さすがに八月も残りわずかとなると朝晩は秋の気配を感じるようになる。少なくともここ神山ではそうだ。
九月の始業式まであと一週間となったこの日、俺は神山高校に足を向けていた。そう、古典部の文集の編集会議があるからだ。
 今日は皆が順調ならば書いた原稿を持って来るはずだった。俺は、すでに書き上げていたから伊原に渡すだけだった。
「折木さん!」
 校門を入ったところで後ろから声を掛けられた。千反田の声だった。
「おう、原稿は出来たか?」
 俺は千反田が中々原稿に取り掛からなかった事情を知っている。あれから日にちもあった。果たして書けたのだろうか。千反田は自転車を降りて俺と並んで押して歩く。
「はい、なんとか書き上げました。出来は正直余り良くはないですが」
 成績上位者の千反田のことだから割り引いて考えなくてはならない。
「折木さんは今年もちゃんと書いて来たのでしょうね」
「ちゃんとかどうかは怪しいが一応書いて来た」
「正直、今年のテーマで折木さんがどのように書いて来たのか興味があります」
「わたし気になりますか」
「そうですね」
 神山高校の校門が後ろに過ぎ去り、学校の自転車置き場に向かう
「それより進路について決まったのか?」
 俺はこの休みの間に気になっていたことを直接尋ねてみた
「はい、理系ですからそっちの方向なんですが、正直、数学とか物理はそれ自体は楽しいですが、将来に渡って納めたいとは思いません。化学も部門によってですね」
 千反田の言い方でこいつが何を言いたいのか大凡推測出来た
「やはり農業の方向なのか?」
「判りましたか。さすが折木さんです」
 さすがも何も無いだろう。理系で物理、数学以外で多少化学に関係がある方向といったらこいつの場合、農業しかあるいまい。
「何度も考えました。将来千反田の姓を捨てることがあっても、幼い頃から慣れ親しんだ農業の道に進みたいと思いました」
 自転車置き場に自転車を置いて校舎に向かう。昇降口で上履きに履き替えて特別棟の四階に登る。地学講義室にはすでに里志と伊原が来ていた。
「おう、もう来ていたのか早いな」
「おはようございます。お二人早いですね」
「ああ、おはよう! ちーちゃん。元気だった?」
「やあホータローと千反田さん。元気そうで何よりだね」
 伊原と里志が返事を返してくれた。教室を見渡して大日向が来ていないことに気が付く
「大日向は未だのようだな」
「ひなちゃんは今日は少し遅れるそうよ。原稿は預かってるから構わないんだけどね」
 伊原がそんなことを言っていたら大日向が顔を出した。
「あれ、遅くなるんじゃ」
「はい、そうなるはずでしたが、用事が早く終わりまして」
 相変わらず日に焼けた顔が制服と妙にマッチしている。
「あのう伊原先輩、わたしの原稿なのですが、こちらと差し替えて戴きたいのですが……」
 大日向はそう言って新しい原稿用紙をカバンから出して伊原に差し出した。伊原はそれを受け取ると、自分のカバンの中から元の大日向の原稿と思われる原稿用紙を取り出して、入れ替えた。
「はい、これが元の原稿よ」
 伊原が意味有りげな顔をすると大日向は
「実は事実誤認というか間違えて書いていた部分がありまして、そこを修正したのです」
「そう、なら返って良かったわね。なんせ残るものだからね」
 そう言って新しい原稿を大事そうにしまった。文集はこの先、神山高校に古典部がある限り残って行く。そして後の世代の古典部員に読まれ引き継がれるのだ。
「図書館で新たに調べ直して修正版を書いたのです」
 今年のテーマは神山高校の卒業生と神山の街についてだ。伊原の意味有りげな表情と大日向の態度。その二つと最初の編集会議でのことを推測すると俺には大日向が何を間違ったのか推測出来た。恐らく伊原も了解済みなのだろう。

 編集会議は無事に終わり、今年は里志も伊原の指導が良かったのか短いながらも、ちゃんと書いて来ていた。大日向と伊原がそれぞれの原稿に簡単に目を通して確認した。
 解散となって伊原と里志と大日向が一緒に帰って行く。自然と俺と千反田が残された。鍵を返して昇降口で靴を履き替えて、自転車置き場に向かう。
「大日向さん結構大変でしたね。原稿を書き直すなんて」
 千反田が自転車を押しながらそんなことを言う
「大変だったが、やむを得なかったんじゃ無いかな」
「やむを得ないって、どういうことですか?」
 千反田の瞳が光った
「わたし気になります」
 こうなったら仕方ないので解説をする
「最初に原稿を書く時に神山高校の卒業生で有名人のリストを作ったろう」
「はい、各自がその中から選択するというものでした。その中にわたしの一族の者も入っていたので、わたしは、それを選択しました」
「そうだった。その時里志と伊原、それに大日向も選択したよな」
「そうでした。確か各々二名を候補に上げていたと思います」
「その時に、後でどちらか決めることになっていたよな」
「確かそうでした。それが何か……」
「ダブったんだよ」
「ダブったとは?」
 千反田はピンと来ないらしい。
「つまり、里志の選んだ人物と大日向が選んだ人物は二名のうち一名が同じ人物だったんだ。大日向は最初の原稿で選択した一人について書いたんだ。つまり里志が選択しないであろうと言う方だな。だが、編集で何度も伊原と逢っている内に、里志の選択した人物と自分が選択していた人物が同じであることに気がついた。そこで伊原に相談して原稿を差し替えることにしたんだ」
 俺の説明に千反田は目を大きく見開いて
「そうだったのですか! わたしには全く判りませんでした」
「まあ俺の勝手な推測だ。気にする必要はない」
「福部さんは知っていたのでしょうか?」
「多分知らないだろうな。全ては伊原と大日向の腹の中さ。俺の思い違いかも知れないしな」
 自転車置き場から自分の自転車を出した千反田はそれを押しながら俺と一緒に歩いて行く
「折木さんは、わたしには判らない先を見通す目をお持ちです。その目でわたしの進むべき道を指し示してくれませんか」
 おいおい冗談じゃない。俺にそんな能力なんかあるものか。人様の進むべき道など判りはしない
「そんなのは無理だし。自分自身で決めるものだろう。お前が家のことと離れても農業関係に進みたいなら、そうすれば良いし、また違った道もそのうち見えて来るんじゃないかな」
 当たり前の事をあたり前に言った。
「わたしの一族の中には過去に農学博士になった者もいます。わたしもそれに習おうと思っているのです」
 校門に差し掛かる所で千反田は自分の本音を吐露した。
「そうか、お前がそう決めたのなら俺は何も言わない。俺はそれを全力でサポートするよ」
「ありがとうございます。折木さんは進路を決められたのですか」
 高校の前の小さな橋を渡り学校の外へと出て行く
「実はな、前に決めかけた事があるんだが、お前には言えなかった」
 陽は未だ高く太陽は天空にある。
「それはいつ頃のことですか?」
「お前が雛になって俺が傘持ちをした時のことだ」
 あの日、どうしても言えなかった。その想いを今言おうとしている。
「あの時はお前が家を継ぐとばかり思っていたから俺は、お前の苦手な経営を納めようかと思っていたんだ」
 俺の言葉を聴いた千反田は
「折木さん。それって……」
 千反田がハッとした表情で俺の顔を見つめる。そう言えば以前にもこんなことがあったと思い出した。
 千反田が自転車を学校の塀に立てかけて、空いた両手で俺に抱きついて来た
「人が見てるぞ」
「いいんです。わたし嬉しいんです。一番信頼出来る人がそんなことを考えてくれていたなんて……」
 千反田の華奢な柔らかい体を感じているうちに何もかもが目に入らなくなってしまった。暫く、しばらくこのままで……。

                             <了>