翌日の朝早く、僕は父親と一緒に市場に出かけた。今までも一緒に行く事は多かったのだが、今日は特別な目的があった。

「なんだ、今日はやけに気合が入っているように見えるが、何かあったのか?」

 父親がハンドルを握りながら僕に尋ねる。隠すことでもないので正直に

「友達がB型肝炎でね。蜆のエキスを飲みたいって言うから蜆を買って来て作ってやろうかと思ってね」

 僕の言葉をどうのように受け取ったのかは判らないが父親は一言だけ呟いた

「そうか女がらみか……うまくやれよ」

「いや、そんな」

「違うのか?」

 父親は助手席の僕の方を全く見ずに前だけを見て運転している。

「友達だから……男じゃないけど」

 全くキスまでしながら友達もあったもんじゃないとは僕も思った。

「何処が違うんだ? 男女で」

「いや、深い関係にはなってないと言うか、その心の底から治してあげたいと思っているんだ」

「それは好きだからだろう?」

「判った?」

「顔に書いてある」

 そこまで判っているなら仕方ないと思った。

 市場で適当なものを物色する。蜆そのものを食べる訳ではないので、大きさには拘らなかった。小さくても良質のものが欲しかった。勿論単価が安ければ文句はない。

「これなんか安くて良いよ。少し小粒だけど宍道湖のだしね」

 蜆は宍道湖産が良いとされている。関東のものは黒っぽいが関西や西の方の蜆は色が若干薄く茶系統の色をしている。

「じゃそれください」

 黒い網の袋に入った蜆を買った三キロだった。これだけあれば結構な量を取れる。家に帰って来ると砂抜きをするためにボールに入れて水を張る。半日から一日あれば砂は抜ける。

 昼過ぎに見ると砂をかなり吐いていた。一応「砂抜き」と表示してあっても余りあてにならない。

 更に、それをよく洗う。その後にザルで水気を切って鍋に入れて蓋をして火に掛ける。暫くすると蓋の合間から泡がブクブクと湧いて来るので、手で押さえて汁が出ないようにする。若干収まった感がしたら蓋を開けて蜆の貝殻が開いているのを確認する。

 開いていたら鍋をボールを敷いたざるに空け、汁気を切る。このボールに溜まった青白い汁が蜆のエキスだ。冷まして適当な瓶に入れる。これで一応は出来上がり。冷やして飲めば良い。

 実は肝炎を治すにはもう一つ方法があって、これは匂いとか出るので嫌がる人も居るのだが、エキスを搾り取った貝殻を身も一緒に布の袋に入れて口を縛り、お風呂に入れて入浴するのだ。通常は家族で一緒に入っているなら、終い風呂しか出来ないし、一日経っと匂いが出て来るので一人で入っていても水を交換しなくてはならない。蜆の費用も含めて結構な出費となる。

 僕は瓶に入れたエキスとビニール袋に入れた蜆の貝殻を銀色の保冷バッグに入れて学校に持って行った。急いで自分のロッカーにしまう。余り人目に晒したくない。でも門倉さんと飯岡さんにはきちんと事情を説明した。二人共、節子さんに同情してくれた。ちなみに二人は結婚を前提に交際している。

 授業が終わると僕と節子さんは彼女の家に急ぐ。早くエキスを冷蔵庫にしまっておきたかったし、お風呂の件もあったからだ。

 アパートに到着すると、小さめのグラスを出して貰って、そこにエキスを注いだ。青白く少しどろりとした感じがする。でも実際はサラリとしているのだが……。

「飲んでみて」

「うん」

 節子さんはグラスを傾けて少しだけエキスを口に含んだ。

「あ、思ったより飲みやすいわ。これなら私飲める」

 節子さんはそう言ってグラスを一気に空けた。

「美味しいわ」

 新鮮なうちに搾り取ったエキスは確かに美味しいのだ。だが日数が経ってしまうと飲みにくいエキスとなってしまう。急いだ甲斐があったと思った。

「美味しいと言う事はやはり体が悪いから必要としてるのね」

 そんな理屈も理解出来るが僕には続けて行く為にも味に抵抗が無いのは救いだった。

「良かった。続けて飲まないとね。この量を毎日飲んでね」

「寝る前でいいの?」

「肝炎の薬と一緒の方が良いな」

「判った。そうする。それからこの蜆のお金」

 僕の気質から言うと、断りたかった。『僕が出すからいいよ』と言ってみたかったのだが、そうしてしまうと僕と節子さんの仲が長くは続かないと考えた。

「じゃあ実費だけ貰うね」

「手間とかガスの費用は?」

「それぐらい出させてよ。どうせ店の費用で落とすから」

 確かに僕は店のガス台でエキスを搾り取ったのだった。

「ありがとう。じゃ甘えさせて貰うわね」

「お風呂の方はどう?」

「やって見る。それが肝炎に良いなら私入る!」

 節子さんはお風呂にお湯を張り始めた。予め手拭いで作ってあった綿の袋に僕の持って来た蜆の殻を入れると口を縛って湯船に落とした。そして追い焚きをした。

「最初だから本当は一緒に入って欲しいけど、アパートのお風呂は二人は無理だから、せめてここに居てくれない?」

 本当は一緒に入って節子さんの状態を見たかった。でも彼女は病気なのだ。嫌らしい妄想は駄目だ。

「私、病気を治して翔くんと身も心も一緒になりたい。だから、それまで待っていてくれる?」

 僕もそのつもりだった。中途半端な事はしたくなかった。黙って頷いた。

「ありがとう。一日も早く治すわ」

 そう言って節子さんは僕の目の前で下着姿になるとタオルを手にお風呂に入って行った。僕は節子さんの圧倒的な美しさに只感激するだけだった。

 出てきた節子さんは

「全然匂いも気にならなかった。これなら毎日続けられる。明日も入れそうよ」

 季節的には日を追って気温が下がって行く時期だったから、二日ぐらいは入れるかと思った。後に母に尋ねたら二日ぐらいは平気だそうだ。返って二日目の方が濃いエキスが溶け出すので体に良いそうだ。

「もう終電が近いから帰るよ」

「本当は泊まって行って欲しいけど。無茶言っては駄目ね」

 僕が成人しいていたら恐らく泊まって行ったと思う。でも僕は未だ十九歳なのだ。自動車の運転免許を持っていても、二十歳ではないのだ。今は我慢しなくてはならない。それは節子さんも理解してくれた。

 こうして投薬と蜆の療法を暫く続けて行く事となった。

 三月が過ぎる頃に効果が出始めた。節子さんの体調が著しく良くなったのだ。肝臓の値もかなり改善されていて、彼女も「調子が良い」と口にすることが多くなって来た。僕も節子さんも希望が見えて来たと思うのだった。