製菓のスポンジケーキの提出期限はその週の金曜日だった。本試験の後試験休み数日あり、秋分の日の前日、僕は家の台所で提出のスポンジケーキを焼いていた。分量が決められており、勝手な変更は認められなかった。その分量は
・薄力粉 百グラム
・上白糖 百グラム
・卵(中)四個
・牛乳  大さじ二杯
・ショートニング又はサラダ油 適量
 となっていて、分量の勝手な変更は、認められていなかった。判った場合はその場で落第する。
 手順は僕としては簡単だと感じた。まず卵を卵白と卵黄とに分離する。そして卵白を冷えたボールに入れ、泡立て器で泡立てるのだ。今は電動式のものがあるが、この頃は出始めで手でやるのが普通だった。
 コツは冷えたボールを使う事と手早くかき混ぜることだった。確かに労力は使うが特別に難しいことは無い。
 泡立て器で泡を立たせて立っほど固くなったらそれで良い。そこに、振るいに掛けた上白糖を入れる。製菓とか調理師学校では普通の砂糖の事は「上白糖」と呼び、他の砂糖とはそれぞれ区別している。
 これはかき混ぜると簡単に溶けるので、それにやはり振るいに掛けた薄力粉を入れる。ここで木杓子を使って粘りが出ないように切るように粉を溶かして行く。次に牛乳を入れてかき混ぜる。完全に溶けて生地状になったら、そこに卵黄を入れてやはり切るようにかき混ぜる。これでスポンジの生地が出来た。
 あとは、型にショートニングを塗って、製菓用の焼く型紙を入れる。内側にもショートニングを塗っておく。
 この型に生地を流し込んで行く。ちなみに指定された型の大きさは直径18~16センチとなっている。僕はスーパーで18センチのを買って来た。
 流し込んだら、生地から空気を抜く為に数回数センチの高さから落として気泡を出す。それが終わったら、オーブンで百八十度で二十分焼くのだ。温度の目安はオーブンの中に手を差し出して五秒で熱さを感じたら適温と言う事だった。電気式のオーブンなら温度を指定出来るがこの当時のプロのガスオーブン(ストーブ)では温度の管理は手動で行うのが常で、しかも自分たちは一応プロを目指しているのだから、温度の管理が出来なければお話にならなかったのだ。
 僕はわざと少し低くなるようにガスの目盛りを落とした。それは温度が低ければ状態を見て焼く時間を伸ばせば良いと思ったからだ。学校で先生の前で焼くなら、きちんと指定を守らねばならないが、出来上がりだけをチェックするなら、好きにすれば良いと思った。
 結局、三十五分ほど焼いて、指定のスポンジが焼きあがった。
「上手く出来た」
 自分でも感心するぐらいの出来栄えだった。それに気を良くした僕はそれから幾つもスポンジを焼いて家族に食べさせた。これは思ったより好評で、喜んでくれた。
 そんな事があり、あとは提出するだけと安心していた秋分の日の夜だった。家の電話が鳴った。電話の近くには丁度僕が居たので電話に出た。
「はい、風間ですが」
「ああ、翔ちゃん! 助けて欲しいの!」
 それは節子さんの悲鳴に近い声だった。
「どうしたんですか?」
「スポンジが焼けないの……わたし出来ないの。何回やっても駄目で……もう、どして良いか判らなくて」
 確かに試験でもスポンジを焼いたのは節子さんの班だった。確かあの時は、オーブンの温度管理に失敗して焦がしてしまったのだった。あの時温度を見ていたのが節子さんとは班のメンバーから聞いてはいた。
「駄目って、焦がしてしまうの?」
「そうなの。よくわかったわね?」
「何となくそう思った。でもオーブンは何を使っているの」
 そう尋ねた。僕の記憶では節子さんのアパートの台所にはオーブンは無かったと思った。オーブントースターならあった可能性はあるが、それでは焼けない。
「何って、学校で買ったやつよ。あれで焼けって先生言って無かった?」
 確かに、先生は「オーブンの無い人は入学時に買った簡易オーブンで焼きなさい」とは言ってはいた。でも僕は家のオーブンで焼くつもりだったので本気で聞いてはいなかった。
「どれぐらいやったの」
「昨日の夜から何回も作ったのだけど、皆焦げてしまったの」
 入学時に買わされた簡易オーブンはガス台の上にお釜上の金属の物体を載せて簡易的に中をオーブンの状態にして焼くものだった。その為の中皿もあった。そこに型を入れて焼いたのだろうと想像した。
「僕が作ったので良ければそれを持って行けば良いよ。どうせ誰が作ったのか判りはしないし。手順を完全に覚えれば問題ないと思うよ」
「手順って尋ねられるかしら?」
「『どうやって作ったの』ぐらいは訊かれると思うけどね」
「そうか、まあ手順は言えると思うけど……大丈夫かしら。先生『これ風間くんと同じじゃない』とかバレないかしら?」
「大丈夫だよ。僕が幾つか作って一番違うのを渡すからさ」
「そう、ありがとう! それを聞いてて安心したわ」
「それで何処で何時渡す?」
 暫く間があって、
「今日は水曜日で提出は金曜日でしょう? 翔ちゃんは何時が都合つけられる?」
「節子さんに合わせますよ。何なら持って行っても良いし」
「じゃあ今からなんて……駄目よね」
 僕は壁の時計を眺めて
「電車まだあるし。もし行ったら朝まで帰れないですよ。それでも?」
「良いわよ!」
 そう返事をした節子さんの声は少し潤んで聴こえた。

 節子さんの分は新しく焼いた。時間はさほど掛からなかったが、時間が少し遅くなってしまった。そこで僕は電車ではなくバイクで行く事にした。自動二輪の免許は高校の頃に取ってあった。自分の家では父親の125のスクータに乗っていたが、基本制限の無い免許だった。
 スクーターの後ろのボックスにスポンジを焼いた箱を入れた。動かないように箱をテープで止めてボックスの蓋を閉める。ヘルメットを被ってスクーターを走らせた。
 深夜の道は空いている。スピードを出したくなる所だが車に群れない程度の速さで走らせる。乱暴な運転をしたら後ろのスポンジが心配だからだ。
 三十分ほどで節子さんのアパートの前に着いた。スポンジの箱を持ちながら静かに階段を昇る。ドアをノックするとすぐに節子さんが顔を出した。
「本当に来てくれたのね! 上がって!」
 節子さんは僕の手を引いてくれたので、ありがたく上がらせて貰う。部屋の中は甘い匂いが充満していた。これはスポンジを焼いていた匂いだとすぐに判った。
 台所に行くと、無残にも焦げたスポンジの残骸が無数にあった。
「本当に駄目だったんだね」
「そうなの」
 僕は自分が持って来たスポンジを渡した。
「ああ、嬉しい! 翔ちゃんて料理の才能があるのね。卵焼きだって先生に褒められたし、スポンジだって簡単に作ってしまうし。凄いわ」
「そんな事ないよ。大体、昔から不器用だったのだから」
 節子さんは受け取ったスポンジを大事にテーブルの上に置いてから、いきなり僕に抱きついた。いきなり抱きつかれたので、僕はよろけて部屋の方に下がって行き、崩れるように倒れてしまって仰向けになった。その上に節子さんが覆いかぶさる。これって本来逆じゃないのかと頭の隅で考えたが何か言う前に口を塞がれた。
「ん……」
 この前とは比べられないほど濃厚な口づけだった。
 息が続くかと思った時に唇が開放された。とおでこがくっつく様な目の前で節子さんの口が開いた。
「節子さん……」
 もう一度口を塞がれた。
「駄目な私が泣き言を言って慰めて貰おうと電話したら、すぐに持って来てくれるなんて……もう、なんて言っていいか判らない!」
 「当然でしょう。困ってるのに後でなんて言えないですよ」
 寝転がったままお互い抱きしめ合った。節子さんの柔らかい躰が心地よかった。でも僕は節子さんの思惑を見抜いていた。
「僕の作ったのは保険でしょう? これから金曜の提出まで自分でちゃんとしたのを作ってみるつもりでしょう」
「何だ、判っていたのね」
「それぐらい節子さんの事なら判りますよ」
「もう年下なのに賢いんだから」
 半分拗ねたような。それでいて嬉しそうな表情は僕にとってはとても魅力的だった。
「それなら、これから一緒に作りませんか? 僕が教えますよ」
「ほんと! 嬉しい」
 それから節子さんの入れてくれたコーヒーを飲んでから早速スポンジを焼く事にした。そこで判った事は僕の考えていた通り、ガスの火が強かったせいだった。
「このお釜なら火は最低で良いと思いますよ」
「でも、それじゃじゃ時間通りに焼けないと思うけど」
「二十分で焼け無ければ時間を伸ばせば良いんですよ。何も先生の前じゃ無いのだから指定の時間は守る必要は無いと思いますよ」
「ああ、そうか! そうよね、私勘違いしていたわ」
 その後、このお釜で焼くと容積が小さいので火が高温になりやすい事が判った。そこで僕は本当に最低の火加減にして焼いたのだった。
「出来たけど翔くんの焼いた方が綺麗ね」
「そえなら僕の方を出せば良いですよ」
僕は節子さんにそう言った。その後は朝まで一緒に居て色々な事を話した。僕はますます節子さんに魅了され、そんな事を考えながら朝の家に帰った。幸い家族は誰も気がついていなかった。
 追試の提出日、先生はナイフでスポンジを切り、焼いた温度と時間を尋ねた。僕は指定通りの答えを言って合格を貰った。節子さんも僕の指定通りの答えを言って合格を貰った。その時先生は
「少し焼きが甘いけど、まあいいわ」
 そんな事を言ったとそうだ。合格を貰って節子さんは僕に
「お礼に今度二人でも何処か行きたいわね」
 そう言って嬉しそうな顔をした。