俺は更に千反田から情報を仕入れる。
「なあ千反田。そのベナレスと言う街について他に何か知っていることはあるか? あれば教えてくれ」
 俺の頼みに千反田は澱み無く答えた
「そうですね。ベナレスは首都デリーから南東に約820km、東部最大の都市コルカタから北西に約700kmの場所に位置し、両都市を結ぶ幹線鉄道のほぼ中間地点に位置します。ウッタル・プラデーシュ州にあり」
「いやもっと具体的な事なんだが」
「そうですか、ウッタル・プラデーシュ州は北でネパールと国境を接しています。殆どがガンジス川の流域の平原ですね」
 要するにインドでも北に位置すると言う事だけは理解出来た。
「伯父がバングラデシュから入国したという事はインド国内をかなり移動したのだと思います」
 インドに魅せられた人物は結構居て、大きく分けると二通りになるという。片方は「二度と行くものか」と思う人間と魅せられて何回も行く人間に分かれると言う。恐らく関谷純は後者だったのだろう。
「ベナレスには多くの人々が死を待つだけに滞在すると姉貴の手帳に書いてあった。関谷純はベナレスに死にに行ったのだろうか?」
 俺の疑問に千反田は
「関谷家が葬儀をしたのは法律的な側面もあったと思います。親族は心の中では生きていると思っているはずです。それは、わたしも同じです」
 それが親族の偽りのない気持ちだろう。そう考えた時だった玄関が開き姉貴が帰って来た。
「あら、えるちゃんじゃない。今日はお家デート?」
 姉貴は一人で気楽な雰囲気を醸し出していた。
「なあ姉貴に尋ねたい事があるんだ」
 俺の言い方が普段とは違っていたので、さすがに姉貴も何かあると感づいた様だった。
「ちょっと待って着替えて来るから」
 そう言って自分の部屋に消えた。
「訊きたい事ってなぁに」
 着替えてリビングに出て来た姉貴に俺は
「昨年の春から夏にかけて、旅行に行っていたろう? 確かインドのベナレスから手紙をくれた」
 姉貴は俺の言葉に敏感に反応した。
「ああ、確かに手紙を出したわね。それが何かしたの?」
「姉貴は何故ベナレスに行ったのかい」
「そう……あんたは変な所の感が良いから、判ったのかな?」
 含み笑いをした姉貴はソファーに座ると、千反田と俺にも座るように促した。
「まさか、あんたとえるちゃんがこんな関係になるなんて、あの時は全く思っていなかったからね。少しうかつだったかな? 訊きたい事は関谷純の事でしょう?」
 やはり姉貴は知っている。それもかなり深い所までの事情を知ってると思った。
「奉太郎。最初にあんたの考えを聞かせてくれない。それから真実を話すわ」
 姉貴の目は完全に真剣な時のもので、この目をした時の姉貴は俺の想像を上回る。俺は小さく深呼吸をすると頭の中で整理していた事を語り出した。
「まず、姉貴がかって『神山令嬢倶楽部』の会員だった事。そこから俺はインドに旅行に行く姉貴に関谷家の誰かからコンタクトがあった。その内容はインドに行くならベナレスに寄って欲しい。恐らく旅費もある程度は負担してくれたのだろうと思う。その内容はベナレスで行方不明になった関谷純に関するものだった。滞在していたホテルの部屋からパスポートが残されていたという。ならば関谷純は未だインド国内に居る可能性がある。当地でその足取りを確かめて欲しいとかそのたぐいだったと俺は思った」
 ここまでは千反田にも語った内容だ。
「そして姉貴はそれを了解した。古典部員としても関谷純の行方は興味のある事だからだ。それは俺も色々と推理したので理解出来る」
 そこまで言うと姉貴は
「まあ、遠からず。と言う事ね。引き受けたのは何よりわたしがベナレスに行ってみたかったからよ。それが第一。関谷純の事はえるちゃんには悪いけど、ついでかな」
「いえ。とんでもないです。それは当然だと思います」
 俺は次を話しだした。
「そして実際にベナレスで関谷純の足取りを追った。それについては苦労したのか簡単に判ったのかは俺には判断出来ないが、兎にある程度は判った。それは奇跡に近いものだったかも知れないが……その結果は」
「折木さん。伯父の行方が当時判ったのですか?」
 千反田が驚きの声を上げる。
「ああ、俺はそう考えた。そして恐らく姉貴は関谷純とコンタクトを取る事に成功した」
「まさか……伯父が生きていたのですか!」
「千反田。これは俺の推理だ。事実ではない。恐らく関谷純はヒンドゥー教の僧侶になっていたのでは無いかな。だからもう一生日本に帰る意志は無かった。それを姉貴に伝え、関谷家にも伝えて欲しいと語ったのは無いかと言うのが俺の推理だ。どうだい姉貴、間違っていたかな?」
 俺の言葉を最後まで聞いた姉貴はおもむろに
「まあ、大凡は合っていたわ。じゃあ、あんたの足らない事を補足しようか。まず、わたしが関谷家から頼まれたのは事実だけど、偶然だったのよ。当時行方不明から七年が過ぎようとしていて関谷家では関谷純の処遇に困っていたのよ。それを見かねて鉄吾さんが仲に入ってわたしに相談が来たのよ。わたしの名は『神山令嬢倶楽部』でも有名だったからね」
「父が絡んでいたのですか! 全く知りませんでした」
「えるちゃん。皆、悪気があって隠していた訳じゃないのよ。あなたが伯父の関谷純に懐いていたから変な情報は知らせたくなかったのよ。その頃はウチの奉太郎と仲良くなるなんて思わなかったからねえ」
 俺は姉貴に先を言うように促す。
「費用はある程度は出してくれたわ。本当は要らなかったけど、向こうがどうしてもと言うので有難く受け取ったの。そしてベナレスに行った。最初は全く手掛かりも無かった。そこで日本人として探す事にしたの。そうしたらベナレスに日本人のヒンドゥー教の僧侶が居ると言う情報を見つけたの。でも、そこからが大変だった。なんせベナレスはヒンドゥー教の聖地だから寺院の数も半端ないぐらいにあるのよ。だから、何処の寺院かを特定するのは本当に苦労したわ。日数もかかった。だから東ヨーロッパに行くのが遅れたのよ。そこで色々なトラブルにも巻き込まれたわ」
「そこで見つかったのですか?」
 千反田が真剣な表情で尋ねる。姉貴は千反田の入れてくれたお茶を一口飲むと
「結果だけ言えば見つけたわ。その過程は省略するけど、ある寺院に日本人の僧侶がいる事を突き止めたの。もしその人物が関谷純では無かったら諦めるつもりだったわ。それぐらい大変だったのよ」
「それで伯父と会えたのですか?」
「まず、会えた事は事実だわ。寺院に尋ねて行き、合ったのよ。、わたしが神山高校の古典部出身だという事を最初に言ってこちらを信用して貰ったわ。そして関谷家から頼まれた事も告げたのよ」
「そうしたら伯父は何と言ったのでしょうか?」
 もう俺の話す余地は無かった。千反田がその代わりになっている。
「あなたの伯父の関谷純はね、『自分は長い事考えた結果、ここベナレスに来て人生を終える決意をしました。もう日本に帰るつもりはありません。多くの人々と同じようにここで最高の死を迎えようと思っています。だから自分の死期が来るまで他の方のお手伝いをしようと考えたのです。わたしは高校で人生を変えられました。ならば最後だけは自分できめようと思います。日本に帰ったらこうお伝え下さい。関谷純はここベナレスでヒンドゥー教徒として最後を迎えます。もう探さないでください。それがわたしの意志です。関谷純はベナレスに死す。とお伝え下さい」
「伯父は生きていたのですね。そしてそんなメッセージを伝えたのですね。だから関谷の家では葬儀をしたのですね」
 千反田が思い詰めた表情で語ると姉貴は
「でもね。こうも言っていたわ『わたしは、最高の死を迎える事が出来るのです。悲しむ事なんて必要ありません』とね」
 関谷純がヒンドゥー教の僧侶になった可能性もあるとは思っていたが、それ自体が目的だったとは意外だった。
 姉貴は最後に
「帰っても暫くは関谷家と千反田鉄吾さん夫婦以外には言わない事。それが条件だったわ。だから、えるちゃんにも本当の事を言う訳にはいかなかったのよ」
「伯父は未だ生きているのでしょうか?」
「それは判らない。何せ、インド各地から、年間100万人を超える巡礼者や参拝客が来るらしいいし、死を待つ人々は解脱の館という施設で死を待つのよ。無論そこにも僧侶が居るわ。関谷純はそこの僧侶なのかも知れなかった。あるいは、インド各地から多い日は百体近い遺体が金銀のあでやかな布にくるまれ運び込まれるそうだから、それに祈りを捧げる僧侶の可能性もあったわ。兎に角、今はもう判らないと言う事なの」
 姉貴は語り終わると千反田に
「もし今でも生きていても彼は既に関谷純では無いのよ。ヒンドゥー教の一僧侶になってしまったと言う事なんだと思う」
 そう言って優しい目をした。千反田は暫く目を瞑っていたが
「伯父は日本に居る間常に考えていたのですね。それを幼いわたしは知りませんでした」
 姉貴は千反田の頭を優しく撫でると自分の部屋に戻って行った。千反田は少し放心した様な感じだった。
 だが、何と言う偶然だろうか。俺と千反田の仲が良く無ければ。この事実は千反田に知られる事は無かったのだろう。そう考えると俺と千反田の仲は関谷純のお陰とも言えると思うのだった。
 そしてこう考えた……千反田の伯父の関谷純はインドベナレスで亡くなったのだと……。
「千反田」
 静かに呼ぶと千反田は俺の胸に飛び込んで来た。そっと抱きしめる。このショックは暫く収まらないだろう。それまで俺が千反田を支えてやらねばならない。
「折木さん。しっかりと抱きしめてください。わたしの心が何処にも行かない様に」
 俺はその言葉を心に言い聞かせるのだった。


                              <了>