初夏の風は梅雨の合間にも関わらず爽やかで躰を包んで後方に流れて行く。自転車を漕ぐペダルに力が入る。すると道を行く俺の前を一羽のツバメが低く横切った。思わずブレーキを掛けて自転車を停めた。
 ツバメは俺の前を横切ると道沿いの民家の軒先に入って行った。恐らく、あそこに巣があるのだろう。緑が多くツバメの好みそうな虫も多いこのあたりなら子育てにピッタリなのかも知れない。
 俺はそんな事を考えて再び走り出した。約束の時間までには千反田家に到着していなくてはならない。例えそれが余り乗り気では無い事柄でもだ。

 昨夜金曜の夜の事だった。九時を少し回った頃だったろうか、家の電話が鳴り出した。こんな時間に掛かって来るのは凡そ想像がついた。姉貴に用事なら自分の携帯に掛かって来るだろうし、親父でも同じだと思う。
「はい折木ですが」
「夜分遅くすいません。千反田と申しますが……」
「千反田か、どうした?」
「ああ、折木さんですか。よかった。明日は何かご用事がありますか? もし無いなら相談に乗って欲しいのです」
 姉貴は仕事に行っている。洋書を取り扱う部署なので休みが土日とは限らないので、明日も仕事のはずだった。親父は今日から出張だった。
「特別な用事は無いな。一週間の疲れを取る為に休むという大事な用以外はな」
「駄目でしょうか?」
「何か困った事でもあったのか?」
「はい。というより折木さんの考えをお聞きしたいのです」
「俺の考え?」
 どうやら、いつもの「気になります」では無いらしい。
「電話では駄目なのか?」
「はい、出来れば直接……」
 千反田の歯切れの悪い言い方に己の事では無いと考えた。
「誰かに相談でも持ちかけられたのか?」
「判りましたか! さすがです」
「お前の言い方で何となく判ったよ」
「それで来て戴けるのでしょうか?」
「行かねばならないだろう。特にお前の頼みならば」
「ありがとうございます! 嬉しいです。よろしくお願いします」
「それで何時までに行けば良いんだ?」
「はい、出来れば午前十時頃までには」
「判った。それまでには行く」
 そう言って電話を切った。
 自転車は陣出の坂を登り始めていた。立ち漕ぎになり脚に力が入る。坂を登り切ると陣出が一望出来た。

 約束の十時少し前に千反田邸に到着した。木戸の前では千反田が着物姿で佇んでいた。多分、俺を待っていたのだろう。俺の姿を認めると表情が明るくなった。
「お休みの日に申し訳ありません」
 両手を揃えて頭を下げた
「なに、それは構わないが、今日は何か特別の日なのか?」 
「特別な日と言うよりは、先日田植えが終わったので今日は皆を招いての慰労会なのです。一応、父が挨拶する事になっています。
 そうか、農業に関わっていないとウッカリするがこの時期は農家にとってみれば大事な時期だったのだ。
「それで着物姿か……一年に数度も拝めるとは役得かな」
「そんな……」
 千反田が両方の手で顔を隠した。薄紫の一重の着物の裾が乱れて真っ赤な緋縮緬の長襦袢が見えて白い千反田の脚が覗いた。
「恥ずかしがってる場合じゃ無いんじゃないか?」
 俺の言葉に千反田は我に返り
「そうでした。折木さんの意見を伺いたいのです」
 そう言って木戸を開けて俺を中に通した。
 家の中では宴会の準備が進められていて、幾人もの人々が動き回っていた。それとは別な所に案内される
「お父様、折木さんがいらっしゃって下さいました」
 襖を開けながら膝を着いて部屋の中の人物に声を掛けた。その仕草が美しい。幼い頃から生きて来た環境が俺とは明らかに違うのだと感じた。
「入って戴きなさい」
 奥から声が聞こえた。恐らく鉄吾さんの声だろう。
「さ、どうぞ」
 千反田に言われて部屋の中に入ると座卓に数名の男が座っていた。見ると吉田さんや花井さん達だった。一番奥が鉄吾さんだった。
「折木さん。わざわざ呼びつけるような事をして申し訳ありません。何せおおやけには出来ぬ事が発生したので、誰か頼りになる人物がいるか、皆に訊いたところ、えるが『心当たりな人がいます』と言う事だったので頼む事にしたのです」
 つまり、今日の慰労会に向けて何か問題が起きたと言う事なのだろう。その解決に俺が呼び出されたと言う訳だ。
「その問題とは一体どのような事なのですか?」
 俺の質問に鉄吾さんが語り出した。
「毎年、田植えが終わると慰労会を開きます。昔は千反田家が全てを負担していましたが、小作関係だった昔と違い今は全ての農家が独立しております。ただ田植えや刈り入れなどの人手が必要な時はお互いに手伝いしあいます。そんな事も含めて終わると慰労するのですが、基本は会費制です。足りない場合はわたしどもから出しますが、会計を決めて会費制で行うのです」
 年に二回会費制で慰労会を行うとは以前に千反田から聞いた事がある。それが今日だったと言う訳だ。
「それで何が起きたのですか? まさかその会費が無くなったとか?」
 俺の質問に鉄吾さんは首を振り
「それは、花井さんがちゃんと管理してくれていますので大丈夫だったのですが、祭壇のお供え物が……」
「盗まれてしまったのですか?」
「盗まれたというよりは消えてしまったのです」
「消えた?」
 俺の言葉に吉田さんが
「そうなのです。お供え物は山の幸を色々と供えたのですが、全部消えたと言うよりは一種類だけが忽然と消えてしもうたのです」
「兎に角、現場を見せて下さい」
 俺はその祭壇に案内して貰った。
 千反田の家の広い庭の一角に祠がある。千反田に尋ねたところ
「はい、先祖代々お稲荷さんを祭っています。お稲荷さんは米作りの神様ですから」
 そう言っていた。その祠に案内された。お稲荷さんは綺麗に飾り付けられ、幟も何本か立っている。そこに真新しい祭壇が拵えられて、そこに色々なものが供えられている。
「何が無くなったのですか?」
 俺の質問に吉田さんが
「鮎ですじゃ」
「鮎ですか? 山というより川や海の幸じゃないですか?」
「確かに、鮎は川で採れますが、農業には水も大事ですじゃ。それにこの陣出では良い鮎が採れますので、水の事も祈ってお供えしますのじゃ」
 確かに農業にとって水は大事だ。特にの陣出ではかって水の争いもあったと聞く。
「すいません。一人で少し考えたいので、ここに残ります」
 そう吉田さんに言うと千反田が傍に付いてくれた。
「いいのか? 行かなくても」
「はい。わたしにとっては好都合な言い訳が出来ました。こうして今日も一緒に居られるだけでも幸せです」
 誰も居なくなった庭の片隅で二人だけの時間が過ぎて行く。
「お前気が付かなかったのか?」
 俺の言葉に千反田は訳が分からないと言う表情をしている。
「コタローは今日はどうした?」
 俺の言葉に千反田はハッとして
「そう言えば……」
 俺は声に出してコタローを呼んでみた。
「コタローコタロー」
 すると、暫くしてコタローが植え込みの間から出て来た。大分大きくはなっていたが、面影は変わらない。
「ニヤー」
 そう言って俺の足下にじゃれついた。
「元気にしてたか」
 そう言って手を出すと飛びついて来た。
「ニャン!」
 俺に抱かれて喉をゴロゴロ鳴らしている。千反田はそんな様子を見ながら俺に尋ねた。
「折木さん。まさかコタローが盗んで食べてしまったのですか?」
「多分、そうでは無いだろう。猫は子供の頃に口にしなかったものは食べないと言う。お前、子猫の頃に鮎なんて食べさせたか?」
「いいえ、食べさせていませんけど」
「ならば、何処かに隠してあるな。恐らく片方のサンダルやスリッパ等と一緒にあると思うな」
「サンダルやスリッパですか?」
「ああ、お宝だよ」
「ええ! どうしてですか」
「コタローにとっては若鮎はキラキラして綺麗だったのだろう。だからついお宝として失敬してしまったのだろう」
 幸い神主を招いてのお祈りの時は別な鮎を使ったそうだが、本来の鮎はコタローの隠し場所にあるのだろう。
 数日後、腐り始めて臭いでその場所が判り、見つかったそうだ。
 後日、陣出の人々は狐の他に猫も関わったと言うので「今年は豊作間違い無し」と喜んだという。
「やはり折木さんは、わたしが選んだ方です」
 俺は千反田が身につけていた緋縮緬の長襦袢があんなに色っぽいものだとは思わなかった。

                     <了>