昨夜まで降っていた雨は夜半に止んだようです。今は朝日に残った、雨の雫がキラキラと輝いています。
 わたしは窓を開けながら、朝の冷えた空気を胸いっぱいに吸い込みました。今日は奉太郎さんの誕生日です。高校の同級生の中でも一番早く誕生日が来ました。あれは確か高校二年生の時でした。古典部全員で奉太郎さんの家にお祝いに伺った事がありました。確か発案者は大日向さんだっと思います。
 彼女は古典部を一度退部しましたが、わたし達が三年生に進級した時に再入部してくれました。彼女なりの清算が済んだとの事でした。そのあたりの事情はわたしは詳しくは知りません。深く関わった奉太郎さんも、その事に関しては口をつぐんでいます。わたしは奉太郎さんが、わたしに教えてはならないと判断した事については、詳しく知りたいとは思いません。そのあたりの事は奉太郎さんの判断を信じているからです。
 冷たい風が入って来たので、部屋の温度が急激に下がりました。奉太郎さんが目を覚ましました。
「何時だ? 早いな……」
「雨が止んでいたので。思わず外の景色を眺めてしまいました」
「いや別に良いのだが、今日は休みではあるまい?」
「はい、ゴールデンウイークは後半は研究の当番なので行かなくてはなりません」
「そうか、俺はカレンダー通りだから、今日は仕事だ」
 パジャマを脱ぎながら仕事の格好に着替えて行きます。わたしも着替える事にします。籍を入れてから未だひと月経っていません。神山での披露宴が終わったばかりなのです。
「すぐ朝ごはんにしますから」
「悪いな。簡単なものでいいぞ」
 奉太郎さんの悪い癖です。すぐに簡単なもので良い、と言うのです。妻としてはしっかりと朝食は採って欲しい所なのです。
 ご飯はタイマーで炊けています。お味噌汁を作ります。今日はほうれん草と油揚げにしました。目玉焼きでハムエッグを作ります。それに実家で漬けたお新香と海苔です。
「納豆は召し上がられますか?」
「いや今日はいいよ。それより、こっちに来て一緒に食べよう」
 奉太郎さんが手招きをしてくれたので、わたしも向かいに座り、ご飯を戴きます。思えば昨年の末にはたった四ヶ月後に、こうしているなんて信じられませんでした。
「ちょっと待って下さい」
 わたしは、そう言って手を伸ばして奉太郎さんの口元に付いてるご飯粒を取りました。
「お弁当が付いていましたよ」
 そう言って、そのご飯粒を自分の口元に入れます。こんな時、わたしは心の底から幸せを感じるのです。
「今日は何の日だか判りますか?」
 わたしの意味深な言葉に奉太郎さんは首を傾げながら
「さぁ~何の日だ」
 考えています。本当に判らないのでしょうか?
「あなたの誕生日です。おめでとうございます!」
「そうか、この前まで覚えていたのだが、今朝は忘れていたよ。ありがとう! 二人だけで誕生日を迎えられるなんて、何だか夢みたいだよ」
 食事を終えて、出る支度をします。わたしは研究室に着けば白衣に着替えますので、特別な格好はしません。普段着の延長線上の服です。奉太郎さんは背広ですね。男の戦闘服でしょうか。
「今日は早く帰れるのですか?」
「ああ、今日は定時には帰れるよ」
「じゃあ、お祝いしなくちゃですね」
「楽しみにしてるよ」
 そう言って別れました。

 研究室では日常の事をします。研究観察の植物の世話をして記録すると殆どの仕事は終わりです。
 その時、メールが入りました。予定通りの時間に到着する旨でした。実はわたしは、奉太郎さんの誕生日に、あるサプライズを計画していました。幸いに明日から数日はわたしも休めます。京都に来る二人と一緒にこの街を廻りたいと考えたのです。
 記録を済ませてしまうと何もすることがありません。研究のパートナーに引き継ぐ事を整理したメモを残しておきます。そして、わたしは二人を迎えに京都駅まで出向きました。
 新幹線のホームではこだま号が到着する旨をアナウンスしています。二人は岐阜羽島から新幹線に乗ったのでした。
 定時丁度にこだま号が到着しました。すぐに二人が降りて来ました。
「ちーちゃん元気そうで良かった。神山での披露には参加できなくてごめんね」
「いいんです。あれは内輪だけでしたから」
「千反田さん。改めておめでとうございます! これは僕達二人からのささやかなプレゼントだよ。後で開けてみてね」
「まあ、本当にありがとうございます! 本来なら来て戴くだけで申し訳無いのに」
「いいのよ。わたし達も結局、新婚旅行はしてないから、これがそれの代りなのよ」
「そうだよ僕達も京都を楽しむつもりなんだ」
 もうお判りでしょう。二人とは、摩耶花さんと福部さんなのです。新婚旅行をなさっていない二人に奉太郎さんの誕生日と言うことで京都にお招きをしたのです。
 幸い、お二人は喜んで承諾してくれました。狭いですが、我が家に泊まって戴いて京都を観光して貰うのです。その前に今夜は懐かしの古典部四人でお祝いをしようと言うのが、わたしの企みなのです。
「折木の奴驚くかな」
「摩耶花、ホータローはもう千反田さんなんだよ」
「いいじゃない。わたしにとっては永遠に折木なんだから。それにあいつに『福部さん』なんて言われたら身の毛がよだつわよ」
 摩耶花さんはそう言って笑っています。確かに二人が違う名前で呼びあったら、かなりおかしな光景になるでしょうね。
 アパートに帰りながら買い物を済ませます。
「わたしも手伝うからね」
 今夜は摩耶花さんも手伝って戴けるので凝ったものが作れそうです。

 定時には帰れると言っていたので、そろそろ帰って来る頃だと思います。明日からは奉太郎さんもお休みですので今夜は少し騒いでも良いでしょう。階段を登る音が聞こえます。三人は口を閉じで黙ります。その次の瞬間
「ただいま~、あれ何か靴が多い気が……」
「折木お帰り!」
「ホータロー、やっと帰って来たね。誕生日おめでとう!」
「あれお前たちどうしたんだ?」
 懐かしい旧友との出会いに奉太郎さんの表情が崩れて行きます。
 わたしは、そこで事情を説明しました。
「そうか、それで俺の休みを何回も確認していたんだな」
「そうそう、お二人からプレゼントを戴いたのですよ」
 開けてみると、わたしと奉太郎さんの名前の入ったクリスタル・ロックグラスでした。
「二人で仲良く使ってね」
 その夜は皆、高校生に戻っていました。


                                                 <了>