九月は夏の名残の前半と、お彼岸を過ぎた最後の方では気温がまるで違います。それは神山でも同じで、特にわたしの住んでいる北陣出では朝晩の温度と昼の温度の差が激しくなります。でも、その厳しい気候が作物に良い影響を与えている事も忘れてはなりません。わたしは家を継ぐ事がなくなっても農業を一生の仕事として行こうと心に決めました。大学に進み、そしてその上にも進めたら良いと考えるようになりました。
 授業が終わり地学講義室に向かいます。折木さんは相変わらず来たり来なかったりですが、今の時期は学園祭に向けて文集「氷菓」を制作している真っ最中ですので、珍しく毎日顔を出してくれています。
 部室の入り口を開けると、既に摩耶花さんと大日向さんが来ていました。二人は「台割」を見ながら編集の作業をしていました。本来なら部長であるわたしも参加しなくてはならないのですが……。
「ああ、ちーちゃん」
「千反田先輩、こんにちは」
 摩耶花さんと大日向さんが挨拶をしてくれました。
「こんにちは。すいません。本来ならわたしも参加しなくてはならないのに」
「いいんですよ。今日は、改めて進行を伊原先輩に教わっていただけですから」
 大日向さんが嬉しそうな顔をして説明してくれました。
「もう原稿も印刷所に送ったから、あとは出来上がって来るのを待つばかりなのよ」
 摩耶花さんが、さっぱりとした表情で語ってくれます。
「もうそんな所まで」
「これでも遅いぐらいなのよ。わたしと河内先輩の同人誌があったからね」
「そっちは、どうなりました?」
「うん。お陰様でこっちも出来上がりを待つばかりなの」
「そうですが、出来上がりが楽しみですね。当日はわたしの分も確保しておいて下さいね。今から予約しちゃいます」
「あ、それならわたしも」
「既に二冊も売れちゃった」
 摩耶花さんの言い方が可笑しかったので、三人で笑ってしまいました。その時、部室の扉が開いて折木さんが入って来ました。
「おう、里志以外はお揃いか。俺が遅かったみたいだな」
 折木さんは何時もの席に座ると摩耶花さんが
「この前は、助かったわ。まさか、あんたがあんな事出来るなんて」
「よせよ。あれぐらいは誰でも出来るだろう」
「普段省エネとうそぶいているあんたがやった事が驚きだったのよ」
「ほんと、折木先輩って油断ならないですからね」
 どうやら三人の言っている事を纏めると、折木さんは摩耶花さん達の編集の手伝いをしたみたいです。摩耶花さんがそれについてお礼を言ったと言う事でしょうか?
 いつ、そんな事をしたのでしょうか? そんなわたしの気持ちを読み取ったのか折木さんが
「この前、お前が家の用事で部活を休んだ時に、編集を少し手伝ったんだ」
 そう説明をしてくれました。その事にわたしも驚き
「折木さんって、編集も出来たのですか?」
 そんな事を尋ねてしまいました。
「編集なんて大げさなものでは無い。伊原の言う通りの作業をしただけだ」
 それでも今までの折木さんの行動を知っている者から見ると驚き以外の何物でもありません。わたしも、その一人でした。
 少し複雑な想いが躰を駆け巡ります。言葉にならない感情が心に留まります。わたしの勝手な想いだとは理解しているのですが、気持ちが追いつかないのです。
 その後、この日は特にしなくてはならない事が無い為、解散となりました。摩耶花さんは大日向さんと一緒に帰る事になりました。福部さんは総務委員の仕事があり遅くなると言う事でした。
「一緒に帰るか? 途中までだけどな」
 地学講義室には、わたしと折木さんだけが残っていました。
「今日は少しショックな事がありました」
 少し拗ねてみます。
「ショックな事? 何だ。まさか俺が伊原の仕事を手伝った事か?」
 首を左右に振ります。そうでは無いのです。
「そのことでは無く、摩耶花さんの編集の仕事を手伝うのは同じ古典部なのですから、納得出来ます。ショックだったのは、誰もそれをわたしに知らせてくれなかった事なのです。それに、わたしもお手伝いしたかったです。わたしだけが知らなかったなんて……」
 折木さんは困った顔をして
「帰る道々説明するよ。一緒に帰ろう」
 そう言ってわたしの肩を優しく抱いてくれました。
 秋の夕日は釣瓶落としとはよく言ったものです。校庭には並んで歩く二人の長い影が伸びています。
「意識的にお前に黙っていた訳ではない。それは判ってくれ」
 折木さんは丁寧に説明をしてくれ始めました。
「お前の来ない日だと言う事は判っていた。だから帰ろうかと思っていたのだが、途中で気が変わってな」
「どうしてですか?」
「階段を降りる時に大日向を見かけたんだ。向こうは俺に気が付かなかった見たいだが、何か急いでいる感じがして気になってな。それで部室に向かったんだ。行ってみれば大日向と伊原が必死で作業していた。それを見て『俺に出来る事なら手伝うぞ』と言ったんだ。それだけさ」
 折木さんの言う通りなのでしょう。ならば、何故、わたしに言ってくれなかったのでしょうか? その事を問います。
「それは、お前はお前で忙しそうだったしな。特別意図があって黙っていた訳ではない。それが事実だ」
 その時のわたしの顔は少し拗ねていたのでしょうか折木さんは少し表情を崩して
「それにしてもお前の拗ねた顔、初めて見たな。良いものを見させて貰ったよ」
 そんな事を言うのです。その言葉に今までのわたしの気持ちは何処かに消えてしまいました。
「やっと笑ってくれたな。さっきから中々笑ってくれないので弱っていたのさ」
「もっと、弱ってくれていても良かったですよ」
 わたしも少し憎まれ口を言ってみました。あの事以来、折木さんと心の距離がぐんと近づいた気がします。それが態度にも出てしまいます。
 それは商店街に差し掛かった時でした。交差点で女の人が何かを人に言っている様でした。わたしは、最初、それが普通の人同士のやり取りだと思ったのですが、近づくに連れて、そうでは無い事が判って来ました。
 どうやら、その女性は口が不自由らしかったのです。言葉にならない言葉を口から出して、道行く人を呼び止めていたのですが、すれ違う人は誰も困惑してしまって過ぎ去ってしまっていました。
 女性が困っているので、わたしは折木さんと、その女性に声を掛けました。
「どうかなされたのですか?」
 どうやら、わたしに声を掛けられた事は判ってくれた様です。でも言葉にならない声を出すだけでした。
 その時でした。折木さんがその女性に向かって手を動かし始めたのです。そうです手話でした。
  折木さんが手話をし始めるとその女性も手話で答えてくれました。暫くの間、二人の間で会話が交わされました。やがてその女性は折木さんに何度もお礼をして歩いて行きました。わたしは、また驚きの余り声も出ませんでした。
「折木さん。手話が出来たのですね」
 少し経ってから、それだけを言うのが精一杯でした。
「あの女性は単に道を知りたかっただけさ」
 そう説明してくれました。それでも黙っているわたしに向かって
「歩きながら話すよ」
 折木さんはそう言って歩き始めます。わたしも並んで歩きます。
「昔、姉貴が逮捕術を習う為に警察関係に通っていた時があったんだ。その時に一緒に連れて行かれてな。でも俺はそんなものを習う気は無いので、ぶらぶらしていたんだ。そうしたら、警察の偉い人から『君は逮捕術には向いていない感じだから、手話でも習ったらどうかね。聡明そうだし』と言われたのさ。逮捕術に比べれば省エネだしな。まあ、余り真面目にやったとは言えないが、それでも何とか簡単な会話ぐらいなら出来るようになったんだ。それが事実さ。もう昔の事さ。大した事じゃない」
「そうでしたか……」
「どうした?」
「いえ、わたし、折木さんの事で、まだ知らない事があるのだと知りました」
 そうなのです。わたしは、この人の事を知ったつもりでいたのですが、それはこの人のごく一部だと改めて知らされたと思いました。わたしは、高校に入学してからの、この一年半しか知らなかったのです。折木さんの口から小学校の頃の事を聞いて、すっかり知ったつもりでいたのです。そう想うと心に隙間が出来た気がします。その隙間を風が抜けて行きます。今さっき近づいたと思った心が離れて行くのを感じます。
『わたしは、この人の事を何も知らない。いや知っていたつもりだった』
 改めてそう想うのでした。
 でも、それでも、わたしはこの人を……。
 離れたくないと強く想うのでした。
「どうした?」
 折木さんが呆然としているわたしを心配して声をかけてくれました。
「いえ、なんでも無いのです」
「そうは見えなかったぞ」
 折木さんにはお見通しなのですね。
「わたしは折木さんのほんの一部しか知らなかったと想っていたところでした」
 真実をありのままに告げます。すると折木さんは穏やかな笑みを浮かべて
「俺だってお前の事は少ししか知らない。お前が生きて来た世界とか、お前が感じてた重圧などは俺の知らない世界のものだ。今でもそうだが、俺はそんなお前に敬意を抱いている。だから、そんなに気にしなくても良いと思うがな。それに、俺にはそれほど秘密なんかありはしない」
 言われてみればその通りです。
「それに、全てを知ったら幻滅するかも知れないしな」
 そんな事を口にした折木さんは少しイタズラな表情をしていました。そうです! 新しい発見と思えば良いのです。
 やはり折木さんは、わたしには無いものを持っているのだと感じました。
 何時迄も傍に居てくれる事を願うのでした。



                                                                           <了>