ニュースなどでは何処かの桜が咲いて、世間は春だそうだが、ここ神山には春は遠い。俺が狂い咲きの桜の下を千反田の傘持ちとして歩いてからもうすぐ二年になる。
 三月は神山高校では三学期の期末試験が行われる。二月の末から始まり三月三日に終わる。最終日は二科目なので十一時前には終了する。終われば週末の休みが待っている。開放感が堪らない。それを楽しみにして試験勉強をしていると電話が鳴った。
「はい、折木ですが」
「千反田と申します……折木さんですか?」
「ああそうだ。どうした。試験勉強していたのじゃ無いのか?」
 千反田から電話が掛かって来るのは結構あるが、試験前は無かった。
「少し気になることがあって勉強が手につかないのです」
「何だ。何が気になるんだ?」
 俺の言葉に千反田は妙な反応をした
「実はですね。試験が終わるとひな祭りですよね」
「ああそうだな。お前の所も人形を飾っているのだろう?」
「はい、それは飾っていますが……」
「何が言いたい?」
「摩耶花さんがですね」
「はあ? 伊原がどうした?」
「試験が終わった日に福部さんを家に招待するそうなんです。そこでひな祭りのお祝いをするそうなんです」
 千反田の言い方で大凡のことが判った。
「もしかして、それを聞いて羨ましくなったのか?」
 少しあからさまかとは思ったが、ハッキリ言ってしまった。
「あ、正直に言うと、少し羨ましいと思いました……わたし嫌な子ですね」
 千反田も人の子だ。交際してる関係の里志と伊原のことを見たり聞いたりすれば自分と比較して、そう思うのは当たり前だと思った。
「それなら、俺にどうして欲しいんだ? 家に招待してくれるのか?」
「招待すれば来て戴けますか?」
「当たり前だろう」
「では三月三日、試験が終わったら我が家に来て戴けますか?」
「よろこんで」
 こうして俺は期末試験が終わってすぐに千反田の家に行く事になった。実際は、一緒に下校して一旦俺の家に寄ってカバンを置いて着替えてから千反田と一緒に行く事になった。

 試験はまあ、落第することは無いだろうと言うぐらいの点数は取れたと思う。そう言えば里志は大丈夫だったのだろうか? ひな祭りの後で伊原の家庭教師が行われるのなら、少し可哀想な気がする。
 三日、試験が終わり待ち合わせの場所でもある千反田の自転車置き場に向かう。姉貴は今日は旅行で居ないが、俺がひな祭りの日に千反田の家に行く事を知ったら、ある包を渡してくれた。
「これは何だ」
「えるちゃんの家に招待されたのでしょう。あんた、まさか手ぶらで行くつもり」
 うっかりしていた。
「で、用意してくれたのか?」
「そうよ、ついでだったからね」
「まあ、ついででも有り難い。で、中身は何だ?」
「春の花の形をしたラムネの詰め合わせよ。隣の富山県高岡市にある古くからあるお店の品物よ」
「春の花のラムネか……」
 どうようなものか想像していたら、手のひらに数粒のピンクの小さな何かが乗せられた。
「食べてみなさいよ。自分が持ってきたものが、どんなものなのか知らないと困るでしょう」
 手のひらには花の形になった一見すると落雁のようなラムネが居た。その中から梅の花を口に入れる。シュワーとした食感が心地よい。まさに春のエキスを少し分けて貰った気がした。
「これはいいな」
「『春けしき』と言う名前よ」
「名前もいいな。ありがとう。これなら千反田も気に要るよ」
「すこしは優しいお姉様に感謝しなさいよ」
 駐輪場には既に千反田が待っていた。今日はいい天気で気温も高く、残っていた雪も溶けて無くなっていた。俺の姿を見つけると千反田の表情が柔らかくなった。
「待ったか?」
「いいえ、わたしも今来たところです」
 千反田が自転車を押して俺と並んで歩く。
「今日は暖かで本当に良かったです」
「そうだな。雪なんか降ったら大変だった。ところで試験の出来は、訊くまでもないだろうがどうだった?」
「そうですね。普段通り出来たと思います。やはり家を継がなくても農業関係に進もうと思っています」
「そうか、ならば目標はK大か?」
「そうですね。そこに入れれば良いと思っています」
 家について着替えて姉貴の用意してくれた幾つものラムネの包が入った紙袋を自転車の前カゴに入れる。千反田が不思議そうに尋ねる
「それは何ですか?」
「ああ、いいものだよ。後でのお楽しみだ。尤もお前は知ってるかも知れないがな」
「楽しみですね」
 外の紙袋も店のだから千反田は気がついているかも知れない。でも今は気が付かない素振りをしていた。そんな千反田の態度を嬉しく思う。
 市内を前後して走る。陣出に通じる坂のあたりから並んで走る事が出来た。
「しかし、お前は毎日この坂を登っているんだな、行きと帰りで」
 立ち漕ぎしてる俺に比べて千反田は楽そうに登っている。通学で足の筋肉が鍛えられているのかも知れない。
 坂を下ると千反田の家まではすぐだ。

 千反田邸に到着するとすぐに奥に案内された。そこには七段飾りの立派な雛人形が飾られていた。見るとかなり由緒がありそうな感じがする。
「これは、わたしのでもありますが、千反田の家に生まれた長女の為の人形なのです。世代が変わる度に新しく何か調度品を作ります。わたしのはこの『長持ち』なんです」
 よく見れば飾られた調度品も人形のおまけとは思えぬ出来栄えで、小さいがちゃんと使えそうだった。それぞれに蒔絵が施されて見事さは美術品と呼んでも良いぐらいだった。
 千反田は俺にお茶をだすと着替えるからと言って消えた。仕方ないので見事な人形を眺めながらお茶を飲んでいると
「お待たせしました」
 そう言って千反田が襖を開けて部屋に入って来た。俺はその姿を見て息を飲んでしまった。千反田は桃の花を描いた薄いピンクの色の小紋に黄緑ががった緑色の帯をしていた。髪は長くしたままなのがで一層普段や制服とは違いが強調されていた。
「どうですか、似合いますか?」
「ああ、よく似合ってるよ!」
 まさにため息しか出なかった。
「千反田、手みやげと言うほどのものでは無いが、お雛様に供えてくれ」
 俺はそう言って紙袋から包を出して千反田に手渡した。
「開けても良いですか?」
「勿論だ。開けないと供えられない」
 千反田は包を開くと顔を輝かせた。
「これ、高岡ラムネですよね。話は聞いていましたが見るのは初めてです」
「食べてごらん」
 千反田はひとつ撮むと自分の口の中に入れた。
「ああ、口の中でシュワーと溶けて行きます。この感じが春になって雪が溶けて行く感じに似ています。素敵です」
 そう言って千反田はふたつ目を口に入れると俺に抱きついて来て唇を合わせた。そして口移しにラムネが俺の口に入る。千反田と俺の口がひとつとなって春のラムネで満たされた。
「おい大胆だな」
「大丈夫です。誰も見ていませんから」
「いやそういうことではなくてだな……」
「わたし嬉しいんです。わたしの人生で親戚を除いて、初めてひな祭りに来てくれた男の人なんです」
 そんな事だったとは思いもよらなかった。これは光栄なことなのだろう。美しい着物姿の千反田を抱き寄せると、もう一度唇を合わせるのだった。


                                                          <了>