春休みほど心が開放される日々はないと常々思っている。それは季節的な事もあるし、何より日々の勉強と言う苦行から暫しとは言え開放されたからだ。この気持ちの持ちようは素晴らしいと俺は思う。
 春休み初日。俺は思い切り惰眠を貪っていた。姉貴は既に百日紅書店に勤務を始めていた。勿論正社員になるまでの試用期間みたいなもので色々と講習を受けるらしい。特に姉貴が配属される部署は洋書の取り扱いをするらしいので、その点の講習らしい。
 昼近くに起きて冷蔵庫を漁っていると玄関のインターホンが鳴った。まるで俺が起きてくるのを待っていたようだった。誰かと思いドアの覗き窓から覗くと魚眼レンズの向こうには千反田と里志。それにその後ろに伊原が立っていた俺がドアの内側で覗いた事が判ったのか里志が片手を上げた。驚きそして急いで玄関を開ける。
「こんにちは折木さん」
 白いコートにモスグリーンのセーターを着た千反田が頭を軽く下げる
「あれ、あんたまだそんな格好しているの?」
 里志の後ろから水色のパーカーを羽織った伊原が冷ややかな視線を浴びせる
「まさか、約束を忘れていた訳では無いよね。ホータロー」
 ダッフルコートの里志までもが呆れていた。はて俺は今日こいつらと何か約束をしていただろうか?
「皆で何かあるのか?」
 グレーの寝間着兼用のスエット姿の俺の言葉に
「昨日学校で約束したでしょう。忘れちゃったの?」
 伊原の言葉に昨日の記憶を思い出す。確か昨日は年度末最後の登校日だと言うので古典部の部室に大日向を含め皆が揃ったのだった。
 だが別に特に活動の目的も無い我が古典部だからそれぞれが勝手な事をしていてそのまま下校となったと記憶していた。
「あのう、昨日大日向さんが言っていた事覚えていませんか?」
 千反田の言葉にはっとした。そう言えば何か大日向は言っていたのだ。俺はそれを良く聞いておらず文庫本に夢中になっていた。
「大日向さんが『古典部なんですから、たまには皆で古典の勉強をするのはどうですか』と言って、今日の午後から某放送局の落語会の収録に行かないかと誘われたのです。何でもハガキが当たって、一枚で五人まで入れるそうです。それでどうかと」
 そうかあの時、そんな事を話していたのか。全く聞いていなかった。
「行かないのかいホータローは」
 里志はそんなことを言ったが、この状況で俺だけ行かないのは不味い。
「行く! すぐ支度するから中で待っていてくれ」
 三人を招き入れリビングで待って貰っている間に支度をする。支度と言ってもスエットを脱いで着替えるだけだ。数分もあれば終わる。壁に掛かっていたトレンチコートを手に取り、リビングに降りた。メモ用紙には「出かける。遅くなるかも」とだけ書いておく。
「お待たせ。行こう」
 四人で表に出ると流石に三月下旬だけあって少し暖かい風が穏やかに流れていた。三人のうち千反田だけは何かが入っていそうなボストンバッグを持っていた。
「ところで、何処でやるんだ。その落語会は」
 俺の質問に千反田が
「文化会館の大ホールだそうです。何でも五十五分の番組を二本収録するとか。だから都合休憩を入れて二時間半ほどだそうです」
 文化会館には何かと因縁がありそうだった。
「大日向は落語が好きなのか?」
「さあ、でも番組の収録に応募したら当たったそうよ。普段から落語の放送を聴いてるんじゃないかしら」
 伊原がそんな分析をする。
「何でも今日は古琴亭左朝がトリで出るそうだよ」
 里志が嬉しそうに話す。そういえばこいつは落語が好きだった。恐らくこいつのデータベースには色色々な情報が入っているのだろう。古琴亭左朝の名前はいかな俺でも聞いたことがある。 
「大日向とは何処で待ち合わせているんだ」
「何でも文化会館の前で待っているそうです。今日は福部さんと摩耶花さんも一緒なので大丈夫です」
 千反田が安心したように言うがその意味が判らないでいると伊原が
「わたしとふくちゃん。それにひなちゃんも携帯を持っているから迷わないと言うことよ」
 そうか、同じ市民会館の前と言っても場所が微妙に変われば出会うのに時間が掛かってしまう。携帯で連絡を取れば簡単という訳だ。
 市民会館の前では大日向が待っていた。ここには「あの日」以来だった。千反田にとっては思い出したく無い出来事だろう。でも目の前の千反田はそんな事を感じさせない雰囲気を醸し出していた。
 大日向はスリムのデニムに赤いブルゾンを羽織っていて、確かに目立と思った。
「ゴメンね。折木のところで時間掛かってしまって」
 伊原が少し遅れた訳を言うと大日向が
「いいえ、わたしも今来たところですから。殆ど待っていませんよ。それより自由席なので早くしないと良い席取られてしまいますから急ぎましょう」
 そう言って大日向は入り口に向かって歩き出した。文化会館のホールの入り口には、大きな立て看板が立っていた。
「TBKほろ酔い落語会収録会場」
 その看板を見ながら横を抜けると大日向が係員に当選したハガキを手渡した。係員が俺たちの人数を確認して中に通してくれた。
 扉を開けて会場に入ると既に半分ほど席が埋まっていた。もう半分ほどは赤いシートの色がそのまま残っていた。
「いい席埋まっちゃった?」
 伊原が心配していると大日向が
「前の方空いてますから大丈夫です。落語って仕草も大事だそうですから余り遠いと判らないですよね」
 そう言って先頭になって通路を前の方に歩いて行く。次が伊原でその後ろが里志。そして千反田と最後に俺が続く
「折木さんは今まで生で落語を聴かれたことありますか?」
 千反田が後ろを振り返りながら俺に尋ねる。
「いいやCDや放送ならあるが生では始めてだ」
「わたしもなんです。一度聴いてみたかったのですが、東京や大阪に行かないと無理なので諦めていたのです。だから大日向さんに生で聴けると言われて嬉しかったのです」
 千反田あたりの家なら押し入れの奥に戦前のSP版がありそうだと思った。そんなことを考えていたら千反田が階段に躓いた。急いで手を伸ばして千反田の体を支える。
「さすが折木先輩。千反田先輩のことには抜かりはありませんね」
 大日向が嬉しそうにそんなことを言う
「仲の良いのを見るのが好きなんだろう」
「そうなんです。特に最近は二人を見てるだけで癒やされます」
 別に俺はそんな事を思ってる訳では無いと言おうとしたが止めた。千反田が嬉しそうに笑っていたからだ。
 前から五列目に五人揃って並んで座れる席が空いていた。
「ここならどうですかね?」
 大日向が後ろを振り向きながら確認する
「いいんじゃない。見易そうだし」
「うん。丁度良いと思うよ」
「いいですね。良い席だと思います」
 その後俺の言葉を待っていた四人が俺を見つめるので
「うんいいんじゃないか」
 とりあえず、そう言っておいた。
 席の位置は高座に向かって一番右から大日向、伊原、里志、千反田、俺となった。それぞれがコートを脱いで膝に置く。この時になって俺は朝から何も食べていない事に気がついた。千反田がそれを察したのか俺に右手に何かを握らせた。そっと確認するとラップに包まれたお握りだった。
「収録の合間に食べられたらと思って握って来たのです。お茶も用意してありますから食べて下さい。お腹空いていらっしゃるのでしょう?」
「どうしてそれが判った?」
「折木さんの様子を見ていれば判ります。それに今し方折木さんのお腹が鳴っていましたよ。わたしが隣で良かったです」
 まさかお腹の鳴った音を千反田に聞かれていたとは思わなかった。改めてこいつの五感の能力の高さに驚く。そしてバッグの中身はお握りとお茶だったのだ。その言葉にありがたく頂戴する。かぶりつくと中身は刻み昆布だった。その甘じょっぱさが腹に沁みる。
「旨いよ」
「お茶もどうぞ」
 千反田が紙コップにポットからお茶を注いでくれた。いつもの味のお茶に安心感が漂う。千反田の気遣いに嬉しくなり、そっっと手を握る
「おれきさん……」
 言葉はそのまま途切れた。

 やがて時間になりアシスタントディレクターという人物が前説を始めた。拍手をするタイミングの指示をする。尤もこれは登場する時や退場する時の拍手で。途中の笑いや拍手は自由で良いとのことだった。これは助かる。面白くないのに笑うのはある意味苦痛だからだ。
 アシスタントディレクターが高座の隅に下がると出囃子が鳴り始めた。聴いた事あるのだろうが、正直余り馴染みの無い音楽だと感じた。
 出て来たのは漫才師の二人で、余りテレビでは見た事の無いコンビだった。多分俺の顔に出ていたのだろう千反田が
「テレビに余り出ませんが東京の寄席では年中出ているそうですよ」
 そんな解説をしてくれた。千反田が何故東京の寄席に詳しいのか疑問に思っていたら
「ほら入場する時に貰ったパンフレットに書いてあります」
 そう言えばそんなものを貰った気がした丸めてズボンのポケットに刺していた。取り出して眺めると確かにそう書いてあった。聴いてみると確かにテンポも良く面白い。里志や伊原、それに大日向は大きな声で笑っていた。千反田も楽しそうだ。俺もそれに習う。
 次の出演者はマジックだった。マジックの鮮やかさよりも話術で笑わせながら見せる趣向だった。これも思わず笑ってしまった。
「折木さん。楽しいですね」
 千反田が本当に楽しそうだ。それだけでも来た甲斐があろうと言うものだ。
 一本目の最後は落語だった。テレビにたまに出る噺家で若手から中堅になるのだそうだ。これもパンフレットに書いてあった。
 高座の袖に立っている「めくり」という登場する芸人の名前が特殊な文字で書かれている。すぐには読めないがじっくりと見ていると三圓亭友雀と書かれていた。
 出囃子に乗って本人が登場するとディレクターに催促されなくても自然と拍手が起こった。やがて高座の真ん中の座布団に座ると扇子を前に置いて深々とお辞儀をした。
「え~ようこそのお運びで御礼を申し上げます。神山には良く来るんですが、落語をするのは今日が初めてでして。じゃあ何しに来るのかと言うと、あたしは山が好きなので上垣内連峰の山に登りに来るんですよ。神山は山は最高で酒も旨くてね。良い所です」
 さすが芸人だ。客を完全に掴んでしまった。
「良く、花見と一口に言いますが花見と言うのは桜を見に行く事なんですね。他の花は花見とは言わない。梅は梅見ですし、菊も菊見ですからね。只花と言った時は桜なんですね」
 こんな前振りを降って噺に入って行った。横を眺めるともう千反田は完全に噺に入り込んでいた。
 噺は、長屋の連中が大家に連れられて上野に花見に行くものだった。すわ花見と聞いて長屋の連中は喜ぶが、お酒と思ったのは「お茶け」蒲鉾と思ったものは大根の漬物。卵焼きに見えたのは沢庵だった。一気にテンションが下がる長屋の連中。そこに半分シャレで半分皮肉で
「大家さん近々長屋に良いことがありますよ」
「ほう、そうかい。どうして判ったんだい」
「だって酒柱が立っています」
 一斉に拍手が起こり、友雀は頭を下げて下がって行った。
「ありがとうございました。次の収録まで三十分休憩です」
 緞帳が下げられ元から暗くはなかった場内が少し明るくなった。落語を聴く時は演劇の時のように余り暗くならない。それは高座に立った芸人がお客の表情を確認するためだそうだ。これは里志から後で聴いた事だ。
「世の中にはお酒にも柱が立つ事があるんですね」
 千反田が感心して言う。隣の里志がぎょっとした表情で
「千反田さん。それ違うよ。酒柱なんて無いよ。お茶の茶柱と言えないので、酒柱と言ったんだよ」
「ちーちゃん。まさか本当に信じたの?」
 里志と伊原に言われて千反田はやっと納得したようだった。
「ああそうだったのですか! 面白いですね!」
 ニコニコしながらそう言って口を押さえて笑いだした。当然周りの観客は戸惑っていた。
「千反田先輩って本当に天然な部分があるのですね。納得しました」
 大日向も半分笑いながら呟いていた。
「でも、そんな千反田先輩を見守る折木先輩の優しい眼差しも素敵ですね」
 そんな事も大日向は口に出した。すると伊原が
「ひなちゃん。それは良く見過ぎよ。こいつは単なる折木でしかないのだから」
 いつにも増した毒舌が俺に刺さる。すかさず里志が
「摩耶花。そのぐらいにしてあげなよ。千反田さんが困ってるよ」
 里志に注意された伊原は顔を真赤にして黙ってしまった。そんな行動を大日向が喜んで眺めていた。

 休憩中に千反田が持って来たお握りとお茶を配った。
「わあ、ちーちゃんありがとうね」
「すいません千反田先輩」
 伊原と大日向が喜んでお握りをパクつく。里志は
「千反田米で握ったお握りは本当に美味しいんだよね。その証拠に冷めても本当に美味しいんだ」
 正直、里志に言われなくても、そんな事はとっくに判っている。俺は二つ目を楽しんで口にした。
 休憩の後、二回目の収録が始まった。二回目は最初がギター漫談で、中々のテクニシャンで音楽が良く判らない俺でも凄いと思った。
 その次が物真似で動物の鳴き真似だった。千反田は目を瞑って聴いていて
「まるで本当の動物や虫がいるようですね」
 そう言って感心していた。そして最後が古琴亭左朝だった。左朝といえば、次の人間国宝になるのではないかと噂されている大物噺家で、普段ならこんな地方でのラジオの落語番組の収録に出る事なぞ無い。
「折木さん。凄いです。テレビでしか見たことの無い方が高座に出て来ました」
 左朝は高座に座り頭を下げるとマクラを語り始めた。マクラというのはその落語に関する前説のようなもので蕎麦の出る噺だったら当時の蕎麦に関する事を説明するのだ。噺の筋は
 江戸の夜、往来を流して歩く二八蕎麦屋(にはちそばや)にひとりの客がやって来る。
男は「しっぽく」を頼むと「景気はどうだい?商売は商い(あきない)というくらいだ、飽きずにやんなくちゃいけねえぜ」と亭主に話しかける。亭主が相手をすると客は更に屋号や蕎麦の味、ダシのとりかた、竹輪の切り方、箸、器までを褒めちぎり蕎麦一杯をたいらげる。
 二八蕎麦の値段は一杯十六文と相場は決まっている。客は一文銭十六枚で勘定を支払うと言うと小銭を取り出し、「・・・五つ、六う、七つ、八つ、蕎麦屋さん、いま何時だい」「へい九つです」「十、十一、十二・・・」
 男は勘定の途中で時刻を訪ね、一文ごまかすことに成功する。
 その様子を見ていた間抜けな男がこのからくりに気がつき、翌晩、自分も真似をしようとする。
 翌日、昨日より早く出てしまった間抜けな男は、通りがかった蕎麦屋をやっとの思いで呼び止め、昨日の男と同じ事をやろうとするのだが、尽く反対になってしまう。おまけに蕎麦も、とてもじゃないが食べられたモノではない。早々に勘定にしてしまう。
「蕎麦屋さん幾らだい」
「へえ十六文で」
「ひい、ふう、みい、……今何時でい」
 とやると、
「へい、四つで」
 と答える。
「ん~五つ、六う……」
 と下げを言って頭を下げた。無論破れんばかりの拍手が起こる。
「お握りを食べたばかりだけど、なんだか蕎麦を食べたくならないかい?」
 里志がそんな事を言うと大日向や伊原も
「そうねえ」
「そうですね。食べたくなりました」
 千反田も
「ほんと見事な芸でした。本当に食べていると感じました」
 確かに左朝はその仕草だけで見る者に蕎麦の存在を感じさせたのだった。
 帰りに皆で蕎麦屋に寄ったのは言う間でもない。

 帰る道すがらそれぞれに別れると最後は俺と千反田の二人だけになった。
「やっと二人だけになれました」
 そっと千反田の肩を抱き寄せる。
「春休みのうちに何処かに行きたいですね」
「ああ、そうできれば良いな」
「本当に考えてくれますか?」
「まさか泊まりがけか?」
「わたしは、それでも良いです」
 千反田はその体温を感じるほど俺に身を寄せて来た。その肩をしっかりと抱きしめる。
 何も言葉は要らなかった。その気持ちが痛いほど伝わって来たからだ。
「今日は送って行くよ。少し遅くなっても良いだろう?」
 その問いかけに千反田が静かに頷いた。

                           <了>