試験が終わるとまた新しい授業が始まる。それは僕にとって嬉しい事でもあった。何故なら一日も早く立派な板前になりたかったからだ。

 この頃僕はもう日本料理の道に進む事に決めていた。白衣を着て調理実習をするのは楽しい事だったし、科学的な説明を聞くと感心したりした。

「何故、リンゴやじゃがいもは皮を剥くと黄色く変色するのか」とか「青い野菜を茹でる時には何故塩を入れる必要があるのか」とかは僕の料理に関する目を開かせてくれるのに充分な事だった。

 ちなみに前者は「褐変」と言い、表面が酸化するからだ。後者は塩と言うよりナトリウムと野菜の青い成分が結合してクロロフィルに変わるので、塩を入れないとクロロフィルにならないからだ。

 僕と節子さんの関係は相変わらずで、キス以上の進展はない。学校の帰りにお茶をする程度だった。当時の僕はそれでも結構満足していたし、それ以上を望めば節子さんと深い関係になるのも訳はないと思っていた。全く子供だったのだ。

 ある日、節子さんが学校を休んだ。週末の金曜日だったから休みを取ったのかも知れないと考えた。帰ってから節子さんの家に連絡をしてみた。

 結果として節子さんは電話には出なかった。やはり何処かに旅行にでも行っているのかも知れないと思った。来週学校に出て来たら訊いてみようと考えた。

 翌週の月曜日、節子さんは学校に出て来た。しか普段より体調が悪そうだった。僕は

「どうしたの、具合が悪いの?」

 そう言って節子さんの顔色を見ると明らかに悪い。これは尋ねなくても具合が悪いのだと直感した。

「無理しない方が良いよ」

「ありがとう。でも金曜も休んじゃったから今日は授業受けないと」

 それは理解出来たが、出席日数的には問題ないだろうと思った。僕の記憶ではこの前の金曜日が初めての欠席だと思った。

 悪いと思ったが額に手をあてた。熱があると思ったからだった。僕の手に感じる節子さんの額の熱は少し熱く感じた。微熱ぐらいはあると考えた。

「熱あるんじゃない?」

 僕の問いかけに節子さんは無理をして笑顔を作って

「うん。少しだけだから。それに私、平熱が高いから平気」

 その言葉に無理があるのは判ったが、今はそれ以上詮索しない事にした。節子さんの想いも理解出来るからだ。

 授業が終わると僕はすぐに節子さんの前に行き

「家まで送って行くよ。一人では帰せないよ」

 そう言って送って行く事を宣言した

「ありがとう。悪いわ。一人でも大丈夫だと思う」

 そう言いながらも立つのもやっとと言う感じだった。僕は節子さんの腕を支えて一緒に教室を出て行った。

 電車の中でも座らせて、なるべく体力の低下を防いだ。彼女は座ると目を瞑って動かなくなった。やはりそうだ、起きているだけで精一杯だったのだと思った。

 節子さんのアパートは駅からそう遠くないので、僕は彼女を抱きかかえるように一緒に歩いた。アパートに着くと一人で階段を登ろうとするので僕は彼女をお姫様抱っこして階段を登った。

「凄い。翔ちゃん見かけより力があるのね」

「一応僕も男ですから。それに今日の節子さんは軽い。殆ど食べて無いのじゃない?」

 僕の質問に節子さんは黙って目を瞑った。その通りなのだろう。

 部屋のベッドに上着を脱がせて、そのまま寝かせる。節子さんが元気ならそのまま全て脱がせたい所だが今はそんな気は起きない。

「ありがとうね。助かったわ。正直言うと、今日はどうしても翔ちゃんの顔が見たかったの。だから無理して行っちゃった」

 節子さんはベッドから起き上がりブラウスを脱ぎ始めた。僕は慌てて後ろを向いたが

「構わないわ。こんな病人の下着姿を見ても何とも思わないでしょう」

 確かに今はそんな気は無い。元のように節子さんの方を向く。節子さんはスリップ姿だった。いつの間にかスカートも脱いでいた。そして、そのスリップも脱ぎブラジャーとパンツ姿になった。そして

「これが私の下着姿よ。色っぽくも何ともないでしょう。悪いけどその足元に掛かっているパジャマを取ってくれないかな」

 節子さんに言われるまで僕は彼女の下着姿に見とれていた。体調が悪くても節子さんは綺麗だったからだ。胸の谷間も僕の想像より遥かに深かった。着痩せするのだと思った。そして言われたようにパジャマを取って差し出した。

「ありがとうね。正直、助かったわ。本当は一人では一歩も歩けないと思ったの。翔くんのお陰でこうやって部屋まで帰ってこれたわ」

「お礼なんてとんでもない。当たり前でしょう」

 僕としてみれば当然の事をしたまでだった。節子さんはブラジャーも外してパジャマの上着を羽織った。僕はその時だけは横を向いた。

「わたしね。翔くんに隠してる事があるの。そして嘘もついているの」

 僕は節子さんを横にならせて毛布と布団を掛けた。

「熱があるんだから横になった方が良いよ。でも嘘って?」

 僕の言葉に節子さんはベッドの脇まで寄って。近くに感じていたいの」

 そ言葉に僕は節子さんの顔にくっつく様に座った。

「これでいい?」

「うん」

「それじゃ続きを」

 僕の言葉に節子さんは話しだした。

「嘘と言うは最初の受験の時に志望理由を『弟のため』と言ったけど。それが

嘘なの。私には妹はいるけど弟はいないのよ。本当の理由は、自分で料理の勉強がしたかったから」

「それだけ? ならわざわざ資格を取らなくても」

「それが次の隠してる事と繋がるのよ」

「隠してる事って。誰か恋人が居るとか……」

 僕の言っていることが余りにも幼稚だったのか節子さんは笑いだした

「あはは。また面白い事を。私には今は好きな人は翔くんだけよ。他には誰もいないわ。一番好きなあなたにだけは本当の事を知って欲しいの」

 思ったより重い内容だと推測で出来た。

「本当の事って……」

 僕の言葉を待っていたかのように節子さんは語りだした。

「私ね実はキャリアなの」

「キャリア?」

「B型肝炎のキャリアよ」

 実は僕の周りでB型肝炎に掛かった人は僕を産んでくれた母だけだった。僕を産んだ後に結核にかかった。その当時には薬も出来たてはいたが、母の衰弱が酷く薬の効果が望めなかった。仕方ないので輸血して体力の回復を図ったのだった。

 当時は「売血」の時代でそれらの血液は良く検査されずに輸血された。僕の母はその時に感染したのだった。幼かった僕は今でもその時の事は覚えている。長い間の入院を経てやっと回復したのだった。だから僕は物心ついた時に傍に母の姿は無かった。遠くの病院に月に二三度行く時に逢える存在だったのだ。だから「B型肝炎」と聞いて他人事とは思えなかった。

「いつ頃掛かったの?」

「子供の頃かな。何かの予防接種で針の使い回しで感染したの。暫く判らなかった。中学の頃かな、夜遅くまで勉強して無理した頃から何か怠くなってね。それに熱ぽいし、それで近所のお医者さんに診察して貰ったの。そうしたら」

「そうしたら」

「B型肝炎と診断されたの」

「それからずっと治療を?」

「うん。このところは発病しなかったのだけどね。色々と無理したから出たのかも知れない」

「医者に行ったの?」

「うん。薬も貰った。それで金曜は休んだの。先生も数日は寝ていなさいって言うからね」

「じゃあ今日も寝ていないと」

「でもね。金土日って寝ていると翔くんの事だけ考えちゃってね。本音を言うと翔くんに傍に居て欲しかった。でも真実を言ったら、きっと私嫌われる。そう思ったの。電話かけてくれたでしょう? すぐにあなただと判った。でも出たら来て欲しいって言ってしまうのが怖くて出られなかった。私嫌われたくなかったの」

 僕は苦笑いしか出来なかった。

「実はね……」

 僕は自分の母の事を話した。それは節子さんにとって驚きだったようだ。所々で驚きの感想を述べながら頷いていた。

「お母さんはどうやって直したの」

「基本的には薬だけど。薬が百%効くようにしたんだ」

「何をしたの」

 そこで僕は母がやった事を話した。それは蜆を沢山買って来て砂を抜いてから大きな鍋に入れて蒸すのだった。そうすると蜆は青白い液体を吐き出して殻が開く。これをザルに取り液体を絞ってそれを毎日すこしずつ飲むのだ。

 慣れないうちは飲み難いが、段々と慣れて来る。母はこれをやりだしてから見違えるように回復して行ったのだった。それまでは怠くて階段も登れないほどだった。

「わたし、やってみようかな。蜆って市場で買える?」

「ああ、買えるよ。僕が手伝ってあげるよ」

「ほんと! 嬉しい。今まで一人でやってきたの。誰にも怖くて言えなかった」

「大丈夫。今日から僕がついているから」

 ベッドから出した節子さんの手をしっかりと握った。

「ごめんねキスでも伝染るかも知れない。もう翔ちゃんに伝染ったかな」

「大丈夫だよ。僕にはうつらない。母の結核だって平気だったしね」

 そうなのだ。結核の母に接触しても僕には感染しなかった。僕にはそんな所がある。

「じゃあキスして」

 この時から僕は本気で彼女を愛して行く事になった。




※第16回「星の砂賞」で三田誠広先生より審査員特別賞を戴きました。応援して戴いた皆様。本当にありがとうございます。m(_ _)m