四月になり今年も千反田は「生雛祭り」で雛の役をやった。恐らく人生で最後の雛の役だそうだ。
 俺は今年は見物させて貰った。本来の傘持ち役の子が今年は参加した。堂々としていて昨年の俺よりも大役を無難にこなしていた。俺は祭りを手伝った訳でもないので、その夕方の慰労会には呼ばれなかった。ひとこと千反田と言葉を交わしたかったが、千反田の忙しさでは、それも無理なので里志や伊原と一緒に自転車で帰って来た。そうしたら家に着いた途端電話が鳴り出した。
「はい折木ですが」
「千反田です。折木さん帰ってしまうなんて酷いじゃありませんか」
 電話の主は千反田本人だった。その声は明らかに怒りを含んでいるのが明らかだった。
「いや、すまん。お前が忙しいと思ってな」
 そんな言い訳を言う
「酷いです! 終わったら折木さんと昨年のように二人でお話がしたかったのです」
 話と言っても昨年みたく変わった事があった訳ではなく、ここの所は春休みなので逢ってはいないが、その前は部室で毎日色々な話をしたのだ。こっちのネタは尽きている。だがそんな事は口には出せないので一応取り繕う
「すまん。お前がそんな事を考えているなんで思わなかったんだ」
 そう言ったら千反田の怒りは少しは収まったようだった。だが次の一言が俺の想像の範疇を越えていた。
「では、これからお邪魔しても宜しいですか?」
「は? すまん。もう一度言ってくれ」
「未だ陽が高いですからこれから折木さんのお宅にお邪魔しても宜しいですか?」
 千反田がそんな事を言い出すなんて全く考えていなかった。特に今は春休みだ。時間なら明日も明後日もある。
「今からか?」
「駄目でしょうか」
 ここで断れば、やっと機嫌が直りかけている千反田の心情を悪くする。それだけは避けたいと考えた。
「来ても良いが帰りは暗くなるぞ」
「大丈夫です。バスは遅くまでありますから」
 市民文化会館と陣出を結ぶバスは、かって俺も乗った。休日だと一時間に一本運行している。このバスが陣出の人々の生命線という事もあり、神山郊外としては少し遅くまで運行しているのだ。自転車を選択しなかったのは雪解けで道がぬかるんでいる箇所があるからだろうと想像した。
 幸いというか、何と言うか今日は家には俺一人だけだった。姉貴は仕事で海外出張中だし、親父も帰りは遅くなると言っていた。
「そうか来るなら構わないが」
「では伺わせて戴きます。色々とお話がしたいのです」
 電話の向こうの千反田は少し興奮してる感じだった。
「でもお前は用事は無いのか? 慰労会に出なくて良いのか」
「以前から出ていませんでしたから。未成年ですからお酒は呑めませんから出ていないのです。慰労会が始まるまで未だ時間もありますし。それに今からなら次のバスに間に合います」
「そうか、なら待っているよ」
 そう言って受話器を置いた。時計を見ると三時を少し回った頃だった。千反田が言うには例年だと行列は午後一時から三十分行われるのだが、今年は時間が早まって十二時からだった。だから例年だと午後の四時頃にならないと開放されないのだが、今年は今の時間で既に千反田は役から開放されていたのだった。
「やっぱり待っていてやれば良かったかな」
 そう思い直したが後の祭りだった。

 四時近くになって家のインターフォンが鳴った。出て見ると千反田だった。本当に直ぐのバスに乗ったのだと思った。
「よく来たな。どうぞ」
 千反田を招き入れる。
「すいません。押しかけたみたいで」
 そう言った千反田からは怒りの感情は伺えなかった。何時もの千反田だった。
 リビングに招き入れて座らせる
「紅茶でいいか?」
「あ、はい」
 台所で電気ポットから湯をティーポットに注ぐ。そしてそのまま千反田にカップと一緒に出した。
「少し経つと飲み頃になると思う」
「ありがとうございます」
 千反田はティーポットからカップに紅茶を注ぎながら
「実は来る時のバスの中で気になることがあったのです」
 そう言って徐に顔を上げて俺の方を見つめた。その瞳は明らかに輝いていた。仕方ないと覚悟をする。休みの間は極力頭を働かせたくはなかったのだが仕方ない。
「どうしたんだ」
 俺の言葉に千反田は嬉しそうな表情をして
「実はバスでここまで来る時に、あるご老人に席を譲ったのですが、やんわりと断られてしまいました。その理由がわたしには判らないのです」
 そう言って千反田は紅茶に口を着けた。
「ああ、美味しいです。供恵さんが選んだ銘柄ですよね。素晴らしいです」
 確かに姉貴が買ったものだが、姉貴が買った紅茶の銘柄はこれだけでは無い。色々と買ったのだ。その中から千反田が好みそうな銘柄を選んだのは俺なのだが、それは口にしなかった。
「どんな状況だったんだ?」
 俺の質問に千反田はなるべく俺に判るように話だした。
「陣出から市民文化会館に向かうバスは、折木さんも利用されたことがあるのでお判りだと思いますが、一部山道を走りますが殆どは平坦な道を走っています」
 俺はその言葉に昨年の夏のことを思い出していた。決して良い思い出とは言えないが、あの事があり今の俺と千反田がある。それも事実なのだ。
「南陣出の停留所からご老人が乗ってこられたのです。バスは『生き雛祭り』を見た人々が乗っていて、何時もとは違って結構混んでいました。わたしは始発という事もあり座れたので、そのご老人に席を譲ったのですが、断られてしまいました」
「何と言われたんだ」
「はい、『ありがとう。でも事情があり席には座りたくないんだよ。』と仰ったのです」
「事情があると言ったんだな。その事情を探りたいという訳か」
「はい、そうなのです」
「バスで席に座る。車内は結構混んでいたんだな」
「はい、かなり混んでいまして、立っている方も大勢いました。満員に近かったと思います」
「そうか、ところでバスの席は進行方向に向かって前向きだったか」
「ああ、そういえば何時もはそうなのですが、今日は『生き雛祭り』が行われるので、大勢の方が乗れる進行方向に向かって横向きで、反対側の席と向かい合うタイプの車両でした」
「そうか、それでも満員に近かったのだな」
「そうです」
「じゃあ、例えば座ってしまうと反対側の車窓の景色は見られない訳だな」
「はい。わたしも座っていましたから、人が前に立っていたので反対側の景色は見られませんでした」
 それを聴いて俺はある考えが浮かんだ。姉貴の部屋に行き神山市の地図を持って来た。それを千反田の前で広げる。
「バスのルートを指で示してくれ」
 千反田は訳が判らないという表情をしていたが
「ここが陣出の停留所ですから」
 ゆっくりと千反田が地図の上で人差し指を動かして行く。南陣出を過ぎて暫く行ったところで
「そこだ。そこに理由がある」
 俺はそう言い切った。その言葉に千反田は
「ここは停留所ではありませんが」
 そう言って困惑していた。
 神山市の東北部にある陣出から市民文化会館に向かうバスの路線は地図の上では右上から左下に下がって行く形になっている。南陣出を過ぎて暫くしたあたりに「野麦のこぶし」と書かれた印があった。地図の上ではバス路線の上の方に書かれている。
「お前はもしかして進行方向左側に座っていたんじゃ無いのか?」
「あ、はい運転席とは反対側に座っていました」
「その席に座ってしまうと、この『野麦のこぶし』は見ることが出来ない。もしかすると、その人は『野麦のこぶし』が見たかったんだろう。丁度今は満開だろう」
「そう言えば市役所のこぶしも満開でした」
『野麦のこぶし』とは、樹齢三百年にも及ぶこぶしの大樹で、幹が八メートルもあると言う市の記念物に指定されている。その昔、長野県岡谷の製糸工場に向かう女工たちが雪解けのこの道を通って通ったそうだ。その歴史から名付けられたのだ。神山ではちょっとした名所になっている。
「これは俺の想像だが、そのご老人は、どうしてもこぶしの満開の様子が見たかったのだと思う。バスが空いていれば反対側に座っても見られるが、今日みたく観光客でいっぱいなら、立って窓の方を見ていなければ見る事が出来ないからな」
 俺の想像を聞いた千反田は
「そう言えばそのご老人は反対側に向かって立っていました」
「もしかしたら、その昔の紡績の女工さんと何か関係があるのかも知れないし、あのこぶしに特別な思い出があるのかも知れない。こぶしはバス停からだとかなり歩くだろう。でもバスからなら簡単に見られる」
「そうでしたか、わたしも毎年見ているのでウッカリ忘れていました。でもあのご老人は、あのこぶしにどの様な思い出があるのでしょうね」
 俺の言葉に千反田が遠い目をした。
「折木さんとわたしなら、さしずめ、あの狂い咲きの枝垂れ櫻ですね」
 千反田は嬉しそうな顔をした。
「今年はコースが例年どおりなので、あそこは通りませんでしたが、恐らく咲いてないでしょうね。昨年はまさに奇跡だったのかも知れません。狂い咲きの桜と折木さんが傘持ちをしてくれたことと言い」
 千反田は思い出に浸っていた。このままでは何か言われるかも知れないと考えて
「ところで、それとは別に何か話があったのだろう?」
 そう言って千反田を現実の世界に引き戻した
「ああ、そうでした。父が『今年は折木くんは来たのかい? 姿が見えないので皆心配していたんだよ。そして、お前との仲はどうなっているのか』と訊かれたのです。ですから、その……」
「その?」
「もう意地悪です! 父にはちゃんと説明しました。ここに来る許可も貰いました」
 そうか、高校を卒業するまで一年を切ったのだと思った。それまでの間どのような事があるのかと思うのだった。そんな事を考えていたら千反田が
「折木さん。今夜は泊まって行っても良いですか? 父の許可も貰っています」
 いきなり、そんな事を言い出した。まさか鉄吾さんの許可とは……。
「お前、泊まるって……」
 正直、今夜この家で二人だけになったら、何も起きないという保証はしない。いや多分出来ないだろう
「ふふふ、嘘です。今夜は最終バスで帰ります。それまでは二人だけです。本当は二人だけになりたかったのです」
 そう言って千反田は俺の懐に飛び込んで来た。抱きしめると千反田の甘い香りに包まれた。その香に迷いそうだった。

                                 <了>