暖かくなって来たので風が気持ち良い。わたしは通学にバイクを使っている。電車やバスもあるのだが、ラッシュ時に人に揉まれて通学するのは嫌だった。だから自転車やバイク通学が認められる高校を選んだ。そして三年。来年の三月には卒業してしまう。そんな高校からの帰りのことだった。家まで半分という所でバイクの調子が悪くなった。あれれと思っていたら実咲公園の入り口で止まってしまった。セルのスイッチを入れてもモーターが唸るだけでエンジンは掛からない。
「あ~困ったなぁ。まだ家まで遠いし」
 そんな独り言を呟いていたら
「どうしたの?」
 痩せて背の高い少し暗そうな男の人が声を掛けて来た。わたしより少しだけ年上だと思った。
「急にエンジンが停まってしまって」
「ちょっと見て良い?」
「直せるの?」
「見てみないと判らないけど。簡単なものなら」
 その人は慣れた手付きでバイクのサイドパネルを外して工具を出すとエンジンのあたりを調べ始めた。そして何かの部品を外してそれを目で確認すると
「やっぱり」
 そう言うと自分のズボンのポケットからハンカチを出して、その部品の先を掃除し始めた。
「そこか悪かったの?」
「点火プラグが被ってしまっていたんだ。発火しないからエンジンも掛からないよ」
 そう説明してくれた。
「そうかぁ。これボロだからね。お父さんが使っていた中古なんだ」
「でもこれ百二十五CCだね。珍しいね。高校生だったら大体原付きだけどね」
「うん。お父さんがバイク通学しても良いけど、ちゃんと普通自動二輪の免許取って最低でも百二十五乗りなさいって。お父さんもバイク乗るから。原付きは危険だって」
「そうだよね。五十ccは危険だよね。僕もバイクに乗るから判るよ。それから近い内にちゃんとショップで点検して貰った方が良いよ。被るという事はキャブがおかしいのかも知れないから」
 そうなのだろう。最近のバイクなら燃料噴射装置がついているからこんな事は先ずないが、このポンコツは年代物なのでキャブレター方式なのだ。
「でもこれ、その昔は結構人気だったそうだよ。パワーもある割りには運転しやすくて」
 その事は父も言っていた。
 少し会話を交わすうちにこの人に興味が湧き出した。どうやら悪い人では無いらしい。そんな事考えていたら
「エンジン掛けて見て!」
 そう言われてしまった。本題の方を忘れる所だった。言われてセルのボタンを押すと今度は簡単にエンジンが掛かった。
「良かったね。これで家に帰れるね。その制服だと実咲校だね。でもスカートの下にスパッツを履いてバイクに乗る高校生は初めて見た」
 そう言って笑った表情が少し爽やかに見えた。
「そ、それは仕方ないじゃない。スカート脱ぐ訳にも行かないし」
「どうして?」
「だって高校を出る時はちゃんと制服を着ていないと駄目だから仕方なく下にスパッツを履いてるのよ」
「なるほどね」
「そんなにスカートの中が気になったの?」
「違うよ。とても変な格好だと思ったからさ」
「わたしは、涌井里菜。実咲高校の三年。何か助けて貰ったお礼がしたいな」
 わたしとしては本当に助かったのだ。だから感謝のお礼はしたかった。
「いいよ別に。そんな大した事した訳じゃないし」
「でも……」
 食い下がるわたしにその人は
「じゃあ、今度の日曜日の午後少し時間ある?」
 あたしはこの時日曜にデートに誘われたと思った。まあ今は彼氏も居ないからデートぐらいなら問題無いのだけど。
「何処かデートに行くの?」
 そう言ったわたしの言葉に口角を上げながら
「違うよ。聴きに来て欲しいんだ。無料だからさ」
「ああ、あなたはミュージシャンなんだ。だからこの公園で練習していたのね?」
 色々な楽器の練習は家ではとても出来ないものもある。そんな人はこの公園で練習をする事が多い。ここは民家からも少し離れていて、少しぐらい大きな音を出しても平気だからだ。
「違うよ僕はミュージシャンじゃないんだ。噺家なんだ。落語の練習をしていたんだ」
「ハナシカ? それって鹿の世話をする人?」
 わたしのトンチンカンな答えにその人は笑い出した。
「噺家で判らないなら、落語家と言えば判って貰えるかな?」
 ここまで言われて、わたしはやっと彼の職業を理解出来た。
「今度の日曜の午後の十二時から市民会館の小ホールで仲間と落語の会を開くんだ。勉強会だから入場料は無し。どうかな聴きに来て貰え無いかな?」
「お金取らないの?」
「まあ、正式にはね。聴いて貰った後で寄付という事で幾らでも良いからとはなってるけど、それは計算に入れられないからね」
 そう言った表情には何か自信が伺えた。たしか日曜は特別な用事は無かったはずだ。
「もしかしてプロの落語家さんなの?」
「うん。古琴亭小鮒というんだ。今度二つ目になったばかりなんだ」
「ふたつめ? なぁにそれ」
「そうか、普通の人は知らないよね」
 そう言って小鮒さんはわたしに教えてくれた。
「噺家は入門すると見習い、それから前座と言う階級があるんだ。ここまでは修行中だからお客さんの前で落語をする事は許されない。主に雑用をするんだ。そして入門から五年ほど経つと二つ目という階級になるんだ。ここからは半人前だけど一応お客さんの前で落語をしても良いとされているんだ」
「そうか、じゃあ小鮒さんにとっては初めての会なのね」
「うん。そういう事なんだ」
「じゃあ行ってあげる。というより行かせて戴きますね」
 そう言ってわたしは特別の顔を小鮒さんに見せた。

 翌日、誰かがわたしと小鮒さんが話していた光景を見た者が居たらしく、早くも話題になっていた。親友の新井翠がわたしの姿を見つけると
「ねえ、昨日の下校の時に実咲公園で男の人と話していたでしょう。誰か知り合い? それとも新しい彼氏なの?」
 正直、誰かが見ていたかも知れないとは思っていたが、まさか親友の翠が見ていたとは思わなかった。
「まさか。バイクが動かなくなって困っていたら助けてくれただけよ。そうしたらお礼は要らないから今度の日曜に市民ホールで落語会やるから聴きに来て欲しいって言われたのよ」
 本当の事を話した。そうしたら翠は酷くがっかりした顔で
「なぁ~んだ。期待して損した。ところで、その人って落語やる人なの?」
「うんプロの噺家さんだった。今度二つ目という地位になったらしいわ」
 プロって言ってしまったけど間違っていないよね。自分に問うた。
「その人見たいからわたしも一緒に行く!」
「え? わたし行くとは言っていないよ」
「行くね! 里菜のその目は絶対行くと決めた時の目だから」
 さすが長年付き合っているだけの事はあると思った。この子に嘘はつけない。
「ま、タダだから、但し良かったら帰りに寄付していくんだよ」
「ふうん。面白いわね」
 こうしてわたしと翠は落語会に一緒に行く事になった。