それは、あの事件の記憶も冷めやらぬ頃だった。これは記録として残しておきたいと思いここに記す。但し、他の誰でもない自分の為に。

 高二の夏休みも八月に入っていた。二週間も経った今では、あの雨の中を迎えに行ったのさえ本当だったのか怪しいものに感じていた。
 その日は特に暑く、家でクーラーの申し子と成り果てていた。こんな時学生はありがたい。姉貴などは社会人なので気ままな暮らしは出来ない。それは仕方ないだろう。但し貧乏な高校生にはお金は無い。
 朝から高校野球の中継が掛かっていて、何とも無くそれを視界の隅に留めていた。他に新聞を読むでも無く、小説を読む気力も残ってはいなかった。何気なしに電話の方を見たら、俺の視線に気がついたのか突然鳴り出した。徐に受話器を手に取る。
「はい折木ですが」
「ああ、折木さんですか、良かったです」
 電話の主は千反田だった。思ったより元気そうだった。あいつの身に何が起きたのかは判らないが、その声を耳にしただけでこちらの気持ちが和らいだ。
「どうした。また何かあったのか?」
「いいえ、先日は本当にお世話になりました。心より感謝しています」
「そうか。それは何よりだ」
「本当なんですよ!」
「別に嘘とは言っていない。それに何の用で電話をしたのだ?」
「ああそうでした。忘れるところでした」
「忘れるほど軽い事なのか?」
「まあそうですね。それほど重大ではありません」
「じゃ切るぞ!」
「ああ待ってください。今日はお暇ですか?」
「今日か? 家でゴロゴロする用事がある」
「大事な御用ですか?」
「そうでもないが休養は大事だ」
「そうですね。でも少しお出かけして見ようとは思いませんか?」
「どこにだ?」
「市のスポーツセンターです。そこの弓道場です」
「弓道場? お前弓道なんかやるのか?」
「前から少しやっていましたよ。趣味にもならないぐらいですが」
 千反田の言葉を耳にして、ある思いが浮かんだ
「もしかして『神山令嬢倶楽部』か?」
「そうです。今日は『神山令嬢倶楽部』の有志が集まり、市のスポーツセンターの弓道場で弓を射るのです」
 そこまで言って千反田の思惑が読めて来た。要するにコイツは自分の弓を射る姿を俺に見せたいのだと思った。
「お前、人に見せるほど上手な腕前なのか?」
「そうですね。入須さん程ではありませんが、倶楽部の中ではそこそこだと思います」
 頭の中で千反田が弓道着に身を包み弓を射る姿を想像してみる。案外見ものかも知れないと思った。
「何時からだ?」
「午後の二時からです。会場は二時間抑えてありますが、事実上一時間もやれば良い方だと思います。来て頂けますか?」
 正直、夏の勝っ盛りに炎天下を移動するのは辛いと思ったが、千反田の弓道着姿を見たくて返事をしてしまった。
「判った。市のスポーツセンターの弓道場だな?」
「はいそうです」
「午後二時からなんだな?」
「はい。お待ちしています」
 千反田の期待を込めた声を耳に残して受話器を置いて時を確認すると午前十一時を少し過ぎた頃だった。昼飯を済ませてもたっぷりと時間はあった。

 炎天下の中、自転車を走らせる。スポーツセンター迄は二十分もあれば着くはずだった。自転車置き場に自転車を置いて「弓道場」と書かれた案内板を頼りに進む。時間を確認すると一時四十五分になろうとしていた。余裕だと思った。
 長い廊下を歩いて行くと突き当りが「弓道場」らしかった。入り口のドアを開けると手前が観覧出来るようになっており、その奥が弓を射る場所でその先が開けていて、かなり遠くの突き当りに的が等間隔に並んでいた。あそこの中心に弓を射るのだろう。的は全部で七つあった。つまり七人が同時に射ることが出来るという訳だ。弓道場は壁も床も木目で出来ていて木の香が心地よかった。
「あ、折木さん。もう来てくれたのですね」
 その声に振り向くと千反田を初め、大勢の女性が姿を表した。その中に入須先輩の姿もあった。
「おや折木くんじゃないか。久しぶりだな。君も弓道に興味があるとは思わなかったよ……ああ、そうか千反田がらみか。ならちゃんと見て行った方が良い。君の想い人は素晴らしい腕だからな」
「入須さんそんな事を言っては……」
「半分は本当。もう半分は冗談だ」
 入須先輩はそう言ったが、想い人というのは少なくても当たってはいる。
 千反田を初め、女性陣は白い上着にレザーの胸あてをして黒の袴をしている。袴の帯はそれぞれが好みの色を使っているみたいだ。白い足袋が眩しい。
 各人が矢筒や弓を取り出して準備をしていく。準備の出来た者から射るみたいだ。試合では無いので各人が徐に射るみたいだ。
 千反田も準備が出来たみたいだ。長い髪を頭の後ろで纏めてあり、普段では見られない姿と相まって中々の見ものだった。
「折木さん。私の弓道着姿いかがですか?」
 嬉しそうに言うその声は明るかった
「ああ良く似合っているよ。旧家なんだからやっていても当然なのかもな」
「そう言って頂けると嬉しいです。それでは射りますから見ていてくださいね」
 千反田はそう言って弓と矢を持って射る場所に移動した。俺は千反田の姿が良く見える位地に移動した。
 千反田は右手で矢を掴むと弓の弦に当てて思い切り強く弓を引いた。そして狙いを定める。千反田の視線が真剣なのが分かる。
 恐らく己の呼吸と感覚を調整しているのだろう。精神を集中しているのが分かる。そして、それがピークになった瞬間、矢が放たれた。
 矢は真っ直ぐ飛んで的の中央に突き刺さった。見事なものだと思った。
「千反田、中々良いぞ!」
 入須先輩が声を掛ける。俺も
「見事だったな」
 そう言って褒めた。千反田は少し嬉しそうな表情をしただけだった。恐らく集中力を切らしたく無いのだろう。続けて二本目を射ると今度も的の中央に突き刺さった。千反田の集中力は素直に凄いと思った。
 真剣な眼差しで的を睨んでる千反田の表情も中々良いものだと思った。凛とした格好良さとでも言うのだろうか。
 結局最初は五本射って三本が的の中央に当たり、二本が僅かに逸れたのだった。その後は他の者と交代となった
 俺の所に千反田がやって来て二人で並んで観る事にする。
入須先輩は五本全部が中央に当たった。
「やはり入須先輩は凄いです」
 千反田はそう言ったが、俺にとっては千反田の凛とした姿や表情の方が収穫があった。
「なあ千反田。次の時も声を掛けてくれよな」
 そう言ったら千反田は嬉しそうな表情をして
「もちろんです。折木さんが見に来て下さると、わたしの成績も上がりますから」
 そう言った。その表情を見て本当に来てよかったと思う。もしかしたら千反田が射抜いた的は俺の心だったのかも知れないと思った。


                      <了>