「サブの過去と未来」

 サブが雅也の指示通りに調理を進めていく。
 最近では特別な献立で無い限りは細かく言われる事も少なくなった。それはサブの腕が上がって来ているからなのだが、本人はそう言う処にはいたって無頓着で、ただ日々の仕事を淡々と正確にしているつもりだった。
 ふと、手を止めて雅也と出会ってから何年になるだろうと回想する。

 サブが始めて雅也と出会ったのはサブが中学を出て、雅也が調理長をしている店に小僧として入店した時だった。
 勉強が嫌いで、中学ではいっぱしの名を売っていたサブだったが、板前の世界に入って、それまでの勢いなぞ何の役にも立たない事が判ってしまった。
「ちゃんと気合を入れて行かないと大変な事になる」
 そう思ったサブはそれまでのリーゼントの髪をバッサリと切り短く揃えて入店したのだ。
「勉強は嫌いだから、会社員や役人にはなれないけど、手に職をつけて俺は成功するんだ」
 その思いがあったから悪さは学校までと決めていた。
「宜しくお願いします!」
 居並ぶ先輩や雅也の前でサブは両手を膝につけて頭を下げて挨拶をした。

 同じ調理場でも、サブの居る洗い方の流しと、雅也が包丁をふるっている板場ではまるきり世界が違っていた。
 それでも、たまに見る雅也の鮮やかな包丁捌きは、うっとりとする程素晴らしかった。
「俺も何時かはああなりたい!」
 その日から雅也はサブにとって憧れであり目標となったのだ。
「是絶対一生付いて行く」そうも思ったのだ。

 雅也が独立する時にも一緒に店を辞めてついて行った。
「給料が出せないかもしれないぞ」
 そう言われたが、サブは「それでも構いません」そう言って半場強引に雅也の店に勤めたのだ。

 転機が訪れたのは、雅也の妻子が亡くなって、店を畳んだ時だった。雅也は一冊の預金通帳をサブに渡して
「お前がウチに来てから給料から少しずつ天引きしていてな、多少貯まっている。これを持って何処か他所に行け。何なら紹介状を書いてやる」
 そう云われたのだが、サブは納得がいかずに食い下がったが、雅也は
「暫くは、もう何もする気が起こらないんだ」
 そう言うのみで、そのうち、店と住居もう売り払ってしまった。

 行く処が無くなったサブだが、他の店には行かずにアルバイトで食いつないでいた。
 それやこれやで1年が過ぎようとした頃に、ある噂を耳にした。
 それは、出張料理だが、凄腕だが特別高い料金を取る板前が居る、と言う噂だった。サブはその噂を聞いた時に「もしかしたら、雅也かも知れない」と思った。
 大分耳に入って来る噂では腕は超一流だが法外とも言える料金がかかる。態度が高圧的だ、とか言うものだったが、サブにはその意味が良く判っていた。
 雅也だったら、本当に味の判る者だけを選別する為にそうしていると言う事が理解出来たからだ。
 それからは、噂を調べて、注文した者を尋ねて、電話番号を訊き、住所を調べて、雅也の今の住所に訪ねて行ったのだ。

 その時の事をサブは今でも忘れない。呼び鈴を押して出て来た雅也はサブを見ると
「良くここが判ったな……まあ、上がれ」
 そう言ってサブを中に入れたのだ。そして、もう一度自分を置いて欲しいとサブが頼むと初めは断っていたが、サブがあの時の預金通帳を見せた。
 中身を見た雅也は、この1年間に僅かだがサブがお金を貯めていた事が判った。
「それを、もう一度預かって下さい」
 そう言うサブの熱意に雅也は負けて、サブを入れる事にした。
「だが、給料は安定しないかも知れないぞ」
 そう云われたが、サブは雅也の下で働けるなら、それで満足だった。


 翌日は仕事は休みだった。サブは朝からおめかしをして、いそいそと何やら支度をしている。雅也が起きて来てサブに
「なんだ?今日はデートか?」
 そう言うとサブは「あ、いえ、デートなんてもんじゃ無いですよ。ちょっと友達と……」
 そう言って戸惑どうサブに
「『風の子園』の楓先生か?」そう言ってニヤリと笑う。
「な、何だ知っていたんですか、親方も人が悪い」
「当たり前だろう、この前だって二人で色々と話していたみたいだったし、アレに気が付かないはずが無いだろう」
 云われて見ればその通りだった。もう、大分前からサブは「風の子園」で保育士をしている楓幸子先生と付き合っていたのだ。
「そうか、栃木まで行くから早起きか、ご苦労さんだな」
 雅也はそう言って笑っていた。

 雅也にからかわれ様がサブは真剣に交際をしていた。
 今日も、栃木市内でデートの約束だったのだ。栃木の駅を降りて時計を見ると時間より少し早かった。
 まだ、来ないと思っていると、改札で幸子が待っていた。
「早いね。俺の方が早いと思っていたんだけどね」
 サブがそう言って幸子を見つめる。歳は幸子の方が一つ上だが、サブとしてみれば出身が近いので、気楽に会話出来るのだった。
「何処行く?」
「私はサブちゃんとなら何処でも良いわ」
 幸子がそう言ってニコニコしている。
「じゃあ、とりあえずお茶でも飲もうよ」
 そう言って二人は幸子が推薦する喫茶店に入って行った。

 楽しい話が続いていたが、やがて二人の将来の事に及んだ。
 どうするか……サブとしては勿論結婚したいと思っていた。幸子は特別な美人とは言えなかったが、気立てが優しく、良く気がついて、「風の子園」でも子供達に人気の先生だった。
 優しさが顔にも出ていて、そんな幸子にサブは惹かれたのだった。
 幸子も全く違う世界で板前と聞いて恐いイメージがあったのだが、ひょうきんで、そのくせ仕事には情熱を持って打ち込んでいるサブに興味を持ち、二人はいつの間にか愛し合う様になったのだ。なので、自然と会話は将来の暮らしについての事が中心となる。
 その点ではサブは正直、胸を張れなかった。今は、雅也のマンションに居候している身だ。
 それに収入でも一家を支えるのは難しい。共稼ぎとなるのだろうが、そうなると幸子が「風の子園」に勤務出来る近くが良い。
 そう言う相反する事があるので、サブは悩んでいたのだった。
 話が暗くなるのを察した幸子は話題を別なものに変えた。それを感じたサブは「済まない」と心で思うのだった。

 デートは楽しかったし、休日としては充実していたと思う。だがマンションに帰って来て頭に浮かぶのは、結婚に話が及んだ時に自分が見せた戸惑い……
 それをすぐに感じて咄嗟に話題を変えた時の幸子の寂しげな顔……それが頭から離れなかった。

 そんなサブを見て、雅也はある預金通帳をサブの前に置いた。
 それは以前、サブが受け取って、ここに来た時に渡した通帳とは別のものだった。
「親方、これは……」
 戸惑うサブに雅也は
「前の通帳は、あれからお前が天引きしてくれと言うので、月2万ずつ積んでいる。これは俺がお前にボーナス代わりにと思って貯めていたものだ。お前のだ、好きに使え」
 云われて中を見ると7桁の数字が並んでいた。
「親方……」驚くサブに雅也は
「それだけあれば、何処かに部屋ぐらい借りられて、ちょっとした家具なんか買えるだろう。ここから新栃木まで電車で1時間半だ。まん中あたりで借りれば45分だ、両方とも通勤出来ない距離じゃ無い。それに何かあればここに泊まっても良いしな」
 そう言った雅也はすべて判っていたみたいだった。
「親方、どうして、俺とさっちゃんで結婚の事が気まずくなっているのか判ったんですか?」
 サブの質問に雅也は
「なあに、この前園長先生から相談されたんだ、それだけだよ。電話して安心させてやれ」
「はい!」
 サブは直ぐに携帯で連絡を取っていた。その様子を見た雅也は一言
「お金は生き金を使わないとな、価値が違って来る」
 そうポツリと言ったのだった。