神山の稲の刈り入れは殆どが十月に行われる。一部早稲の品種が九月に借り入れるがそれは、それほど多くは無い。部屋の窓から空を見上げ、『今年はこれ以上台風が来ませんように』と願うのだった。
 とここまで考えて、俺はいつからこんなにも神山の農業のことを心配するようになったのかと自問して苦笑した。そう、俺がこのような想いをするようになったのは、かのお嬢様のせいだと……。
 千反田と係わり合いを持つようになって一年半が過ぎた。人との係わり合いをなるべく避けるように生きて来た俺にとって千反田は正反対の生き方をして来た。尤もそれが判ったのは最近になってからだ。
 暑さも収まりそろそろ千反田の家でも忙しくなるのだろうと薄曇りの空を眺めていた。すると下から姉貴が俺を呼ぶ声が耳に入った。
「ちょっと奉太郎、いる? いるなら降りて来てくれない」
 今日は土曜日、めずらしく姉貴は仕事が休みだった。昨夜、遅く帰って来たのは知っていたが、俺は部屋から出なかった。眠りに落ちる寸前だったのだ。
「ああ、いるが、何か用か?」
「うん。用と言うより面白いものを見つけたから、アンタにあげようかと思って」
 気まぐれな姉貴のことだ、いったい何をくれようと言うのだろうか。階段を降りてリビングに行くと、いきなり二冊の本を手渡された。
「何だこれ?」
「アンタに参考になると思ってね」
 二冊の本を見てみると片方は「本当はダメなアメリカ農業 」と書かれており表紙にはアメリカの大統領の顔が書かれている。もう片方は「アメリカ農家の12カ月」という本で、表紙はアメリカの穀倉地帯が描かれていた。
「これは農業の本じゃないか。これが俺と何の関係があるんだ?」
 俺は神山高校の二年生だ。進路だって未だ決めていない
「あら、関係無くないと思うけどね」
 姉貴が意味有りげな笑みを浮かべた
「そりゃ俺と千反田は親しい関係にあるが、だからといって俺と農業は関係がない」
「今はね」
「今は?」
「そう、だってえるちゃんは家を継がなくても農業の方に進むのでしょう?」
 いったい姉貴はそれを何処から知ったのだろうか?
「どうしてそれを知った」
「ああ、やっぱりね。普段のあんたの顔や行動を見ていたら簡単に想像がつくわ。それでアンタはそれをサポートする為に農業経営を学ぼうと考えているのでしょう」
 これは驚いた。千反田がやはり農業の方に進もうと考えていることは、多分俺しか知らない。そして俺の考えは誰にも口にしていない。今の段階では千反田にさえこの前口にしただけで、正式には話していない。
「呆れたな」
「どうしてよ。優しいお姉様に感謝しなさい。『アメリカ農家の12カ月』は古い本だから廃棄処分になるのを貰ったのよ。でも『本当はダメなアメリカ農業 』は新刊だからわざわざ買ったのよ。但し、それが無用の長物になるかどうかは、アンタ次第だからね」
 姉貴はそう言って自分の部屋に消えて行き、やがて
「出かけて来るからね。多分夕飯は要らないわ」
 そう言って出かけて行ってしまった。親父は出張なので今夜は俺一人だと言う訳だ。
 部屋に帰って姉貴に渡された本を眺めて見る。「アメリカ農家の12カ月」は単行本で分厚いが活字が大きいのでそれほど読むのに時間はかからなそうだった。特に用事も無いので手にとって読んで見る。
 内容はアメリカ農業の仕組みというか、どのような工程で農家が活動しているのかというものだった。これを読むと、日本とアメリカの違いがよくわかり、とても面白かった。たしかに、この栽培方法では、日本はコスト的に勝てないと思った。
 
 月曜日の放課後地学講義室で「本当はダメなアメリカ農業」の続きを読む。昨日途中まで読んだので続きだった。程なく読み終えた。要約すると、今のアメリカ農業の問題点が書かれていて、特に農薬と遺伝子組み換え問題が重くのしかかっていて、更に保護主義がアメリカ農業を一人負け状態に追い込んでいるという内容だった。
 本を置くと千反田が声をかけて来た
「さきほどから、面白そうな本をお読みになっているのですね。読み終えたら、わたしにも貸してください」
 目の前に座ってニコニコしている。
「何を読んでいたのか判っていたのか」
「はい、だって折木さんカバーも掛けずに読んでいましたから」
 そうか、文庫あたりだとカバーを掛けるのだが新書なのでそのまま読んでいたのだった。
「ならば」
 俺はカバンからもう一冊の本を出した。
「こっちと対で読んだ方が良い」
「そうですか、こちらは『アメリカ農家の12カ月』ですか、そして折木さんが今読んでいたのが『本当はダメなアメリカ農業』ですね」
「ああ、前者がアメリカ農業のやり方を書いている。特にコスト関係なら参考になる。後者は今のアメリカ農業の問題点が書かれている。これはもしかしたら明日の日本の農業の問題かも知れない」
「そうですか、ならば是非貸してください。でも、どうして折木さんが農業関係の本を読んでいたのですか? やはりこの前打ち明けてくれたからですか?」
「実はな、姉貴に読めと言って渡されたんだ」
「供恵さんがですか?」
「ああ、一言も言っていないのにな。全く油断のならない女だ」
「油断がならないなんて……素敵なお姉様じゃないですか。わたし願うなら将来は、供恵さんにお姉様になって戴きたいと思ってるのですよ」
 はあ? それって……。
「あ、わたし、つい普段思ってることを口に出してしまいました」
 目の前の千反田の顔がみるみる内に真っ赤になって行く。今千反田が口にした内容が、何を表すかはさすがに俺でも理解出来る。
「普段から思っていたことなのか?」
「ああ、また、わたし……」
 俺は普段から千反田からどう思われていたのかを理解した。そして俺の顔も真っ赤になっていくのを自覚した。
「あれ、ふたりともどうしたの? 今日はそれほど暑くないわよね」
 伊原が入って来て、真っ赤になってる俺と千反田を見て疑問に思っている。伊原の後から入って来た大日向が伊原の制服の裾を引っ張り
「どうも、わたしたちお邪魔なようですよ」
「そうみたいね。じゃ、ちーちゃんまたね」
 二人はそう言って教室から出て行った。俺と千反田は揃ってそれを見送る。
「行っちゃいましたねお二人」
「ああ、何か勘違いしたのかな」
 千反田は俺の隣に座り嬉しそうに語りだす。
「わたし、ひとりでいる時にたまに空想するんです。その中のわたしの隣には常に折木さんがいるんです」
 まさか千反田の妄想に俺がいつも出ているとは思わなかった。
「こんな俺で本当に良いのか?]
「はい、もう折木さんはわたしの心に住み着いているのです」
 千反田の告白を聴いて俺は自分の進路を真剣に考えるのだった。

                           <了>