夕日がもう真っ赤に街を照らしていました。何時もの商店街の交差点で折木さんと別れ家に向かって自転車を漕ぎ始めました。
先ほど感じた胸の高鳴りは、まだ収まりそうにありません。今まででこんな経験は初めてです。どうしたのか自分でも良く判りません。
折木さんが語った言葉『無神経というか、つまり人の気も知らないでという感じか。多分二度と小木には会わないから、人の気も何もないんだが』が今でも耳の奥に残っています。
その言葉を聴いて、わたしは折木さんの本当の優しさを見た気がしました。二度と会う事もない人のことまで気にかけておく……普通はそんなことまで気が回りません。それなのに……。
普段は『やらなくても良いことはやらない。やらなければならないことは手短に』などと言っている人ですが、わたしは、そんなことを実行してる折木さんの姿は見たことがありません。それよりも、寧ろ常に人の為に行動している方だと感じていました。普段から例のモットーを口にしているのは、本心を知られたくない照れ隠しだと感じていたのです。
でも本心が判った今、わたしの心は揺れています。常に人に対して先までのことを考えている人なのだと思いました。
もう日が暮れてしまっています。その中をライトの灯りを頼りに自転車を漕いでいます。ありえないことですが、ここに折木さんが一緒に並んで走っていてくれれば、どんなに素敵だろうかと思ってしまいました。普段はそんなことを一度も思ったことさえ無いのにです。
折木さんはもう家に着いたでしょうか。明日も古典部に顔を出してくれるでしょうか。もし幸いに二人だけなら、真っ先に美味しいお茶を入れてあげようと思います。そして二人で楽しい会話をしたいと思いました。
もうすぐ家です。この辺りまで帰って来て、わたしは自分がおかしいことに気が付きました。先程から折木さんのことばかり考えているのです。こんなことは今まで一度もありませんでした。
頭の中に、いいえ心の中に折木さんが住み着いてしまった感じなのです。それは折木さんは同級生ですし、同じ古典部の仲間でもあります。親しいのは当たり前です。一緒に合宿もして幽霊の謎を調べました。雛のわたしに傘をさしてくれました。その時わたしは判りました。あの頃から折木さんはわたしの心の中に住んでいたのだと。
つまり、わたしは恋に落ちたのだと自覚しました。これが恋なのですね。人を愛するということなのですね。何を考えても心に想う人が真っ先に浮かび、それを想うと心が苦しくさえなる……。これが恋なのですね。
でも、でもそれならば恋とは何んて素晴らしいのでしょうか。人を好きになるという幸せをわたしは感じながら家に着きました。
「おかえりなさい」
「ただいま帰りました」
恐らく母はわたしの状態が普段とは少し違うと言うことに気がついたでしょうか。
夕食を食べて、お風呂に入って、授業の予習をします。机に向かっていても視線の先に浮かぶのは折木さんの姿なのです。明日も逢いたい。出来れば二人だけで……わたしは何と恥ずかしいことを考えているのでしょうか。でも、でもそれが本心なのです。
机に向かっていても勉強が全く進まないので寝ることにします。布団を敷いて横になります。暖かい掛け布団を掛けて眠りに就こうと思いますが、やはり心に思い浮かぶのは折木さんのことばかりです。今日の会話は勿論、より以前に交わした会話までもが心の中を巡るのです。
いつの間にか朝日が差し込んでいました。眠れたのか眠られなかったのか判らないまま朝が来てしまいました。
何時ものように顔を洗って、学校に行く支度をします。その後朝食を戴いて家を出ます。春らしくなって来たと感じます。でも自分の心は放課後に飛んでいるのです。本当にわたしおかしいです。折木さんの顔を見れば収まるのでしょうか。多分そうなのでしょうね。
放課後古典部の部室に顔を出すと既に折木さんが何時もの席に座っていました。昨日と同じ文庫本を読んでいます。
「折木さんこんにちは早いですね」
なるべく嬉しさを出さないように表情に気を使います。すると折木さんは
「千反田。昨日はありがとうな。遅くなってしまったろう。悪かったな」
そう言ってくれました。早く来たのは昨日わたしが遅くなってしまったことを気に掛けてくれたのだと理解しました。本当に細かい所まで気を配ってくれます。でも、そんなことは良いのです。わたしは
「大丈夫ですよ。遅くなることは良くありましたから。それより昨日は折木さんの隠れた一面を発見致しました」
そう伝えました。すると
「何だか随分嬉しそうだな。俺の何を発見したんだ」
そんなことを言います。わたしは
「それは、わたしだけの秘密です。摩耶花さんにも福部さんにも言いません。わたしの心に大事にしまっておきます」
「まあ何だか判らないがそれならそれで良いだろう」
折木さんは半分呆れて、また本を読み始めました。私はお湯を沸かすとお茶を入れて折木さんの元に持って行きました
「ありがとう。千反田の入れてくれたお茶は本当に美味しいよ」
この言葉も何回も聴きましたが今日は一層心に残ります。
わたしはこの二人だけの時間が何時までも続けば良いと考えていました。