旧暦の五月のことを皐月と言う。そして皐月に降る雨を五月雨と言うそうだ。今なら六月にあたり、さしずめ梅雨と一言で片付けてしまうのだろうが、都会の人間にとっては憂鬱な日々なのだろうが、農家にとっては、とても大事な月にあたる。
 神山地方はこの月に田植えを行う。早稲ならもっと早いが、消費者にとって好評な作柄は早稲ではない。この月に植えられるのだ。
 千反田の農家を継がなくても良くなったえるは、本来ならこの作業に関わらなくても良いはずだった。だが、全くと言う訳には行かないらしい。
 二人で京都のアパートで夕食を採っていると、
「六月なんですが、数日神山に帰らなけれななりません」
 えるが、そんな事を口にした。俺は大して難しくも考えずに
「ああ、用事があるなら帰れば良い。土日なら俺も都合がつくぞ」
 そんな受け答えをしたら
「違うのです。神事なのです。早乙女にならなくてはなりません」
 いきなり、そんな事を言いだした。こちらとしては全く要領が判らない。
「あの、もっと筋道を立てて話して欲しいのだが……」
  えるの悪い癖で、用事を伝える時にいきなり核心から話し始めてしまう。
「ああすいません! いつもの悪い癖が出てしまいました。ちゃんと最初からお話致しますね」
「ああ頼む」
 俺の言葉を聴いてえるは、語りだした。
「千反田の農業の殆どは事業化されていて、わたしが何かをする必要は無いのですが、ひとつだけわたしが行わなくてはならない事があるのです。それは、水梨神社に納める奉納米を作る田圃には千反田家の女が行う事柄があるのです」
「千反田の家の女が行う事?」
「はい、それはその田圃に稲の苗を植える神事なのです」
「それは男では駄目なのか?」
「はい、古来から米作りと女性とは深く関わって来ました。稲の育ちを保証する田の神信仰と密接な関係があったのです。特に神山では行いませんが、他の村々では、田植に際し特定の田圃に祭場を設けて田の神を迎えて、その前で作業を行うことをする所もあるそうです。だから、一種の神聖な祭儀なんです」
「それは理解出来たが、それと女性とどのような関係があるのだ」
「はい、田植に女性が重要な役割をもつことが多いのは、稲の豊作が女性の霊的な力によってもたらされるという観念があったからだそうです。女性の生殖力が稲に霊的な影響を与えるという考えだそうです」
「そうか、そう説明されれば、頷ける事も多いな。それで、事業化とは関係なく千反田家の催しとしてお前が田植をするのか?」
「そうなんです。わたし早乙女になるのです!」
 そう言い切ったえるの表情は何処か晴れやかで、自分がこの神事に深く関わる事を楽しんでいる様だった。
「それで何時行うのだ?」
「そうですね。六月の第二週あたりですかね」
 それを聞いて少しホッとした。と言うのも月末や月初なら仕事の都合でどうなるか判らないからだ。第二週なら都合がつく。
「俺も行く。行って、お前の早乙女の姿を目に焼き付ける」
「うふふ、しっかりと目に焼き付けて下さいね」
 えるはそれは楽しそうに呟くのだった。

 六月に入り神山地方は梅雨入りとなった。重く低く垂れ込めた雲が空いっぱいに広がっている。昨夜、仕事が終わって帰宅してから京都を出発した。
「明日はせめて五月晴れとは行かなくても、五月雨は勘弁して欲しいな。雨でも田植をするのか」
 ハンドルを操作しながら隣のえるに尋ねると
「神事ですから、必ず雨が降ることは無いと思います。晴れとは行か無くても、心配はしていません。今まで雨が降った事は無いそうですから」
 そんなものなのだろうか? それが事実なら、それこそ霊的な力が働いている証拠なのでは無いのか?
 そんな事を考えたが口に出すのは止めた。なぜなら隣のえるは、雨が降る事なぞ無いと信じているからだった。
 夜遅くに陣出の千反田邸に到着した。鉄吾さんを始め皆に歓迎されたのは言う間でもない。
 翌朝になり、思ったより早く目が覚めた。やはりお天気が気になるのだろうか。隣で寝ているえるを起こさすに寝床を抜け縁側に向かう。そっと雨戸を開けて外の様子を伺うと、どうやら雨は降っていない感じだった。
「お天気が気になりますか? 大丈夫ですよ」
 その声に振り向くと、えるの祖母だった。高校の時以来幾度か逢っているが、二人だけで話をするのは始めてだった。
「ええ、どうしても気になってしまいまして」
「古来、千反田の女が神事で田植えをする時は雨が降った事は無いのですよ。でもそれは、水梨神社に納める奉納米を作るからでは無いのです」
「え、神事とは直接関係が無いのですか?」
「田植をする女性を早乙女と言いますが、元々は田の神に奉仕する特定の女性をさしたのです。だから、この早乙女そのものが霊的な力を持っているのです。古くは各村々を廻って田植をする早乙女の集団がいました。彼女らが行く先々では梅雨時だと言うのに何故か雨は降らなかったそうです。そうなのです、早乙女そのものに既に霊的な力が備わっているのです。だから神に守られたこの行為は天にも守られているのですよ」
 おばあさんはそう言って、俺の疑問を解いてくれた。古来から居たと言うプロの早乙女の集団は面白いと思ったし、興味も湧いた。今度じっくりと調べてみたいと思った。

 さして広くは無い田圃に水が張られている。この一角で採れた米が水梨神社に奉納される。田圃の脇には稲の苗が並べられた箱が置かれていて、田植えをする準備が整っていた。今日、早乙女となって田植をするのは、えるだけでは無かった。陣出の女性が十名程参加するのだそうだ。今日は彼女らが早乙女の集団なのだ。
「どうやら準備が出来たみたいだな」
 鉄吾さんが千反田邸の方を眺めながら呟く。その言葉に振り返って見ると、揃いの格好をした集団がこちらにやって来る。紺絣(こんがすり)の着物に赤襷(あかだすき)、白手拭(しろてぬぐい)をして菅笠(すげがさ)という格好だ。これが早乙女の晴れ姿なのだろう。その中には俺の愛妻のえるも含まれていた。
 俺の姿を認めると
「晴れ姿ですが、少し恥ずかしいです。でもちゃんと見ておいてくださいね」
 えるはそう言って、他の女性と一緒に田圃に入って行った。そして独特の歌を口ずさみながら稲を植える作業が始まった。俺はその光景を眺めながら、突然こんな歌を思い出した。
 五月雨そそぐ山田に
 早乙女が裳裾濡らして
 玉苗植うる 夏は来ぬ

「夏は来ぬ」と言う歌の二番の歌詞である。まさに俺の目の前で行われている行為そのものでは無いかと思った。
 早乙女となった我が新妻を今夜は労ってやりたいと想った。

                                                                     <了>