去って行きました。きっとこれも尾ひれが付いて出回るのでしょうね。でも構いません。もう折木さんにも打ち明けたのです。後には引けませんでした。


 父に残酷な宣言を受けて茨城に帰って来てから二週間が経ちました。この間、折木さんとは毎日のように電話をしていました。内容は、千反田の家の内情や父が経営している「千反田農産」のことでした。わたしは最初それが二人にどうような関係があるのか正直判りませんでした。
 そして、一度は研究所に仕事で来て、いつものように一緒に昼食を採りました。その時は、電話よりも具体的に訊かれました。その時も、その理由がよく判りませんでした。
 やがて週末に折木さんの家に泊まりに行った時の事です。食事の後片付けが済んで二人で並んでテレビを見ていた時の事でした。
「千反田。実は鉄吾さんに渡して欲しいものがあるんだ」
 そう言って自分の机の上に置いてあったA4コピー用紙の束を持って来ました。
「これは?」
 わたしの疑問に折木さんは
「この数週間。俺なりに千反田の家のこと。家業の農家の事を色々と調べさして貰ったんだ。そこから色々な問題点が見つかったので、後半で俺なりの解決策を書いておいた。改善点となるものはシステムの簡単な変更で済むから、早ければ三ヶ月もあれば改善の効果があると思う」
 折木さんはわたしにも目を通すように促しました。わたしもどのような事が書かれているのか興味があってので目を通してみました。
 そこには今の「千反田農産」が抱える問題点が的確に書かれていました。外部の者でよくこれだけの事が判ったと思いました。
「どうしてこれだけの事情が判ったのですか?」
 わたしの疑問に折木さんは
「ああ、俺の大学の時の専攻は何だった?」
「確か、農業経営……ああ、専門なんですね!」
「そうだ。いつかお前の隣に立てるようにと学んだんだ。今頃役に立つとはな。でもお前に内情を随分訊いたのでそれが役に立った」
 わたしは折木さんの真意が判り、嬉しさを隠せませんでした。
「千反田家に留まらず、陣出の農家の主な作物は米だ。俗に『千反田米』と呼ばれる食味のランクでも最高位を取得している米だ。だが昨今、米ほど競争の激しい物もない。かって王者の名を欲しいままにした、魚沼産のコシヒカリでも食味ランクでは王位から落ちてしまった。そして、かって米が育たないと言われた北海道で栽培された『きらら397』という米が、食味ランクでトップに立つとは誰も思わなかったろう。『千反田米』も例外では無い。今はまだ売れているが、少しずつ落ち始めているのも事実だ。栄華は何時までも続くものでは無い。だから新しい作物を見つけるのが第一だが、その前に今までのやり方を変えないとならない。その辺を書いたのだ」
 確かに書いてある内容は、一々頷けるものばかりでした。
「問題は、俺が直に持って行っても鉄吾さんは読んではくれまい。だからお前から渡して欲しいんだ」
 わたしは嬉しかったです。わたしの愛した人はこんなにも素晴らしい人だったと、誇りたい気持ちでした。
「判りました。必ず父に渡します」
 そう約束をしました。
「おいで」
 その夜は久しぶりに希望が胸に湧き、非常に嬉しかったです。
 次の休みの日に、新幹線で高山に向かいました。父には内緒でしたので名古屋から神山線の特急に乗ります。日本ラインの美しい景色を眺めながら、このレポートで父の折木さんに対する評価が変われば良いと考えていました。
「今帰りました」
 休日なので両親も家に居ました。これは幸いでした。両親が出迎えてくれました。
「どうした。連絡も無しに帰るとは珍しいじゃないか」
 父は急にわたしが帰った事に納得が行かないようです。
「今日はお父様にお見せしたいものがあって帰って来ました」
「見せたいもの?」
 怪訝な顔をした父にわたしは、折木さんのレポートを出します。
「何だこれは?」
「この『千反田農産』の問題点と解決策を書いたレポートです」
「レポート? 誰が書いたのだ」
「折木さんです」
「ああ、あの男か」
 父は急速に興味を失ったみたいです。
「一度で良いから読んで見てください。折木さんに対する考えが変わると思います」
「大層な買い被りだな」
「買い被りではありません」
「ああ判った。後で読んでおく。それより見合いの写真が来てるんだ。見て行きなさい」
「お願いです。今すぐ目を通してください」
 余りのわたしの気迫に父も折れてくれて、レポートを手にしてくれました。そしてゆっくりとページを捲って行きます。最初は薄笑いが浮かんでいましたが、やがてそれは消え、真剣な表情に変わって行きました。
「える。これは本当にお前の同級生が書いたものなのか?」
「はいそうです」
「彼は何者だ? 単なる農産品を扱う商社マンでは無かったのか」
「彼は大学で当時最先端だった多角的農業経営を学んだのです。だからわたしとは離れて東京の大学に進学したのです」
「そうか……。これについては色々と訊きたいことがある。このレポートは確かに的確に書かれている。だが完全では無い。足りない部分もある。そこを尋ねたい。一度連れて来なさい」
「では?」
「まだ早い! 認めた訳ではない。この千反田に相応しい男かどうか、全てはこれからだ」
 そう言った父は千反田家の当主の表情をしていました。
 茨城に帰って来て折木さんに連絡を取ります。
「そうかでは時間を作ろう、休暇を取っても良いしな。お前は休めるのか?」
「折木さんは自分の事なのに、わたしの事を心配してくれます」
「はい何とか連休を取れるように調整します」
 こうして、わたしと折木さんは父と対決する事になったのです。