寝るには早すぎる。これからが大人の時間だ。それは千反田も分っているのだろう。俺の背広の袖口をそっと引っ張ると
「神山も最近では遅くまでやってるお店もありますよ。折木さんは呑み足りないのでは無いですか」
 そんな軽口を口にした。
「よく分かったな。まあ正直、もう少し呑みたい気分ではあるな。でもお前は呑めないからな」
 千反田は、アルコールが入ると性格が変わって、その上意識を失うことがあったので呑ませられない。
「うふふ。ほんの少しなら飲めるようになりました」
 そう言って千反田は少し上目遣いに微笑んだ。
「でもビールならグラスに二三杯ですけど。ワインならグラス一杯程度です」
 まあ付き合い程度だと言う事なのだろう。社会人となり会社の社風が体育会系というなら「飲めません」と拒絶は難しいだろう。
「実は良いお店を摩耶花さん達に訊いていたのです」
 そうか、では千反田は最初から俺を誘う積りだったのかと考えた。
「用意がいいことだな」
「すみません。卑しい女なんです。でもどう思われても今日は折木さんと、お話がしたかったのです。お詫びを兼ねて」
 最後の言葉が気になった。俺は千反田にお詫びを言われる筋合いはないし、記憶も無い。
「兎に角ご案内します。こちらです」
 そう言って千反田は俺の腕を引っ張った。俺はその腕に俺の腕を通して腕を組んだ。
「あの頃こっそりと、こうやって腕を組んで歩いたな」
「そうですね。誰にも見つからない所だけでしたけど。でも本当に嬉しかったです」
「あの頃。こういう関係がそのまま何時までも続くと思っていた」
「わたしも同じです」
 繁華街を少し外れた所に洒落た店があった
「あそこです」
 外観からは里志の趣味だと直ぐに理解出来た。
 少しだけだが、スコッチパブを思わせる作りになっていた。
「いらっしゃいませ」
 店の主に迎えられた。
「福部さんの紹介で来てみました」
 千反田の言葉に店主は笑顔で
「そうですか。それはそれは、ようこそいらっしゃいました。何にしますか?」
「俺はハイボールがいいな。千反田は?」
「そうですね。ハイネケンをお願いします」
「ハイネケンなんてやるじゃないか」
「うふふ、真似事です」
 店は五席のカウンターと二人がけのテーブルが二つという狭さだった。俺と千反田は奥のテーブルに向かい合って座った。程なく飲み物とテーブルチャージ代わりのおつまみが出された。
「ごゆっくり」
 笑顔で店主もといマスターが下がって行く。お互いが一口口を着けてから千反田が
「長い間考えていたことがあるんです」
 そう言って手元に置いたグラスを見つめた。
「何をだ?」
 千反田の考えていた内容が俺には思い付かなかった。
「折木さんにお詫びをしなくてはならない事です」
「おい。謝るなら寧ろ俺の方だろう」
 あの頃に段々と連絡を絶ったのは俺の方だ。
「大学に進学して右も左も判らないわたしでしたが、折木さんは何回も京都まで来てくれました。本当にとても嬉しかったです。そして一緒にいる時は幸せでした。折木さんが帰るのが辛くて京都駅で何回も駄々を捏ねました」
 そう言えば、最終に近い京都駅の新幹線のホームで千反田は俺の胸に縋って(すがって)涙を流した。俺としてもこのまま京都に残りたかったが、そうは行かないので泣く泣く新幹線に乗ったのだった。
「判っていたのです。でもこんなに愛しい折木さんが帰ってしまう事実に耐えられなかったのです。そんな態度は、親にも見せたことありませんでした。あの頃、折木さんになら自分の全てを見せても良いと思っていました。心の底から信頼していました。いいえ信頼なんて言葉では足りないかも知れません。折木さんは、わたしの一部のように思っていたのです。だから折木さんが、帰ってしまう事実が身を引き離される感じだったのです」
 そう言われればあの頃、色々と思い当たる節もある。言い換えれば「情熱的」という事だ。俺も千反田も熱にうなされていたのだろう。
「その後も折木さんは色々とわたしの事を考えてくれました。でもわたしはそれに応える事が出来なかったのです」
「千反田。それは違う。俺はお前が、立派な成績を上げる事が第一だと思っていた。その為なら俺が我慢しなくてはと考えたのだ」
 あの頃、俺は腹の底から、そう思っていた。その為なら俺の欲望は抑えないとならないと思っていたのだ。
「いいえ。わたしは折木さんに甘えていたのです。少しぐらいなら折木さんは許してくれるだろう。この位なら大丈夫だろうと甘えてしまったのです。気が付いた時は既に全て遅かったのです。わたしの我儘が二人の関係を壊してしまったのです。だから今日は折木さんに謝りたいのです。そして今更ですが許して欲しいのです」
 千反田は呑めないハイネケンをグラスに半分ほど飲み込んだ。
「やっぱり苦いですね。これは今のわたしの気持ちと同じですね」
 千反田はそう言って笑おうとした。
「もういい。お前がその積りなら俺は何も言わない。誰が悪かった訳では無いと思う。あの頃は仕方なかったんだ」
「では許して戴けるのですね」
「許すも何もない。俺はこうしてお前と話せて嬉しいよ」
 その後もう少し飲んで店を出た。大分遅くなったが神山も大したものだ。まだやってる店が多かった。昔はこの時刻だとすっかり暗くなっていたものだ。
「千反田少し付き合ってくれホテルが泊まれるか訊いてみる」
「はいお付き合いします」
 腕を組んで千反田と夜の街を歩く。長い千反田の髪が夏の夜の風に吹かれて俺の肩に触れる。それが心地よい。まさかこうなるとは、今朝まで全く思っていなかった。
 大手のチェーンのビジネスホテルに向かい、フロントで尋ねると部屋はあると言う、すると千反田が
「ダブルかツインもありますか」
 そんな事を言いだした。ホテルマンは
「はいどちらもありますよ。どちらにしますか?」
「ではツインをお願いします」
 俺は驚いて千反田の横顔を見た
「二人だけで、誰にも聞かれない状況でもお話がしたいのです」
 この後に及んで「誰にも聞かれない話」とは何か。 千反田は訴えるような眼差しで俺を見つめていた。