八月も末になると神山には秋の気配が近づいて来た事が伺えるようになる。特に、朝晩はめっきり涼しくなって来ていた。
 月の初め頃は午前四時には明るかったのが今や六時前にならにと明るくはならない。これが来月になるともっと遅くなる。
 どっちかと言うと俺は余り昼が長いのは性に合わないと自分では思っている。伊原あたりが聞いたなら薄笑いを浮かべるのではないか。
 その日は千反田と逢う約束になっていた。何回か行った図書館での勉強の延長で、大日向の事を口に出すつもりだった。
 その大日向だが、先日里志のセッテイングで逢ったのだ。里志が二人が逢う場所として指定したのは、何と神山高校の地学講義室だった。何の事はない、古典部の部室だった。
「何だって、よりによって古典部の部室なんだ?」
「ああ、だってその方が判りやすいし、それに夏休みの部室なんて秘密の話をするのには好都合じゃないか」
 全く、里志の考えそうな事だと思った。
 当日、職員室で鍵を借りて特別棟の四階まで登って行くと、何時かみたいに部室の入り口の桟に両手を伸ばした状態で人が下がっていた。大日向だった。
「よう、暫く振りだな」
 いきなり声を掛けた訳ではないが、大日向は驚いて両手を放して勢い良く廊下に着地した。
「驚いた!」
「何でだ。この時間に俺がここに来るのは知っていただろう」
「そうですけど折木先輩の登場の仕方が予想と違っていたので」
 いったいこつはどんな登場の仕方を想像していたのだ。
「いつぞやは、本当にありがとうございました」
 大日向は両手を揃えて頭を下げた。
「いや、別に気にしなくても良い。礼を言われる程の事はしていない」
「でも、あのままだったら、わたしは未だに……」
「それは結果論だ。違う展開もあったかも知れん。それより鍵を借りて来た。中に入ろう。里志が言うには夏休みの古典部の部室は秘密の相談をするには持って来いだそうだからな」
「何ですか、それ」
「里志一流のジョークだ」
 鍵を開けて中に入る。ここ数日誰も入っていなかったのか、部屋からお日様の匂いがした。
「ああ、いい匂い……わたし、このお日様の匂い、好きなんです」
 確かに大日向には似合っていると俺も思った。
「適当に座ってくれ」
 そう言うと大日向はかって自分が良く座っていた席に着座した。俺は何時もの席に座る。
「千反田に謝りたいなら直接行けば良いじゃないか。知らぬ仲では無いのだから」
 いきなり本題に入る
「最初はそう思っていたのですが、あの噂を耳にしてしまって……」
 あの噂か……こいつはどんな噂を聞いたのだろうか?
「その噂とやらを俺にも教えてくれ」
「え、知らないんですか?」
「知ってはいるが、正確では無い。誰も俺に噂をする奴はいないからな」
「それもそうですね。何せ噂の張本人の片割れですからね」
「片割れ? 何だそりゃ」
 俺の不思議そうな顔を見て大日向は自分が耳にした噂を語り出した。しかも嬉しそうに。
「合唱祭で、独唱をするはずだった千反田先輩はその重圧に耐えられなく、逃げ出して行方不明になった。皆が大騒ぎをしていたが、折木先輩が『自分には心当たりがあるから迎えに行って来ます』と言って千反田先輩の逃避行先を見つけ出し、連れて来たという訳です。だから折木先輩は白馬に乗った王子様という事ですね」
「いや、それは違うぞ。もしかして、続きもあるのか?」
「はい、そんな大事を引き起こしてしまった千反田先輩は千反田家の跡取りとして相応しくないと言われ始めたという事です」
 やれやれ、全く事実とは違っていた。噂なんて案外そんなものだとは思うが……。
「事実は逆だ。最初に千反田が『家を継がくても良い。自分の好きな道に進みなさい』と言われたのだ。だが千反田にとってはそれは青天の霹靂とも言う事で、戸惑ってしまった。今まで家を継いで農業に身を捧げる覚悟をしていただけに。いきなりそんな事を言われて戸惑ってしまっていたのだ。そこに合唱祭での独唱をすることになったそうだ。そして、その独唱の部分が自由へのあこがれをストレートに歌う歌詞だった。あの時の千反田の精神状態では歌えない歌詞だったのだ。これが真実だ」
 俺は事実を簡単に大日向に伝えた。
「事実は噂より奇なりですね」
「それは事実は小説よりも奇なり。だろう」
「いいじゃ無いですか。でも、それじゃ本当に辛かったのでしょうね」
「それで千反田に謝りたいのか?」
「はい、あの時、自分の妄想で勝手に酷い事を言ってしまって、やはりきちんと謝らないといけないと思いました。でも今度の噂を聞くと、千反田先輩は、わたしと逢ってくれるような余裕は無いのではと考えたのです。あの時、折木先輩が言ってくれたから今の自分がある。あの時の事はわたしの中では未だ終わっていないんです。だから折木先輩にもう一度だけ助けて貰おうと思いました」
 そうなのだ。あの時の事は大日向の中では決着してはいない。
「わたしは一度、折木先輩に救われています。だからもう一度だけお願い出来ないかと思ったのです」
 大日向はもう一度同じことを口にした。
 まさか、あの時は千反田を救うのが先決で、結果的に大日向の誤解は解いたかも知れないが、傷つけてしまった。それは俺のせいでは無かったかも知れないが……いや、今回の千反田の事と言い、前の大日向の事も結果的には俺のせいかも知れなかった。
 二人は俺がいなかったら……何事も無いように暮らしていたのでは無いか……。そんな想いが頭を過ぎる。
「判った。千反田に話をしてみよう。それで、どうして連絡する?」
「携帯の番号を交換しましょう」
「生憎、俺は携帯を持っていないんだ」
「ええ! 今時の高校生が携帯も持っていないのですか? そう言えば、千反田先輩も持っていなかったのですよね?」
「ああ」
「お似合いのカップルなんですね」
 この時の大日向は俺が見た大日向の表情で一番嬉しそうな顔をした。
「あの頃、二人を見ているのが幸せでした。仲の良い先輩達は本当にお似合いですよ」
 その日、大日向とお互いの家の電話番号を教えて別れた。

 待ち合わせの場所に千反田は先に来ていた。オフホワイトの半袖のワンピースに薄緑の夏物のカーディガンを羽織っていた。
「早いな」
「商店街に用事があったので少し早めに家を出たのです」
 自転車の前の籠には青いバッグが置かれていた。
「カーディガンなんか着て暑くないのか?」
 似合ってはいたが、今日の陽気では暑かろうと思った。
「図書館では冷房が利いていますから」
 なるほど、そう言えばそうだったと思い出した。
「行きましょうか。遅くなると場所が無くなりますから」
 図書館では調べ物や勉強等で自習室を使う者は以外と多く、土日等では早々に満員になってしまう事も良くある。
「そうだな、場所を確保するのが大事だな」
 俺も自転車を押して歩き出す。乗って併走してしまえば訳の無い距離なのだが、わざわざ乗ってきた自転車を押すには理由があった。
「家の状況は変わらずか?」
 俺の不躾な質問に千反田は
「そうですね。それは変わりませんね。ただ、わたしが跡取りの立場から外されたと言う事は親戚には広まってしまったみたいです」
「あの噂のせいか」
「そうですね。それと父がさりげなく親戚の集まりで『えるには好きな道を歩ませようと思っています』と語っている為でもあります」
 親父さんの鉄吾さんは外堀から埋め始めたと言う事かと思った。
「お前の気持ちはどうだ」
 今、千反田にこの事を尋ねるのは酷かも知れない。でも立ち直りが早ければ、それは千反田にとって悪い結果にはならないだろう。
「そうですね。新しい道と言っても、未だ決められません。とりあえずは家を継がなくても農業の道に進むのも悪くはないと思い始めています。生まれてからそれ以外に考えた事がありませんですから」
「そうか、俺は助言してやれないが、自分が納得するまで考えた方が良い」
「そうですね。でも時間的にそれほど、ゆっくりとは、していられませんけどね」
 そうなのだ。俺たちはもう高校二年生なのだ。三年間の高校生活のうち折り返し点を過ぎてしまっているのだ。
 図書館の入り口の門が見えて来た。中に入って自習室に入ってしまったら、やたらに私語は話せない。
「あのな、大日向がお前に謝りたいそうなんだ。実はそれで仲介を頼まれた」
 曇っていた空が晴れて来ていて太陽が顔を覗かせていた。今日は少し暑くなるかも知れなかった。午前の陽が千反田の顔を照らしている。
「そうですか。でもわたし、大日向さんに酷いことを言ってしまったから、わざわざ謝って貰う事は無いと思うのですけど……」
 相変わらず千反田は自分が悪いと思っている。
「それは違う。俺はあの後、大日向と話して誤解を解いた。そのことについては大日向が勝手に思い込んでいた事だ。お前に非はない」
「そうでしょうけれども、実際にはわたしの行動や物の言い方が誤解を生んだのだと思うのです。その点はわたしも謝らなくてはなりません」
「じゃあ、逢うのは構わないのだな」
「はい。逢ってわだかまりが無くなれば良いと思います。折木さんもう一度ご足労願います」
「乗りかかった船でもあるしな。そうと決まれば何処で逢おうか」
「古典部の部室でどうでしょうか? そして大日向さんがもう一度入部してくれれば嬉しいです」
 こうして千反田と大日向はもう一度逢う事になった。

  その日。俺は二人を古典部の部室、地学講義室まで案内をした。俺の見た所二人とも少し緊張していた感じだった。無理も無いだろう。二人が中に入ると俺自身は部室から椅子ごと廊下に出て座り、文庫本を読んでいた。部室の中で二人がどんな会話をしたのかは具体的には判らないが、大凡なら想像出来る。
 偶然廊下に出た天文部の部員が不思議そうな顔で俺の事を見ていたのが印象的だった。
 どのぐらいだったろうか、それほど長い時間ではなかった気もするが、結構な時間だった気もする。二人揃って部室から出て来た。
 千反田の手には一枚の紙が握られていた。それには「入部届」と書かれてあった。
「折木さん。大日向さんが正式に入部してくれました」
「折木先輩、よろしくお願いします」
 大日向が軽く頭を下げた。
「ようこそ古典部へ」
 部長の千反田はさぞや嬉しいだろうと想像した。そして俺は千反田の表情に笑顔が戻ったのが嬉しかった。

          
                                                                 <了>